慶長5年(1600年)7月21日、小野木重次ら1万5千の西軍が、細川幽斎の兵500が立て籠もる田辺城へ攻撃を開始した。田辺城の細川幽斎は9月13日まで頑張りぬいた末、開城した。
そのため、西軍1万5千の大軍は、9月15日の関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
五老タワーから西舞鶴をのぞむ。田辺城は中央右寄りの五老岳の出っ張りでギリギリ見えない辺り。
関ヶ原の戦いの折り、細川幽斎が兵500人で立て籠もった田辺城。西の伊佐津川(写真中央の川)と東の高野川(写真では見えない)に囲まれていた。当時、西軍1万5千が西舞鶴の平野にひしめいていたはず。
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