その日、三島駅から修善寺駅へ行き、修善寺駅から柏久保城を訪問した。
明応2年(1493年)北条早雲は伊豆討ち入り、堀越公方・足利茶々丸のいる堀越御所を落とした。南下する早雲勢は、中伊豆の狩野勢と激突した。狩野氏は平安以来、中伊豆に蟠踞する勢力で、茶々丸に味方した。両者の衝突点が、現在の修善寺駅の東側の山城・柏久保城である。
柏久保城を狩野川沿いに南下すると、狩野城に至り、大見川沿いに東に行くと、大見城に至る。つまり、柏久保城は、2つの川の接結点にある要地だった。
早雲は柏久保城・北側の急斜面を襲って、この城を落としたらしい。
柏久保城の北側には、「新九郎谷」の石碑が建っている。
二の郭から主郭方面を撮影。お堂辺りから主郭。当時、北条早雲に敵対していた狩野氏の本拠地、狩野城が南方にあったため、南側(左側)の土塁がある。
なお、大見城の大見三人衆は、早雲に味方した。大見三人衆は、狩野勢に攻められている柏久保城を後詰し、狩野勢を撃退したとのこと。
狩野川が北流し、右手にクッキリ富士山が見える。ここからすぐ上流(左手前方面)で、大見川が狩野川に合流している。
その日の予定では、柏久保城の次は、狩野城に行く予定だった。
柏久保城は、富士山が見え、遺構もよく残っていて、想像以上によい山城だったため、予定よりも長居してしまった。
もう正午なので、途中で、どこかの店に入り昼食をとろることにした。
もう11月も下旬だというのに、この日は強い南風が吹いている。しかも、南の天城山が高地で、北の三島が低地のため、ずっと緩い坂道が続く。
分かっていたことなので、頑張って自転車を漕ぐ。
しばらくすると、後ろに自転車の気配がする。
振り向くと、白髪の男性がサイクリングウェアでマウンテンバイクで走っていた。
よくあることなので、特に気にはしない。
南風がきつい。ちょっとした坂がはじまり、スピードが落ちる。
すると、後ろの男性が並走し、声をかけてきた。
「こんにちは。」
「どうも、こんにちはー」
「どちらから来られたんですか?」
「ええと、東京からです。」
「どちらへ行かれるんですか?」
「狩野城です。」
「私も同じ方向です。」
そんなことを話していると、坂がきつくなってきた。
私は坂道に対して、ストイックな人間ではないので、あっさり自転車を降りた。
男性も降りた。
坂を登ったところで、また乗って、一緒に狩野城に向うことになった。
風さえなければ、どうという距離ではなかったが、強い南風のために、話しながら、狩野城にノロノロ向う。
よく晴れた空に左右から山が迫る。風景があまり変わらないので、進んでいる感じはあまりしない。
話を聞くと、サイクリングウェアの男性は、大見城近くに住み、最近、伊豆の史跡をいろいろ周っているとのこと。
「なぜ狩野城に行こうと思ったんですか?」
「北条早雲のことを調べているんです。さっきは、柏久保城に行ってきました。」
「へえ、よく前は通るんですが、まだ登ったことはないんですよ。」
「そうなんですかー」
「最近の研究では、北条早雲はすぐに伊豆を平定したわけではなく、5、6年かかったと言われています。ご存知のように、狩野城は狩野氏の本拠地で、北条早雲と は敵対関係にありました。狩野勢が柏久保城まで寄せてきたのを、大見三人衆が駆けつけて、狩野勢を撃退したそうですよ。」
「はー、そうでしたか~」
とこんな感じで、いろいろと話をしていると、ついに狩野城まで来てしまった。
腹が空いてきた。が、話が尽きない。
狩野城の北側の谷を通り、東側に出て、坂道を登った。
「ここが狩野城の入り口です。」
「あ、どうもいろいろご親切にありがとうございました。」
そういって、私は茂みに自転車を停めた。
すると、男性は
「ええと、ここを登って行くと、私の別邸があるんですが、お茶でもいかがですか?そこからちょっと行くと、狩野の殿様が月見をしたという場所がありますよ。」
狩野の殿様が月見をした場所か、なかなか興味深い話である。
狩野城を訪問したら、あとは帰るだけ。
「ええ、そうですか。うーん。。。」
「じゃあ、お邪魔してよろしいですか」
「どうぞどうぞ」
ということで、歩いて、男性の別邸にご案内頂いた。
西へ坂道を歩くこと10分弱で、別邸に到着。
柿とコーヒーを頂きながら、早雲や狩野城の話、裾野の葛山氏の話などをした。柿では腹が満たされないので、非常用に買っておいた6個入りのレーズンパンを出して食べた。男性にも1つ差し上げた。
時計を見ると、1時間半ほど経っていた。そろそろということで、月見の場所(月見山)に案内して頂くことになった。
別邸から歩くこと3分程度で、山道に入り、落ち葉をシャリシャリ踏みながら進む。
都合7分程度で月見曲輪に着いた。月見曲輪は、山城の痩せ尾根を平場にした感じで、北側に突き出ていた。しかし、北側は木々が茂っていて、見通しはほとんどきかない。ここで月見をしたとすると、南側を正面に幕を張ったのだろうか。
伝承によると、狩野の殿様(狩野茂光)が源頼朝とここで月見をしたという。
頼朝は狩野の殿様と何を語らったのだろうか。
月見曲輪の北西隅に「狩野介茂光公観月之跡」と刻まれた石碑があった。
源頼朝が伊豆で挙兵した時に(1180年)、狩野茂光は頼朝に味方したが、石橋山の戦いで、平氏勢力に敗れて戦死した。
石碑の横に小さなお堂があるが、朽ちつつある。代々、このお堂を管理されていた家があったそうだ。
なぜ朽ちつつあるのか、伺った気がするが、忘れてしまった。
いろいろと親切にして頂いたサイクリングウェアの男性に狩野城の入り口まで送ってもらい、そこで別れた。
この男性と知り合うことがなければ、月見曲輪に行くことはなかっただろう。
そして、狩野の殿様と頼朝の月見を空想することもない。
一期一会の妙を噛み締めながら、私は狩野城に入っていった。
(終)
歴ウス 公式Twitterページ |
|
歴ウス 公式Facebookページ |
|
歴ウス 公式YouTubeチャンネル |