西暦: 1515年 〜 1571年

地域: 日本

北条氏康

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グラフ: 「北条氏康」と同時代の人物

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グラフ: 「北条氏康」と同時代の出来事

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表: 「北条氏康」と同時代の人物

北条早雲(旧説) 1432年 〜 1519年 日本
狩野正信 1434年 〜 1530年 日本
宗長 1448年 〜 1532年 日本
三浦道寸(義同) 1451年 〜 1516年 日本
レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452年 〜 1519年 ヨーロッパ
フェルナンド5世 1452年 〜 1516年 ヨーロッパ
北条早雲 1456年 〜 1519年 日本
尼子経久 1458年 〜 1541年 日本
三好之長 1458年 〜 1520年 日本
カブラル 1460年 〜 1526年 ヨーロッパ
足利政氏 1462年 〜 1531年 日本
足利義材(義稙) 1466年 〜 1523年 日本
上杉憲房 1467年 〜 1525年 日本
エラスムス 1469年 〜 1536年 ヨーロッパ
マキャベリ 1469年 〜 1527年 ヨーロッパ
ヴァスコ・ダ・ガマ 1469年 〜 1524年 ヨーロッパ
セリム1世 1470年 〜 1520年 地中海、西アジア
ピサロ 1470年 〜 1541年 ヨーロッパ
デューラー 1471年 〜 1528年 ヨーロッパ
以天宗清 1472年 〜 1554年 日本
王陽明(王守仁) 1472年 〜 1528年 東アジア
上杉朝良 1473年 〜 1518年 日本
今川氏親 1473年 〜 1526年 日本
コペルニクス 1473年 〜 1543年 ヨーロッパ
ラス・カサス 1474年 〜 1566年 ヨーロッパ
ミケランジェロ 1475年 〜 1564年 ヨーロッパ
レオ10世 1475年 〜 1521年 ヨーロッパ
大内義興 1477年 〜 1528年 日本
上杉定実 1478年 〜 1550年 日本
マゼラン(マガリャンイス) 1480年 〜 1521年 ヨーロッパ
マルティン・ルター 1483年 〜 1546年 ヨーロッパ
バーブル 1483年 〜 1530年 南アジア、東南アジア
ツヴィングリ 1484年 〜 1531年 ヨーロッパ
細川高国 1484年 〜 1531年 日本
足利高基 1485年 〜 1535年 日本
コルテス 1485年 〜 1547年 ヨーロッパ
北条氏綱 1487年 〜 1541年 日本
イスマーイール1世 1487年 〜 1524年 地中海、西アジア
上杉朝興 1488年 〜 1537年 日本
長尾為景 1489年 〜 1542年 日本
細川澄元 1489年 〜 1520年 日本
ミュンツァー 1490年 〜 1525年 ヨーロッパ
長野業正(長野業政) 1491年 〜 1561年 日本
イグナティウス・ロヨラ 1491年 〜 1556年 ヨーロッパ
ヘンリー8世 1491年 〜 1547年 ヨーロッパ
北条幻庵(長綱) 1493年 〜 1589年 日本
フランソワ1世 1494年 〜 1547年 ヨーロッパ
武田信虎 1494年 〜 1574年 日本
スレイマン1世 1494年 〜 1566年 地中海、西アジア
斎藤道三 1494年 〜 1556年 日本
六角定頼 1495年 〜 1552年 日本
三浦義意 1496年 〜 1516年 日本
後奈良天皇 1496年 〜 1557年 日本
太原雪斎 1496年 〜 1555年 日本
毛利元就 1497年 〜 1571年 日本
大井夫人 1497年 〜 1552年 日本
カール5世 1500年 〜 1558年 ヨーロッパ
三好元長 1501年 〜 1532年 日本
李退渓 1501年 〜 1570年 東アジア
武野紹鴎 1502年 〜 1555年 日本
武野紹鷗 1502年 〜 1555年 日本
雪村周継 1504年 〜 1589年 日本
フランシスコ・ザビエル 1506年 〜 1552年 ヨーロッパ
大内義隆 1507年 〜 1551年 日本
山科言継 1507年 〜 1579年 日本
足利晴氏 1508年 〜 1560年 日本
カルヴァン 1509年 〜 1564年 ヨーロッパ
長尾晴景 1509年 〜 1553年 日本
松永久秀 1510年 〜 1577年 日本
織田信秀 1511年 〜 1551年 日本
足利義晴 1511年 〜 1550年 日本
今川氏輝 1513年 〜 1536年 日本
真田幸隆 1513年 〜 1574年 日本
細川晴元 1514年 〜 1563年 日本
北条氏康 1515年 〜 1571年 日本
北条綱成 1515年 〜 1587年 日本
メアリ1世 1516年 〜 1558年 ヨーロッパ
正親町天皇 1517年 〜 1593年 日本
カトリーヌ・ド・メディシス 1519年 〜 1589年 ヨーロッパ
今川義元 1519年 〜 1560年 日本
今井宗久 1520年 〜 1593年 日本
陶晴賢 1521年 〜 1555年 日本
武田信玄 1521年 〜 1573年 日本
三好長慶 1522年 〜 1564年 日本
柴田勝家 1522年 〜 1583年 日本
千利休 1522年 〜 1591年 日本
上杉憲政 1523年 〜 1579年 日本
上杉朝定 1525年 〜 1546年 日本
張居正 1525年 〜 1582年 東アジア
長尾政景 1526年 〜 1564年 日本
松平広忠 1526年 〜 1549年 日本
柳生宗厳(石舟斎) 1527年 〜 1606年 日本
フェリペ2世 1527年 〜 1598年 ヨーロッパ
斎藤義龍 1527年 〜 1561年 日本
明智光秀 1528年 〜 1582年 日本
種子島時堯 1528年 〜 1579年 日本
上杉謙信 1530年 〜 1578年 日本
ボーダン 1530年 〜 1596年 ヨーロッパ
イヴァン4世(雷帝) 1530年 〜 1584年 ロシア
大友義鎮(大友宗麟) 1530年 〜 1587年 日本
大村純忠 1533年 〜 1587年 日本
朝倉義景 1533年 〜 1573年 日本
モンテーニュ 1533年 〜 1592年 ヨーロッパ
小早川隆景 1533年 〜 1597年 日本
島津義久 1533年 〜 1611年 日本
オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム) 1533年 〜 1584年 ヨーロッパ
エリザベス1世 1533年 〜 1603年 ヨーロッパ
織田信長 1534年 〜 1582年 日本
島津義弘 1535年 〜 1619年 日本
荒木村重 1535年 〜 1586年 日本
近衛前久 1536年 〜 1612年 日本
足利義輝 1536年 〜 1565年 日本
足利義昭 1537年 〜 1597年 日本
豊臣秀吉 1537年 〜 1598年 日本
前田利家 1538年 〜 1599年 日本
北条氏政 1538年 〜 1590年 日本
長宗我部元親 1539年 〜 1599年 日本
ヴァリニャーニ(バリニャーノ) 1539年 〜 1606年 日本
前田玄以 1539年 〜 1602年 日本
北条氏照 1540年 〜 1590年 日本
豊臣秀長 1540年 〜 1591年 日本
足利義氏 1541年 〜 1583年 日本
北条氏邦 1541年 〜 1597年 日本
エル・グレコ 1541年 〜 1614年 ヨーロッパ
徳川家康 1542年 〜 1616年 日本
アクバル 1542年 〜 1605年 南アジア、東南アジア
中川清秀 1542年 〜 1583年 日本
ドレーク 1543年 〜 1596年 ヨーロッパ
顕如(光佐) 1543年 〜 1592年 日本
狩野永徳 1543年 〜 1590年 日本
古田織部 1544年 〜 1615年 日本
李舜臣 1545年 〜 1598年 東アジア
浅井長政 1545年 〜 1573年 日本
増田長盛 1545年 〜 1615年 日本
北条氏規 1545年 〜 1600年 日本
黒田官兵衛 1546年 〜 1604年 日本
武田勝頼 1546年 〜 1582年 日本
最上義光 1546年 〜 1614年 日本
真田昌幸 1547年 〜 1611年 日本
お市 1547年 〜 1583年 日本
織田有楽斎 1547年 〜 1621年 日本
浅野長政 1547年 〜 1611年 日本
セルバンテス 1547年 〜 1616年 ヨーロッパ
北政所 1548年 〜 1624年 日本
本多忠勝 1548年 〜 1610年 日本
斎藤竜興 1548年 〜 1573年 日本
松浦鎮信 1549年 〜 1614年 日本
シャルル9世 1550年 〜 1574年 ヨーロッパ
高山右近 1552年 〜 1615年 日本
今井宗薫 1552年 〜 1627年 日本
マテオ・リッチ(利瑪竇) 1552年 〜 1610年 東アジア
誠仁親王 1552年 〜 1586年 日本
毛利輝元 1553年 〜 1625年 日本
アンリ4世 1553年 〜 1610年 ヨーロッパ
角倉了以 1554年 〜 1614年 日本
ヤン・ヨーステン(耶楊子) 1556年 〜 1623年 日本
上杉景勝 1556年 〜 1623年 日本
藤堂高虎 1556年 〜 1630年 日本
織田信忠 1557年 〜 1582年 日本
織田信雄 1558年 〜 1630年 日本
本阿弥光悦 1558年 〜 1637年 日本
小西行長 1558年 〜 1600年 日本
松平信康 1559年 〜 1579年 日本
大谷吉継 1559年 〜 1600年 日本
狩野山楽 1559年 〜 1635年 日本
ヌルハチ(太祖) 1559年 〜 1626年 東アジア
石田三成 1560年 〜 1600年 日本
直江兼続 1560年 〜 1619年 日本
フランシス・ベーコン 1561年 〜 1626年 ヨーロッパ
吉川広家 1561年 〜 1625年 日本
藤原惺窩 1561年 〜 1619年 日本
福島正則 1561年 〜 1624年 日本
井伊直政 1561年 〜 1602年 日本
加藤清正 1562年 〜 1611年 日本
北条氏直 1562年 〜 1591年 日本
徐光啓 1562年 〜 1633年 東アジア
万暦帝(神宗) 1563年 〜 1620年 東アジア
ウィリアム・アダムズ(三浦按針) 1564年 〜 1620年 日本
シェークスピア 1564年 〜 1616年 ヨーロッパ
池田輝政 1564年 〜 1613年 日本
ガリレオ=ガリレイ 1564年 〜 1642年 ヨーロッパ
真田信之 1566年 〜 1658年 日本
ジェームズ1世 1566年 〜 1625年 ヨーロッパ
姜沆(きょうこう、カンハン) 1567年 〜 1618年 東アジア
有馬晴信 1567年 〜 1612年 日本
伊達政宗 1567年 〜 1636年 日本
真田信繁 1567年 〜 1615年 日本
黒田長政 1568年 〜 1623年 日本
豊臣秀次 1568年 〜 1595年 日本
淀殿 1569年 〜 1615年 日本
金地院崇伝 1569年 〜 1633年 日本
常高院(初) 1570年 〜 1633年 日本
末吉孫左衛門 1570年 〜 1617年 日本
松永貞徳 1571年 〜 1653年 日本
柳生宗矩 1571年 〜 1646年 日本
支倉常長 1571年 〜 1622年 日本
アッバース1世 1571年 〜 1629年 地中海、西アジア
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表: 「北条氏康」と同時代の出来事

ポルトガル、ゴアを占領 1510年 南アジア、東南アジア
三浦の乱 1510年 日本
山内上杉顕定、長森原(新潟県六日町)で討ち死 1510年 日本
北条早雲、三浦勢と鎌倉で戦い破る→三浦勢は新井城に立て籠もる 1513年 日本
チャルディラーンの戦い 1514年 地中海、西アジア
北条氏康(北条3代目)、出生 1515年 日本
武田信虎、大井信達と戦い、敗北 1515年 日本
北条早雲、三浦氏を滅亡させ、相模制圧完了 1516年 日本
マキャベリ、『君主論』著す 1516年 ヨーロッパ
ポルトガル、明と広州で貿易をはじめる 1517年 東アジア
セリム1世(オスマン帝国)、マムルーク朝を滅ぼす 1517年 地中海、西アジア
ルター、九十五か条の論題を発表し、宗教改革はじまる 1517年 ヨーロッパ
今川氏親、遠江を制圧 1517年 日本
北条氏綱、北条早雲から家督相続(以降、小田原城が北条市の本拠地となる) 1518年 日本
大内義興、京を去って帰国する 1518年 日本
北条早雲、死去 1519年 日本
武田信虎、躑躅ヶ崎館に本拠地を移転 1519年 日本
マゼラン、世界周航に出発 1519年 〜 1522年 ヨーロッパ
スレイマン1世、即位 1520年 〜 1566年 地中海、西アジア
武田信虎、甲斐の有力国人(大井信達ら)を撃破し、一応の甲斐統一(その後も混乱は続く) 1520年 日本
武田信玄(幼名、太郎)、出生。 1521年 日本
武田信虎、今川の重臣、福島氏の大軍を飯田河原の戦い、上条河原の戦いで撃破 1521年 日本
マゼラン、フィリピンに到達 1521年 ヨーロッパ
細川高国、足利義晴(義澄の子)を擁立 1521年 日本
ルター、『新約聖書』をドイツ語に翻訳 1521年 〜 1522年 ヨーロッパ
コルテス、アステカ王国を滅ぼす 1521年 中南米
騎士戦争 1522年 ヨーロッパ
マゼラン艦隊、世界周航(マゼランはフィリピンで死亡) 1522年 ヨーロッパ
毛利元就、家督を継承する 1523年 日本
寧波の乱 1523年 日本
北条氏綱、伊勢氏から北条氏に改称 1523年 日本
ドイツ農民戦争 1524年 〜 1525年 ヨーロッパ
北条氏綱、太田資高の内応を誘い、江戸城を奪う 1524年 日本
武田信虎、扇谷上杉朝興の援軍として、関東を転戦(この時、岩付城を攻略) 1524年 日本
北条氏綱、白子原の戦いで扇谷上杉朝興に敗れる 1525年 日本
『今川仮名目録』制定 1526年 日本
鎌倉の鶴岡八幡宮焼失 1526年 日本
バーブル、即位(ムガル帝国を建国) 1526年 〜 1530年 南アジア、東南アジア
細川高国政権、崩壊 1526年 日本
パーニーパットの戦い 1526年 南アジア、東南アジア
ムガル帝国建国 1526年 南アジア、東南アジア
石見銀山発見 1526年 日本
スレイマン1世(オスマン帝国)、ウィーン包囲(第一次ウィーン包囲) 1529年 ヨーロッパ
武田信虎、扇谷上杉朝興の斡旋で、前関東管領の山内上杉憲房の未亡人を側室に迎える 1530年 日本
小沢原の戦い 1530年 日本
上杉憲政、上杉憲寛を追放して、山内上杉氏の当主になる 1531年 日本
一条鞭法、施行 1531年 東アジア
武田信虎に対して、飯富虎昌、栗原兵庫、今井信元らが反乱を起こすが、信虎に撃破され、翌年、鎮圧される。信虎、甲斐統一完了。 1531年 〜 1532年 日本
トゥングー朝、成立(ミャンマー) 1531年 〜 1752年 南アジア、東南アジア
細川高国、天王寺の戦いに敗れて自害 1531年 日本
鶴岡八幡宮の造営始まる 1532年 日本
法華一揆 1532年 日本
武田信虎の嫡男、武田太郎(武田信玄)、扇谷上杉朝興の娘を娶る 1533年 日本
ピサロ、インカ帝国を滅ぼす 1533年 中南米
イエズス会、結成 1534年 ヨーロッパ
ヘンリ8世、首長法を発布(イギリス国教会成立) 1534年 ヨーロッパ
スレイマン1世、仏にカピチュレーションを認める 1535年 地中海、西アジア
北条氏綱、今川氏輝の要請で、武田信虎勢と甲斐の郡内山中で戦う 1535年 日本
天文法華の乱 1536年 日本
長尾為景、長男の長尾晴景に家督を譲る 1536年 日本
(武田信玄)元服し、武田晴信と名乗る 1536年 日本
駿河守護の今川氏輝死去。今川氏で内乱が勃発し(花倉の乱)で、今川義元が勝者になる 1536年 日本
伊達稙宗、『塵芥集』を定める 1536年 日本
7月、北条氏綱、扇谷上杉氏の本拠、河越城を奪う 1537年 日本
河東一乱 1537年 日本
扇谷上杉朝興死去。家督は朝定が継ぐ 1537年 日本
武田信虎の娘が今川義元に嫁ぎ、甲駿同盟が成立 1537年 日本
プレヴェザの海戦 1538年 地中海、西アジア
北条氏綱、松戸台で小弓公方の足利義明勢と戦う(第1次国府台合戦) 1538年 日本
北条氏綱、娘を古河公方、足利晴氏の正室とする。その結果、北条氏は足利家の「ご一家」となる 1539年 日本
鶴岡八幡宮の正殿遷宮(落成式)が行われる 1540年 日本
武田晴信(のちの信玄)、父の信虎を駿河に追放し、家督を手に入れる 1541年 日本
カルヴァン、ジュネーブ(スイス)で宗教改革(神政政治)をはじめる 1541年 ヨーロッパ
北条氏綱、死去 1541年 日本
生野銀山、発見 1542年 日本
斎藤利政(道三)、美濃を押領する 1542年 日本
鉄砲伝来 1543年 日本
ポトシ銀山、発見 1545年 中南米
トリエント公会議 1545年 〜 1563年 ヨーロッパ
シュマルカルデン戦争 1546年 〜 1547年 ヨーロッパ
北条氏康、河越夜戦で、古河公方(足利晴氏)、山内上杉氏(上杉憲政)、扇谷上杉氏(上杉朝定)連合軍を撃破 1546年 日本
松平広忠、今川義元に息子の竹千代(徳川家康)を人質に送ったが、途中で織田信秀に奪われる 1547年 日本
織田信秀、美濃の斎藤道三を攻めるも大敗(加納口の戦い) 1547年 日本
(武田信玄)「甲州法度之次第」を定める 1547年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、兄の長尾晴景から家督を受け継ぎ、越後守護代となる 1548年 日本
小豆坂の戦いで、今川義元、織田信秀を破る 1548年 日本
塩尻峠の戦い 1548年 日本
上田原の戦い 1548年 日本
細川晴元、江口の戦いで三好長慶に大敗 1549年 日本
フランシスコ・ザビエル、来日 1549年 日本
今川義元、安祥城を落とし、城主、織田信広(織田信秀の子)を捕らえ、竹千代(徳川家康)と交換する 1549年 日本
織田信長、斎藤道三の娘(濃姫)を室に迎える 1549年 日本
戸石崩れ 1550年 日本
陶晴賢、大内義隆を滅ぼす 1551年 日本
織田信長、父(織田信秀)の死により、家督を継承 1551年 日本
山内上杉憲政、長尾景虎を頼って、越後に落ちる 1552年 日本
北条氏康、甥の足利義氏を古河公方に擁立 1552年 日本
第1回川中島の戦い 1553年 日本
前古河公方、足利晴氏が挙兵するが、北条氏康に敗れて捕らえられ、相模の波多野に幽閉される 1554年 日本
甲相駿三国同盟、成立 1554年 〜 1569年 日本
第2回川中島の戦い 1555年 日本
アウグスブルクの和議 1555年 ヨーロッパ
厳島の戦い 1555年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、出家するため高野山へ向かう 1556年 日本
斎藤道三、息子の斎藤義龍に討たれる(長良川の戦い) 1556年 日本
フェリペ2世、即位 1556年 〜 1598年 ヨーロッパ
アクバル、即位 1556年 〜 1605年 南アジア、東南アジア
第3回川中島の戦い 1557年 日本
北条氏康、家督を嫡子、北条氏政に譲る。しかし、この後も、氏康が軍政を手動する。 1559年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、二度目の上洛。将軍、足利義輝から関東管領任命の内示を受ける 1559年 日本
北条氏康、永禄2年(1559年)頃には上野を勢力下におさめる 1559年 日本
武田晴信、信玄と号す 1559年 日本
統一法、制定される(英) 1559年 ヨーロッパ
桶狭間の戦い 1560年 日本
長宗我部元親、家督相続 1560年 日本
上杉謙信(長尾景虎)、関東管領となる 1561年 日本
第4回川中島の戦い 1561年 日本
上杉謙信、関東に侵攻し、小田原城を攻める 1561年 日本
ユグノー戦争 1562年 〜 1598年 ヨーロッパ
武田・北条連合軍、上杉謙信方の松山城を攻略する 1563年 日本
第5回川中島の戦い 1564年 日本
三好長慶、死去 1564年 日本
アクバル、ジズヤを廃止 1564年 南アジア、東南アジア
13代将軍、足利義輝、殺害される 1565年 日本
武田信玄、箕輪城を落とし、西上野を掌握 1566年 日本
織田信長、美濃攻略 1567年 日本
武田義信(信玄嫡男)、死去(自刃か) 1567年 日本
武田信玄、駿河侵攻はじめる 1568年 日本
織田信長、足利義昭を奉じて、京都に入る 1568年 日本
オランダ独立戦争 1568年 〜 1609年 ヨーロッパ
武田信玄、小田原城包囲 1569年 日本
三増峠の戦い 1569年 日本
石山戦争(石山合戦) 1570年 〜 1580年 日本
姉川の戦い 1570年 日本
スペイン、マニラ建設 1571年 南アジア、東南アジア
北条氏康、死去 1571年 日本
比叡山焼き討ち 1571年 日本
レパント海戦 1571年 地中海、西アジア
三方原の戦い 1572年 日本
サン・バルテルミの虐殺 1572年 ヨーロッパ
張居正の改革 1572年 〜 1582年 東アジア
武田信玄、信濃の駒場で没す 1573年 日本
羽柴秀吉(豊臣秀吉)、近江に長浜城を築城 1573年 日本
織田信長、15代将軍 足利義昭を追放し、室町幕府滅亡 1573年 日本
浅井氏滅亡 1573年 日本
織田信長、長島一向一揆を鎮圧 1574年 日本
織田信長、越前一向一揆を鎮圧 1575年 日本
長宗我部元親、土佐統一 1575年 日本
長篠の戦い 1575年 日本
織田水軍、毛利水軍に敗れる(第一次木津川口の海戦) 1576年 日本
織田信長、安土城を築城 1576年 〜 1579年 日本
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「北条氏康」の関連ノート

【荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-】<h3>舞台は赤浜</h3>
<p>鉢形城の東に赤浜という土地がある。ここが鎌倉街道上道の荒川渡河地点だった。</p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 荒川の南岸、赤浜の渡し(渡河地点)付近。</em>
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<h3>意外と少ない渡河地点</h3>
<p>川というのは、一見どこでも渡れそうだが、大河の場合、川底の地形や水量の多寡という条件があるため、渡れるところと渡れないところがある。渡れて、かつ、交通の便がよい場所が重要な渡河地点となる。</p>
<p>現在、荒川であれ、利根川であれ、川沿いを自転車で走ると、サイクリングロードが整備され、快適に走ることができる。基本的に堤防に囲まれているので、視界は限られる。その限られた視界に、橋が現れては消えてゆく。「○○橋」という橋の名前を見ないと、自分がどこまで走ったか、分からなくなる。</p>
<p>いずれにしても、これらの橋があることで、両岸を容易に行き来できる。だが、もし橋がなかったらと想像してもらいたい。渡るのは大変である。まず、川を渡ると、服が濡れる。転んで怪我をしたり、下手をすると、溺れて落命するかもしれない。であるから、かつて、渡河していた人々はおそらく何か用事があって川を 渡っていたはずで、荷物を持っていることも多かっただろう。</p>
<h3>架橋・治水技術の成果</h3>
<p>江戸時代に、大井川の増水によって、宿場町に何日も足止めされ、その間に路銀をすっかり失ったという話もあるように、大河というのは雨が降って増水すると渡れなく なることがあった。現代は極端な場合を除いて、川が増水して渡れないというケースは経験しないだろう。それは川の上流にダムなどの治水対策が施されていて、水量を調節しているためである。</p>
<p>実際、長尾景春の乱が発生した当初、太田道灌は相模にいる味方を呼び寄せて、江戸城-川越城ラインを遮断する豊島氏を攻めようとしたが、大雨で多摩川が増水して、相模勢は来ることができなかったという。</p>
<h3>渡河作戦の難しさ</h3>
<p>このように、橋とダムによって、現代では川を意識することが少なくなったが、中世における河川の状況は随分違ったことをお分かりいただけたと思う。しかも、軍事作戦で川を渡るとなると一層困難である。</p>
<p>まず、重量のある甲冑を身につけ、騎馬武者は馬に乗って渡河する。そればかりか、対岸には敵が手ぐすね引いて待っているのである。<br> 水の中では、陸上のように機敏に動けないから、まさに格好の標的となってしまう。そして、味方に死傷者を出しながらも、弓矢の雨の中を必死に渡って、運よく対岸に着いたとしても、優勢な敵が味方を袋叩きにしようと待っている。</p>
<p>このように渡河作戦は困難なので、孫子の兵法書に渡河方法が書かれている(行軍篇(第九))ほど、渡河はいくさにおける重要なテーマだった。</p>
<h3>扇谷上杉定正</h3>
<p>さて、この話の主人公は、扇谷上杉定正という人物である。<br> この男は、山内上杉顕定にそそのかされて、自分を擁立し、しかも自家の勢力を強めてくれた、家宰の太田道灌を謀殺した人物として歴史に記録されている。道灌を謀殺したことで、定正に見限りをつける勢力もあり、扇谷家の勢力は減退したが、定正は凡庸な人物ではなかった。</p>
<h3>定正、関東三戦に勝利する</h3>
<p>道灌謀殺後、定正は関東管領家の山内上杉顕定と対立関係に入った。</p>
<p>不利な形勢の中で、軍事面では長享2年(1488年)の関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)を有利に進め、外交では第2代古河公方の足利政氏や政氏の庇護下にあった長尾景春、そして、伊豆を奪取した北条早雲を味方につけ、山内上杉顕定に対抗した。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦</h3>
<p>その後、徐々に勢力を北武蔵に伸ばした定正はついに明応3年(1494年)に荒川に到達し、渡河しようとした。なお、この作戦には定正の援軍として早雲も参戦している。<br> もしこの作戦が成功し、上野国の山内上杉氏を倒せば、山内上杉氏に代わって、扇谷上杉氏が関東の覇者になれる可能性が出てくる。</p>
<p>だが、ここで思いがけないことが起こったのである。定正が荒川渡河時に落馬して、頓死してしまった。扇谷上杉氏の当主になってから約20年もの間、関東の戦乱を生き抜き、道灌謀殺後の苦しい時期も何とか切り抜けてきた定正に一体何が起こったのか。それは残念ながら分からないが、荒川の存在とその流れが彼の落 命の一因となったことは確かだろう。</p>
<p>定正落命は、司馬遼太郎『新装版 箱根の坂(下)』 (講談社文庫)<img>、伊東潤『疾き雲のごとく』<img>の第2話「守護家の馬丁」で書かれている(司馬さんの本では赤浜を過ぎた荒川北岸で、伊東さんの本では荒川南岸で死亡したことになっている。詳しくは各書籍をご覧いただきたい)。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦失敗時の関連人物たち</h3>
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<h3>定正の死と扇谷上杉氏の衰退</h3>
<p>原因はどうあれ、定正が死去したことで、元々、勢力的に劣勢だった扇谷上杉氏は急速に衰退していく。結果からみると、やはり彼の存在が扇谷上杉氏を支えていたことが分かる。</p>
<h3>早雲を関東に引き入れた定正</h3>
<p>もう1つ、彼の果たした役割としては北条早雲を関東に引き入れたことである。<br> 定正の養子、扇谷上杉朝良の代に早雲は小田原を手に入れ、関東の西の入り口に地盤を得た。そして、最終的に、早雲は相模一国を手に入れるのである。<br> それから半世紀ほど後、早雲の孫、北条氏康が最終的に川越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼすことになる。短期的に正しい決断が、長期的に見ると必ずしも正しくないこともあるという一例だろう。</p>
<h3>再び、赤浜</h3>
<p>私は赤浜の渡しで大きな石の前に立っている。</p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 赤浜の渡河地点付近の写真。</em><br><em> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</em>
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<p>5月初旬だったこともあり、ボカボカ陽気で眠くなるようなところだった。<br> 中世の名もなき人々、そして、著名な歴史人物(たとえば、元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府を倒すため軍を率いて鎌倉街道上道を南下した新田義貞)もこの辺りを渡ったことだろう。<br> そして、高見原から鎌倉街道の上道を北上してきた定正は、鎌倉街道上道の高地から赤浜の低地の風景を目にしたあと、この辺りで荒川を渡河しようとして落命したのかもしれない。</p>
<p>今は近くに橋がかかっているので、釣り人らしき人以外、誰も顧みないこの地は、かつて坂東武者たちの生死を懸けた歴史の舞台だったのである。</p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。</em><br><em> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</em><br><em> 赤浜の北岸が花園である。</em><br><em> 荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</em>
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<div>2010年5月1日撮影:<br> 上の写真を撮影した付近に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標識がいくつか立っている。</div>
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荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

赤浜の渡し 上杉定正 埼玉県 大里郡

【小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー】<h2>今回の歴史サイクリングの要約</h2>
<p>2010年9月26日、私は小田原城周辺で歴史サイクリングをしてきた。今回のテーマは、伊東潤 『疾き雲のごとく』の第4話「箱根山の守護神」関連の土地を巡ることである。 <br>この話は、北条早雲以前に小田原と御殿場付近に勢力を張っていた大森氏の興亡の物語で、早雲の立場から見ると、小田原城攻略戦であった。 <br>物語の舞台は箱根と小田原だが、箱根と小田原を1日で巡るのはきついので、今回は小田原周辺に絞った。</p>
<p>コースとしては、電車で国府津駅に行き、その後、自転車で、小田原城→岩原城→松田城→国府津駅という流れである。</p>
<h2>出発</h2>
<p>自宅を発して、小田原の東の入り口にあたる国府津駅まで電車で移動するため、東京駅に向かう。東京駅に着いたのは8時前だった。そして、東京駅から電車に乗ること約1時間15分程度で、国府津駅に到着した。 <br>駅の外で、折りたたみ自転車を組み立て、準備OKの状態になったのが9時半。これから小田原城に向かう。</p>
<h2>国道1号線を西へ</h2>
<p>国府津駅の南には、国道1号線が通っており、小田原城付近まで行くことができる。自転車で走り始めると、早速、ロードレーサーに乗った人たちがビュンビュン走っている。私はいつも通り、時速20km程度でトロトロ走っていく。 <br>さすがに自転車ライダーが多数走っているだけのことはあり、風光明媚なところで、左には相模湾、右手には丹沢山地の山々が連なり、正面には箱根の山が鎮座している。 <br>今回は単なるサイクリングであっても十分楽しめそうだ。</p>
<h2>酒匂川</h2>
<p>さて、国道1号線を西に向かって走っていると、小田原一の大河である酒匂川が見えてくる。 <br>いつも新幹線から見ている川だが、実際に見ると随分印象が違う。また、地図で見て想像していたよりも、川幅は広く感じた。 <br>当日の少し前に雨が降ったようで、川の水は随分濁っていた。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川。思ったより、河口部は広かった。</em>
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<h2>山王川</h2>
<p>しばらく進むと、山王川が流れている。 <br>北条氏は、豊臣秀吉による関東侵攻に備えて、小田原城を大拡張したが、その時の外郭の東端が山王川だった(西端が早川)。小田原城の外郭(総構(そうがまえ)ともいう)は約12kmにもなり、小田原の城下町をすっぽりと囲んでいた。</p>
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<em>2012年10月撮影 </em><br><em>小田原城外郭の東端を形成していた山王川。</em>
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<p>海がある土地に来たわけだから、やはり、砂浜に行こうということで、御幸が浜という小田原城の南にある浜に行き、相模湾を拝んできた。</p>
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<em>2012年10月</em><br><em>小田原城南にある御幸の浜。相模湾が広がる。</em>
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<h2>小田原城に到着</h2>
<p>その後、小田原城に行き、城内を見てまわることにした。 <br>城内に入ると、江戸時代の小田原城を再現するプロジェクトが進んでいるそうで、銅門(あかがねもん)や馬出門枡形などが復元されていた。さらに進んでいくと、本丸に着く。そして、本丸には立派な復興天守が建てられている(本丸の域内になぜか猿が飼育されていた。子供に人気があったので、猿たちは子供寄せ「パンダ」なのだろうか)。</p>
<p>天守閣の中に入ると、小田原城の歴史紹介や小田原ゆかりの展示品がなされており、なかなか見応えたがあった。そして、最上階は展望スペースになっており、四方を遠望できる。<br> 本当に眺めの良いところで、相模湾はむろんのこと、豊臣秀吉が築いた石垣山城のあった山も見ることができる。</p>
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<div><em>2012年2月撮影<br>小田原城の天守閣。天守閣の中は資料館になっていている。最上階は展望スペースになっており、よい眺めだった。</em></div>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから三浦半島をのぞむ。</em>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから丹沢山地方面をのぞむ。</em>
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<em>2010年9月 </em><br><em>北条早雲や早雲に敗れた大森氏時代の小田原城は、現在の小田原城の北にある八幡山古郭にあったと言われている。遅くとも、後北条氏3代当主の北条氏康の頃には、現在の小田原城にも城域が拡大されたという。そして、江戸時代になると、八幡山古郭のほうは放棄され、現在の小田原城が中心となった。 <br>なお、「箱根山の守護神」の中で出てくる「華岳城」というのが、八幡山古郭にあった小田原城を意味している。</em>
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<em>2010年9月 </em><br><em>小田原城の展望スペースから石垣山一夜城があった石垣山をのぞむ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東に侵攻し、小田原城を包囲した、その時に、秀吉が築城したのが石垣山一夜城である。 <br>築城が終わり、石垣山一夜城を隠す木々を切ったため、小田原城から見ると、一夜で城ができたように見えた。ゆえに、石垣山「一夜城」と言われているそうだ。</em>
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<p>天守閣から降りてくると、12時半前になっていたので、昼食をとることにした。 <br>今回も「EveryTrail」(*)を使っているため、iPhone4の電池の消耗が激しい。昼食をとりながら充電しようと思い、バッグの中をさぐってみると、「あれ、携帯式充電池がない!」「これはしたり」、忘れてきたのだった。 <br>その時点で、電池残量は50%程度だったので、これは厳しいなと思いながら、何とか節電することで切り抜けようと決意した。 <br>この後、「EveryTrail」の記録が途切れ途切れになっているのは節電努力の跡である。多少、見づらいかもしれないが、勘弁してください。</p>
<p>昼食をとった後、小田原城の北側に向かった。というのは、現在の小田原城は、徳川時代の小田原城の位置にあり、今回のテーマである大森氏時代の小田原城はもう少し北にある丘陵にあったと言われているためだ。実際にその丘陵に登ってみると、小田原城のある地点よりも高所だということが分かる。 <br>伊東さんの本の「箱根山の守護神」で出てくる「華岳城」というのはこの辺りにあった城を意味している。<br><br>(*)iPhoneの地図アプリ。2010年当時使っていた。</p>
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<em>2013年1月撮影 </em><br><em>八幡山古郭東曲輪から小田原城をのぞむ。八幡山古郭の中でも、中心部はもう少し北側の高地にある。それでも、小田原城よりも、この曲輪のほうが高いところにある。</em>
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<p>華岳城のさらに北西に行くと、小峯御鐘ノ台に至る。 ここには、北条氏末期に構築されたという大きな堀や曲輪がかなりよい状態で現存している。ただ、蚊がやたら多く、かつ、しつこくて閉口した。</p>
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<em>2010年9月 </em><br><em>八幡山古郭の北西にある御鐘ノ台の空堀。大規模な空堀であることが分かる。</em>
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<p>御鐘ノ台はなかなか興味深いところだった。 自転車をとめて、ぐるぐるめぐっている間に結構時間が経過していたようで、御鐘ノ台を出る頃には14時半になっていた。</p>
<h2>岩原城へ</h2>
<p>さて、次の目的地は岩原城である。 <br>岩原城は大森氏頼(寄栖庵)の隠居後の居城といわれ、舌状台地の上に築かれていた。 伊東さんの本の「箱根山の守護神」でも出てくる。この話の中で出てくる、寄栖庵の衣擦れの音が妙にリアルに感じた。</p>
<p>私は小田原城の御鐘ノ台を出て、東に向かった後、県道74号を北上した。 <br>所々、上り坂があったが、大したことはなかった。左側(西側)に台地を見つつ、順調に距離を伸ばした。 <br>30分ほど走ると、岩原城の近くに来たので、左折して、台地を登っていく。結構きつい坂で、自転車では登れないので、押して登る。 <br>台地の頂上に近づくにつれて、なぜここに城が築かれたのか分かるような気がした。足柄方面、秦野に通じる松田方面がよく見えるのである。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城から松田城方面(北東)をのぞむ。岩原城から松田方面を目視できるのが分かる。 <br>松田氏は、足柄方面から勢力を強めてくる大森氏に危機感を持っており、関係はよくなかった。やはり、対立勢力が目に見える範囲にいるというのは緊張感を高めたことだろう。のちに、松田氏は北条早雲を小田原に引き入れ、大森氏を討つことになる。</em>
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<h2>岩原城の地勢</h2>
<p>また、小田原城から自転車で30分なので、小田原城から遠くはない(小田原城は見えなかったが、小田原方面は一部見える)。したがって、これら三方面で何かあれば、この城から対応することも容易だと思った。であればこそ、寄栖庵は隠居後の所在地にこの城を選んだのかもしれない。 <br>さらに進むと、岩原城への道標があった。それを辿っていくと、思ったより簡単に岩原城址は見つかった。 城址は民家の奥にあった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>微高地の上にある岩原城。この微高地の周りは畑と崖だった。</em>
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<h2>「シロ」</h2>
<p>自転車をとめて、城址のほうへ歩いていくと、やや大型の白っぽい色の犬が激しく吠えてきた(ここでは仮にこの犬を「シロ」と呼んでおこう)。 <br>私はそれほど犬に恐怖心を持っていないので、多少、やかましいと思いながらもスルーできる。城址には岩原城の石碑と大森家のものと思われるお墓があった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城の標柱</em>
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<h2>城址としての遺構はないが</h2>
<p>城址にはまったくといってよいほど遺構が残っていなかったが、台地上から見える景色が雄弁にこの城の存在意義を語っているようにも思える。</p>
<p>岩原城の案内板を読んだり、写真を撮ったりしている間も、ずっとシロは吠え続けていた。これほどしつこく吠えられたのは、実蒔原古戦場を訪れたとき以来である。</p>
<p>それほど不審な振る舞いをしているわけではないのに吠えられるのは心外だったが、最後のほうはよくこれだけ吠えられるものだと感心した。</p>
<p>ただ、私が帰る頃になると、さすがに疲れてきたようで、当初の勢いはなかった。そして、私が城から離れると、シロはすぐに吠えるのをやめた。なぜかシロのホッとした気持ちと自分の仕事をやり遂げた自負心が伝わってきたような気がした。</p>
<h2>松田城へ</h2>
<p>さて、シロと別れて、これから松田城に向かうわけであるが、すでにこの時点でiPhoneの電池の残量が30%程度になっている。最後までもってくれるのか、気になりながらの出発だ。 <br>松田城は秦野方面から足柄平野(小田原の平野)に入る入り口にあり、在地勢力である松田氏が支配していた。早雲が相模に進出するときも当初から協力したため、その後、大変優遇された。「箱根山の守護神」では松田城は出て来ないが(*)が、小田原を北のほうから眺めるとどう見えるのか知りたかったので、行ってみることにした。</p>
<div><em>(*)第5話「稀なる人」のP.176に「その隣が松田左衛門」とあるが、この「松田左衛門」が松田城付近に勢力を持っていた松田氏のこと。</em></div>
<h2>紙の地図とiPhoneのGPS機能の使いわけるコツ</h2>
<p>松田城がある山は目視できるので(実際には地図と風景を照らし合わせて「あの辺だろう」と当たりをつけているに過ぎないが)、それをランドマークにしつつ、適当に走りやすい道を走る。 <br>やはり、iPhoneのGPS機能があると、ほぼ道に迷うということはないので、その点では大変便利だ。ただ、画面が小さいので、表示できる情報に限りがある。そのため、私は折りたたみ用の神奈川県の地図を買って、大体の地形や地名を頭に入れた上で、iPhoneの詳細情報を見ることにしている。 <br>そうすると、全体像を把握した上で、詳細情報を活用できる。</p>
<h2>松田城の入り口</h2>
<p>松田城に近づくにつれ、空気も景色もよくなってきます。酒匂川を越えると、ここが神奈川県であることを忘れてしまうほど、ゆったりした雰囲気になる。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川から北方面を撮影。</em><br><em>(おそらく視界には入っていないが)北西に松田城がある。</em>
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<p>いいところだなと思いながら、松田城の入り口を探す。 <br>しばらく走っていると、松田城の入り口を示す案内板を見つけたので、右折して、山を登っていく。 東名高速道路の上にかかっている橋を渡ると、松田城の入り口があった。城の入り口に入ると、一瞬唖然とした。</p>
<p>まるで、ジャングルである。人が来ていないのがよく分かる。松田城入り口に入らずに直進すると、舗装された道があり、これが迂回路になっていそうだったが、敢えて、このまま進むことにした。むろん、自転車は城の入り口の草むらの中に置いていく。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ジャングルのような松田城入り口。最初は迂回することを考えたが、この先がどうなっているのか知りたい誘惑に抗することはできなかった。</em>
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<p>入り口には、咬まれると何時間か動けなくなりそうなサイズのクモが巣くっていた。クモの巣を顔面に喰らうのは勘弁して欲しいので、細い木の棒を前方に振り回して進む。 <br>ただ、案外、ジャングルは入り口だけで、その後は普通の山道だった(クモの巣は所どころあったが)。おそらく、松田城を訪れた人はこの入り口を見て驚き、怯んで舗装された道を迂回する行動をとるのではないかと思う(そして、それが正解だとも思う)。</p>
<h2>松田城付近からの眺め</h2>
<p>松田城への道を登って、案内板のあるポイントに着くと、素晴らしい眺望が広がっていた。まさに、これが見たいがために、ここへ来たのである。 <br>私の勝手な推測だが、松田氏は、代々、秦野との交通と目の前にある酒匂川の河川の流れを押さえていたのではないだろうか。その様子が目に浮かぶ。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城から足柄平野を一望できるのが分かる。</em><br><em>足柄平野の右側が小田原、左側が国府津、中央に酒匂川が流れている。</em><br><em>松田城は秦野からの入り口を押さえる位置にあるので、ここが足柄平野の要地であったのだろう。</em>
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<h2>松田城のいま</h2>
<p>城域に入っていくと、中年の男性が草刈をしていた。お陰で歩きやすかった。 <br>かつての曲輪はみかん畑に変っていた。何だか懐かしい風景だった。城の遺構としては見るべきものはあまりなかったが、その眺めの良さを考えると来た甲斐があった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城の標柱</em>
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<h2>帰り道、雨が。。。</h2>
<p>松田城をあとにした時点で、16時半頃になっていた。 <br>小腹が空いたので、持参したバナナでも食べようかと思って、自転車を橋の上にあるちょっとしたスペースに寄せたとき、ポツリと雨が降ってきた。そして、時を同じくして周囲が急に暗くなってきた。</p>
<p>この日、小田原市の予報は夕方から雨だったので、ついに来るべきときが来たと思い、バナナを諦めて、自転車を漕ぎ始めた。目指すは本日の出発地点の国府津駅で、大体、距離は12km程度である。国府津駅まで戻れば、不完全ながら、足柄平野を一周したことになる。<br>だが、ドシャ降りの雨の中を走りたくないので、本降りになってきたら、御殿場線の最寄り駅に駆けこんで、電車で帰ることにする。 <br>なお、この時点で、iPhoneの電池残量は10%強しかなかったので、必要なときだけ、Google Mapsという地図ソフトで現在地を確認することにした。</p>
<h2>県道72号線を南下</h2>
<p>基本的には、距離的に最短であろう県道72号線を走ることにした。 <br>県道72号は足柄平野の東端を通っており、高地を走ることになる。ということは、坂がありそうだが、まあよかろうと思って走りはじめた。 <br>最初はポツリポツリの雨だったが、次第に強さを増し始めた。一時、電車を考えたが、そんなときに限って雨が緩やかになる。</p>
<p>上曽我辺りに来ると、結構、暗くなってきたので、ライトを点ける。<br>私の自転車はダイナモのライトなので、人力でライトが点灯する。したがって、上り坂ではライトを点けるための重みが加わる。上下を繰り返す道と強弱を繰り返す雨、そして、ダイナモライトの重みに閉口しながらも、下曽我まで来た。下曽我は曽我梅林で有名である。だが、残念ながら、この頃には夕闇が辺りを蔽って、梅の木のシルエットが見えるだけだった。</p>
<h2>滑りこみセーフか</h2>
<p>曽我梅林の辺りから国府津駅まで、あと3kmほどだ。 <br>あともう少しということで、雨の中を懸命に走った。そして、ついに国府津駅に着いた。</p>
<p>駅前で自転車をたたんで、国府津駅のホームで東京駅行きの電車を待つ。「やれやれ」と思いながら、コーンポタージュの缶ジュースを買って、イスに座って飲みはじめると(この日は結構寒かった)、ザーと雨が降ってきた。危ないところだった。</p>
<p>(終)</p>

小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

小田原城 疾き雲のごとく フィールドをゆく 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー 神奈川県 小田原市

【長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜】<h2>別の戦国時代をつくる可能性を持っていた男、長尾景春</h2>
<p>別の戦国時代を作る可能性を持っていた人物として、長尾景春がいる。一般には知られざるこの人物について、これから書いていきたい(*)。</p>
<p><em>(*)この記事の公開は2011年10月14日で、長尾景春が主役の歴史小説、伊東潤氏『叛鬼』はまだ出版されていなかった。伊東さんの著書によって、長尾景春はの知名度は以前よりも上がったと思う。</em></p>
<p>長尾景春は訳あって、主人の関東管領、山内上杉顕定を相手に謀反を起こし、主の顕定を窮地に陥れた。これが文明8年(1476年)からはじまる長尾景春の乱で、景春が30代前半の頃のことである。しかし、不運にも、彼の同時代には太田道灌がいた。</p>
<p>長尾景春は巧みな外交と調略を駆使して、戦略的優位を準備するものの、太田道灌との戦闘に敗れた。戦略的に勝っているからといって、自動的に最終的な勝利が得れれるというものではない。</p>
<p>長尾景春について述べる前に、同姓の越後守護代、長尾為景について見ていきたい。</p>
<h2>下克上を成功させた男、長尾為景</h2>
<p>永正4年(1507年)長尾為景は越後守護の上杉氏に下克上を起こして成功し、傀儡の越後守護を擁立することに成功した。そして、首尾よく傀儡越後守護も追放して、為景自身が越後の支配者となった。彼の息子の長尾景虎はその地盤を引き継ぎ、さらには、(北条早雲の孫、北条氏康に河越夜戦(1546年)で撃破され、その後、没落させられた)関東管領の山内上杉憲政から山内上杉氏の名と関東管領の職を受け継ぎ、「山内上杉」謙信となった。そして、謙信は武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国の雄たちと激しく争うことになる。</p>
<h2>「長尾景春の乱」の原因:景春、山内上杉氏の家宰職を継承できず</h2>
<p>社会的地位からいうと、長尾景春は越後守護代の長尾為景(上杉謙信の父)と似たところにいた。</p>
<p>長尾景春の祖父(白井長尾景仲)も父(白井長尾景信)も、主の山内上杉氏の家宰(執事)だった。文明5年(1473年)に、父の長尾景信が死去した。景春は、当然、自分がその地位を引き継げると思っていた。 <br>しかし、彼の家(白井長尾家)の勢力が主家を凌ぐのを恐れた若き当主、関東管領の山内上杉顕定が、景春の叔父を家宰に任命した(上杉顕定の懸念は、越後の長尾為景の例を見ても空想ではなかった)。 <br>景春にとって、この処置は認められるものではない。怒りなどの感情もあっただろうが、それより、家宰職には膨大な利権があり、家臣や同輩はそれを当てにしている。景春が利権を手放せば、人々は去っていき、景春の政治生命は致命的なダメージを受けることになる。 <br>景春は政治的な死を選んで隠遁するか、家宰職を認めさせるために主と戦うかの二者択一を迫られたのである。</p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>白井城から榛名山をのぞむ。手前に流れる川が吾妻川。 </em><br><em>白井城は代々、山内上杉氏の家宰を務める白井長尾家の本拠地だった。当城は群馬県渋川市白井に位置する崖端城である。白井城の西側を吾妻川が東側を利根川が流れており、城の南側で合流しており、さらに三国街道がこの城の近くを通るため、上野と越後の交通の要衝でもある。 </em><br><em>かつての城域の大部分は、現在、畑だが、一曲輪を中心に遺構も残っている。</em>
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<h2>景春、挙兵</h2>
<p>景春は関東の有力国人を多数味方につける一方、文明8年(1476年)頃、<a>鉢形城</a>を築城して拠点とした。また、当時、享徳の乱が継続中で、主家の山内上杉氏と古河公方は対立しており、主家と敵対している古河公方、足利成氏を味方につけ、着々と軍事的、外交的な策を駆使して、蜂起のときを待った。</p>
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<em>2010年4月25日撮影 </em><br><em>鉢形城の北側からのアングル。写真中央の川が荒川。城の堅固さが偲ばれる。遺構の良好に残り、北条氏末期の鉢形城の様子がよく分かる。 </em><br><em>長尾景春が太田道灌(両上杉氏)との戦いに敗れ、この城を追われたあと、この城は山内上杉氏の武蔵支配の拠点となった。16世紀の半ばに、後北条氏が山内上杉氏に代わって、この地を支配するようになっても、鉢形城は重要拠点でありつづけた。景春の築城眼は的を得ていたようだ。</em>
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<em>長尾景春の乱、概略絵地図 </em><br><em>当時の関東は、利根川を境に東が古河公方の勢力圏、西が両上杉氏の勢力圏だった(なお、当時の利根川の流路は現在と違い、関東を東西に分けていた)。古河公方勢と対戦中だった両上杉の前線拠点、五十子陣は背後から長尾景春に攻撃され、崩壊した。</em>
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<h2>景春の、そして、関東の運命を握る男、太田道灌</h2>
<p>景春にとって、最大の脅威は江戸を中心に勢力を持っている太田道灌だった。道灌は文武両道の名将で、足軽を組織して、強力な軍事力を養う一方、関東の大河の下流を押さえる江戸に堅固な江戸城を築き、大きな経済力も持っていた(道灌はその強力さ故に、10年後、道灌の主人、扇谷上杉定正に謀殺されることになる)。</p>
<p>ただ、道灌は主の扇谷上杉定正や定正の同盟者である山内上杉顕定との関係がうまくいっておらず、彼らの間に溝が広がりつつあった。景春にとって、道灌は敵にまわすと最大の脅威なので、この隙をついて、道灌を味方につけるか、それが無理ならせめて中立を維持させる必要があった。</p>
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<em>2010年2月撮影</em><br><em>江戸城に残る3つの櫓の1つ、富士見櫓。かつて太田道灌が築いた静勝軒の故地に江戸城の富士見櫓が建っているという。 静勝軒は道灌の軒号でもある。</em>
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<h2>景春、初戦に勝利。</h2>
<p>景春は道灌と両上杉首脳の不仲を好機として蜂起した。景春の基本戦略は五十子陣にいる両上杉首脳と道灌の連携を分断し、道灌を足止めする一方、両上杉の軍勢に打撃を与え、機を見て、主の山内上杉顕定と和睦し、政治目標を実現するというものだったと思う。家宰職を得ることが景春の政治的な目標なら、この戦略は的を得ているだろう。</p>
<p>初戦は上々で、文明9年(1477年)1月に主の顕定と扇谷上杉定正のいる五十子陣を襲って崩壊させた。顕定と定正は何とか利根川の北に逃げ延びた。これが「長尾景春の乱」の最初の戦いだった(この戦いは4年に及んだ)。</p>
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<em>2010年4月撮影 </em><br><em>両上杉氏が古河公方との戦いのために築いた五十子陣跡。近辺は茫漠たる平野が広がる。 その重要な拠点を景春は崩壊させた。そのため、両上杉首脳は窮地に陥るが、太田道灌の活躍によって何とか生き延びた。</em>
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<h2>道灌、動く</h2>
<p>景春は山内上杉顕定との和睦の取次ぎを期待して、道灌に使者を送った。景春の政治的目標は山内上杉氏の家宰職の継承だったのだと思う。そうでなければ、顕定勢の撃滅を目指していたはずだ。 <br>景春の意図はどうであれ、結局、道灌による和睦斡旋は失敗した。すると、道灌は景春を討つべく、江戸城から北上してきた。</p>
<p>道灌は江戸城と河越城の連絡線を遮断している練馬城・石神井城の豊島氏を江古田・沼袋の戦いで撃破した。この戦いによる勝利で江戸城・河越城のラインを確保した道灌はさらに北上を続けた。 <br>景春は当時五十子陣にいた。道灌は、景春の拠点、鉢形城と五十子陣の間で陣を構えることで、景春の補給ラインを分断した。景春は補給ラインを確保すべく南下したが、これは道灌の「手」だった。</p>
<p>道灌は景春をおびき寄せて合戦に持ちこんだ(用土原・針谷の戦い)。景春は道灌の術中にはまり、敗れた。その後も、道灌は景春勢を各地で撃破して、景春を秩父の奥地に追い込んでいった。そして、文明12年(1480年)、景春最後の拠点、秩父の日野要害(熊倉城)も道灌に攻略され、景春は没落した。</p>
<p>なお、景春は道灌の妻の甥にあたり、お互いよく知った仲であったと言われている。</p>
<h2>景春の実現されなかった可能性を考える</h2>
<p>長尾景春は長尾景春の乱に敗れたが、その後も神出鬼没の活躍で、主の山内上杉顕定を苦しめた。やはり、只者ではなかったことが分かる。しかし、これらの活躍もあくまでも好機に便乗するという形であって、景春が再び時代の主役になることはなかった。</p>
<p>ここで、少々、「もし」を考えてみたい。 <br>もしこの時道灌が江戸城を動かなかったり、さらに言うと、道灌が景春に協力していたら、古河公方との戦いにも直面していた両上杉氏(山内上杉氏と扇谷上杉氏)は二方向、道灌も含めれば、三方向から挟撃され、一時的であれ、両上杉氏主力が壊滅していた可能性はかなりあったと思う。</p>
<p>当時、長尾為景の下克上はまだ起こっておらず、山内上杉氏は越後上杉氏の援軍を期待できたため、山内上杉氏がたやすく滅亡したかどうかは疑問ではあるものの(また、京都では弱体ながら室町幕府は存在していた。幕府は基本的に親上杉なので、近隣諸国からも両上杉氏に援軍が来ていた可能性もある)、一方では景春か道灌が古河公方を担いで関東を統一し、彼らの子供あたりが源頼朝のように関東の強兵を率いて京に攻め上り、天下に号令していた可能性もゼロではない(実際、永正5年(1508年)、大内義興は前将軍の足利義稙を擁して上京し、10年間、自派の政権を維持した)。</p>
<p>実際には、このシナリオ(景春と道灌が同盟し、両上杉氏を倒すシナリオ)は実現されなかったわけだが、もし実現していたら、その後の展開は全く変わっていただろう。 <br>状況は違うが、後に景春や古河公方と同盟して、両上杉氏と対抗した人物がいる。そう、それが北条早雲である。もしこの時(景春が蜂起したとき)に早雲が道灌の立場であれば、どういう判断を下していただろうか。</p>
<h2>長尾景春と長尾為景</h2>
<p>結局、失敗した長尾景春の乱だったが、景春は優れた戦略家であり、実行力もあった。ただ、相手(太田道灌)が悪かったと言えるかもしれない。</p>
<p>長尾景春の乱から、約30年後、越後で長尾為景が越後上杉氏を倒して、下克上に成功した。 長尾景春はある意味、長尾為景になり損なった男ということもできると思う。</p>
<h2>年表: 長尾景春の乱</h2>
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<p>(終)</p>

長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜

作成日:2014/6/22 , by fuji3zpg 開く

長尾景春の乱 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー

【滝山城】滝山城大手の小峰曲輪です。<br><br>滝山城は、北条氏康の息子、北条氏照の居城でした。1869年、武田信玄は大群を率いて、関東に侵攻し、北条氏照が守る滝山城を包囲しました。<br><br>ここ小峰曲輪も激戦の末、武田勢に落とされ、二の曲輪まで後退した北条勢でしたが、何とか持ちこたえました。400年ほど前、ここは硝煙・絶叫、血と汗の修羅場だったかもしれません。<br>今は竹の葉が揺れ、擦れ合う音が聞こえる閑静な場所です。<br><br>武田優勢にも関わらず、信玄は滝山城包囲を解き、小田原城に向かったのでした。

作成日:2014/5/22 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

東京都 八王子市

【小沢城】北条氏康が初陣を飾った小沢原付近。中心部の丘陵が読売ランド、左手が小沢城、右手が矢野口。手前の川は多摩川。<br>      矢野口は渡河地点だった。1530年、北条氏康は扇谷上杉勢を相手に初陣した(小沢原の戦い)。

作成日:2013/4/6 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

『北条龍虎伝』の城 東京都 調布市

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