関ヶ原の戦いで石田三成が大坂城で武断派の七将に襲撃されて、伏見城に逃げ、結局、光成は佐和山城に蟄居させれる事件が起こった。その半年後の慶長4(1599年)年9月、徳川家康は大坂城西の丸に入った。そして、西の丸に天守を造営したという。であれば、かつて、ここから家康の天守が見えたはず。
まさに、豊臣権力への挑戦。
恐るべし、徳川家康。
歴ウス 公式Twitterページ |
|
歴ウス 公式Facebookページ |
|
歴ウス 公式YouTubeチャンネル |