投稿日: 2014/12/06
はじめに:
石田三成挙兵の報告を受けて、徳川家康は上杉景勝討伐に同行している諸将と対応を協議した。この軍議を「小山評定」という。
徳川家康は、小山評定で、福島正則・黒田長政・山内一豊など、豊臣恩顧の諸将をつなぎとめることに成功した。
豊臣秀吉は徳川家康を警戒して、福島正則(清洲城)、山内一豊(掛川城)など、秀吉恩顧の武将たちで東海道沿いを固めていた。
特に清洲城は30万石ともいわれる大量の兵糧が蓄えられていたため、東海の重要な拠点だった。家康が彼らを取り込んだことは、無傷で清洲城(尾張)まで確保したことを意味した。
経過は以下の通りです。
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【慶長5年(1600)】
・7/17 石田三成、挙兵(「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康を弾劾)
・7/19 西軍が伏見城(城将は鳥居元忠。兵力は約3000人)を攻撃
・7/22 西軍が田辺城(城将は細川幽斎。兵力は約500人)を攻撃(9/13 開城)
・7/25 小山評定
・8/1 伏見城、落城(鳥居元忠、自刃)
・8/5 徳川家康、江戸城に帰着。約1ヶ月間、江戸城に逗留し、上方の豊臣恩顧の諸将を味方につけるため、書状を送りまくる。
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