関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いは日本史史上、最も大規模で重要な合戦の1つです。
合戦がいかに起きて、いかに勝負がきまったか、詳細にみていきましょう。

関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

関ヶ原の戦い 戦国

投稿日: 2014/11/30

はじめに:

石田三成挙兵までの戦略マップと人物相関図を作りました。

経過は以下の通りです。
***
【慶長3年(1598)】
・8/18 豊臣秀吉、伏見城で死去

【慶長4年(1599)】
・閏3/3 前田利家、大坂で死去→豊臣政権内部の武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政ら)と文治派(石田三成ら)、双方に影響力があった利家が死去することで、武断派・文治派の争いが表面化
・閏3/4 武断派の七将、石田三成を襲う→光成は伏見城に逃走→光成、居城の佐和山城に蟄居させられる

【慶長5年(1600)】
・4月 徳川家康、会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけ、上洛を促す
・5/3 上杉景勝の重臣、直江兼続から上洛拒否の書状が家康に届く(直江状)
・6/16 徳川家康、上杉景勝を討つため、大坂城を出陣
・7/16 石田三成の要請で、毛利輝元が大坂城に入城。
・7/17 石田三成、挙兵(「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康を弾劾)
***

人物相関図:関ヶ原の戦いー豊臣秀吉の死去ー

作成日:2014/11/30 rekius 開く

関ヶ原の戦い 豊臣秀吉 前田利家 人物相関図 徳川家康 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

【人物相関図:関ヶ原の戦いー豊臣秀吉の死去ー】慶長3年(1598年)が豊臣秀吉が死去し、朝鮮出兵で生じていた豊臣政権内部の武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政ら)と文治派(石田三成ら)の対立が表面化しつつあった。この対立は、石田三成らが武断派の不利な報告を秀吉にして、武断派諸将を窮地に追い込んだのが原因だった。

一方、徳川家康は文治派と対立する武断派を取り込みを図り、かつ、伊達政宗の娘と六男・松平忠輝の政略結婚を推進するなど、野心を露わにしはじめた(秀吉生存時、大名間の婚姻には秀吉の許可が必要だった)。

しかし、豊臣秀吉を支えてきた前田利家が、野心を見せる徳川家康、豊臣政権内部の武断派(福島正則・加藤清正ら)、文治派(石田三成ら)に睨みを効かせていたため、何とか平穏は維持された。

人物相関図:関ヶ原の戦い−前田利家の死去 1599年−

作成日:2014/11/30 rekius 開く

関ヶ原の戦い 前田利家 人物相関図 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

【人物相関図:関ヶ原の戦い−前田利家の死去 1599年−】豊臣政権の功臣である前田利家の影響力によって、徳川家康・武断派、文治派の争いを辛くも回避していたが、その前田利家が慶長4年(1599)閏3/3に死去。

そのため、武断派・文治派の争いが一挙に表面化した。利家死去の翌日、武断派の七将、石田三成を襲った。石田光成は伏見城に逃走したが、結局、居城の佐和山城に蟄居させられることとなった。

人物相関図:関ヶ原の戦い−石田三成挙兵 1600年−

作成日:2014/11/30 rekius 開く

関ヶ原の戦い 人物相関図 石田三成 徳川家康 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

【人物相関図:関ヶ原の戦い−石田三成挙兵 1600年−】慶長4年(1599年)、前田利家死去を受けて、利家の子・前田利長が前田家の家督を相続した。

9月、徳川家康暗殺未遂事件が発生した。徳川家康は、前田利長らが家康を暗殺しようとした罪で、利長討伐の軍を招集した。
結局、(本当に利長が家康を暗殺しようとしたのかは不明だが)利長は家康に謝罪し、母(前田利家の妻)を人質として、家康に差し出した。これにより、五大老の一人で北陸の雄・前田家が家康の傘下に入った。

慶長5年(1600年)4月、徳川家康は、会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけた。景勝は、2年前に越後から会津120万石に国替えされたため、新領地の富国強兵のために勤しんでいた。
5月3日、上杉景勝の重臣、直江兼続から上洛拒否の書状が家康に届く(直江状)。
これを受けて、徳川家康は上杉景勝討伐の準備に入った。6月16日、家康は大坂城を出陣した(江戸城には7月2日に到着)。

石田三成は家康が機内を留守にしたことを受けて、動きを活発化させた。
光成は安国寺恵瓊・増田長盛らと計り、毛利輝元を大坂城に入城させることに成功(7月16日)。輝元を西軍の総大将とした。
7月17日、石田三成、挙兵(「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康(内府)を弾劾。事実上の宣戦布告となった)

マップ:関ヶ原の戦いー石田三成の挙兵までー

作成日:2014/11/29 rekius 開く

軍師官兵衛 関ヶ原の戦い 地図 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

【マップ:関ヶ原の戦いー石田三成の挙兵までー】慶長3年(1598年)が豊臣秀吉が死去し、朝鮮出兵で潜在的に不安定化しつつあった軋轢が表面化しつつあった。しかし、豊臣秀吉を支えてきた前田利家が、野心を見せる徳川家康、豊臣政権内部の武断派(福島正則・加藤清正ら)、文治派(石田三成ら)に睨みを効かせていたため、何とかバランスは維持された。

その前田利家が、慶長4年(1599)閏3/3に死去。
そのため、武断派・文治派の争いが一挙に表面化した。利家死去の翌日、武断派の七将、石田三成を襲った。石田光成は伏見城に逃走したが、結局、居城の佐和山城に蟄居させられることとなった。

翌年の慶長5年(1600年)4月、徳川家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけて上洛を促したが、景勝は拒否。6/16、徳川家康は上杉景勝を討つため、大坂城を出陣し、江戸城に向かった。
7/16、石田三成の要請で、毛利輝元が大坂城に入城。翌日、石田三成は挙兵した(光成は「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康を弾劾)。

*画像は、石田三成の挙兵時の勢力マップ。
赤は石田三成の味方、青は徳川家康の味方、グレーは中立、もしくは、旗幟不鮮明。

大坂城天守展望台から西の丸を撮影

作成日:2014/12/2 , 地図あり・方位あり・方位あり rekius 開く

関ヶ原の戦い 徳川家康 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー 大阪府 大阪市

【大坂城天守展望台から西の丸を撮影】関ヶ原の戦いで石田三成が大坂城で武断派の七将に襲撃されて、伏見城に逃げ、結局、光成は佐和山城に蟄居させれる事件が起こった。その半年後の慶長4(1599年)年9月、徳川家康は大坂城西の丸に入った。そして、西の丸に天守を造営したという。であれば、かつて、ここから家康の天守が見えたはず。

まさに、豊臣権力への挑戦。
恐るべし、徳川家康。

現在(2009年)の伏見城

作成日:2014/12/4 , 地図あり・方位あり・方位あり rekius 開く

関ヶ原の戦い 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー 関ヶ原の戦いー小山評定ー 淀川の城 京都府 京都市

【現在(2009年)の伏見城】写真の伏見城の天守は模擬天守で、1964年(昭和39年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の一環として鉄筋コンクリート構造で造られたらしい。2009年に訪問したが、模擬天守は耐震基準を満たしていないため内部非公開だった。
2007年公開の映画『茶々 天涯の貴妃』撮影のため、東映が大坂城に見立てた改修を行ったらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E

最初の伏見城である指月伏見城が慶長大地震(1596年)に倒壊したあと、木幡山に再建された(木幡山伏見城)。そして、関ヶ原の戦いの時の伏見城の戦いで焼失。江戸初期に再度、同地に再建された。

*関ヶ原の戦いでは、慶長5年(1600年)7月19日に西軍が伏見城(城将は鳥居元忠。兵力は約3000人)を攻撃し、8月1日に落城した。鳥居元忠は自刃。

木幡山伏見城の天守部分は、明治天皇伏見桃山陵となっている。
模擬天守の郭が長束正家の長束大蔵郭で、その南の郭が石田三成の石田治部少輔郭。

新幹線から佐和山城を撮影

作成日:2014/12/4 , 地図あり・方位あり・方位あり rekius 開く

関ヶ原の戦い 石田三成 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー 関ヶ原の戦いー小山評定ー 滋賀県 彦根市

【新幹線から佐和山城を撮影】佐和山城は、石田三成の居城だった。
関ヶ原の戦いの直前、光成は武断派の七将に襲撃された末、佐和山城に蟄居させれた。ということは、光成はこの佐和山城で策を巡らし、諸将への取り込み工作を行ったはず。

年に何回か通るものの、いつも通過するのみ。
一度歩いてみたいです。

動画|関ヶ原の戦いー豊臣秀吉の死去から石田三成の挙兵までー

作成日:2014/11/30 rekius 開く

軍師官兵衛 動画 関ヶ原の戦い 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー 関ヶ原の戦いの動画

小山評定の城、小山城

関ヶ原の戦い 徳川家康 戦国

投稿日: 2014/12/03

はじめに:

大河ドラマ『軍師官兵衛』の第48回(2014年11月30日)で、関ヶ原の戦いが起こる前、徳川家康と諸将が石田三成挙兵への対応を小山城で話し合うシーンがあったが、ここがその小山城。

この軍議を「小山評定」という。実際に小山評定が開かれたのは、小山城南の須賀神社境内とのこと。

小山評定の城、小山城

作成日:2014/12/2 , 地図あり・方位あり・方位あり rekius 開く

関ヶ原の戦い 徳川家康 小山評定 小山評定の城、小山城 関ヶ原の戦いー小山評定ー 栃木県 小山市

【小山評定の城、小山城】先週の大河ドラマ(20014年11月30日)で、徳川家康と諸将が石田三成挙兵への対応を小山城で話し合うシーンがあったが、ここがその小山城。

この軍議を「小山評定」という。実際に小山評定が開かれたのは、小山城南の須賀神社境内とのこと。

小山城は小山氏の居城で、小山氏は小山義政の乱(1380-82年)で衰退するまで栄えた。

写真にあるように、城の西側を思川が北から南に流れている。
西側以外は深い堀で囲まれていて、今でも遺構が残っている。

小山城の虎口

作成日:2014/12/2 , 地図あり rekius 開く

小山評定の城、小山城 栃木県 小山市

【小山城の虎口】小山城の虎口もなかなか印象的だった。

4年ほど前に訪問したので、正確な場所は忘れ申した。

小山城の空堀

作成日:2014/12/2 , 地図あり rekius 開く

小山評定の城、小山城 栃木県 小山市

【小山城の空堀】小山城の空堀は想像以上に遺構が残っていた。
小山氏のあと、北条、徳川が統治しているので、その改修を受けていると思われる。

4年くらい前に訪問したので、正確な場所は覚えていない。

関ヶ原の戦いー小山評定ー

関ヶ原の戦い 戦国

投稿日: 2014/12/06

はじめに:

石田三成挙兵の報告を受けて、徳川家康は上杉景勝討伐に同行している諸将と対応を協議した。この軍議を「小山評定」という。

徳川家康は、小山評定で、福島正則・黒田長政・山内一豊など、豊臣恩顧の諸将をつなぎとめることに成功した。

豊臣秀吉は徳川家康を警戒して、福島正則(清洲城)、山内一豊(掛川城)など、秀吉恩顧の武将たちで東海道沿いを固めていた。
特に清洲城は30万石ともいわれる大量の兵糧が蓄えられていたため、東海の重要な拠点だった。家康が彼らを取り込んだことは、無傷で清洲城(尾張)まで確保したことを意味した。

経過は以下の通りです。
***
【慶長5年(1600)】
・7/17 石田三成、挙兵(「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康を弾劾)
・7/19 西軍が伏見城(城将は鳥居元忠。兵力は約3000人)を攻撃
・7/22 西軍が田辺城(城将は細川幽斎。兵力は約500人)を攻撃(9/13 開城)
・7/25 小山評定
・8/1 伏見城、落城(鳥居元忠、自刃)
・8/5 徳川家康、江戸城に帰着。約1ヶ月間、江戸城に逗留し、上方の豊臣恩顧の諸将を味方につけるため、書状を送りまくる。
***

マップ|関ヶ原の戦いー小山評定ー

作成日:2014/12/7 , 地図あり rekius 開く

関ヶ原の戦い 小山評定 地図 関ヶ原の戦いー小山評定ー 栃木県 小山市

【マップ|関ヶ原の戦いー小山評定ー】関ヶ原の戦いにおける石田三成の挙兵から小山評定辺りの動きを説明した­マップです。

・動画版は↓
http://rekius.com/notes/1152

・関ヶ原の戦いの時、主要人物たちは何歳だったか?
http://rekius.com/timelines/92/event_ages?event_id=54

動画|関ヶ原の戦いー小山評定ー

作成日:2014/12/7 rekius 開く

動画 関ヶ原の戦い 小山評定 関ヶ原の戦いー小山評定ー 関ヶ原の戦いの動画

新幹線から佐和山城を撮影

作成日:2014/12/4 , 地図あり・方位あり・方位あり rekius 開く

関ヶ原の戦い 石田三成 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー 関ヶ原の戦いー小山評定ー 滋賀県 彦根市

【新幹線から佐和山城を撮影】佐和山城は、石田三成の居城だった。
関ヶ原の戦いの直前、光成は武断派の七将に襲撃された末、佐和山城に蟄居させれた。ということは、光成はこの佐和山城で策を巡らし、諸将への取り込み工作を行ったはず。

年に何回か通るものの、いつも通過するのみ。
一度歩いてみたいです。

現在(2009年)の伏見城

作成日:2014/12/4 , 地図あり・方位あり・方位あり rekius 開く

関ヶ原の戦い 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー 関ヶ原の戦いー小山評定ー 淀川の城 京都府 京都市

【現在(2009年)の伏見城】写真の伏見城の天守は模擬天守で、1964年(昭和39年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の一環として鉄筋コンクリート構造で造られたらしい。2009年に訪問したが、模擬天守は耐震基準を満たしていないため内部非公開だった。
2007年公開の映画『茶々 天涯の貴妃』撮影のため、東映が大坂城に見立てた改修を行ったらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E

最初の伏見城である指月伏見城が慶長大地震(1596年)に倒壊したあと、木幡山に再建された(木幡山伏見城)。そして、関ヶ原の戦いの時の伏見城の戦いで焼失。江戸初期に再度、同地に再建された。

*関ヶ原の戦いでは、慶長5年(1600年)7月19日に西軍が伏見城(城将は鳥居元忠。兵力は約3000人)を攻撃し、8月1日に落城した。鳥居元忠は自刃。

木幡山伏見城の天守部分は、明治天皇伏見桃山陵となっている。
模擬天守の郭が長束正家の長束大蔵郭で、その南の郭が石田三成の石田治部少輔郭。

【田辺城】田辺城城門

作成日:2013/1/4 , 地図あり・方位あり・方位あり fuji3zpg 開く

関ヶ原の戦い 細川幽斎 雪の田辺城 関ヶ原の戦いー小山評定ー 京都府 舞鶴市

【【田辺城】田辺城城門】田辺城の城門を撮影。

関ヶ原の戦いの折り、細川幽斎が兵500人で立て籠もった田辺城。西の伊佐津川、東の高野川、北は舞鶴湾に囲まれていた。当時、西軍1万5千が西舞鶴の平野にひしめいていたはず。

小山評定の城、小山城

作成日:2014/12/2 , 地図あり・方位あり・方位あり rekius 開く

関ヶ原の戦い 徳川家康 小山評定 小山評定の城、小山城 関ヶ原の戦いー小山評定ー 栃木県 小山市

【小山評定の城、小山城】先週の大河ドラマ(20014年11月30日)で、徳川家康と諸将が石田三成挙兵への対応を小山城で話し合うシーンがあったが、ここがその小山城。

この軍議を「小山評定」という。実際に小山評定が開かれたのは、小山城南の須賀神社境内とのこと。

小山城は小山氏の居城で、小山氏は小山義政の乱(1380-82年)で衰退するまで栄えた。

写真にあるように、城の西側を思川が北から南に流れている。
西側以外は深い堀で囲まれていて、今でも遺構が残っている。

【清洲城】新幹線から清州城を撮影。

作成日:2014/5/26 , 地図あり・方位あり・方位あり fuji3zpg 開く

関ヶ原の戦い 福島正則 関ヶ原の戦いー小山評定ー 愛知県 清須市

【【清洲城】新幹線から清州城を撮影。】新幹線から撮影した清州城の模擬天守。

関ヶ原の戦いの当時、清洲城には30万石ともいわれる大量の兵糧が蓄えられていた。もちろん、これは豊臣秀吉が徳川家康からの攻撃を想定してのことだろう。

清洲城主は福島正則で、秀吉に取り立てられた武将である。他にも、掛川城に同じく秀吉恩顧の山内一豊を置くなど、秀吉は秀吉恩顧の武将たちで東海道沿いを固めていた。

しかし、これら秀吉恩顧の武将たちは、石田三成が挙兵すると、徳川家康に味方してしまう(小山評定)。
それは小山評定で、福島正則が家康に従うことを明言したことで、この流れが作られたと言われている。

確かに関ヶ原の戦いでは、清洲城は戦場にならなかったが、戦場が関ヶ原となった大きな理由の一つが、清洲城(福島正則)を徳川家康が取り込んだことにあった。

関ヶ原の戦いと江戸城

作成日:2014/12/6 , 地図あり・方位あり・方位あり