西暦: 1530年 〜 1578年

長尾為景の実子。関東管領、上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られ、関東管領に就任。信濃に侵入してきた武田信玄と死闘を演じた。四度目の川中島の戦いが有名。

読み: うえすぎけんしん / Uesugi Kenshin
別名: 長尾景虎
地域: 日本

上杉謙信

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関連する歴史年表: 長尾景虎と上杉謙信武田信玄と織田信長、父親たちの遺産武田信玄北条氏康織田信長の「天下布武」への道戦国時代概略


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グラフ: 「上杉謙信」と同時代の人物

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グラフ: 「上杉謙信」と同時代の出来事

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表: 「上杉謙信」と同時代の人物

狩野正信 1434年 〜 1530年 日本
宗長 1448年 〜 1532年 日本
尼子経久 1458年 〜 1541年 日本
足利政氏 1462年 〜 1531年 日本
エラスムス 1469年 〜 1536年 ヨーロッパ
ピサロ 1470年 〜 1541年 ヨーロッパ
以天宗清 1472年 〜 1554年 日本
コペルニクス 1473年 〜 1543年 ヨーロッパ
ラス・カサス 1474年 〜 1566年 ヨーロッパ
ミケランジェロ 1475年 〜 1564年 ヨーロッパ
上杉定実 1478年 〜 1550年 日本
マルティン・ルター 1483年 〜 1546年 ヨーロッパ
バーブル 1483年 〜 1530年 南アジア、東南アジア
細川高国 1484年 〜 1531年 日本
ツヴィングリ 1484年 〜 1531年 ヨーロッパ
コルテス 1485年 〜 1547年 ヨーロッパ
足利高基 1485年 〜 1535年 日本
北条氏綱 1487年 〜 1541年 日本
上杉朝興 1488年 〜 1537年 日本
長尾為景 1489年 〜 1542年 日本
イグナティウス・ロヨラ 1491年 〜 1556年 ヨーロッパ
長野業正(長野業政) 1491年 〜 1561年 日本
ヘンリー8世 1491年 〜 1547年 ヨーロッパ
北条幻庵(長綱) 1493年 〜 1589年 日本
斎藤道三 1494年 〜 1556年 日本
スレイマン1世 1494年 〜 1566年 地中海、西アジア
フランソワ1世 1494年 〜 1547年 ヨーロッパ
武田信虎 1494年 〜 1574年 日本
六角定頼 1495年 〜 1552年 日本
後奈良天皇 1496年 〜 1557年 日本
太原雪斎 1496年 〜 1555年 日本
毛利元就 1497年 〜 1571年 日本
大井夫人 1497年 〜 1552年 日本
カール5世 1500年 〜 1558年 ヨーロッパ
三好元長 1501年 〜 1532年 日本
李退渓 1501年 〜 1570年 東アジア
武野紹鷗 1502年 〜 1555年 日本
武野紹鴎 1502年 〜 1555年 日本
雪村周継 1504年 〜 1589年 日本
フランシスコ・ザビエル 1506年 〜 1552年 ヨーロッパ
大内義隆 1507年 〜 1551年 日本
山科言継 1507年 〜 1579年 日本
足利晴氏 1508年 〜 1560年 日本
長尾晴景 1509年 〜 1553年 日本
カルヴァン 1509年 〜 1564年 ヨーロッパ
松永久秀 1510年 〜 1577年 日本
織田信秀 1511年 〜 1551年 日本
足利義晴 1511年 〜 1550年 日本
今川氏輝 1513年 〜 1536年 日本
真田幸隆 1513年 〜 1574年 日本
細川晴元 1514年 〜 1563年 日本
北条綱成 1515年 〜 1587年 日本
北条氏康 1515年 〜 1571年 日本
メアリ1世 1516年 〜 1558年 ヨーロッパ
正親町天皇 1517年 〜 1593年 日本
カトリーヌ・ド・メディシス 1519年 〜 1589年 ヨーロッパ
今川義元 1519年 〜 1560年 日本
今井宗久 1520年 〜 1593年 日本
陶晴賢 1521年 〜 1555年 日本
武田信玄 1521年 〜 1573年 日本
三好長慶 1522年 〜 1564年 日本
柴田勝家 1522年 〜 1583年 日本
千利休 1522年 〜 1591年 日本
上杉憲政 1523年 〜 1579年 日本
上杉朝定 1525年 〜 1546年 日本
張居正 1525年 〜 1582年 東アジア
松平広忠 1526年 〜 1549年 日本
長尾政景 1526年 〜 1564年 日本
柳生宗厳(石舟斎) 1527年 〜 1606年 日本
斎藤義龍 1527年 〜 1561年 日本
フェリペ2世 1527年 〜 1598年 ヨーロッパ
明智光秀 1528年 〜 1582年 日本
種子島時堯 1528年 〜 1579年 日本
大友義鎮(大友宗麟) 1530年 〜 1587年 日本
上杉謙信 1530年 〜 1578年 日本
イヴァン4世(雷帝) 1530年 〜 1584年 ロシア
ボーダン 1530年 〜 1596年 ヨーロッパ
オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム) 1533年 〜 1584年 ヨーロッパ
エリザベス1世 1533年 〜 1603年 ヨーロッパ
大村純忠 1533年 〜 1587年 日本
朝倉義景 1533年 〜 1573年 日本
島津義久 1533年 〜 1611年 日本
小早川隆景 1533年 〜 1597年 日本
モンテーニュ 1533年 〜 1592年 ヨーロッパ
織田信長 1534年 〜 1582年 日本
荒木村重 1535年 〜 1586年 日本
島津義弘 1535年 〜 1619年 日本
近衛前久 1536年 〜 1612年 日本
足利義輝 1536年 〜 1565年 日本
足利義昭 1537年 〜 1597年 日本
豊臣秀吉 1537年 〜 1598年 日本
前田利家 1538年 〜 1599年 日本
北条氏政 1538年 〜 1590年 日本
ヴァリニャーニ(バリニャーノ) 1539年 〜 1606年 日本
長宗我部元親 1539年 〜 1599年 日本
前田玄以 1539年 〜 1602年 日本
北条氏照 1540年 〜 1590年 日本
豊臣秀長 1540年 〜 1591年 日本
足利義氏 1541年 〜 1583年 日本
エル・グレコ 1541年 〜 1614年 ヨーロッパ
北条氏邦 1541年 〜 1597年 日本
中川清秀 1542年 〜 1583年 日本
アクバル 1542年 〜 1605年 南アジア、東南アジア
徳川家康 1542年 〜 1616年 日本
ドレーク 1543年 〜 1596年 ヨーロッパ
狩野永徳 1543年 〜 1590年 日本
顕如(光佐) 1543年 〜 1592年 日本
古田織部 1544年 〜 1615年 日本
李舜臣 1545年 〜 1598年 東アジア
北条氏規 1545年 〜 1600年 日本
浅井長政 1545年 〜 1573年 日本
増田長盛 1545年 〜 1615年 日本
最上義光 1546年 〜 1614年 日本
黒田官兵衛 1546年 〜 1604年 日本
武田勝頼 1546年 〜 1582年 日本
浅野長政 1547年 〜 1611年 日本
お市 1547年 〜 1583年 日本
真田昌幸 1547年 〜 1611年 日本
織田有楽斎 1547年 〜 1621年 日本
セルバンテス 1547年 〜 1616年 ヨーロッパ
斎藤竜興 1548年 〜 1573年 日本
本多忠勝 1548年 〜 1610年 日本
北政所 1548年 〜 1624年 日本
松浦鎮信 1549年 〜 1614年 日本
シャルル9世 1550年 〜 1574年 ヨーロッパ
誠仁親王 1552年 〜 1586年 日本
マテオ・リッチ(利瑪竇) 1552年 〜 1610年 東アジア
今井宗薫 1552年 〜 1627年 日本
高山右近 1552年 〜 1615年 日本
アンリ4世 1553年 〜 1610年 ヨーロッパ
毛利輝元 1553年 〜 1625年 日本
角倉了以 1554年 〜 1614年 日本
ヤン・ヨーステン(耶楊子) 1556年 〜 1623年 日本
藤堂高虎 1556年 〜 1630年 日本
上杉景勝 1556年 〜 1623年 日本
織田信忠 1557年 〜 1582年 日本
小西行長 1558年 〜 1600年 日本
本阿弥光悦 1558年 〜 1637年 日本
織田信雄 1558年 〜 1630年 日本
松平信康 1559年 〜 1579年 日本
ヌルハチ(太祖) 1559年 〜 1626年 東アジア
大谷吉継 1559年 〜 1600年 日本
狩野山楽 1559年 〜 1635年 日本
直江兼続 1560年 〜 1619年 日本
石田三成 1560年 〜 1600年 日本
フランシス・ベーコン 1561年 〜 1626年 ヨーロッパ
吉川広家 1561年 〜 1625年 日本
福島正則 1561年 〜 1624年 日本
井伊直政 1561年 〜 1602年 日本
藤原惺窩 1561年 〜 1619年 日本
北条氏直 1562年 〜 1591年 日本
徐光啓 1562年 〜 1633年 東アジア
加藤清正 1562年 〜 1611年 日本
万暦帝(神宗) 1563年 〜 1620年 東アジア
池田輝政 1564年 〜 1613年 日本
ガリレオ=ガリレイ 1564年 〜 1642年 ヨーロッパ
ウィリアム・アダムズ(三浦按針) 1564年 〜 1620年 日本
シェークスピア 1564年 〜 1616年 ヨーロッパ
真田信之 1566年 〜 1658年 日本
ジェームズ1世 1566年 〜 1625年 ヨーロッパ
有馬晴信 1567年 〜 1612年 日本
伊達政宗 1567年 〜 1636年 日本
真田信繁 1567年 〜 1615年 日本
姜沆(きょうこう、カンハン) 1567年 〜 1618年 東アジア
豊臣秀次 1568年 〜 1595年 日本
黒田長政 1568年 〜 1623年 日本
金地院崇伝 1569年 〜 1633年 日本
淀殿 1569年 〜 1615年 日本
末吉孫左衛門 1570年 〜 1617年 日本
常高院(初) 1570年 〜 1633年 日本
支倉常長 1571年 〜 1622年 日本
柳生宗矩 1571年 〜 1646年 日本
アッバース1世 1571年 〜 1629年 地中海、西アジア
松永貞徳 1571年 〜 1653年 日本
宇喜多秀家 1572年 〜 1655年 日本
沢庵 1573年 〜 1645年 日本
崇源院(江) 1573年 〜 1626年 日本
島津家久 1574年 〜 1638年 日本
ルーベンス 1577年 〜 1640年 ヨーロッパ
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表: 「上杉謙信」と同時代の出来事

北条氏綱、白子原の戦いで扇谷上杉朝興に敗れる 1525年 日本
バーブル、即位(ムガル帝国を建国) 1526年 〜 1530年 南アジア、東南アジア
鎌倉の鶴岡八幡宮焼失 1526年 日本
『今川仮名目録』制定 1526年 日本
石見銀山発見 1526年 日本
ムガル帝国建国 1526年 南アジア、東南アジア
細川高国政権、崩壊 1526年 日本
パーニーパットの戦い 1526年 南アジア、東南アジア
スレイマン1世(オスマン帝国)、ウィーン包囲(第一次ウィーン包囲) 1529年 ヨーロッパ
武田信虎、扇谷上杉朝興の斡旋で、前関東管領の山内上杉憲房の未亡人を側室に迎える 1530年 日本
小沢原の戦い 1530年 日本
上杉憲政、上杉憲寛を追放して、山内上杉氏の当主になる 1531年 日本
細川高国、天王寺の戦いに敗れて自害 1531年 日本
武田信虎に対して、飯富虎昌、栗原兵庫、今井信元らが反乱を起こすが、信虎に撃破され、翌年、鎮圧される。信虎、甲斐統一完了。 1531年 〜 1532年 日本
一条鞭法、施行 1531年 東アジア
トゥングー朝、成立(ミャンマー) 1531年 〜 1752年 南アジア、東南アジア
鶴岡八幡宮の造営始まる 1532年 日本
法華一揆 1532年 日本
武田信虎の嫡男、武田太郎(武田信玄)、扇谷上杉朝興の娘を娶る 1533年 日本
ピサロ、インカ帝国を滅ぼす 1533年 中南米
ヘンリ8世、首長法を発布(イギリス国教会成立) 1534年 ヨーロッパ
イエズス会、結成 1534年 ヨーロッパ
北条氏綱、今川氏輝の要請で、武田信虎勢と甲斐の郡内山中で戦う 1535年 日本
スレイマン1世、仏にカピチュレーションを認める 1535年 地中海、西アジア
(武田信玄)元服し、武田晴信と名乗る 1536年 日本
伊達稙宗、『塵芥集』を定める 1536年 日本
天文法華の乱 1536年 日本
駿河守護の今川氏輝死去。今川氏で内乱が勃発し(花倉の乱)で、今川義元が勝者になる 1536年 日本
長尾為景、長男の長尾晴景に家督を譲る 1536年 日本
河東一乱 1537年 日本
7月、北条氏綱、扇谷上杉氏の本拠、河越城を奪う 1537年 日本
扇谷上杉朝興死去。家督は朝定が継ぐ 1537年 日本
武田信虎の娘が今川義元に嫁ぎ、甲駿同盟が成立 1537年 日本
プレヴェザの海戦 1538年 地中海、西アジア
北条氏綱、松戸台で小弓公方の足利義明勢と戦う(第1次国府台合戦) 1538年 日本
北条氏綱、娘を古河公方、足利晴氏の正室とする。その結果、北条氏は足利家の「ご一家」となる 1539年 日本
鶴岡八幡宮の正殿遷宮(落成式)が行われる 1540年 日本
武田晴信(のちの信玄)、父の信虎を駿河に追放し、家督を手に入れる 1541年 日本
北条氏綱、死去 1541年 日本
カルヴァン、ジュネーブ(スイス)で宗教改革(神政政治)をはじめる 1541年 ヨーロッパ
斎藤利政(道三)、美濃を押領する 1542年 日本
生野銀山、発見 1542年 日本
鉄砲伝来 1543年 日本
トリエント公会議 1545年 〜 1563年 ヨーロッパ
ポトシ銀山、発見 1545年 中南米
北条氏康、河越夜戦で、古河公方(足利晴氏)、山内上杉氏(上杉憲政)、扇谷上杉氏(上杉朝定)連合軍を撃破 1546年 日本
シュマルカルデン戦争 1546年 〜 1547年 ヨーロッパ
織田信秀、美濃の斎藤道三を攻めるも大敗(加納口の戦い) 1547年 日本
(武田信玄)「甲州法度之次第」を定める 1547年 日本
松平広忠、今川義元に息子の竹千代(徳川家康)を人質に送ったが、途中で織田信秀に奪われる 1547年 日本
塩尻峠の戦い 1548年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、兄の長尾晴景から家督を受け継ぎ、越後守護代となる 1548年 日本
上田原の戦い 1548年 日本
小豆坂の戦いで、今川義元、織田信秀を破る 1548年 日本
フランシスコ・ザビエル、来日 1549年 日本
織田信長、斎藤道三の娘(濃姫)を室に迎える 1549年 日本
細川晴元、江口の戦いで三好長慶に大敗 1549年 日本
今川義元、安祥城を落とし、城主、織田信広(織田信秀の子)を捕らえ、竹千代(徳川家康)と交換する 1549年 日本
戸石崩れ 1550年 日本
陶晴賢、大内義隆を滅ぼす 1551年 日本
織田信長、父(織田信秀)の死により、家督を継承 1551年 日本
北条氏康、甥の足利義氏を古河公方に擁立 1552年 日本
山内上杉憲政、長尾景虎を頼って、越後に落ちる 1552年 日本
第1回川中島の戦い 1553年 日本
前古河公方、足利晴氏が挙兵するが、北条氏康に敗れて捕らえられ、相模の波多野に幽閉される 1554年 日本
甲相駿三国同盟、成立 1554年 〜 1569年 日本
厳島の戦い 1555年 日本
アウグスブルクの和議 1555年 ヨーロッパ
第2回川中島の戦い 1555年 日本
斎藤道三、息子の斎藤義龍に討たれる(長良川の戦い) 1556年 日本
アクバル、即位 1556年 〜 1605年 南アジア、東南アジア
フェリペ2世、即位 1556年 〜 1598年 ヨーロッパ
長尾景虎(上杉謙信)、出家するため高野山へ向かう 1556年 日本
第3回川中島の戦い 1557年 日本
北条氏康、家督を嫡子、北条氏政に譲る。しかし、この後も、氏康が軍政を手動する。 1559年 日本
北条氏康、永禄2年(1559年)頃には上野を勢力下におさめる 1559年 日本
武田晴信、信玄と号す 1559年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、二度目の上洛。将軍、足利義輝から関東管領任命の内示を受ける 1559年 日本
統一法、制定される(英) 1559年 ヨーロッパ
桶狭間の戦い 1560年 日本
長宗我部元親、家督相続 1560年 日本
上杉謙信(長尾景虎)、関東管領となる 1561年 日本
第4回川中島の戦い 1561年 日本
上杉謙信、関東に侵攻し、小田原城を攻める 1561年 日本
ユグノー戦争 1562年 〜 1598年 ヨーロッパ
武田・北条連合軍、上杉謙信方の松山城を攻略する 1563年 日本
アクバル、ジズヤを廃止 1564年 南アジア、東南アジア
三好長慶、死去 1564年 日本
第5回川中島の戦い 1564年 日本
13代将軍、足利義輝、殺害される 1565年 日本
武田信玄、箕輪城を落とし、西上野を掌握 1566年 日本
武田義信(信玄嫡男)、死去(自刃か) 1567年 日本
織田信長、美濃攻略 1567年 日本
武田信玄、駿河侵攻はじめる 1568年 日本
オランダ独立戦争 1568年 〜 1609年 ヨーロッパ
織田信長、足利義昭を奉じて、京都に入る 1568年 日本
武田信玄、小田原城包囲 1569年 日本
三増峠の戦い 1569年 日本
石山戦争(石山合戦) 1570年 〜 1580年 日本
姉川の戦い 1570年 日本
北条氏康、死去 1571年 日本
スペイン、マニラ建設 1571年 南アジア、東南アジア
レパント海戦 1571年 地中海、西アジア
比叡山焼き討ち 1571年 日本
三方原の戦い 1572年 日本
サン・バルテルミの虐殺 1572年 ヨーロッパ
張居正の改革 1572年 〜 1582年 東アジア
武田信玄、信濃の駒場で没す 1573年 日本
羽柴秀吉(豊臣秀吉)、近江に長浜城を築城 1573年 日本
織田信長、15代将軍 足利義昭を追放し、室町幕府滅亡 1573年 日本
浅井氏滅亡 1573年 日本
織田信長、長島一向一揆を鎮圧 1574年 日本
長篠の戦い 1575年 日本
織田信長、越前一向一揆を鎮圧 1575年 日本
長宗我部元親、土佐統一 1575年 日本
織田水軍、毛利水軍に敗れる(第一次木津川口の海戦) 1576年 日本
織田信長、安土城を築城 1576年 〜 1579年 日本
荒木村重(摂津)、織田信長に謀反 1578年 〜 1579年 日本
織田水軍、大砲を搭載した大型船で毛利水軍を破る(第二次木津川口の海戦) 1578年 日本
ユトレヒト同盟 1579年 ヨーロッパ
安土宗論 1579年 日本
織田信雄(織田信長の次男)、伊賀に侵攻(第一次天正伊賀の乱) 1579年 日本
秀吉、織田信長から生野銀山を与えられる 1580年 日本
顕如、石山本願寺から退去(石山戦争、おわる) 1580年 日本
スペイン(フェリペ2世)、ポルトガル王国を併合 1580年 〜 1640年 ヨーロッパ
京都御馬揃え 1581年 日本
オランダ、独立宣言 1581年 ヨーロッパ
第二次天正伊賀の乱 1581年 日本
織田信長、武田氏(武田勝頼)を滅ぼす 1582年 日本
本能寺の変 1582年 日本
太閤検地 1582年 〜 1598年 日本
山崎の戦い 1582年 日本
天正少年使節、派遣される 1582年 〜 1590年 日本
賎ヶ嶽の戦い 1583年 日本
豊臣秀吉、大坂城を築城 1583年 〜 1585年 日本
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「上杉謙信」の関連ノート

【長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜】<h2>別の戦国時代をつくる可能性を持っていた男、長尾景春</h2>
<p>別の戦国時代を作る可能性を持っていた人物として、長尾景春がいる。一般には知られざるこの人物について、これから書いていきたい(*)。</p>
<p><em>(*)この記事の公開は2011年10月14日で、長尾景春が主役の歴史小説、伊東潤氏『叛鬼』はまだ出版されていなかった。伊東さんの著書によって、長尾景春はの知名度は以前よりも上がったと思う。</em></p>
<p>長尾景春は訳あって、主人の関東管領、山内上杉顕定を相手に謀反を起こし、主の顕定を窮地に陥れた。これが文明8年(1476年)からはじまる長尾景春の乱で、景春が30代前半の頃のことである。しかし、不運にも、彼の同時代には太田道灌がいた。</p>
<p>長尾景春は巧みな外交と調略を駆使して、戦略的優位を準備するものの、太田道灌との戦闘に敗れた。戦略的に勝っているからといって、自動的に最終的な勝利が得れれるというものではない。</p>
<p>長尾景春について述べる前に、同姓の越後守護代、長尾為景について見ていきたい。</p>
<h2>下克上を成功させた男、長尾為景</h2>
<p>永正4年(1507年)長尾為景は越後守護の上杉氏に下克上を起こして成功し、傀儡の越後守護を擁立することに成功した。そして、首尾よく傀儡越後守護も追放して、為景自身が越後の支配者となった。彼の息子の長尾景虎はその地盤を引き継ぎ、さらには、(北条早雲の孫、北条氏康に河越夜戦(1546年)で撃破され、その後、没落させられた)関東管領の山内上杉憲政から山内上杉氏の名と関東管領の職を受け継ぎ、「山内上杉」謙信となった。そして、謙信は武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国の雄たちと激しく争うことになる。</p>
<h2>「長尾景春の乱」の原因:景春、山内上杉氏の家宰職を継承できず</h2>
<p>社会的地位からいうと、長尾景春は越後守護代の長尾為景(上杉謙信の父)と似たところにいた。</p>
<p>長尾景春の祖父(白井長尾景仲)も父(白井長尾景信)も、主の山内上杉氏の家宰(執事)だった。文明5年(1473年)に、父の長尾景信が死去した。景春は、当然、自分がその地位を引き継げると思っていた。 <br>しかし、彼の家(白井長尾家)の勢力が主家を凌ぐのを恐れた若き当主、関東管領の山内上杉顕定が、景春の叔父を家宰に任命した(上杉顕定の懸念は、越後の長尾為景の例を見ても空想ではなかった)。 <br>景春にとって、この処置は認められるものではない。怒りなどの感情もあっただろうが、それより、家宰職には膨大な利権があり、家臣や同輩はそれを当てにしている。景春が利権を手放せば、人々は去っていき、景春の政治生命は致命的なダメージを受けることになる。 <br>景春は政治的な死を選んで隠遁するか、家宰職を認めさせるために主と戦うかの二者択一を迫られたのである。</p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>白井城から榛名山をのぞむ。手前に流れる川が吾妻川。 </em><br><em>白井城は代々、山内上杉氏の家宰を務める白井長尾家の本拠地だった。当城は群馬県渋川市白井に位置する崖端城である。白井城の西側を吾妻川が東側を利根川が流れており、城の南側で合流しており、さらに三国街道がこの城の近くを通るため、上野と越後の交通の要衝でもある。 </em><br><em>かつての城域の大部分は、現在、畑だが、一曲輪を中心に遺構も残っている。</em>
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<h2>景春、挙兵</h2>
<p>景春は関東の有力国人を多数味方につける一方、文明8年(1476年)頃、<a>鉢形城</a>を築城して拠点とした。また、当時、享徳の乱が継続中で、主家の山内上杉氏と古河公方は対立しており、主家と敵対している古河公方、足利成氏を味方につけ、着々と軍事的、外交的な策を駆使して、蜂起のときを待った。</p>
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<em>2010年4月25日撮影 </em><br><em>鉢形城の北側からのアングル。写真中央の川が荒川。城の堅固さが偲ばれる。遺構の良好に残り、北条氏末期の鉢形城の様子がよく分かる。 </em><br><em>長尾景春が太田道灌(両上杉氏)との戦いに敗れ、この城を追われたあと、この城は山内上杉氏の武蔵支配の拠点となった。16世紀の半ばに、後北条氏が山内上杉氏に代わって、この地を支配するようになっても、鉢形城は重要拠点でありつづけた。景春の築城眼は的を得ていたようだ。</em>
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<em>長尾景春の乱、概略絵地図 </em><br><em>当時の関東は、利根川を境に東が古河公方の勢力圏、西が両上杉氏の勢力圏だった(なお、当時の利根川の流路は現在と違い、関東を東西に分けていた)。古河公方勢と対戦中だった両上杉の前線拠点、五十子陣は背後から長尾景春に攻撃され、崩壊した。</em>
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<h2>景春の、そして、関東の運命を握る男、太田道灌</h2>
<p>景春にとって、最大の脅威は江戸を中心に勢力を持っている太田道灌だった。道灌は文武両道の名将で、足軽を組織して、強力な軍事力を養う一方、関東の大河の下流を押さえる江戸に堅固な江戸城を築き、大きな経済力も持っていた(道灌はその強力さ故に、10年後、道灌の主人、扇谷上杉定正に謀殺されることになる)。</p>
<p>ただ、道灌は主の扇谷上杉定正や定正の同盟者である山内上杉顕定との関係がうまくいっておらず、彼らの間に溝が広がりつつあった。景春にとって、道灌は敵にまわすと最大の脅威なので、この隙をついて、道灌を味方につけるか、それが無理ならせめて中立を維持させる必要があった。</p>
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<em>2010年2月撮影</em><br><em>江戸城に残る3つの櫓の1つ、富士見櫓。かつて太田道灌が築いた静勝軒の故地に江戸城の富士見櫓が建っているという。 静勝軒は道灌の軒号でもある。</em>
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<h2>景春、初戦に勝利。</h2>
<p>景春は道灌と両上杉首脳の不仲を好機として蜂起した。景春の基本戦略は五十子陣にいる両上杉首脳と道灌の連携を分断し、道灌を足止めする一方、両上杉の軍勢に打撃を与え、機を見て、主の山内上杉顕定と和睦し、政治目標を実現するというものだったと思う。家宰職を得ることが景春の政治的な目標なら、この戦略は的を得ているだろう。</p>
<p>初戦は上々で、文明9年(1477年)1月に主の顕定と扇谷上杉定正のいる五十子陣を襲って崩壊させた。顕定と定正は何とか利根川の北に逃げ延びた。これが「長尾景春の乱」の最初の戦いだった(この戦いは4年に及んだ)。</p>
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<em>2010年4月撮影 </em><br><em>両上杉氏が古河公方との戦いのために築いた五十子陣跡。近辺は茫漠たる平野が広がる。 その重要な拠点を景春は崩壊させた。そのため、両上杉首脳は窮地に陥るが、太田道灌の活躍によって何とか生き延びた。</em>
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<h2>道灌、動く</h2>
<p>景春は山内上杉顕定との和睦の取次ぎを期待して、道灌に使者を送った。景春の政治的目標は山内上杉氏の家宰職の継承だったのだと思う。そうでなければ、顕定勢の撃滅を目指していたはずだ。 <br>景春の意図はどうであれ、結局、道灌による和睦斡旋は失敗した。すると、道灌は景春を討つべく、江戸城から北上してきた。</p>
<p>道灌は江戸城と河越城の連絡線を遮断している練馬城・石神井城の豊島氏を江古田・沼袋の戦いで撃破した。この戦いによる勝利で江戸城・河越城のラインを確保した道灌はさらに北上を続けた。 <br>景春は当時五十子陣にいた。道灌は、景春の拠点、鉢形城と五十子陣の間で陣を構えることで、景春の補給ラインを分断した。景春は補給ラインを確保すべく南下したが、これは道灌の「手」だった。</p>
<p>道灌は景春をおびき寄せて合戦に持ちこんだ(用土原・針谷の戦い)。景春は道灌の術中にはまり、敗れた。その後も、道灌は景春勢を各地で撃破して、景春を秩父の奥地に追い込んでいった。そして、文明12年(1480年)、景春最後の拠点、秩父の日野要害(熊倉城)も道灌に攻略され、景春は没落した。</p>
<p>なお、景春は道灌の妻の甥にあたり、お互いよく知った仲であったと言われている。</p>
<h2>景春の実現されなかった可能性を考える</h2>
<p>長尾景春は長尾景春の乱に敗れたが、その後も神出鬼没の活躍で、主の山内上杉顕定を苦しめた。やはり、只者ではなかったことが分かる。しかし、これらの活躍もあくまでも好機に便乗するという形であって、景春が再び時代の主役になることはなかった。</p>
<p>ここで、少々、「もし」を考えてみたい。 <br>もしこの時道灌が江戸城を動かなかったり、さらに言うと、道灌が景春に協力していたら、古河公方との戦いにも直面していた両上杉氏(山内上杉氏と扇谷上杉氏)は二方向、道灌も含めれば、三方向から挟撃され、一時的であれ、両上杉氏主力が壊滅していた可能性はかなりあったと思う。</p>
<p>当時、長尾為景の下克上はまだ起こっておらず、山内上杉氏は越後上杉氏の援軍を期待できたため、山内上杉氏がたやすく滅亡したかどうかは疑問ではあるものの(また、京都では弱体ながら室町幕府は存在していた。幕府は基本的に親上杉なので、近隣諸国からも両上杉氏に援軍が来ていた可能性もある)、一方では景春か道灌が古河公方を担いで関東を統一し、彼らの子供あたりが源頼朝のように関東の強兵を率いて京に攻め上り、天下に号令していた可能性もゼロではない(実際、永正5年(1508年)、大内義興は前将軍の足利義稙を擁して上京し、10年間、自派の政権を維持した)。</p>
<p>実際には、このシナリオ(景春と道灌が同盟し、両上杉氏を倒すシナリオ)は実現されなかったわけだが、もし実現していたら、その後の展開は全く変わっていただろう。 <br>状況は違うが、後に景春や古河公方と同盟して、両上杉氏と対抗した人物がいる。そう、それが北条早雲である。もしこの時(景春が蜂起したとき)に早雲が道灌の立場であれば、どういう判断を下していただろうか。</p>
<h2>長尾景春と長尾為景</h2>
<p>結局、失敗した長尾景春の乱だったが、景春は優れた戦略家であり、実行力もあった。ただ、相手(太田道灌)が悪かったと言えるかもしれない。</p>
<p>長尾景春の乱から、約30年後、越後で長尾為景が越後上杉氏を倒して、下克上に成功した。 長尾景春はある意味、長尾為景になり損なった男ということもできると思う。</p>
<h2>年表: 長尾景春の乱</h2>
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<p>(終)</p>

長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜

作成日:2014/6/22 , by fuji3zpg 開く

長尾景春の乱 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー

【早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-】<h2>なぜ早雲か?</h2>
<p>戦国時代というと、人気があるのは武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉あたりでしょうか。こういった人気のある戦国武将を差し置いて、なぜ私は北条早雲という人物をテーマにしているのでしょうか。以下、理由を述べてみたいと思います。</p>
<h2>室町幕府の成立と相対的安定期</h2>
<p>有力守護大名の連合政権だった室町幕府は成立の当初からを弱体でしたが、曲がりながらにも権威と権力を持った室町幕府は正義を提供していました(ただし、足<br>利義満の時代から嘉吉の乱(嘉吉元年(1441年)、6代将軍、足利義教が赤松満祐に暗殺された事件)までは比較的安定していました。つまり、幕府が正し<br>いとすることが正しいということで世の中がそれなりに処理されていました。</p>
<h2>立ち腐れる室町幕府と織豊政権の成立</h2>
<p>しかし、室町体制が崩壊すると、何が正しいかは戦いによって決まる時代に入ってしまいました。その結果、自衛のため、弱者は有力者を頼り、有力者は最有力者を頼るという関係が各地で再構築され始めました。その権力の頂点が戦国大名です。<br><br><em>司馬さんは、早雲の生涯を通して、この辺りのプロセスをうまく書いています(参考図書を参照)。</em><br><br>そして、戦国大名同士、さらには戦国大名と宗教勢力の戦いがはじまり、最終的には織田信長の地盤を受け継いだ豊臣秀吉が、天正18年(1590年)に早雲の子孫である後北条氏を降して、全国を統一しました。</p>
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<p><em>2010年9月撮影</em><br><em>全国で最後まで豊臣秀吉と戦った後北条氏の本拠地、小田原城から見た石垣山の眺め。豊臣秀吉は石垣山に石垣山一夜城を築いた。</em></p>
<h2>戦国時代はいつからか?</h2>
<p>戦国時代のはじまりというのは、実はいろいろな解釈があって、これが定説という年は決まっていません。応仁の乱がはじまった1467年説、旧説では北条早雲の伊豆討ち入りの1491年説、近年では明応の政変の起こった1493年説が有力なところです。<br>私見では、弱体ながらも、室町幕府というのは、9代将軍、足利義尚までは存在していたと考えています。しかし、その後、細川政元による明応の政変(1493年)以降は、京都を押さえ、将軍を擁した有力戦国大名が実力で政権を立てるようになるため、その時点で足利将軍を中心とした室町幕府の実体は消滅したという考えています。いずれにしても、15世紀の後半には実体としての室町幕府は消滅し、戦国大名がしのぎを削る戦国時代に突入したと考えてよいと思います。<br>なお、1492年に、コロンブスが大西洋を渡ってカリブ海のサンサルバドル島に到達します。つまり、早雲が生きた時代に、西欧では大航海時代を迎えていま<br>した。</p>
<h2>室町体制の崩壊と秩序の再編</h2>
<p>戦国初期というのは、室町体制の崩壊と秩序の再編が激烈に行われた時期でした。この時期には、誰が最終的に全国を統一するか全く分からない状態でした。つまり、ちょっとした基盤があれば、誰にでもチャンスがあった時代でした。安芸の一国人に過ぎなかった毛利元就(北条早雲の約40年後出生)が一代で中国地方をほぼ統一したのはその代表例です。</p>
<h2>戦国初期の目まぐるしさ</h2>
<p>とにかく、戦国初期というのはいろいろな人物が出てきては消えていきます。系図と年表を広げながら、書籍や資料を読んでいかないと、すぐに訳が分からなくなります。当然、当時を生きた人は当事者なわけですから大変です。享徳3年(1454年)に享徳の乱がはじまり、全国に先駆けて戦国時代に突入した関東では、関東管領家の山内上杉氏や扇谷上杉氏といった守護大名の当主レベルでも、戦死した人物は少なからずいます。ですから、その下の階級のレベルの人になると、それはもう大変な状態だったでしょう。</p>
<h2>早雲は関東地生えの人ではなかった</h2>
<p>関東では、最終的に後北条氏が最有力勢力になりましたが、当初、早雲は関東に寸土も持っていない状態でした。ですから、太田道灌が謀殺された頃(文明18年(1486年))、彼の子孫が関東の主になるとは誰も考えることはできなかったでしょう。つまり、状況によっては、他の未来もいくらでもありえたのです。</p>
<h2>なぜ早雲を調べているのか</h2>
<p>武田信玄や織田信長の時期には次の天下人の有力者が見えてきており、戦国初期のようなカオス感はありません。このカオス感が戦国初期の魅力の1つです。<br><br>戦国初期のカオスの渦中にあって、当事者たちは何を思い、何を行って、どういう秩序を新たに作り上げていったのでしょうか。<br><br>その体現者の一人が北条早雲です。<br>また、早雲の主な活動範囲は、京ー駿河ー伊豆ー相模で、私自身の活動範囲に近いときています。<br>そのため、北条早雲をしかと調べたいと思ったわけです。<br><br>(終)<br><br></p>
<h2>参考図書: 北条早雲が主人公の歴史小説紹介</h2>
<h3>司馬遼太郎『箱根の坂』</h3>
<div>司馬さんの最晩年の歴史小説(初版は1984年。司馬さん、61歳の時)。全三巻。</div>
<p>魅力的なストーリーに匠に歌を織り交ぜ、あっという間に物語に引き込まれました。彼の作品の中でも屈指の作品だと思います。<br><br><a>新装版 箱根の坂(上) (講談社文庫)</a><br><a>新装版 箱根の坂(中) (講談社文庫)</a><br><a>新装版 箱根の坂(下) (講談社文庫)</a><br><br></p>
<h3>伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</h3>
<p>ただ、『箱根の坂』が出版されてから、既に一世代経つなかで、新学説が出てきています。新説に対応した作品が伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』です。<br> この作品は主人公からその時代を見るという伝統的な手法と違い、早雲に関わった人から早雲を見るという視点で書かれています。6つの短編小説から成り、各短編小説はそれ自体で完結しています。<br><br> 短編小説の各主人公はそれぞれの人生の中で、早雲(宗瑞)という人にあって、重大な影響を受けます(多くは、悲劇的な結果となる)。<br> 数ある早雲を主人公とする歴史小説の中でも異彩を放つ作品です。<br><br><a>疾き雲のごとく (講談社文庫)</a><br><br></p>
<h3>伊東潤『黎明に起つ』</h3>
<p>伊東さんの長編小説です。<br>早雲と北条氏の民政重視の政治は有名ですが、本書では、どういう背景・経験を通じて、早雲が民政重視の思想を持つに至り、実践していったかが強烈に意識されて、書かれています。<br><br> 早雲も生まれてすぐに民政重視の政治をしようと思ったわけではないでしょう。幼少の頃より、応仁の乱をはじめとする乱世に揉まれ、その中で思想を確立し、統治システムを練り上げていったわけです。<br> その早雲の軌跡が、見所です。<br><br><a>黎明に起つ</a><br><br></p>

早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-

作成日:2014/6/13 , by fuji3zpg 開く

フィールドをゆく 北条早雲 室町から戦国時代への動きと北条早雲の生涯ーフィールドをゆく(1)ー

【鎌倉城】扇谷から山内をつなぐ亀ヶ谷切通し。<br>      扇谷側入り口付近。<br><br>      舗装はされているが、切通し自体は良好に残っていた。<br>      風通しがよかったので、暑い中、多少涼めた。<br><br>      山内には、建長寺や円覚寺がある。<br>      山内上杉家は、「山内」に屋敷を持ったため、山内上杉を称することになった。<br>      山内上杉家は上杉謙信の上杉。

作成日:2013/9/5 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 鎌倉市

【忍城】丸墓山遠景。上杉謙信、石田三成が陣どったという丸墓山。<br>丸墓山は中央やや右寄りの小高い丘。

作成日:2012/10/27 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 行田市

【忍城】丸墓山遠景。上杉謙信、石田三成が陣どったという丸墓山。<br>丸墓山は中央やや右寄りの小高い丘。

作成日:2012/10/27 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 行田市

【高麗山城】高麗山城遠景。平塚方面から。手前は花水川。乃至政彦『上杉謙信の夢と野望』の小田原攻撃(1561年)の辺りを読んでいたら、景虎が高麗山城の麓に本陣を置いたとあった。高麗山城は北条早雲の文脈でしか意識していなかったので、軽い驚きがあった。

作成日:2012/10/21 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

高麗山城訪問 神奈川県 中郡

上杉弾正屋敷跡。<br><br>1252年、宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子)が鎌倉幕府の将軍として下向する際、上杉重房はそのお供として従った。その功として、上杉荘(京都府綾部市上杉町辺り)を賜り、上杉氏を称した。<br><br>「弾正屋敷跡」の標柱が中央に見える。左上の鳥居をくぐると、上杉天満宮がある。<br><br>室町時代に関東管領となる上杉氏はここから始まる。<br>上杉謙信の「上杉」はここの地名「上杉」から来ている。

作成日:2014/5/16 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

京都府 綾部市

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