都市国家的な規模からスタートした権力機構は最終的に集権的な領域国家に発展したこと、そして、その典型が紀元前3世頃に成立したローマと前漢であることを「世界史古代概略」 http://bunmeitansaku.com/notes/1003 で書きました。
上記の通り、ローマの地中海覇権の確立と前漢の成立はほぼ同じ時期でした。
ローマによる地中海覇権までのプロセスを概観しましょう。
紀元前3世紀頃、共和政ローマはカルタゴの将軍ハンニバル・バルカの攻撃を受けて、四苦八苦していました。
その最大の戦いがカンナエの戦いで、ハンニバル率いるカルタゴ軍5万がローマ軍8万を包囲殲滅するという戦史に残る戦いでした(兵数は書き間違いで はありません。兵力劣勢のカルタゴ軍がローマ軍を包囲したのです)。ローマ側の死傷者は6万人といいますから、凄まじい話です。
Wikipedia:カンナエの戦い
しかし、ローマは粘って持久戦に持ち込み、補給に苦しむハンニバルをイタリア半島から駆逐、最後は北アフリカのザマの戦いでハンニバルを撃破することで、実質的に東地中海の覇権を手にしました。
*戦略流行りの昨今ですが、戦術でこんなに負けるとせっかくの戦略が台無しになり得ます。まあ、この事例では、ハンニバルの戦術はローマの戦略を打ち破れなかったのですが。。。
一方、中国では数百年に渡って、戦いが続いていましたが(春秋戦国時代)、紀元前221年、ついに秦の始皇帝が中国を統一しました。
これで決まりかと思ったら、始皇帝の死去とその後の混乱で、わずか十数年で秦は瓦解してしまいました。
その後、項羽と劉邦が覇権を巡って争っていました。そして、最後は垓下の戦いで劉邦が項羽を討ちとって、漢の覇権が確立されました。
次の年表をじっくりご覧ください。
ザマの戦いと垓下の戦いという東西の2つの決定的な戦いが同年に起こっているのが分かるでしょう。
この2つの戦いの結果、その後の約400年、東西でローマと漢の覇権が決まりました。それを考えると、実に興味深い話です。
ハンニバルと劉邦(前漢の初代皇帝)は同い年ですね。こんなところにも不思議な符合が。
まあ、ハンニバルの生まれ年はちょっと怪しいんですけどね。
(つづく)
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