西暦: 1494年 〜 1574年

武田信玄の父。内乱が続いた甲斐を統一。

地域: 日本

武田信虎

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グラフ: 「武田信虎」と同時代の人物

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グラフ: 「武田信虎」と同時代の出来事

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表: 「武田信虎」と同時代の人物

蓮如 1415年 〜 1499年 日本
雪舟 1420年 〜 1506年 日本
宗祇 1421年 〜 1502年 日本
村田珠光 1423年 〜 1502年 日本
上杉房定 1431年 〜 1494年 日本
北条早雲(旧説) 1432年 〜 1519年 日本
斯波義敏 1433年 〜 1508年 日本
狩野正信 1434年 〜 1530年 日本
足利成氏 1438年 〜 1497年 日本
日野富子 1440年 〜 1496年 日本
イヴァン3世 1440年 〜 1505年 ロシア
長尾景春 1443年 〜 1514年 日本
ボッティチェリ 1444年 〜 1514年 ヨーロッパ
上杉定正 1446年 〜 1494年 日本
武田信昌 1447年 〜 1505年 日本
宗長 1448年 〜 1532年 日本
バルトロメウ・ディアス 1450年 〜 1500年 ヨーロッパ
クリストファー・コロンブス 1451年 〜 1506年 ヨーロッパ
三浦道寸(義同) 1451年 〜 1516年 日本
イサベル(カスティリャ王女) 1451年 〜 1504年 ヨーロッパ
レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452年 〜 1519年 ヨーロッパ
フェルナンド5世 1452年 〜 1516年 ヨーロッパ
上杉顕定 1454年 〜 1510年 日本
アメリゴ・ヴェスプッチ 1454年 〜 1512年 ヨーロッパ
ジョアン2世 1455年 〜 1495年 ヨーロッパ
北条早雲 1456年 〜 1519年 日本
ヘンリ7世 1457年 〜 1509年 ヨーロッパ
三好之長 1458年 〜 1520年 日本
上杉房能 1458年 〜 1507年 日本
尼子経久 1458年 〜 1541年 日本
長尾能景 1459年 〜 1506年 日本
カブラル 1460年 〜 1526年 ヨーロッパ
足利政氏 1462年 〜 1531年 日本
細川政元 1466年 〜 1507年 日本
足利義材(義稙) 1466年 〜 1523年 日本
上杉憲房 1467年 〜 1525年 日本
マキャベリ 1469年 〜 1527年 ヨーロッパ
ヴァスコ・ダ・ガマ 1469年 〜 1524年 ヨーロッパ
エラスムス 1469年 〜 1536年 ヨーロッパ
ピサロ 1470年 〜 1541年 ヨーロッパ
セリム1世 1470年 〜 1520年 地中海、西アジア
デューラー 1471年 〜 1528年 ヨーロッパ
武田信縄 1471年 〜 1507年 日本
以天宗清 1472年 〜 1554年 日本
王陽明(王守仁) 1472年 〜 1528年 東アジア
今川氏親 1473年 〜 1526年 日本
コペルニクス 1473年 〜 1543年 ヨーロッパ
上杉朝良 1473年 〜 1518年 日本
ラス・カサス 1474年 〜 1566年 ヨーロッパ
ミケランジェロ 1475年 〜 1564年 ヨーロッパ
レオ10世 1475年 〜 1521年 ヨーロッパ
大内義興 1477年 〜 1528年 日本
上杉定実 1478年 〜 1550年 日本
マゼラン(マガリャンイス) 1480年 〜 1521年 ヨーロッパ
足利義澄 1481年 〜 1511年 日本
マルティン・ルター 1483年 〜 1546年 ヨーロッパ
バーブル 1483年 〜 1530年 南アジア、東南アジア
細川高国 1484年 〜 1531年 日本
ツヴィングリ 1484年 〜 1531年 ヨーロッパ
コルテス 1485年 〜 1547年 ヨーロッパ
足利高基 1485年 〜 1535年 日本
北条氏綱 1487年 〜 1541年 日本
イスマーイール1世 1487年 〜 1524年 地中海、西アジア
上杉朝興 1488年 〜 1537年 日本
細川澄元 1489年 〜 1520年 日本
長尾為景 1489年 〜 1542年 日本
ミュンツァー 1490年 〜 1525年 ヨーロッパ
長野業正(長野業政) 1491年 〜 1561年 日本
イグナティウス・ロヨラ 1491年 〜 1556年 ヨーロッパ
ヘンリー8世 1491年 〜 1547年 ヨーロッパ
北条幻庵(長綱) 1493年 〜 1589年 日本
武田信虎 1494年 〜 1574年 日本
スレイマン1世 1494年 〜 1566年 地中海、西アジア
斎藤道三 1494年 〜 1556年 日本
フランソワ1世 1494年 〜 1547年 ヨーロッパ
六角定頼 1495年 〜 1552年 日本
太原雪斎 1496年 〜 1555年 日本
三浦義意 1496年 〜 1516年 日本
後奈良天皇 1496年 〜 1557年 日本
大井夫人 1497年 〜 1552年 日本
毛利元就 1497年 〜 1571年 日本
カール5世 1500年 〜 1558年 ヨーロッパ
三好元長 1501年 〜 1532年 日本
李退渓 1501年 〜 1570年 東アジア
武野紹鷗 1502年 〜 1555年 日本
武野紹鴎 1502年 〜 1555年 日本
雪村周継 1504年 〜 1589年 日本
フランシスコ・ザビエル 1506年 〜 1552年 ヨーロッパ
大内義隆 1507年 〜 1551年 日本
山科言継 1507年 〜 1579年 日本
足利晴氏 1508年 〜 1560年 日本
カルヴァン 1509年 〜 1564年 ヨーロッパ
長尾晴景 1509年 〜 1553年 日本
松永久秀 1510年 〜 1577年 日本
足利義晴 1511年 〜 1550年 日本
織田信秀 1511年 〜 1551年 日本
今川氏輝 1513年 〜 1536年 日本
真田幸隆 1513年 〜 1574年 日本
細川晴元 1514年 〜 1563年 日本
北条氏康 1515年 〜 1571年 日本
北条綱成 1515年 〜 1587年 日本
メアリ1世 1516年 〜 1558年 ヨーロッパ
正親町天皇 1517年 〜 1593年 日本
今川義元 1519年 〜 1560年 日本
カトリーヌ・ド・メディシス 1519年 〜 1589年 ヨーロッパ
今井宗久 1520年 〜 1593年 日本
陶晴賢 1521年 〜 1555年 日本
武田信玄 1521年 〜 1573年 日本
千利休 1522年 〜 1591年 日本
三好長慶 1522年 〜 1564年 日本
柴田勝家 1522年 〜 1583年 日本
上杉憲政 1523年 〜 1579年 日本
張居正 1525年 〜 1582年 東アジア
上杉朝定 1525年 〜 1546年 日本
松平広忠 1526年 〜 1549年 日本
長尾政景 1526年 〜 1564年 日本
斎藤義龍 1527年 〜 1561年 日本
フェリペ2世 1527年 〜 1598年 ヨーロッパ
柳生宗厳(石舟斎) 1527年 〜 1606年 日本
種子島時堯 1528年 〜 1579年 日本
明智光秀 1528年 〜 1582年 日本
ボーダン 1530年 〜 1596年 ヨーロッパ
イヴァン4世(雷帝) 1530年 〜 1584年 ロシア
上杉謙信 1530年 〜 1578年 日本
大友義鎮(大友宗麟) 1530年 〜 1587年 日本
モンテーニュ 1533年 〜 1592年 ヨーロッパ
オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム) 1533年 〜 1584年 ヨーロッパ
大村純忠 1533年 〜 1587年 日本
朝倉義景 1533年 〜 1573年 日本
島津義久 1533年 〜 1611年 日本
小早川隆景 1533年 〜 1597年 日本
エリザベス1世 1533年 〜 1603年 ヨーロッパ
織田信長 1534年 〜 1582年 日本
島津義弘 1535年 〜 1619年 日本
荒木村重 1535年 〜 1586年 日本
足利義輝 1536年 〜 1565年 日本
近衛前久 1536年 〜 1612年 日本
豊臣秀吉 1537年 〜 1598年 日本
足利義昭 1537年 〜 1597年 日本
前田利家 1538年 〜 1599年 日本
北条氏政 1538年 〜 1590年 日本
前田玄以 1539年 〜 1602年 日本
ヴァリニャーニ(バリニャーノ) 1539年 〜 1606年 日本
長宗我部元親 1539年 〜 1599年 日本
北条氏照 1540年 〜 1590年 日本
豊臣秀長 1540年 〜 1591年 日本
北条氏邦 1541年 〜 1597年 日本
足利義氏 1541年 〜 1583年 日本
エル・グレコ 1541年 〜 1614年 ヨーロッパ
徳川家康 1542年 〜 1616年 日本
中川清秀 1542年 〜 1583年 日本
アクバル 1542年 〜 1605年 南アジア、東南アジア
狩野永徳 1543年 〜 1590年 日本
ドレーク 1543年 〜 1596年 ヨーロッパ
顕如(光佐) 1543年 〜 1592年 日本
古田織部 1544年 〜 1615年 日本
北条氏規 1545年 〜 1600年 日本
浅井長政 1545年 〜 1573年 日本
増田長盛 1545年 〜 1615年 日本
李舜臣 1545年 〜 1598年 東アジア
武田勝頼 1546年 〜 1582年 日本
黒田官兵衛 1546年 〜 1604年 日本
最上義光 1546年 〜 1614年 日本
浅野長政 1547年 〜 1611年 日本
お市 1547年 〜 1583年 日本
真田昌幸 1547年 〜 1611年 日本
織田有楽斎 1547年 〜 1621年 日本
セルバンテス 1547年 〜 1616年 ヨーロッパ
北政所 1548年 〜 1624年 日本
斎藤竜興 1548年 〜 1573年 日本
本多忠勝 1548年 〜 1610年 日本
松浦鎮信 1549年 〜 1614年 日本
シャルル9世 1550年 〜 1574年 ヨーロッパ
高山右近 1552年 〜 1615年 日本
今井宗薫 1552年 〜 1627年 日本
誠仁親王 1552年 〜 1586年 日本
マテオ・リッチ(利瑪竇) 1552年 〜 1610年 東アジア
アンリ4世 1553年 〜 1610年 ヨーロッパ
毛利輝元 1553年 〜 1625年 日本
角倉了以 1554年 〜 1614年 日本
上杉景勝 1556年 〜 1623年 日本
藤堂高虎 1556年 〜 1630年 日本
ヤン・ヨーステン(耶楊子) 1556年 〜 1623年 日本
織田信忠 1557年 〜 1582年 日本
本阿弥光悦 1558年 〜 1637年 日本
小西行長 1558年 〜 1600年 日本
織田信雄 1558年 〜 1630年 日本
大谷吉継 1559年 〜 1600年 日本
狩野山楽 1559年 〜 1635年 日本
松平信康 1559年 〜 1579年 日本
ヌルハチ(太祖) 1559年 〜 1626年 東アジア
直江兼続 1560年 〜 1619年 日本
石田三成 1560年 〜 1600年 日本
藤原惺窩 1561年 〜 1619年 日本
吉川広家 1561年 〜 1625年 日本
フランシス・ベーコン 1561年 〜 1626年 ヨーロッパ
福島正則 1561年 〜 1624年 日本
井伊直政 1561年 〜 1602年 日本
徐光啓 1562年 〜 1633年 東アジア
北条氏直 1562年 〜 1591年 日本
加藤清正 1562年 〜 1611年 日本
万暦帝(神宗) 1563年 〜 1620年 東アジア
池田輝政 1564年 〜 1613年 日本
シェークスピア 1564年 〜 1616年 ヨーロッパ
ウィリアム・アダムズ(三浦按針) 1564年 〜 1620年 日本
ガリレオ=ガリレイ 1564年 〜 1642年 ヨーロッパ
真田信之 1566年 〜 1658年 日本
ジェームズ1世 1566年 〜 1625年 ヨーロッパ
伊達政宗 1567年 〜 1636年 日本
姜沆(きょうこう、カンハン) 1567年 〜 1618年 東アジア
真田信繁 1567年 〜 1615年 日本
有馬晴信 1567年 〜 1612年 日本
豊臣秀次 1568年 〜 1595年 日本
黒田長政 1568年 〜 1623年 日本
金地院崇伝 1569年 〜 1633年 日本
淀殿 1569年 〜 1615年 日本
末吉孫左衛門 1570年 〜 1617年 日本
常高院(初) 1570年 〜 1633年 日本
柳生宗矩 1571年 〜 1646年 日本
アッバース1世 1571年 〜 1629年 地中海、西アジア
支倉常長 1571年 〜 1622年 日本
松永貞徳 1571年 〜 1653年 日本
宇喜多秀家 1572年 〜 1655年 日本
崇源院(江) 1573年 〜 1626年 日本
沢庵 1573年 〜 1645年 日本
島津家久 1574年 〜 1638年 日本
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表: 「武田信虎」と同時代の出来事

駿河守護の今川義忠戦死で、今川家の家督相続問題発生 1476年 日本
長尾景春の乱はじまる 1476年 〜 1480年 日本
応仁の乱おわる 1477年 日本
スペイン王国(イスパニア王国)、成立 1479年 〜 1873年 ヨーロッパ
チューダー朝 1485年 〜 1603年 ヨーロッパ
山城の国一揆 1485年 日本
太田道灌が主の扇谷上杉定正に謀殺される 1486年 日本
ヘンリ7世、星室庁裁判所を設立 1487年 ヨーロッパ
北条氏綱(北条2代目)、出生 1487年 日本
長享の乱がはじまる(~1505年) 1487年 〜 1505年 日本
北条早雲、小鹿範満を討って、今川氏親を擁立 1487年 日本
バルトロメウ・ディアス(ポルトガル)、喜望峰に到達 1488年 ヨーロッパ
加賀の一向一揆 1488年 日本
関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)勃発 1488年 日本
イタリア戦争 1492年 〜 1559年 ヨーロッパ
グラナダ陥落 1492年 ヨーロッパ
コロンブス、サン・サルバドル島に上陸 1492年 北アメリカ
甲斐守護の武田信縄と武田信昌(信縄の父)・油川信恵(信縄の異母弟)の戦いが始まり、甲斐内乱、 1492年 〜 1498年 日本
北条早雲、伊豆に討ち入る 1493年 日本
明応の政変が起こり、細川政元政権が成立する 1493年 日本
三浦義同(道寸)、三浦郡に進攻し、三浦氏当主に 1494年 日本
扇谷上杉定正、荒川渡河に失敗して頓死 1494年 日本
大森氏頼(寄栖庵)、死去 1494年 日本
トルデシリャス条約 1494年 ヨーロッパ
北条早雲、小田原城を奪取 1495年 日本
蓮如、石山本願寺を築く 1496年 日本
山内上杉顕定、相模に進攻。小田原城の大森氏、山内上杉側に寝返り、小田原城は自落。 1496年 日本
ヴァスコ=ダ=ガマ、インド航路発見(カリカット到着) 1498年 ヨーロッパ
茶々丸、甲斐国で死亡(下田の深根城での討死説もある)→北条早雲、伊豆一国を制圧 1498年 日本
明応地震 1498年 日本
カブラル(ポルトガル人)、ブラジルに漂着。ブラジルの領有を宣言。 1500年 ヨーロッパ
北条早雲、1501年までに小田原城を奪取(新説) 1501年 日本
サファヴィー朝、成立 1501年 〜 1736年 地中海、西アジア
北条早雲と今川氏親、扇谷上杉朝良の援軍として、立河原の合戦に参戦し、山内上杉顕定勢と戦い勝利する。 1504年 日本
扇谷上杉朝良、山内上杉顕定に降り、長享の乱が終わる 1505年 日本
越後守護の上杉房能(山内上杉顕定の実弟)、越後守護代の長尾為景に敗れて自害 1507年 日本
武田信虎、父の信縄が死去し、甲斐の家督を相続 1507年 日本
細川政元、暗殺される 1507年 日本
大内義興、上京し、細川高国と足利義稙(10代将軍、義材)を将軍に擁立 1508年 日本
武田信虎、叔父の油川信恵を滅ぼす 1508年 日本
北条早雲、武蔵(扇谷上杉朝良の領国)に進攻し、両上杉氏と敵対関係に入る 1509年 日本
山内上杉顕定、長尾為景を討つため、越後に進攻 1509年 日本
ポルトガル、ゴアを占領 1510年 南アジア、東南アジア
山内上杉顕定、長森原(新潟県六日町)で討ち死 1510年 日本
三浦の乱 1510年 日本
北条早雲、三浦勢と鎌倉で戦い破る→三浦勢は新井城に立て籠もる 1513年 日本
チャルディラーンの戦い 1514年 地中海、西アジア
北条氏康(北条3代目)、出生 1515年 日本
武田信虎、大井信達と戦い、敗北 1515年 日本
マキャベリ、『君主論』著す 1516年 ヨーロッパ
北条早雲、三浦氏を滅亡させ、相模制圧完了 1516年 日本
今川氏親、遠江を制圧 1517年 日本
ポルトガル、明と広州で貿易をはじめる 1517年 東アジア
ルター、九十五か条の論題を発表し、宗教改革はじまる 1517年 ヨーロッパ
セリム1世(オスマン帝国)、マムルーク朝を滅ぼす 1517年 地中海、西アジア
大内義興、京を去って帰国する 1518年 日本
北条氏綱、北条早雲から家督相続(以降、小田原城が北条市の本拠地となる) 1518年 日本
武田信虎、躑躅ヶ崎館に本拠地を移転 1519年 日本
北条早雲、死去 1519年 日本
マゼラン、世界周航に出発 1519年 〜 1522年 ヨーロッパ
スレイマン1世、即位 1520年 〜 1566年 地中海、西アジア
武田信虎、甲斐の有力国人(大井信達ら)を撃破し、一応の甲斐統一(その後も混乱は続く) 1520年 日本
マゼラン、フィリピンに到達 1521年 ヨーロッパ
ルター、『新約聖書』をドイツ語に翻訳 1521年 〜 1522年 ヨーロッパ
武田信玄(幼名、太郎)、出生。 1521年 日本
コルテス、アステカ王国を滅ぼす 1521年 中南米
細川高国、足利義晴(義澄の子)を擁立 1521年 日本
武田信虎、今川の重臣、福島氏の大軍を飯田河原の戦い、上条河原の戦いで撃破 1521年 日本
騎士戦争 1522年 ヨーロッパ
マゼラン艦隊、世界周航(マゼランはフィリピンで死亡) 1522年 ヨーロッパ
寧波の乱 1523年 日本
毛利元就、家督を継承する 1523年 日本
北条氏綱、伊勢氏から北条氏に改称 1523年 日本
ドイツ農民戦争 1524年 〜 1525年 ヨーロッパ
武田信虎、扇谷上杉朝興の援軍として、関東を転戦(この時、岩付城を攻略) 1524年 日本
北条氏綱、太田資高の内応を誘い、江戸城を奪う 1524年 日本
北条氏綱、白子原の戦いで扇谷上杉朝興に敗れる 1525年 日本
細川高国政権、崩壊 1526年 日本
石見銀山発見 1526年 日本
鎌倉の鶴岡八幡宮焼失 1526年 日本
バーブル、即位(ムガル帝国を建国) 1526年 〜 1530年 南アジア、東南アジア
ムガル帝国建国 1526年 南アジア、東南アジア
『今川仮名目録』制定 1526年 日本
パーニーパットの戦い 1526年 南アジア、東南アジア
スレイマン1世(オスマン帝国)、ウィーン包囲(第一次ウィーン包囲) 1529年 ヨーロッパ
小沢原の戦い 1530年 日本
武田信虎、扇谷上杉朝興の斡旋で、前関東管領の山内上杉憲房の未亡人を側室に迎える 1530年 日本
武田信虎に対して、飯富虎昌、栗原兵庫、今井信元らが反乱を起こすが、信虎に撃破され、翌年、鎮圧される。信虎、甲斐統一完了。 1531年 〜 1532年 日本
細川高国、天王寺の戦いに敗れて自害 1531年 日本
トゥングー朝、成立(ミャンマー) 1531年 〜 1752年 南アジア、東南アジア
上杉憲政、上杉憲寛を追放して、山内上杉氏の当主になる 1531年 日本
一条鞭法、施行 1531年 東アジア
法華一揆 1532年 日本
鶴岡八幡宮の造営始まる 1532年 日本
武田信虎の嫡男、武田太郎(武田信玄)、扇谷上杉朝興の娘を娶る 1533年 日本
ピサロ、インカ帝国を滅ぼす 1533年 中南米
イエズス会、結成 1534年 ヨーロッパ
ヘンリ8世、首長法を発布(イギリス国教会成立) 1534年 ヨーロッパ
北条氏綱、今川氏輝の要請で、武田信虎勢と甲斐の郡内山中で戦う 1535年 日本
スレイマン1世、仏にカピチュレーションを認める 1535年 地中海、西アジア
駿河守護の今川氏輝死去。今川氏で内乱が勃発し(花倉の乱)で、今川義元が勝者になる 1536年 日本
天文法華の乱 1536年 日本
伊達稙宗、『塵芥集』を定める 1536年 日本
(武田信玄)元服し、武田晴信と名乗る 1536年 日本
長尾為景、長男の長尾晴景に家督を譲る 1536年 日本
河東一乱 1537年 日本
扇谷上杉朝興死去。家督は朝定が継ぐ 1537年 日本
7月、北条氏綱、扇谷上杉氏の本拠、河越城を奪う 1537年 日本
武田信虎の娘が今川義元に嫁ぎ、甲駿同盟が成立 1537年 日本
北条氏綱、松戸台で小弓公方の足利義明勢と戦う(第1次国府台合戦) 1538年 日本
プレヴェザの海戦 1538年 地中海、西アジア
北条氏綱、娘を古河公方、足利晴氏の正室とする。その結果、北条氏は足利家の「ご一家」となる 1539年 日本
鶴岡八幡宮の正殿遷宮(落成式)が行われる 1540年 日本
北条氏綱、死去 1541年 日本
武田晴信(のちの信玄)、父の信虎を駿河に追放し、家督を手に入れる 1541年 日本
カルヴァン、ジュネーブ(スイス)で宗教改革(神政政治)をはじめる 1541年 ヨーロッパ
生野銀山、発見 1542年 日本
斎藤利政(道三)、美濃を押領する 1542年 日本
鉄砲伝来 1543年 日本
ポトシ銀山、発見 1545年 中南米
トリエント公会議 1545年 〜 1563年 ヨーロッパ
シュマルカルデン戦争 1546年 〜 1547年 ヨーロッパ
北条氏康、河越夜戦で、古河公方(足利晴氏)、山内上杉氏(上杉憲政)、扇谷上杉氏(上杉朝定)連合軍を撃破 1546年 日本
織田信秀、美濃の斎藤道三を攻めるも大敗(加納口の戦い) 1547年 日本
松平広忠、今川義元に息子の竹千代(徳川家康)を人質に送ったが、途中で織田信秀に奪われる 1547年 日本
(武田信玄)「甲州法度之次第」を定める 1547年 日本
塩尻峠の戦い 1548年 日本
上田原の戦い 1548年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、兄の長尾晴景から家督を受け継ぎ、越後守護代となる 1548年 日本
小豆坂の戦いで、今川義元、織田信秀を破る 1548年 日本
フランシスコ・ザビエル、来日 1549年 日本
今川義元、安祥城を落とし、城主、織田信広(織田信秀の子)を捕らえ、竹千代(徳川家康)と交換する 1549年 日本
細川晴元、江口の戦いで三好長慶に大敗 1549年 日本
織田信長、斎藤道三の娘(濃姫)を室に迎える 1549年 日本
戸石崩れ 1550年 日本
陶晴賢、大内義隆を滅ぼす 1551年 日本
織田信長、父(織田信秀)の死により、家督を継承 1551年 日本
北条氏康、甥の足利義氏を古河公方に擁立 1552年 日本
山内上杉憲政、長尾景虎を頼って、越後に落ちる 1552年 日本
第1回川中島の戦い 1553年 日本
前古河公方、足利晴氏が挙兵するが、北条氏康に敗れて捕らえられ、相模の波多野に幽閉される 1554年 日本
甲相駿三国同盟、成立 1554年 〜 1569年 日本
第2回川中島の戦い 1555年 日本
アウグスブルクの和議 1555年 ヨーロッパ
厳島の戦い 1555年 日本
フェリペ2世、即位 1556年 〜 1598年 ヨーロッパ
斎藤道三、息子の斎藤義龍に討たれる(長良川の戦い) 1556年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、出家するため高野山へ向かう 1556年 日本
アクバル、即位 1556年 〜 1605年 南アジア、東南アジア
第3回川中島の戦い 1557年 日本
北条氏康、家督を嫡子、北条氏政に譲る。しかし、この後も、氏康が軍政を手動する。 1559年 日本
武田晴信、信玄と号す 1559年 日本
統一法、制定される(英) 1559年 ヨーロッパ
北条氏康、永禄2年(1559年)頃には上野を勢力下におさめる 1559年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、二度目の上洛。将軍、足利義輝から関東管領任命の内示を受ける 1559年 日本
桶狭間の戦い 1560年 日本
長宗我部元親、家督相続 1560年 日本
第4回川中島の戦い 1561年 日本
上杉謙信、関東に侵攻し、小田原城を攻める 1561年 日本
上杉謙信(長尾景虎)、関東管領となる 1561年 日本
ユグノー戦争 1562年 〜 1598年 ヨーロッパ
武田・北条連合軍、上杉謙信方の松山城を攻略する 1563年 日本
第5回川中島の戦い 1564年 日本
三好長慶、死去 1564年 日本
アクバル、ジズヤを廃止 1564年 南アジア、東南アジア
13代将軍、足利義輝、殺害される 1565年 日本
武田信玄、箕輪城を落とし、西上野を掌握 1566年 日本
織田信長、美濃攻略 1567年 日本
武田義信(信玄嫡男)、死去(自刃か) 1567年 日本
武田信玄、駿河侵攻はじめる 1568年 日本
織田信長、足利義昭を奉じて、京都に入る 1568年 日本
オランダ独立戦争 1568年 〜 1609年 ヨーロッパ
武田信玄、小田原城包囲 1569年 日本
三増峠の戦い 1569年 日本
石山戦争(石山合戦) 1570年 〜 1580年 日本
姉川の戦い 1570年 日本
比叡山焼き討ち 1571年 日本
北条氏康、死去 1571年 日本
レパント海戦 1571年 地中海、西アジア
スペイン、マニラ建設 1571年 南アジア、東南アジア
張居正の改革 1572年 〜 1582年 東アジア
三方原の戦い 1572年 日本
サン・バルテルミの虐殺 1572年 ヨーロッパ
武田信玄、信濃の駒場で没す 1573年 日本
織田信長、15代将軍 足利義昭を追放し、室町幕府滅亡 1573年 日本
浅井氏滅亡 1573年 日本
羽柴秀吉(豊臣秀吉)、近江に長浜城を築城 1573年 日本
織田信長、長島一向一揆を鎮圧 1574年 日本
織田信長、越前一向一揆を鎮圧 1575年 日本
長篠の戦い 1575年 日本
長宗我部元親、土佐統一 1575年 日本
織田水軍、毛利水軍に敗れる(第一次木津川口の海戦) 1576年 日本
織田信長、安土城を築城 1576年 〜 1579年 日本
荒木村重(摂津)、織田信長に謀反 1578年 〜 1579年 日本
織田水軍、大砲を搭載した大型船で毛利水軍を破る(第二次木津川口の海戦) 1578年 日本
ユトレヒト同盟 1579年 ヨーロッパ
織田信雄(織田信長の次男)、伊賀に侵攻(第一次天正伊賀の乱) 1579年 日本
安土宗論 1579年 日本
顕如、石山本願寺から退去(石山戦争、おわる) 1580年 日本
秀吉、織田信長から生野銀山を与えられる 1580年 日本
スペイン(フェリペ2世)、ポルトガル王国を併合 1580年 〜 1640年 ヨーロッパ
京都御馬揃え 1581年 日本
オランダ、独立宣言 1581年 ヨーロッパ
第二次天正伊賀の乱 1581年 日本
織田信長、武田氏(武田勝頼)を滅ぼす 1582年 日本
本能寺の変 1582年 日本
太閤検地 1582年 〜 1598年 日本
天正少年使節、派遣される 1582年 〜 1590年 日本
山崎の戦い 1582年 日本
豊臣秀吉、大坂城を築城 1583年 〜 1585年 日本
賎ヶ嶽の戦い 1583年 日本
小牧・長久手の戦い 1584年 日本
スペイン人、平戸に来航 1584年 日本
羽柴秀吉(豊臣秀吉)、関白に就任 1584年 日本
豊臣秀吉、紀伊平定(根来・雑賀一揆を平定) 1585年 日本
豊臣秀吉、九州に惣無事令を下す 1585年 日本
豊臣秀吉、四国平定 1585年 日本
秀吉、豊臣姓を賜り、太政大臣に就任 1586年 日本
豊臣秀吉、九州平定 1587年 日本
北野大茶会 1587年 日本
バテレン追放令 1587年 日本
海賊取締令 1588年 日本
刀狩令 1588年 日本
アルマダ海戦 1588年 ヨーロッパ
豊臣秀吉、イエズス会領だった長崎を直轄地とする 1588年 日本
アンリ4世、即位(ブルボン朝、はじまる) 1589年 〜 1830年 ヨーロッパ
豊臣秀吉、北条氏を降す(日本統一) 1590年 日本
徳川家康、江戸城に入城。以降、江戸城は徳川家の本拠地となる。 1590年 日本
人払令(身分統制令) 1591年 日本
千利休、切腹 1591年 日本
文禄・慶長の役 1592年 〜 1598年 日本
豊臣秀頼、誕生 1593年 日本
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「武田信虎」の関連ノート

【その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー】<h3>信虎、窮地を脱し、大井信達と和睦</h3>
<p>永正12年(1515年)、大井信達との戦いに敗れ、武田信虎は滅亡の危機に瀕したが、2年後、郡内方面で勢力挽回した。その結果、今川氏親は連歌師、宗長(氏親の外交官でもあった)を仲介者として、信虎と接触し、永正14年(1517年)、信虎は大井信達と和睦した。</p>
<p>信虎としては、7年前に妹を小山田氏の当主に輿入れさせ、懐柔した甲斐があったとほくそ笑んでいたことだろう。</p>
<h3>宗長回想</h3>
<p>宗長、この人を覚えているだろうか。</p>
<p>宗長は北条早雲が今川氏親を擁立しようとした時に(氏親の父、今川義忠が遠江で戦死して今川家の家督継承問題が起こった文明8年(1476年))、小川の長者、長谷川法永と共に氏親・早雲の味方として動いた人物である。この時、宗長は29歳だったが、今は高齢で、70歳になっていた(しかし、彼の寿命はまだ15年残っていた)。 <br>当時、連歌師は他国の大名や要人と直に会えるため、外交官の役割も果たしていた。のちには、茶人がこの役割を果たす。</p>
<h3>大井信達の娘、大井夫人</h3>
<p>この和睦時に、大井信達から信虎がめとったのが、大井夫人である。のちに、武田信玄の母親となる人だ。信虎は24歳、大井夫人は21歳だった。 <br>信虎にとっては、自分を散々苦しめた大井信達の娘を正室として、めとることになるわけだ。生まれてきた子は、大井信達の孫となる。</p>
<p>余談だが、椿城に行った時、看板に「武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡」という看板があった。私は椿城を、信虎の宿敵、大井信達の牙城と捉えていたので、ちょっとした衝撃があった。言い方一つで印象は変わるものだ。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城を目指して歩いている時に目にした看板。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>信虎、本拠地を躑躅ヶ崎館に移る</h3>
<p>大井信達との和睦から2年後、信虎は祖父の信昌以来の甲斐守護の拠点だった、川田館から躑躅ヶ崎館を建設して移った。</p>
<p>信虎はいまだ各地に割拠する国人たちにも躑躅ヶ崎の城下町への集住を命じたので、反発をくらった。この政策も戦国大名に脱皮しようする信虎の意思を反映したものだった。 <br>分権を望む大井、今井、栗原などの有力国人は反乱を起こしたが、永正17年(1520年)、信虎は反乱軍を撃破して、一応の甲斐統一を成し遂げた。この時、信虎は27歳となっていた。</p>
<h3>駿河から大軍、来襲</h3>
<p>翌年、永正から大永と改元された。思えば、永正4年に14歳で家督を相続してから信虎は甲斐統一のため、常に体を張って戦ってきた。紙一重の生死の狭間をすり抜け、その武略と努力と幸運の結果が一応の甲斐統一だった。しかし、まだ信虎の危機は終わらない、といより最大の危機が迫っていた。</p>
<p>大永元年2月、駿河から福島勢が甲斐に乱入してきたのである(*)。 <br>8月の河内(南巨摩郡)の合戦では勝利したものの、9月には駿河の福島勢が大挙して押し寄せてきた。その数、1万5千とも言われる(実際のところ、人数はよく分からない)。それに対して、統一から日が浅い信虎勢は足並みが揃わず、2千ぐらいだったという。とにかく、信虎にとって、圧倒的に不利な戦いであったことは間違いないだろう。</p>
<div><em>(*)かつては、今川氏親が派遣した軍といわれていたが、最近では、氏親の命令ではないという説が有力視されている。いずれにしても、駿河方面から福島氏の軍勢が攻めてきたことは史実である。</em></div>
<p>信虎は同月に大島(南巨摩郡身延町大島)で福島勢と戦ったが、敗北した。福島勢はそのまま北上し、9月16日に大井氏の属城、富田城を落とした。</p>
<h3>富田城を北上、稲作地帯をゆく</h3>
<p>私は富田城を出て北上した。目的地は絵地図にある荒川湖畔の古戦場である。 <br>釜無川を渡ってからは平地が続く。稲作地帯である。かつては、この辺を釜無川の本流、支流、細流が流れていたらしい。とにかく、洪水地帯であったようで、現代のように稲作ができるのはまったくもって、信玄以来の治水事業のおかげだろう。</p>
<p>このシリーズの中で何度か書いているように、甲府盆地は思ったより広い。また、きつくはないが、緩い傾斜の上り坂になっているので、富田城を出てから古戦場に行くまでに、案外時間がかかってしまった。1時間ちょっとぐらいは走ったと思う。途中、雲間から光が指す光景は神々しかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>釜無川にかかる橋の上から雲間の光をのぞむ。本物は遥かによかった。 <br>信虎も同じような空を見ただろう。</div>
<div> </div>
<p>甲府盆地を走っていて、いくつか気づいたことがある。その内を1つをここで紹介したい。 <br>それは適当に走っても、方向が合っていたら、目的地に行けるということだ。当たり前だと思われるかもしれないが、案外そうではない。関東平野で同じ事をやると、途中で行き止まりになっていたり、全然違う方向に流されてしうことは少なくない。特に、自宅がある調布はひどく、iPhoneのGPS機能を使わなかったら、帰れないことがいくらでもあった。まるで、リアル迷路だ。 <br>まあ、それはいいとして、甲府盆地は山の形と太陽の位置を頭に入れておくと、まず方向を失うことはない。したがって、細い道でもどんどん入っていけた。こういう地域はありそうでない。生活者の意見が尊重されている地域なのかもしれないと土地不案内者ながら思った。</p>
<h3>福島勢迫り、信虎、懐妊中の大井夫人を積翠寺へ避難させる</h3>
<p>釜無川下流を押さえられ、危機感を募らせた信虎は、身重の妻、大井夫人を躑躅ヶ崎館の北方の山麓にある積翠寺に移す。そして、28歳の信虎は福島勢と戦うべく、躑躅ヶ崎館を出陣した。14年間も戦ってきた結果が、このザマである。信虎は苦々しく思っただろう。</p>
<h3>福島勢の動き</h3>
<p>さて、福島勢である。この時の福島勢の動きが遅い。妙である。 <br>富田城を落として、1ヶ月もの間、福島勢は攻めて来なかったのである。</p>
<p>なぜこれほど動きが緩慢だったのだろうか。大軍を維持するのは大変である。 <br>例えば、1万人の水・食糧・寝床・武器・排泄物の処理など、滞りなく行うようにと読者が命令されたとする。想像しただけで大変な仕事なのは明らかである。1万人を養うには相当の計画性と物資とカネが必要だ。これらが行われないとたちまち不満の声が満ち、戦力は落ち、疫病が蔓延したりする。下手をすると、戦う前に軍が崩壊したり、不満が自軍の首脳に向くこともありうる。</p>
<h3>信虎の防衛ライン</h3>
<p>信虎の防衛ラインはおそらく、笛吹川と荒川だったと思う。笛吹川は甲斐の北東から南西に流れる暴れ川だった。荒川も名前の通りだったのではないかと思う。今よりも、河原は広かっただろう。</p>
<p><a><img></a></p>
<div> <em>2日目の14時頃に、富田城を出て、稲作地帯を抜け、荒川に向かった。もしかしたら、福島勢も同じような経路で戦場に向かったかもしれない。 黄色が自転車で走った経路。</em>
</div>
<p>福島勢の動きは鈍い。その理由として、内部でまとまりを欠いていたのではないかという指摘がある。 <br>もう1つは当時は治水技術が発達していなかったので、一度大雨が降ると、川を渡れなくなる。仮に福島勢が荒川・笛吹川を越えて、躑躅ヶ崎館を襲ったとしよう。たとえ躑躅ヶ崎館を即座に落としても、詰の城の要害山城はすぐには落とせない可能性がある。 <br>その間に、大雨が降り、補給ラインが途絶えたところを、信虎が全力で反撃してくる。この状態で敗れたら大変である。下手をすると、全滅する可能性すらある。何せ後ろが洪水地帯だと自動的に背水の陣状態になるのである。それを恐れた福島勢首脳は、荒川・笛吹川流域に住む百姓に尋問して、洪水についての情報を集めていたのではないかと話が書いてあった(**)。</p>
<div>
<em>(**)洪水説は</em><em><em>武田八洲満『信 虎』</em>に出てくる。 武田信虎の数少ない歴史小説の1つ。ちょっと信虎を弱く書きすぎている感はあるが、労作であることは間違いない。</em>
</div>
<h3>両軍、激闘!飯田河原合戦</h3>
<p>理由はよくわからないが、富田城が陥落してから1ヶ月後、ようやく、福島勢は荒川の左岸にやってきた。 <br>場所は飯田河原であったという。飯田河原古戦場の石碑が立っている場所から躑躅ヶ崎館まで直線距離で3kmである。駅でいえば、甲府駅と竜王駅の間にある。</p>
<p>高校時代、私は高校まで10kmの距離を通っていた。自転車で約30分だった。つまり、3kmというのは自転車で10分ちょっとで行けてしまう距離である。騎馬で疾走すれば、もっと早く着くだろう。 <br>地図で飯田河原古戦場をはじめて調べた時、躑躅ヶ崎館との距離の近さに驚いた。これなら、身重の妻を山麓に避難させるのは当然だ。10分で妊婦が避難できるわけがない。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場付近から荒川左岸をのぞむ。 </em><br><em>対岸にいる雲霞の如き大軍が信虎の首を狙っているのである。いくら強気の信虎でもゾッとしただろう。</em>
</div>
<div> </div>
<p>この戦いが飯田河原合戦で、信虎勢は数には劣るものの、よく戦い、敵を100余人討ちとって、荒川の西側に福島勢を押し返した。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場の石碑 </em><br><em>この辺は人の往来が多く、信虎勢と福島勢が戦った跡はいささかも感じられなかった。黙祷を捧げて、古戦場をあとにした。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>信虎、嫡男誕生!</h3>
<p>その後、福島勢は、一旦、曽根の勝山城まで退去した。だが、むろん、これですべてが終わったわけではなく、次の戦いへの準備期間であるに過ぎない。</p>
<p>再び、両軍の斥候や前衛が荒川を挟んで睨み合っただろう。この睨み合いの最中に誕生したのが武田太郎、のちの武田信玄である。11月3日のことであった。当主の男児誕生に信虎勢の士気はあがった。</p>
<h3>人生のテーマ</h3>
<p>読者は人生にテーマをお持ちだろうか。持っている人も持っていない人もいると思う。</p>
<p>現代日本では、一部の例外を除いて、ある程度は自分の人生を自分で決めることができる。私も自分の人生を自分で決めてきた。歴史的に見ると、こういった状態は幸運だと言えると思う。 <br>現代日本の住人と異なり、武田信虎は好きで、甲斐守護になったのではない。門閥貴族というのはそういうもので、父親が隠居か死亡すれば、自動的に子が当主になる。つまり、地位を継ぐ基準は血の濃さだった。武田家も同じで、甲斐守護家の直系に生まれない限り、正規ルートで甲斐守護にはなれない。信虎は、甲斐守護の父、信縄が死去したので、甲斐守護になった。</p>
<p>信虎がここまで14年間も戦ってきたのは彼の好みというよりも、有無をいわさず、立場上、課せられたテーマを果たしたまでである。そのテーマとは甲斐の統一である。このテーマを果たせなければ、滅亡するか、甲斐を逃げ出す以外に道はない。</p>
<p>課せられたテーマを果たすことは、自分で選んだテーマを果たすことよりも低級だということはないと思う。要は、その人が諸々の制約の中で人生のテーマと如何に関わったかこそが問われるのだと私は思う。その点、信虎は確かに課せられたテーマを自分のテーマとして真正面から捉え、戦い抜いた男だと思う。</p>
<h3>信虎の「その時」、上条河原合戦</h3>
<p>飯田河原古戦場の2kmほど上流に上条というところがある。ここで最終決戦が行われた。信虎のテーマが成就するか、敗れ去るか、この戦いにかかっていた。人生の決定的な瞬間、つまり、「その時」であったといえる。 上条で荒川を渡ったら、指呼の間に躑躅ヶ崎館がある。信虎としては荒川の防衛ラインを破られるわけにはいかない。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>上条河原合戦古戦場付近。なぜか石碑などはないらしい。飯田河原合戦も重要だが、上条河原合戦のほうが決定的戦いだと思うので、残念に思った。<br>飯田河原古戦場から2kmほど上流の上条で戦いがあったという。地図を見ると、秩父往還がここを通っている。信虎はこの道を通って、上条河原にやってきたのかもしれない。</div>
<div> </div>
<p>信玄出生から20日後の11月23日、再び、戦雲が甲斐を覆う。 <br>旧暦は現在の暦でいうと、1ヶ月ほど進めた時期だと考えてもらいたい。つまり、現在でいうと、1月ぐらいの寒さの中での戦いだった。しかも、ここは温暖な駿河ではなく、標高の高い甲府盆地だ。もし福島勢が荒川を渡河したとしたら、荒川の水の冷たさはこたえただろう。</p>
<p>この日、福島勢と信虎勢は上条河原で激突する。信虎勢は福島氏の大軍を相手に奮戦した。信虎の家臣たちも負ければ、福島勢に殺されるか、生き残っても従属させられ、以後、一番危険な戦場に送られることになる。それに対して、福島勢には遠征の飽きと疲れもあったことだろう。</p>
<p>まさに信虎の「その時」がはじまろうとしている。 <br>20日前に生まれた新しい命のためにも、信虎は奮い立ったかもしれない。信虎を含め、戦う前に両軍の武者たちの胸中には様々な思いが去来したことだろう。それらを心の支えにして、戦いははじまった。。。</p>
<p>この上条河原合戦で、信虎勢は福島勢を大敗させ、福島勢の大将たちを軒並み討ちとった。福島勢は崩壊して、南に潰走し、曽根の勝山城に逃げ込んだ。福島勢は600人もの死者を出したともいわれている。</p>
<h3>信虎の「その時」</h3>
<div> </div>
<h3>統一成る</h3>
<p>結果は信虎の完勝だった。翌年1月14日、曽根の勝山城に籠っていた福島勢は降伏し、生き残った福島勢は駿河に退去した。苛烈な状況を切り抜け、甲斐を統一し、外敵を駆逐した若き守護に家臣はもちろん、領民も希望を見出しただろう。 今川、北条との戦いはまだまだ続くが、ここに信虎は甲斐統一に成功した。国内の国人勢力を一掃するのになお10年を要したが、もはや以前のように苦戦していない。 信虎は統一によって膨らんだ国力を使って、関東への介入、信濃への侵略を行なっていくことになる。これらの戦いが次の時代を準備した。 </p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

飯田河原の戦い 上条河原の戦い 山梨県 甲斐市

【その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー】<h2>竜王の信玄堤へ</h2>
<p>翌朝、昭和インター近くのホテルを出て北上し、竜王の信玄堤へ向かった。</p>
<p>名前の通り、信玄堤は武田信玄が作らせたという堤防で(むろん、信玄以来の堤防と考えるべきだろう)、私はこの堤防を見てみたかった。 <br>武田信虎というテーマとは一見外れるが、結局のところ、信虎が追放されたのは信虎の人格が異常だったというよりは治水をはじめ、内政に失敗して、有力国人や家臣の支持を失ったのが主因だと私は考えている。 <br>したがって、この堤防は、親父の失敗を息子が片付けた例として考えることもでき、信虎と信玄堤は無関係ではない。</p>
<p>さて、天気予報ではこの日は曇のち晴だったが、釜無川に着いた頃、小雨が降っていた。しかし、しばらくするとあがり、薄日が差した。この日は終日、このパターンの繰り返しだった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曇天の釜無川。 </em><br><em>写真は北の八ヶ岳の方向を写している。ボンヤリと山が見えるだけで、圧迫感は感じなかった。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>絵地図</h3>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>今回出てくる地形、地名、勢力などの絵地図。 </em><br><em>黄色が自転車で走った経路。</em>
</div>
<div> </div>
<p>これが噂の聖牛である。 なかなか大きいものだった。これなら急流にも効果が期待できそうだ。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>写真では所詮伝わらないと思うので、ぜひ、本物をご覧あれ!</em>
</div>
<div> </div>
<p>聖牛に草が絡まっているが、これを放置しておくと水圧が増し、腐敗の原因にもなるので、当時は堤防を管理していた人々がいちいちとっていたのではないかと推測する。</p>
<p>現在の聖牛は石が針金で固定されているが、当時はこんなものはあるはずがない。 <br>案内板をみると、当時は竹で固定していたそうだ。竹は強く柔軟性があり、生活道具からはじまって武器にもなる。近代以前の世界では万能素材としての地位を確立していた。したがって、竹で固定しているのはやはりという感じだったが、実際のところ、維持管理するのは大変だったと思う。 <br>何せ前日雨が降っていないにもかかわらず、流れが速い。もし台風並みの雨が降ったら、大変なことになるなと思った。それを竹で水流を受け止めるのだから、容易なことではなかっただろう。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>2011年9月撮影: </em></div>
<div>
<em>石が竹で固定されている聖牛。昔の聖牛はこうだったらしい。 </em><br><em>聖牛の木同士を固定しているのは針金ではないかというツッコミは入れないようにしたい。</em>
</div>
<div> </div>
<p>甲州流治水法というのは、急流と急流をぶつけて、勢力を弱めるという思想でできている。コンクリートで両岸を固めて、水路を真っ直ぐ作る近代の治水法とは随分違うが、合理的な方法だと思う。</p>
<p>信玄以前、北の八ヶ岳の方から流れてくる釜無川と西の南アルプスから流れてくる御勅使川(みだいがわ)が合流するこの辺(信玄堤のある竜王周辺)は氾濫が頻発していた地帯で、その都度、被害が出ていた。付近の住民は弱り果てていただろう。津波に限らず、大量の水は恐ろしい。</p>
<p>そこで、信玄はこの2つの急流をぶつけることで水勢を弱めるという策を採った。具体的には、御勅使川の流路を変えて、釜無川にぶつけるための大治水事業を行い、信玄堤を作り上げた。おそらく、かつて、こういう方法を考えた人はいただろうが、実行できる者はいなかった。それを信玄は成し遂げた。ゆえに信玄は偉いのである。 <br>だが、その権力はどこから来たのだろうか。他でもない、信虎が人生を賭けて戦い、築いたものである。もし信虎が戦いに負けていたら、信玄は甲斐守護にすらなれなかっただろう。</p>
<p>信玄堤のことは本や映像で事前に調べているので、知っていることばかりではあったが、実際にみると、やはり分かる度合いがまったく違う。まさに腑に落ちた感じだった。</p>
<h3>守護大名から戦国大名へ</h3>
<p>話を信虎に戻そう。少年信虎は永正5年(1508年)に叔父の油川信恵を滅ぼしたあと、油川信恵派の郡内の小山田氏を圧迫、永正7年(1510年)には実質的に降伏させた。そして、信虎は妹を小山田氏の新当主に輿入れさせた。生まれてきた子は信虎の甥になる。 <br>少年の成長は早い。若武者へと変貌した信虎はこれら一連の戦いで武田家内部の争いに終止符を打ったが、これで甲斐統一が完成したわけではなかった。</p>
<p>江戸時代、武士は城下町に住むサラリーマンだったが、中世の武士は土着の領主だった。つまり、ある領内に権力地盤を有しており、守護から独立性が高く、各地に城を築いて蟠踞していた。甲斐も同様で、甲斐国内に、大井氏、今井氏、栗原氏、穴山氏などの有力国人がいて、彼らがどう動くかは彼ら自身が決めており、守護に彼らを自由に制御することはできなかった。 <br>守護家もまた領主であり、違いは守護という権威があった点だけである。この中世システムから脱却したのが、北条や今川であり、彼らは戦国大名の魁であった。戦国大名は各地の領主を排して、領内の一元的に支配し、農村を直接支配した。遅れはしたが、信虎も守護大名(中世システム)から戦国大名(近世システム)に移行しようとした。これが信虎と有力国人との軋轢の本質的な原因である。 <br>分権的な割拠状態をよしとする国人勢力にとって、信虎が力で甲斐を統一し、自分たちを自由に制御しようとする路線は守護による横暴、または、言語道断な独裁者と映ったことは想像に難くない。ゆえに抵抗は激しい。</p>
<h3>青年信虎、大井信達の館を攻める</h3>
<p>甲府盆地の西側に大井氏という武田の支流の勢力があり、当時の当主は大井信達だった。この大井氏が有力国人の代表格である。信虎としては、戦国大名として脱皮して、甲斐を統一するためにどうしてもこういった国人勢力を排する必要があった。 <br>大井信達は今川家と手を結び、甲斐守護の信虎に対抗した。国内の敵対勢力が他国の大名を国内に引き込むという例は枚挙にいとまがない。甲斐国内でも、北条と結ぶ小山田氏、信濃の諏訪氏と結ぶ今井氏があり、信虎にとっては国内問題と国外問題は連動していた。</p>
<p>当時、今川家の当主は今川氏親(義元の父)で、駿河に加え、遠江の領有も目前だった。いまだ甲斐一国の統一もままならない信虎にとって、今川氏親は最大の脅威だった。なお、今川氏親は伯父の北条早雲(伊勢宗瑞)に擁立されているので、今川と北条は強固な同盟関係にあった。 <br>ただ、信虎にとって幸いだったのが、今川は西の京へ、北条は東の相模(関東)へ向かう戦略を持っていたため、本格的な攻略の対象となることはなかったということである。</p>
<p>大井、今井といった各氏を抑え、甲斐を統一しなければ、他国の侵略を受けることは信濃が証明している。永正12年(1515年)、今川氏親と結ぶ有力国人、大井信達は蜂起した。そのため、23歳となった青年信虎は大井信達の館を攻めた。しかし、油川信恵を倒した時のようにはいかず、重臣を多数失うほどの敗北を喫っした。 <br>その後、大井信達と今川勢に圧迫された信虎は、一時、塩山の恵林寺に逃走するほどの窮地に追い込まれた。この間、今川勢が利用したのが、曽根の勝山城だった。南からの勢力が居座るにはちょうどいい城だったのだろう。</p>
<h3>年表: その時、彼らは何歳だったのか?</h3>
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<h3>大井信達の居城、椿城(上野城)</h3>
<p>大井信達の居城は甲府盆地の西麓の上野にあったという。地名をとって、上野城、椿が多かったため、椿城ともいった。南アルプスから伸びた台地の一つが上野で、北と南には深い渓谷があり、東側は急斜面になっている。</p>
<p>竜王から釜無川を渡り、南西に走る。ここでも果樹栽培が盛んだ。おそらく、この辺は高地だったため、水害は比較的軽微だったのではないかと思う。椿城の麓につくと、風化して見えないような案内板が「椿城跡」の方向を教えてくれる。<br> 最初は、立ちこぎして頑張っていたが、延々と上り坂が続くので、すぐに諦めて、押して歩いた。坂はかなり角度をあり、燦々と照りつける太陽が暑い。15分ぐらい歩いただろうか。ようやく、椿城跡を発見した。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城付近から甲府盆地をのぞむ。 </em><br><em>街がずいぶん小さく見える。結構歩いた。まったくご苦労なことである。</em>
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<p>椿城跡には現在、という日蓮宗の本重寺が建っているが、どうもおかしい。城を建てるなら、もうちょっと西側の台地の先端ではないか。しかも、先端はここよりも高地にある。 私は西側も探検することにした。自転車を寺に置き、果樹園を抜けて、歩く、さらに歩く。結構、広い。ある程度歩いて振り返ったら、思った通り、寺が下に見える。おかしいなと思いつつ、寺に戻った。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>椿城の東の台地から本重寺をのぞむ。手前から2本目の電信柱の奥に朱色の屋根が小さく見えるが、あれが本重寺である。かなり、<br>下に見える。 背後の山が南アルプス。雄大だった。</div>
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<h3>本重寺のお年寄り</h3>
<p>本重寺の縁側にお年寄りが腰をおろしている。 <br>どうもこの寺の方にみたいだったので、話しかけてみた。</p>
<p>「お寺の方ですか?」 <br>「はい」 <br>「ここが椿城跡なんですよね」私は当然のことを聞いた。 <br>「そうですが、城自体はもっと東側にありました。ここは大井氏の館跡と言われています。大井氏が滅びたあと、この寺が移されたんです」 <br>「そうなんですか。やはり、城は東側にあったんですね」私はうれしそうに言った。</p>
<p>話を聞いていると、この寺のご住職だった。 <br>このご住職がこの寺に来られたのは4年前で、それ以来、いろいろ資料を集めて、上野の案内状を作成されたそうで、その案内状を私も一部頂いた。ご住職の話によると、寺の庫裏から東側の城まで抜け道があったらしい。城の抜け道伝説はよくあるが、こういった館にもあったとは初耳で興奮した。 しかし、2ヶ所ほど、途中の畑で抜け道が陥没して、現在は通行不能だのことだった。</p>
<p>ご住職との話は興味深かったが、途中で女性がやってきてご住職に何か用事があることを告げた。 私はご住職にお礼を言って、お寺をあとにした。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>本重寺の縁側に腰掛けて、資料などを見せてもらっていた。晴れていたらこの縁側から富士山が見えるという話を伺ったので、1枚撮ってみた。作品名「幻の富士」といったところか。</em>
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<h3>信虎が敗北したのは実は富田城?</h3>
<p>信虎が大井信達を攻めた城は椿城ではなく、椿城より低地の富田城だという説がある。 <br>なぜかというと、信虎勢は城の深田に足をとられて敗れたらしいからだ。椿城にはそういう地形ではなく、大井氏の勢力下にあった富田城であれば滝沢川のほとりにあり、深田があって当然というわけである。 <br>どちらが正しいか私には分からないが、富田城が沼田に囲まれていたのは想像に難くない。一方で、椿城は台地上にあったため、田はなかったという話には納得できない。というのは、田は棚田があればできる(段々畑の田んぼ版をイメージしてもらいたい)。現在も椿城に行く途中、棚田が少なからずあった。 <br>ただ、棚田の田んぼに足をとられて大敗というのは確かに妙な話ではある。</p>
<p>富田城は笛吹川の近く、椿城から見ると、南東の低地にある。 <br>いまの甲西工場団地の中にあったという。ゆえに、中には入れない。 <br>近くをグルグル巡っただけで終わったが、南からの交通をおさえるにはいいところだと思った。椿城が政治の城なら、富田城は経済の城だったのかもしれないなどと空想してみた。</p>
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<div>滝沢川の橋の上から富田城があったといわれる甲西工業団地をのぞむ。 <br>中部横断自動車道が団地内を通っている。背後が南アルプス。</div>
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<div>(<a>つづく</a>)</div>

その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎 大井信達 信玄堤 聖牛 椿城 富田城 山梨県 甲斐市

【その2 信虎初陣ー武田信虎の戦いー】<h2>武蔵から郡内、そして、甲府盆地へ</h2>
<p>この日、朝8時半頃に自宅を出て、調布駅で京王線に乗り、調布から高尾まで生き、高尾からJR中央線に乗り換えて、甲斐の郡内を通り、甲府盆地へ入った。</p>
<h3>意外に広い</h3>
<p>甲府盆地へ入ってまず気づいたのは、甲府盆地は意外に広いということだった。 <br>「甲斐は山国」と何度も読んでいたので、山が迫って、圧迫感があるのかと思っていた。山に囲まれているのは事実だが、圧迫感はない。南北はそれほど広くはないが、東西は広く、南アルプスの山並みが霞んでいる。</p>
<h3>甲府盆地の北東、塩山駅からスタート</h3>
<p>甲府盆地の北東にある塩山駅で降り、いつものようにブロンプトン(折りたたみ自転車)を組み立てて、歴史サイクリングをスタートした。時間は午前11時頃だった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>甲府盆地の北東の塩山駅からスタート。 ブロンプトンを組み立てて、駅前を歩いていたら、仲良し3人組という風のタクシードライバーのおじさんに声をかけられ、またしてもブロンプトンについて熱く語ってしまった。 </em><br><em>調布駅でも声をかけられ、ブロンプトンについて語ること、この日、早くも2回目。</em>
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<em>今回の話で出てくる地名と地形の絵地図。 </em><br><em>さすがにひどいか。。。</em>
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<h3>恵林寺</h3>
<p>最初の目的地は、恵林寺である。 <br>恵林寺は信玄の本を読んでいた時によく出てきていたので、いつか行ってみたいと思っていた。幸い、塩山駅から2kmほどのところなので、行ってみることにした。 <br>分かってはいたが、上り坂である。自転車にダラダラと続く上り坂はきつい。しかも、この日は日差しが強く、恵林寺に着いた頃には汗だくになっていた。</p>
<p>恵林寺は武田家滅亡の時、織田信長に焼かれた。恵林寺の住持、快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定したことは有名である。恵林寺の武田不動尊も有名で、信玄をモデルに作られたといわれている。<br> 私はこの像をいつか見てみたいと思っていた。 <br>13時頃、恵林寺をあとにした。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>恵林寺山門 <br>快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定した場所に建てられたという。 なお、恵林寺はこのシリーズの中でもう1度出てくる。</div>
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<h3>気づいたこと</h3>
<p>ここからは下りである。 <br>甲府盆地は北が高く南が低い。私はいま東北にいる。ちょうど笛吹川と並行する形で、石和に向かって、風を切って下った。</p>
<p>走りはじめて、気づいたことがある。まず、人が少ない。歩いている人はほとんどいない。東京の江東区から調布に引っ越した時に、人が少なく感じだが、その比ではない。本当に人を見ない。その代わり、ブドウ畑などの果樹園がひたすら続く。まるで、住宅地と山以外はすべて果樹園のようだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>所狭しと広がるブドウ畑。 </em><br><em>肥料が置いているところにリアリティを感じる。</em>
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<p>もう1つある。それは豊富な水量と水流である。 <br>他の街でも家々の側溝を小川のせせらぎという感じと水が流れていることがあるが、この辺は側溝に水がガンガン流れている感じである。大雨が降って、側溝に人が流されて死亡したというニュースをたまに目にするが、どういう状況なのかイメージできず、今まで信じられなかった。しかし、急流の側溝を見て「ありうる話だ」と納得した。 <br>何せ高い山が近くにあり、かなりの傾斜があるため、このような急流になるようだ。これでは台風のような大雨が降ったらどうなるのやら、恐ろしい話だ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>恵林寺から石和に向かう時に渡った橋から撮った笛吹川(山梨市七日市場付近) 白波が立って、急流であることが分かる。 </em><br><em>前日に雨が降ったわけでもないのにこの水量。</em>
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<h3>甲斐守護の館があった石和</h3>
<p>信虎が1519年に躑躅ヶ崎館に移すまで、石和の川田館が甲斐守護の拠点だった。 <br>父、武田信縄の死後、少年信虎も甲斐守護として、石和の川田館の主となった。いわば、石和の川田館は信虎にとって政治的人生の出発点だった。ということなので、まずは石和に行くことにした。</p>
<h3>あの木は何ですか?</h3>
<p>ところで、サンクリング中、私はブドウ畑と同じくらいの割合で存在する畑(木)が何なのか気になってきた。だが、人がいないので聞けない。</p>
<p>石和温泉駅に近くにきた。進行方向の右側30mほどのところに小さなネギ畑がある。その畑でネギにひしゃくで水をまいている中年の女性がいる。その女性に木の正体について、聞いてみることにした。</p>
<p>「すいません」<br> 「こんにちは。」ネギの女性は笑顔で応える。気持ちのいい笑顔だ。 <br>「ちょっと教えてほしんですが、あの木は何ですか?」私は近くにある畑にある謎の木を指して尋ねた。 <br>「どれ?」分からないらしい。 <br>「あれです、あの畑の木です。ちょっと栗っぽい木です」 <br>「ああ、あれは桃の木よ」至極、当然のようにいう。<br> 「ああ、そうなんですか」何と30も半ばになろうというのに、私は桃の木を知らなかった。桃の木を知らないという人間がいること自体が想定外で、どの木のことを聞いているのか、この女性は分からなかったようだ。 <br>もし桃がなっていれば、むろん、桃の木だと分かっただろうが、桃のシーズンはとっくに終わっている。</p>
<p>ということは、ブドウ畑と二分する謎の畑は桃畑ということになる。 <br>なぞが解けて、スッキリした。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>謎の木。。。 </em><br><em>この辺の子供なら、3歳児でも知っていそう。</em>
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<p>「ブドウはほとんどなっていませんね」 <br>「まあ、お盆の頃だからね。けど、緑のブドウなんかはこれからよ」 <br>「なるほど、品種が違うんですね」 <br>「そう。それに石和は温泉が出るでしょ。温暖な土地だから、できるのが早いのよ。塩山なんかはここより少し遅れるし、八代(甲府盆地の南部)なんかの巨峰はこれからよ。地域によって、見事に出来る時期が違うのよね」 <br>「へえー、そうなんですか」私は驚いた。というのは、塩山も八代もここから見える。なのに、これほど収穫時期が違うのである。 <br>「すごく驚いてるね」私の驚き方が面白いのか、ネギの女性は朗らかに笑っている。</p>
<p>他にもいろいろ話を聞いたのち、 <br>「お仕事中、すみませんでした」 <br>「はーい、がんばってねー」 <br>「ありがとうございまーす」 <br>ということで、私はネギ畑をあとにした。</p>
<h3>信虎、叔父の油川信恵と戦う</h3>
<p>笑顔が素敵なネギの女性と別れた後、10分ぐらい走ると、川田館跡に着いた。 <br>川田館跡の看板がブドウ畑の中に立っている。ここにかつて甲斐守護の館があったと想像できるものはない。しかし、かつてはここを中心に城下町に近い街並みがあったはずだ。そして、信虎の甲斐守護としての人生はここからはじまった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>川田館跡は平等川の左岸にある。 </em><br><em>ブドウ畑の中に、川田館跡の案内板が立っている。この案内板がなければ、川田館跡だとは誰も気付かないだろう。</em><br><em> 川田館に信虎がいたのは1519年なので、1521年生まれの信玄はここで生活したことはないはずだ。</em>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>川田館跡の横で撮影したブロンプトン。だからといって、特別な意味は何も無い。 </em><br><em>前のバッグに、この歴史サイクリングで使う全ての荷物が入っている。 </em><br><em>2泊3日で自転車で130kmほど走った。乗り心地もよく、折りたためるので最高。</em>
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<p>さて、信虎の父、信縄が1507年に死去したところまで述べた。 <br>当主の交代時というのは元々動揺しやすいので、敵対勢力にとっては狙い目ではあるが、特に次の当主が若年である場合は尚更だ。当然、叔父の油川信恵は反意を露わにしはじめる。 <br>信虎は若年の当主である。普通ならここで叔父に討ち滅ぼされるのだろうが、翌年、逆に信虎は叔父、信恵の居城、曽根の勝山城にを攻めて込んで、滅ぼしてしまった。この重要な局面で初陣を勝利で飾った信虎を、信虎の支持者たちも頼もしく思ったことだろう。 <br>これで武田家内部の争いは終わった。しかし、この戦いは信虎にとって、甲斐統一の第一歩に過ぎなかった。</p>
<h3>曽根の勝山城</h3>
<p>油川信恵の居城、曽根の勝山城は甲府盆地の南部、笛吹川の南側にある。</p>
<p>石和の川田館跡を出発し、笛吹川沿い(南西)に走ること1時間ほどで、曽根にやってきた。石和と違って、この辺は稲作もしている。笛吹川の治水に成功して、用水路が整備されたことで、稲作が可能になったのだと思う。信虎の頃、この辺は洪水多発地帯だったようだ。</p>
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<em>勝山城から1kmほど上流の境川付近。 </em><br><em>稲作が行われている。石和付近の果樹園尽くしとは風景が異なる。</em>
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<p>さて、パッと見て、目立つ丘陵がいくつかある。そのうちの1つが勝山城だろうと思った。なお、郡内(山梨県東部の山岳地帯)にも勝山城がある。その城と区別するため、「曽根の」という頭文字がついている。 勝山城と思しき丘陵に近づいたが、それらしい看板などはない。 しかし、私はiPhoneを持っているため、ここが勝山城であることは分かっている。城の南側に回ると、果樹園になっており、丘陵への入り口がある。案内板がないため、果樹園に入っていいものか躊躇いながらもブロンプトンを押しつつ入っていった。 すると、勝山城の石碑を発見! やっぱりここだったかのか。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城。勝山城は甲斐と駿河を結ぶ中道往還を押さえる要衝の地にある。近くには笛吹川の氾濫原が広がり、沼田に囲まれていたようだ。 </em><br><em>なお、石碑には「沼田めぐり 攻めるにたかし 勝山城」と書いてある。</em>
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<p>城跡の北端に立つと、石和方面がよく見える。 川田館の信虎にとってはいい気分ではなかったと思う。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城から川田館があった石和方面がよく見える。 </em><br><em>実際に勝山城を見た歩いたら、意外と小さかった。それに丘陵といっても、それほど高いわけではない。この城は戦国末期まで使われたので、もうちょっといろいろと遺構も残っているかと思っていたが、期待していた程ではなかった。 「これが曲輪で、これが虎口で」と言われれば、「なるほど」と思うだろうが、単なる丘陵上の果樹園だと思えば、単なる果樹園にしか見えない。 </em><br><em>しかし、眺めはよく、ここに中道往還の押さえる位置からも、勝山城が重要な城であったのは頷ける。 </em><br><em>なお、この後も今川勢がこの城を用いて、信虎を苦しめることになる。</em>
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<p>かつて、この辺りは沼田であったという。甲冑に身をかためた15歳の信虎は500年ほど前の永正5年(1508年)10月4日、この勝山城付近で油川信恵勢と合戦におよび、決定的な勝利を収めた(勝山合戦)。<br> 少年信虎は一癖も二癖もある屈強な重臣たちに補佐されて戦ったのだろう。この戦いで叔父の油川信恵が戦死している。もし立場が逆だったら、この日に信虎の人生は終わっていたことになる。当時としてはありふれた話だろうが、厳しい話には違いない。 <br>実際にどういう戦いだったかは分からないが、今の勝山城は平和な果樹園であり、歴史を知らない人がここを訪れても城跡だとは気づくことはないだろう。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城、遠景。結構良いアングルだった。</em>
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<h3>ホテルへ</h3>
<p>勝山城跡を降りてくると、16時になっていた。ホテルは甲府盆地の真ん中やや西側の国母近くにあるので、ここから自転車で40分ぐらいかかりそうだ。いい時間である。私はホテルに向かった。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>
<h3>資料: 武田信虎の年表</h3>
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その2 信虎初陣ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎 恵林寺 川田館跡 曽根勝山城 山梨県 甲府市

【その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー】<h3>武田信虎</h3>
<p>武田信虎は武田信玄の父親で、一般的には「暴君」として知られている。暴君なあまり、信玄に追放されたという。</p>
<p>私 はこの理解に、特段異議を唱えるつもりはない。が、暴君だったという理由で彼の業績を無視するのは適切ではないと思う。というのは、信虎の時代を無視する と、北条早雲から信玄の時代へのつながりが見えなくなるし、信玄という人物と業績も十分理解することができないためだ。</p>
<p>信玄は信虎から国土、家臣団、人民などの地盤を受け継いだのであり、もし信虎が甲斐を統一していなければ、信濃のように近隣の強国に併呑されていた可能性がある。仮に信玄が甲斐統一を成し遂げたとしても、長い年月を要したと思う。</p>
<h3>今回の歴史サイクリングの概要</h3>
<p>2011年9月末に行った歴史サイクリングでは、信虎が甲斐守護となってから、実質的な支配者となる大永元年(1521年)までの甲斐統一戦を追うことがテーマだった。<br>すでに500年ほど経過しているが、彼が住んだ場所、戦った場所などをめぐることで、さまざまな局面における信虎の「その時」に近づきたいと思っている。 こればっかりは机上ではできない。</p>
<h3>信虎以前</h3>
<p>信虎以前の甲斐武田氏の歴史を遡ると、清和源氏発祥からはじまる。あまりに過去に遡ると、読者にはきついと思うので、ザックリとした説明にとどめた。この辺の事情を知りたい方は次の資料をご参考いただきたい。</p>
<p><strong>柴辻 俊六『武田信虎のすべて』</strong></p>
<h3>源氏の流れを引く名家</h3>
<p>甲斐武田氏は戦国時代の成上り大名とは違い、源氏の流れを引く名家である。浮き沈みはあったものの、鎌倉から戦国時代まで甲斐守護であり続けた。 <br>室町時代の中期には、甲斐も他国同様、守護代の権力が伸長した。応仁の乱の頃、甲斐守護代の跡部氏による下克上が起こってもおかしくない状況だったが、信虎の祖父、信昌は1465年に甲斐守護代の跡部氏を破り、甲斐を統一することに成功した。</p>
<h3>争いやまず</h3>
<p>信虎の祖父、信昌は跡部氏が強盛の頃、跡部氏の娘を正室として娶らされており、その子が信虎の父、信縄だった。信昌には側室の子があり、油川信恵(武田信恵)といった。信昌は跡部氏の血を引く信縄よりも、信恵を可愛がった。 <br>そ の結果、1492年、またもや、甲斐守護の信縄 VS 信昌(父)・信恵(異母弟)という図式で争いが起こった。この戦いは関東の情勢とも無関係ではなく、守護の信縄が関東管領の山内上杉氏派で、信昌・信恵が 扇谷上杉氏派(この頃、今川氏親と北条早雲も扇谷上杉氏派)だった。</p>
<p>そんな中、1494年、のちの武田信虎は誕生した。早雲の伊豆討ち入りの翌年である。 この骨肉の争いは延々と続いたが、1498年の<a>明応の大地震</a>(東 海・東南海・南海連動型地震だった可能性が指摘されている)が起こり、もはや戦っている場合ではなくなったようで、両者は和睦した。 東日本大震災を経験した我々は、この時の甲斐や東海地方がどういう状況だったか推測できると思う。 また、いくさがやむほどの大震災を経験した5歳の信虎の姿も想像してもらいたい。</p>
<p>しかし、この和睦は根本的な解決にはならず、危機は潜在することになった。和睦から7年後の1505年に祖父、信昌が死去し、その2年後に父、信縄も37歳の若さで死去する。</p>
<h3>信虎、家督相続</h3>
<p>父、信縄が死去した時、信虎は数え年で14歳だった。 <br>甲斐守護であり、父である信縄を失い、今なら中学1年生ぐらいの少年が甲斐守護となったのである。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , by fuji3zpg 開く

武田信虎

【なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー】<p>2年ほど前に、”荊棘の甲斐統一戦、武田信虎の「その時」を追う”というシリーズを書きました。</p>
<h2>目次</h2>
<ul>
<li><a>はじめに 北条早雲と武田信虎は同時代人</a></li>
<li><a>その1 信虎以前</a></li>
<li><a>その2 信虎初陣</a></li>
<li><a>その3 信虎、大井信達と戦う</a></li>
<li><a>その4 駿河勢、甲斐に乱入</a></li>
<li><a>その5 躑躅ヶ崎館と要害山城</a></li>
</ul>
<h2>なぜ信虎か?</h2>
<p>北条早雲がブログのテーマなのに、なぜ武田信玄の父、武田信虎が出てくるのだろうと思われた読者は少なくないと思う。</p>
<h2>早雲と信虎の年齢差</h2>
<p>次のグラフを見てもらいたい。</p>
<div> </div>
<p>実はこの2人、10数年、活動時期が一致している。 <br>1490-1500年前半の、信虎の父、武田信縄が甲斐守護であった頃、関東情勢に武田の影響力はほとんどなかった。しかし、信虎が家督を継承してから20年ほど経過した1520年代中頃に入ると、武田信虎の関東介入は北条にとって大きな頭痛の種となった。この時、早雲はすでに死去しており、当主は早雲の息子、北条氏綱だった。</p>
<h2>信虎を調べる</h2>
<p>1500年代後半-1510年代、甲斐に何があったのだろうか。<br> 私はこのことに興味を覚えたので、いろいろ調べてみた。すると、かつて暴君のイメージしかなかった信虎という人物が違ったふうに見えるようになった。そして、信玄に対する認識も変わった。</p>
<p>資料はある程度読んだので、状況は理解したが、現地に行かないと「絵」が見えない。そこで、信虎をテーマに2011年9月末に歴史サイクリングをしてきた。そのレポートを公開する前に、ざっくりと早雲と信虎の活動時期が重なった部分を見ていきたい。</p>
<h2>武田信虎の年表</h2>
<div> </div>
<h2>早雲の伊豆討ち入りと信虎誕生、そして、信虎、甲斐守護へ</h2>
<p>北条早雲が伊豆に討ち入った翌年の1494年、武田信虎は甲斐守護、武田信縄の子として誕生している。 甲斐守護、武田信縄が死去したのが1507年で、その年、信虎は14歳で甲斐守護となった。 こ<br>の頃までに、早雲は伊豆攻略を完了して、小田原城を奪い、この城を関東の橋頭堡として東相模領有の機会を窺っていた。そして、翌々年、早雲は両上杉相手に戦いをはじめる。</p>
<h2>信虎の苦闘と早雲の東相模攻略戦</h2>
<p>一方、若年ながら、信虎は翌年の1508年に叔父の油川信恵を滅ぼして、武田家内部の戦いに勝った。そして、割拠する有力国人を相手に戦いをはじめる。この戦いは武田家が守護大名から戦国大名へ脱皮できるかどうかの瀬戸際の戦いだった。もし失敗していれば、信濃のような分裂状態に陥って、近隣の強国に支配されていた可能性があった。</p>
<p>その間、早雲は東相模の雄、三浦氏と岡崎、そして、鎌倉で戦って勝利し、三浦氏の本拠地、新井城を囲んだ。 この辺りの話は『三浦一族の滅亡-かわらけー』で書いた。</p>
<p>信虎が10数年の苦闘を経て、一応の甲斐統一に成功した頃、早雲は三浦氏を滅ぼして相模攻略を完了させ、息子の氏綱に家督を譲った翌年(1519年)、死去した。</p>
<h2>時期は重なるが、正面衝突はしなかった両者</h2>
<p>このように、信虎と早雲は40歳ほど年齢が離れているにもかからず、活動時期が10年強、重なっている。しかし、互いに活動範囲が別だったので、正面からは衝突していない。このことは信虎にとって幸いだった。</p>
<p>扇谷上杉氏(時期によっては両上杉)という大きな敵を相手に戦っていた早雲にとっても、この時期は苦しく、東相模攻略以外に主力を向ける余裕はなかった。 このような事情で、同時代人にもかかわらず、早雲と信虎の関係は意識されないのだと思う。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/6/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

飯田河原合戦 上条河原合戦 フィールドをゆく 武田信虎 武田信虎の甲斐統一戦ーフィールドをゆく(4)ー

【飯田河原合戦と上条河原合戦の絵地図】<div>
<p>大永元年(1521年)、福島正成率いる駿河勢は1万5千ともいう大軍で甲斐に侵入した。 <br>同年9月16日には富田城を落とした。その1か月後の10月16日、駿河勢は北上、武田信虎は2千の兵で迎え撃ち、飯田河原で駿河勢を撃退した(飯田河原合戦)。</p>
<p>11月23日、駿河勢は再度攻勢に出て、飯田河原から2kmほど上条河原で信虎勢と激突した。信虎は駿河勢を撃破し大勝した(上条河原合戦)。</p>
<p>その時を想定した絵地図。</p>
</div>
<p>信虎の防衛ラインはおそらく、笛吹川と荒川だったと思う。笛吹川は甲斐の北東から南西に流れる暴れ川だった。荒川も名前の通りだったのではないかと思う。今よりも、河原は広かっただろう。</p>

飯田河原合戦と上条河原合戦の絵地図

作成日:2014/6/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

絵地図 飯田河原合戦 上条河原合戦 山梨県 中巨摩郡

【躑躅ヶ崎館付近の絵地図】<div>躑躅ヶ崎館は相川扇状地の谷に位置し、西側は北から南へ荒川、東側は北東から南西へ笛吹川が流れている。北には山の麓に積翠寺が、詰の城として要害山城がある。 <br>福島勢乱入の際(1521年)、武田信虎は身重の大井夫人を積翠寺に避難させ、大井夫人はその地でのちの武田信玄を生んだ。 この時を含め、結局、要害山城で戦闘が行われることはなかった。</div>

躑躅ヶ崎館付近の絵地図

作成日:2014/6/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

絵地図

<p>「飯田河原古戦場慰霊碑」付近から荒川左岸を撮影。</p>
<p>1521年、福島正成率いる駿河勢は1万5千ともいう大軍で甲斐に侵入したため、武田信虎は2千の兵で、ここ飯田河原で迎え撃った。寡兵にも関わらず、信虎は駿河勢を撃退した。</p>

作成日:2014/6/25 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

<p>釜無川にかかる橋の上から雲間の光をのぞむ。本物は遥かによかった。 <br>武田信虎や武田信玄も同じような空を見ただろう。</p>

作成日:2014/6/25 , by fuji3zpg 開く

【武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡】<p>椿城に行った時、看板に「武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡」という看板があった。私は椿城を、武田信虎の宿敵、大井信達の牙城と捉えていたので、ちょっとした衝撃があった。言い方一つで印象は変わるものだ。</p>
<p>信虎は大井信達と長きに渡った戦いのあとに和睦し、大井信達から信虎がめとったのが、大井夫人である。のちに、武田信玄の母親となる人だ。信虎は24歳、大井夫人は21歳だった。</p>

武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡

作成日:2014/6/25 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

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