慶長3年(1598年)が豊臣秀吉が死去し、朝鮮出兵で生じていた豊臣政権内部の武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政ら)と文治派(石田三成ら)の対立が表面化しつつあった。この対立は、石田三成らが武断派の不利な報告を秀吉にして、武断派諸将を窮地に追い込んだのが原因だった。
一方、徳川家康は文治派と対立する武断派を取り込みを図り、かつ、伊達政宗の娘と六男・松平忠輝の政略結婚を推進するなど、野心を露わにしはじめた(秀吉生存時、大名間の婚姻には秀吉の許可が必要だった)。
しかし、豊臣秀吉を支えてきた前田利家が、野心を見せる徳川家康、豊臣政権内部の武断派(福島正則・加藤清正ら)、文治派(石田三成ら)に睨みを効かせていたため、何とか平穏は維持された。
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