【環濠集落の大塚遺跡を見学】<h2>城郭史的観点で</h2>
<p>今まで関東の北条系の戦国の城を中心にまわってきたのだが、今年(2013年)の夏前から、鎌倉・室町の城として鎌倉、そして、近世の城として江戸城もまわりはじめた。狙いは、城郭史的に重要な形態の城の理解を深めるためだ。</p>
<p>城郭史の本を読んでいると、環濠集落にはまだ行っていないことに気づいた。城郭史的に見ると、環濠集落も立派な防御施設を持った城である。<br> そこで、その本に載っていた大塚遺跡(神奈川県)という弥生時代の環濠集落に行くことにした。</p>
<h2>出発</h2>
<p>13 時半頃、自宅を出発し、二子玉川駅まで自転車で移動し、そこからあざみ野駅まで田園都市線に乗った。この区間は丘陵が連続し(多摩丘陵の北側)、去年、こ の辺を自転車で走行して、結構辛かったため、電車を使った(昨年の今頃、調布の自宅から自転車で、大塚遺跡から近距離の茅ヶ崎城まで行ったことがある)。</p>
<p>あざみ野駅を出て、早渕川に沿って、大塚遺跡に向う。思っていたよりも暖かい。途中で、薄手のウィンドブレーカーを脱いだ。<br> 昨年も同じコースを走ったので、特に迷うこともなく、大塚遺跡に着いた。</p>
<h2>横浜市歴史博物館</h2>
<p>ちなみに、大塚遺跡のすぐ西には、<a>横浜市歴史博物館</a>がある。<br> 去年は、畠山重忠の特別展を見てきた。かなり大型の施設で、展示も充実していた。<br> この日はあまり時間もないので、見送った。</p>
<p><img></p>
<p><em>帰りに撮った横浜市歴史博物館の写真。写真の外側で見えないが、左側にも建物があって、館内は広い。</em></p>
<h2>茅ヶ崎城</h2>
<p>大塚遺跡は、大塚・歳勝土遺跡公園内にある。大塚・歳勝土遺跡公園の南側から入るべく、移動していると、茅ヶ崎城が見えた。<br> 去年は、茅ヶ崎城から大塚遺跡の台地を見ていた。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2012年11月撮影</em><br><em>茅ヶ崎城から大塚・歳勝土遺跡が見える。</em></p>
<p>茅ヶ崎城は、神奈川湊と府中を結ぶ街道沿いにあり、城の北側の東西の位置に街道が通っていたという。茅ヶ崎城は室町から戦国時代まで使われた。現在は、城址公園化されている。</p>
<h2>歳勝土(さいかちど)遺跡</h2>
<p>歳勝土遺跡は、方形周溝墓の遺跡。方形周溝墓とは、名前の通り、四角い墳墓で、墳墓の周りに溝が掘られている。歳勝土遺跡では、方形周溝墓が5基復元されている。本物の方形周溝墓は、復元された方形周溝墓の下にある。</p>
<p><a><img></a></p>
<h2>大塚遺跡</h2>
<p>大塚遺跡は外周600mほどの環濠集落で、集落を巡る環濠、土塁、木柵、木橋、竪穴住居7棟、高床倉庫1棟などが復元されている。<br> なお、環濠集落としては、<a>吉野ヶ里遺跡</a>(佐賀県)が有名だ。</p>
<p>歳勝土遺跡から80mほどの所に、大塚遺跡はある。<br> 石碑の背景の木柵が、大塚遺跡の外周で、写真の右端から大塚遺跡に入る。<br> なお、写真中央の凹んだところに木橋が復元されている。</p>
<h2><a><img></a></h2>
<h2>大塚遺跡の入り口</h2>
<p>大塚遺跡の入り口まで来ると、「おおー」という感じだった。まさに、資料や映像などで見知った環濠集落がそこにある。</p>
<p>そういえば、復元された竪穴住居を今まで見たことがあったか、定かではない。それほど古代以前の遺跡というものに無関心だった。それも今日でおしまいである。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>復元木橋</h3>
<p>歳勝土遺跡に通じる木橋。やや防御に不安を感じる。<br> まあ、堀の幅約4m、深さ約2mと書いてあったので、実際にはもっと堅牢だったのかもしれない。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>竪穴住居の外観</h3>
<p>復元された竪穴住居。まだ、発掘調査が行われているようだ。</p>
<p><a><img></a></p>
<p>南西隅の竪穴住居。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>竪穴住居の内部</h3>
<p>竪穴住居の内部。縦の骨組み(垂木、たるき)を構築して、横(桟、えりつ)で補強。そして、下からカヤで葺き上げて作るらしい。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>弥生式土器</h3>
<p>大塚遺跡の竪穴住居内にあった弥生式土器。<br> 室内は少しヒンヤリして湿気があり、どの竪穴住居にも蚊がいた。当時はカマドで火を炊いたりしていただろうから、おそらく、これほど湿気はなかったのではないか。どうなんだろうか。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>高床倉庫</h3>
<p>復元された高床倉庫。湿気から穀物などを守るため、床が高くなっている。また、ネズミを防ぐため、高床倉庫の足にはネズミ返しが付いている。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>土塁と堀</h3>
<p>戦国時代の土塁は、堀の土を内部に掻き上げて作るが、大塚遺跡では、外側に掻き上げたようだ。なぜこういう構造にしたのか分からないが、当時の状況では何らかの合理性があったのかもしれない。</p>
<p>なお、ここ(大塚遺跡の北側)が集落防衛の正面だったようで、ここから北側にもう一重の堀が発掘されている。</p>
<p><a><img></a></p>
<h2>見学を終えて</h2>
<p>竪穴住居、高床式倉庫、土塁と堀など、当時の復元を見ることで、かなりイメージが膨らんだ。<br> 吉野ヶ里遺跡の方が大規模で見応えもあるだろうが、何せ関東から見に行くには遠い。</p>
<p>なお、大塚遺跡は、入場料は無料。大塚遺跡は17時に閉まるので、ご注意を(大塚・歳勝土遺跡公園には、いつでも入れる)。<br> 横浜市営地下鉄センター北駅から大塚・歳勝土遺跡公園へは徒歩8分らしい。</p>
<p>*Wikipediaの<a>大塚・歳勝土遺跡</a>に多少まとまった情報が載っている。</p>
<h2>茅ヶ崎城再訪</h2>
<p>大塚遺跡見学のあと、せっかくなので、茅ヶ崎城に向かった。しかし、日没が早く、茅ヶ崎城に着いた頃にはほぼ真っ暗。<br> しかし、まあいいやと城内を歩いてみた。北郭で、犬の散歩に来たおじさんに会った他、誰もいない。<br> 公園化されているので、所々に外灯が立っていて、そこを歩く。</p>
<p>冷気を含んだ風が、木の枝々を揺らせている。</p>
<p>もう一度来ることはないかもしれない。<br> そんなことを思いながら、茅ヶ崎城をあとにした。</p>
<p><a><img></a></p>
<p>(終)</p>

環濠集落の大塚遺跡を見学

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

大塚遺跡 環濠集落 フィールドをゆく

【狩野城の月見曲輪】<h2>修善寺の要地、柏久保城</h2>
<p>その日、三島駅から修善寺駅へ行き、修善寺駅から柏久保城を訪問した。</p>
<p>明応2年(1493年)北条早雲は伊豆討ち入り、堀越公方・足利茶々丸のいる堀越御所を落とした。南下する早雲勢は、中伊豆の狩野勢と激突した。狩野氏は平安以来、中伊豆に蟠踞する勢力で、茶々丸に味方した。両者の衝突点が、現在の修善寺駅の東側の山城・柏久保城である。</p>
<p>柏久保城を狩野川沿いに南下すると、狩野城に至り、大見川沿いに東に行くと、大見城に至る。つまり、柏久保城は、2つの川の接結点にある要地だった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>北条早雲の伊豆討ち入り後の中伊豆勢力図マップ(1493-98年)。青色の城が早雲与党の城で、赤色の城が茶々丸与党の城である。</em></div>
<p><br>早雲は柏久保城・北側の急斜面を襲って、この城を落としたらしい。<br> 柏久保城の北側には、「新九郎谷」の石碑が建っている。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>二の郭から主郭方面を撮影。お堂辺りから主郭。当時、北条早雲に敵対していた狩野氏の本拠地、狩野城が南方にあったため、南側(左側)の土塁がある。</em></p>
<p>なお、大見城の大見三人衆は、早雲に味方した。大見三人衆は、狩野勢に攻められている柏久保城を後詰し、狩野勢を撃退したとのこと。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>狩野川が北流し、右手にクッキリ富士山が見える。ここからすぐ上流(左手前方面)で、大見川が狩野川に合流している。</em></p>
<h2>狩野城へ向う</h2>
<p>その日の予定では、柏久保城の次は、狩野城に行く予定だった。<br> 柏久保城は、富士山が見え、遺構もよく残っていて、想像以上によい山城だったため、予定よりも長居してしまった。</p>
<p>もう正午なので、途中で、どこかの店に入り昼食をとろることにした。</p>
<h2>向かい風</h2>
<p>もう11月も下旬だというのに、この日は強い南風が吹いている。しかも、南の天城山が高地で、北の三島が低地のため、ずっと緩い坂道が続く。<br> 分かっていたことなので、頑張って自転車を漕ぐ。</p>
<p>しばらくすると、後ろに自転車の気配がする。<br> 振り向くと、白髪の男性がサイクリングウェアでマウンテンバイクで走っていた。<br> よくあることなので、特に気にはしない。</p>
<p>南風がきつい。ちょっとした坂がはじまり、スピードが落ちる。<br> すると、後ろの男性が並走し、声をかけてきた。</p>
<p>「こんにちは。」<br> 「どうも、こんにちはー」</p>
<p>「どちらから来られたんですか?」<br> 「ええと、東京からです。」</p>
<p>「どちらへ行かれるんですか?」<br> 「狩野城です。」<br> 「私も同じ方向です。」</p>
<p>そんなことを話していると、坂がきつくなってきた。<br> 私は坂道に対して、ストイックな人間ではないので、あっさり自転車を降りた。<br> 男性も降りた。</p>
<p>坂を登ったところで、また乗って、一緒に狩野城に向うことになった。</p>
<h2>自転車で歴史談義</h2>
<p>風さえなければ、どうという距離ではなかったが、強い南風のために、話しながら、狩野城にノロノロ向う。<br> よく晴れた空に左右から山が迫る。風景があまり変わらないので、進んでいる感じはあまりしない。</p>
<p>話を聞くと、サイクリングウェアの男性は、大見城近くに住み、最近、伊豆の史跡をいろいろ周っているとのこと。</p>
<p>「なぜ狩野城に行こうと思ったんですか?」<br> 「北条早雲のことを調べているんです。さっきは、柏久保城に行ってきました。」<br> 「へえ、よく前は通るんですが、まだ登ったことはないんですよ。」<br> 「そうなんですかー」</p>
<p>「最近の研究では、北条早雲はすぐに伊豆を平定したわけではなく、5、6年かかったと言われています。ご存知のように、狩野城は狩野氏の本拠地で、北条早雲と は敵対関係にありました。狩野勢が柏久保城まで寄せてきたのを、大見三人衆が駆けつけて、狩野勢を撃退したそうですよ。」<br> 「はー、そうでしたか~」</p>
<p>とこんな感じで、いろいろと話をしていると、ついに狩野城まで来てしまった。<br> 腹が空いてきた。が、話が尽きない。</p>
<p>狩野城の北側の谷を通り、東側に出て、坂道を登った。</p>
<h2>狩野城の入り口</h2>
<p>「ここが狩野城の入り口です。」<br> 「あ、どうもいろいろご親切にありがとうございました。」</p>
<p>そういって、私は茂みに自転車を停めた。</p>
<p>すると、男性は<br> 「ええと、ここを登って行くと、私の別邸があるんですが、お茶でもいかがですか?そこからちょっと行くと、狩野の殿様が月見をしたという場所がありますよ。」</p>
<p>狩野の殿様が月見をした場所か、なかなか興味深い話である。<br> 狩野城を訪問したら、あとは帰るだけ。</p>
<p>「ええ、そうですか。うーん。。。」<br> 「じゃあ、お邪魔してよろしいですか」<br> 「どうぞどうぞ」<br> ということで、歩いて、男性の別邸にご案内頂いた。</p>
<p>西へ坂道を歩くこと10分弱で、別邸に到着。<br> 柿とコーヒーを頂きながら、早雲や狩野城の話、裾野の葛山氏の話などをした。柿では腹が満たされないので、非常用に買っておいた6個入りのレーズンパンを出して食べた。男性にも1つ差し上げた。<br> 時計を見ると、1時間半ほど経っていた。そろそろということで、月見の場所(月見山)に案内して頂くことになった。</p>
<h2>狩野城の月見曲輪</h2>
<p>別邸から歩くこと3分程度で、山道に入り、落ち葉をシャリシャリ踏みながら進む。</p>
<p>都合7分程度で月見曲輪に着いた。月見曲輪は、山城の痩せ尾根を平場にした感じで、北側に突き出ていた。しかし、北側は木々が茂っていて、見通しはほとんどきかない。ここで月見をしたとすると、南側を正面に幕を張ったのだろうか。</p>
<p>伝承によると、狩野の殿様(狩野茂光)が源頼朝とここで月見をしたという。<br> 頼朝は狩野の殿様と何を語らったのだろうか。</p>
<p>月見曲輪の北西隅に「狩野介茂光公観月之跡」と刻まれた石碑があった。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>源頼朝が伊豆で挙兵した時に(1180年)、狩野茂光は頼朝に味方したが、石橋山の戦いで、平氏勢力に敗れて戦死した。</em></p>
<p>石碑の横に小さなお堂があるが、朽ちつつある。代々、このお堂を管理されていた家があったそうだ。<br> なぜ朽ちつつあるのか、伺った気がするが、忘れてしまった。</p>
<h2>再び、狩野城の入り口</h2>
<p>いろいろと親切にして頂いたサイクリングウェアの男性に狩野城の入り口まで送ってもらい、そこで別れた。</p>
<p>この男性と知り合うことがなければ、月見曲輪に行くことはなかっただろう。<br> そして、狩野の殿様と頼朝の月見を空想することもない。</p>
<p>一期一会の妙を噛み締めながら、私は狩野城に入っていった。</p>
<p>(終)</p>

狩野城の月見曲輪

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

狩野城 柏久保城 フィールドをゆく 北条早雲

【三郎とハチー五十子陣ー】<p>その日はよく晴れて、大地が乾燥していた。3年前(2010年)の4月下旬のことだ。<br> 鉢形城を出て、荒川を渡ったあと、北上し、五十子陣に向かった。</p>
<h3>五十子陣</h3>
<p>15世紀の半ば、鎌倉公方は関東管領の上杉氏と争った結果、古河公方は鎌倉を落ち、古河に移って古河公方となった(享徳の乱 1454-1482)。つまり、鎌倉公方と補佐役の関東管領という室町体制が崩壊し、関東は戦国時代に突入した。<br> その後、関東管領の上杉と古河公方の両陣営は利根川を挟んで対峙した。その上杉方の陣地が五十子陣だった。<br> 現在、16時前である。もう暑くはなく、日の勢いは衰えてきている。そろそろ五十子陣に近づいているはずだ。<br> それにしても広い。視界を遮る遮蔽物がほとんどない。正面に赤城山、左手に榛名山が霞んで見える。ここは武蔵(埼玉)だが、すぐ北は上野(群馬)だ。この大陸的な雰囲気の中を自転車で進む。しかし、秩父山地はその位置をなかなか変えようとしない。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年4月撮影<br>利根川南岸から赤城山(右側)と榛名山(左側)がうっすら見える。<br>広い。。<br></em></p>
<h3>iPhone以前</h3>
<p>この頃はiPhoneを持っていなかった。ということは、GPSから位置情報が得られない。そのため、紙の地図だけが頼りである。いや、もう1つ方法がある。それは人に聞くことだ。<br> しかし、見渡しても人はそうそう歩いていない。同じ武蔵でも南武蔵とは人口密度が違う。</p>
<p>GPSが使えないなら、どうやって、現在地を推測するのか。<br> 自分は地形(ランドマーク)と太陽の位置で大体の位置を知り、それを紙の地図から得た町名番地で補正していた。<br> この方法はたいていの地域で機能する。しかし、北関東のように、町の区分が広すぎると、苦しくなってくる。あと、日が暮れると、地形も太陽の位置も分からない。必然的に、現在地は闇の中となる。</p>
<p>いずれにしても、iPhone以前は現在地がどこなのか知ることは困難だったため、行動は非効率だった。しかし、分からないがゆえに、遠方の知らない土地にゆく時は、大いに興奮した。</p>
<h3>小学校に人がいた</h3>
<p>五十子陣の近くにはいるはずだ。そう思って、ウロウロしていると、小学校があった。止まって、場所を確認する。が、どの小学校か分からない。ここは広い武蔵の最北端。<br> 小学校の金網沿いに、小学生が何人かいる。その左に、柴犬を連れたおじさん(40歳過ぎぐらい)が小学生たちに向かって歩いてきた。<br> 柴犬が小学生たちに吠える、吠える、とにかく吠える。吠えることしか知らないかのようだ。この際、名前を「ハチ」と名付けよう。<br> おじさんは「うるせえっ」とハチを一喝するが、ハチは全く意に介さない。</p>
<p>まあ、ハチはやかましいが、小学生に聞くよりも、おじさんに聞いた方が良かろうと思い、おじさんに話しかけた。<br> 「すいません、この辺に行きたいんですが。」<br> 五十子陣って、どこですか?とは聞かない。経験的に、余程有名な史跡でないと地元の人は知らないことが多い。五十子陣はマニアックだ。中世関東史において、重要な土地だったのにも関わらず。</p>
<p>おじさんは目を細めて、「えーと、いまは○○小学校だから。。。」と私の地図を見ている。その間も、もちろん、ハチは吠えている。<br> 「うるせえっ」とまた叱るが、効果なし。おじさんはしばし無言でハチを睨んで、怒気を発する。その刹那、後方に跳んだっ!</p>
<p>一瞬何が起こったか分からなかったが、明らかに飛び蹴りだった。<br> だが、ハチは素早い身のこなしで、難なくかわし、「ニヤリ」と笑った。そして、満足した様子で、吠えるのをやめ、行儀よくお座りしている。</p>
<p>飼い犬に飛び蹴りを放つ人を、自分は今まで見たことがない。しかも、その後、おじさんは何事もなかったように数歩で戻ってきて、<br> 「えー、小学校がここだからこっちだね」と北西の方向を指差した。</p>
<p>この野性的な出来事を前に、このおじさんは「三郎」に見えてきた。三郎とは『男衾三郎絵巻』の三郎、つまり、中世武蔵の荒武者の姿である。</p>
<p>三郎とハチは、こんなことを毎日繰り返しているのかもしれない。<br> 南武蔵では、犬は従順で、おとなしいペットである。飼い主も優しく、いきなり飛び蹴りを繰り出したりしない。</p>
<p>三郎に弓矢や槍刀を渡したら、さぞかし、勇敢に違いない。<br> また、いざ鎌倉という時には、ハチは三郎のために、決死の働きをするだろう。たぶん。</p>
<p>脳内で大鎧姿となった三郎殿に礼を述べ、私は北西にあるという五十子陣を目指して、自転車を漕ぎはじめた。</p>
<p>(終)</p>

三郎とハチー五十子陣ー

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

五十子陣 フィールドをゆく

【杉山城のおじいさん】<h2>寄居から旧鎌倉街道を南下</h2>
<p>今年(2010年)5月初旬のある日、私は寄居まで電車で行き、荒川沿いに東進して、赤浜にゆき、そこから、旧鎌倉街道沿いに南下した。南下して、 (高見原の合戦があった)高見原の四津山城を見て、下りてくる頃には12時半頃になっていた。飲み物も少なくなり、のどが渇く。そして昼飯時でもあったの で、どこか適当なところで店に入るか、コンビニで昼食を買おうと思った。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月撮影</em><br><em> 四津山城(高見城)からの眺め。物見の城としては申し分ない視野である。</em><br><em> 山麓を鎌倉街道が通っている。旧鎌倉街道沿いを北から走ってくると、この山が四津山城だとすぐに分かった。ということは城からも私が走ってきた道が見えているはずである。</em><br><em> なお、写真中央あたりで、長享2年(1488年)に両上杉勢が戦った(高見原合戦)。</em>
</div>
<h2>店がない</h2>
<p>自転車で走り始めると、そば屋やうどん屋など、いくつか店があったが、もう少ししっかり食べたいと思っていたので通り過ぎた。さすがに我慢できなってきたので、コンビニで何か買おうと思っていたが、行けども行けどもコンビニがない。どうもコンビニがない地域らしい。本当にないので弱ったなと思っていたら、 ついに一軒食料品店を見つけ、そこでおにぎりやパン、飲み物など、昼食を買うことができた。しかし、あれだけの区間、食料品店がないとなると、地元の人は どうしているのだろうか。道路からは見えないところに店があるのだろうか。まあ、いらぬお世話だろうが。</p>
<p>5月とはいえ、13時ごろの日差しが強烈なので、早くどこかで一休みしたいと思った。だが、基本的に道の両側に民家がある他は影になるものがあまりない。都心で高い建物が林立し、日陰が至 るところにある環境とは違うのである。結局、私が選んだのは、鎌倉街道を少し右側に入ったところにあったトンネルの下だった。たまに車と風が走りぬける。 一度、強風で自転車が倒れてしまった。何だか冴えない昼食になったものだ。読者は、「そういったところであれば、木陰など、たくさんあるんじゃないか」と思うかもしれないが、そういったところは私有地なので、気軽には入れない。そして、公園のような施設も見当たらなかったので、人から咎められず、昼食をと ることができるスペースというのは案外なかったのである。</p>
<h2>杉山城へ</h2>
<p>そんなことで、多少苦戦しつつも昼食をとったあと、再度、鎌倉街道を南下し始めた。自転車が走ることを想定していないためか、あまり走りやすい道とはいえない道だった。次の目的地は杉山城だ。杉山城は菅谷館から北西に3kmほどのと ころにあり、当城の西側を鎌倉街道が通っている。そのため、鎌倉街道を押さえるのに適した立地にある。したがって、鎌倉街道を北から来た勢力も、南から来 た勢力もこの城は目障りなので落とそうとしたことだろう。</p>
<p>さて、プリントアウトした地図を見ると、杉山城の近辺に来ているのは明らかなのだが、実際にはどこなのか分からない。鎌倉街道を東に入って、しばらく山を見 ていると、どうやらこの辺りだなと目星がついた。次に見つけるべきは城の入り口だ。城址公園になっている城を除いて、山城の入り口はそれほど簡単には見つ からない。また、城はどこからでも入れるわけではなく、大抵、入り口は2つ程度であり、その入り口を見つけないと城の中には入れない。</p>
<h2>杉山城のおじいさん</h2>
<p>どこが入り口なのか、トロトロ走りながら見ていたのだが、なかなか見つからない。そういう場合は、地元の人に聞くのが一番である。早速、その辺に誰かいないか、見回しているものの人がいない。この辺は人口密度が低いようだ。仕方がないのでもう少し走っていると、明らかにここが城だと確信した。すると、ほぼ同時に屋根つきの車庫に人がいることに気付いた。どうやら、おじいさんらしい。</p>
<p>杉山城の入り口を聞くため、私は自転車を降り、おじいさんのほうに近づいた。<br> すると、おじさんが手招きしている。どうしたことかと驚いていると、挨拶する間もなく、私の自転車に関する質問がおじいさんから発せられた。</p>
<p>「いい自転車じゃのう。」<br> 「ありがとうございます。」<br> 「日本製か?」<br> 「いえ、イギリス製です。ブロンプトン(BROMPTON)といいます」<br> 「そうか、まだ、日本のメーカはこういう自転車を作れんのか。」非常に悔しそうである。かつて、東京都板橋区の赤塚で、団塊の世代の退職組と思しき人々に声をかけられたとき、同じ質問と同じ反応を得た。これは生きた時代を反映した反応なのだろうか。<br> 「まあ、同じような折りたたみ自転車は、ブリジストンなんかが出していますが、私はこの自転車を選びました。というのはですねえ・・・」<br> と、なぜか自転車の営業マンのように、私はブロンプトンの折りたたみ機構やバッグのシステムを説明し、実際に、折りたたんだり、組み立てたりして実演し た。私自身がこの自転車をはじめて見て、試乗したときに感動して、その日のうちに現金で買ったのであるから、説明にも力が入る。おじいさんも、時に感嘆 し、時に唸りながら、説明を聞いていた。<br> もし私がこの自転車の購入契約書を持参していたら、おじいさんは判子を押しかねない勢いだった。</p>
<p>自転車の話が一段落すると、<br> 「わしが若い頃はこんなものはなかった。わしが若い頃は戦争で・・・」とおじさんが経験した戦争の話がはじまった。大変興味深い話ではあったが、おじいさんの個人的なことは私の胸の中に留めておくことにする。同じ青年期でも、これほど違うものかと私は思った。</p>
<p>その話の中で、油に関する興味深い話があった。戦争も末期になると、資源が乏しい日本は物資不足が深刻だった。特に致命的だったのは、石油や石炭などのエネルギー物資の不足である。おじいさんによると、松から油をとっていたというのである。その油が服に付いて重くなり、往生したそうだ。<br> その話を聞いて、私は驚愕した。というのは、松から油をとるという話は戦国時代の城の本で読んだことがあったからだ。まさか、戦国時代と同じことを目の前の人が65年ほど前に実際にやっていたとは。<br> 城内やその周辺には松がよく植わっているが、これは偶然ではなく、松は建築資材、燃料、油、食料、そして、景観など、多目的に役立ったそうである。<br> 以前から戦国時代を背景にした黒澤映画を見ていて、本当にこんな感じだったんじゃないかと思うことがある。特に、農民の姿や歩き方などは非常にリアルに感じる。現在は機械化が進んでいるので、ああいう作業を経験したことがある人はもういないだろう。たとえ黒澤監督が生きていても、かつての黒澤映画のような 芝居ができる役者はいるだろうか。<br> 別の言い方をすると、弥生時代から戦後の高度経済成長まで、農村の暮らしは本質的に連続していたのかもしれない。</p>
<p>戦争の話が終わると、おじいさん自身の人生観とその人生観に裏打ちされた事業の話がはじまった。<br> おじいさんは戦争を経験したためか、「今この時をいかに生きるか」という意識がものすごく強い人だった。「人生は一度しかないから、自分のやろうと思った ことを徹底してやるのが一番だ」、こういう人生観である。こういった人生観に裏打ちされた、おじさんの農業経営の歴史は興味深いものだった。「人生は一度しかないから」、牛や馬はおろか、ヤギまで飼ったことがあるという。その他、どんなことをしたかいろいろと話してくれた。<br> そして、その話と連動したのが、杉山城の西を流れる市野川である。市野川はこの辺りでは鎌倉街道と平行して流れ、菅谷で東に流れを変え、松山城に向かう。 この市野川の開発と農地の増加、そして、治水技術の向上に伴う洪水の減少など、まさにおじいさんは市野川の変化の生き証人といえるだろう。幸いにも、私は経済と歴史に興味を持っているので、各時代について、大体の予備知識を持っていたため、適宜、質問しながら話を聞くことができた。すると、高度経済成長期 の60年代を中心に猛烈な勢いで開発が進んだ様子が手に取るように分かった。</p>
<p>話が一段落した感があったので(何だかんだと1時間以上話していたようだ)、私は杉山城の入り口を教えてもらって、いよいよ出発することにした。<br> 「どうも、いろいろ教えてもらってありがとうございました。」<br> 「いやいや、また、ここに来ることがあったら、うちに寄っていきなさい。君の姿・形はよく覚えておくから。」</p>
<p>私はもう一度別れの挨拶を言って、屋根つき駐車場をあとにした。</p>
<h2>杉山城入り</h2>
<p>おじいさんと別れた私は杉山城の北側の入り口に向かった。<br> 噂には聞いていたが、杉山城にこれほどの遺構が残っているとは驚きだった。保存状態の良さという点では、神奈川県の小机城を連想した。虎口(曲輪の出入り 口で、一気に多くの人数が入ってこられないように狭くなっている)、横矢掛かり(虎口に押し寄せる敵の側面から弓矢を放つ構造)などが、多数の曲輪に配置 され、よくもここまで作りこんだものだと感心した。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年5月撮影</em><br><em> 杉山城の西側から見下ろすと、かつて鎌倉街道上道が通っていた平野が見える。</em></p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年5月撮影</em><br><em> 本丸東虎口。土塁が出入り口が狭くなっているのが分かる。廃城になるときに、虎口の石積みが崩されたようだ。</em></p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年5月撮影</em><br><em> 技巧的といわれる杉山城の虎口。虎口が凹んで左右の土塁の出っ張りから、敵に弓矢を集中させる構造になっている。</em></p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年5月撮影</em><br><em> 今でも水をたたえる窪みに大きな石が置いてある。廃城時に、このようにしたようだ。</em></p>
<p>中武蔵以北の山城の場合、名の通った城でないと人に会うことはあまりない。会うとしたら、デジカメを持った若い男性が多い。この日も、若い男性が1人でデジカメを持って歩 いていた。ただ、若い女性が1人で歩いていることもないではない。しかし、この日は母娘という感じの2人が歩いていたので、何事かと思った(母のほうは、 40代半ば、娘のほうは20代前後くらいように見えた)。後で、大手口(城の南側の入り口)のほうに行くと、お寺(積善寺)の辺りにクルマがいくつか停車していたので、ああこれかと思った。二人連れの女性は「ついで」に城に来たのかもしれない。ぱっと見た感じ、はやりの「歴女」には見えなかった。</p>
<p>たっぷり見てまわって満足したので、北側の出入り口に戻ることにした。だが、少し道を外れてしまったようで、出口が見つからない。仕方がないので、道に出られ そうなところを探すことにした。少し歩くと、何とか降りられそうな所に出たので、そこからジャーンプした。だが、着地したところが軽い泥濘(ぬかるみ) だった。足に衝撃はあまりなかったが、多少靴がよごれた。やはり、城はちゃんとした出入り口から出入りしたほうが良さそうだ。私は苦笑いしつつ、自転車を置いたところに行って、出発することにした。</p>
<p>自転車で走るとすぐに、先程話し込んでいたおじいさんの家がある。通り過ぎるときにチラッと駐車場を見ると、あのおじいさんがいたので、「あっ、どうも!」といって、私は手を振った。すると、おじいさんはなんと敬礼で見送ってくれたのだった。<br> なにゆえの敬礼だったのかは分からない。が、その瞬間、私は若き日の彼の姿を見た気がした。そして、その立ち姿は何とも美しく思えた。これが様式の持つ美しさだろうか。おじいさんやおじいさんの世代は戦争で激烈な体験をし、戦中も戦後も働いて働いて日を過ごし、今に至る。あの時代は、捉えようによっては世界規模の戦国時代だったと言えるかもしれない。戦国時代の足軽の装備と日本帝国陸軍の装備の類似性を説いた本を読んだこともある。<br> この世代の人はあまり語らないが、容易に語ることができなほど、内的に深い体験だったのかもしれない。この世代が書いた歴史小説を読むとそれがよく伝わってくる。私はその様式の美しさに表現できない哀しみのようなものを感じながらも、おじいさんから何か大切なものを受け取った気がした。私はもはや振り返ることなく、前方からの風を感じながら、自転車を走らせた。</p>
<p>(終)</p>

杉山城のおじいさん

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

杉山城 フィールドをゆく

【なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー】<p>2年ほど前に、”荊棘の甲斐統一戦、武田信虎の「その時」を追う”というシリーズを書きました。</p>
<h2>目次</h2>
<ul>
<li><a>はじめに 北条早雲と武田信虎は同時代人</a></li>
<li><a>その1 信虎以前</a></li>
<li><a>その2 信虎初陣</a></li>
<li><a>その3 信虎、大井信達と戦う</a></li>
<li><a>その4 駿河勢、甲斐に乱入</a></li>
<li><a>その5 躑躅ヶ崎館と要害山城</a></li>
</ul>
<h2>なぜ信虎か?</h2>
<p>北条早雲がブログのテーマなのに、なぜ武田信玄の父、武田信虎が出てくるのだろうと思われた読者は少なくないと思う。</p>
<h2>早雲と信虎の年齢差</h2>
<p>次のグラフを見てもらいたい。</p>
<div> </div>
<p>実はこの2人、10数年、活動時期が一致している。 <br>1490-1500年前半の、信虎の父、武田信縄が甲斐守護であった頃、関東情勢に武田の影響力はほとんどなかった。しかし、信虎が家督を継承してから20年ほど経過した1520年代中頃に入ると、武田信虎の関東介入は北条にとって大きな頭痛の種となった。この時、早雲はすでに死去しており、当主は早雲の息子、北条氏綱だった。</p>
<h2>信虎を調べる</h2>
<p>1500年代後半-1510年代、甲斐に何があったのだろうか。<br> 私はこのことに興味を覚えたので、いろいろ調べてみた。すると、かつて暴君のイメージしかなかった信虎という人物が違ったふうに見えるようになった。そして、信玄に対する認識も変わった。</p>
<p>資料はある程度読んだので、状況は理解したが、現地に行かないと「絵」が見えない。そこで、信虎をテーマに2011年9月末に歴史サイクリングをしてきた。そのレポートを公開する前に、ざっくりと早雲と信虎の活動時期が重なった部分を見ていきたい。</p>
<h2>武田信虎の年表</h2>
<div> </div>
<h2>早雲の伊豆討ち入りと信虎誕生、そして、信虎、甲斐守護へ</h2>
<p>北条早雲が伊豆に討ち入った翌年の1494年、武田信虎は甲斐守護、武田信縄の子として誕生している。 甲斐守護、武田信縄が死去したのが1507年で、その年、信虎は14歳で甲斐守護となった。 こ<br>の頃までに、早雲は伊豆攻略を完了して、小田原城を奪い、この城を関東の橋頭堡として東相模領有の機会を窺っていた。そして、翌々年、早雲は両上杉相手に戦いをはじめる。</p>
<h2>信虎の苦闘と早雲の東相模攻略戦</h2>
<p>一方、若年ながら、信虎は翌年の1508年に叔父の油川信恵を滅ぼして、武田家内部の戦いに勝った。そして、割拠する有力国人を相手に戦いをはじめる。この戦いは武田家が守護大名から戦国大名へ脱皮できるかどうかの瀬戸際の戦いだった。もし失敗していれば、信濃のような分裂状態に陥って、近隣の強国に支配されていた可能性があった。</p>
<p>その間、早雲は東相模の雄、三浦氏と岡崎、そして、鎌倉で戦って勝利し、三浦氏の本拠地、新井城を囲んだ。 この辺りの話は『三浦一族の滅亡-かわらけー』で書いた。</p>
<p>信虎が10数年の苦闘を経て、一応の甲斐統一に成功した頃、早雲は三浦氏を滅ぼして相模攻略を完了させ、息子の氏綱に家督を譲った翌年(1519年)、死去した。</p>
<h2>時期は重なるが、正面衝突はしなかった両者</h2>
<p>このように、信虎と早雲は40歳ほど年齢が離れているにもかからず、活動時期が10年強、重なっている。しかし、互いに活動範囲が別だったので、正面からは衝突していない。このことは信虎にとって幸いだった。</p>
<p>扇谷上杉氏(時期によっては両上杉)という大きな敵を相手に戦っていた早雲にとっても、この時期は苦しく、東相模攻略以外に主力を向ける余裕はなかった。 このような事情で、同時代人にもかかわらず、早雲と信虎の関係は意識されないのだと思う。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/6/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

飯田河原合戦 上条河原合戦 フィールドをゆく 武田信虎 武田信虎の甲斐統一戦ーフィールドをゆく(4)ー

【北条早雲と武田信虎は同時代人】<h2>なぜ信虎か?</h2>
<p>北条早雲がブログのテーマなのに、なぜ武田信玄の父、武田信虎が出てくるのだろうと思われた読者は少なくないと思う。</p>
<h2>早雲と信虎の年齢差</h2>
<p>次のグラフを見てもらいたい。</p>
<div> </div>
<p>実はこの2人、10数年、活動時期が一致している。 <br>1490-1500年前半の、信虎の父、武田信縄が甲斐守護であった頃、関東情勢に武田の影響力はほとんどなかった。しかし、信虎が家督を継承してから20年ほど経過した1520年代中頃に入ると、武田信虎の関東介入は北条にとって大きな頭痛の種となった。この時、早雲はすでに死去しており、当主は早雲の息子、北条氏綱だった。</p>
<h2>信虎を調べる</h2>
<p>1500年代後半-1510年代、甲斐に何があったのだろうか。<br> 私はこのことに興味を覚えたので、いろいろ調べてみた。すると、かつて暴君のイメージしかなかった信虎という人物が違ったふうに見えるようになった。そして、信玄に対する認識も変わった。</p>
<p>資料はある程度読んだので、状況は理解したが、現地に行かないと「絵」が見えない。そこで、信虎をテーマに2011年9月末に歴史サイクリングをしてきた。そのレポートを公開する前に、ざっくりと早雲と信虎の活動時期が重なった部分を見ていきたい。</p>
<h2>武田信虎の年表</h2>
<div> </div>
<h2>早雲の伊豆討ち入りと信虎誕生、そして、信虎、甲斐守護へ</h2>
<p>北条早雲が伊豆に討ち入った翌年の1494年、武田信虎は甲斐守護、武田信縄の子として誕生している。 甲斐守護、武田信縄が死去したのが1507年で、その年、信虎は14歳で甲斐守護となった。 こ<br>の頃までに、早雲は伊豆攻略を完了して、小田原城を奪い、この城を関東の橋頭堡として東相模領有の機会を窺っていた。そして、翌々年、早雲は両上杉相手に戦いをはじめる。</p>
<h2>信虎の苦闘と早雲の東相模攻略戦</h2>
<p>一方、若年ながら、信虎は翌年の1508年に叔父の油川信恵を滅ぼして、武田家内部の戦いに勝った。そして、割拠する有力国人を相手に戦いをはじめる。この戦いは武田家が守護大名から戦国大名へ脱皮できるかどうかの瀬戸際の戦いだった。もし失敗していれば、信濃のような分裂状態に陥って、近隣の強国に支配されていた可能性があった。</p>
<p>その間、早雲は東相模の雄、三浦氏と岡崎、そして、鎌倉で戦って勝利し、三浦氏の本拠地、新井城を囲んだ。 この辺りの話は『三浦一族の滅亡-かわらけー』で書いた。</p>
<p>信虎が10数年の苦闘を経て、一応の甲斐統一に成功した頃、早雲は三浦氏を滅ぼして相模攻略を完了させ、息子の氏綱に家督を譲った翌年(1519年)、死去した。</p>
<h2>時期は重なるが、正面衝突はしなかった両者</h2>
<p>このように、信虎と早雲は40歳ほど年齢が離れているにもかからず、活動時期が10年強、重なっている。しかし、互いに活動範囲が別だったので、正面からは衝突していない。このことは信虎にとって幸いだった。</p>
<p>扇谷上杉氏(時期によっては両上杉)という大きな敵を相手に戦っていた早雲にとっても、この時期は苦しく、東相模攻略以外に主力を向ける余裕はなかった。 このような事情で、同時代人にもかかわらず、早雲と信虎の関係は意識されないのだと思う。</p>
<p>(終)</p>

北条早雲と武田信虎は同時代人

作成日:2014/6/24 , by fuji3zpg 開く

フィールドをゆく 武田信虎 北条早雲

【三浦一族の滅亡-かわらけー】<h2>今回の歴史サイクリングの要約</h2>
<p>2010年10月2日、私は三浦半島で歴史サイクリングをしてきた。テーマは、伊東潤 『疾き雲のごとく』の最終話「かわらけ」関連の土地を巡ることだ。</p>
<p>この話は、鎌倉時代以来、三浦半島に勢力を張った名家、三浦氏滅亡の物語である。北条早雲は伊豆を奪取して以来、東に進み、1501年までに西相模の小田原を手に入れた。そして、早雲は三浦半島を中心として東相模に勢力を持つ三浦氏と激突した。<br>折りしも、三浦氏の当主は、文武両道の誉れが高い三浦道寸だった。その道寸とその一族も、早雲の粘り強い攻めに抗しきれず、永正13年(1516年)7月11日、三浦半島の南西部の新井城で滅亡した。これによって、早雲は伊豆、相模の2カ国を手に入れた。その早雲も、三浦氏滅亡の3年後に死去しました。数え年で64歳だった。</p>
<div> </div>
<p>今回の歴史サイクリングのコースは、大船(玉縄城が近くにある)→鎌倉(住吉城)→三崎城→新井城という流れである。</p>
<h2>いざ、出発!</h2>
<p>この日、自宅を出発して、7時30分頃に東京駅に着きた。そして、電車で大船駅に向かう。大船には北条早雲が築城したという玉縄城が、かつて駅の西側の台地に広がっていた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2013年2月撮影 玉縄城の本丸は現在の清泉女学院にあった。写真は、本丸西側にある七曲坂からかつての本丸を見上げたアングル。</div>
<h2>早雲、鎌倉へ進撃</h2>
<p>永正9年(1512年)に岡崎城に籠る三浦勢を駆逐した早雲はその勢力を東に伸ばし、翌年には、鎌倉の南東に位置する住吉城を落とした。目指すは三浦氏の本拠地である新井城。しかし、三浦氏の主家である扇谷上杉氏の援軍が武蔵(北)からやってくるのは時間の問題だ。そこで、早雲は大船に玉縄城を構築し、扇谷上杉勢への備えとしたのだった。 <br>玉縄城には昔行ったことがあるので、今回は玉縄城に寄らず、一路、鎌倉を目指した。</p>
<h2>鎌倉、化粧坂</h2>
<p>私は鎌倉に過去何度か行ったことがあるが、鎌倉七口の1つ、化粧坂を通ったことがなかったので、今回は化粧坂に行ってみることにした。化粧坂は鎌倉街道上道の出入り口で、元弘3年(1333年)の新田義貞による鎌倉攻めの際にも激戦地になった。このように、中世関東史を学ぶ人にとっては化粧坂は一度は訪れてみたい土地なのだ。</p>
<h2>なにやら気配が・・・</h2>
<p>大船からは上り坂が続き、ある時は自転車で、ある時は自転車を押して進むこと40分弱で化粧坂に着いた。自転車を降りて、化粧坂に向かって歩いていると、何か気配を感じたので、右前方を見ると、3mほど先にいるリスと目が合った。すかさず、腰の物に手をやって(むろん、刀ではなく、カメラです)、リスをレンズに捉えてやろうと思ったが、リスもほぼ同時に逃げ始める。リスはスルスル動いて、キョロキョロし、また、スルスル動いて、キョロキョロして、まるでマンガかアニメのように動いて、カメラの視界からいなくなる。<br>不思議と自分の目で見るとすぐ見つけられるのに、カメラで見ると、どこにいるのか分からなくなる。そして、ついにどこに行ったのか分からなくなってしまった。 <br>普段、城や石碑など、大きくて動かないものを撮っているので気づなかったが、小さくて動くものをカメラで撮るのは案外難しいものだということを知った。残念ながら、リスを撮ることはできなかったが、野生のリスをこれほど至近距離で見たのははじめてだったので、幸先の良いことだと思った。</p>
<h2>中世の雰囲気が色濃く残る化粧坂</h2>
<p>もう少し進むと、化粧坂の本体に部分に入った。噂通り、なかなか中世的な雰囲気が色濃く残っていた。馬が自由に走れないようするための巨石が道にある。しかし、坂自体は短くて、あっという間に舗装路に出てしった。軍勢を防ぐのであれば、もう少し防備を固めないとどうにもならないので、おそらく、現在残っている遺構は全体の一部なのだろう。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月撮影 </em><br><em>化粧坂には、写真のように馬が駆けられないように石が配置されている。 さすがに有名なところだけあって、朝にもかかわらず観光客を何人も見た。</em>
</div>
<div> </div>
<h2>舗装道路がない・・・</h2>
<p>化粧坂は階段状になっているため、自転車で進めない。そのため、化粧坂を通って鎌倉市街に入るのを諦めて、源氏山公園から抜けることにした。<br>源氏山公園を進んで階段のない舗装路を探しましたが見つからず、仕方がないので、自転車を持ち抱えて階段を下りることにした。私が進んだのは扇谷に抜ける道だった(なお、扇谷上杉氏の「扇谷」は鎌倉の扇谷に屋敷があったことに由来する)。</p>
<p>最初はどうということもなく自転車を持ち運んでいたが、階段が終わったあとも舗装路はなく、土の道にたまに大きな段差という感じの道が続く。私はさった峠の自転車持ち運び(「<a>さった峠の試練</a>」)を思い出したが、今回は、まだ朝方で元気だったこと、下りだったこと、PCを持っておらず荷物が軽かったことなどもあって、疲労感には雲泥の差がありましあった。しかし、それでも最後のほうはやや手が疲れてきたところに、ものすごく狭い道に直面した。</p>
<h2>狭き道</h2>
<p>しかも、この道は苔生しており、手ぶらでも用心して歩かないと滑って転びそうだ。これを自転車を持ちながら通るのは容易ではない。何だかマンガのような(もののけ姫が出てきても違和感がなさそうな)道だなと思いながら、自転車を胸辺りまで持ち上げたまま、おっかなびっくりのすり足で進み、ようやく通り抜けることができた。</p>
<h2>「えっ、ここ通るの?」</h2>
<p>狭い道を通り抜けた後、反対方面から、観光客と思しき中年夫婦が近づいてきて、奥さんがこの道を見て「えっ、ここ通るの?」と言って、しばらくフリーズしていた。<br>やはり、私だけが狭いと感じたわけではなさそうだ。「この道は自転車を持って通るには難易度の高い道だった。こんなことなら、化粧坂切通を自転車を担いで通ればよかった」と総括して、扇谷に抜ける切通しを抜け、鎌倉市街に入って行った。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月撮影 </em><br><em>写真でみると、あまり狭く感じないかもしれないが、自転車を抱えて苔生して滑りやすい足場を歩いたので苦戦した。</em>
</div>
<h2>中世から現代へ</h2>
<p>鎌倉の面白いところは、苔生した中世的世界と現代社会が背中合わせになっている点である。扇谷の切通を抜けると、舗装路に住宅地、そして、もう数分走ると、鎌倉駅前に出る。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2010年10月 扇谷に出る切通。ここを出ると、すぐに住宅地が広がる。まさに、タイムマシンのゲートのようだ。 <br>なお、この写真を撮るために静止していると、複数の蚊が即座にやってきた。ゲートのこちら側は湿っていて、蚊には居心地がよいのだろう。</div>
<h2>海と陸の違い</h2>
<p>鎌倉駅前には、現代的な人々、店、交通機関などがある。その一方では、「下馬」といったかつての光景を思い起こさせるような地名の交差点があったりもする。そして、鎌倉の魅力を1つ挙げると、それは海だろう。鶴岡八幡宮は鎌倉の盆地の北に鎮座しているが、そこから見る光景はなかなか良い。それに加え、由比ガ浜ではマリンスポーツや釣りをしている人々もいる。</p>
<p>海からの光景というのは、陸からの光景と随分違うもので、その移動原理にも違いがある。陸で生きる人にとっては海は移動の障害以外の何者でもないが、海で生きる人にとっては海は交通路だ(そして、これが陸軍と海軍の本質的な発想の違いとなり、引いては組織間の摩擦の原因にもなるようだ)。したがって、同じ日本人といっても、当時、陸で生きていた人と海で生きていた人の考え方、習慣、行動原理は随分違ったものだったのではないかと思う。</p>
<h2>早雲、関東名家の内紛を衝き、三浦氏を三浦半島南部に追い詰める</h2>
<p>さて、由比ガ浜を東端まで移動して見上げると、崖がそびえ立っています。かつて、ここに住吉城があった。ここを突破されると、小坪に侵入されるため、三浦氏は城を作って防御しようというわけだ。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>2010年10月 </em></div>
<div><em>滑川の最下流付近から撮った住吉城の遠景。写真中央部の台地上に住吉城があった。そして、その右手が小坪。</em></div>
<p>永正9年(1512年)6月頃からはじまった山内上杉氏と古河公方家の内紛で、山内上杉氏と扇谷上杉氏が再度対立し始めると、早雲はその隙を突いて、東進し、同年8月には相模の岡崎城を奪って、その勢いで鎌倉に押し寄せた。そして、翌年(永正10年)1月、早雲勢と三浦勢は鎌倉近辺で激突し、勝利した。住吉城の三浦勢はなお粘ったものの、同年7月に落城しました。三浦勢は敗走し、三浦半島の新井城に逼塞せざるを得ない状況になった。</p>
<p>住吉城があった場所は、現在、住宅開発が進んで、遺構はほとんど残っていないようだ。住吉城があったところからどのように見えるのか知りたかったので、私は坂を上って行ってみた。すると、小坪方面は多少見えたが、残念ながら、住宅街に遮られて鎌倉方面へのよい眺めは得られなかった。</p>
<h2>鎌倉を出て、小坪へ、そして、三浦半島の西海岸を走る</h2>
<p>さて、住吉城近辺から小坪に移動し、国道134号に出た。しばらく走ると、海岸沿いが見えてきた。空は晴れ、気持ちの良い風が吹いている。眺めもいい。三浦半島の西側の海岸線はもちろんのこと、鎌倉、江の島、そして、うっすらと伊豆半島も見える。道々には、海の幸を食材にした洒落た店がところどころにある。砂浜では子供がはしゃいでいる。まったくもって、結構なところである。私は12時前に立石で軽く持参したバナナなどを食べ、空腹を満たしたあと、三崎に向けて走り始めた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月撮影 </em><br><em>奇岩の立石(神奈川県横須賀市秋谷) 500年ほど前、この石の近くの道を、道寸は逃げ、早雲は追ったのかもしれない。</em>
</div>
<h2>三崎、すし、マグロ。。。</h2>
<p>鎌倉から三崎までは約20kmあり、基本的には南下していく。12時ごろに洒落た店でしっかりした昼食を食べなかった理由はただ1つ、三崎港でマグロを食べるためである。<br>三崎港は日本有数のマグロ水揚げ量を誇る港だ。 そして、この地は三浦氏の拠点の1つであり、後に、早雲の子孫たちが東京湾対岸の安房の里見氏との戦うために、水軍の拠点を作った。三浦港の対岸には城ヶ島があり、この島が三崎港の防波堤になる。また、三崎港の北側は台地になっており、そこに三崎城が築かれた。</p>
<h2>マグロ漬丼を待っている時に閃いた</h2>
<p>三崎港に到着したときは13時頃になっており、腹もマグロを欲している。</p>
<p>マグロ料理を出す店を適当に選んで、店に入る。その店は2階にある割と広い店だったが、座敷は人で埋まっていた。私は1人なのでカウンターに陣取り、メニューを物色したあと、マグロ漬丼を頼んだ。 そして、マグロ漬丼を待っているときに思いついたのが、「歴史サイクリング」というコンセプトだった。それまでは史跡巡りとサイクリングを一語で表せないかとずっと考えていたのだが、この時、ふと思いついた。</p>
<h2>城ヶ島から房総半島をのぞむ</h2>
<p>マグロ漬丼を堪能したあと、城ヶ島に向かった。 城ヶ島から千葉県の対岸は目視できる。後で地図で確認すると、約20km弱だった。新井城の三浦勢は早雲勢に陸から包囲された後も、三浦水軍を使って、海からの補給を得ることができた。そのため、新井城に籠城してから3年もの間、支え続けることができた。籠った方も囲んだ方も、さぞかし往生しただろう。 当時、江戸、安房、上総方面から三浦氏が補給を受けていれば、この付近を補給船が通り、新井城に向かったのではなかろうか。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月撮影 </em><br><em>城ヶ島から安房(千葉)方面をのぞむ。 安房(鋸南町から南房総市付近)を目視できる。</em>
</div>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月撮影 </em><br><em>城ヶ島から三崎港をのぞむ。 三崎港の背後に台地がある。そこに三崎城があった。</em>
</div>
<div> </div>
<h2>新井城へ</h2>
<p>再び、三崎に戻り、かつて三崎城があった地域を巡った後、本日最後の目的地である新井城址に向かった。 新井城址は、京急油壺マリンパーク付近にある。新井城は、北に小網代湾、南を油壺湾に挟まれ、陸続きなのは東側のみという出島にあり、東側を堀切ってしまえば、海から以外に近づくことができない島になる。 解説本などによると、東側は空堀が掘られて、板橋をかけて、渡っていたようだ。ただ、安政の大地震と関東大震災によって、半島が隆起したそうで、かつては現在と違い、砂浜はなく断崖絶壁だったそうである。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2013年4月撮影 </em><br><em>新井城址の土塁。思っていたより、遺構が残っていた。 現在、東京大学臨海実験場となっており、写真の通り、立ち入り禁止になっている。</em>
</div>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月撮影 </em><br><em>新井城址から見た油壺湾</em>
</div>
<h2>早雲も苦戦。籠城は3年に渡る。そして。。。</h2>
<p>さすがの早雲もこの城には手を焼き、容易に落とすことができない。それに対して、三浦勢は洞窟に蓄えた豊富な備蓄と海上からの補給で耐え忍ぶ。 そうこうしている内に、三浦氏の主家の扇谷上杉氏から援軍がやってくるが、早雲は大船の玉縄城で撃退に成功する。そして、包囲すること3年、ついに三浦勢も力尽き、永正13年(1516年)7月11日に滅亡した。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月 </em><br><em>新井城址の洞窟。城址にはこのような洞窟がいくつも空いている。道寸らが籠城戦のために、こういった洞窟を兵糧用の倉庫として使ったと言われている。</em>
</div>
<div> </div>
<p>油壺という地名の源は、新井城落城の際、三浦武士たちの血で湾が赤く染まったためと言われている。私が新井城を訪れたときにはすでに夕方になっていた。三浦氏が滅亡した旧暦の7月11日と新暦のこの日では、1ヶ月ちょっとズレがあるが、晴れていれば、三浦氏が滅亡した日も同じようなところに夕日が沈んでいたことだろう。そして、その夕日を早雲は眺めていたかもしれない。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月撮影 </em><br><em>新井城址から見た夕日。三浦氏が滅亡した日、早雲も同じようなところに沈む夕日を眺めたかもしれない・・・</em>
</div>
<div> </div>
<p>道寸は辞世の句に</p>
<blockquote>
<div>討つものも 討たるるものも かわらけよ</div>
<div>   砕けて後は もとのつちくれ</div>
</blockquote>
<p>と詠んだと伝わっている。 私は静かに合掌して、新井城をあとにした。</p>
<p>(終)</p>

三浦一族の滅亡-かわらけー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

フィールドをゆく 三浦道寸 北条早雲 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー

【立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー】<h2>立河原の戦いとその後</h2>
<p>今回のテーマは「<strong>立河原の戦い</strong>」である。</p>
<p>永正元年(1504年)、古河公方、足利政氏を擁する山内上杉顕定の軍勢と扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍が、多摩川と浅川の合流点である立河原で戦った。この戦いを立河原の戦いという。 <br>合戦の結果は、扇谷上杉氏・今川氏親・北条早雲の連合軍が大勝だったものの、その後、越後から越後上杉氏の援軍(越後守護は山内上杉顕定の実弟、上杉房能)が到着し、翌年(1505年)、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に降伏する。その結果、20年弱続いた両上杉氏の対立(長享の乱)は山内上杉氏の勝利で終結した。</p>
<h2>立河原の戦いと関連人物</h2>
<div> </div>
<h2>第5話「稀なる人」で出てくる土地をめぐる</h2>
<p><strong>伊東潤 『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</strong>の第5話「稀なる人」では、立河原の戦いが扱われている。そこで、この話に出てくる土地をまわることにした。 <br>小説では、枡形山城→高幡城→普済寺という流れで話が進むが、その流れで走ると、ダラダラとした上り坂をひたすら登ることになる。 <br>私は、以前、古河城→小山城→結城城を巡った時に、同じくダラダラ続く登り道に苦しめられた。ゆえに、不本意ではあるが、ダラダラ上り坂は避けて、下り坂を選んだのである。</p>
<h2>出発、電車で立川駅へ</h2>
<p>さて、自宅を発して、東京駅に着いたのが午前7時、電車に乗り、普済寺近郊にある立川駅に8時過ぎに到着した。立川駅を出て、さっさと折りたたみ自転車を組み立てる。そして、iPhone4を自転車に装着して、さあ出発。</p>
<h2>普済寺</h2>
<p>最初の目的地は普済寺だった。立川駅から数百メートルほどなので、8時30分前には着いた。</p>
<p>普済寺は東京都立川市にある臨済宗建長寺派の寺院で、武蔵七党西党日奉の支族である立河氏の館があったと言われている。 <br>伊東さんの小説では、立河原の戦いに際して、山内上杉顕定は2代古河公方の公方足利政氏を奉じて普済寺に陣を構えたとしている。現地には、立河氏の館跡と言われる土塁が遺構として残っていた。</p>
<h2>多摩川へ</h2>
<p>普済寺を出て、多摩川には数分ほどで着いた。 <br>サイクリングロードに入ると、実に気持ちよく走ることができる。この日の数日前まで残暑が厳しかったが、この日の午前中は特に涼しく、サイクリングには適したコンディションだった。</p>
<p>さて、サイクリングロード沿いに南東に進み、浅川との合流点の少し前辺りまできた。<br> 伊東さんの小説では、高幡城を出た氏親・早雲の連合軍が多摩川を渡って、普済寺を出撃した山内上杉顕定勢と戦ったことになっているので、距離的に中間地帯のこの辺が戦場になるかもしれないと勝手に想像してみた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ある程度の広さがあり、大河の河原らしい草が生えている。ただ、河原に石がないので、小説のイメージ通りにはいかない。 なお、戦いは旧暦の9月27日だったとのことなので、新暦で言うと、11月上旬頃ということになる。とすれば、渡河して体が濡れるとさぞかし兵たちは寒かっただろう。顕定にはその様子が好機と映ったとしても不思議ではない。 <br>*写真は東京都府中市四谷の辺り。 なお、渡河作戦の難しさについては、『荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正- ~その1~』に書いた。</em>
</div>
<div> </div>
<p>来た道を少し戻って、都道20号の橋で多摩川を渡り、万願寺駅で南下するという経路で、浅川に着いた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>9時15分ごろ、浅川を渡る。 <br>多摩丘陵の北端が見える。写真枠外の右側に高幡城がある。</em>
</div>
<h2>高幡城</h2>
<p>浅川を渡ると、高幡不動はもうすぐだ。高幡不動に着く前に一休みしたので、高幡不動に着いたのは10時ごろだった。高幡城は、高幡不動の裏山にあり、そこからの眺望はよく、多摩川方面を遠望できる。</p>
<p>高幡不動に着いて、自転車をとめて、境内を歩くとすぐに土方歳三の銅像が立っているので、一瞬、おやっと思った。そういえば、土方歳三は武州多摩の出身だったことを思い出した。後で調べてみると、高幡不動は新選組副長である土方歳三の菩提寺だそうだ。土産物屋をのぞくと、土方グッズがたくさん売られており、新選組人気を確認した次第である。</p>
<p>目的地は高幡城なので、かつて城があった裏山に向かった。高幡城は比高50mの山城なので、少し坂道を登ると本丸跡を見つけることができた。 <br>伊東さんの小説では、ここで扇谷陣営の軍議が行われたことになっている。今は木々が繁っているので、その隙間からしか眺めが得られないが、かつては木を切っていたはずなので、本丸からの眺めはさぞかしよかったと思う。</p>
<h2>犬懸上杉憲秋、回想</h2>
<p>突然だが、犬懸上杉憲秋という人物をご存知だろうか。中世関東史を学んだ人以外は生涯知ることもない人物だと思うが、北条早雲が生まれる1年前にこの城で自害して亡くなった人である。</p>
<p>彼の父親は犬懸上杉氏憲(禅秀)で、1416年に上杉禅秀の乱という反乱を起こした人物として有名だ。犬懸家は山内家と交代で関東管領を歴任していた名家だったが、上杉禅秀の乱を契機に没落してしまった(その代わりに台頭したのが、扇谷家)。何事もなければ、輝かしい未来を約束された人生から一転、上杉憲秋は謀反人の子供になってしまったわけだ。<br>そして、何とか手柄を立てて犬懸家を復興させようと、家運を両上杉氏に賭けて、憲秋は戦いに臨んだ。享徳4年(1455年)1月、鎌倉公方・足利成氏勢と両上杉勢は、府中の分倍河原から東京都昭島市拝島辺りで戦った。この戦い(第1次立河原の戦い)で、憲秋は両上杉氏側の先鋒を務めるが、敗れてしまい、高幡城で自刃した。なお、第2次立河原の戦いが今回のテーマ「立河原の戦い」である。</p>
<p>なぜ私はこの人物のことを書いているか、その理由を記してみたいと思う。<br> 私は以前、坂田祐樹氏の 『<a>関東公方成氏</a><img>』という小説を読んだことがあり、その中で上杉憲秋が出てくる。 <br>その小説の中で、彼は自分の運命を恨み、ニヒルな笑いを浮かべながらも社会的に生き返る機会を探しながら生きている。その姿がなぜか私には印象的だった。そして、今回、伊東さんの小説をテーマに高幡城をまわることになり、高幡城について調べていると、彼がここで自害したことを見つけ、何か思うところがあり、こうして記してみたわけである。 <br>おそらく、坂田さんの小説を読んでいなかったら、彼のことをこうして書くこともなかっただろう。そう考えると、歴史小説は過去と現在を結ぶ機能があることに気付く。たとえ回想する人が少数であっても、500年後に回想される人物はそうは多くないだろう。<br>むろん、その回想が実際の彼にどれだけ即しているかを確かめるすべはないのだが。 そして、もう1つ歴史小説が持つ面白い機能は、一度人物のイメージが形成されると、そのキャラクターに親しみを覚えることだと思う。親しみを覚えたこそ、私はこうして彼について記しているわけだ。</p>
<p>遠い昔のこととはいえ、一人の男が時代に翻弄されながらも、活路を求めて生きて、戦って、敗れ、自害したその場所にいると何かしらの思いが湧いてこざるを得ない。</p>
<h2>関戸城</h2>
<p>さて、高幡不動を出て、川崎街道を東に進み、次は枡形山城を目指す。 <br>右手に多摩丘陵を見ながら、所々、上り坂はあるものの、基本的になだらかな下り坂を走っているので、想定通り、快適に走れる。 <br>府中から見て多摩川の対岸にある関戸には、11時過ぎに着いた。<br> 今回のテーマには関係ないが、この辺りにはかつて関戸城という城があった。関戸城は、高幡城と同じく、多摩丘陵の北端にある山城で、城の右側を鎌倉街道上道が通っている要衝である。中世の府中はとても栄えていた土地で、府中の対岸にある関戸には宿があり栄えていた。また、その重要性ゆえに鎌倉の攻防をめぐって、何度も大きな戦いがあった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>2010年9月撮影 <br>自転車で走っていて、偶然見つけた標柱。1333年に新田義貞が分倍河原と関戸で鎌倉幕府軍と戦って勝利し、その数日後に鎌倉を陥落させている。つまり、この地を制して、はじめて鎌倉への道が開かれるのである。</em></div>
<div> </div>
<p>事前に調べたところ、関戸城には遺構は残っていないものの、天守台の標柱があるとのことだったので、それを探すことにした。天守台がある場所というのは、一番高いところか、それに準ずるところと相場は決まっているので、それらしい場所を目指して、丘陵を登っていく。<br> 大体、この辺りだろうという勘が働いたので、その辺を歩いていると、地元の人と思しき年配の女性が歩いてきた。もしかしたら標柱のことをご存知かもしれないと思い、聞いてみることにした。</p>
<p>「あのー、すいません」 <br>「あ、はい」 <br>「この辺に昔、関戸城があって、その案内板みたいなものがこのあたりにあると思うんですが、ご存じないでしょうか。」 <br>「ええと、ごめんなさい。知らないわ。」</p>
<p>そんなやりとりをしていると、細い道にタクシーが入ってくる。私は急いで自転車を道路の横によける。そのタクシーは5mほど先に進んだところで止まった。</p>
<p>「ここは桜ヶ丘1丁目で、関戸はもっと東だから、そっちにあるんじゃないかしら」<br>「なるほど、そうなんですか。どうもありがとうございました。」<br> 私は関戸城が桜ヶ丘1丁目にあることを資料で知っていたが、親切に教えてくれた人に言い返すのも何だと思い、その場を去ろうとした。すると、後ろから声がする。 <br>「あのー」<br> 私が振り返ると、 <br>「タクシーの運転手さんに聞いてみたらどうかしら。ご存知かもしれませんよ。」 <br>なるほど、それは一理ある。<br> 私はお礼を言って、タクシーに向かった。</p>
<p>タクシーに向かうと、どうもタクシーの運転手さんはお疲れのようで、何だか話しかけずらい雰囲気だった。そこで、「まあいいか、どうせ標柱はこの近くにあるはずだ」と思って、再び探し始めました。すると、その場所からすぐのところに標柱が見つかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ついに見つけた「天守台」標柱。自分の推理が当たった時は素直に嬉しいものである。 <br>多摩川方面への写真を撮ろうと思ったが、この付近(桜ヶ丘1丁目)は所狭しと住宅が立ち並び、よい写真は撮れなかった。しかし、住宅の隙間からは北、東、南に視野が得られることが分かった。</em>
</div>
<div> </div>
<p>私が尋ねた女性がなぜすぐそこにある標柱を知らなかったのか分からないが、やはり近所であっても関心がないと知らないものなのかもしれない。というのも、私は大学生の頃、今回の目的地の1つである枡形山城の近くに住んでいたが、枡形山城の存在を知なかった。近年、中世関東史を調べていて、はじめて枡形山城の存在に気付いたのである。</p>
<p>関戸城を出た頃には、昼前になっていたので、多摩川を渡り、府中方面へ行き、中華料理屋で昼食をとった。 <br>昼食後、私は本日最後の目的地である枡形山城に向かって走り始めた。</p>
<h2>iPhone4の携帯式充電池</h2>
<p>私は「EveryTrail」という、GPSを使って自転車で走ったところを記録して、地図に書き込んでくれるソフトを使っている(*)。 <br>このソフトは便利だが、電池の消費がすさまじく、2時間半ほど使った結果、残りの電池残量が50%を切っていた。ただ、これはこのソフトの問題というより、GPSを使った同種のソフトでも同じように消費する。あらかじめ分かっていた問題だったので、私は事前にサンヨーの携帯式充電池(KBC-L2AS )を買っておいた。</p>
<p><em>(*)2010年当時の話。当時は歴史めぐりにこういうツールを使うのは先進的な試みだった。</em></p>
<p></p>
<p>装着するとこんな感じになる。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月 </em><br><em>自転車ホルダーにiPhone4を装着し、さらに携帯式充電池をiPhone4に接続した写真。バッグの中に、携帯式充電池が入っており、白いケーブルを通して、iPhoneと接続されている。iPhoneアプリの「EveryTrail」を使いながら充電できる。</em>
</div>
<div> </div>
<h2>乞田川の上り坂</h2>
<p>さて、電池の心配もなくなったので、午後の部、出発。 <br>多摩川を再び南側に渡って、川崎街道を東進する。乞田川(こったがわ)を渡るあたりから、上り坂が続く。昼食をとったばかりで元気だったので、最初は颯爽と駆け上がっていったが、走っても走っても終わらないので、ついに自転車を押して歩くことにした。あとで、乞田川にかかる橋から坂がおわる連光寺坂上辺りまで距離を測ってみると、1km強あった。長いはずである。</p>
<h2>懐かしの向ヶ丘公園駅</h2>
<p>その分、下り坂は気持ちよく走ることができた。 <br>その後も、基本的に下り坂なので快適だ。特に問題もなく、稲城市を通って、川崎市多摩区に入る。そして、14時ごろ、懐かしの向ヶ丘遊園駅に着いた。私は大学生の頃にこの周辺に住んでおり、向ヶ丘遊園駅にもよく来た。駅は改装されたようで、きれいになっていた。並んでいる店も結構変わっていたが、街の構造自体に変化はないようだ。</p>
<h2>枡形山城へ</h2>
<p>さて、今回は感傷に浸りに来たわけではないので、気を取り直して、枡形山城に向かう。 <br>枡形山城は、直線距離で向ヶ丘遊園の南700mほどのところにある生田緑地の中にある。当城は、標高80m強、比高60m弱の山城で、多摩丘陵の北端にあり、多摩川方面の武蔵野台地を一望できる。そういう点では、高幡城や関戸城と似ている。</p>
<p>永正元年(1504年)の立河原の戦いの時、北条早雲が先に当城に着き、数日後の9月20日に今川氏親が到着して、合流した。その様子が伊東潤 『疾き雲のごとく 』の第5話「稀なる人」でも書かれている。そして、その後、早雲と氏親は9月27日の立河原の戦いを迎えた。</p>
<p>枡形山城跡を目指して山を登っていくと、緑が豊かで改めて良いところだと思った。大学時代、一度も訪れたことがなかったのは惜しいことだ。 <br>山頂に着くと、子供連れの親子が結構たくさんいる。子供が大声で叫びながら、遊んでいる。山頂はそれなりの広さがあり、公園になっている。遊ぶ環境もあり、当然クルマも走っていないため、親にとっては安心して遊ばせることができるスポットなのだろう。</p>
<h2>iPhone4の逆光問題</h2>
<p>曲輪の北端には、結構大きな望楼が建っていて、そこから四方を遠望することができる。 <br>早速、iPhone4で写真を撮ってみた。すると、逆光のためか、写りがよくない。そこで、Panasonic製のデジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で撮ってみると、かなり違いがあった。高幡城でも少し気にはなっていたが、やはりそうだったのかという感じだ。「iPhone4があるので、デジカメは必要なし」というわけにはいかず、当面、併用することになりそうである。 <br>まあ、写真を編集すればある程度は何とかなるが、数が数だけにできるだけ、そのまま使いたいものだ。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>iPhone4で撮影した枡形山城からの写真。</em>
</div>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>Panasonic製デジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で、ほぼ同じ場所と時間から撮った写真。ただし、逆光ではないところで撮ると、それほど変わらない。さすがにPanasonicのデジカメはカメラ専用機器だけあって、対応できる状況の幅が広いのだろうか。</em>
</div>
<div> </div>
<p>城の周辺を少し散策したあと、向ヶ丘遊園駅に戻り、この日の歴史サイクリングを終えた。</p>
<h2>おまけ: 寿桂尼の生涯</h2>
<p>「稀なる人」の最後のほうで、今川氏親が藤原北家カ勧修寺流中御門家の娘を妻に迎える話が出てくるが、この女性こそ、後に寿桂尼と呼ばれる人で、今川氏親の正室であり、今川義元の母である。</p>
<p>氏親が晩年、病気で政務をとれなくなると、氏親を補佐した。氏親の死後も、陰に日向に今川家を支え続けた。今川義元が当主になると、今川家の全盛期を迎えた。しかし、義元は、永禄3年(1560年)、尾張攻略の途中に桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られてしまう。 <br>その後、今川義元の子(寿桂尼の孫)、氏真が当主となるが、今川家の衰退がはじまり、永禄11年(1568年)武田信玄の駿河侵攻の数ヶ月前に寿桂尼は死去した。</p>
<p>彼女は1505年頃に今川家に嫁いでいるので、晩年の早雲を知っていたはずであり、織田信長のために、頼りになる実子の義元を失い、武田信玄によって、今川家が実質的に滅ぼされる直前まで生きたことになる。 <br>このように、寿桂尼の生涯を追っていくことで、戦国初期(代表的人物:早雲)から中期(代表的人物:信玄)、そして、後期(代表的人物:信長)のはじまりまでを見ていくことができる。</p>
<p>分かりきったことではあるが、寿桂尼の人生を通して、戦国時代とは何とも厳しい時代であったと改めて思うのである。</p>
<p>(終)</p>
<p><em>* なお、マップの位置は今回の歴史サイクリングの範囲を大体示すために設定した。合戦がそこであったという意味ではないので、ご注意を。</em></p>

立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

立河原の戦い フィールドをゆく 北条早雲 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー

【小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー】<h2>今回の歴史サイクリングの要約</h2>
<p>2010年9月26日、私は小田原城周辺で歴史サイクリングをしてきた。今回のテーマは、伊東潤 『疾き雲のごとく』の第4話「箱根山の守護神」関連の土地を巡ることである。 <br>この話は、北条早雲以前に小田原と御殿場付近に勢力を張っていた大森氏の興亡の物語で、早雲の立場から見ると、小田原城攻略戦であった。 <br>物語の舞台は箱根と小田原だが、箱根と小田原を1日で巡るのはきついので、今回は小田原周辺に絞った。</p>
<p>コースとしては、電車で国府津駅に行き、その後、自転車で、小田原城→岩原城→松田城→国府津駅という流れである。</p>
<h2>出発</h2>
<p>自宅を発して、小田原の東の入り口にあたる国府津駅まで電車で移動するため、東京駅に向かう。東京駅に着いたのは8時前だった。そして、東京駅から電車に乗ること約1時間15分程度で、国府津駅に到着した。 <br>駅の外で、折りたたみ自転車を組み立て、準備OKの状態になったのが9時半。これから小田原城に向かう。</p>
<h2>国道1号線を西へ</h2>
<p>国府津駅の南には、国道1号線が通っており、小田原城付近まで行くことができる。自転車で走り始めると、早速、ロードレーサーに乗った人たちがビュンビュン走っている。私はいつも通り、時速20km程度でトロトロ走っていく。 <br>さすがに自転車ライダーが多数走っているだけのことはあり、風光明媚なところで、左には相模湾、右手には丹沢山地の山々が連なり、正面には箱根の山が鎮座している。 <br>今回は単なるサイクリングであっても十分楽しめそうだ。</p>
<h2>酒匂川</h2>
<p>さて、国道1号線を西に向かって走っていると、小田原一の大河である酒匂川が見えてくる。 <br>いつも新幹線から見ている川だが、実際に見ると随分印象が違う。また、地図で見て想像していたよりも、川幅は広く感じた。 <br>当日の少し前に雨が降ったようで、川の水は随分濁っていた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川。思ったより、河口部は広かった。</em>
</div>
<h2>山王川</h2>
<p>しばらく進むと、山王川が流れている。 <br>北条氏は、豊臣秀吉による関東侵攻に備えて、小田原城を大拡張したが、その時の外郭の東端が山王川だった(西端が早川)。小田原城の外郭(総構(そうがまえ)ともいう)は約12kmにもなり、小田原の城下町をすっぽりと囲んでいた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2012年10月撮影 </em><br><em>小田原城外郭の東端を形成していた山王川。</em>
</div>
<div> </div>
<p>海がある土地に来たわけだから、やはり、砂浜に行こうということで、御幸が浜という小田原城の南にある浜に行き、相模湾を拝んできた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2012年10月</em><br><em>小田原城南にある御幸の浜。相模湾が広がる。</em>
</div>
<h2>小田原城に到着</h2>
<p>その後、小田原城に行き、城内を見てまわることにした。 <br>城内に入ると、江戸時代の小田原城を再現するプロジェクトが進んでいるそうで、銅門(あかがねもん)や馬出門枡形などが復元されていた。さらに進んでいくと、本丸に着く。そして、本丸には立派な復興天守が建てられている(本丸の域内になぜか猿が飼育されていた。子供に人気があったので、猿たちは子供寄せ「パンダ」なのだろうか)。</p>
<p>天守閣の中に入ると、小田原城の歴史紹介や小田原ゆかりの展示品がなされており、なかなか見応えたがあった。そして、最上階は展望スペースになっており、四方を遠望できる。<br> 本当に眺めの良いところで、相模湾はむろんのこと、豊臣秀吉が築いた石垣山城のあった山も見ることができる。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>2012年2月撮影<br>小田原城の天守閣。天守閣の中は資料館になっていている。最上階は展望スペースになっており、よい眺めだった。</em></div>
<p><img></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから三浦半島をのぞむ。</em>
</div>
<div> </div>
<p><img></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから丹沢山地方面をのぞむ。</em>
</div>
<div> </div>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月 </em><br><em>北条早雲や早雲に敗れた大森氏時代の小田原城は、現在の小田原城の北にある八幡山古郭にあったと言われている。遅くとも、後北条氏3代当主の北条氏康の頃には、現在の小田原城にも城域が拡大されたという。そして、江戸時代になると、八幡山古郭のほうは放棄され、現在の小田原城が中心となった。 <br>なお、「箱根山の守護神」の中で出てくる「華岳城」というのが、八幡山古郭にあった小田原城を意味している。</em>
</div>
<div> </div>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月 </em><br><em>小田原城の展望スペースから石垣山一夜城があった石垣山をのぞむ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東に侵攻し、小田原城を包囲した、その時に、秀吉が築城したのが石垣山一夜城である。 <br>築城が終わり、石垣山一夜城を隠す木々を切ったため、小田原城から見ると、一夜で城ができたように見えた。ゆえに、石垣山「一夜城」と言われているそうだ。</em>
</div>
<div> </div>
<p>天守閣から降りてくると、12時半前になっていたので、昼食をとることにした。 <br>今回も「EveryTrail」(*)を使っているため、iPhone4の電池の消耗が激しい。昼食をとりながら充電しようと思い、バッグの中をさぐってみると、「あれ、携帯式充電池がない!」「これはしたり」、忘れてきたのだった。 <br>その時点で、電池残量は50%程度だったので、これは厳しいなと思いながら、何とか節電することで切り抜けようと決意した。 <br>この後、「EveryTrail」の記録が途切れ途切れになっているのは節電努力の跡である。多少、見づらいかもしれないが、勘弁してください。</p>
<p>昼食をとった後、小田原城の北側に向かった。というのは、現在の小田原城は、徳川時代の小田原城の位置にあり、今回のテーマである大森氏時代の小田原城はもう少し北にある丘陵にあったと言われているためだ。実際にその丘陵に登ってみると、小田原城のある地点よりも高所だということが分かる。 <br>伊東さんの本の「箱根山の守護神」で出てくる「華岳城」というのはこの辺りにあった城を意味している。<br><br>(*)iPhoneの地図アプリ。2010年当時使っていた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2013年1月撮影 </em><br><em>八幡山古郭東曲輪から小田原城をのぞむ。八幡山古郭の中でも、中心部はもう少し北側の高地にある。それでも、小田原城よりも、この曲輪のほうが高いところにある。</em>
</div>
<div> </div>
<p>華岳城のさらに北西に行くと、小峯御鐘ノ台に至る。 ここには、北条氏末期に構築されたという大きな堀や曲輪がかなりよい状態で現存している。ただ、蚊がやたら多く、かつ、しつこくて閉口した。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月 </em><br><em>八幡山古郭の北西にある御鐘ノ台の空堀。大規模な空堀であることが分かる。</em>
</div>
<div> </div>
<p>御鐘ノ台はなかなか興味深いところだった。 自転車をとめて、ぐるぐるめぐっている間に結構時間が経過していたようで、御鐘ノ台を出る頃には14時半になっていた。</p>
<h2>岩原城へ</h2>
<p>さて、次の目的地は岩原城である。 <br>岩原城は大森氏頼(寄栖庵)の隠居後の居城といわれ、舌状台地の上に築かれていた。 伊東さんの本の「箱根山の守護神」でも出てくる。この話の中で出てくる、寄栖庵の衣擦れの音が妙にリアルに感じた。</p>
<p>私は小田原城の御鐘ノ台を出て、東に向かった後、県道74号を北上した。 <br>所々、上り坂があったが、大したことはなかった。左側(西側)に台地を見つつ、順調に距離を伸ばした。 <br>30分ほど走ると、岩原城の近くに来たので、左折して、台地を登っていく。結構きつい坂で、自転車では登れないので、押して登る。 <br>台地の頂上に近づくにつれて、なぜここに城が築かれたのか分かるような気がした。足柄方面、秦野に通じる松田方面がよく見えるのである。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城から松田城方面(北東)をのぞむ。岩原城から松田方面を目視できるのが分かる。 <br>松田氏は、足柄方面から勢力を強めてくる大森氏に危機感を持っており、関係はよくなかった。やはり、対立勢力が目に見える範囲にいるというのは緊張感を高めたことだろう。のちに、松田氏は北条早雲を小田原に引き入れ、大森氏を討つことになる。</em>
</div>
<h2>岩原城の地勢</h2>
<p>また、小田原城から自転車で30分なので、小田原城から遠くはない(小田原城は見えなかったが、小田原方面は一部見える)。したがって、これら三方面で何かあれば、この城から対応することも容易だと思った。であればこそ、寄栖庵は隠居後の所在地にこの城を選んだのかもしれない。 <br>さらに進むと、岩原城への道標があった。それを辿っていくと、思ったより簡単に岩原城址は見つかった。 城址は民家の奥にあった。</p>
<p><img></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>微高地の上にある岩原城。この微高地の周りは畑と崖だった。</em>
</div>
<h2>「シロ」</h2>
<p>自転車をとめて、城址のほうへ歩いていくと、やや大型の白っぽい色の犬が激しく吠えてきた(ここでは仮にこの犬を「シロ」と呼んでおこう)。 <br>私はそれほど犬に恐怖心を持っていないので、多少、やかましいと思いながらもスルーできる。城址には岩原城の石碑と大森家のものと思われるお墓があった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城の標柱</em>
</div>
<h2>城址としての遺構はないが</h2>
<p>城址にはまったくといってよいほど遺構が残っていなかったが、台地上から見える景色が雄弁にこの城の存在意義を語っているようにも思える。</p>
<p>岩原城の案内板を読んだり、写真を撮ったりしている間も、ずっとシロは吠え続けていた。これほどしつこく吠えられたのは、実蒔原古戦場を訪れたとき以来である。</p>
<p>それほど不審な振る舞いをしているわけではないのに吠えられるのは心外だったが、最後のほうはよくこれだけ吠えられるものだと感心した。</p>
<p>ただ、私が帰る頃になると、さすがに疲れてきたようで、当初の勢いはなかった。そして、私が城から離れると、シロはすぐに吠えるのをやめた。なぜかシロのホッとした気持ちと自分の仕事をやり遂げた自負心が伝わってきたような気がした。</p>
<h2>松田城へ</h2>
<p>さて、シロと別れて、これから松田城に向かうわけであるが、すでにこの時点でiPhoneの電池の残量が30%程度になっている。最後までもってくれるのか、気になりながらの出発だ。 <br>松田城は秦野方面から足柄平野(小田原の平野)に入る入り口にあり、在地勢力である松田氏が支配していた。早雲が相模に進出するときも当初から協力したため、その後、大変優遇された。「箱根山の守護神」では松田城は出て来ないが(*)が、小田原を北のほうから眺めるとどう見えるのか知りたかったので、行ってみることにした。</p>
<div><em>(*)第5話「稀なる人」のP.176に「その隣が松田左衛門」とあるが、この「松田左衛門」が松田城付近に勢力を持っていた松田氏のこと。</em></div>
<h2>紙の地図とiPhoneのGPS機能の使いわけるコツ</h2>
<p>松田城がある山は目視できるので(実際には地図と風景を照らし合わせて「あの辺だろう」と当たりをつけているに過ぎないが)、それをランドマークにしつつ、適当に走りやすい道を走る。 <br>やはり、iPhoneのGPS機能があると、ほぼ道に迷うということはないので、その点では大変便利だ。ただ、画面が小さいので、表示できる情報に限りがある。そのため、私は折りたたみ用の神奈川県の地図を買って、大体の地形や地名を頭に入れた上で、iPhoneの詳細情報を見ることにしている。 <br>そうすると、全体像を把握した上で、詳細情報を活用できる。</p>
<h2>松田城の入り口</h2>
<p>松田城に近づくにつれ、空気も景色もよくなってきます。酒匂川を越えると、ここが神奈川県であることを忘れてしまうほど、ゆったりした雰囲気になる。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川から北方面を撮影。</em><br><em>(おそらく視界には入っていないが)北西に松田城がある。</em>
</div>
<div> </div>
<p>いいところだなと思いながら、松田城の入り口を探す。 <br>しばらく走っていると、松田城の入り口を示す案内板を見つけたので、右折して、山を登っていく。 東名高速道路の上にかかっている橋を渡ると、松田城の入り口があった。城の入り口に入ると、一瞬唖然とした。</p>
<p>まるで、ジャングルである。人が来ていないのがよく分かる。松田城入り口に入らずに直進すると、舗装された道があり、これが迂回路になっていそうだったが、敢えて、このまま進むことにした。むろん、自転車は城の入り口の草むらの中に置いていく。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ジャングルのような松田城入り口。最初は迂回することを考えたが、この先がどうなっているのか知りたい誘惑に抗することはできなかった。</em>
</div>
<div> </div>
<p>入り口には、咬まれると何時間か動けなくなりそうなサイズのクモが巣くっていた。クモの巣を顔面に喰らうのは勘弁して欲しいので、細い木の棒を前方に振り回して進む。 <br>ただ、案外、ジャングルは入り口だけで、その後は普通の山道だった(クモの巣は所どころあったが)。おそらく、松田城を訪れた人はこの入り口を見て驚き、怯んで舗装された道を迂回する行動をとるのではないかと思う(そして、それが正解だとも思う)。</p>
<h2>松田城付近からの眺め</h2>
<p>松田城への道を登って、案内板のあるポイントに着くと、素晴らしい眺望が広がっていた。まさに、これが見たいがために、ここへ来たのである。 <br>私の勝手な推測だが、松田氏は、代々、秦野との交通と目の前にある酒匂川の河川の流れを押さえていたのではないだろうか。その様子が目に浮かぶ。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城から足柄平野を一望できるのが分かる。</em><br><em>足柄平野の右側が小田原、左側が国府津、中央に酒匂川が流れている。</em><br><em>松田城は秦野からの入り口を押さえる位置にあるので、ここが足柄平野の要地であったのだろう。</em>
</div>
<h2>松田城のいま</h2>
<p>城域に入っていくと、中年の男性が草刈をしていた。お陰で歩きやすかった。 <br>かつての曲輪はみかん畑に変っていた。何だか懐かしい風景だった。城の遺構としては見るべきものはあまりなかったが、その眺めの良さを考えると来た甲斐があった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城の標柱</em>
</div>
<div> </div>
<h2>帰り道、雨が。。。</h2>
<p>松田城をあとにした時点で、16時半頃になっていた。 <br>小腹が空いたので、持参したバナナでも食べようかと思って、自転車を橋の上にあるちょっとしたスペースに寄せたとき、ポツリと雨が降ってきた。そして、時を同じくして周囲が急に暗くなってきた。</p>
<p>この日、小田原市の予報は夕方から雨だったので、ついに来るべきときが来たと思い、バナナを諦めて、自転車を漕ぎ始めた。目指すは本日の出発地点の国府津駅で、大体、距離は12km程度である。国府津駅まで戻れば、不完全ながら、足柄平野を一周したことになる。<br>だが、ドシャ降りの雨の中を走りたくないので、本降りになってきたら、御殿場線の最寄り駅に駆けこんで、電車で帰ることにする。 <br>なお、この時点で、iPhoneの電池残量は10%強しかなかったので、必要なときだけ、Google Mapsという地図ソフトで現在地を確認することにした。</p>
<h2>県道72号線を南下</h2>
<p>基本的には、距離的に最短であろう県道72号線を走ることにした。 <br>県道72号は足柄平野の東端を通っており、高地を走ることになる。ということは、坂がありそうだが、まあよかろうと思って走りはじめた。 <br>最初はポツリポツリの雨だったが、次第に強さを増し始めた。一時、電車を考えたが、そんなときに限って雨が緩やかになる。</p>
<p>上曽我辺りに来ると、結構、暗くなってきたので、ライトを点ける。<br>私の自転車はダイナモのライトなので、人力でライトが点灯する。したがって、上り坂ではライトを点けるための重みが加わる。上下を繰り返す道と強弱を繰り返す雨、そして、ダイナモライトの重みに閉口しながらも、下曽我まで来た。下曽我は曽我梅林で有名である。だが、残念ながら、この頃には夕闇が辺りを蔽って、梅の木のシルエットが見えるだけだった。</p>
<h2>滑りこみセーフか</h2>
<p>曽我梅林の辺りから国府津駅まで、あと3kmほどだ。 <br>あともう少しということで、雨の中を懸命に走った。そして、ついに国府津駅に着いた。</p>
<p>駅前で自転車をたたんで、国府津駅のホームで東京駅行きの電車を待つ。「やれやれ」と思いながら、コーンポタージュの缶ジュースを買って、イスに座って飲みはじめると(この日は結構寒かった)、ザーと雨が降ってきた。危ないところだった。</p>
<p>(終)</p>

小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

小田原城 疾き雲のごとく フィールドをゆく 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー 神奈川県 小田原市

【さった峠の試練】<h2>静岡市街地を抜け、東海道を東へ</h2>
<p>安倍川餅を食べた後(「<a>安部川餅の誤算</a>」参照)、私は、八幡山、三保の松原、梅蔭禅寺を訪れ、静岡市街に別れを告げ、東海道を東に向かった。</p>
<p>そして、興津川を渡って、さった峠(薩蝓オ峠)の手前に来たときは、16時頃になっていた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>興津川にかかる橋からさった山をのぞむ</em>
</div>
<div> </div>
<h2>さった峠を目指すことに</h2>
<p>国道1号線を走ると、すぐに通り抜けることができるのだが、あえて峠を越すことにした。 <br>というのは、この地は以前から気になる土地であり、機会があれば、行ってみたいと思っていた。</p>
<p>その理由は、近代以前、この峠は旅人にとって、通り抜けるのが厳しい難所であったこと、また、中世に2度大きな戦いがあり、古戦場でもある(*)こと。 <br>そして、司馬遼太郎 『箱根の坂』では、北条早雲が関東に行こうとしたところ、さった峠で盗賊に身包みを剥がされてしまい、これを機に北川殿(物語の中では、早雲の妹、史実では姉とされている)と浅間神社で再会する。これが早雲と駿河の強力な縁となる。その転換点として、さった峠が書かれていた。 <br>以上の点から、さった峠に興味を持っていたのである。</p>
<div><em>(*)南北朝の戦乱(観応の擾乱)では、1351年に足利尊氏の軍と足利直義(尊氏の弟)の軍が戦っている。 また、戦国時代には、1569年12月に武田信玄が駿河に侵攻したとき、信玄は今川氏真の軍をこの地で破った。その後、信玄は、今川勢の救援に来た後北条氏の軍と対陣したが、結局、勝負はつかず、信玄は興津川沿いに撤退した。</em></div>
<h2>警戒と郷土の誇り</h2>
<p>さて、さった峠を目指して、走り出した私は現地の案内板に沿って進んだ。しばらくすると、小さい子供が3人ほど遊んでおり、その傍には子供の母親と思しき若い女性が2人と年配の女性が2人ほどいて、おしゃべりをしていた。 <br>果たして自転車でさった峠を越せるのか、私は知らなかったので、奥様方に尋ねることにした。</p>
<p>「あのー、すみません。」 <br>少し不審さと恐れが混じった複雑な顔で私を見る。ブラブラしている男を警戒する、これが母性本能というものだろうか。 <br>「この自転車で、さった峠を越そうと思っているんですが、大丈夫でしょうか。」 <br>奥さんたちの顔が、パッと無邪気で明るい表情に変わる。危険な人間ではないことを確認した安堵と郷土の誇りをくすぐられた満足感からだろうか、表情が一変した。人間というのは、一瞬でよくもこれほど見事に顔の印象が変わるものだと私は感心した。</p>
<p>奥さんたちはしばし顔を見合わせて、 <br>「自転車で?」「どうだろう?」 という感じで、相談し始めた。<br>どうやら、こういう問いを尋ねられたことはないようだ。 <br>しばし相談したあと、年配の女性が 「大丈夫よ。若いんだから!」 ということで、結論が出たようだ。 <br>「そうですか。大丈夫ですかね。」</p>
<p>少し不安を抱きながら、若いんだから大丈夫という根拠で、私は峠を越すことになった。 <br>「この道を行けばいいんですか?」 <br>「そうそう。道沿いに行けば、分かると思うわよ。」 <br>「なるほど。ありがとうございました。」 <br>「じゃあ、がんばってね!」 <br>「はい、どうも。」 <br>ということで、道なりに進んだ。</p>
<h2>進む</h2>
<p>坂がきついところでは自転車を押して、平らなところでは自転車で走った。しばらくすると、急な坂があったので、自転車を押して登ると、行き止まりになっていた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>急な坂を登って、振り返って撮った写真</em>
</div>
<div> </div>
<h2>原付のにいさんは撤退</h2>
<p>先に着いていた原付バイクのにいさんが案内板を食い入るように見ていた。何か重要なことが書いてあるのか、それにどうやって上に行くんだろうと思って、しばし、ぼんやりしていた。どうやら、原付のにいさんは諦めたらしく、元の道を戻っていった。</p>
<p>案内板を見ると、この道は明暦元年(1655年)に拓かれ、中の道という名であるという。<br>この道の他に、あと2つ道があったそうだ。 参考にはなったが、舗装路がここで終わっているため、これ以上、進めそうにない。迂回路があるかどうか知りたいのだが、そういう情報は何もなかった。だから、原付のにいさんも案内板の前で考え込んでいたようだ。</p>
<h2>農作業をしている夫婦</h2>
<p>どうしようかと考えていると、道の左奥に農作業をしている中年の夫婦(推定)がいることに気付いた。自転車を脇に置いて、彼らにさった峠に至る道を聞くことにした。</p>
<p>「あ、どうも、お仕事中すいません。」 <br>奥さんが顔をあげた。 <br>「あそこの自転車でここまで来たんですが、舗装路はここで終わってしまっているんですか。」 <br>「そうよ。」 <br>「自転車で峠を越したいんですが、自転車じゃ、無理ですかね。」<br> 奥さんは<br> 「お父さん!お父さん!」 <br>と旦那さんを呼んでくれた。</p>
<p>「なんだ」 <br>「自転車でさった峠に行きたいそうなんだけど、どうしたらいいかなあ。」 <br>「そうだな、ここはこれ以上行けないから、一旦戻って、迂回したらいいんじゃないか。」<br>「ええとね、この坂を下りて、右に行って・・・」 <br>と説明してくれるのだが、何せ不案内の土地なのでよく分からない。</p>
<p>弱ったなと思いながら、適当に相槌を打っていると、奥さんが 「それじゃ、分かりにくいわよ。自転車を持って、このまま行ったほうが早いじゃないの。」 <br>道は階段状に整備されているので、自転車を転がすことはできない。したがって、自転車を抱えて運ぶしかないのである。 <br>しばらく、夫婦で話が続いたが、どうやら奥さんのほうが気力が充実し、迫力があって、旦那さんを圧倒しつつあった。そして、ついに旦那さんは折れ、私は自転車を抱えて、中の道を進むことになった。</p>
<h2>森をのぞむ</h2>
<p>道は途中で森に入るので、道がその後どういう状況になっているのか、現在地からはよく分からない。<br> 「あの階段はどれくらい続くんですか?」<br> 「そうね。少しあるけど、大丈夫よ。若いんだから!」<br> またそれかと思いつつ、 <br>「なるほど。そうですか。ずっと続くわけじゃないんですね。階段が終わったら、平らな道なんですか。」<br> 「そうよ、コンクリートじゃないけど、自転車でも通れるわよ。」<br> 「なるほど」 <br>私は意を決して、階段に進むことにした。 <br>「どうもお邪魔して、すみませんでした。それじゃ、行ってきます。」 <br>「がんばってね!」 <br>ご夫婦に見送ってもらい、私は階段に向かった。</p>
<h2>きつい。。。</h2>
<p>階段の前まで自転車を押していった後、私は自転車を抱えて、階段を登り始めた。<br>はじめはあまり重さが気にならなかったが、しばらくすると、やはり重い。 <br>自転車の本体が13kg強あり、プラスパソコン入りの荷物もあるので、重量はおそらく18kgほどだろうと思う。梅雨時期ということもあり、水は2リットル入りのペットボトルをを買っており、まだ、なみなみと残っている。 <br>また、断続的に続く雨の影響で、足元が緩く歩きづらいことに加えて、(おそらく)梅の実が落ちて、滑りやすい枯葉とブレンドされている。その腐敗した甘く微妙なにおいが辺りにたち込めて、私の呼吸を苦しめた。 <br>若いから大丈夫というのは、やはり若者の体力がないと無理な道だったんだとはっきり体で悟りながらも、とにかく今は登りきる以外に道はない。手が痺れる。自転車を右手から左手に持ち替えるが、すぐにきつくなってくる。一度自転車を地面に置くと、もう持ち上げられない気がした。出口はまだか。私は暗い森の中を力を尽くして歩いた。</p>
<h2>駿河湾</h2>
<p>ようやく階段が終った時には汗だく状態だった。自転車を置き、視線を上げると、目の前に駿河湾が広がっていた。いい眺めだ。息を弾ませながら、この苦役は報われたと思った。やはり、海というのは広大でいいものだ。何というか、息がスッーと通るのである。</p>
<p><img></p>
<div>
<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>さった峠の石碑の辺りから駿河湾をのぞむ</em>
</div>
<div> </div>
<h2>広重の「絵」</h2>
<p>しばらく、道なりに歩いていくと、何か見たことのある風景であることに気付いた。そう、歌川広重の東海道五十三次でお馴染みの風景である。そこには、さった峠の石碑や案内板が立っていた。同じところに、長いすがあったので、座って一休みすることにした。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>2010年6月28日撮影</em></div>
<div><em>さった峠の石碑</em></div>
<div> </div>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年6月28日撮影</em> <br>さった峠の石碑の場所からもう少し進むと、木製の展望台があり、歌川広重が描いたお馴染みの風景が広がる。そこで、さった峠から富士山をのぞむことができる。が、梅雨時期ということもあってか、残念ながら、富士山を拝むことはできなかった。</div>
<div> </div>
<h2>旅人や志士たちも歩いた道</h2>
<p>この道は江戸初期に開通したので、坂本龍馬や西郷隆盛といった明治維新の志士たちも通ったことだろう。 <br>また、中世の二度のいくさのこと、そして、早雲が盗賊に襲われ、身包み剥がされて、さった山をトボトボと興津方面に下りていく様子といった幻影を心で描きながら、ぼんやりしていた。</p>
<h2>結論</h2>
<p>その後、さらに道なりに進むと、問題なく迂回路からの合流地点に出て、さらに行くと由比に至った。</p>
<p>ということなので、もし皆さんが自転車でさった峠の中の道に来るときは、由比(東京方面)から来たほうがよいだろう。そして、石碑を見たら、引き返して、迂回路か国道を通るのである。決して、(特に梅雨時期に)階段に挑んだりしないようにしていただきたい。思い出作りに敢えて通りたいという人を私は止めはしないが。。。</p>
<p>(終)</p>

さった峠の試練

作成日:2014/6/23 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

さった峠 フィールドをゆく

織田信長 のノート

本圀寺跡の石碑。1568年、織田信長の後ろ盾を得て、上洛を果たした足利義昭は本圀寺(日蓮宗)に入った。しかし、翌年、京都を追われた三好三…
勝幡城。中世の尾張で水運と商業の拠点として栄えた津島の北東3kmにある。織田信長が誕生した城で、一時、信長の父、織田信秀の居城でもあった…
織田信長の父、織田信秀の年表。1510年頃、清須織田家の三奉行の1つ、織田弾正忠信定の子として誕生。1533年、飛鳥井雅綱と山科時継が勝…
古渡城(ふるわたり)1534年、織田信秀が古渡城を築城。1546年、織田信長が古渡城で元服。1548年、織田信秀が末森城を築城し、古渡城…
【京都御所】1569年、織田信長が擁立した足利義昭の御所として建てた二条御所(旧二条城)の石垣。烏丸線建設時に発掘された石垣を復元したと…
【躑躅ヶ崎館】西曲輪、南側の土塁。確かに土塁は高いが、武田信玄最盛期の頃、100万石の大名の居城とは思えないものだった。おそらく、信玄は…
【本圀寺】1569年、織田信長の後ろ盾を得て、上洛を果たした足利義昭は本圀寺に入った。しかし、京都を追われた三好三人衆は反撃に転じて、本…
早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜

北条早雲 のノート

韮山城の本丸から守山をのぞむ。 守山は写真中央奥の濃い緑の丘陵。守山の背後(西)には狩野川が北流し、手前(東)には下田街道が通って…
大徳寺の総門。大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、京都の紫野にある。大徳寺に在籍した僧として、一休宗純や沢庵が有名。また、大仙院庭園は、東…
願成就院がある韮山の平野は、平安末期、鎌倉北条氏の地盤で、北条時政が願成就院の開基。願成就院は盛衰を重ねな室町時代の1493年、北条早雲…
延命寺。戦国初期の1513年、東進を続ける北条早雲に対し、三浦道寸は岡崎城、鎌倉で戦ったが、敗北。三浦半島南部の新井城に落ちた。早雲勢を…
住吉城。戦国初期の1513年、東進を続ける北条早雲に対し、三浦道寸は岡崎城、鎌倉で戦ったが、敗北。三浦半島南部の新井城に落ちた。早雲勢を…
小田原城本丸の天守閣。北条早雲時代の小田原城主郭は小田原城本丸の北側の八幡山古郭と言われている。八幡山古郭の方が本丸よりも標高が高いので…
新井城の主郭を囲む高い土塁。小田原城を押さえた北条早雲は、三浦道寸率いる三浦勢を破って、さらに東進を続け、ついに、ここ新井城に押し込めた…
高越城跡。近年の研究で、高越城のある備中荏原荘は北条早雲の出身地とされている。・井原市観光協会http://www.ibarakanko…
狩野城。伊豆の国人、狩野一族の本拠地。北条早雲が伊豆に討ち入った際、狩野氏は、堀越公方の足利茶々丸の与党だったため、早雲と敵対した。茶々…
深根城。下田城から8kmほど北方、稲生沢川の南側にある。1498年、北条早雲は、敵対していた堀越公方・足利茶々丸の支持基盤たる南伊豆制圧…

武田信虎 のノート

北条早雲と武田信虎は同時代人
若き武田信虎による甲府盆地統一戦の絵地図。 昭和インター辺りから竜王の信玄堤→椿城(上野城)→富田城を歴史サイクリングしたが、黄色の太…
武田信虎と戦った大井信達の居城、椿城。その椿城に向う台地から甲府盆地をのぞむ。 街がずいぶん小さく見える。
武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡
釜無川にかかる橋の上から雲間の光をのぞむ。本物は遥かによかった。 武田信虎や武田信玄も同じような空を見ただろう。
「飯田河原古戦場慰霊碑」付近から荒川左岸を撮影。 1521年、福島正成率いる駿河勢は1万5千ともいう大軍で甲斐に侵入したため、武田信虎…
躑躅ヶ崎館付近の絵地図
飯田河原合戦と上条河原合戦の絵地図
なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー
その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー

ノートのタグ一覧

金沢城 神泉苑 平安京 祇園御霊会 祇園祭 法成橋 善女竜王社 歴史地図 石垣刻印 江戸城撮影ポイント 縄張図 足利義政 下総千葉氏 応仁の乱 山吹伝説 本佐倉城 谷中湖 東日本大震災 震災シミュレーション小説 長尾景春の乱 臨済寺 北川殿 安倍川餅 絵地図 さった峠 七沢城 小田原城 疾き雲のごとく 鎌倉街道上道 立河原の戦い EOS-6D 赤浜の渡し 飯田河原合戦 上条河原合戦 高見原合戦 杉山城 鎌倉歴史散歩 五十子陣 狩野城 柏久保城 大塚遺跡 環濠集落 上杉定正 上杉顕定 長享の乱 一眼レフカメラ SX280HS 歴史小説 世界史古代 淀古城 鳥羽・伏見の戦い 仁徳天皇陵 古墳 小西行長 鉄砲鍛冶 ナポレオン・ボナパルト 鎌倉 伊東玄朴 織田信長 軍師官兵衛 山崎の戦い 明治天皇 幕末 近藤勇 フィールドをゆく 天守台 カメラ 箕輪城 動画 ペリー来航 三浦道寸 歴史番組 淀殿 淀城 武田信虎 英雄たちの選択 関ヶ原の戦い 歴史アプリ 江戸城 伊東潤 第三台場 番所 二の丸御殿唐門 古地図 二の丸御殿 問注所 式台 遠侍 二条城二の丸御殿 黒書院 蘇鉄の間 大広間 本丸櫓門 二条城本丸 二条城本丸御殿 和宮 孝明天皇 荒木村重 千利休 サスケハナ号 桃山門 下田港 二条城本丸西枡形 二条城三重櫓跡 二条城天守台 福岡城 お堀 恵林寺 川田館跡 曽根勝山城 大井信達 信玄堤 聖牛 椿城 富田城 飯田河原の戦い 上条河原の戦い 躑躅ヶ崎館 積翠寺 要害山城 二条城二の丸東南隅櫓 二条城西南隅櫓 二条城西門 二条城外堀 天守再建 ペリー艦隊来航記念碑 武田勝頼 人物記事 第六台場 影武者 ニュース 下田城伝天守台 志太ケ浦展望台 下田城 宝福寺 ハリス ヒュースケン 玉泉寺 明石海峡大橋 姫路城中ノ門跡 姫路城大手門 姫路城内濠 姫路城の鯱 姫路城上山里下段石垣 野面積み 姫路城天守・西の丸 姫路城菱の門 姫路城天守 姫路城百間廊下 狭間 空撮 二条城 下田 北条早雲 石切り場 NHK大河 ロケ地 発掘調査 吉田松陰 資料 幕末維新 豊臣秀吉 大坂城 太田道灌 ペリー 鎌倉七口 細川幽斎 姫路城 小田原戦役 ライブカメラ 井伊直弼 向島城 淀川 復元 巨椋池 伏見城 伊達政宗 品川台場 伏見城の戦い 写真 前田利家 国会図書館 人物相関図 伏見 桜田門外の変 坂本龍馬 石田三成 福島正則 寺田屋 豊臣秀頼 長崎海軍伝習所 高杉晋作 大塩平八郎の乱 徳川家康 小山評定 前田利長 大谷吉継 石垣原の戦い 黒田官兵衛 大友義統 京極高次 上田城の戦い 上田城 地図 ライトアップ 芹沢鴨 山南敬助 浦賀 田辺城 観光パンフレット 鷺山城 斎藤道三 斎藤義龍 美濃 長崎 岐阜城 大河ドラマ 長州藩 花燃ゆ 円空 大垣城 土方歳三 司馬遼太郎 戦国 日比谷濠 新選組 西本願寺 親鸞 渋谷 熊本地震 熊本城 勝海舟 河村瑞賢

ノートのタグ

ニュース 人物記事 動画
戦国 幕末維新

ノートまとめのタグ

江戸城 大坂城 竹田城
二条城 鎌倉 神奈川
東京 京都 静岡

歴史年表のタグ

源平 戦国 幕末維新
ギリシア・ローマ 大航海時代 ナポレオン
モンゴル 近代 近代日本

項目のカテゴリー

人物 出来事
ノート【更新順】
コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
江戸東京たてもの園を訪問
コルク社主催の伊東潤氏の第2回読者会に参加
もっと見る
ノートまとめ【更新順】
関ヶ原の戦いの動画
淀川の城
姫路城大天守の昼・夕暮れ・ライトアップ!
もっと見る
歴史年表【更新順】
花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
歴史家・歴史小説家とその時代
花燃ゆ第1回「人むすぶ妹」
もっと見る
特集
関ヶ原の戦い
幕末維新
文明論
北条早雲
人物【更新順】
子母澤寛
周布政之助
小田村伊之助
もっと見る
出来事【更新順】
パナマ文書の公表
熊本地震 (2016年)
斎藤道三、息子の斎藤義龍に討たれる(長良川の戦い)
もっと見る
世界史古代概論
世界史古代概略
ローマと前漢、不思議な成立の符合
古代の日本と西欧
戦国のはじまり
早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
お知らせ
特集ページを追加
検索ページを追加しました
ドメイン変更のお知らせ
もっと見る
Twitter logo blue 144 歴ウス
公式Twitterページ
Fb f logo  blue 144 歴ウス
公式Facebookページ
Youtube icon full color 144 歴ウス
公式YouTubeチャンネル