関ヶ原の戦いは日本史史上、最も大規模で重要な合戦の1つです。
合戦がいかに起きて、いかに勝負がきまったか、詳細にみていきましょう。
投稿日: 2014/11/30
はじめに:
石田三成挙兵までの戦略マップと人物相関図を作りました。
経過は以下の通りです。
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【慶長3年(1598)】
・8/18 豊臣秀吉、伏見城で死去
【慶長4年(1599)】
・閏3/3 前田利家、大坂で死去→豊臣政権内部の武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政ら)と文治派(石田三成ら)、双方に影響力があった利家が死去することで、武断派・文治派の争いが表面化
・閏3/4 武断派の七将、石田三成を襲う→光成は伏見城に逃走→光成、居城の佐和山城に蟄居させられる
【慶長5年(1600)】
・4月 徳川家康、会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけ、上洛を促す
・5/3 上杉景勝の重臣、直江兼続から上洛拒否の書状が家康に届く(直江状)
・6/16 徳川家康、上杉景勝を討つため、大坂城を出陣
・7/16 石田三成の要請で、毛利輝元が大坂城に入城。
・7/17 石田三成、挙兵(「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康を弾劾)
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作成日:2014/11/30
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作成日:2014/11/29
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作成日:2014/12/2
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作成日:2014/12/4
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作成日:2014/11/30
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投稿日: 2014/12/03
はじめに:
大河ドラマ『軍師官兵衛』の第48回(2014年11月30日)で、関ヶ原の戦いが起こる前、徳川家康と諸将が石田三成挙兵への対応を小山城で話し合うシーンがあったが、ここがその小山城。
この軍議を「小山評定」という。実際に小山評定が開かれたのは、小山城南の須賀神社境内とのこと。
作成日:2014/12/2
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投稿日: 2014/12/06
はじめに:
石田三成挙兵の報告を受けて、徳川家康は上杉景勝討伐に同行している諸将と対応を協議した。この軍議を「小山評定」という。
徳川家康は、小山評定で、福島正則・黒田長政・山内一豊など、豊臣恩顧の諸将をつなぎとめることに成功した。
豊臣秀吉は徳川家康を警戒して、福島正則(清洲城)、山内一豊(掛川城)など、秀吉恩顧の武将たちで東海道沿いを固めていた。
特に清洲城は30万石ともいわれる大量の兵糧が蓄えられていたため、東海の重要な拠点だった。家康が彼らを取り込んだことは、無傷で清洲城(尾張)まで確保したことを意味した。
経過は以下の通りです。
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【慶長5年(1600)】
・7/17 石田三成、挙兵(「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康を弾劾)
・7/19 西軍が伏見城(城将は鳥居元忠。兵力は約3000人)を攻撃
・7/22 西軍が田辺城(城将は細川幽斎。兵力は約500人)を攻撃(9/13 開城)
・7/25 小山評定
・8/1 伏見城、落城(鳥居元忠、自刃)
・8/5 徳川家康、江戸城に帰着。約1ヶ月間、江戸城に逗留し、上方の豊臣恩顧の諸将を味方につけるため、書状を送りまくる。
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作成日:2014/12/7
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作成日:2014/12/4
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作成日:2013/1/4
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作成日:2014/5/26
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