【その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー】<h3>信虎、窮地を脱し、大井信達と和睦</h3>
<p>永正12年(1515年)、大井信達との戦いに敗れ、武田信虎は滅亡の危機に瀕したが、2年後、郡内方面で勢力挽回した。その結果、今川氏親は連歌師、宗長(氏親の外交官でもあった)を仲介者として、信虎と接触し、永正14年(1517年)、信虎は大井信達と和睦した。</p>
<p>信虎としては、7年前に妹を小山田氏の当主に輿入れさせ、懐柔した甲斐があったとほくそ笑んでいたことだろう。</p>
<h3>宗長回想</h3>
<p>宗長、この人を覚えているだろうか。</p>
<p>宗長は北条早雲が今川氏親を擁立しようとした時に(氏親の父、今川義忠が遠江で戦死して今川家の家督継承問題が起こった文明8年(1476年))、小川の長者、長谷川法永と共に氏親・早雲の味方として動いた人物である。この時、宗長は29歳だったが、今は高齢で、70歳になっていた(しかし、彼の寿命はまだ15年残っていた)。 <br>当時、連歌師は他国の大名や要人と直に会えるため、外交官の役割も果たしていた。のちには、茶人がこの役割を果たす。</p>
<h3>大井信達の娘、大井夫人</h3>
<p>この和睦時に、大井信達から信虎がめとったのが、大井夫人である。のちに、武田信玄の母親となる人だ。信虎は24歳、大井夫人は21歳だった。 <br>信虎にとっては、自分を散々苦しめた大井信達の娘を正室として、めとることになるわけだ。生まれてきた子は、大井信達の孫となる。</p>
<p>余談だが、椿城に行った時、看板に「武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡」という看板があった。私は椿城を、信虎の宿敵、大井信達の牙城と捉えていたので、ちょっとした衝撃があった。言い方一つで印象は変わるものだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城を目指して歩いている時に目にした看板。</em>
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<h3>信虎、本拠地を躑躅ヶ崎館に移る</h3>
<p>大井信達との和睦から2年後、信虎は祖父の信昌以来の甲斐守護の拠点だった、川田館から躑躅ヶ崎館を建設して移った。</p>
<p>信虎はいまだ各地に割拠する国人たちにも躑躅ヶ崎の城下町への集住を命じたので、反発をくらった。この政策も戦国大名に脱皮しようする信虎の意思を反映したものだった。 <br>分権を望む大井、今井、栗原などの有力国人は反乱を起こしたが、永正17年(1520年)、信虎は反乱軍を撃破して、一応の甲斐統一を成し遂げた。この時、信虎は27歳となっていた。</p>
<h3>駿河から大軍、来襲</h3>
<p>翌年、永正から大永と改元された。思えば、永正4年に14歳で家督を相続してから信虎は甲斐統一のため、常に体を張って戦ってきた。紙一重の生死の狭間をすり抜け、その武略と努力と幸運の結果が一応の甲斐統一だった。しかし、まだ信虎の危機は終わらない、といより最大の危機が迫っていた。</p>
<p>大永元年2月、駿河から福島勢が甲斐に乱入してきたのである(*)。 <br>8月の河内(南巨摩郡)の合戦では勝利したものの、9月には駿河の福島勢が大挙して押し寄せてきた。その数、1万5千とも言われる(実際のところ、人数はよく分からない)。それに対して、統一から日が浅い信虎勢は足並みが揃わず、2千ぐらいだったという。とにかく、信虎にとって、圧倒的に不利な戦いであったことは間違いないだろう。</p>
<div><em>(*)かつては、今川氏親が派遣した軍といわれていたが、最近では、氏親の命令ではないという説が有力視されている。いずれにしても、駿河方面から福島氏の軍勢が攻めてきたことは史実である。</em></div>
<p>信虎は同月に大島(南巨摩郡身延町大島)で福島勢と戦ったが、敗北した。福島勢はそのまま北上し、9月16日に大井氏の属城、富田城を落とした。</p>
<h3>富田城を北上、稲作地帯をゆく</h3>
<p>私は富田城を出て北上した。目的地は絵地図にある荒川湖畔の古戦場である。 <br>釜無川を渡ってからは平地が続く。稲作地帯である。かつては、この辺を釜無川の本流、支流、細流が流れていたらしい。とにかく、洪水地帯であったようで、現代のように稲作ができるのはまったくもって、信玄以来の治水事業のおかげだろう。</p>
<p>このシリーズの中で何度か書いているように、甲府盆地は思ったより広い。また、きつくはないが、緩い傾斜の上り坂になっているので、富田城を出てから古戦場に行くまでに、案外時間がかかってしまった。1時間ちょっとぐらいは走ったと思う。途中、雲間から光が指す光景は神々しかった。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>釜無川にかかる橋の上から雲間の光をのぞむ。本物は遥かによかった。 <br>信虎も同じような空を見ただろう。</div>
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<p>甲府盆地を走っていて、いくつか気づいたことがある。その内を1つをここで紹介したい。 <br>それは適当に走っても、方向が合っていたら、目的地に行けるということだ。当たり前だと思われるかもしれないが、案外そうではない。関東平野で同じ事をやると、途中で行き止まりになっていたり、全然違う方向に流されてしうことは少なくない。特に、自宅がある調布はひどく、iPhoneのGPS機能を使わなかったら、帰れないことがいくらでもあった。まるで、リアル迷路だ。 <br>まあ、それはいいとして、甲府盆地は山の形と太陽の位置を頭に入れておくと、まず方向を失うことはない。したがって、細い道でもどんどん入っていけた。こういう地域はありそうでない。生活者の意見が尊重されている地域なのかもしれないと土地不案内者ながら思った。</p>
<h3>福島勢迫り、信虎、懐妊中の大井夫人を積翠寺へ避難させる</h3>
<p>釜無川下流を押さえられ、危機感を募らせた信虎は、身重の妻、大井夫人を躑躅ヶ崎館の北方の山麓にある積翠寺に移す。そして、28歳の信虎は福島勢と戦うべく、躑躅ヶ崎館を出陣した。14年間も戦ってきた結果が、このザマである。信虎は苦々しく思っただろう。</p>
<h3>福島勢の動き</h3>
<p>さて、福島勢である。この時の福島勢の動きが遅い。妙である。 <br>富田城を落として、1ヶ月もの間、福島勢は攻めて来なかったのである。</p>
<p>なぜこれほど動きが緩慢だったのだろうか。大軍を維持するのは大変である。 <br>例えば、1万人の水・食糧・寝床・武器・排泄物の処理など、滞りなく行うようにと読者が命令されたとする。想像しただけで大変な仕事なのは明らかである。1万人を養うには相当の計画性と物資とカネが必要だ。これらが行われないとたちまち不満の声が満ち、戦力は落ち、疫病が蔓延したりする。下手をすると、戦う前に軍が崩壊したり、不満が自軍の首脳に向くこともありうる。</p>
<h3>信虎の防衛ライン</h3>
<p>信虎の防衛ラインはおそらく、笛吹川と荒川だったと思う。笛吹川は甲斐の北東から南西に流れる暴れ川だった。荒川も名前の通りだったのではないかと思う。今よりも、河原は広かっただろう。</p>
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<div> <em>2日目の14時頃に、富田城を出て、稲作地帯を抜け、荒川に向かった。もしかしたら、福島勢も同じような経路で戦場に向かったかもしれない。 黄色が自転車で走った経路。</em>
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<p>福島勢の動きは鈍い。その理由として、内部でまとまりを欠いていたのではないかという指摘がある。 <br>もう1つは当時は治水技術が発達していなかったので、一度大雨が降ると、川を渡れなくなる。仮に福島勢が荒川・笛吹川を越えて、躑躅ヶ崎館を襲ったとしよう。たとえ躑躅ヶ崎館を即座に落としても、詰の城の要害山城はすぐには落とせない可能性がある。 <br>その間に、大雨が降り、補給ラインが途絶えたところを、信虎が全力で反撃してくる。この状態で敗れたら大変である。下手をすると、全滅する可能性すらある。何せ後ろが洪水地帯だと自動的に背水の陣状態になるのである。それを恐れた福島勢首脳は、荒川・笛吹川流域に住む百姓に尋問して、洪水についての情報を集めていたのではないかと話が書いてあった(**)。</p>
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<em>(**)洪水説は</em><em><em>武田八洲満『信 虎』</em>に出てくる。 武田信虎の数少ない歴史小説の1つ。ちょっと信虎を弱く書きすぎている感はあるが、労作であることは間違いない。</em>
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<h3>両軍、激闘!飯田河原合戦</h3>
<p>理由はよくわからないが、富田城が陥落してから1ヶ月後、ようやく、福島勢は荒川の左岸にやってきた。 <br>場所は飯田河原であったという。飯田河原古戦場の石碑が立っている場所から躑躅ヶ崎館まで直線距離で3kmである。駅でいえば、甲府駅と竜王駅の間にある。</p>
<p>高校時代、私は高校まで10kmの距離を通っていた。自転車で約30分だった。つまり、3kmというのは自転車で10分ちょっとで行けてしまう距離である。騎馬で疾走すれば、もっと早く着くだろう。 <br>地図で飯田河原古戦場をはじめて調べた時、躑躅ヶ崎館との距離の近さに驚いた。これなら、身重の妻を山麓に避難させるのは当然だ。10分で妊婦が避難できるわけがない。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場付近から荒川左岸をのぞむ。 </em><br><em>対岸にいる雲霞の如き大軍が信虎の首を狙っているのである。いくら強気の信虎でもゾッとしただろう。</em>
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<p>この戦いが飯田河原合戦で、信虎勢は数には劣るものの、よく戦い、敵を100余人討ちとって、荒川の西側に福島勢を押し返した。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場の石碑 </em><br><em>この辺は人の往来が多く、信虎勢と福島勢が戦った跡はいささかも感じられなかった。黙祷を捧げて、古戦場をあとにした。</em>
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<h3>信虎、嫡男誕生!</h3>
<p>その後、福島勢は、一旦、曽根の勝山城まで退去した。だが、むろん、これですべてが終わったわけではなく、次の戦いへの準備期間であるに過ぎない。</p>
<p>再び、両軍の斥候や前衛が荒川を挟んで睨み合っただろう。この睨み合いの最中に誕生したのが武田太郎、のちの武田信玄である。11月3日のことであった。当主の男児誕生に信虎勢の士気はあがった。</p>
<h3>人生のテーマ</h3>
<p>読者は人生にテーマをお持ちだろうか。持っている人も持っていない人もいると思う。</p>
<p>現代日本では、一部の例外を除いて、ある程度は自分の人生を自分で決めることができる。私も自分の人生を自分で決めてきた。歴史的に見ると、こういった状態は幸運だと言えると思う。 <br>現代日本の住人と異なり、武田信虎は好きで、甲斐守護になったのではない。門閥貴族というのはそういうもので、父親が隠居か死亡すれば、自動的に子が当主になる。つまり、地位を継ぐ基準は血の濃さだった。武田家も同じで、甲斐守護家の直系に生まれない限り、正規ルートで甲斐守護にはなれない。信虎は、甲斐守護の父、信縄が死去したので、甲斐守護になった。</p>
<p>信虎がここまで14年間も戦ってきたのは彼の好みというよりも、有無をいわさず、立場上、課せられたテーマを果たしたまでである。そのテーマとは甲斐の統一である。このテーマを果たせなければ、滅亡するか、甲斐を逃げ出す以外に道はない。</p>
<p>課せられたテーマを果たすことは、自分で選んだテーマを果たすことよりも低級だということはないと思う。要は、その人が諸々の制約の中で人生のテーマと如何に関わったかこそが問われるのだと私は思う。その点、信虎は確かに課せられたテーマを自分のテーマとして真正面から捉え、戦い抜いた男だと思う。</p>
<h3>信虎の「その時」、上条河原合戦</h3>
<p>飯田河原古戦場の2kmほど上流に上条というところがある。ここで最終決戦が行われた。信虎のテーマが成就するか、敗れ去るか、この戦いにかかっていた。人生の決定的な瞬間、つまり、「その時」であったといえる。 上条で荒川を渡ったら、指呼の間に躑躅ヶ崎館がある。信虎としては荒川の防衛ラインを破られるわけにはいかない。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>上条河原合戦古戦場付近。なぜか石碑などはないらしい。飯田河原合戦も重要だが、上条河原合戦のほうが決定的戦いだと思うので、残念に思った。<br>飯田河原古戦場から2kmほど上流の上条で戦いがあったという。地図を見ると、秩父往還がここを通っている。信虎はこの道を通って、上条河原にやってきたのかもしれない。</div>
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<p>信玄出生から20日後の11月23日、再び、戦雲が甲斐を覆う。 <br>旧暦は現在の暦でいうと、1ヶ月ほど進めた時期だと考えてもらいたい。つまり、現在でいうと、1月ぐらいの寒さの中での戦いだった。しかも、ここは温暖な駿河ではなく、標高の高い甲府盆地だ。もし福島勢が荒川を渡河したとしたら、荒川の水の冷たさはこたえただろう。</p>
<p>この日、福島勢と信虎勢は上条河原で激突する。信虎勢は福島氏の大軍を相手に奮戦した。信虎の家臣たちも負ければ、福島勢に殺されるか、生き残っても従属させられ、以後、一番危険な戦場に送られることになる。それに対して、福島勢には遠征の飽きと疲れもあったことだろう。</p>
<p>まさに信虎の「その時」がはじまろうとしている。 <br>20日前に生まれた新しい命のためにも、信虎は奮い立ったかもしれない。信虎を含め、戦う前に両軍の武者たちの胸中には様々な思いが去来したことだろう。それらを心の支えにして、戦いははじまった。。。</p>
<p>この上条河原合戦で、信虎勢は福島勢を大敗させ、福島勢の大将たちを軒並み討ちとった。福島勢は崩壊して、南に潰走し、曽根の勝山城に逃げ込んだ。福島勢は600人もの死者を出したともいわれている。</p>
<h3>信虎の「その時」</h3>
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<h3>統一成る</h3>
<p>結果は信虎の完勝だった。翌年1月14日、曽根の勝山城に籠っていた福島勢は降伏し、生き残った福島勢は駿河に退去した。苛烈な状況を切り抜け、甲斐を統一し、外敵を駆逐した若き守護に家臣はもちろん、領民も希望を見出しただろう。 今川、北条との戦いはまだまだ続くが、ここに信虎は甲斐統一に成功した。国内の国人勢力を一掃するのになお10年を要したが、もはや以前のように苦戦していない。 信虎は統一によって膨らんだ国力を使って、関東への介入、信濃への侵略を行なっていくことになる。これらの戦いが次の時代を準備した。 </p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

飯田河原の戦い 上条河原の戦い 山梨県 甲斐市

【その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー】<h2>竜王の信玄堤へ</h2>
<p>翌朝、昭和インター近くのホテルを出て北上し、竜王の信玄堤へ向かった。</p>
<p>名前の通り、信玄堤は武田信玄が作らせたという堤防で(むろん、信玄以来の堤防と考えるべきだろう)、私はこの堤防を見てみたかった。 <br>武田信虎というテーマとは一見外れるが、結局のところ、信虎が追放されたのは信虎の人格が異常だったというよりは治水をはじめ、内政に失敗して、有力国人や家臣の支持を失ったのが主因だと私は考えている。 <br>したがって、この堤防は、親父の失敗を息子が片付けた例として考えることもでき、信虎と信玄堤は無関係ではない。</p>
<p>さて、天気予報ではこの日は曇のち晴だったが、釜無川に着いた頃、小雨が降っていた。しかし、しばらくするとあがり、薄日が差した。この日は終日、このパターンの繰り返しだった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曇天の釜無川。 </em><br><em>写真は北の八ヶ岳の方向を写している。ボンヤリと山が見えるだけで、圧迫感は感じなかった。</em>
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<h3>絵地図</h3>
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<em>今回出てくる地形、地名、勢力などの絵地図。 </em><br><em>黄色が自転車で走った経路。</em>
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<p>これが噂の聖牛である。 なかなか大きいものだった。これなら急流にも効果が期待できそうだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>写真では所詮伝わらないと思うので、ぜひ、本物をご覧あれ!</em>
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<p>聖牛に草が絡まっているが、これを放置しておくと水圧が増し、腐敗の原因にもなるので、当時は堤防を管理していた人々がいちいちとっていたのではないかと推測する。</p>
<p>現在の聖牛は石が針金で固定されているが、当時はこんなものはあるはずがない。 <br>案内板をみると、当時は竹で固定していたそうだ。竹は強く柔軟性があり、生活道具からはじまって武器にもなる。近代以前の世界では万能素材としての地位を確立していた。したがって、竹で固定しているのはやはりという感じだったが、実際のところ、維持管理するのは大変だったと思う。 <br>何せ前日雨が降っていないにもかかわらず、流れが速い。もし台風並みの雨が降ったら、大変なことになるなと思った。それを竹で水流を受け止めるのだから、容易なことではなかっただろう。</p>
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<em>石が竹で固定されている聖牛。昔の聖牛はこうだったらしい。 </em><br><em>聖牛の木同士を固定しているのは針金ではないかというツッコミは入れないようにしたい。</em>
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<p>甲州流治水法というのは、急流と急流をぶつけて、勢力を弱めるという思想でできている。コンクリートで両岸を固めて、水路を真っ直ぐ作る近代の治水法とは随分違うが、合理的な方法だと思う。</p>
<p>信玄以前、北の八ヶ岳の方から流れてくる釜無川と西の南アルプスから流れてくる御勅使川(みだいがわ)が合流するこの辺(信玄堤のある竜王周辺)は氾濫が頻発していた地帯で、その都度、被害が出ていた。付近の住民は弱り果てていただろう。津波に限らず、大量の水は恐ろしい。</p>
<p>そこで、信玄はこの2つの急流をぶつけることで水勢を弱めるという策を採った。具体的には、御勅使川の流路を変えて、釜無川にぶつけるための大治水事業を行い、信玄堤を作り上げた。おそらく、かつて、こういう方法を考えた人はいただろうが、実行できる者はいなかった。それを信玄は成し遂げた。ゆえに信玄は偉いのである。 <br>だが、その権力はどこから来たのだろうか。他でもない、信虎が人生を賭けて戦い、築いたものである。もし信虎が戦いに負けていたら、信玄は甲斐守護にすらなれなかっただろう。</p>
<p>信玄堤のことは本や映像で事前に調べているので、知っていることばかりではあったが、実際にみると、やはり分かる度合いがまったく違う。まさに腑に落ちた感じだった。</p>
<h3>守護大名から戦国大名へ</h3>
<p>話を信虎に戻そう。少年信虎は永正5年(1508年)に叔父の油川信恵を滅ぼしたあと、油川信恵派の郡内の小山田氏を圧迫、永正7年(1510年)には実質的に降伏させた。そして、信虎は妹を小山田氏の新当主に輿入れさせた。生まれてきた子は信虎の甥になる。 <br>少年の成長は早い。若武者へと変貌した信虎はこれら一連の戦いで武田家内部の争いに終止符を打ったが、これで甲斐統一が完成したわけではなかった。</p>
<p>江戸時代、武士は城下町に住むサラリーマンだったが、中世の武士は土着の領主だった。つまり、ある領内に権力地盤を有しており、守護から独立性が高く、各地に城を築いて蟠踞していた。甲斐も同様で、甲斐国内に、大井氏、今井氏、栗原氏、穴山氏などの有力国人がいて、彼らがどう動くかは彼ら自身が決めており、守護に彼らを自由に制御することはできなかった。 <br>守護家もまた領主であり、違いは守護という権威があった点だけである。この中世システムから脱却したのが、北条や今川であり、彼らは戦国大名の魁であった。戦国大名は各地の領主を排して、領内の一元的に支配し、農村を直接支配した。遅れはしたが、信虎も守護大名(中世システム)から戦国大名(近世システム)に移行しようとした。これが信虎と有力国人との軋轢の本質的な原因である。 <br>分権的な割拠状態をよしとする国人勢力にとって、信虎が力で甲斐を統一し、自分たちを自由に制御しようとする路線は守護による横暴、または、言語道断な独裁者と映ったことは想像に難くない。ゆえに抵抗は激しい。</p>
<h3>青年信虎、大井信達の館を攻める</h3>
<p>甲府盆地の西側に大井氏という武田の支流の勢力があり、当時の当主は大井信達だった。この大井氏が有力国人の代表格である。信虎としては、戦国大名として脱皮して、甲斐を統一するためにどうしてもこういった国人勢力を排する必要があった。 <br>大井信達は今川家と手を結び、甲斐守護の信虎に対抗した。国内の敵対勢力が他国の大名を国内に引き込むという例は枚挙にいとまがない。甲斐国内でも、北条と結ぶ小山田氏、信濃の諏訪氏と結ぶ今井氏があり、信虎にとっては国内問題と国外問題は連動していた。</p>
<p>当時、今川家の当主は今川氏親(義元の父)で、駿河に加え、遠江の領有も目前だった。いまだ甲斐一国の統一もままならない信虎にとって、今川氏親は最大の脅威だった。なお、今川氏親は伯父の北条早雲(伊勢宗瑞)に擁立されているので、今川と北条は強固な同盟関係にあった。 <br>ただ、信虎にとって幸いだったのが、今川は西の京へ、北条は東の相模(関東)へ向かう戦略を持っていたため、本格的な攻略の対象となることはなかったということである。</p>
<p>大井、今井といった各氏を抑え、甲斐を統一しなければ、他国の侵略を受けることは信濃が証明している。永正12年(1515年)、今川氏親と結ぶ有力国人、大井信達は蜂起した。そのため、23歳となった青年信虎は大井信達の館を攻めた。しかし、油川信恵を倒した時のようにはいかず、重臣を多数失うほどの敗北を喫っした。 <br>その後、大井信達と今川勢に圧迫された信虎は、一時、塩山の恵林寺に逃走するほどの窮地に追い込まれた。この間、今川勢が利用したのが、曽根の勝山城だった。南からの勢力が居座るにはちょうどいい城だったのだろう。</p>
<h3>年表: その時、彼らは何歳だったのか?</h3>
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<h3>大井信達の居城、椿城(上野城)</h3>
<p>大井信達の居城は甲府盆地の西麓の上野にあったという。地名をとって、上野城、椿が多かったため、椿城ともいった。南アルプスから伸びた台地の一つが上野で、北と南には深い渓谷があり、東側は急斜面になっている。</p>
<p>竜王から釜無川を渡り、南西に走る。ここでも果樹栽培が盛んだ。おそらく、この辺は高地だったため、水害は比較的軽微だったのではないかと思う。椿城の麓につくと、風化して見えないような案内板が「椿城跡」の方向を教えてくれる。<br> 最初は、立ちこぎして頑張っていたが、延々と上り坂が続くので、すぐに諦めて、押して歩いた。坂はかなり角度をあり、燦々と照りつける太陽が暑い。15分ぐらい歩いただろうか。ようやく、椿城跡を発見した。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城付近から甲府盆地をのぞむ。 </em><br><em>街がずいぶん小さく見える。結構歩いた。まったくご苦労なことである。</em>
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<p>椿城跡には現在、という日蓮宗の本重寺が建っているが、どうもおかしい。城を建てるなら、もうちょっと西側の台地の先端ではないか。しかも、先端はここよりも高地にある。 私は西側も探検することにした。自転車を寺に置き、果樹園を抜けて、歩く、さらに歩く。結構、広い。ある程度歩いて振り返ったら、思った通り、寺が下に見える。おかしいなと思いつつ、寺に戻った。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>椿城の東の台地から本重寺をのぞむ。手前から2本目の電信柱の奥に朱色の屋根が小さく見えるが、あれが本重寺である。かなり、<br>下に見える。 背後の山が南アルプス。雄大だった。</div>
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<h3>本重寺のお年寄り</h3>
<p>本重寺の縁側にお年寄りが腰をおろしている。 <br>どうもこの寺の方にみたいだったので、話しかけてみた。</p>
<p>「お寺の方ですか?」 <br>「はい」 <br>「ここが椿城跡なんですよね」私は当然のことを聞いた。 <br>「そうですが、城自体はもっと東側にありました。ここは大井氏の館跡と言われています。大井氏が滅びたあと、この寺が移されたんです」 <br>「そうなんですか。やはり、城は東側にあったんですね」私はうれしそうに言った。</p>
<p>話を聞いていると、この寺のご住職だった。 <br>このご住職がこの寺に来られたのは4年前で、それ以来、いろいろ資料を集めて、上野の案内状を作成されたそうで、その案内状を私も一部頂いた。ご住職の話によると、寺の庫裏から東側の城まで抜け道があったらしい。城の抜け道伝説はよくあるが、こういった館にもあったとは初耳で興奮した。 しかし、2ヶ所ほど、途中の畑で抜け道が陥没して、現在は通行不能だのことだった。</p>
<p>ご住職との話は興味深かったが、途中で女性がやってきてご住職に何か用事があることを告げた。 私はご住職にお礼を言って、お寺をあとにした。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>本重寺の縁側に腰掛けて、資料などを見せてもらっていた。晴れていたらこの縁側から富士山が見えるという話を伺ったので、1枚撮ってみた。作品名「幻の富士」といったところか。</em>
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<h3>信虎が敗北したのは実は富田城?</h3>
<p>信虎が大井信達を攻めた城は椿城ではなく、椿城より低地の富田城だという説がある。 <br>なぜかというと、信虎勢は城の深田に足をとられて敗れたらしいからだ。椿城にはそういう地形ではなく、大井氏の勢力下にあった富田城であれば滝沢川のほとりにあり、深田があって当然というわけである。 <br>どちらが正しいか私には分からないが、富田城が沼田に囲まれていたのは想像に難くない。一方で、椿城は台地上にあったため、田はなかったという話には納得できない。というのは、田は棚田があればできる(段々畑の田んぼ版をイメージしてもらいたい)。現在も椿城に行く途中、棚田が少なからずあった。 <br>ただ、棚田の田んぼに足をとられて大敗というのは確かに妙な話ではある。</p>
<p>富田城は笛吹川の近く、椿城から見ると、南東の低地にある。 <br>いまの甲西工場団地の中にあったという。ゆえに、中には入れない。 <br>近くをグルグル巡っただけで終わったが、南からの交通をおさえるにはいいところだと思った。椿城が政治の城なら、富田城は経済の城だったのかもしれないなどと空想してみた。</p>
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<div>滝沢川の橋の上から富田城があったといわれる甲西工業団地をのぞむ。 <br>中部横断自動車道が団地内を通っている。背後が南アルプス。</div>
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<div>(<a>つづく</a>)</div>

その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎 大井信達 信玄堤 聖牛 椿城 富田城 山梨県 甲斐市

【その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー】<h3>武田信虎</h3>
<p>武田信虎は武田信玄の父親で、一般的には「暴君」として知られている。暴君なあまり、信玄に追放されたという。</p>
<p>私 はこの理解に、特段異議を唱えるつもりはない。が、暴君だったという理由で彼の業績を無視するのは適切ではないと思う。というのは、信虎の時代を無視する と、北条早雲から信玄の時代へのつながりが見えなくなるし、信玄という人物と業績も十分理解することができないためだ。</p>
<p>信玄は信虎から国土、家臣団、人民などの地盤を受け継いだのであり、もし信虎が甲斐を統一していなければ、信濃のように近隣の強国に併呑されていた可能性がある。仮に信玄が甲斐統一を成し遂げたとしても、長い年月を要したと思う。</p>
<h3>今回の歴史サイクリングの概要</h3>
<p>2011年9月末に行った歴史サイクリングでは、信虎が甲斐守護となってから、実質的な支配者となる大永元年(1521年)までの甲斐統一戦を追うことがテーマだった。<br>すでに500年ほど経過しているが、彼が住んだ場所、戦った場所などをめぐることで、さまざまな局面における信虎の「その時」に近づきたいと思っている。 こればっかりは机上ではできない。</p>
<h3>信虎以前</h3>
<p>信虎以前の甲斐武田氏の歴史を遡ると、清和源氏発祥からはじまる。あまりに過去に遡ると、読者にはきついと思うので、ザックリとした説明にとどめた。この辺の事情を知りたい方は次の資料をご参考いただきたい。</p>
<p><strong>柴辻 俊六『武田信虎のすべて』</strong></p>
<h3>源氏の流れを引く名家</h3>
<p>甲斐武田氏は戦国時代の成上り大名とは違い、源氏の流れを引く名家である。浮き沈みはあったものの、鎌倉から戦国時代まで甲斐守護であり続けた。 <br>室町時代の中期には、甲斐も他国同様、守護代の権力が伸長した。応仁の乱の頃、甲斐守護代の跡部氏による下克上が起こってもおかしくない状況だったが、信虎の祖父、信昌は1465年に甲斐守護代の跡部氏を破り、甲斐を統一することに成功した。</p>
<h3>争いやまず</h3>
<p>信虎の祖父、信昌は跡部氏が強盛の頃、跡部氏の娘を正室として娶らされており、その子が信虎の父、信縄だった。信昌には側室の子があり、油川信恵(武田信恵)といった。信昌は跡部氏の血を引く信縄よりも、信恵を可愛がった。 <br>そ の結果、1492年、またもや、甲斐守護の信縄 VS 信昌(父)・信恵(異母弟)という図式で争いが起こった。この戦いは関東の情勢とも無関係ではなく、守護の信縄が関東管領の山内上杉氏派で、信昌・信恵が 扇谷上杉氏派(この頃、今川氏親と北条早雲も扇谷上杉氏派)だった。</p>
<p>そんな中、1494年、のちの武田信虎は誕生した。早雲の伊豆討ち入りの翌年である。 この骨肉の争いは延々と続いたが、1498年の<a>明応の大地震</a>(東 海・東南海・南海連動型地震だった可能性が指摘されている)が起こり、もはや戦っている場合ではなくなったようで、両者は和睦した。 東日本大震災を経験した我々は、この時の甲斐や東海地方がどういう状況だったか推測できると思う。 また、いくさがやむほどの大震災を経験した5歳の信虎の姿も想像してもらいたい。</p>
<p>しかし、この和睦は根本的な解決にはならず、危機は潜在することになった。和睦から7年後の1505年に祖父、信昌が死去し、その2年後に父、信縄も37歳の若さで死去する。</p>
<h3>信虎、家督相続</h3>
<p>父、信縄が死去した時、信虎は数え年で14歳だった。 <br>甲斐守護であり、父である信縄を失い、今なら中学1年生ぐらいの少年が甲斐守護となったのである。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , by fuji3zpg 開く

武田信虎

【北条早雲の一代記、伊東潤『黎明に起つ』発売】<h3>北条早雲の歴史小説、発売される</h3>
<p>先週木曜日(2013/10/24)、北条早雲の一代記、伊東潤『黎明に起つ』が出版されました。</p>
<p>北条早雲は、戦国初期に伊豆と相模を切り取った人物で、彼の子孫は約100年に渡って関東で繁栄しました。</p>
<p>早雲の生涯、特に前半生は長く謎に包まれていたのですが、近年の研究で、徐々に彼の事績が分かってきました。<br> この小説は、そういう最新の研究を織り込んで、書かれています。<br> <img></p>
<h3>見所</h3>
<p>早雲と北条氏の民政重視の政治は有名ですが、本書では、どういう背景・経験を通じて、早雲が民政重視の思想を持つに至り、実践していったかが強烈に意識されて、書かれています。<br> 早雲も生まれてすぐに民政重視の政治をしようと思ったわけではないでしょう。幼少の頃より、応仁の乱をはじめとする乱世に揉まれ、その中で思想を確立し、統治システムを練り上げていったわけです。</p>
<p>その早雲の軌跡が、見所だと思います。</p>
<h3>著者のブログ記事</h3>
<p>なお、『黎明に起つ』の著者・伊東潤氏がブログで、本書について言及しています。<br> ・<a>「越えねばならない坂がある」</a>(2012/9/7)<br> ・<a>10/24『黎明に起つ』発売 & 近況報告</a>(2013/10/15)</p>
<h3>参考</h3>
<p>『黎明に起つ』は、昨年(2012年)から今年にかけて、<a>NHKのWebマガジンで配信されていました</a>。<br> 昨年の第一話配信後、私も2つ記事を書いたので、興味のある方はご参考ください。<br> ・<a>北条早雲物語:伊東潤『黎明に起つ』がデジタル版で登場!(上)</a></p>
<p>(終)</p>

北条早雲の一代記、伊東潤『黎明に起つ』発売

作成日:2014/6/28 , by fuji3zpg 開く

歴史小説 北条早雲

【狩野城の月見曲輪】<h2>修善寺の要地、柏久保城</h2>
<p>その日、三島駅から修善寺駅へ行き、修善寺駅から柏久保城を訪問した。</p>
<p>明応2年(1493年)北条早雲は伊豆討ち入り、堀越公方・足利茶々丸のいる堀越御所を落とした。南下する早雲勢は、中伊豆の狩野勢と激突した。狩野氏は平安以来、中伊豆に蟠踞する勢力で、茶々丸に味方した。両者の衝突点が、現在の修善寺駅の東側の山城・柏久保城である。</p>
<p>柏久保城を狩野川沿いに南下すると、狩野城に至り、大見川沿いに東に行くと、大見城に至る。つまり、柏久保城は、2つの川の接結点にある要地だった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>北条早雲の伊豆討ち入り後の中伊豆勢力図マップ(1493-98年)。青色の城が早雲与党の城で、赤色の城が茶々丸与党の城である。</em></div>
<p><br>早雲は柏久保城・北側の急斜面を襲って、この城を落としたらしい。<br> 柏久保城の北側には、「新九郎谷」の石碑が建っている。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>二の郭から主郭方面を撮影。お堂辺りから主郭。当時、北条早雲に敵対していた狩野氏の本拠地、狩野城が南方にあったため、南側(左側)の土塁がある。</em></p>
<p>なお、大見城の大見三人衆は、早雲に味方した。大見三人衆は、狩野勢に攻められている柏久保城を後詰し、狩野勢を撃退したとのこと。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>狩野川が北流し、右手にクッキリ富士山が見える。ここからすぐ上流(左手前方面)で、大見川が狩野川に合流している。</em></p>
<h2>狩野城へ向う</h2>
<p>その日の予定では、柏久保城の次は、狩野城に行く予定だった。<br> 柏久保城は、富士山が見え、遺構もよく残っていて、想像以上によい山城だったため、予定よりも長居してしまった。</p>
<p>もう正午なので、途中で、どこかの店に入り昼食をとろることにした。</p>
<h2>向かい風</h2>
<p>もう11月も下旬だというのに、この日は強い南風が吹いている。しかも、南の天城山が高地で、北の三島が低地のため、ずっと緩い坂道が続く。<br> 分かっていたことなので、頑張って自転車を漕ぐ。</p>
<p>しばらくすると、後ろに自転車の気配がする。<br> 振り向くと、白髪の男性がサイクリングウェアでマウンテンバイクで走っていた。<br> よくあることなので、特に気にはしない。</p>
<p>南風がきつい。ちょっとした坂がはじまり、スピードが落ちる。<br> すると、後ろの男性が並走し、声をかけてきた。</p>
<p>「こんにちは。」<br> 「どうも、こんにちはー」</p>
<p>「どちらから来られたんですか?」<br> 「ええと、東京からです。」</p>
<p>「どちらへ行かれるんですか?」<br> 「狩野城です。」<br> 「私も同じ方向です。」</p>
<p>そんなことを話していると、坂がきつくなってきた。<br> 私は坂道に対して、ストイックな人間ではないので、あっさり自転車を降りた。<br> 男性も降りた。</p>
<p>坂を登ったところで、また乗って、一緒に狩野城に向うことになった。</p>
<h2>自転車で歴史談義</h2>
<p>風さえなければ、どうという距離ではなかったが、強い南風のために、話しながら、狩野城にノロノロ向う。<br> よく晴れた空に左右から山が迫る。風景があまり変わらないので、進んでいる感じはあまりしない。</p>
<p>話を聞くと、サイクリングウェアの男性は、大見城近くに住み、最近、伊豆の史跡をいろいろ周っているとのこと。</p>
<p>「なぜ狩野城に行こうと思ったんですか?」<br> 「北条早雲のことを調べているんです。さっきは、柏久保城に行ってきました。」<br> 「へえ、よく前は通るんですが、まだ登ったことはないんですよ。」<br> 「そうなんですかー」</p>
<p>「最近の研究では、北条早雲はすぐに伊豆を平定したわけではなく、5、6年かかったと言われています。ご存知のように、狩野城は狩野氏の本拠地で、北条早雲と は敵対関係にありました。狩野勢が柏久保城まで寄せてきたのを、大見三人衆が駆けつけて、狩野勢を撃退したそうですよ。」<br> 「はー、そうでしたか~」</p>
<p>とこんな感じで、いろいろと話をしていると、ついに狩野城まで来てしまった。<br> 腹が空いてきた。が、話が尽きない。</p>
<p>狩野城の北側の谷を通り、東側に出て、坂道を登った。</p>
<h2>狩野城の入り口</h2>
<p>「ここが狩野城の入り口です。」<br> 「あ、どうもいろいろご親切にありがとうございました。」</p>
<p>そういって、私は茂みに自転車を停めた。</p>
<p>すると、男性は<br> 「ええと、ここを登って行くと、私の別邸があるんですが、お茶でもいかがですか?そこからちょっと行くと、狩野の殿様が月見をしたという場所がありますよ。」</p>
<p>狩野の殿様が月見をした場所か、なかなか興味深い話である。<br> 狩野城を訪問したら、あとは帰るだけ。</p>
<p>「ええ、そうですか。うーん。。。」<br> 「じゃあ、お邪魔してよろしいですか」<br> 「どうぞどうぞ」<br> ということで、歩いて、男性の別邸にご案内頂いた。</p>
<p>西へ坂道を歩くこと10分弱で、別邸に到着。<br> 柿とコーヒーを頂きながら、早雲や狩野城の話、裾野の葛山氏の話などをした。柿では腹が満たされないので、非常用に買っておいた6個入りのレーズンパンを出して食べた。男性にも1つ差し上げた。<br> 時計を見ると、1時間半ほど経っていた。そろそろということで、月見の場所(月見山)に案内して頂くことになった。</p>
<h2>狩野城の月見曲輪</h2>
<p>別邸から歩くこと3分程度で、山道に入り、落ち葉をシャリシャリ踏みながら進む。</p>
<p>都合7分程度で月見曲輪に着いた。月見曲輪は、山城の痩せ尾根を平場にした感じで、北側に突き出ていた。しかし、北側は木々が茂っていて、見通しはほとんどきかない。ここで月見をしたとすると、南側を正面に幕を張ったのだろうか。</p>
<p>伝承によると、狩野の殿様(狩野茂光)が源頼朝とここで月見をしたという。<br> 頼朝は狩野の殿様と何を語らったのだろうか。</p>
<p>月見曲輪の北西隅に「狩野介茂光公観月之跡」と刻まれた石碑があった。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>源頼朝が伊豆で挙兵した時に(1180年)、狩野茂光は頼朝に味方したが、石橋山の戦いで、平氏勢力に敗れて戦死した。</em></p>
<p>石碑の横に小さなお堂があるが、朽ちつつある。代々、このお堂を管理されていた家があったそうだ。<br> なぜ朽ちつつあるのか、伺った気がするが、忘れてしまった。</p>
<h2>再び、狩野城の入り口</h2>
<p>いろいろと親切にして頂いたサイクリングウェアの男性に狩野城の入り口まで送ってもらい、そこで別れた。</p>
<p>この男性と知り合うことがなければ、月見曲輪に行くことはなかっただろう。<br> そして、狩野の殿様と頼朝の月見を空想することもない。</p>
<p>一期一会の妙を噛み締めながら、私は狩野城に入っていった。</p>
<p>(終)</p>

狩野城の月見曲輪

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

狩野城 柏久保城 フィールドをゆく 北条早雲

【荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-】<h3>舞台は赤浜</h3>
<p>鉢形城の東に赤浜という土地がある。ここが鎌倉街道上道の荒川渡河地点だった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 荒川の南岸、赤浜の渡し(渡河地点)付近。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>意外と少ない渡河地点</h3>
<p>川というのは、一見どこでも渡れそうだが、大河の場合、川底の地形や水量の多寡という条件があるため、渡れるところと渡れないところがある。渡れて、かつ、交通の便がよい場所が重要な渡河地点となる。</p>
<p>現在、荒川であれ、利根川であれ、川沿いを自転車で走ると、サイクリングロードが整備され、快適に走ることができる。基本的に堤防に囲まれているので、視界は限られる。その限られた視界に、橋が現れては消えてゆく。「○○橋」という橋の名前を見ないと、自分がどこまで走ったか、分からなくなる。</p>
<p>いずれにしても、これらの橋があることで、両岸を容易に行き来できる。だが、もし橋がなかったらと想像してもらいたい。渡るのは大変である。まず、川を渡ると、服が濡れる。転んで怪我をしたり、下手をすると、溺れて落命するかもしれない。であるから、かつて、渡河していた人々はおそらく何か用事があって川を 渡っていたはずで、荷物を持っていることも多かっただろう。</p>
<h3>架橋・治水技術の成果</h3>
<p>江戸時代に、大井川の増水によって、宿場町に何日も足止めされ、その間に路銀をすっかり失ったという話もあるように、大河というのは雨が降って増水すると渡れなく なることがあった。現代は極端な場合を除いて、川が増水して渡れないというケースは経験しないだろう。それは川の上流にダムなどの治水対策が施されていて、水量を調節しているためである。</p>
<p>実際、長尾景春の乱が発生した当初、太田道灌は相模にいる味方を呼び寄せて、江戸城-川越城ラインを遮断する豊島氏を攻めようとしたが、大雨で多摩川が増水して、相模勢は来ることができなかったという。</p>
<h3>渡河作戦の難しさ</h3>
<p>このように、橋とダムによって、現代では川を意識することが少なくなったが、中世における河川の状況は随分違ったことをお分かりいただけたと思う。しかも、軍事作戦で川を渡るとなると一層困難である。</p>
<p>まず、重量のある甲冑を身につけ、騎馬武者は馬に乗って渡河する。そればかりか、対岸には敵が手ぐすね引いて待っているのである。<br> 水の中では、陸上のように機敏に動けないから、まさに格好の標的となってしまう。そして、味方に死傷者を出しながらも、弓矢の雨の中を必死に渡って、運よく対岸に着いたとしても、優勢な敵が味方を袋叩きにしようと待っている。</p>
<p>このように渡河作戦は困難なので、孫子の兵法書に渡河方法が書かれている(行軍篇(第九))ほど、渡河はいくさにおける重要なテーマだった。</p>
<h3>扇谷上杉定正</h3>
<p>さて、この話の主人公は、扇谷上杉定正という人物である。<br> この男は、山内上杉顕定にそそのかされて、自分を擁立し、しかも自家の勢力を強めてくれた、家宰の太田道灌を謀殺した人物として歴史に記録されている。道灌を謀殺したことで、定正に見限りをつける勢力もあり、扇谷家の勢力は減退したが、定正は凡庸な人物ではなかった。</p>
<h3>定正、関東三戦に勝利する</h3>
<p>道灌謀殺後、定正は関東管領家の山内上杉顕定と対立関係に入った。</p>
<p>不利な形勢の中で、軍事面では長享2年(1488年)の関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)を有利に進め、外交では第2代古河公方の足利政氏や政氏の庇護下にあった長尾景春、そして、伊豆を奪取した北条早雲を味方につけ、山内上杉顕定に対抗した。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦</h3>
<p>その後、徐々に勢力を北武蔵に伸ばした定正はついに明応3年(1494年)に荒川に到達し、渡河しようとした。なお、この作戦には定正の援軍として早雲も参戦している。<br> もしこの作戦が成功し、上野国の山内上杉氏を倒せば、山内上杉氏に代わって、扇谷上杉氏が関東の覇者になれる可能性が出てくる。</p>
<p>だが、ここで思いがけないことが起こったのである。定正が荒川渡河時に落馬して、頓死してしまった。扇谷上杉氏の当主になってから約20年もの間、関東の戦乱を生き抜き、道灌謀殺後の苦しい時期も何とか切り抜けてきた定正に一体何が起こったのか。それは残念ながら分からないが、荒川の存在とその流れが彼の落 命の一因となったことは確かだろう。</p>
<p>定正落命は、司馬遼太郎『新装版 箱根の坂(下)』 (講談社文庫)<img>、伊東潤『疾き雲のごとく』<img>の第2話「守護家の馬丁」で書かれている(司馬さんの本では赤浜を過ぎた荒川北岸で、伊東さんの本では荒川南岸で死亡したことになっている。詳しくは各書籍をご覧いただきたい)。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦失敗時の関連人物たち</h3>
<div> </div>
<h3>定正の死と扇谷上杉氏の衰退</h3>
<p>原因はどうあれ、定正が死去したことで、元々、勢力的に劣勢だった扇谷上杉氏は急速に衰退していく。結果からみると、やはり彼の存在が扇谷上杉氏を支えていたことが分かる。</p>
<h3>早雲を関東に引き入れた定正</h3>
<p>もう1つ、彼の果たした役割としては北条早雲を関東に引き入れたことである。<br> 定正の養子、扇谷上杉朝良の代に早雲は小田原を手に入れ、関東の西の入り口に地盤を得た。そして、最終的に、早雲は相模一国を手に入れるのである。<br> それから半世紀ほど後、早雲の孫、北条氏康が最終的に川越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼすことになる。短期的に正しい決断が、長期的に見ると必ずしも正しくないこともあるという一例だろう。</p>
<h3>再び、赤浜</h3>
<p>私は赤浜の渡しで大きな石の前に立っている。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 赤浜の渡河地点付近の写真。</em><br><em> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</em>
</div>
<div> </div>
<p>5月初旬だったこともあり、ボカボカ陽気で眠くなるようなところだった。<br> 中世の名もなき人々、そして、著名な歴史人物(たとえば、元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府を倒すため軍を率いて鎌倉街道上道を南下した新田義貞)もこの辺りを渡ったことだろう。<br> そして、高見原から鎌倉街道の上道を北上してきた定正は、鎌倉街道上道の高地から赤浜の低地の風景を目にしたあと、この辺りで荒川を渡河しようとして落命したのかもしれない。</p>
<p>今は近くに橋がかかっているので、釣り人らしき人以外、誰も顧みないこの地は、かつて坂東武者たちの生死を懸けた歴史の舞台だったのである。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。</em><br><em> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</em><br><em> 赤浜の北岸が花園である。</em><br><em> 荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</em>
</div>
<p><a><img></a></p>
<div>2010年5月1日撮影:<br> 上の写真を撮影した付近に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標識がいくつか立っている。</div>
<div> </div>

荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

赤浜の渡し 上杉定正 埼玉県 大里郡

【なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー】<p>2年ほど前に、”荊棘の甲斐統一戦、武田信虎の「その時」を追う”というシリーズを書きました。</p>
<h2>目次</h2>
<ul>
<li><a>はじめに 北条早雲と武田信虎は同時代人</a></li>
<li><a>その1 信虎以前</a></li>
<li><a>その2 信虎初陣</a></li>
<li><a>その3 信虎、大井信達と戦う</a></li>
<li><a>その4 駿河勢、甲斐に乱入</a></li>
<li><a>その5 躑躅ヶ崎館と要害山城</a></li>
</ul>
<h2>なぜ信虎か?</h2>
<p>北条早雲がブログのテーマなのに、なぜ武田信玄の父、武田信虎が出てくるのだろうと思われた読者は少なくないと思う。</p>
<h2>早雲と信虎の年齢差</h2>
<p>次のグラフを見てもらいたい。</p>
<div> </div>
<p>実はこの2人、10数年、活動時期が一致している。 <br>1490-1500年前半の、信虎の父、武田信縄が甲斐守護であった頃、関東情勢に武田の影響力はほとんどなかった。しかし、信虎が家督を継承してから20年ほど経過した1520年代中頃に入ると、武田信虎の関東介入は北条にとって大きな頭痛の種となった。この時、早雲はすでに死去しており、当主は早雲の息子、北条氏綱だった。</p>
<h2>信虎を調べる</h2>
<p>1500年代後半-1510年代、甲斐に何があったのだろうか。<br> 私はこのことに興味を覚えたので、いろいろ調べてみた。すると、かつて暴君のイメージしかなかった信虎という人物が違ったふうに見えるようになった。そして、信玄に対する認識も変わった。</p>
<p>資料はある程度読んだので、状況は理解したが、現地に行かないと「絵」が見えない。そこで、信虎をテーマに2011年9月末に歴史サイクリングをしてきた。そのレポートを公開する前に、ざっくりと早雲と信虎の活動時期が重なった部分を見ていきたい。</p>
<h2>武田信虎の年表</h2>
<div> </div>
<h2>早雲の伊豆討ち入りと信虎誕生、そして、信虎、甲斐守護へ</h2>
<p>北条早雲が伊豆に討ち入った翌年の1494年、武田信虎は甲斐守護、武田信縄の子として誕生している。 甲斐守護、武田信縄が死去したのが1507年で、その年、信虎は14歳で甲斐守護となった。 こ<br>の頃までに、早雲は伊豆攻略を完了して、小田原城を奪い、この城を関東の橋頭堡として東相模領有の機会を窺っていた。そして、翌々年、早雲は両上杉相手に戦いをはじめる。</p>
<h2>信虎の苦闘と早雲の東相模攻略戦</h2>
<p>一方、若年ながら、信虎は翌年の1508年に叔父の油川信恵を滅ぼして、武田家内部の戦いに勝った。そして、割拠する有力国人を相手に戦いをはじめる。この戦いは武田家が守護大名から戦国大名へ脱皮できるかどうかの瀬戸際の戦いだった。もし失敗していれば、信濃のような分裂状態に陥って、近隣の強国に支配されていた可能性があった。</p>
<p>その間、早雲は東相模の雄、三浦氏と岡崎、そして、鎌倉で戦って勝利し、三浦氏の本拠地、新井城を囲んだ。 この辺りの話は『三浦一族の滅亡-かわらけー』で書いた。</p>
<p>信虎が10数年の苦闘を経て、一応の甲斐統一に成功した頃、早雲は三浦氏を滅ぼして相模攻略を完了させ、息子の氏綱に家督を譲った翌年(1519年)、死去した。</p>
<h2>時期は重なるが、正面衝突はしなかった両者</h2>
<p>このように、信虎と早雲は40歳ほど年齢が離れているにもかからず、活動時期が10年強、重なっている。しかし、互いに活動範囲が別だったので、正面からは衝突していない。このことは信虎にとって幸いだった。</p>
<p>扇谷上杉氏(時期によっては両上杉)という大きな敵を相手に戦っていた早雲にとっても、この時期は苦しく、東相模攻略以外に主力を向ける余裕はなかった。 このような事情で、同時代人にもかかわらず、早雲と信虎の関係は意識されないのだと思う。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー