【その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー】<h3>信虎、窮地を脱し、大井信達と和睦</h3>
<p>永正12年(1515年)、大井信達との戦いに敗れ、武田信虎は滅亡の危機に瀕したが、2年後、郡内方面で勢力挽回した。その結果、今川氏親は連歌師、宗長(氏親の外交官でもあった)を仲介者として、信虎と接触し、永正14年(1517年)、信虎は大井信達と和睦した。</p>
<p>信虎としては、7年前に妹を小山田氏の当主に輿入れさせ、懐柔した甲斐があったとほくそ笑んでいたことだろう。</p>
<h3>宗長回想</h3>
<p>宗長、この人を覚えているだろうか。</p>
<p>宗長は北条早雲が今川氏親を擁立しようとした時に(氏親の父、今川義忠が遠江で戦死して今川家の家督継承問題が起こった文明8年(1476年))、小川の長者、長谷川法永と共に氏親・早雲の味方として動いた人物である。この時、宗長は29歳だったが、今は高齢で、70歳になっていた(しかし、彼の寿命はまだ15年残っていた)。 <br>当時、連歌師は他国の大名や要人と直に会えるため、外交官の役割も果たしていた。のちには、茶人がこの役割を果たす。</p>
<h3>大井信達の娘、大井夫人</h3>
<p>この和睦時に、大井信達から信虎がめとったのが、大井夫人である。のちに、武田信玄の母親となる人だ。信虎は24歳、大井夫人は21歳だった。 <br>信虎にとっては、自分を散々苦しめた大井信達の娘を正室として、めとることになるわけだ。生まれてきた子は、大井信達の孫となる。</p>
<p>余談だが、椿城に行った時、看板に「武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡」という看板があった。私は椿城を、信虎の宿敵、大井信達の牙城と捉えていたので、ちょっとした衝撃があった。言い方一つで印象は変わるものだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城を目指して歩いている時に目にした看板。</em>
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<h3>信虎、本拠地を躑躅ヶ崎館に移る</h3>
<p>大井信達との和睦から2年後、信虎は祖父の信昌以来の甲斐守護の拠点だった、川田館から躑躅ヶ崎館を建設して移った。</p>
<p>信虎はいまだ各地に割拠する国人たちにも躑躅ヶ崎の城下町への集住を命じたので、反発をくらった。この政策も戦国大名に脱皮しようする信虎の意思を反映したものだった。 <br>分権を望む大井、今井、栗原などの有力国人は反乱を起こしたが、永正17年(1520年)、信虎は反乱軍を撃破して、一応の甲斐統一を成し遂げた。この時、信虎は27歳となっていた。</p>
<h3>駿河から大軍、来襲</h3>
<p>翌年、永正から大永と改元された。思えば、永正4年に14歳で家督を相続してから信虎は甲斐統一のため、常に体を張って戦ってきた。紙一重の生死の狭間をすり抜け、その武略と努力と幸運の結果が一応の甲斐統一だった。しかし、まだ信虎の危機は終わらない、といより最大の危機が迫っていた。</p>
<p>大永元年2月、駿河から福島勢が甲斐に乱入してきたのである(*)。 <br>8月の河内(南巨摩郡)の合戦では勝利したものの、9月には駿河の福島勢が大挙して押し寄せてきた。その数、1万5千とも言われる(実際のところ、人数はよく分からない)。それに対して、統一から日が浅い信虎勢は足並みが揃わず、2千ぐらいだったという。とにかく、信虎にとって、圧倒的に不利な戦いであったことは間違いないだろう。</p>
<div><em>(*)かつては、今川氏親が派遣した軍といわれていたが、最近では、氏親の命令ではないという説が有力視されている。いずれにしても、駿河方面から福島氏の軍勢が攻めてきたことは史実である。</em></div>
<p>信虎は同月に大島(南巨摩郡身延町大島)で福島勢と戦ったが、敗北した。福島勢はそのまま北上し、9月16日に大井氏の属城、富田城を落とした。</p>
<h3>富田城を北上、稲作地帯をゆく</h3>
<p>私は富田城を出て北上した。目的地は絵地図にある荒川湖畔の古戦場である。 <br>釜無川を渡ってからは平地が続く。稲作地帯である。かつては、この辺を釜無川の本流、支流、細流が流れていたらしい。とにかく、洪水地帯であったようで、現代のように稲作ができるのはまったくもって、信玄以来の治水事業のおかげだろう。</p>
<p>このシリーズの中で何度か書いているように、甲府盆地は思ったより広い。また、きつくはないが、緩い傾斜の上り坂になっているので、富田城を出てから古戦場に行くまでに、案外時間がかかってしまった。1時間ちょっとぐらいは走ったと思う。途中、雲間から光が指す光景は神々しかった。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>釜無川にかかる橋の上から雲間の光をのぞむ。本物は遥かによかった。 <br>信虎も同じような空を見ただろう。</div>
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<p>甲府盆地を走っていて、いくつか気づいたことがある。その内を1つをここで紹介したい。 <br>それは適当に走っても、方向が合っていたら、目的地に行けるということだ。当たり前だと思われるかもしれないが、案外そうではない。関東平野で同じ事をやると、途中で行き止まりになっていたり、全然違う方向に流されてしうことは少なくない。特に、自宅がある調布はひどく、iPhoneのGPS機能を使わなかったら、帰れないことがいくらでもあった。まるで、リアル迷路だ。 <br>まあ、それはいいとして、甲府盆地は山の形と太陽の位置を頭に入れておくと、まず方向を失うことはない。したがって、細い道でもどんどん入っていけた。こういう地域はありそうでない。生活者の意見が尊重されている地域なのかもしれないと土地不案内者ながら思った。</p>
<h3>福島勢迫り、信虎、懐妊中の大井夫人を積翠寺へ避難させる</h3>
<p>釜無川下流を押さえられ、危機感を募らせた信虎は、身重の妻、大井夫人を躑躅ヶ崎館の北方の山麓にある積翠寺に移す。そして、28歳の信虎は福島勢と戦うべく、躑躅ヶ崎館を出陣した。14年間も戦ってきた結果が、このザマである。信虎は苦々しく思っただろう。</p>
<h3>福島勢の動き</h3>
<p>さて、福島勢である。この時の福島勢の動きが遅い。妙である。 <br>富田城を落として、1ヶ月もの間、福島勢は攻めて来なかったのである。</p>
<p>なぜこれほど動きが緩慢だったのだろうか。大軍を維持するのは大変である。 <br>例えば、1万人の水・食糧・寝床・武器・排泄物の処理など、滞りなく行うようにと読者が命令されたとする。想像しただけで大変な仕事なのは明らかである。1万人を養うには相当の計画性と物資とカネが必要だ。これらが行われないとたちまち不満の声が満ち、戦力は落ち、疫病が蔓延したりする。下手をすると、戦う前に軍が崩壊したり、不満が自軍の首脳に向くこともありうる。</p>
<h3>信虎の防衛ライン</h3>
<p>信虎の防衛ラインはおそらく、笛吹川と荒川だったと思う。笛吹川は甲斐の北東から南西に流れる暴れ川だった。荒川も名前の通りだったのではないかと思う。今よりも、河原は広かっただろう。</p>
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<div> <em>2日目の14時頃に、富田城を出て、稲作地帯を抜け、荒川に向かった。もしかしたら、福島勢も同じような経路で戦場に向かったかもしれない。 黄色が自転車で走った経路。</em>
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<p>福島勢の動きは鈍い。その理由として、内部でまとまりを欠いていたのではないかという指摘がある。 <br>もう1つは当時は治水技術が発達していなかったので、一度大雨が降ると、川を渡れなくなる。仮に福島勢が荒川・笛吹川を越えて、躑躅ヶ崎館を襲ったとしよう。たとえ躑躅ヶ崎館を即座に落としても、詰の城の要害山城はすぐには落とせない可能性がある。 <br>その間に、大雨が降り、補給ラインが途絶えたところを、信虎が全力で反撃してくる。この状態で敗れたら大変である。下手をすると、全滅する可能性すらある。何せ後ろが洪水地帯だと自動的に背水の陣状態になるのである。それを恐れた福島勢首脳は、荒川・笛吹川流域に住む百姓に尋問して、洪水についての情報を集めていたのではないかと話が書いてあった(**)。</p>
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<em>(**)洪水説は</em><em><em>武田八洲満『信 虎』</em>に出てくる。 武田信虎の数少ない歴史小説の1つ。ちょっと信虎を弱く書きすぎている感はあるが、労作であることは間違いない。</em>
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<h3>両軍、激闘!飯田河原合戦</h3>
<p>理由はよくわからないが、富田城が陥落してから1ヶ月後、ようやく、福島勢は荒川の左岸にやってきた。 <br>場所は飯田河原であったという。飯田河原古戦場の石碑が立っている場所から躑躅ヶ崎館まで直線距離で3kmである。駅でいえば、甲府駅と竜王駅の間にある。</p>
<p>高校時代、私は高校まで10kmの距離を通っていた。自転車で約30分だった。つまり、3kmというのは自転車で10分ちょっとで行けてしまう距離である。騎馬で疾走すれば、もっと早く着くだろう。 <br>地図で飯田河原古戦場をはじめて調べた時、躑躅ヶ崎館との距離の近さに驚いた。これなら、身重の妻を山麓に避難させるのは当然だ。10分で妊婦が避難できるわけがない。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場付近から荒川左岸をのぞむ。 </em><br><em>対岸にいる雲霞の如き大軍が信虎の首を狙っているのである。いくら強気の信虎でもゾッとしただろう。</em>
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<p>この戦いが飯田河原合戦で、信虎勢は数には劣るものの、よく戦い、敵を100余人討ちとって、荒川の西側に福島勢を押し返した。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場の石碑 </em><br><em>この辺は人の往来が多く、信虎勢と福島勢が戦った跡はいささかも感じられなかった。黙祷を捧げて、古戦場をあとにした。</em>
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<h3>信虎、嫡男誕生!</h3>
<p>その後、福島勢は、一旦、曽根の勝山城まで退去した。だが、むろん、これですべてが終わったわけではなく、次の戦いへの準備期間であるに過ぎない。</p>
<p>再び、両軍の斥候や前衛が荒川を挟んで睨み合っただろう。この睨み合いの最中に誕生したのが武田太郎、のちの武田信玄である。11月3日のことであった。当主の男児誕生に信虎勢の士気はあがった。</p>
<h3>人生のテーマ</h3>
<p>読者は人生にテーマをお持ちだろうか。持っている人も持っていない人もいると思う。</p>
<p>現代日本では、一部の例外を除いて、ある程度は自分の人生を自分で決めることができる。私も自分の人生を自分で決めてきた。歴史的に見ると、こういった状態は幸運だと言えると思う。 <br>現代日本の住人と異なり、武田信虎は好きで、甲斐守護になったのではない。門閥貴族というのはそういうもので、父親が隠居か死亡すれば、自動的に子が当主になる。つまり、地位を継ぐ基準は血の濃さだった。武田家も同じで、甲斐守護家の直系に生まれない限り、正規ルートで甲斐守護にはなれない。信虎は、甲斐守護の父、信縄が死去したので、甲斐守護になった。</p>
<p>信虎がここまで14年間も戦ってきたのは彼の好みというよりも、有無をいわさず、立場上、課せられたテーマを果たしたまでである。そのテーマとは甲斐の統一である。このテーマを果たせなければ、滅亡するか、甲斐を逃げ出す以外に道はない。</p>
<p>課せられたテーマを果たすことは、自分で選んだテーマを果たすことよりも低級だということはないと思う。要は、その人が諸々の制約の中で人生のテーマと如何に関わったかこそが問われるのだと私は思う。その点、信虎は確かに課せられたテーマを自分のテーマとして真正面から捉え、戦い抜いた男だと思う。</p>
<h3>信虎の「その時」、上条河原合戦</h3>
<p>飯田河原古戦場の2kmほど上流に上条というところがある。ここで最終決戦が行われた。信虎のテーマが成就するか、敗れ去るか、この戦いにかかっていた。人生の決定的な瞬間、つまり、「その時」であったといえる。 上条で荒川を渡ったら、指呼の間に躑躅ヶ崎館がある。信虎としては荒川の防衛ラインを破られるわけにはいかない。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>上条河原合戦古戦場付近。なぜか石碑などはないらしい。飯田河原合戦も重要だが、上条河原合戦のほうが決定的戦いだと思うので、残念に思った。<br>飯田河原古戦場から2kmほど上流の上条で戦いがあったという。地図を見ると、秩父往還がここを通っている。信虎はこの道を通って、上条河原にやってきたのかもしれない。</div>
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<p>信玄出生から20日後の11月23日、再び、戦雲が甲斐を覆う。 <br>旧暦は現在の暦でいうと、1ヶ月ほど進めた時期だと考えてもらいたい。つまり、現在でいうと、1月ぐらいの寒さの中での戦いだった。しかも、ここは温暖な駿河ではなく、標高の高い甲府盆地だ。もし福島勢が荒川を渡河したとしたら、荒川の水の冷たさはこたえただろう。</p>
<p>この日、福島勢と信虎勢は上条河原で激突する。信虎勢は福島氏の大軍を相手に奮戦した。信虎の家臣たちも負ければ、福島勢に殺されるか、生き残っても従属させられ、以後、一番危険な戦場に送られることになる。それに対して、福島勢には遠征の飽きと疲れもあったことだろう。</p>
<p>まさに信虎の「その時」がはじまろうとしている。 <br>20日前に生まれた新しい命のためにも、信虎は奮い立ったかもしれない。信虎を含め、戦う前に両軍の武者たちの胸中には様々な思いが去来したことだろう。それらを心の支えにして、戦いははじまった。。。</p>
<p>この上条河原合戦で、信虎勢は福島勢を大敗させ、福島勢の大将たちを軒並み討ちとった。福島勢は崩壊して、南に潰走し、曽根の勝山城に逃げ込んだ。福島勢は600人もの死者を出したともいわれている。</p>
<h3>信虎の「その時」</h3>
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<h3>統一成る</h3>
<p>結果は信虎の完勝だった。翌年1月14日、曽根の勝山城に籠っていた福島勢は降伏し、生き残った福島勢は駿河に退去した。苛烈な状況を切り抜け、甲斐を統一し、外敵を駆逐した若き守護に家臣はもちろん、領民も希望を見出しただろう。 今川、北条との戦いはまだまだ続くが、ここに信虎は甲斐統一に成功した。国内の国人勢力を一掃するのになお10年を要したが、もはや以前のように苦戦していない。 信虎は統一によって膨らんだ国力を使って、関東への介入、信濃への侵略を行なっていくことになる。これらの戦いが次の時代を準備した。 </p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

飯田河原の戦い 上条河原の戦い 山梨県 甲斐市

【その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー】<h2>竜王の信玄堤へ</h2>
<p>翌朝、昭和インター近くのホテルを出て北上し、竜王の信玄堤へ向かった。</p>
<p>名前の通り、信玄堤は武田信玄が作らせたという堤防で(むろん、信玄以来の堤防と考えるべきだろう)、私はこの堤防を見てみたかった。 <br>武田信虎というテーマとは一見外れるが、結局のところ、信虎が追放されたのは信虎の人格が異常だったというよりは治水をはじめ、内政に失敗して、有力国人や家臣の支持を失ったのが主因だと私は考えている。 <br>したがって、この堤防は、親父の失敗を息子が片付けた例として考えることもでき、信虎と信玄堤は無関係ではない。</p>
<p>さて、天気予報ではこの日は曇のち晴だったが、釜無川に着いた頃、小雨が降っていた。しかし、しばらくするとあがり、薄日が差した。この日は終日、このパターンの繰り返しだった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曇天の釜無川。 </em><br><em>写真は北の八ヶ岳の方向を写している。ボンヤリと山が見えるだけで、圧迫感は感じなかった。</em>
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<h3>絵地図</h3>
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<em>今回出てくる地形、地名、勢力などの絵地図。 </em><br><em>黄色が自転車で走った経路。</em>
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<p>これが噂の聖牛である。 なかなか大きいものだった。これなら急流にも効果が期待できそうだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>写真では所詮伝わらないと思うので、ぜひ、本物をご覧あれ!</em>
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<p>聖牛に草が絡まっているが、これを放置しておくと水圧が増し、腐敗の原因にもなるので、当時は堤防を管理していた人々がいちいちとっていたのではないかと推測する。</p>
<p>現在の聖牛は石が針金で固定されているが、当時はこんなものはあるはずがない。 <br>案内板をみると、当時は竹で固定していたそうだ。竹は強く柔軟性があり、生活道具からはじまって武器にもなる。近代以前の世界では万能素材としての地位を確立していた。したがって、竹で固定しているのはやはりという感じだったが、実際のところ、維持管理するのは大変だったと思う。 <br>何せ前日雨が降っていないにもかかわらず、流れが速い。もし台風並みの雨が降ったら、大変なことになるなと思った。それを竹で水流を受け止めるのだから、容易なことではなかっただろう。</p>
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<em>石が竹で固定されている聖牛。昔の聖牛はこうだったらしい。 </em><br><em>聖牛の木同士を固定しているのは針金ではないかというツッコミは入れないようにしたい。</em>
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<p>甲州流治水法というのは、急流と急流をぶつけて、勢力を弱めるという思想でできている。コンクリートで両岸を固めて、水路を真っ直ぐ作る近代の治水法とは随分違うが、合理的な方法だと思う。</p>
<p>信玄以前、北の八ヶ岳の方から流れてくる釜無川と西の南アルプスから流れてくる御勅使川(みだいがわ)が合流するこの辺(信玄堤のある竜王周辺)は氾濫が頻発していた地帯で、その都度、被害が出ていた。付近の住民は弱り果てていただろう。津波に限らず、大量の水は恐ろしい。</p>
<p>そこで、信玄はこの2つの急流をぶつけることで水勢を弱めるという策を採った。具体的には、御勅使川の流路を変えて、釜無川にぶつけるための大治水事業を行い、信玄堤を作り上げた。おそらく、かつて、こういう方法を考えた人はいただろうが、実行できる者はいなかった。それを信玄は成し遂げた。ゆえに信玄は偉いのである。 <br>だが、その権力はどこから来たのだろうか。他でもない、信虎が人生を賭けて戦い、築いたものである。もし信虎が戦いに負けていたら、信玄は甲斐守護にすらなれなかっただろう。</p>
<p>信玄堤のことは本や映像で事前に調べているので、知っていることばかりではあったが、実際にみると、やはり分かる度合いがまったく違う。まさに腑に落ちた感じだった。</p>
<h3>守護大名から戦国大名へ</h3>
<p>話を信虎に戻そう。少年信虎は永正5年(1508年)に叔父の油川信恵を滅ぼしたあと、油川信恵派の郡内の小山田氏を圧迫、永正7年(1510年)には実質的に降伏させた。そして、信虎は妹を小山田氏の新当主に輿入れさせた。生まれてきた子は信虎の甥になる。 <br>少年の成長は早い。若武者へと変貌した信虎はこれら一連の戦いで武田家内部の争いに終止符を打ったが、これで甲斐統一が完成したわけではなかった。</p>
<p>江戸時代、武士は城下町に住むサラリーマンだったが、中世の武士は土着の領主だった。つまり、ある領内に権力地盤を有しており、守護から独立性が高く、各地に城を築いて蟠踞していた。甲斐も同様で、甲斐国内に、大井氏、今井氏、栗原氏、穴山氏などの有力国人がいて、彼らがどう動くかは彼ら自身が決めており、守護に彼らを自由に制御することはできなかった。 <br>守護家もまた領主であり、違いは守護という権威があった点だけである。この中世システムから脱却したのが、北条や今川であり、彼らは戦国大名の魁であった。戦国大名は各地の領主を排して、領内の一元的に支配し、農村を直接支配した。遅れはしたが、信虎も守護大名(中世システム)から戦国大名(近世システム)に移行しようとした。これが信虎と有力国人との軋轢の本質的な原因である。 <br>分権的な割拠状態をよしとする国人勢力にとって、信虎が力で甲斐を統一し、自分たちを自由に制御しようとする路線は守護による横暴、または、言語道断な独裁者と映ったことは想像に難くない。ゆえに抵抗は激しい。</p>
<h3>青年信虎、大井信達の館を攻める</h3>
<p>甲府盆地の西側に大井氏という武田の支流の勢力があり、当時の当主は大井信達だった。この大井氏が有力国人の代表格である。信虎としては、戦国大名として脱皮して、甲斐を統一するためにどうしてもこういった国人勢力を排する必要があった。 <br>大井信達は今川家と手を結び、甲斐守護の信虎に対抗した。国内の敵対勢力が他国の大名を国内に引き込むという例は枚挙にいとまがない。甲斐国内でも、北条と結ぶ小山田氏、信濃の諏訪氏と結ぶ今井氏があり、信虎にとっては国内問題と国外問題は連動していた。</p>
<p>当時、今川家の当主は今川氏親(義元の父)で、駿河に加え、遠江の領有も目前だった。いまだ甲斐一国の統一もままならない信虎にとって、今川氏親は最大の脅威だった。なお、今川氏親は伯父の北条早雲(伊勢宗瑞)に擁立されているので、今川と北条は強固な同盟関係にあった。 <br>ただ、信虎にとって幸いだったのが、今川は西の京へ、北条は東の相模(関東)へ向かう戦略を持っていたため、本格的な攻略の対象となることはなかったということである。</p>
<p>大井、今井といった各氏を抑え、甲斐を統一しなければ、他国の侵略を受けることは信濃が証明している。永正12年(1515年)、今川氏親と結ぶ有力国人、大井信達は蜂起した。そのため、23歳となった青年信虎は大井信達の館を攻めた。しかし、油川信恵を倒した時のようにはいかず、重臣を多数失うほどの敗北を喫っした。 <br>その後、大井信達と今川勢に圧迫された信虎は、一時、塩山の恵林寺に逃走するほどの窮地に追い込まれた。この間、今川勢が利用したのが、曽根の勝山城だった。南からの勢力が居座るにはちょうどいい城だったのだろう。</p>
<h3>年表: その時、彼らは何歳だったのか?</h3>
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<h3>大井信達の居城、椿城(上野城)</h3>
<p>大井信達の居城は甲府盆地の西麓の上野にあったという。地名をとって、上野城、椿が多かったため、椿城ともいった。南アルプスから伸びた台地の一つが上野で、北と南には深い渓谷があり、東側は急斜面になっている。</p>
<p>竜王から釜無川を渡り、南西に走る。ここでも果樹栽培が盛んだ。おそらく、この辺は高地だったため、水害は比較的軽微だったのではないかと思う。椿城の麓につくと、風化して見えないような案内板が「椿城跡」の方向を教えてくれる。<br> 最初は、立ちこぎして頑張っていたが、延々と上り坂が続くので、すぐに諦めて、押して歩いた。坂はかなり角度をあり、燦々と照りつける太陽が暑い。15分ぐらい歩いただろうか。ようやく、椿城跡を発見した。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城付近から甲府盆地をのぞむ。 </em><br><em>街がずいぶん小さく見える。結構歩いた。まったくご苦労なことである。</em>
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<p>椿城跡には現在、という日蓮宗の本重寺が建っているが、どうもおかしい。城を建てるなら、もうちょっと西側の台地の先端ではないか。しかも、先端はここよりも高地にある。 私は西側も探検することにした。自転車を寺に置き、果樹園を抜けて、歩く、さらに歩く。結構、広い。ある程度歩いて振り返ったら、思った通り、寺が下に見える。おかしいなと思いつつ、寺に戻った。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>椿城の東の台地から本重寺をのぞむ。手前から2本目の電信柱の奥に朱色の屋根が小さく見えるが、あれが本重寺である。かなり、<br>下に見える。 背後の山が南アルプス。雄大だった。</div>
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<h3>本重寺のお年寄り</h3>
<p>本重寺の縁側にお年寄りが腰をおろしている。 <br>どうもこの寺の方にみたいだったので、話しかけてみた。</p>
<p>「お寺の方ですか?」 <br>「はい」 <br>「ここが椿城跡なんですよね」私は当然のことを聞いた。 <br>「そうですが、城自体はもっと東側にありました。ここは大井氏の館跡と言われています。大井氏が滅びたあと、この寺が移されたんです」 <br>「そうなんですか。やはり、城は東側にあったんですね」私はうれしそうに言った。</p>
<p>話を聞いていると、この寺のご住職だった。 <br>このご住職がこの寺に来られたのは4年前で、それ以来、いろいろ資料を集めて、上野の案内状を作成されたそうで、その案内状を私も一部頂いた。ご住職の話によると、寺の庫裏から東側の城まで抜け道があったらしい。城の抜け道伝説はよくあるが、こういった館にもあったとは初耳で興奮した。 しかし、2ヶ所ほど、途中の畑で抜け道が陥没して、現在は通行不能だのことだった。</p>
<p>ご住職との話は興味深かったが、途中で女性がやってきてご住職に何か用事があることを告げた。 私はご住職にお礼を言って、お寺をあとにした。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>本重寺の縁側に腰掛けて、資料などを見せてもらっていた。晴れていたらこの縁側から富士山が見えるという話を伺ったので、1枚撮ってみた。作品名「幻の富士」といったところか。</em>
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<h3>信虎が敗北したのは実は富田城?</h3>
<p>信虎が大井信達を攻めた城は椿城ではなく、椿城より低地の富田城だという説がある。 <br>なぜかというと、信虎勢は城の深田に足をとられて敗れたらしいからだ。椿城にはそういう地形ではなく、大井氏の勢力下にあった富田城であれば滝沢川のほとりにあり、深田があって当然というわけである。 <br>どちらが正しいか私には分からないが、富田城が沼田に囲まれていたのは想像に難くない。一方で、椿城は台地上にあったため、田はなかったという話には納得できない。というのは、田は棚田があればできる(段々畑の田んぼ版をイメージしてもらいたい)。現在も椿城に行く途中、棚田が少なからずあった。 <br>ただ、棚田の田んぼに足をとられて大敗というのは確かに妙な話ではある。</p>
<p>富田城は笛吹川の近く、椿城から見ると、南東の低地にある。 <br>いまの甲西工場団地の中にあったという。ゆえに、中には入れない。 <br>近くをグルグル巡っただけで終わったが、南からの交通をおさえるにはいいところだと思った。椿城が政治の城なら、富田城は経済の城だったのかもしれないなどと空想してみた。</p>
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<div>滝沢川の橋の上から富田城があったといわれる甲西工業団地をのぞむ。 <br>中部横断自動車道が団地内を通っている。背後が南アルプス。</div>
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<div>(<a>つづく</a>)</div>

その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎 大井信達 信玄堤 聖牛 椿城 富田城 山梨県 甲斐市