慶長3年(1598年)が豊臣秀吉が死去し、朝鮮出兵で潜在的に不安定化しつつあった軋轢が表面化しつつあった。しかし、豊臣秀吉を支えてきた前田利家が、野心を見せる徳川家康、豊臣政権内部の武断派(福島正則・加藤清正ら)、文治派(石田三成ら)に睨みを効かせていたため、何とかバランスは維持された。
その前田利家が、慶長4年(1599)閏3/3に死去。
そのため、武断派・文治派の争いが一挙に表面化した。利家死去の翌日、武断派の七将、石田三成を襲った。石田光成は伏見城に逃走したが、結局、居城の佐和山城に蟄居させられることとなった。
翌年の慶長5年(1600年)4月、徳川家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけて上洛を促したが、景勝は拒否。6/16、徳川家康は上杉景勝を討つため、大坂城を出陣し、江戸城に向かった。
7/16、石田三成の要請で、毛利輝元が大坂城に入城。翌日、石田三成は挙兵した(光成は「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康を弾劾)。
*画像は、石田三成の挙兵時の勢力マップ。
赤は石田三成の味方、青は徳川家康の味方、グレーは中立、もしくは、旗幟不鮮明。
作成日:2014/11/29
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