西暦: 1473年 〜 1526年

父は駿河守護の今川義忠、母は北条早雲の姉の北川殿。正室は寿桂尼。今川義元は息子。幼名は龍王丸。父、義忠が遠江で戦死した後、すぐに今川家当主にはなれず、泉ヶ谷で、幼年期を過ごす。長享元年(1487年)、早雲の活躍により、小鹿範満を討ち、今川家当主となる。早雲の力も借りながら、永正14年(1518年)頃には遠江を攻略した。氏親の死の直前に、有名な分国法である「今川仮名目録」が制定された。

地域: 日本

今川氏親

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関連する歴史年表: 『北条龍虎伝』関連 | 明応地震と戦国時代 | 北条氏綱 | 武田信虎(歴史サイクリング in 甲斐) | 武田信虎 | 北条早雲


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グラフ: 「今川氏親」と同時代の人物

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グラフ: 「今川氏親」と同時代の出来事

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表: 「今川氏親」と同時代の人物

トスカネリ 1397年 〜 1482年 ヨーロッパ
一条兼良 1402年 〜 1481年 日本
山名宗全(持豊) 1404年 〜 1473年 日本
日親 1407年 〜 1488年 日本
太田道真 1411年 〜 1488年 日本
長尾景信 1413年 〜 1473年 日本
蓮如 1415年 〜 1499年 日本
雪舟 1420年 〜 1506年 日本
宗祇 1421年 〜 1502年 日本
村田珠光 1423年 〜 1502年 日本
細川勝元 1430年 〜 1473年 日本
上杉房定 1431年 〜 1494年 日本
メフメト2世 1432年 〜 1481年 地中海、西アジア
北条早雲(旧説) 1432年 〜 1519年 日本
太田道灌 1432年 〜 1486年 日本
斯波義敏 1433年 〜 1508年 日本
狩野正信 1434年 〜 1530年 日本
足利政知 1435年 〜 1491年 日本
足利義政 1436年 〜 1490年 日本
今川義忠 1436年 〜 1476年 日本
畠山義就 1437年 〜 1491年 日本
足利成氏 1438年 〜 1497年 日本
足利義視 1439年 〜 1491年 日本
日野富子 1440年 〜 1496年 日本
イヴァン3世 1440年 〜 1505年 ロシア
長尾景春 1443年 〜 1514年 日本
ボッティチェリ 1444年 〜 1514年 ヨーロッパ
上杉定正 1446年 〜 1494年 日本
武田信昌 1447年 〜 1505年 日本
宗長 1448年 〜 1532年 日本
バルトロメウ・ディアス 1450年 〜 1500年 ヨーロッパ
三浦道寸(義同) 1451年 〜 1516年 日本
イサベル(カスティリャ王女) 1451年 〜 1504年 ヨーロッパ
クリストファー・コロンブス 1451年 〜 1506年 ヨーロッパ
リチャード3世 1452年 〜 1485年 ヨーロッパ
レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452年 〜 1519年 ヨーロッパ
フェルナンド5世 1452年 〜 1516年 ヨーロッパ
上杉顕定 1454年 〜 1510年 日本
アメリゴ・ヴェスプッチ 1454年 〜 1512年 ヨーロッパ
ジョアン2世 1455年 〜 1495年 ヨーロッパ
富樫政親 1455年 〜 1488年 日本
北条早雲 1456年 〜 1519年 日本
ヘンリ7世 1457年 〜 1509年 ヨーロッパ
上杉房能 1458年 〜 1507年 日本
三好之長 1458年 〜 1520年 日本
尼子経久 1458年 〜 1541年 日本
長尾能景 1459年 〜 1506年 日本
カブラル 1460年 〜 1526年 ヨーロッパ
足利政氏 1462年 〜 1531年 日本
足利義尚 1465年 〜 1489年 日本
足利義材(義稙) 1466年 〜 1523年 日本
細川政元 1466年 〜 1507年 日本
上杉憲房 1467年 〜 1525年 日本
マキャベリ 1469年 〜 1527年 ヨーロッパ
ヴァスコ・ダ・ガマ 1469年 〜 1524年 ヨーロッパ
エラスムス 1469年 〜 1536年 ヨーロッパ
セリム1世 1470年 〜 1520年 地中海、西アジア
ピサロ 1470年 〜 1541年 ヨーロッパ
デューラー 1471年 〜 1528年 ヨーロッパ
武田信縄 1471年 〜 1507年 日本
王陽明(王守仁) 1472年 〜 1528年 東アジア
以天宗清 1472年 〜 1554年 日本
今川氏親 1473年 〜 1526年 日本
コペルニクス 1473年 〜 1543年 ヨーロッパ
上杉朝良 1473年 〜 1518年 日本
ラス・カサス 1474年 〜 1566年 ヨーロッパ
レオ10世 1475年 〜 1521年 ヨーロッパ
ミケランジェロ 1475年 〜 1564年 ヨーロッパ
大内義興 1477年 〜 1528年 日本
上杉定実 1478年 〜 1550年 日本
マゼラン(マガリャンイス) 1480年 〜 1521年 ヨーロッパ
足利義澄 1481年 〜 1511年 日本
マルティン・ルター 1483年 〜 1546年 ヨーロッパ
バーブル 1483年 〜 1530年 南アジア、東南アジア
細川高国 1484年 〜 1531年 日本
ツヴィングリ 1484年 〜 1531年 ヨーロッパ
足利高基 1485年 〜 1535年 日本
コルテス 1485年 〜 1547年 ヨーロッパ
イスマーイール1世 1487年 〜 1524年 地中海、西アジア
北条氏綱 1487年 〜 1541年 日本
上杉朝興 1488年 〜 1537年 日本
細川澄元 1489年 〜 1520年 日本
長尾為景 1489年 〜 1542年 日本
ミュンツァー 1490年 〜 1525年 ヨーロッパ
長野業正(長野業政) 1491年 〜 1561年 日本
ヘンリー8世 1491年 〜 1547年 ヨーロッパ
イグナティウス・ロヨラ 1491年 〜 1556年 ヨーロッパ
北条幻庵(長綱) 1493年 〜 1589年 日本
スレイマン1世 1494年 〜 1566年 地中海、西アジア
フランソワ1世 1494年 〜 1547年 ヨーロッパ
斎藤道三 1494年 〜 1556年 日本
武田信虎 1494年 〜 1574年 日本
六角定頼 1495年 〜 1552年 日本
太原雪斎 1496年 〜 1555年 日本
三浦義意 1496年 〜 1516年 日本
後奈良天皇 1496年 〜 1557年 日本
大井夫人 1497年 〜 1552年 日本
毛利元就 1497年 〜 1571年 日本
カール5世 1500年 〜 1558年 ヨーロッパ
李退渓 1501年 〜 1570年 東アジア
三好元長 1501年 〜 1532年 日本
武野紹鴎 1502年 〜 1555年 日本
武野紹鷗 1502年 〜 1555年 日本
雪村周継 1504年 〜 1589年 日本
フランシスコ・ザビエル 1506年 〜 1552年 ヨーロッパ
大内義隆 1507年 〜 1551年 日本
山科言継 1507年 〜 1579年 日本
足利晴氏 1508年 〜 1560年 日本
長尾晴景 1509年 〜 1553年 日本
カルヴァン 1509年 〜 1564年 ヨーロッパ
松永久秀 1510年 〜 1577年 日本
織田信秀 1511年 〜 1551年 日本
足利義晴 1511年 〜 1550年 日本
真田幸隆 1513年 〜 1574年 日本
今川氏輝 1513年 〜 1536年 日本
細川晴元 1514年 〜 1563年 日本
北条綱成 1515年 〜 1587年 日本
北条氏康 1515年 〜 1571年 日本
メアリ1世 1516年 〜 1558年 ヨーロッパ
正親町天皇 1517年 〜 1593年 日本
カトリーヌ・ド・メディシス 1519年 〜 1589年 ヨーロッパ
今川義元 1519年 〜 1560年 日本
今井宗久 1520年 〜 1593年 日本
武田信玄 1521年 〜 1573年 日本
陶晴賢 1521年 〜 1555年 日本
三好長慶 1522年 〜 1564年 日本
千利休 1522年 〜 1591年 日本
柴田勝家 1522年 〜 1583年 日本
上杉憲政 1523年 〜 1579年 日本
張居正 1525年 〜 1582年 東アジア
上杉朝定 1525年 〜 1546年 日本
長尾政景 1526年 〜 1564年 日本
松平広忠 1526年 〜 1549年 日本
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表: 「今川氏親」と同時代の出来事

コンスタンティノープル、陥落 1453年 地中海、西アジア
享徳の乱はじまる(~1482年) 1454年 〜 1482年 日本
バラ戦争 1455年 〜 1485年 ヨーロッパ
分倍河原の戦い(享徳4年) 1455年 日本
太田道灌、江戸城を築城 1457年 日本
コシャマインの戦い 1457年 日本
寛正の大飢饉 1461年 日本
武田信昌、甲斐守護代の跡部氏を滅ぼす 1465年 日本
応仁の乱はじまる 1467年 〜 1477年 日本
駿河守護の今川義忠戦死で、今川家の家督相続問題発生 1476年 日本
長尾景春の乱はじまる 1476年 〜 1480年 日本
応仁の乱おわる 1477年 日本
スペイン王国(イスパニア王国)、成立 1479年 〜 1873年 ヨーロッパ
チューダー朝 1485年 〜 1603年 ヨーロッパ
山城の国一揆 1485年 日本
太田道灌が主の扇谷上杉定正に謀殺される 1486年 日本
北条氏綱(北条2代目)、出生 1487年 日本
北条早雲、小鹿範満を討って、今川氏親を擁立 1487年 日本
長享の乱がはじまる(~1505年) 1487年 〜 1505年 日本
ヘンリ7世、星室庁裁判所を設立 1487年 ヨーロッパ
加賀の一向一揆 1488年 日本
関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)勃発 1488年 日本
バルトロメウ・ディアス(ポルトガル)、喜望峰に到達 1488年 ヨーロッパ
グラナダ陥落 1492年 ヨーロッパ
甲斐守護の武田信縄と武田信昌(信縄の父)・油川信恵(信縄の異母弟)の戦いが始まり、甲斐内乱、 1492年 〜 1498年 日本
コロンブス、サン・サルバドル島に上陸 1492年 北アメリカ
イタリア戦争 1492年 〜 1559年 ヨーロッパ
北条早雲、伊豆に討ち入る 1493年 日本
明応の政変が起こり、細川政元政権が成立する 1493年 日本
三浦義同(道寸)、三浦郡に進攻し、三浦氏当主に 1494年 日本
トルデシリャス条約 1494年 ヨーロッパ
大森氏頼(寄栖庵)、死去 1494年 日本
扇谷上杉定正、荒川渡河に失敗して頓死 1494年 日本
北条早雲、小田原城を奪取 1495年 日本
山内上杉顕定、相模に進攻。小田原城の大森氏、山内上杉側に寝返り、小田原城は自落。 1496年 日本
蓮如、石山本願寺を築く 1496年 日本
明応地震 1498年 日本
茶々丸、甲斐国で死亡(下田の深根城での討死説もある)→北条早雲、伊豆一国を制圧 1498年 日本
ヴァスコ=ダ=ガマ、インド航路発見(カリカット到着) 1498年 ヨーロッパ
カブラル(ポルトガル人)、ブラジルに漂着。ブラジルの領有を宣言。 1500年 ヨーロッパ
サファヴィー朝、成立 1501年 〜 1736年 地中海、西アジア
北条早雲、1501年までに小田原城を奪取(新説) 1501年 日本
北条早雲と今川氏親、扇谷上杉朝良の援軍として、立河原の合戦に参戦し、山内上杉顕定勢と戦い勝利する。 1504年 日本
扇谷上杉朝良、山内上杉顕定に降り、長享の乱が終わる 1505年 日本
越後守護の上杉房能(山内上杉顕定の実弟)、越後守護代の長尾為景に敗れて自害 1507年 日本
細川政元、暗殺される 1507年 日本
武田信虎、父の信縄が死去し、甲斐の家督を相続 1507年 日本
武田信虎、叔父の油川信恵を滅ぼす 1508年 日本
大内義興、上京し、細川高国と足利義稙(10代将軍、義材)を将軍に擁立 1508年 日本
北条早雲、武蔵(扇谷上杉朝良の領国)に進攻し、両上杉氏と敵対関係に入る 1509年 日本
山内上杉顕定、長尾為景を討つため、越後に進攻 1509年 日本
山内上杉顕定、長森原(新潟県六日町)で討ち死 1510年 日本
ポルトガル、ゴアを占領 1510年 南アジア、東南アジア
三浦の乱 1510年 日本
北条早雲、三浦勢と鎌倉で戦い破る→三浦勢は新井城に立て籠もる 1513年 日本
チャルディラーンの戦い 1514年 地中海、西アジア
武田信虎、大井信達と戦い、敗北 1515年 日本
北条氏康(北条3代目)、出生 1515年 日本
北条早雲、三浦氏を滅亡させ、相模制圧完了 1516年 日本
マキャベリ、『君主論』著す 1516年 ヨーロッパ
ポルトガル、明と広州で貿易をはじめる 1517年 東アジア
セリム1世(オスマン帝国)、マムルーク朝を滅ぼす 1517年 地中海、西アジア
ルター、九十五か条の論題を発表し、宗教改革はじまる 1517年 ヨーロッパ
今川氏親、遠江を制圧 1517年 日本
大内義興、京を去って帰国する 1518年 日本
北条氏綱、北条早雲から家督相続(以降、小田原城が北条市の本拠地となる) 1518年 日本
北条早雲、死去 1519年 日本
武田信虎、躑躅ヶ崎館に本拠地を移転 1519年 日本
マゼラン、世界周航に出発 1519年 〜 1522年 ヨーロッパ
武田信虎、甲斐の有力国人(大井信達ら)を撃破し、一応の甲斐統一(その後も混乱は続く) 1520年 日本
スレイマン1世、即位 1520年 〜 1566年 地中海、西アジア
細川高国、足利義晴(義澄の子)を擁立 1521年 日本
ルター、『新約聖書』をドイツ語に翻訳 1521年 〜 1522年 ヨーロッパ
マゼラン、フィリピンに到達 1521年 ヨーロッパ
武田信玄(幼名、太郎)、出生。 1521年 日本
武田信虎、今川の重臣、福島氏の大軍を飯田河原の戦い、上条河原の戦いで撃破 1521年 日本
コルテス、アステカ王国を滅ぼす 1521年 中南米
騎士戦争 1522年 ヨーロッパ
マゼラン艦隊、世界周航(マゼランはフィリピンで死亡) 1522年 ヨーロッパ
北条氏綱、伊勢氏から北条氏に改称 1523年 日本
寧波の乱 1523年 日本
毛利元就、家督を継承する 1523年 日本
武田信虎、扇谷上杉朝興の援軍として、関東を転戦(この時、岩付城を攻略) 1524年 日本
北条氏綱、太田資高の内応を誘い、江戸城を奪う 1524年 日本
ドイツ農民戦争 1524年 〜 1525年 ヨーロッパ
北条氏綱、白子原の戦いで扇谷上杉朝興に敗れる 1525年 日本
鎌倉の鶴岡八幡宮焼失 1526年 日本
『今川仮名目録』制定 1526年 日本
石見銀山発見 1526年 日本
ムガル帝国建国 1526年 南アジア、東南アジア
細川高国政権、崩壊 1526年 日本
パーニーパットの戦い 1526年 南アジア、東南アジア
バーブル、即位(ムガル帝国を建国) 1526年 〜 1530年 南アジア、東南アジア
スレイマン1世(オスマン帝国)、ウィーン包囲(第一次ウィーン包囲) 1529年 ヨーロッパ
小沢原の戦い 1530年 日本
武田信虎、扇谷上杉朝興の斡旋で、前関東管領の山内上杉憲房の未亡人を側室に迎える 1530年 日本
細川高国、天王寺の戦いに敗れて自害 1531年 日本
一条鞭法、施行 1531年 東アジア
上杉憲政、上杉憲寛を追放して、山内上杉氏の当主になる 1531年 日本
トゥングー朝、成立(ミャンマー) 1531年 〜 1752年 南アジア、東南アジア
武田信虎に対して、飯富虎昌、栗原兵庫、今井信元らが反乱を起こすが、信虎に撃破され、翌年、鎮圧される。信虎、甲斐統一完了。 1531年 〜 1532年 日本
鶴岡八幡宮の造営始まる 1532年 日本
法華一揆 1532年 日本
ピサロ、インカ帝国を滅ぼす 1533年 中南米
武田信虎の嫡男、武田太郎(武田信玄)、扇谷上杉朝興の娘を娶る 1533年 日本
ヘンリ8世、首長法を発布(イギリス国教会成立) 1534年 ヨーロッパ
イエズス会、結成 1534年 ヨーロッパ
北条氏綱、今川氏輝の要請で、武田信虎勢と甲斐の郡内山中で戦う 1535年 日本
スレイマン1世、仏にカピチュレーションを認める 1535年 地中海、西アジア
長尾為景、長男の長尾晴景に家督を譲る 1536年 日本
伊達稙宗、『塵芥集』を定める 1536年 日本
駿河守護の今川氏輝死去。今川氏で内乱が勃発し(花倉の乱)で、今川義元が勝者になる 1536年 日本
天文法華の乱 1536年 日本
(武田信玄)元服し、武田晴信と名乗る 1536年 日本
武田信虎の娘が今川義元に嫁ぎ、甲駿同盟が成立 1537年 日本
河東一乱 1537年 日本
7月、北条氏綱、扇谷上杉氏の本拠、河越城を奪う 1537年 日本
扇谷上杉朝興死去。家督は朝定が継ぐ 1537年 日本
北条氏綱、松戸台で小弓公方の足利義明勢と戦う(第1次国府台合戦) 1538年 日本
プレヴェザの海戦 1538年 地中海、西アジア
北条氏綱、娘を古河公方、足利晴氏の正室とする。その結果、北条氏は足利家の「ご一家」となる 1539年 日本
鶴岡八幡宮の正殿遷宮(落成式)が行われる 1540年 日本
カルヴァン、ジュネーブ(スイス)で宗教改革(神政政治)をはじめる 1541年 ヨーロッパ
北条氏綱、死去 1541年 日本
武田晴信(のちの信玄)、父の信虎を駿河に追放し、家督を手に入れる 1541年 日本
斎藤利政(道三)、美濃を押領する 1542年 日本
生野銀山、発見 1542年 日本
鉄砲伝来 1543年 日本
ポトシ銀山、発見 1545年 中南米
トリエント公会議 1545年 〜 1563年 ヨーロッパ
北条氏康、河越夜戦で、古河公方(足利晴氏)、山内上杉氏(上杉憲政)、扇谷上杉氏(上杉朝定)連合軍を撃破 1546年 日本
シュマルカルデン戦争 1546年 〜 1547年 ヨーロッパ
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「今川氏親」の関連ノート

【その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー】<h3>信虎、窮地を脱し、大井信達と和睦</h3>
<p>永正12年(1515年)、大井信達との戦いに敗れ、武田信虎は滅亡の危機に瀕したが、2年後、郡内方面で勢力挽回した。その結果、今川氏親は連歌師、宗長(氏親の外交官でもあった)を仲介者として、信虎と接触し、永正14年(1517年)、信虎は大井信達と和睦した。</p>
<p>信虎としては、7年前に妹を小山田氏の当主に輿入れさせ、懐柔した甲斐があったとほくそ笑んでいたことだろう。</p>
<h3>宗長回想</h3>
<p>宗長、この人を覚えているだろうか。</p>
<p>宗長は北条早雲が今川氏親を擁立しようとした時に(氏親の父、今川義忠が遠江で戦死して今川家の家督継承問題が起こった文明8年(1476年))、小川の長者、長谷川法永と共に氏親・早雲の味方として動いた人物である。この時、宗長は29歳だったが、今は高齢で、70歳になっていた(しかし、彼の寿命はまだ15年残っていた)。 <br>当時、連歌師は他国の大名や要人と直に会えるため、外交官の役割も果たしていた。のちには、茶人がこの役割を果たす。</p>
<h3>大井信達の娘、大井夫人</h3>
<p>この和睦時に、大井信達から信虎がめとったのが、大井夫人である。のちに、武田信玄の母親となる人だ。信虎は24歳、大井夫人は21歳だった。 <br>信虎にとっては、自分を散々苦しめた大井信達の娘を正室として、めとることになるわけだ。生まれてきた子は、大井信達の孫となる。</p>
<p>余談だが、椿城に行った時、看板に「武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡」という看板があった。私は椿城を、信虎の宿敵、大井信達の牙城と捉えていたので、ちょっとした衝撃があった。言い方一つで印象は変わるものだ。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城を目指して歩いている時に目にした看板。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>信虎、本拠地を躑躅ヶ崎館に移る</h3>
<p>大井信達との和睦から2年後、信虎は祖父の信昌以来の甲斐守護の拠点だった、川田館から躑躅ヶ崎館を建設して移った。</p>
<p>信虎はいまだ各地に割拠する国人たちにも躑躅ヶ崎の城下町への集住を命じたので、反発をくらった。この政策も戦国大名に脱皮しようする信虎の意思を反映したものだった。 <br>分権を望む大井、今井、栗原などの有力国人は反乱を起こしたが、永正17年(1520年)、信虎は反乱軍を撃破して、一応の甲斐統一を成し遂げた。この時、信虎は27歳となっていた。</p>
<h3>駿河から大軍、来襲</h3>
<p>翌年、永正から大永と改元された。思えば、永正4年に14歳で家督を相続してから信虎は甲斐統一のため、常に体を張って戦ってきた。紙一重の生死の狭間をすり抜け、その武略と努力と幸運の結果が一応の甲斐統一だった。しかし、まだ信虎の危機は終わらない、といより最大の危機が迫っていた。</p>
<p>大永元年2月、駿河から福島勢が甲斐に乱入してきたのである(*)。 <br>8月の河内(南巨摩郡)の合戦では勝利したものの、9月には駿河の福島勢が大挙して押し寄せてきた。その数、1万5千とも言われる(実際のところ、人数はよく分からない)。それに対して、統一から日が浅い信虎勢は足並みが揃わず、2千ぐらいだったという。とにかく、信虎にとって、圧倒的に不利な戦いであったことは間違いないだろう。</p>
<div><em>(*)かつては、今川氏親が派遣した軍といわれていたが、最近では、氏親の命令ではないという説が有力視されている。いずれにしても、駿河方面から福島氏の軍勢が攻めてきたことは史実である。</em></div>
<p>信虎は同月に大島(南巨摩郡身延町大島)で福島勢と戦ったが、敗北した。福島勢はそのまま北上し、9月16日に大井氏の属城、富田城を落とした。</p>
<h3>富田城を北上、稲作地帯をゆく</h3>
<p>私は富田城を出て北上した。目的地は絵地図にある荒川湖畔の古戦場である。 <br>釜無川を渡ってからは平地が続く。稲作地帯である。かつては、この辺を釜無川の本流、支流、細流が流れていたらしい。とにかく、洪水地帯であったようで、現代のように稲作ができるのはまったくもって、信玄以来の治水事業のおかげだろう。</p>
<p>このシリーズの中で何度か書いているように、甲府盆地は思ったより広い。また、きつくはないが、緩い傾斜の上り坂になっているので、富田城を出てから古戦場に行くまでに、案外時間がかかってしまった。1時間ちょっとぐらいは走ったと思う。途中、雲間から光が指す光景は神々しかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>釜無川にかかる橋の上から雲間の光をのぞむ。本物は遥かによかった。 <br>信虎も同じような空を見ただろう。</div>
<div> </div>
<p>甲府盆地を走っていて、いくつか気づいたことがある。その内を1つをここで紹介したい。 <br>それは適当に走っても、方向が合っていたら、目的地に行けるということだ。当たり前だと思われるかもしれないが、案外そうではない。関東平野で同じ事をやると、途中で行き止まりになっていたり、全然違う方向に流されてしうことは少なくない。特に、自宅がある調布はひどく、iPhoneのGPS機能を使わなかったら、帰れないことがいくらでもあった。まるで、リアル迷路だ。 <br>まあ、それはいいとして、甲府盆地は山の形と太陽の位置を頭に入れておくと、まず方向を失うことはない。したがって、細い道でもどんどん入っていけた。こういう地域はありそうでない。生活者の意見が尊重されている地域なのかもしれないと土地不案内者ながら思った。</p>
<h3>福島勢迫り、信虎、懐妊中の大井夫人を積翠寺へ避難させる</h3>
<p>釜無川下流を押さえられ、危機感を募らせた信虎は、身重の妻、大井夫人を躑躅ヶ崎館の北方の山麓にある積翠寺に移す。そして、28歳の信虎は福島勢と戦うべく、躑躅ヶ崎館を出陣した。14年間も戦ってきた結果が、このザマである。信虎は苦々しく思っただろう。</p>
<h3>福島勢の動き</h3>
<p>さて、福島勢である。この時の福島勢の動きが遅い。妙である。 <br>富田城を落として、1ヶ月もの間、福島勢は攻めて来なかったのである。</p>
<p>なぜこれほど動きが緩慢だったのだろうか。大軍を維持するのは大変である。 <br>例えば、1万人の水・食糧・寝床・武器・排泄物の処理など、滞りなく行うようにと読者が命令されたとする。想像しただけで大変な仕事なのは明らかである。1万人を養うには相当の計画性と物資とカネが必要だ。これらが行われないとたちまち不満の声が満ち、戦力は落ち、疫病が蔓延したりする。下手をすると、戦う前に軍が崩壊したり、不満が自軍の首脳に向くこともありうる。</p>
<h3>信虎の防衛ライン</h3>
<p>信虎の防衛ラインはおそらく、笛吹川と荒川だったと思う。笛吹川は甲斐の北東から南西に流れる暴れ川だった。荒川も名前の通りだったのではないかと思う。今よりも、河原は広かっただろう。</p>
<p><a><img></a></p>
<div> <em>2日目の14時頃に、富田城を出て、稲作地帯を抜け、荒川に向かった。もしかしたら、福島勢も同じような経路で戦場に向かったかもしれない。 黄色が自転車で走った経路。</em>
</div>
<p>福島勢の動きは鈍い。その理由として、内部でまとまりを欠いていたのではないかという指摘がある。 <br>もう1つは当時は治水技術が発達していなかったので、一度大雨が降ると、川を渡れなくなる。仮に福島勢が荒川・笛吹川を越えて、躑躅ヶ崎館を襲ったとしよう。たとえ躑躅ヶ崎館を即座に落としても、詰の城の要害山城はすぐには落とせない可能性がある。 <br>その間に、大雨が降り、補給ラインが途絶えたところを、信虎が全力で反撃してくる。この状態で敗れたら大変である。下手をすると、全滅する可能性すらある。何せ後ろが洪水地帯だと自動的に背水の陣状態になるのである。それを恐れた福島勢首脳は、荒川・笛吹川流域に住む百姓に尋問して、洪水についての情報を集めていたのではないかと話が書いてあった(**)。</p>
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<em>(**)洪水説は</em><em><em>武田八洲満『信 虎』</em>に出てくる。 武田信虎の数少ない歴史小説の1つ。ちょっと信虎を弱く書きすぎている感はあるが、労作であることは間違いない。</em>
</div>
<h3>両軍、激闘!飯田河原合戦</h3>
<p>理由はよくわからないが、富田城が陥落してから1ヶ月後、ようやく、福島勢は荒川の左岸にやってきた。 <br>場所は飯田河原であったという。飯田河原古戦場の石碑が立っている場所から躑躅ヶ崎館まで直線距離で3kmである。駅でいえば、甲府駅と竜王駅の間にある。</p>
<p>高校時代、私は高校まで10kmの距離を通っていた。自転車で約30分だった。つまり、3kmというのは自転車で10分ちょっとで行けてしまう距離である。騎馬で疾走すれば、もっと早く着くだろう。 <br>地図で飯田河原古戦場をはじめて調べた時、躑躅ヶ崎館との距離の近さに驚いた。これなら、身重の妻を山麓に避難させるのは当然だ。10分で妊婦が避難できるわけがない。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場付近から荒川左岸をのぞむ。 </em><br><em>対岸にいる雲霞の如き大軍が信虎の首を狙っているのである。いくら強気の信虎でもゾッとしただろう。</em>
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<p>この戦いが飯田河原合戦で、信虎勢は数には劣るものの、よく戦い、敵を100余人討ちとって、荒川の西側に福島勢を押し返した。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場の石碑 </em><br><em>この辺は人の往来が多く、信虎勢と福島勢が戦った跡はいささかも感じられなかった。黙祷を捧げて、古戦場をあとにした。</em>
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<h3>信虎、嫡男誕生!</h3>
<p>その後、福島勢は、一旦、曽根の勝山城まで退去した。だが、むろん、これですべてが終わったわけではなく、次の戦いへの準備期間であるに過ぎない。</p>
<p>再び、両軍の斥候や前衛が荒川を挟んで睨み合っただろう。この睨み合いの最中に誕生したのが武田太郎、のちの武田信玄である。11月3日のことであった。当主の男児誕生に信虎勢の士気はあがった。</p>
<h3>人生のテーマ</h3>
<p>読者は人生にテーマをお持ちだろうか。持っている人も持っていない人もいると思う。</p>
<p>現代日本では、一部の例外を除いて、ある程度は自分の人生を自分で決めることができる。私も自分の人生を自分で決めてきた。歴史的に見ると、こういった状態は幸運だと言えると思う。 <br>現代日本の住人と異なり、武田信虎は好きで、甲斐守護になったのではない。門閥貴族というのはそういうもので、父親が隠居か死亡すれば、自動的に子が当主になる。つまり、地位を継ぐ基準は血の濃さだった。武田家も同じで、甲斐守護家の直系に生まれない限り、正規ルートで甲斐守護にはなれない。信虎は、甲斐守護の父、信縄が死去したので、甲斐守護になった。</p>
<p>信虎がここまで14年間も戦ってきたのは彼の好みというよりも、有無をいわさず、立場上、課せられたテーマを果たしたまでである。そのテーマとは甲斐の統一である。このテーマを果たせなければ、滅亡するか、甲斐を逃げ出す以外に道はない。</p>
<p>課せられたテーマを果たすことは、自分で選んだテーマを果たすことよりも低級だということはないと思う。要は、その人が諸々の制約の中で人生のテーマと如何に関わったかこそが問われるのだと私は思う。その点、信虎は確かに課せられたテーマを自分のテーマとして真正面から捉え、戦い抜いた男だと思う。</p>
<h3>信虎の「その時」、上条河原合戦</h3>
<p>飯田河原古戦場の2kmほど上流に上条というところがある。ここで最終決戦が行われた。信虎のテーマが成就するか、敗れ去るか、この戦いにかかっていた。人生の決定的な瞬間、つまり、「その時」であったといえる。 上条で荒川を渡ったら、指呼の間に躑躅ヶ崎館がある。信虎としては荒川の防衛ラインを破られるわけにはいかない。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>上条河原合戦古戦場付近。なぜか石碑などはないらしい。飯田河原合戦も重要だが、上条河原合戦のほうが決定的戦いだと思うので、残念に思った。<br>飯田河原古戦場から2kmほど上流の上条で戦いがあったという。地図を見ると、秩父往還がここを通っている。信虎はこの道を通って、上条河原にやってきたのかもしれない。</div>
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<p>信玄出生から20日後の11月23日、再び、戦雲が甲斐を覆う。 <br>旧暦は現在の暦でいうと、1ヶ月ほど進めた時期だと考えてもらいたい。つまり、現在でいうと、1月ぐらいの寒さの中での戦いだった。しかも、ここは温暖な駿河ではなく、標高の高い甲府盆地だ。もし福島勢が荒川を渡河したとしたら、荒川の水の冷たさはこたえただろう。</p>
<p>この日、福島勢と信虎勢は上条河原で激突する。信虎勢は福島氏の大軍を相手に奮戦した。信虎の家臣たちも負ければ、福島勢に殺されるか、生き残っても従属させられ、以後、一番危険な戦場に送られることになる。それに対して、福島勢には遠征の飽きと疲れもあったことだろう。</p>
<p>まさに信虎の「その時」がはじまろうとしている。 <br>20日前に生まれた新しい命のためにも、信虎は奮い立ったかもしれない。信虎を含め、戦う前に両軍の武者たちの胸中には様々な思いが去来したことだろう。それらを心の支えにして、戦いははじまった。。。</p>
<p>この上条河原合戦で、信虎勢は福島勢を大敗させ、福島勢の大将たちを軒並み討ちとった。福島勢は崩壊して、南に潰走し、曽根の勝山城に逃げ込んだ。福島勢は600人もの死者を出したともいわれている。</p>
<h3>信虎の「その時」</h3>
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<h3>統一成る</h3>
<p>結果は信虎の完勝だった。翌年1月14日、曽根の勝山城に籠っていた福島勢は降伏し、生き残った福島勢は駿河に退去した。苛烈な状況を切り抜け、甲斐を統一し、外敵を駆逐した若き守護に家臣はもちろん、領民も希望を見出しただろう。 今川、北条との戦いはまだまだ続くが、ここに信虎は甲斐統一に成功した。国内の国人勢力を一掃するのになお10年を要したが、もはや以前のように苦戦していない。 信虎は統一によって膨らんだ国力を使って、関東への介入、信濃への侵略を行なっていくことになる。これらの戦いが次の時代を準備した。 </p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

飯田河原の戦い 上条河原の戦い 山梨県 甲斐市

【その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー】<h2>竜王の信玄堤へ</h2>
<p>翌朝、昭和インター近くのホテルを出て北上し、竜王の信玄堤へ向かった。</p>
<p>名前の通り、信玄堤は武田信玄が作らせたという堤防で(むろん、信玄以来の堤防と考えるべきだろう)、私はこの堤防を見てみたかった。 <br>武田信虎というテーマとは一見外れるが、結局のところ、信虎が追放されたのは信虎の人格が異常だったというよりは治水をはじめ、内政に失敗して、有力国人や家臣の支持を失ったのが主因だと私は考えている。 <br>したがって、この堤防は、親父の失敗を息子が片付けた例として考えることもでき、信虎と信玄堤は無関係ではない。</p>
<p>さて、天気予報ではこの日は曇のち晴だったが、釜無川に着いた頃、小雨が降っていた。しかし、しばらくするとあがり、薄日が差した。この日は終日、このパターンの繰り返しだった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曇天の釜無川。 </em><br><em>写真は北の八ヶ岳の方向を写している。ボンヤリと山が見えるだけで、圧迫感は感じなかった。</em>
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<h3>絵地図</h3>
<p><a><img></a></p>
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<em>今回出てくる地形、地名、勢力などの絵地図。 </em><br><em>黄色が自転車で走った経路。</em>
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<p>これが噂の聖牛である。 なかなか大きいものだった。これなら急流にも効果が期待できそうだ。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>写真では所詮伝わらないと思うので、ぜひ、本物をご覧あれ!</em>
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<p>聖牛に草が絡まっているが、これを放置しておくと水圧が増し、腐敗の原因にもなるので、当時は堤防を管理していた人々がいちいちとっていたのではないかと推測する。</p>
<p>現在の聖牛は石が針金で固定されているが、当時はこんなものはあるはずがない。 <br>案内板をみると、当時は竹で固定していたそうだ。竹は強く柔軟性があり、生活道具からはじまって武器にもなる。近代以前の世界では万能素材としての地位を確立していた。したがって、竹で固定しているのはやはりという感じだったが、実際のところ、維持管理するのは大変だったと思う。 <br>何せ前日雨が降っていないにもかかわらず、流れが速い。もし台風並みの雨が降ったら、大変なことになるなと思った。それを竹で水流を受け止めるのだから、容易なことではなかっただろう。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>2011年9月撮影: </em></div>
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<em>石が竹で固定されている聖牛。昔の聖牛はこうだったらしい。 </em><br><em>聖牛の木同士を固定しているのは針金ではないかというツッコミは入れないようにしたい。</em>
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<p>甲州流治水法というのは、急流と急流をぶつけて、勢力を弱めるという思想でできている。コンクリートで両岸を固めて、水路を真っ直ぐ作る近代の治水法とは随分違うが、合理的な方法だと思う。</p>
<p>信玄以前、北の八ヶ岳の方から流れてくる釜無川と西の南アルプスから流れてくる御勅使川(みだいがわ)が合流するこの辺(信玄堤のある竜王周辺)は氾濫が頻発していた地帯で、その都度、被害が出ていた。付近の住民は弱り果てていただろう。津波に限らず、大量の水は恐ろしい。</p>
<p>そこで、信玄はこの2つの急流をぶつけることで水勢を弱めるという策を採った。具体的には、御勅使川の流路を変えて、釜無川にぶつけるための大治水事業を行い、信玄堤を作り上げた。おそらく、かつて、こういう方法を考えた人はいただろうが、実行できる者はいなかった。それを信玄は成し遂げた。ゆえに信玄は偉いのである。 <br>だが、その権力はどこから来たのだろうか。他でもない、信虎が人生を賭けて戦い、築いたものである。もし信虎が戦いに負けていたら、信玄は甲斐守護にすらなれなかっただろう。</p>
<p>信玄堤のことは本や映像で事前に調べているので、知っていることばかりではあったが、実際にみると、やはり分かる度合いがまったく違う。まさに腑に落ちた感じだった。</p>
<h3>守護大名から戦国大名へ</h3>
<p>話を信虎に戻そう。少年信虎は永正5年(1508年)に叔父の油川信恵を滅ぼしたあと、油川信恵派の郡内の小山田氏を圧迫、永正7年(1510年)には実質的に降伏させた。そして、信虎は妹を小山田氏の新当主に輿入れさせた。生まれてきた子は信虎の甥になる。 <br>少年の成長は早い。若武者へと変貌した信虎はこれら一連の戦いで武田家内部の争いに終止符を打ったが、これで甲斐統一が完成したわけではなかった。</p>
<p>江戸時代、武士は城下町に住むサラリーマンだったが、中世の武士は土着の領主だった。つまり、ある領内に権力地盤を有しており、守護から独立性が高く、各地に城を築いて蟠踞していた。甲斐も同様で、甲斐国内に、大井氏、今井氏、栗原氏、穴山氏などの有力国人がいて、彼らがどう動くかは彼ら自身が決めており、守護に彼らを自由に制御することはできなかった。 <br>守護家もまた領主であり、違いは守護という権威があった点だけである。この中世システムから脱却したのが、北条や今川であり、彼らは戦国大名の魁であった。戦国大名は各地の領主を排して、領内の一元的に支配し、農村を直接支配した。遅れはしたが、信虎も守護大名(中世システム)から戦国大名(近世システム)に移行しようとした。これが信虎と有力国人との軋轢の本質的な原因である。 <br>分権的な割拠状態をよしとする国人勢力にとって、信虎が力で甲斐を統一し、自分たちを自由に制御しようとする路線は守護による横暴、または、言語道断な独裁者と映ったことは想像に難くない。ゆえに抵抗は激しい。</p>
<h3>青年信虎、大井信達の館を攻める</h3>
<p>甲府盆地の西側に大井氏という武田の支流の勢力があり、当時の当主は大井信達だった。この大井氏が有力国人の代表格である。信虎としては、戦国大名として脱皮して、甲斐を統一するためにどうしてもこういった国人勢力を排する必要があった。 <br>大井信達は今川家と手を結び、甲斐守護の信虎に対抗した。国内の敵対勢力が他国の大名を国内に引き込むという例は枚挙にいとまがない。甲斐国内でも、北条と結ぶ小山田氏、信濃の諏訪氏と結ぶ今井氏があり、信虎にとっては国内問題と国外問題は連動していた。</p>
<p>当時、今川家の当主は今川氏親(義元の父)で、駿河に加え、遠江の領有も目前だった。いまだ甲斐一国の統一もままならない信虎にとって、今川氏親は最大の脅威だった。なお、今川氏親は伯父の北条早雲(伊勢宗瑞)に擁立されているので、今川と北条は強固な同盟関係にあった。 <br>ただ、信虎にとって幸いだったのが、今川は西の京へ、北条は東の相模(関東)へ向かう戦略を持っていたため、本格的な攻略の対象となることはなかったということである。</p>
<p>大井、今井といった各氏を抑え、甲斐を統一しなければ、他国の侵略を受けることは信濃が証明している。永正12年(1515年)、今川氏親と結ぶ有力国人、大井信達は蜂起した。そのため、23歳となった青年信虎は大井信達の館を攻めた。しかし、油川信恵を倒した時のようにはいかず、重臣を多数失うほどの敗北を喫っした。 <br>その後、大井信達と今川勢に圧迫された信虎は、一時、塩山の恵林寺に逃走するほどの窮地に追い込まれた。この間、今川勢が利用したのが、曽根の勝山城だった。南からの勢力が居座るにはちょうどいい城だったのだろう。</p>
<h3>年表: その時、彼らは何歳だったのか?</h3>
<div> </div>
<h3>大井信達の居城、椿城(上野城)</h3>
<p>大井信達の居城は甲府盆地の西麓の上野にあったという。地名をとって、上野城、椿が多かったため、椿城ともいった。南アルプスから伸びた台地の一つが上野で、北と南には深い渓谷があり、東側は急斜面になっている。</p>
<p>竜王から釜無川を渡り、南西に走る。ここでも果樹栽培が盛んだ。おそらく、この辺は高地だったため、水害は比較的軽微だったのではないかと思う。椿城の麓につくと、風化して見えないような案内板が「椿城跡」の方向を教えてくれる。<br> 最初は、立ちこぎして頑張っていたが、延々と上り坂が続くので、すぐに諦めて、押して歩いた。坂はかなり角度をあり、燦々と照りつける太陽が暑い。15分ぐらい歩いただろうか。ようやく、椿城跡を発見した。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城付近から甲府盆地をのぞむ。 </em><br><em>街がずいぶん小さく見える。結構歩いた。まったくご苦労なことである。</em>
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<p>椿城跡には現在、という日蓮宗の本重寺が建っているが、どうもおかしい。城を建てるなら、もうちょっと西側の台地の先端ではないか。しかも、先端はここよりも高地にある。 私は西側も探検することにした。自転車を寺に置き、果樹園を抜けて、歩く、さらに歩く。結構、広い。ある程度歩いて振り返ったら、思った通り、寺が下に見える。おかしいなと思いつつ、寺に戻った。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>椿城の東の台地から本重寺をのぞむ。手前から2本目の電信柱の奥に朱色の屋根が小さく見えるが、あれが本重寺である。かなり、<br>下に見える。 背後の山が南アルプス。雄大だった。</div>
<div> </div>
<h3>本重寺のお年寄り</h3>
<p>本重寺の縁側にお年寄りが腰をおろしている。 <br>どうもこの寺の方にみたいだったので、話しかけてみた。</p>
<p>「お寺の方ですか?」 <br>「はい」 <br>「ここが椿城跡なんですよね」私は当然のことを聞いた。 <br>「そうですが、城自体はもっと東側にありました。ここは大井氏の館跡と言われています。大井氏が滅びたあと、この寺が移されたんです」 <br>「そうなんですか。やはり、城は東側にあったんですね」私はうれしそうに言った。</p>
<p>話を聞いていると、この寺のご住職だった。 <br>このご住職がこの寺に来られたのは4年前で、それ以来、いろいろ資料を集めて、上野の案内状を作成されたそうで、その案内状を私も一部頂いた。ご住職の話によると、寺の庫裏から東側の城まで抜け道があったらしい。城の抜け道伝説はよくあるが、こういった館にもあったとは初耳で興奮した。 しかし、2ヶ所ほど、途中の畑で抜け道が陥没して、現在は通行不能だのことだった。</p>
<p>ご住職との話は興味深かったが、途中で女性がやってきてご住職に何か用事があることを告げた。 私はご住職にお礼を言って、お寺をあとにした。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>本重寺の縁側に腰掛けて、資料などを見せてもらっていた。晴れていたらこの縁側から富士山が見えるという話を伺ったので、1枚撮ってみた。作品名「幻の富士」といったところか。</em>
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<h3>信虎が敗北したのは実は富田城?</h3>
<p>信虎が大井信達を攻めた城は椿城ではなく、椿城より低地の富田城だという説がある。 <br>なぜかというと、信虎勢は城の深田に足をとられて敗れたらしいからだ。椿城にはそういう地形ではなく、大井氏の勢力下にあった富田城であれば滝沢川のほとりにあり、深田があって当然というわけである。 <br>どちらが正しいか私には分からないが、富田城が沼田に囲まれていたのは想像に難くない。一方で、椿城は台地上にあったため、田はなかったという話には納得できない。というのは、田は棚田があればできる(段々畑の田んぼ版をイメージしてもらいたい)。現在も椿城に行く途中、棚田が少なからずあった。 <br>ただ、棚田の田んぼに足をとられて大敗というのは確かに妙な話ではある。</p>
<p>富田城は笛吹川の近く、椿城から見ると、南東の低地にある。 <br>いまの甲西工場団地の中にあったという。ゆえに、中には入れない。 <br>近くをグルグル巡っただけで終わったが、南からの交通をおさえるにはいいところだと思った。椿城が政治の城なら、富田城は経済の城だったのかもしれないなどと空想してみた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>滝沢川の橋の上から富田城があったといわれる甲西工業団地をのぞむ。 <br>中部横断自動車道が団地内を通っている。背後が南アルプス。</div>
<div> </div>
<div>(<a>つづく</a>)</div>

その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎 大井信達 信玄堤 聖牛 椿城 富田城 山梨県 甲斐市

【その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー】<h3>武田信虎</h3>
<p>武田信虎は武田信玄の父親で、一般的には「暴君」として知られている。暴君なあまり、信玄に追放されたという。</p>
<p>私 はこの理解に、特段異議を唱えるつもりはない。が、暴君だったという理由で彼の業績を無視するのは適切ではないと思う。というのは、信虎の時代を無視する と、北条早雲から信玄の時代へのつながりが見えなくなるし、信玄という人物と業績も十分理解することができないためだ。</p>
<p>信玄は信虎から国土、家臣団、人民などの地盤を受け継いだのであり、もし信虎が甲斐を統一していなければ、信濃のように近隣の強国に併呑されていた可能性がある。仮に信玄が甲斐統一を成し遂げたとしても、長い年月を要したと思う。</p>
<h3>今回の歴史サイクリングの概要</h3>
<p>2011年9月末に行った歴史サイクリングでは、信虎が甲斐守護となってから、実質的な支配者となる大永元年(1521年)までの甲斐統一戦を追うことがテーマだった。<br>すでに500年ほど経過しているが、彼が住んだ場所、戦った場所などをめぐることで、さまざまな局面における信虎の「その時」に近づきたいと思っている。 こればっかりは机上ではできない。</p>
<h3>信虎以前</h3>
<p>信虎以前の甲斐武田氏の歴史を遡ると、清和源氏発祥からはじまる。あまりに過去に遡ると、読者にはきついと思うので、ザックリとした説明にとどめた。この辺の事情を知りたい方は次の資料をご参考いただきたい。</p>
<p><strong>柴辻 俊六『武田信虎のすべて』</strong></p>
<h3>源氏の流れを引く名家</h3>
<p>甲斐武田氏は戦国時代の成上り大名とは違い、源氏の流れを引く名家である。浮き沈みはあったものの、鎌倉から戦国時代まで甲斐守護であり続けた。 <br>室町時代の中期には、甲斐も他国同様、守護代の権力が伸長した。応仁の乱の頃、甲斐守護代の跡部氏による下克上が起こってもおかしくない状況だったが、信虎の祖父、信昌は1465年に甲斐守護代の跡部氏を破り、甲斐を統一することに成功した。</p>
<h3>争いやまず</h3>
<p>信虎の祖父、信昌は跡部氏が強盛の頃、跡部氏の娘を正室として娶らされており、その子が信虎の父、信縄だった。信昌には側室の子があり、油川信恵(武田信恵)といった。信昌は跡部氏の血を引く信縄よりも、信恵を可愛がった。 <br>そ の結果、1492年、またもや、甲斐守護の信縄 VS 信昌(父)・信恵(異母弟)という図式で争いが起こった。この戦いは関東の情勢とも無関係ではなく、守護の信縄が関東管領の山内上杉氏派で、信昌・信恵が 扇谷上杉氏派(この頃、今川氏親と北条早雲も扇谷上杉氏派)だった。</p>
<p>そんな中、1494年、のちの武田信虎は誕生した。早雲の伊豆討ち入りの翌年である。 この骨肉の争いは延々と続いたが、1498年の<a>明応の大地震</a>(東 海・東南海・南海連動型地震だった可能性が指摘されている)が起こり、もはや戦っている場合ではなくなったようで、両者は和睦した。 東日本大震災を経験した我々は、この時の甲斐や東海地方がどういう状況だったか推測できると思う。 また、いくさがやむほどの大震災を経験した5歳の信虎の姿も想像してもらいたい。</p>
<p>しかし、この和睦は根本的な解決にはならず、危機は潜在することになった。和睦から7年後の1505年に祖父、信昌が死去し、その2年後に父、信縄も37歳の若さで死去する。</p>
<h3>信虎、家督相続</h3>
<p>父、信縄が死去した時、信虎は数え年で14歳だった。 <br>甲斐守護であり、父である信縄を失い、今なら中学1年生ぐらいの少年が甲斐守護となったのである。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , by fuji3zpg 開く

武田信虎

【立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー】<h2>立河原の戦いとその後</h2>
<p>今回のテーマは「<strong>立河原の戦い</strong>」である。</p>
<p>永正元年(1504年)、古河公方、足利政氏を擁する山内上杉顕定の軍勢と扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍が、多摩川と浅川の合流点である立河原で戦った。この戦いを立河原の戦いという。 <br>合戦の結果は、扇谷上杉氏・今川氏親・北条早雲の連合軍が大勝だったものの、その後、越後から越後上杉氏の援軍(越後守護は山内上杉顕定の実弟、上杉房能)が到着し、翌年(1505年)、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に降伏する。その結果、20年弱続いた両上杉氏の対立(長享の乱)は山内上杉氏の勝利で終結した。</p>
<h2>立河原の戦いと関連人物</h2>
<div> </div>
<h2>第5話「稀なる人」で出てくる土地をめぐる</h2>
<p><strong>伊東潤 『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</strong>の第5話「稀なる人」では、立河原の戦いが扱われている。そこで、この話に出てくる土地をまわることにした。 <br>小説では、枡形山城→高幡城→普済寺という流れで話が進むが、その流れで走ると、ダラダラとした上り坂をひたすら登ることになる。 <br>私は、以前、古河城→小山城→結城城を巡った時に、同じくダラダラ続く登り道に苦しめられた。ゆえに、不本意ではあるが、ダラダラ上り坂は避けて、下り坂を選んだのである。</p>
<h2>出発、電車で立川駅へ</h2>
<p>さて、自宅を発して、東京駅に着いたのが午前7時、電車に乗り、普済寺近郊にある立川駅に8時過ぎに到着した。立川駅を出て、さっさと折りたたみ自転車を組み立てる。そして、iPhone4を自転車に装着して、さあ出発。</p>
<h2>普済寺</h2>
<p>最初の目的地は普済寺だった。立川駅から数百メートルほどなので、8時30分前には着いた。</p>
<p>普済寺は東京都立川市にある臨済宗建長寺派の寺院で、武蔵七党西党日奉の支族である立河氏の館があったと言われている。 <br>伊東さんの小説では、立河原の戦いに際して、山内上杉顕定は2代古河公方の公方足利政氏を奉じて普済寺に陣を構えたとしている。現地には、立河氏の館跡と言われる土塁が遺構として残っていた。</p>
<h2>多摩川へ</h2>
<p>普済寺を出て、多摩川には数分ほどで着いた。 <br>サイクリングロードに入ると、実に気持ちよく走ることができる。この日の数日前まで残暑が厳しかったが、この日の午前中は特に涼しく、サイクリングには適したコンディションだった。</p>
<p>さて、サイクリングロード沿いに南東に進み、浅川との合流点の少し前辺りまできた。<br> 伊東さんの小説では、高幡城を出た氏親・早雲の連合軍が多摩川を渡って、普済寺を出撃した山内上杉顕定勢と戦ったことになっているので、距離的に中間地帯のこの辺が戦場になるかもしれないと勝手に想像してみた。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ある程度の広さがあり、大河の河原らしい草が生えている。ただ、河原に石がないので、小説のイメージ通りにはいかない。 なお、戦いは旧暦の9月27日だったとのことなので、新暦で言うと、11月上旬頃ということになる。とすれば、渡河して体が濡れるとさぞかし兵たちは寒かっただろう。顕定にはその様子が好機と映ったとしても不思議ではない。 <br>*写真は東京都府中市四谷の辺り。 なお、渡河作戦の難しさについては、『荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正- ~その1~』に書いた。</em>
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<p>来た道を少し戻って、都道20号の橋で多摩川を渡り、万願寺駅で南下するという経路で、浅川に着いた。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>9時15分ごろ、浅川を渡る。 <br>多摩丘陵の北端が見える。写真枠外の右側に高幡城がある。</em>
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<h2>高幡城</h2>
<p>浅川を渡ると、高幡不動はもうすぐだ。高幡不動に着く前に一休みしたので、高幡不動に着いたのは10時ごろだった。高幡城は、高幡不動の裏山にあり、そこからの眺望はよく、多摩川方面を遠望できる。</p>
<p>高幡不動に着いて、自転車をとめて、境内を歩くとすぐに土方歳三の銅像が立っているので、一瞬、おやっと思った。そういえば、土方歳三は武州多摩の出身だったことを思い出した。後で調べてみると、高幡不動は新選組副長である土方歳三の菩提寺だそうだ。土産物屋をのぞくと、土方グッズがたくさん売られており、新選組人気を確認した次第である。</p>
<p>目的地は高幡城なので、かつて城があった裏山に向かった。高幡城は比高50mの山城なので、少し坂道を登ると本丸跡を見つけることができた。 <br>伊東さんの小説では、ここで扇谷陣営の軍議が行われたことになっている。今は木々が繁っているので、その隙間からしか眺めが得られないが、かつては木を切っていたはずなので、本丸からの眺めはさぞかしよかったと思う。</p>
<h2>犬懸上杉憲秋、回想</h2>
<p>突然だが、犬懸上杉憲秋という人物をご存知だろうか。中世関東史を学んだ人以外は生涯知ることもない人物だと思うが、北条早雲が生まれる1年前にこの城で自害して亡くなった人である。</p>
<p>彼の父親は犬懸上杉氏憲(禅秀)で、1416年に上杉禅秀の乱という反乱を起こした人物として有名だ。犬懸家は山内家と交代で関東管領を歴任していた名家だったが、上杉禅秀の乱を契機に没落してしまった(その代わりに台頭したのが、扇谷家)。何事もなければ、輝かしい未来を約束された人生から一転、上杉憲秋は謀反人の子供になってしまったわけだ。<br>そして、何とか手柄を立てて犬懸家を復興させようと、家運を両上杉氏に賭けて、憲秋は戦いに臨んだ。享徳4年(1455年)1月、鎌倉公方・足利成氏勢と両上杉勢は、府中の分倍河原から東京都昭島市拝島辺りで戦った。この戦い(第1次立河原の戦い)で、憲秋は両上杉氏側の先鋒を務めるが、敗れてしまい、高幡城で自刃した。なお、第2次立河原の戦いが今回のテーマ「立河原の戦い」である。</p>
<p>なぜ私はこの人物のことを書いているか、その理由を記してみたいと思う。<br> 私は以前、坂田祐樹氏の 『<a>関東公方成氏</a><img>』という小説を読んだことがあり、その中で上杉憲秋が出てくる。 <br>その小説の中で、彼は自分の運命を恨み、ニヒルな笑いを浮かべながらも社会的に生き返る機会を探しながら生きている。その姿がなぜか私には印象的だった。そして、今回、伊東さんの小説をテーマに高幡城をまわることになり、高幡城について調べていると、彼がここで自害したことを見つけ、何か思うところがあり、こうして記してみたわけである。 <br>おそらく、坂田さんの小説を読んでいなかったら、彼のことをこうして書くこともなかっただろう。そう考えると、歴史小説は過去と現在を結ぶ機能があることに気付く。たとえ回想する人が少数であっても、500年後に回想される人物はそうは多くないだろう。<br>むろん、その回想が実際の彼にどれだけ即しているかを確かめるすべはないのだが。 そして、もう1つ歴史小説が持つ面白い機能は、一度人物のイメージが形成されると、そのキャラクターに親しみを覚えることだと思う。親しみを覚えたこそ、私はこうして彼について記しているわけだ。</p>
<p>遠い昔のこととはいえ、一人の男が時代に翻弄されながらも、活路を求めて生きて、戦って、敗れ、自害したその場所にいると何かしらの思いが湧いてこざるを得ない。</p>
<h2>関戸城</h2>
<p>さて、高幡不動を出て、川崎街道を東に進み、次は枡形山城を目指す。 <br>右手に多摩丘陵を見ながら、所々、上り坂はあるものの、基本的になだらかな下り坂を走っているので、想定通り、快適に走れる。 <br>府中から見て多摩川の対岸にある関戸には、11時過ぎに着いた。<br> 今回のテーマには関係ないが、この辺りにはかつて関戸城という城があった。関戸城は、高幡城と同じく、多摩丘陵の北端にある山城で、城の右側を鎌倉街道上道が通っている要衝である。中世の府中はとても栄えていた土地で、府中の対岸にある関戸には宿があり栄えていた。また、その重要性ゆえに鎌倉の攻防をめぐって、何度も大きな戦いがあった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>2010年9月撮影 <br>自転車で走っていて、偶然見つけた標柱。1333年に新田義貞が分倍河原と関戸で鎌倉幕府軍と戦って勝利し、その数日後に鎌倉を陥落させている。つまり、この地を制して、はじめて鎌倉への道が開かれるのである。</em></div>
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<p>事前に調べたところ、関戸城には遺構は残っていないものの、天守台の標柱があるとのことだったので、それを探すことにした。天守台がある場所というのは、一番高いところか、それに準ずるところと相場は決まっているので、それらしい場所を目指して、丘陵を登っていく。<br> 大体、この辺りだろうという勘が働いたので、その辺を歩いていると、地元の人と思しき年配の女性が歩いてきた。もしかしたら標柱のことをご存知かもしれないと思い、聞いてみることにした。</p>
<p>「あのー、すいません」 <br>「あ、はい」 <br>「この辺に昔、関戸城があって、その案内板みたいなものがこのあたりにあると思うんですが、ご存じないでしょうか。」 <br>「ええと、ごめんなさい。知らないわ。」</p>
<p>そんなやりとりをしていると、細い道にタクシーが入ってくる。私は急いで自転車を道路の横によける。そのタクシーは5mほど先に進んだところで止まった。</p>
<p>「ここは桜ヶ丘1丁目で、関戸はもっと東だから、そっちにあるんじゃないかしら」<br>「なるほど、そうなんですか。どうもありがとうございました。」<br> 私は関戸城が桜ヶ丘1丁目にあることを資料で知っていたが、親切に教えてくれた人に言い返すのも何だと思い、その場を去ろうとした。すると、後ろから声がする。 <br>「あのー」<br> 私が振り返ると、 <br>「タクシーの運転手さんに聞いてみたらどうかしら。ご存知かもしれませんよ。」 <br>なるほど、それは一理ある。<br> 私はお礼を言って、タクシーに向かった。</p>
<p>タクシーに向かうと、どうもタクシーの運転手さんはお疲れのようで、何だか話しかけずらい雰囲気だった。そこで、「まあいいか、どうせ標柱はこの近くにあるはずだ」と思って、再び探し始めました。すると、その場所からすぐのところに標柱が見つかった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ついに見つけた「天守台」標柱。自分の推理が当たった時は素直に嬉しいものである。 <br>多摩川方面への写真を撮ろうと思ったが、この付近(桜ヶ丘1丁目)は所狭しと住宅が立ち並び、よい写真は撮れなかった。しかし、住宅の隙間からは北、東、南に視野が得られることが分かった。</em>
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<p>私が尋ねた女性がなぜすぐそこにある標柱を知らなかったのか分からないが、やはり近所であっても関心がないと知らないものなのかもしれない。というのも、私は大学生の頃、今回の目的地の1つである枡形山城の近くに住んでいたが、枡形山城の存在を知なかった。近年、中世関東史を調べていて、はじめて枡形山城の存在に気付いたのである。</p>
<p>関戸城を出た頃には、昼前になっていたので、多摩川を渡り、府中方面へ行き、中華料理屋で昼食をとった。 <br>昼食後、私は本日最後の目的地である枡形山城に向かって走り始めた。</p>
<h2>iPhone4の携帯式充電池</h2>
<p>私は「EveryTrail」という、GPSを使って自転車で走ったところを記録して、地図に書き込んでくれるソフトを使っている(*)。 <br>このソフトは便利だが、電池の消費がすさまじく、2時間半ほど使った結果、残りの電池残量が50%を切っていた。ただ、これはこのソフトの問題というより、GPSを使った同種のソフトでも同じように消費する。あらかじめ分かっていた問題だったので、私は事前にサンヨーの携帯式充電池(KBC-L2AS )を買っておいた。</p>
<p><em>(*)2010年当時の話。当時は歴史めぐりにこういうツールを使うのは先進的な試みだった。</em></p>
<p></p>
<p>装着するとこんな感じになる。</p>
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<em>2010年9月 </em><br><em>自転車ホルダーにiPhone4を装着し、さらに携帯式充電池をiPhone4に接続した写真。バッグの中に、携帯式充電池が入っており、白いケーブルを通して、iPhoneと接続されている。iPhoneアプリの「EveryTrail」を使いながら充電できる。</em>
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<h2>乞田川の上り坂</h2>
<p>さて、電池の心配もなくなったので、午後の部、出発。 <br>多摩川を再び南側に渡って、川崎街道を東進する。乞田川(こったがわ)を渡るあたりから、上り坂が続く。昼食をとったばかりで元気だったので、最初は颯爽と駆け上がっていったが、走っても走っても終わらないので、ついに自転車を押して歩くことにした。あとで、乞田川にかかる橋から坂がおわる連光寺坂上辺りまで距離を測ってみると、1km強あった。長いはずである。</p>
<h2>懐かしの向ヶ丘公園駅</h2>
<p>その分、下り坂は気持ちよく走ることができた。 <br>その後も、基本的に下り坂なので快適だ。特に問題もなく、稲城市を通って、川崎市多摩区に入る。そして、14時ごろ、懐かしの向ヶ丘遊園駅に着いた。私は大学生の頃にこの周辺に住んでおり、向ヶ丘遊園駅にもよく来た。駅は改装されたようで、きれいになっていた。並んでいる店も結構変わっていたが、街の構造自体に変化はないようだ。</p>
<h2>枡形山城へ</h2>
<p>さて、今回は感傷に浸りに来たわけではないので、気を取り直して、枡形山城に向かう。 <br>枡形山城は、直線距離で向ヶ丘遊園の南700mほどのところにある生田緑地の中にある。当城は、標高80m強、比高60m弱の山城で、多摩丘陵の北端にあり、多摩川方面の武蔵野台地を一望できる。そういう点では、高幡城や関戸城と似ている。</p>
<p>永正元年(1504年)の立河原の戦いの時、北条早雲が先に当城に着き、数日後の9月20日に今川氏親が到着して、合流した。その様子が伊東潤 『疾き雲のごとく 』の第5話「稀なる人」でも書かれている。そして、その後、早雲と氏親は9月27日の立河原の戦いを迎えた。</p>
<p>枡形山城跡を目指して山を登っていくと、緑が豊かで改めて良いところだと思った。大学時代、一度も訪れたことがなかったのは惜しいことだ。 <br>山頂に着くと、子供連れの親子が結構たくさんいる。子供が大声で叫びながら、遊んでいる。山頂はそれなりの広さがあり、公園になっている。遊ぶ環境もあり、当然クルマも走っていないため、親にとっては安心して遊ばせることができるスポットなのだろう。</p>
<h2>iPhone4の逆光問題</h2>
<p>曲輪の北端には、結構大きな望楼が建っていて、そこから四方を遠望することができる。 <br>早速、iPhone4で写真を撮ってみた。すると、逆光のためか、写りがよくない。そこで、Panasonic製のデジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で撮ってみると、かなり違いがあった。高幡城でも少し気にはなっていたが、やはりそうだったのかという感じだ。「iPhone4があるので、デジカメは必要なし」というわけにはいかず、当面、併用することになりそうである。 <br>まあ、写真を編集すればある程度は何とかなるが、数が数だけにできるだけ、そのまま使いたいものだ。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>iPhone4で撮影した枡形山城からの写真。</em>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>Panasonic製デジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で、ほぼ同じ場所と時間から撮った写真。ただし、逆光ではないところで撮ると、それほど変わらない。さすがにPanasonicのデジカメはカメラ専用機器だけあって、対応できる状況の幅が広いのだろうか。</em>
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<p>城の周辺を少し散策したあと、向ヶ丘遊園駅に戻り、この日の歴史サイクリングを終えた。</p>
<h2>おまけ: 寿桂尼の生涯</h2>
<p>「稀なる人」の最後のほうで、今川氏親が藤原北家カ勧修寺流中御門家の娘を妻に迎える話が出てくるが、この女性こそ、後に寿桂尼と呼ばれる人で、今川氏親の正室であり、今川義元の母である。</p>
<p>氏親が晩年、病気で政務をとれなくなると、氏親を補佐した。氏親の死後も、陰に日向に今川家を支え続けた。今川義元が当主になると、今川家の全盛期を迎えた。しかし、義元は、永禄3年(1560年)、尾張攻略の途中に桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られてしまう。 <br>その後、今川義元の子(寿桂尼の孫)、氏真が当主となるが、今川家の衰退がはじまり、永禄11年(1568年)武田信玄の駿河侵攻の数ヶ月前に寿桂尼は死去した。</p>
<p>彼女は1505年頃に今川家に嫁いでいるので、晩年の早雲を知っていたはずであり、織田信長のために、頼りになる実子の義元を失い、武田信玄によって、今川家が実質的に滅ぼされる直前まで生きたことになる。 <br>このように、寿桂尼の生涯を追っていくことで、戦国初期(代表的人物:早雲)から中期(代表的人物:信玄)、そして、後期(代表的人物:信長)のはじまりまでを見ていくことができる。</p>
<p>分かりきったことではあるが、寿桂尼の人生を通して、戦国時代とは何とも厳しい時代であったと改めて思うのである。</p>
<p>(終)</p>
<p><em>* なお、マップの位置は今回の歴史サイクリングの範囲を大体示すために設定した。合戦がそこであったという意味ではないので、ご注意を。</em></p>

立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

立河原の戦い フィールドをゆく 北条早雲 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー

【安部川餅の誤算】<h2>北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡</h2>
<p>6月下旬の梅雨時期に、2泊3日で静岡県に行ってきた。その時のテーマは、「北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡」であった。基本的に、焼津から東進し、三島に至り、三島から南下して、修善寺でゴールという日程を考えていた。自転車による3日間の総走行距離は約180kmだった。</p>
<h2>小川の長者、長谷川法栄</h2>
<p>初日は東京駅を発し、焼津駅に降り、焼津の南隣にある小川の港へ行った。小川は、今川氏親擁立に尽力した長谷川法栄(*)の拠点である。</p>
<div><em>(*)長谷川法栄:今川氏親擁立に貢献した人物で、小川を拠点にしていた。 氏親の父、今川義忠が遠江で戦死した後、幼少の氏親はすぐに家督を相続することはできなかった。家督は、一旦、義忠の従兄弟の小鹿範満が引き継いだ。その混乱の中、法栄は氏親を小川でかくまったという。彼は早雲の有力な味方だった。 その辺の様子が司馬遼太郎『箱根の坂』に詳しく書かれている。</em></div>
<p> </p>
<h2>丸子城へ</h2>
<p>その後、朝比奈川を渡り、国道1号線を通って、泉ヶ谷の西に位置する丸子城を訪れた。丸子城は、東海道を押さえる要地にあり、今川の本拠地、今川館の北西に位置する。また、氏親が家督相続できないでいた間、この城を居城にしていたという。そうであれば、氏親擁立の中心人物であった、早雲も何度もこの城を訪れたことだろう。</p>
<p>丸子といえば、とろろ汁が有名だが、着いたときがすでに夕方だったため、店が閉まっており、とろろ汁は諦めざるを得なかった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年6月27日撮影 </em><br><em>司馬遼太郎『箱根の坂』のイメージに近いと思い撮影した。</em>
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<h3>安部川餅を食べよう!</h3>
<p>翌日は、しからばということで、安部川餅を食することに決め、ホテルを出た。<br>最初、駿府城(今川館跡に築城された)、そして、浅間神社を見学した後、臨済寺に行った。臨済寺は早雲の姉(司馬遼太郎『箱根の坂』では妹という設定になっている。今川義忠の正室で、今川氏親の母)、北川殿の別邸跡に建てられ、今川義元も青年期を過ごした場所だという。 <br>当寺は賤機山の山麓にあり、本堂のある高地からは市街地がよく見える。すでに10時30分を過ぎて暑くなってきたが、境内の清々しい雰囲気が心地よかった。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>臨済寺の本堂前からの写真。</em>
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<p>臨済寺を出て、予定通り、安部川餅を食べに安部川橋東側に向かうことにした。この頃になると、太陽が照り始め、気温はぐんぐん上昇しているのが分かった。11時頃に目的地付近に着くと、観光ガイドブックに載っていた佇まいの店があった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川橋の東側から、安倍川をのぞむ。</em>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川餅の「せきべや」さん</em>
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<h2>安倍川餅の「せきべや」さん、発見!</h2>
<p>ここだと思い、汗を拭いつつ、店に入った。この店が300年の歴史を持つという「安倍川餅せきべや」である。店の中は、冷房がかかっており、涼しかった。安部川餅(600円)を注文し、待つことしばし、やってきた安部川餅を見て、私は「しまった」と思った。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>「せきべや」さんの安部川餅。見た目よりボリュームがあり、満腹になった。若干、黄粉餅が分かりくいかもしれない。黄粉餅は皿の右側にある。その黄粉餅に砂糖がかかっている。</em>
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<h2>「しまった」と思った理由</h2>
<p>それは餅の味がどうこうという話ではなく、このシチュエーションでは、餅というチョイス自体が誤りだったではないかということだ。なぜかというと、その重く、粉っぽい様子に食欲が湧いてこないのである。すでに、暑さにやられつつある体に、この重量感と粉っぽさはきつい。もう少し冷たいもの、せめて、チュルチュルと食べられるものにしたらよかったと思った(もちろん、餅自体はすべていただいて、店のチョイスにミスはなかったと思った)。</p>
<h2>ご当地グルメは胃と相談しよう</h2>
<p>思えば、前日にとろろ汁を食べ損なったのがトラウマになり、何としてもご当地グルメを食べるということが強迫観念となり、冷静な判断力を鈍らせたのかもしれない。思い込みというのは恐ろしいものである。<br>昨日、とろろ汁を食べていれば、おそらくこれほど暑い中、餅を食べるのは不適と判断して、別のものを食べていたことだろう。食べ物に関しては、頭が要求するものより、胃腸が要求するものを優先させたほうがよいとつくづく思った。今度は、安部川餅を見て胃腸が喜ぶ時期に、もう一度、トライしてみたいものだ。</p>
<p>その日の夕方、いつもより腹が減らないなと思ったとき、ふと昼に食べた阿部川餅のことを思い出した。失敗にも、効用はあるようだ。</p>
<p>(終)</p>

安部川餅の誤算

作成日:2014/6/23 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

安倍川餅 フィールドをゆく 静岡県 静岡市

【臨済寺から静岡市街を撮影】<p>臨済寺は早雲の姉(今川義忠の正室で、今川氏親の母)、北川殿の別邸跡に建てられ、今川義元も青年期を過ごした場所だという。 <br>当寺は賤機山の山麓にあり、本堂のある高地からは市街地がよく見える。</p>

臨済寺から静岡市街を撮影

作成日:2014/6/23 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

臨済寺 北川殿 静岡県 静岡市

【北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-】<h2>はじめに</h2>
<p><strong>伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</strong>と絡めながら、北条早雲の生涯を見ていきたいと思います。 <br>なお、早雲の年表は当ページの最後に付しておきました。 私は早雲の生涯をざっくり4期に分けました。 以下、各期の概要をみていきましょう。</p>
<h2>第1期:1456-1486 (早雲、出生から30代まで)</h2>
<p>第 1期は早雲が歴史の表舞台に現れる以前で、彼の動きに謎が多い期間でもあります。具体的には、早雲出生(1456年)から太田道灌が謀殺される(文明18 年(1486年))までの期間です。 <br>この時期、若き早雲は幕府に出仕する一方、建仁寺や大徳寺で禅の修業もしています。また、一般には文明8年(1476年)に起こった今川家家督相続問題を 調停したと言われています(*)。<br>数え年で、早雲が21歳の時のことです。</p>
<p><em>(*)文明8年(1476年)に、駿河 守護の今川義忠が遠江で戦死して、今川家に家督相続問題が起きました。定説や歴史小説では、北条早雲が扇谷上杉氏の家宰、太田道灌に話をつけて、今川義忠 と早雲の姉、北川殿の嫡男である龍王丸(のちの今川氏親)が成人するまでの間、小鹿範満(今川義忠の従兄弟)を暫定駿河守護にすることで落着されたとされ ています)。</em></p>
<p>『疾き雲のごとく』では、第1話「道灌謀殺」でこの辺りのことが書かれています。</p>
<h2>第2期:1487-1505 (早雲、40代の頃)</h2>
<p>第 2期は小鹿範満を討って、今川氏親を擁立した長享元年(1487年)から長享の乱が終わる永正2年(1505年)頃までの期間で、早雲は幕府の関東出先機 関として、または、今川家の部将として動いていた時期です。この時期、早雲は伊豆に討ち入り、数年かけて制圧し、さらには小田原城を落としています。</p>
<p>『疾き雲のごとく』では、以下の4話が対象期間です。</p>
<ul>
<li>明応2年(1493年)の伊豆討ち入りを書いた第3話「修善寺の菩薩」</li>
<li>明応3年(1494年)の扇谷上杉定正の荒川渡河作成失敗を書いた第2話「守護家の馬丁」(早雲は、定正と同盟しており、この戦いに参陣していました)。</li>
<li>大森一族の没落(小田原城攻略戦)を書いた第4話「箱根山の守護神」(攻略した年は正確には分かりません。明応5年(1496年)から文亀元年(1501年)までには早雲は小田原城を攻略しています)。</li>
<li>長享の乱、最後の大戦となった立河原合戦(永正元年(1504年))を書いた第5話「稀なる人」</li>
</ul>
<h2>第3期:1506-1512 (早雲、50代前半から半ば頃)</h2>
<p>こ の頃から、早雲は関東の一勢力として独自の動きを展開しはじめます。永正4年(1507年)、京都で細川政元が暗殺されて、政元に追放された10代将軍、 足利義材が大内義興と細川高国の後ろ盾を得て復権します。本来であれば、政元派であった早雲は窮地に陥るところでしたが、数年前から義材派に鞍替えしてお り、京都の政変による荒波も乗り越えました(なお、この荒波をもろにくらって、沈没したのが越後上杉氏で、その同盟勢力の山内上杉氏も大打撃を受けまし た)。そして、永正6年(1509年)頃から、ついに早雲は両上杉氏に対する戦いをはじめます。</p>
<h2>第4期:1513-1519 (早雲、50代後半から死去まで)</h2>
<p>第 3期に両上杉氏に対する戦いをはじめ、攻勢に出た早雲でしたが、両上杉氏が結束するとやはり国力に雲泥の差があるため、早雲勢は小田原城付近まで押し込め られて、窮地に陥ります。しかし、永正9年(1512年)頃から、古河公方と山内上杉氏の後継者問題が発端となって、また両上杉氏は戦い始めました。その 隙を突いて、早雲は東相模の三浦氏を攻撃し、3年以上にも渡る攻囲戦の末、永正13年(1516年)7月11日に三浦道寸の籠る新井城を落としました。こ こに、早雲は生涯で伊豆と相模を手中に収めることに成功しました。そして、仕事を成し遂げた早雲は、その3年後に死去します。 <br>『疾き雲のごとく』では、最終の第6話「かわらけ」で三浦一族の滅亡(早雲の東相模攻略戦)が書かれています。</p>
<h2>最後に</h2>
<p>こ うして見ると、『疾き雲のごとく』の話が第2期に集中していることが分かります。それに対して、第3期は第5話「稀なる人」の最後の方と第6話「かわら け」の最初の方で触れられているだけです。しかし、実は第3期は、唖然とする程、話がもつれ、いろいろな人物が出てきては消えていく激しい変化が起こって います。ですから、この時期が重要でなかったわけではありません。</p>
<p> </p>
<div> </div>

北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-

作成日:2014/6/21 , by fuji3zpg 開く

フィールドをゆく 北条早雲 室町から戦国時代への動きと北条早雲の生涯ーフィールドをゆく(1)ー

【今川館】今川館から西に2.5ロほどの地点にある安倍川。丸子城から東へ。安倍川に至る。思っていたほど、水量は多くなかった。<br>      今川氏親が丸子城に逼塞していたとされているが、今川館から安倍川が約2.5km、安倍川から丸子城までが約4km。いくら安倍川があるにしても近過ぎないかと自転車で走って思った。

作成日:2013/2/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

早雲の城 静岡県 静岡市

【丸子城】かなり深い堀切。幼少の今川氏親が隠棲していたというぐらいの知識で行ったら、城の規模に驚いた。実は駿河が武田領になった時、山県昌景が城代になっている。その後も徳川の手が入ったりして、大規模化していったのだろう。

作成日:2013/2/23 , by fuji3zpg 開く

早雲の城

【丸子城】北曲輪辺りから北東方面に丸子谷を撮影。今川氏親の幼名は龍王丸といい、父の今川義忠亡き後は今川家の家督を相続できず、この丸子谷に隠れ住んでいた。<br>龍王丸の母は北条早雲の姉だったため、早雲は龍王丸を担いで、今川家の当主に据えた。そのため、早雲は今川家に大きな地盤を得ることになった。<br><br>鬱屈した氏親の青春時代などを想像しつつ、曇天の丸子谷を眺めていた。

作成日:2013/2/22 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

早雲の城 静岡県 静岡市

ノート【更新順】
・ 岡山県の没落武士
・ 江戸東京たてもの園を訪問
・ コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
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ノートまとめ【更新順】
・ 関ヶ原の戦いの動画
・ 淀川の城
・ 姫路城大天守の昼・夕暮れ・ライトアップ!
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歴史年表【更新順】
・ 『おんな城主 直虎』年表
・ 花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
・ 歴史家・歴史小説家とその時代
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特集
・ 関ヶ原の戦い
・ 幕末維新
・ 文明論
・ 北条早雲
人物【更新順】
・ 子母澤寛
・ 周布政之助
・ 小田村伊之助
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出来事【更新順】
・ 新型コロナウィルス感染拡大に伴い、東京など7都道府県で非常事態宣言が発令
・ 中国の武漢で新型コロナウィルスが人に感染
・ 令和に改元決定
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世界史古代概論
・ 世界史古代概略
・ ローマと前漢、不思議な成立の符合
・ 古代の日本と西欧
戦国のはじまり
・ 早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
・ 応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
・ 北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
・ 2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
・ 歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
・ 大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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