永正12年(1515年)、大井信達との戦いに敗れ、武田信虎は滅亡の危機に瀕したが、2年後、郡内方面で勢力挽回した。その結果、今川氏親は連歌師、宗長(氏親の外交官でもあった)を仲介者として、信虎と接触し、永正14年(1517年)、信虎は大井信達と和睦した。
信虎としては、7年前に妹を小山田氏の当主に輿入れさせ、懐柔した甲斐があったとほくそ笑んでいたことだろう。
宗長、この人を覚えているだろうか。
宗長は北条早雲が今川氏親を擁立しようとした時に(氏親の父、今川義忠が遠江で戦死して今川家の家督継承問題が起こった文明8年(1476年))、小川の長者、長谷川法永と共に氏親・早雲の味方として動いた人物である。この時、宗長は29歳だったが、今は高齢で、70歳になっていた(しかし、彼の寿命はまだ15年残っていた)。
当時、連歌師は他国の大名や要人と直に会えるため、外交官の役割も果たしていた。のちには、茶人がこの役割を果たす。
この和睦時に、大井信達から信虎がめとったのが、大井夫人である。のちに、武田信玄の母親となる人だ。信虎は24歳、大井夫人は21歳だった。
信虎にとっては、自分を散々苦しめた大井信達の娘を正室として、めとることになるわけだ。生まれてきた子は、大井信達の孫となる。
余談だが、椿城に行った時、看板に「武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡」という看板があった。私は椿城を、信虎の宿敵、大井信達の牙城と捉えていたので、ちょっとした衝撃があった。言い方一つで印象は変わるものだ。
大井信達との和睦から2年後、信虎は祖父の信昌以来の甲斐守護の拠点だった、川田館から躑躅ヶ崎館を建設して移った。
信虎はいまだ各地に割拠する国人たちにも躑躅ヶ崎の城下町への集住を命じたので、反発をくらった。この政策も戦国大名に脱皮しようする信虎の意思を反映したものだった。
分権を望む大井、今井、栗原などの有力国人は反乱を起こしたが、永正17年(1520年)、信虎は反乱軍を撃破して、一応の甲斐統一を成し遂げた。この時、信虎は27歳となっていた。
翌年、永正から大永と改元された。思えば、永正4年に14歳で家督を相続してから信虎は甲斐統一のため、常に体を張って戦ってきた。紙一重の生死の狭間をすり抜け、その武略と努力と幸運の結果が一応の甲斐統一だった。しかし、まだ信虎の危機は終わらない、といより最大の危機が迫っていた。
大永元年2月、駿河から福島勢が甲斐に乱入してきたのである(*)。
8月の河内(南巨摩郡)の合戦では勝利したものの、9月には駿河の福島勢が大挙して押し寄せてきた。その数、1万5千とも言われる(実際のところ、人数はよく分からない)。それに対して、統一から日が浅い信虎勢は足並みが揃わず、2千ぐらいだったという。とにかく、信虎にとって、圧倒的に不利な戦いであったことは間違いないだろう。
信虎は同月に大島(南巨摩郡身延町大島)で福島勢と戦ったが、敗北した。福島勢はそのまま北上し、9月16日に大井氏の属城、富田城を落とした。
私は富田城を出て北上した。目的地は絵地図にある荒川湖畔の古戦場である。
釜無川を渡ってからは平地が続く。稲作地帯である。かつては、この辺を釜無川の本流、支流、細流が流れていたらしい。とにかく、洪水地帯であったようで、現代のように稲作ができるのはまったくもって、信玄以来の治水事業のおかげだろう。
このシリーズの中で何度か書いているように、甲府盆地は思ったより広い。また、きつくはないが、緩い傾斜の上り坂になっているので、富田城を出てから古戦場に行くまでに、案外時間がかかってしまった。1時間ちょっとぐらいは走ったと思う。途中、雲間から光が指す光景は神々しかった。
甲府盆地を走っていて、いくつか気づいたことがある。その内を1つをここで紹介したい。
それは適当に走っても、方向が合っていたら、目的地に行けるということだ。当たり前だと思われるかもしれないが、案外そうではない。関東平野で同じ事をやると、途中で行き止まりになっていたり、全然違う方向に流されてしうことは少なくない。特に、自宅がある調布はひどく、iPhoneのGPS機能を使わなかったら、帰れないことがいくらでもあった。まるで、リアル迷路だ。
まあ、それはいいとして、甲府盆地は山の形と太陽の位置を頭に入れておくと、まず方向を失うことはない。したがって、細い道でもどんどん入っていけた。こういう地域はありそうでない。生活者の意見が尊重されている地域なのかもしれないと土地不案内者ながら思った。
釜無川下流を押さえられ、危機感を募らせた信虎は、身重の妻、大井夫人を躑躅ヶ崎館の北方の山麓にある積翠寺に移す。そして、28歳の信虎は福島勢と戦うべく、躑躅ヶ崎館を出陣した。14年間も戦ってきた結果が、このザマである。信虎は苦々しく思っただろう。
さて、福島勢である。この時の福島勢の動きが遅い。妙である。
富田城を落として、1ヶ月もの間、福島勢は攻めて来なかったのである。
なぜこれほど動きが緩慢だったのだろうか。大軍を維持するのは大変である。
例えば、1万人の水・食糧・寝床・武器・排泄物の処理など、滞りなく行うようにと読者が命令されたとする。想像しただけで大変な仕事なのは明らかである。1万人を養うには相当の計画性と物資とカネが必要だ。これらが行われないとたちまち不満の声が満ち、戦力は落ち、疫病が蔓延したりする。下手をすると、戦う前に軍が崩壊したり、不満が自軍の首脳に向くこともありうる。
信虎の防衛ラインはおそらく、笛吹川と荒川だったと思う。笛吹川は甲斐の北東から南西に流れる暴れ川だった。荒川も名前の通りだったのではないかと思う。今よりも、河原は広かっただろう。
福島勢の動きは鈍い。その理由として、内部でまとまりを欠いていたのではないかという指摘がある。
もう1つは当時は治水技術が発達していなかったので、一度大雨が降ると、川を渡れなくなる。仮に福島勢が荒川・笛吹川を越えて、躑躅ヶ崎館を襲ったとしよう。たとえ躑躅ヶ崎館を即座に落としても、詰の城の要害山城はすぐには落とせない可能性がある。
その間に、大雨が降り、補給ラインが途絶えたところを、信虎が全力で反撃してくる。この状態で敗れたら大変である。下手をすると、全滅する可能性すらある。何せ後ろが洪水地帯だと自動的に背水の陣状態になるのである。それを恐れた福島勢首脳は、荒川・笛吹川流域に住む百姓に尋問して、洪水についての情報を集めていたのではないかと話が書いてあった(**)。
理由はよくわからないが、富田城が陥落してから1ヶ月後、ようやく、福島勢は荒川の左岸にやってきた。
場所は飯田河原であったという。飯田河原古戦場の石碑が立っている場所から躑躅ヶ崎館まで直線距離で3kmである。駅でいえば、甲府駅と竜王駅の間にある。
高校時代、私は高校まで10kmの距離を通っていた。自転車で約30分だった。つまり、3kmというのは自転車で10分ちょっとで行けてしまう距離である。騎馬で疾走すれば、もっと早く着くだろう。
地図で飯田河原古戦場をはじめて調べた時、躑躅ヶ崎館との距離の近さに驚いた。これなら、身重の妻を山麓に避難させるのは当然だ。10分で妊婦が避難できるわけがない。
この戦いが飯田河原合戦で、信虎勢は数には劣るものの、よく戦い、敵を100余人討ちとって、荒川の西側に福島勢を押し返した。
その後、福島勢は、一旦、曽根の勝山城まで退去した。だが、むろん、これですべてが終わったわけではなく、次の戦いへの準備期間であるに過ぎない。
再び、両軍の斥候や前衛が荒川を挟んで睨み合っただろう。この睨み合いの最中に誕生したのが武田太郎、のちの武田信玄である。11月3日のことであった。当主の男児誕生に信虎勢の士気はあがった。
読者は人生にテーマをお持ちだろうか。持っている人も持っていない人もいると思う。
現代日本では、一部の例外を除いて、ある程度は自分の人生を自分で決めることができる。私も自分の人生を自分で決めてきた。歴史的に見ると、こういった状態は幸運だと言えると思う。
現代日本の住人と異なり、武田信虎は好きで、甲斐守護になったのではない。門閥貴族というのはそういうもので、父親が隠居か死亡すれば、自動的に子が当主になる。つまり、地位を継ぐ基準は血の濃さだった。武田家も同じで、甲斐守護家の直系に生まれない限り、正規ルートで甲斐守護にはなれない。信虎は、甲斐守護の父、信縄が死去したので、甲斐守護になった。
信虎がここまで14年間も戦ってきたのは彼の好みというよりも、有無をいわさず、立場上、課せられたテーマを果たしたまでである。そのテーマとは甲斐の統一である。このテーマを果たせなければ、滅亡するか、甲斐を逃げ出す以外に道はない。
課せられたテーマを果たすことは、自分で選んだテーマを果たすことよりも低級だということはないと思う。要は、その人が諸々の制約の中で人生のテーマと如何に関わったかこそが問われるのだと私は思う。その点、信虎は確かに課せられたテーマを自分のテーマとして真正面から捉え、戦い抜いた男だと思う。
飯田河原古戦場の2kmほど上流に上条というところがある。ここで最終決戦が行われた。信虎のテーマが成就するか、敗れ去るか、この戦いにかかっていた。人生の決定的な瞬間、つまり、「その時」であったといえる。 上条で荒川を渡ったら、指呼の間に躑躅ヶ崎館がある。信虎としては荒川の防衛ラインを破られるわけにはいかない。
信玄出生から20日後の11月23日、再び、戦雲が甲斐を覆う。
旧暦は現在の暦でいうと、1ヶ月ほど進めた時期だと考えてもらいたい。つまり、現在でいうと、1月ぐらいの寒さの中での戦いだった。しかも、ここは温暖な駿河ではなく、標高の高い甲府盆地だ。もし福島勢が荒川を渡河したとしたら、荒川の水の冷たさはこたえただろう。
この日、福島勢と信虎勢は上条河原で激突する。信虎勢は福島氏の大軍を相手に奮戦した。信虎の家臣たちも負ければ、福島勢に殺されるか、生き残っても従属させられ、以後、一番危険な戦場に送られることになる。それに対して、福島勢には遠征の飽きと疲れもあったことだろう。
まさに信虎の「その時」がはじまろうとしている。
20日前に生まれた新しい命のためにも、信虎は奮い立ったかもしれない。信虎を含め、戦う前に両軍の武者たちの胸中には様々な思いが去来したことだろう。それらを心の支えにして、戦いははじまった。。。
この上条河原合戦で、信虎勢は福島勢を大敗させ、福島勢の大将たちを軒並み討ちとった。福島勢は崩壊して、南に潰走し、曽根の勝山城に逃げ込んだ。福島勢は600人もの死者を出したともいわれている。
結果は信虎の完勝だった。翌年1月14日、曽根の勝山城に籠っていた福島勢は降伏し、生き残った福島勢は駿河に退去した。苛烈な状況を切り抜け、甲斐を統一し、外敵を駆逐した若き守護に家臣はもちろん、領民も希望を見出しただろう。 今川、北条との戦いはまだまだ続くが、ここに信虎は甲斐統一に成功した。国内の国人勢力を一掃するのになお10年を要したが、もはや以前のように苦戦していない。 信虎は統一によって膨らんだ国力を使って、関東への介入、信濃への侵略を行なっていくことになる。これらの戦いが次の時代を準備した。
(つづく)
歴ウス 公式Twitterページ |
|
歴ウス 公式Facebookページ |
|
歴ウス 公式YouTubeチャンネル |
2011年9月撮影:
椿城を目指して歩いている時に目にした看板。