西暦: 1519年 〜 1560年

今川氏親の実子。生母は寿桂尼。

地域: 日本

今川義元

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関連する歴史年表: 『おんな城主 直虎』年表『北条龍虎伝』関連長尾景虎と上杉謙信武田信玄と織田信長、父親たちの遺産武田信玄北条氏康北条氏綱武田信虎戦国時代概略


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グラフ: 「今川義元」と同時代の人物

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グラフ: 「今川義元」と同時代の出来事

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表: 「今川義元」と同時代の人物

北条早雲(旧説) 1432年 〜 1519年 日本
狩野正信 1434年 〜 1530年 日本
宗長 1448年 〜 1532年 日本
レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452年 〜 1519年 ヨーロッパ
北条早雲 1456年 〜 1519年 日本
三好之長 1458年 〜 1520年 日本
尼子経久 1458年 〜 1541年 日本
カブラル 1460年 〜 1526年 ヨーロッパ
足利政氏 1462年 〜 1531年 日本
足利義材(義稙) 1466年 〜 1523年 日本
上杉憲房 1467年 〜 1525年 日本
マキャベリ 1469年 〜 1527年 ヨーロッパ
ヴァスコ・ダ・ガマ 1469年 〜 1524年 ヨーロッパ
エラスムス 1469年 〜 1536年 ヨーロッパ
ピサロ 1470年 〜 1541年 ヨーロッパ
セリム1世 1470年 〜 1520年 地中海、西アジア
デューラー 1471年 〜 1528年 ヨーロッパ
王陽明(王守仁) 1472年 〜 1528年 東アジア
以天宗清 1472年 〜 1554年 日本
今川氏親 1473年 〜 1526年 日本
コペルニクス 1473年 〜 1543年 ヨーロッパ
ラス・カサス 1474年 〜 1566年 ヨーロッパ
レオ10世 1475年 〜 1521年 ヨーロッパ
ミケランジェロ 1475年 〜 1564年 ヨーロッパ
大内義興 1477年 〜 1528年 日本
上杉定実 1478年 〜 1550年 日本
マゼラン(マガリャンイス) 1480年 〜 1521年 ヨーロッパ
マルティン・ルター 1483年 〜 1546年 ヨーロッパ
バーブル 1483年 〜 1530年 南アジア、東南アジア
細川高国 1484年 〜 1531年 日本
ツヴィングリ 1484年 〜 1531年 ヨーロッパ
足利高基 1485年 〜 1535年 日本
コルテス 1485年 〜 1547年 ヨーロッパ
イスマーイール1世 1487年 〜 1524年 地中海、西アジア
北条氏綱 1487年 〜 1541年 日本
上杉朝興 1488年 〜 1537年 日本
細川澄元 1489年 〜 1520年 日本
長尾為景 1489年 〜 1542年 日本
ミュンツァー 1490年 〜 1525年 ヨーロッパ
イグナティウス・ロヨラ 1491年 〜 1556年 ヨーロッパ
長野業正(長野業政) 1491年 〜 1561年 日本
ヘンリー8世 1491年 〜 1547年 ヨーロッパ
北条幻庵(長綱) 1493年 〜 1589年 日本
武田信虎 1494年 〜 1574年 日本
斎藤道三 1494年 〜 1556年 日本
スレイマン1世 1494年 〜 1566年 地中海、西アジア
フランソワ1世 1494年 〜 1547年 ヨーロッパ
六角定頼 1495年 〜 1552年 日本
太原雪斎 1496年 〜 1555年 日本
後奈良天皇 1496年 〜 1557年 日本
毛利元就 1497年 〜 1571年 日本
大井夫人 1497年 〜 1552年 日本
カール5世 1500年 〜 1558年 ヨーロッパ
三好元長 1501年 〜 1532年 日本
李退渓 1501年 〜 1570年 東アジア
武野紹鷗 1502年 〜 1555年 日本
武野紹鴎 1502年 〜 1555年 日本
雪村周継 1504年 〜 1589年 日本
フランシスコ・ザビエル 1506年 〜 1552年 ヨーロッパ
大内義隆 1507年 〜 1551年 日本
山科言継 1507年 〜 1579年 日本
足利晴氏 1508年 〜 1560年 日本
カルヴァン 1509年 〜 1564年 ヨーロッパ
長尾晴景 1509年 〜 1553年 日本
松永久秀 1510年 〜 1577年 日本
織田信秀 1511年 〜 1551年 日本
足利義晴 1511年 〜 1550年 日本
今川氏輝 1513年 〜 1536年 日本
真田幸隆 1513年 〜 1574年 日本
細川晴元 1514年 〜 1563年 日本
北条氏康 1515年 〜 1571年 日本
北条綱成 1515年 〜 1587年 日本
メアリ1世 1516年 〜 1558年 ヨーロッパ
正親町天皇 1517年 〜 1593年 日本
今川義元 1519年 〜 1560年 日本
カトリーヌ・ド・メディシス 1519年 〜 1589年 ヨーロッパ
今井宗久 1520年 〜 1593年 日本
陶晴賢 1521年 〜 1555年 日本
武田信玄 1521年 〜 1573年 日本
千利休 1522年 〜 1591年 日本
三好長慶 1522年 〜 1564年 日本
柴田勝家 1522年 〜 1583年 日本
上杉憲政 1523年 〜 1579年 日本
張居正 1525年 〜 1582年 東アジア
上杉朝定 1525年 〜 1546年 日本
松平広忠 1526年 〜 1549年 日本
長尾政景 1526年 〜 1564年 日本
フェリペ2世 1527年 〜 1598年 ヨーロッパ
斎藤義龍 1527年 〜 1561年 日本
柳生宗厳(石舟斎) 1527年 〜 1606年 日本
種子島時堯 1528年 〜 1579年 日本
明智光秀 1528年 〜 1582年 日本
ボーダン 1530年 〜 1596年 ヨーロッパ
大友義鎮(大友宗麟) 1530年 〜 1587年 日本
イヴァン4世(雷帝) 1530年 〜 1584年 ロシア
上杉謙信 1530年 〜 1578年 日本
朝倉義景 1533年 〜 1573年 日本
オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム) 1533年 〜 1584年 ヨーロッパ
小早川隆景 1533年 〜 1597年 日本
モンテーニュ 1533年 〜 1592年 ヨーロッパ
大村純忠 1533年 〜 1587年 日本
エリザベス1世 1533年 〜 1603年 ヨーロッパ
島津義久 1533年 〜 1611年 日本
織田信長 1534年 〜 1582年 日本
荒木村重 1535年 〜 1586年 日本
島津義弘 1535年 〜 1619年 日本
足利義輝 1536年 〜 1565年 日本
近衛前久 1536年 〜 1612年 日本
豊臣秀吉 1537年 〜 1598年 日本
足利義昭 1537年 〜 1597年 日本
北条氏政 1538年 〜 1590年 日本
前田利家 1538年 〜 1599年 日本
長宗我部元親 1539年 〜 1599年 日本
前田玄以 1539年 〜 1602年 日本
ヴァリニャーニ(バリニャーノ) 1539年 〜 1606年 日本
北条氏照 1540年 〜 1590年 日本
豊臣秀長 1540年 〜 1591年 日本
エル・グレコ 1541年 〜 1614年 ヨーロッパ
足利義氏 1541年 〜 1583年 日本
北条氏邦 1541年 〜 1597年 日本
アクバル 1542年 〜 1605年 南アジア、東南アジア
徳川家康 1542年 〜 1616年 日本
中川清秀 1542年 〜 1583年 日本
顕如(光佐) 1543年 〜 1592年 日本
ドレーク 1543年 〜 1596年 ヨーロッパ
狩野永徳 1543年 〜 1590年 日本
古田織部 1544年 〜 1615年 日本
増田長盛 1545年 〜 1615年 日本
浅井長政 1545年 〜 1573年 日本
北条氏規 1545年 〜 1600年 日本
李舜臣 1545年 〜 1598年 東アジア
最上義光 1546年 〜 1614年 日本
黒田官兵衛 1546年 〜 1604年 日本
武田勝頼 1546年 〜 1582年 日本
浅野長政 1547年 〜 1611年 日本
セルバンテス 1547年 〜 1616年 ヨーロッパ
織田有楽斎 1547年 〜 1621年 日本
真田昌幸 1547年 〜 1611年 日本
お市 1547年 〜 1583年 日本
斎藤竜興 1548年 〜 1573年 日本
本多忠勝 1548年 〜 1610年 日本
北政所 1548年 〜 1624年 日本
松浦鎮信 1549年 〜 1614年 日本
シャルル9世 1550年 〜 1574年 ヨーロッパ
今井宗薫 1552年 〜 1627年 日本
高山右近 1552年 〜 1615年 日本
マテオ・リッチ(利瑪竇) 1552年 〜 1610年 東アジア
誠仁親王 1552年 〜 1586年 日本
アンリ4世 1553年 〜 1610年 ヨーロッパ
毛利輝元 1553年 〜 1625年 日本
角倉了以 1554年 〜 1614年 日本
上杉景勝 1556年 〜 1623年 日本
藤堂高虎 1556年 〜 1630年 日本
ヤン・ヨーステン(耶楊子) 1556年 〜 1623年 日本
織田信忠 1557年 〜 1582年 日本
織田信雄 1558年 〜 1630年 日本
本阿弥光悦 1558年 〜 1637年 日本
小西行長 1558年 〜 1600年 日本
大谷吉継 1559年 〜 1600年 日本
松平信康 1559年 〜 1579年 日本
ヌルハチ(太祖) 1559年 〜 1626年 東アジア
狩野山楽 1559年 〜 1635年 日本
直江兼続 1560年 〜 1619年 日本
石田三成 1560年 〜 1600年 日本
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表: 「今川義元」と同時代の出来事

チャルディラーンの戦い 1514年 地中海、西アジア
北条氏康(北条3代目)、出生 1515年 日本
武田信虎、大井信達と戦い、敗北 1515年 日本
マキャベリ、『君主論』著す 1516年 ヨーロッパ
北条早雲、三浦氏を滅亡させ、相模制圧完了 1516年 日本
ポルトガル、明と広州で貿易をはじめる 1517年 東アジア
セリム1世(オスマン帝国)、マムルーク朝を滅ぼす 1517年 地中海、西アジア
ルター、九十五か条の論題を発表し、宗教改革はじまる 1517年 ヨーロッパ
今川氏親、遠江を制圧 1517年 日本
北条氏綱、北条早雲から家督相続(以降、小田原城が北条市の本拠地となる) 1518年 日本
大内義興、京を去って帰国する 1518年 日本
マゼラン、世界周航に出発 1519年 〜 1522年 ヨーロッパ
北条早雲、死去 1519年 日本
武田信虎、躑躅ヶ崎館に本拠地を移転 1519年 日本
武田信虎、甲斐の有力国人(大井信達ら)を撃破し、一応の甲斐統一(その後も混乱は続く) 1520年 日本
スレイマン1世、即位 1520年 〜 1566年 地中海、西アジア
細川高国、足利義晴(義澄の子)を擁立 1521年 日本
武田信虎、今川の重臣、福島氏の大軍を飯田河原の戦い、上条河原の戦いで撃破 1521年 日本
マゼラン、フィリピンに到達 1521年 ヨーロッパ
武田信玄(幼名、太郎)、出生。 1521年 日本
コルテス、アステカ王国を滅ぼす 1521年 中南米
ルター、『新約聖書』をドイツ語に翻訳 1521年 〜 1522年 ヨーロッパ
マゼラン艦隊、世界周航(マゼランはフィリピンで死亡) 1522年 ヨーロッパ
騎士戦争 1522年 ヨーロッパ
毛利元就、家督を継承する 1523年 日本
北条氏綱、伊勢氏から北条氏に改称 1523年 日本
寧波の乱 1523年 日本
武田信虎、扇谷上杉朝興の援軍として、関東を転戦(この時、岩付城を攻略) 1524年 日本
北条氏綱、太田資高の内応を誘い、江戸城を奪う 1524年 日本
ドイツ農民戦争 1524年 〜 1525年 ヨーロッパ
北条氏綱、白子原の戦いで扇谷上杉朝興に敗れる 1525年 日本
バーブル、即位(ムガル帝国を建国) 1526年 〜 1530年 南アジア、東南アジア
細川高国政権、崩壊 1526年 日本
ムガル帝国建国 1526年 南アジア、東南アジア
石見銀山発見 1526年 日本
『今川仮名目録』制定 1526年 日本
パーニーパットの戦い 1526年 南アジア、東南アジア
鎌倉の鶴岡八幡宮焼失 1526年 日本
スレイマン1世(オスマン帝国)、ウィーン包囲(第一次ウィーン包囲) 1529年 ヨーロッパ
武田信虎、扇谷上杉朝興の斡旋で、前関東管領の山内上杉憲房の未亡人を側室に迎える 1530年 日本
小沢原の戦い 1530年 日本
一条鞭法、施行 1531年 東アジア
細川高国、天王寺の戦いに敗れて自害 1531年 日本
武田信虎に対して、飯富虎昌、栗原兵庫、今井信元らが反乱を起こすが、信虎に撃破され、翌年、鎮圧される。信虎、甲斐統一完了。 1531年 〜 1532年 日本
トゥングー朝、成立(ミャンマー) 1531年 〜 1752年 南アジア、東南アジア
上杉憲政、上杉憲寛を追放して、山内上杉氏の当主になる 1531年 日本
法華一揆 1532年 日本
鶴岡八幡宮の造営始まる 1532年 日本
武田信虎の嫡男、武田太郎(武田信玄)、扇谷上杉朝興の娘を娶る 1533年 日本
ピサロ、インカ帝国を滅ぼす 1533年 中南米
イエズス会、結成 1534年 ヨーロッパ
ヘンリ8世、首長法を発布(イギリス国教会成立) 1534年 ヨーロッパ
スレイマン1世、仏にカピチュレーションを認める 1535年 地中海、西アジア
北条氏綱、今川氏輝の要請で、武田信虎勢と甲斐の郡内山中で戦う 1535年 日本
長尾為景、長男の長尾晴景に家督を譲る 1536年 日本
伊達稙宗、『塵芥集』を定める 1536年 日本
駿河守護の今川氏輝死去。今川氏で内乱が勃発し(花倉の乱)で、今川義元が勝者になる 1536年 日本
天文法華の乱 1536年 日本
(武田信玄)元服し、武田晴信と名乗る 1536年 日本
河東一乱 1537年 日本
7月、北条氏綱、扇谷上杉氏の本拠、河越城を奪う 1537年 日本
扇谷上杉朝興死去。家督は朝定が継ぐ 1537年 日本
武田信虎の娘が今川義元に嫁ぎ、甲駿同盟が成立 1537年 日本
プレヴェザの海戦 1538年 地中海、西アジア
北条氏綱、松戸台で小弓公方の足利義明勢と戦う(第1次国府台合戦) 1538年 日本
北条氏綱、娘を古河公方、足利晴氏の正室とする。その結果、北条氏は足利家の「ご一家」となる 1539年 日本
鶴岡八幡宮の正殿遷宮(落成式)が行われる 1540年 日本
北条氏綱、死去 1541年 日本
武田晴信(のちの信玄)、父の信虎を駿河に追放し、家督を手に入れる 1541年 日本
カルヴァン、ジュネーブ(スイス)で宗教改革(神政政治)をはじめる 1541年 ヨーロッパ
生野銀山、発見 1542年 日本
斎藤利政(道三)、美濃を押領する 1542年 日本
鉄砲伝来 1543年 日本
ポトシ銀山、発見 1545年 中南米
トリエント公会議 1545年 〜 1563年 ヨーロッパ
シュマルカルデン戦争 1546年 〜 1547年 ヨーロッパ
北条氏康、河越夜戦で、古河公方(足利晴氏)、山内上杉氏(上杉憲政)、扇谷上杉氏(上杉朝定)連合軍を撃破 1546年 日本
織田信秀、美濃の斎藤道三を攻めるも大敗(加納口の戦い) 1547年 日本
松平広忠、今川義元に息子の竹千代(徳川家康)を人質に送ったが、途中で織田信秀に奪われる 1547年 日本
(武田信玄)「甲州法度之次第」を定める 1547年 日本
上田原の戦い 1548年 日本
小豆坂の戦いで、今川義元、織田信秀を破る 1548年 日本
塩尻峠の戦い 1548年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、兄の長尾晴景から家督を受け継ぎ、越後守護代となる 1548年 日本
フランシスコ・ザビエル、来日 1549年 日本
今川義元、安祥城を落とし、城主、織田信広(織田信秀の子)を捕らえ、竹千代(徳川家康)と交換する 1549年 日本
織田信長、斎藤道三の娘(濃姫)を室に迎える 1549年 日本
細川晴元、江口の戦いで三好長慶に大敗 1549年 日本
戸石崩れ 1550年 日本
織田信長、父(織田信秀)の死により、家督を継承 1551年 日本
陶晴賢、大内義隆を滅ぼす 1551年 日本
北条氏康、甥の足利義氏を古河公方に擁立 1552年 日本
山内上杉憲政、長尾景虎を頼って、越後に落ちる 1552年 日本
第1回川中島の戦い 1553年 日本
甲相駿三国同盟、成立 1554年 〜 1569年 日本
前古河公方、足利晴氏が挙兵するが、北条氏康に敗れて捕らえられ、相模の波多野に幽閉される 1554年 日本
厳島の戦い 1555年 日本
第2回川中島の戦い 1555年 日本
アウグスブルクの和議 1555年 ヨーロッパ
長尾景虎(上杉謙信)、出家するため高野山へ向かう 1556年 日本
アクバル、即位 1556年 〜 1605年 南アジア、東南アジア
フェリペ2世、即位 1556年 〜 1598年 ヨーロッパ
斎藤道三、息子の斎藤義龍に討たれる(長良川の戦い) 1556年 日本
第3回川中島の戦い 1557年 日本
北条氏康、永禄2年(1559年)頃には上野を勢力下におさめる 1559年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、二度目の上洛。将軍、足利義輝から関東管領任命の内示を受ける 1559年 日本
北条氏康、家督を嫡子、北条氏政に譲る。しかし、この後も、氏康が軍政を手動する。 1559年 日本
統一法、制定される(英) 1559年 ヨーロッパ
武田晴信、信玄と号す 1559年 日本
長宗我部元親、家督相続 1560年 日本
桶狭間の戦い 1560年 日本
上杉謙信(長尾景虎)、関東管領となる 1561年 日本
上杉謙信、関東に侵攻し、小田原城を攻める 1561年 日本
第4回川中島の戦い 1561年 日本
ユグノー戦争 1562年 〜 1598年 ヨーロッパ
武田・北条連合軍、上杉謙信方の松山城を攻略する 1563年 日本
三好長慶、死去 1564年 日本
第5回川中島の戦い 1564年 日本
アクバル、ジズヤを廃止 1564年 南アジア、東南アジア
13代将軍、足利義輝、殺害される 1565年 日本
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「今川義元」の関連ノート

【歴史小説家・伊東潤氏の読書会に出席】本日(2016/1/21)は歴史小説家・伊東潤氏の読書会に行ってきました。テーマは短編小説『国を蹴った男』について語るというもの。主人公は今川義元の息子、今川氏真で、戦国武将としては暗愚とされてきた人物です。その彼を伊東さんはどう書いたのか。つづきは本を読んでみてください(笑
英雄豪傑譚とは違う面白さがありました。

作品はもとより、テーマの決め方、調べ方、どうしたらもっとよくなったかなど、実に様々なことに答えられまた語り合って、いち読者として大変興味深いものがありました。

またコルク社が伊東さんのエージェントに入っていて、そのコルクが会場でした。参加者は10名強。そちらの動きも要注目かと。
http://peatix.com/event/229543

歴史小説家・伊東潤氏の読書会に出席

作成日:2017/1/21 , by rekius 開く

【立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー】<h2>立河原の戦いとその後</h2>
<p>今回のテーマは「<strong>立河原の戦い</strong>」である。</p>
<p>永正元年(1504年)、古河公方、足利政氏を擁する山内上杉顕定の軍勢と扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍が、多摩川と浅川の合流点である立河原で戦った。この戦いを立河原の戦いという。 <br>合戦の結果は、扇谷上杉氏・今川氏親・北条早雲の連合軍が大勝だったものの、その後、越後から越後上杉氏の援軍(越後守護は山内上杉顕定の実弟、上杉房能)が到着し、翌年(1505年)、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に降伏する。その結果、20年弱続いた両上杉氏の対立(長享の乱)は山内上杉氏の勝利で終結した。</p>
<h2>立河原の戦いと関連人物</h2>
<div> </div>
<h2>第5話「稀なる人」で出てくる土地をめぐる</h2>
<p><strong>伊東潤 『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</strong>の第5話「稀なる人」では、立河原の戦いが扱われている。そこで、この話に出てくる土地をまわることにした。 <br>小説では、枡形山城→高幡城→普済寺という流れで話が進むが、その流れで走ると、ダラダラとした上り坂をひたすら登ることになる。 <br>私は、以前、古河城→小山城→結城城を巡った時に、同じくダラダラ続く登り道に苦しめられた。ゆえに、不本意ではあるが、ダラダラ上り坂は避けて、下り坂を選んだのである。</p>
<h2>出発、電車で立川駅へ</h2>
<p>さて、自宅を発して、東京駅に着いたのが午前7時、電車に乗り、普済寺近郊にある立川駅に8時過ぎに到着した。立川駅を出て、さっさと折りたたみ自転車を組み立てる。そして、iPhone4を自転車に装着して、さあ出発。</p>
<h2>普済寺</h2>
<p>最初の目的地は普済寺だった。立川駅から数百メートルほどなので、8時30分前には着いた。</p>
<p>普済寺は東京都立川市にある臨済宗建長寺派の寺院で、武蔵七党西党日奉の支族である立河氏の館があったと言われている。 <br>伊東さんの小説では、立河原の戦いに際して、山内上杉顕定は2代古河公方の公方足利政氏を奉じて普済寺に陣を構えたとしている。現地には、立河氏の館跡と言われる土塁が遺構として残っていた。</p>
<h2>多摩川へ</h2>
<p>普済寺を出て、多摩川には数分ほどで着いた。 <br>サイクリングロードに入ると、実に気持ちよく走ることができる。この日の数日前まで残暑が厳しかったが、この日の午前中は特に涼しく、サイクリングには適したコンディションだった。</p>
<p>さて、サイクリングロード沿いに南東に進み、浅川との合流点の少し前辺りまできた。<br> 伊東さんの小説では、高幡城を出た氏親・早雲の連合軍が多摩川を渡って、普済寺を出撃した山内上杉顕定勢と戦ったことになっているので、距離的に中間地帯のこの辺が戦場になるかもしれないと勝手に想像してみた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ある程度の広さがあり、大河の河原らしい草が生えている。ただ、河原に石がないので、小説のイメージ通りにはいかない。 なお、戦いは旧暦の9月27日だったとのことなので、新暦で言うと、11月上旬頃ということになる。とすれば、渡河して体が濡れるとさぞかし兵たちは寒かっただろう。顕定にはその様子が好機と映ったとしても不思議ではない。 <br>*写真は東京都府中市四谷の辺り。 なお、渡河作戦の難しさについては、『荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正- ~その1~』に書いた。</em>
</div>
<div> </div>
<p>来た道を少し戻って、都道20号の橋で多摩川を渡り、万願寺駅で南下するという経路で、浅川に着いた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>9時15分ごろ、浅川を渡る。 <br>多摩丘陵の北端が見える。写真枠外の右側に高幡城がある。</em>
</div>
<h2>高幡城</h2>
<p>浅川を渡ると、高幡不動はもうすぐだ。高幡不動に着く前に一休みしたので、高幡不動に着いたのは10時ごろだった。高幡城は、高幡不動の裏山にあり、そこからの眺望はよく、多摩川方面を遠望できる。</p>
<p>高幡不動に着いて、自転車をとめて、境内を歩くとすぐに土方歳三の銅像が立っているので、一瞬、おやっと思った。そういえば、土方歳三は武州多摩の出身だったことを思い出した。後で調べてみると、高幡不動は新選組副長である土方歳三の菩提寺だそうだ。土産物屋をのぞくと、土方グッズがたくさん売られており、新選組人気を確認した次第である。</p>
<p>目的地は高幡城なので、かつて城があった裏山に向かった。高幡城は比高50mの山城なので、少し坂道を登ると本丸跡を見つけることができた。 <br>伊東さんの小説では、ここで扇谷陣営の軍議が行われたことになっている。今は木々が繁っているので、その隙間からしか眺めが得られないが、かつては木を切っていたはずなので、本丸からの眺めはさぞかしよかったと思う。</p>
<h2>犬懸上杉憲秋、回想</h2>
<p>突然だが、犬懸上杉憲秋という人物をご存知だろうか。中世関東史を学んだ人以外は生涯知ることもない人物だと思うが、北条早雲が生まれる1年前にこの城で自害して亡くなった人である。</p>
<p>彼の父親は犬懸上杉氏憲(禅秀)で、1416年に上杉禅秀の乱という反乱を起こした人物として有名だ。犬懸家は山内家と交代で関東管領を歴任していた名家だったが、上杉禅秀の乱を契機に没落してしまった(その代わりに台頭したのが、扇谷家)。何事もなければ、輝かしい未来を約束された人生から一転、上杉憲秋は謀反人の子供になってしまったわけだ。<br>そして、何とか手柄を立てて犬懸家を復興させようと、家運を両上杉氏に賭けて、憲秋は戦いに臨んだ。享徳4年(1455年)1月、鎌倉公方・足利成氏勢と両上杉勢は、府中の分倍河原から東京都昭島市拝島辺りで戦った。この戦い(第1次立河原の戦い)で、憲秋は両上杉氏側の先鋒を務めるが、敗れてしまい、高幡城で自刃した。なお、第2次立河原の戦いが今回のテーマ「立河原の戦い」である。</p>
<p>なぜ私はこの人物のことを書いているか、その理由を記してみたいと思う。<br> 私は以前、坂田祐樹氏の 『<a>関東公方成氏</a><img>』という小説を読んだことがあり、その中で上杉憲秋が出てくる。 <br>その小説の中で、彼は自分の運命を恨み、ニヒルな笑いを浮かべながらも社会的に生き返る機会を探しながら生きている。その姿がなぜか私には印象的だった。そして、今回、伊東さんの小説をテーマに高幡城をまわることになり、高幡城について調べていると、彼がここで自害したことを見つけ、何か思うところがあり、こうして記してみたわけである。 <br>おそらく、坂田さんの小説を読んでいなかったら、彼のことをこうして書くこともなかっただろう。そう考えると、歴史小説は過去と現在を結ぶ機能があることに気付く。たとえ回想する人が少数であっても、500年後に回想される人物はそうは多くないだろう。<br>むろん、その回想が実際の彼にどれだけ即しているかを確かめるすべはないのだが。 そして、もう1つ歴史小説が持つ面白い機能は、一度人物のイメージが形成されると、そのキャラクターに親しみを覚えることだと思う。親しみを覚えたこそ、私はこうして彼について記しているわけだ。</p>
<p>遠い昔のこととはいえ、一人の男が時代に翻弄されながらも、活路を求めて生きて、戦って、敗れ、自害したその場所にいると何かしらの思いが湧いてこざるを得ない。</p>
<h2>関戸城</h2>
<p>さて、高幡不動を出て、川崎街道を東に進み、次は枡形山城を目指す。 <br>右手に多摩丘陵を見ながら、所々、上り坂はあるものの、基本的になだらかな下り坂を走っているので、想定通り、快適に走れる。 <br>府中から見て多摩川の対岸にある関戸には、11時過ぎに着いた。<br> 今回のテーマには関係ないが、この辺りにはかつて関戸城という城があった。関戸城は、高幡城と同じく、多摩丘陵の北端にある山城で、城の右側を鎌倉街道上道が通っている要衝である。中世の府中はとても栄えていた土地で、府中の対岸にある関戸には宿があり栄えていた。また、その重要性ゆえに鎌倉の攻防をめぐって、何度も大きな戦いがあった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>2010年9月撮影 <br>自転車で走っていて、偶然見つけた標柱。1333年に新田義貞が分倍河原と関戸で鎌倉幕府軍と戦って勝利し、その数日後に鎌倉を陥落させている。つまり、この地を制して、はじめて鎌倉への道が開かれるのである。</em></div>
<div> </div>
<p>事前に調べたところ、関戸城には遺構は残っていないものの、天守台の標柱があるとのことだったので、それを探すことにした。天守台がある場所というのは、一番高いところか、それに準ずるところと相場は決まっているので、それらしい場所を目指して、丘陵を登っていく。<br> 大体、この辺りだろうという勘が働いたので、その辺を歩いていると、地元の人と思しき年配の女性が歩いてきた。もしかしたら標柱のことをご存知かもしれないと思い、聞いてみることにした。</p>
<p>「あのー、すいません」 <br>「あ、はい」 <br>「この辺に昔、関戸城があって、その案内板みたいなものがこのあたりにあると思うんですが、ご存じないでしょうか。」 <br>「ええと、ごめんなさい。知らないわ。」</p>
<p>そんなやりとりをしていると、細い道にタクシーが入ってくる。私は急いで自転車を道路の横によける。そのタクシーは5mほど先に進んだところで止まった。</p>
<p>「ここは桜ヶ丘1丁目で、関戸はもっと東だから、そっちにあるんじゃないかしら」<br>「なるほど、そうなんですか。どうもありがとうございました。」<br> 私は関戸城が桜ヶ丘1丁目にあることを資料で知っていたが、親切に教えてくれた人に言い返すのも何だと思い、その場を去ろうとした。すると、後ろから声がする。 <br>「あのー」<br> 私が振り返ると、 <br>「タクシーの運転手さんに聞いてみたらどうかしら。ご存知かもしれませんよ。」 <br>なるほど、それは一理ある。<br> 私はお礼を言って、タクシーに向かった。</p>
<p>タクシーに向かうと、どうもタクシーの運転手さんはお疲れのようで、何だか話しかけずらい雰囲気だった。そこで、「まあいいか、どうせ標柱はこの近くにあるはずだ」と思って、再び探し始めました。すると、その場所からすぐのところに標柱が見つかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ついに見つけた「天守台」標柱。自分の推理が当たった時は素直に嬉しいものである。 <br>多摩川方面への写真を撮ろうと思ったが、この付近(桜ヶ丘1丁目)は所狭しと住宅が立ち並び、よい写真は撮れなかった。しかし、住宅の隙間からは北、東、南に視野が得られることが分かった。</em>
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<p>私が尋ねた女性がなぜすぐそこにある標柱を知らなかったのか分からないが、やはり近所であっても関心がないと知らないものなのかもしれない。というのも、私は大学生の頃、今回の目的地の1つである枡形山城の近くに住んでいたが、枡形山城の存在を知なかった。近年、中世関東史を調べていて、はじめて枡形山城の存在に気付いたのである。</p>
<p>関戸城を出た頃には、昼前になっていたので、多摩川を渡り、府中方面へ行き、中華料理屋で昼食をとった。 <br>昼食後、私は本日最後の目的地である枡形山城に向かって走り始めた。</p>
<h2>iPhone4の携帯式充電池</h2>
<p>私は「EveryTrail」という、GPSを使って自転車で走ったところを記録して、地図に書き込んでくれるソフトを使っている(*)。 <br>このソフトは便利だが、電池の消費がすさまじく、2時間半ほど使った結果、残りの電池残量が50%を切っていた。ただ、これはこのソフトの問題というより、GPSを使った同種のソフトでも同じように消費する。あらかじめ分かっていた問題だったので、私は事前にサンヨーの携帯式充電池(KBC-L2AS )を買っておいた。</p>
<p><em>(*)2010年当時の話。当時は歴史めぐりにこういうツールを使うのは先進的な試みだった。</em></p>
<p></p>
<p>装着するとこんな感じになる。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月 </em><br><em>自転車ホルダーにiPhone4を装着し、さらに携帯式充電池をiPhone4に接続した写真。バッグの中に、携帯式充電池が入っており、白いケーブルを通して、iPhoneと接続されている。iPhoneアプリの「EveryTrail」を使いながら充電できる。</em>
</div>
<div> </div>
<h2>乞田川の上り坂</h2>
<p>さて、電池の心配もなくなったので、午後の部、出発。 <br>多摩川を再び南側に渡って、川崎街道を東進する。乞田川(こったがわ)を渡るあたりから、上り坂が続く。昼食をとったばかりで元気だったので、最初は颯爽と駆け上がっていったが、走っても走っても終わらないので、ついに自転車を押して歩くことにした。あとで、乞田川にかかる橋から坂がおわる連光寺坂上辺りまで距離を測ってみると、1km強あった。長いはずである。</p>
<h2>懐かしの向ヶ丘公園駅</h2>
<p>その分、下り坂は気持ちよく走ることができた。 <br>その後も、基本的に下り坂なので快適だ。特に問題もなく、稲城市を通って、川崎市多摩区に入る。そして、14時ごろ、懐かしの向ヶ丘遊園駅に着いた。私は大学生の頃にこの周辺に住んでおり、向ヶ丘遊園駅にもよく来た。駅は改装されたようで、きれいになっていた。並んでいる店も結構変わっていたが、街の構造自体に変化はないようだ。</p>
<h2>枡形山城へ</h2>
<p>さて、今回は感傷に浸りに来たわけではないので、気を取り直して、枡形山城に向かう。 <br>枡形山城は、直線距離で向ヶ丘遊園の南700mほどのところにある生田緑地の中にある。当城は、標高80m強、比高60m弱の山城で、多摩丘陵の北端にあり、多摩川方面の武蔵野台地を一望できる。そういう点では、高幡城や関戸城と似ている。</p>
<p>永正元年(1504年)の立河原の戦いの時、北条早雲が先に当城に着き、数日後の9月20日に今川氏親が到着して、合流した。その様子が伊東潤 『疾き雲のごとく 』の第5話「稀なる人」でも書かれている。そして、その後、早雲と氏親は9月27日の立河原の戦いを迎えた。</p>
<p>枡形山城跡を目指して山を登っていくと、緑が豊かで改めて良いところだと思った。大学時代、一度も訪れたことがなかったのは惜しいことだ。 <br>山頂に着くと、子供連れの親子が結構たくさんいる。子供が大声で叫びながら、遊んでいる。山頂はそれなりの広さがあり、公園になっている。遊ぶ環境もあり、当然クルマも走っていないため、親にとっては安心して遊ばせることができるスポットなのだろう。</p>
<h2>iPhone4の逆光問題</h2>
<p>曲輪の北端には、結構大きな望楼が建っていて、そこから四方を遠望することができる。 <br>早速、iPhone4で写真を撮ってみた。すると、逆光のためか、写りがよくない。そこで、Panasonic製のデジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で撮ってみると、かなり違いがあった。高幡城でも少し気にはなっていたが、やはりそうだったのかという感じだ。「iPhone4があるので、デジカメは必要なし」というわけにはいかず、当面、併用することになりそうである。 <br>まあ、写真を編集すればある程度は何とかなるが、数が数だけにできるだけ、そのまま使いたいものだ。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>iPhone4で撮影した枡形山城からの写真。</em>
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<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>Panasonic製デジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で、ほぼ同じ場所と時間から撮った写真。ただし、逆光ではないところで撮ると、それほど変わらない。さすがにPanasonicのデジカメはカメラ専用機器だけあって、対応できる状況の幅が広いのだろうか。</em>
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<div> </div>
<p>城の周辺を少し散策したあと、向ヶ丘遊園駅に戻り、この日の歴史サイクリングを終えた。</p>
<h2>おまけ: 寿桂尼の生涯</h2>
<p>「稀なる人」の最後のほうで、今川氏親が藤原北家カ勧修寺流中御門家の娘を妻に迎える話が出てくるが、この女性こそ、後に寿桂尼と呼ばれる人で、今川氏親の正室であり、今川義元の母である。</p>
<p>氏親が晩年、病気で政務をとれなくなると、氏親を補佐した。氏親の死後も、陰に日向に今川家を支え続けた。今川義元が当主になると、今川家の全盛期を迎えた。しかし、義元は、永禄3年(1560年)、尾張攻略の途中に桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られてしまう。 <br>その後、今川義元の子(寿桂尼の孫)、氏真が当主となるが、今川家の衰退がはじまり、永禄11年(1568年)武田信玄の駿河侵攻の数ヶ月前に寿桂尼は死去した。</p>
<p>彼女は1505年頃に今川家に嫁いでいるので、晩年の早雲を知っていたはずであり、織田信長のために、頼りになる実子の義元を失い、武田信玄によって、今川家が実質的に滅ぼされる直前まで生きたことになる。 <br>このように、寿桂尼の生涯を追っていくことで、戦国初期(代表的人物:早雲)から中期(代表的人物:信玄)、そして、後期(代表的人物:信長)のはじまりまでを見ていくことができる。</p>
<p>分かりきったことではあるが、寿桂尼の人生を通して、戦国時代とは何とも厳しい時代であったと改めて思うのである。</p>
<p>(終)</p>
<p><em>* なお、マップの位置は今回の歴史サイクリングの範囲を大体示すために設定した。合戦がそこであったという意味ではないので、ご注意を。</em></p>

立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

立河原の戦い フィールドをゆく 北条早雲 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー

【安部川餅の誤算】<h2>北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡</h2>
<p>6月下旬の梅雨時期に、2泊3日で静岡県に行ってきた。その時のテーマは、「北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡」であった。基本的に、焼津から東進し、三島に至り、三島から南下して、修善寺でゴールという日程を考えていた。自転車による3日間の総走行距離は約180kmだった。</p>
<h2>小川の長者、長谷川法栄</h2>
<p>初日は東京駅を発し、焼津駅に降り、焼津の南隣にある小川の港へ行った。小川は、今川氏親擁立に尽力した長谷川法栄(*)の拠点である。</p>
<div><em>(*)長谷川法栄:今川氏親擁立に貢献した人物で、小川を拠点にしていた。 氏親の父、今川義忠が遠江で戦死した後、幼少の氏親はすぐに家督を相続することはできなかった。家督は、一旦、義忠の従兄弟の小鹿範満が引き継いだ。その混乱の中、法栄は氏親を小川でかくまったという。彼は早雲の有力な味方だった。 その辺の様子が司馬遼太郎『箱根の坂』に詳しく書かれている。</em></div>
<p> </p>
<h2>丸子城へ</h2>
<p>その後、朝比奈川を渡り、国道1号線を通って、泉ヶ谷の西に位置する丸子城を訪れた。丸子城は、東海道を押さえる要地にあり、今川の本拠地、今川館の北西に位置する。また、氏親が家督相続できないでいた間、この城を居城にしていたという。そうであれば、氏親擁立の中心人物であった、早雲も何度もこの城を訪れたことだろう。</p>
<p>丸子といえば、とろろ汁が有名だが、着いたときがすでに夕方だったため、店が閉まっており、とろろ汁は諦めざるを得なかった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年6月27日撮影 </em><br><em>司馬遼太郎『箱根の坂』のイメージに近いと思い撮影した。</em>
</div>
<h3>安部川餅を食べよう!</h3>
<p>翌日は、しからばということで、安部川餅を食することに決め、ホテルを出た。<br>最初、駿府城(今川館跡に築城された)、そして、浅間神社を見学した後、臨済寺に行った。臨済寺は早雲の姉(司馬遼太郎『箱根の坂』では妹という設定になっている。今川義忠の正室で、今川氏親の母)、北川殿の別邸跡に建てられ、今川義元も青年期を過ごした場所だという。 <br>当寺は賤機山の山麓にあり、本堂のある高地からは市街地がよく見える。すでに10時30分を過ぎて暑くなってきたが、境内の清々しい雰囲気が心地よかった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>臨済寺の本堂前からの写真。</em>
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<div> </div>
<p>臨済寺を出て、予定通り、安部川餅を食べに安部川橋東側に向かうことにした。この頃になると、太陽が照り始め、気温はぐんぐん上昇しているのが分かった。11時頃に目的地付近に着くと、観光ガイドブックに載っていた佇まいの店があった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川橋の東側から、安倍川をのぞむ。</em>
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<p><a><img></a></p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川餅の「せきべや」さん</em>
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<h2>安倍川餅の「せきべや」さん、発見!</h2>
<p>ここだと思い、汗を拭いつつ、店に入った。この店が300年の歴史を持つという「安倍川餅せきべや」である。店の中は、冷房がかかっており、涼しかった。安部川餅(600円)を注文し、待つことしばし、やってきた安部川餅を見て、私は「しまった」と思った。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>「せきべや」さんの安部川餅。見た目よりボリュームがあり、満腹になった。若干、黄粉餅が分かりくいかもしれない。黄粉餅は皿の右側にある。その黄粉餅に砂糖がかかっている。</em>
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<div> </div>
<h2>「しまった」と思った理由</h2>
<p>それは餅の味がどうこうという話ではなく、このシチュエーションでは、餅というチョイス自体が誤りだったではないかということだ。なぜかというと、その重く、粉っぽい様子に食欲が湧いてこないのである。すでに、暑さにやられつつある体に、この重量感と粉っぽさはきつい。もう少し冷たいもの、せめて、チュルチュルと食べられるものにしたらよかったと思った(もちろん、餅自体はすべていただいて、店のチョイスにミスはなかったと思った)。</p>
<h2>ご当地グルメは胃と相談しよう</h2>
<p>思えば、前日にとろろ汁を食べ損なったのがトラウマになり、何としてもご当地グルメを食べるということが強迫観念となり、冷静な判断力を鈍らせたのかもしれない。思い込みというのは恐ろしいものである。<br>昨日、とろろ汁を食べていれば、おそらくこれほど暑い中、餅を食べるのは不適と判断して、別のものを食べていたことだろう。食べ物に関しては、頭が要求するものより、胃腸が要求するものを優先させたほうがよいとつくづく思った。今度は、安部川餅を見て胃腸が喜ぶ時期に、もう一度、トライしてみたいものだ。</p>
<p>その日の夕方、いつもより腹が減らないなと思ったとき、ふと昼に食べた阿部川餅のことを思い出した。失敗にも、効用はあるようだ。</p>
<p>(終)</p>

安部川餅の誤算

作成日:2014/6/23 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

安倍川餅 フィールドをゆく 静岡県 静岡市

【臨済寺から静岡市街を撮影】<p>臨済寺は早雲の姉(今川義忠の正室で、今川氏親の母)、北川殿の別邸跡に建てられ、今川義元も青年期を過ごした場所だという。 <br>当寺は賤機山の山麓にあり、本堂のある高地からは市街地がよく見える。</p>

臨済寺から静岡市街を撮影

作成日:2014/6/23 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

臨済寺 北川殿 静岡県 静岡市

織田信長の父、織田信秀の年表。<br><br>1510年頃、清須織田家の三奉行の1つ、織田弾正忠信定の子として誕生。<br>1533年、飛鳥井雅綱と山科時継が勝幡城の織田信秀を訪問。<br>1534年、織田信長が誕生。<br>1535年、三河の松平清康(徳川家康の祖父)が尾張東部の守山まで侵入したが、清康は家臣に刺されて死亡。<br>1538年、今川氏豊(今川義元の弟)が城主の那古屋城を落とす。<br>1539年、古渡城を築城し、居城とする。<br>1540年、三河の安祥城を落とす。<br>1544年、美濃の斎藤道三の居城、稲葉山城に攻め込むも、惨敗。<br>1546年、信秀の居城、古渡城で、信長元服。<br>1547年、信長初陣。三河の吉良大浜で放火し、那古屋城に帰還。<br>1548年、末森城を築城し、居城とする。小豆坂の戦いで、今川義元勢に敗れる。今川勢に安祥城を奪われる。<br>1549年、斎藤道三の娘、濃姫を信長の正室に迎え、ひとまず、北の脅威を取り除く。<br>1552年頃、信秀、死去。

作成日:2014/5/16 , by fuji3zpg 開く

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