【小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー】<h2>今回の歴史サイクリングの要約</h2>
<p>2010年9月26日、私は小田原城周辺で歴史サイクリングをしてきた。今回のテーマは、伊東潤 『疾き雲のごとく』の第4話「箱根山の守護神」関連の土地を巡ることである。 <br>この話は、北条早雲以前に小田原と御殿場付近に勢力を張っていた大森氏の興亡の物語で、早雲の立場から見ると、小田原城攻略戦であった。 <br>物語の舞台は箱根と小田原だが、箱根と小田原を1日で巡るのはきついので、今回は小田原周辺に絞った。</p>
<p>コースとしては、電車で国府津駅に行き、その後、自転車で、小田原城→岩原城→松田城→国府津駅という流れである。</p>
<h2>出発</h2>
<p>自宅を発して、小田原の東の入り口にあたる国府津駅まで電車で移動するため、東京駅に向かう。東京駅に着いたのは8時前だった。そして、東京駅から電車に乗ること約1時間15分程度で、国府津駅に到着した。 <br>駅の外で、折りたたみ自転車を組み立て、準備OKの状態になったのが9時半。これから小田原城に向かう。</p>
<h2>国道1号線を西へ</h2>
<p>国府津駅の南には、国道1号線が通っており、小田原城付近まで行くことができる。自転車で走り始めると、早速、ロードレーサーに乗った人たちがビュンビュン走っている。私はいつも通り、時速20km程度でトロトロ走っていく。 <br>さすがに自転車ライダーが多数走っているだけのことはあり、風光明媚なところで、左には相模湾、右手には丹沢山地の山々が連なり、正面には箱根の山が鎮座している。 <br>今回は単なるサイクリングであっても十分楽しめそうだ。</p>
<h2>酒匂川</h2>
<p>さて、国道1号線を西に向かって走っていると、小田原一の大河である酒匂川が見えてくる。 <br>いつも新幹線から見ている川だが、実際に見ると随分印象が違う。また、地図で見て想像していたよりも、川幅は広く感じた。 <br>当日の少し前に雨が降ったようで、川の水は随分濁っていた。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川。思ったより、河口部は広かった。</em>
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<h2>山王川</h2>
<p>しばらく進むと、山王川が流れている。 <br>北条氏は、豊臣秀吉による関東侵攻に備えて、小田原城を大拡張したが、その時の外郭の東端が山王川だった(西端が早川)。小田原城の外郭(総構(そうがまえ)ともいう)は約12kmにもなり、小田原の城下町をすっぽりと囲んでいた。</p>
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<em>2012年10月撮影 </em><br><em>小田原城外郭の東端を形成していた山王川。</em>
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<p>海がある土地に来たわけだから、やはり、砂浜に行こうということで、御幸が浜という小田原城の南にある浜に行き、相模湾を拝んできた。</p>
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<em>2012年10月</em><br><em>小田原城南にある御幸の浜。相模湾が広がる。</em>
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<h2>小田原城に到着</h2>
<p>その後、小田原城に行き、城内を見てまわることにした。 <br>城内に入ると、江戸時代の小田原城を再現するプロジェクトが進んでいるそうで、銅門(あかがねもん)や馬出門枡形などが復元されていた。さらに進んでいくと、本丸に着く。そして、本丸には立派な復興天守が建てられている(本丸の域内になぜか猿が飼育されていた。子供に人気があったので、猿たちは子供寄せ「パンダ」なのだろうか)。</p>
<p>天守閣の中に入ると、小田原城の歴史紹介や小田原ゆかりの展示品がなされており、なかなか見応えたがあった。そして、最上階は展望スペースになっており、四方を遠望できる。<br> 本当に眺めの良いところで、相模湾はむろんのこと、豊臣秀吉が築いた石垣山城のあった山も見ることができる。</p>
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<div><em>2012年2月撮影<br>小田原城の天守閣。天守閣の中は資料館になっていている。最上階は展望スペースになっており、よい眺めだった。</em></div>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから三浦半島をのぞむ。</em>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから丹沢山地方面をのぞむ。</em>
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<em>2010年9月 </em><br><em>北条早雲や早雲に敗れた大森氏時代の小田原城は、現在の小田原城の北にある八幡山古郭にあったと言われている。遅くとも、後北条氏3代当主の北条氏康の頃には、現在の小田原城にも城域が拡大されたという。そして、江戸時代になると、八幡山古郭のほうは放棄され、現在の小田原城が中心となった。 <br>なお、「箱根山の守護神」の中で出てくる「華岳城」というのが、八幡山古郭にあった小田原城を意味している。</em>
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<em>2010年9月 </em><br><em>小田原城の展望スペースから石垣山一夜城があった石垣山をのぞむ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東に侵攻し、小田原城を包囲した、その時に、秀吉が築城したのが石垣山一夜城である。 <br>築城が終わり、石垣山一夜城を隠す木々を切ったため、小田原城から見ると、一夜で城ができたように見えた。ゆえに、石垣山「一夜城」と言われているそうだ。</em>
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<p>天守閣から降りてくると、12時半前になっていたので、昼食をとることにした。 <br>今回も「EveryTrail」(*)を使っているため、iPhone4の電池の消耗が激しい。昼食をとりながら充電しようと思い、バッグの中をさぐってみると、「あれ、携帯式充電池がない!」「これはしたり」、忘れてきたのだった。 <br>その時点で、電池残量は50%程度だったので、これは厳しいなと思いながら、何とか節電することで切り抜けようと決意した。 <br>この後、「EveryTrail」の記録が途切れ途切れになっているのは節電努力の跡である。多少、見づらいかもしれないが、勘弁してください。</p>
<p>昼食をとった後、小田原城の北側に向かった。というのは、現在の小田原城は、徳川時代の小田原城の位置にあり、今回のテーマである大森氏時代の小田原城はもう少し北にある丘陵にあったと言われているためだ。実際にその丘陵に登ってみると、小田原城のある地点よりも高所だということが分かる。 <br>伊東さんの本の「箱根山の守護神」で出てくる「華岳城」というのはこの辺りにあった城を意味している。<br><br>(*)iPhoneの地図アプリ。2010年当時使っていた。</p>
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<em>2013年1月撮影 </em><br><em>八幡山古郭東曲輪から小田原城をのぞむ。八幡山古郭の中でも、中心部はもう少し北側の高地にある。それでも、小田原城よりも、この曲輪のほうが高いところにある。</em>
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<p>華岳城のさらに北西に行くと、小峯御鐘ノ台に至る。 ここには、北条氏末期に構築されたという大きな堀や曲輪がかなりよい状態で現存している。ただ、蚊がやたら多く、かつ、しつこくて閉口した。</p>
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<em>2010年9月 </em><br><em>八幡山古郭の北西にある御鐘ノ台の空堀。大規模な空堀であることが分かる。</em>
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<p>御鐘ノ台はなかなか興味深いところだった。 自転車をとめて、ぐるぐるめぐっている間に結構時間が経過していたようで、御鐘ノ台を出る頃には14時半になっていた。</p>
<h2>岩原城へ</h2>
<p>さて、次の目的地は岩原城である。 <br>岩原城は大森氏頼(寄栖庵)の隠居後の居城といわれ、舌状台地の上に築かれていた。 伊東さんの本の「箱根山の守護神」でも出てくる。この話の中で出てくる、寄栖庵の衣擦れの音が妙にリアルに感じた。</p>
<p>私は小田原城の御鐘ノ台を出て、東に向かった後、県道74号を北上した。 <br>所々、上り坂があったが、大したことはなかった。左側(西側)に台地を見つつ、順調に距離を伸ばした。 <br>30分ほど走ると、岩原城の近くに来たので、左折して、台地を登っていく。結構きつい坂で、自転車では登れないので、押して登る。 <br>台地の頂上に近づくにつれて、なぜここに城が築かれたのか分かるような気がした。足柄方面、秦野に通じる松田方面がよく見えるのである。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城から松田城方面(北東)をのぞむ。岩原城から松田方面を目視できるのが分かる。 <br>松田氏は、足柄方面から勢力を強めてくる大森氏に危機感を持っており、関係はよくなかった。やはり、対立勢力が目に見える範囲にいるというのは緊張感を高めたことだろう。のちに、松田氏は北条早雲を小田原に引き入れ、大森氏を討つことになる。</em>
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<h2>岩原城の地勢</h2>
<p>また、小田原城から自転車で30分なので、小田原城から遠くはない(小田原城は見えなかったが、小田原方面は一部見える)。したがって、これら三方面で何かあれば、この城から対応することも容易だと思った。であればこそ、寄栖庵は隠居後の所在地にこの城を選んだのかもしれない。 <br>さらに進むと、岩原城への道標があった。それを辿っていくと、思ったより簡単に岩原城址は見つかった。 城址は民家の奥にあった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>微高地の上にある岩原城。この微高地の周りは畑と崖だった。</em>
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<h2>「シロ」</h2>
<p>自転車をとめて、城址のほうへ歩いていくと、やや大型の白っぽい色の犬が激しく吠えてきた(ここでは仮にこの犬を「シロ」と呼んでおこう)。 <br>私はそれほど犬に恐怖心を持っていないので、多少、やかましいと思いながらもスルーできる。城址には岩原城の石碑と大森家のものと思われるお墓があった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城の標柱</em>
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<h2>城址としての遺構はないが</h2>
<p>城址にはまったくといってよいほど遺構が残っていなかったが、台地上から見える景色が雄弁にこの城の存在意義を語っているようにも思える。</p>
<p>岩原城の案内板を読んだり、写真を撮ったりしている間も、ずっとシロは吠え続けていた。これほどしつこく吠えられたのは、実蒔原古戦場を訪れたとき以来である。</p>
<p>それほど不審な振る舞いをしているわけではないのに吠えられるのは心外だったが、最後のほうはよくこれだけ吠えられるものだと感心した。</p>
<p>ただ、私が帰る頃になると、さすがに疲れてきたようで、当初の勢いはなかった。そして、私が城から離れると、シロはすぐに吠えるのをやめた。なぜかシロのホッとした気持ちと自分の仕事をやり遂げた自負心が伝わってきたような気がした。</p>
<h2>松田城へ</h2>
<p>さて、シロと別れて、これから松田城に向かうわけであるが、すでにこの時点でiPhoneの電池の残量が30%程度になっている。最後までもってくれるのか、気になりながらの出発だ。 <br>松田城は秦野方面から足柄平野(小田原の平野)に入る入り口にあり、在地勢力である松田氏が支配していた。早雲が相模に進出するときも当初から協力したため、その後、大変優遇された。「箱根山の守護神」では松田城は出て来ないが(*)が、小田原を北のほうから眺めるとどう見えるのか知りたかったので、行ってみることにした。</p>
<div><em>(*)第5話「稀なる人」のP.176に「その隣が松田左衛門」とあるが、この「松田左衛門」が松田城付近に勢力を持っていた松田氏のこと。</em></div>
<h2>紙の地図とiPhoneのGPS機能の使いわけるコツ</h2>
<p>松田城がある山は目視できるので(実際には地図と風景を照らし合わせて「あの辺だろう」と当たりをつけているに過ぎないが)、それをランドマークにしつつ、適当に走りやすい道を走る。 <br>やはり、iPhoneのGPS機能があると、ほぼ道に迷うということはないので、その点では大変便利だ。ただ、画面が小さいので、表示できる情報に限りがある。そのため、私は折りたたみ用の神奈川県の地図を買って、大体の地形や地名を頭に入れた上で、iPhoneの詳細情報を見ることにしている。 <br>そうすると、全体像を把握した上で、詳細情報を活用できる。</p>
<h2>松田城の入り口</h2>
<p>松田城に近づくにつれ、空気も景色もよくなってきます。酒匂川を越えると、ここが神奈川県であることを忘れてしまうほど、ゆったりした雰囲気になる。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川から北方面を撮影。</em><br><em>(おそらく視界には入っていないが)北西に松田城がある。</em>
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<p>いいところだなと思いながら、松田城の入り口を探す。 <br>しばらく走っていると、松田城の入り口を示す案内板を見つけたので、右折して、山を登っていく。 東名高速道路の上にかかっている橋を渡ると、松田城の入り口があった。城の入り口に入ると、一瞬唖然とした。</p>
<p>まるで、ジャングルである。人が来ていないのがよく分かる。松田城入り口に入らずに直進すると、舗装された道があり、これが迂回路になっていそうだったが、敢えて、このまま進むことにした。むろん、自転車は城の入り口の草むらの中に置いていく。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ジャングルのような松田城入り口。最初は迂回することを考えたが、この先がどうなっているのか知りたい誘惑に抗することはできなかった。</em>
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<p>入り口には、咬まれると何時間か動けなくなりそうなサイズのクモが巣くっていた。クモの巣を顔面に喰らうのは勘弁して欲しいので、細い木の棒を前方に振り回して進む。 <br>ただ、案外、ジャングルは入り口だけで、その後は普通の山道だった(クモの巣は所どころあったが)。おそらく、松田城を訪れた人はこの入り口を見て驚き、怯んで舗装された道を迂回する行動をとるのではないかと思う(そして、それが正解だとも思う)。</p>
<h2>松田城付近からの眺め</h2>
<p>松田城への道を登って、案内板のあるポイントに着くと、素晴らしい眺望が広がっていた。まさに、これが見たいがために、ここへ来たのである。 <br>私の勝手な推測だが、松田氏は、代々、秦野との交通と目の前にある酒匂川の河川の流れを押さえていたのではないだろうか。その様子が目に浮かぶ。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城から足柄平野を一望できるのが分かる。</em><br><em>足柄平野の右側が小田原、左側が国府津、中央に酒匂川が流れている。</em><br><em>松田城は秦野からの入り口を押さえる位置にあるので、ここが足柄平野の要地であったのだろう。</em>
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<h2>松田城のいま</h2>
<p>城域に入っていくと、中年の男性が草刈をしていた。お陰で歩きやすかった。 <br>かつての曲輪はみかん畑に変っていた。何だか懐かしい風景だった。城の遺構としては見るべきものはあまりなかったが、その眺めの良さを考えると来た甲斐があった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城の標柱</em>
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<h2>帰り道、雨が。。。</h2>
<p>松田城をあとにした時点で、16時半頃になっていた。 <br>小腹が空いたので、持参したバナナでも食べようかと思って、自転車を橋の上にあるちょっとしたスペースに寄せたとき、ポツリと雨が降ってきた。そして、時を同じくして周囲が急に暗くなってきた。</p>
<p>この日、小田原市の予報は夕方から雨だったので、ついに来るべきときが来たと思い、バナナを諦めて、自転車を漕ぎ始めた。目指すは本日の出発地点の国府津駅で、大体、距離は12km程度である。国府津駅まで戻れば、不完全ながら、足柄平野を一周したことになる。<br>だが、ドシャ降りの雨の中を走りたくないので、本降りになってきたら、御殿場線の最寄り駅に駆けこんで、電車で帰ることにする。 <br>なお、この時点で、iPhoneの電池残量は10%強しかなかったので、必要なときだけ、Google Mapsという地図ソフトで現在地を確認することにした。</p>
<h2>県道72号線を南下</h2>
<p>基本的には、距離的に最短であろう県道72号線を走ることにした。 <br>県道72号は足柄平野の東端を通っており、高地を走ることになる。ということは、坂がありそうだが、まあよかろうと思って走りはじめた。 <br>最初はポツリポツリの雨だったが、次第に強さを増し始めた。一時、電車を考えたが、そんなときに限って雨が緩やかになる。</p>
<p>上曽我辺りに来ると、結構、暗くなってきたので、ライトを点ける。<br>私の自転車はダイナモのライトなので、人力でライトが点灯する。したがって、上り坂ではライトを点けるための重みが加わる。上下を繰り返す道と強弱を繰り返す雨、そして、ダイナモライトの重みに閉口しながらも、下曽我まで来た。下曽我は曽我梅林で有名である。だが、残念ながら、この頃には夕闇が辺りを蔽って、梅の木のシルエットが見えるだけだった。</p>
<h2>滑りこみセーフか</h2>
<p>曽我梅林の辺りから国府津駅まで、あと3kmほどだ。 <br>あともう少しということで、雨の中を懸命に走った。そして、ついに国府津駅に着いた。</p>
<p>駅前で自転車をたたんで、国府津駅のホームで東京駅行きの電車を待つ。「やれやれ」と思いながら、コーンポタージュの缶ジュースを買って、イスに座って飲みはじめると(この日は結構寒かった)、ザーと雨が降ってきた。危ないところだった。</p>
<p>(終)</p>

小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

小田原城 疾き雲のごとく フィールドをゆく 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー 神奈川県 小田原市

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