越前敦賀城主・大谷吉継の工作が功を奏して、越前は大方が西軍に属し、加賀でも一部が西軍に付いた。
慶長5年(1600年)7月26日、危機感を強めた東軍の前田利長は2万5千の兵を率いて金沢城を出陣し、加賀・越前の西軍諸城を攻略を目指した。
前田利長は、丹羽長重(丹羽長秀の嫡男)の小松城を攻めた。小松城は堅城で、丹羽軍兵3000が籠っていた。利長は小松城を落とせず、抑えの兵を置いて南下し、加賀の大聖寺城(城主は山口宗永)を攻めた。
8月3日、利長は大聖寺城を落とした。勢いに乗った利長は越前に入った。しかし、8月5日、利長は反転し、金沢城へ撤退を開始した。
一説によると、大谷吉継が海路、前田利長の居城・金沢城を攻めようとしているという報告を受けて、前田利長は一旦金沢城に帰ることにしたという。が、真偽は不明。
8月8日、丹羽長重は小松城の前を撤退中の前田軍を襲撃して、前田軍に損害を与えたが、前田軍が反撃に転じたことで、丹羽軍は小松城に退却。双方、損害を出しての痛み分けとなった。
なお、合戦があった辺りは湿地で、細い通路(畷)を通るしかなく、大軍の強みを発揮しづらい地形だったとのこと。
この戦いを地名から浅井畷の戦いという。
*なお、現地の石碑は↓の紹介されています。
http://www.komatsuguide.jp/index.php/spot/detail/175/1/2/
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