【環濠集落の大塚遺跡を見学】<h2>城郭史的観点で</h2>
<p>今まで関東の北条系の戦国の城を中心にまわってきたのだが、今年(2013年)の夏前から、鎌倉・室町の城として鎌倉、そして、近世の城として江戸城もまわりはじめた。狙いは、城郭史的に重要な形態の城の理解を深めるためだ。</p>
<p>城郭史の本を読んでいると、環濠集落にはまだ行っていないことに気づいた。城郭史的に見ると、環濠集落も立派な防御施設を持った城である。<br> そこで、その本に載っていた大塚遺跡(神奈川県)という弥生時代の環濠集落に行くことにした。</p>
<h2>出発</h2>
<p>13 時半頃、自宅を出発し、二子玉川駅まで自転車で移動し、そこからあざみ野駅まで田園都市線に乗った。この区間は丘陵が連続し(多摩丘陵の北側)、去年、こ の辺を自転車で走行して、結構辛かったため、電車を使った(昨年の今頃、調布の自宅から自転車で、大塚遺跡から近距離の茅ヶ崎城まで行ったことがある)。</p>
<p>あざみ野駅を出て、早渕川に沿って、大塚遺跡に向う。思っていたよりも暖かい。途中で、薄手のウィンドブレーカーを脱いだ。<br> 昨年も同じコースを走ったので、特に迷うこともなく、大塚遺跡に着いた。</p>
<h2>横浜市歴史博物館</h2>
<p>ちなみに、大塚遺跡のすぐ西には、<a>横浜市歴史博物館</a>がある。<br> 去年は、畠山重忠の特別展を見てきた。かなり大型の施設で、展示も充実していた。<br> この日はあまり時間もないので、見送った。</p>
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<p><em>帰りに撮った横浜市歴史博物館の写真。写真の外側で見えないが、左側にも建物があって、館内は広い。</em></p>
<h2>茅ヶ崎城</h2>
<p>大塚遺跡は、大塚・歳勝土遺跡公園内にある。大塚・歳勝土遺跡公園の南側から入るべく、移動していると、茅ヶ崎城が見えた。<br> 去年は、茅ヶ崎城から大塚遺跡の台地を見ていた。</p>
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<p><em>2012年11月撮影</em><br><em>茅ヶ崎城から大塚・歳勝土遺跡が見える。</em></p>
<p>茅ヶ崎城は、神奈川湊と府中を結ぶ街道沿いにあり、城の北側の東西の位置に街道が通っていたという。茅ヶ崎城は室町から戦国時代まで使われた。現在は、城址公園化されている。</p>
<h2>歳勝土(さいかちど)遺跡</h2>
<p>歳勝土遺跡は、方形周溝墓の遺跡。方形周溝墓とは、名前の通り、四角い墳墓で、墳墓の周りに溝が掘られている。歳勝土遺跡では、方形周溝墓が5基復元されている。本物の方形周溝墓は、復元された方形周溝墓の下にある。</p>
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<h2>大塚遺跡</h2>
<p>大塚遺跡は外周600mほどの環濠集落で、集落を巡る環濠、土塁、木柵、木橋、竪穴住居7棟、高床倉庫1棟などが復元されている。<br> なお、環濠集落としては、<a>吉野ヶ里遺跡</a>(佐賀県)が有名だ。</p>
<p>歳勝土遺跡から80mほどの所に、大塚遺跡はある。<br> 石碑の背景の木柵が、大塚遺跡の外周で、写真の右端から大塚遺跡に入る。<br> なお、写真中央の凹んだところに木橋が復元されている。</p>
<h2><a><img></a></h2>
<h2>大塚遺跡の入り口</h2>
<p>大塚遺跡の入り口まで来ると、「おおー」という感じだった。まさに、資料や映像などで見知った環濠集落がそこにある。</p>
<p>そういえば、復元された竪穴住居を今まで見たことがあったか、定かではない。それほど古代以前の遺跡というものに無関心だった。それも今日でおしまいである。</p>
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<h3>復元木橋</h3>
<p>歳勝土遺跡に通じる木橋。やや防御に不安を感じる。<br> まあ、堀の幅約4m、深さ約2mと書いてあったので、実際にはもっと堅牢だったのかもしれない。</p>
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<h3>竪穴住居の外観</h3>
<p>復元された竪穴住居。まだ、発掘調査が行われているようだ。</p>
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<p>南西隅の竪穴住居。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>竪穴住居の内部</h3>
<p>竪穴住居の内部。縦の骨組み(垂木、たるき)を構築して、横(桟、えりつ)で補強。そして、下からカヤで葺き上げて作るらしい。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>弥生式土器</h3>
<p>大塚遺跡の竪穴住居内にあった弥生式土器。<br> 室内は少しヒンヤリして湿気があり、どの竪穴住居にも蚊がいた。当時はカマドで火を炊いたりしていただろうから、おそらく、これほど湿気はなかったのではないか。どうなんだろうか。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>高床倉庫</h3>
<p>復元された高床倉庫。湿気から穀物などを守るため、床が高くなっている。また、ネズミを防ぐため、高床倉庫の足にはネズミ返しが付いている。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>土塁と堀</h3>
<p>戦国時代の土塁は、堀の土を内部に掻き上げて作るが、大塚遺跡では、外側に掻き上げたようだ。なぜこういう構造にしたのか分からないが、当時の状況では何らかの合理性があったのかもしれない。</p>
<p>なお、ここ(大塚遺跡の北側)が集落防衛の正面だったようで、ここから北側にもう一重の堀が発掘されている。</p>
<p><a><img></a></p>
<h2>見学を終えて</h2>
<p>竪穴住居、高床式倉庫、土塁と堀など、当時の復元を見ることで、かなりイメージが膨らんだ。<br> 吉野ヶ里遺跡の方が大規模で見応えもあるだろうが、何せ関東から見に行くには遠い。</p>
<p>なお、大塚遺跡は、入場料は無料。大塚遺跡は17時に閉まるので、ご注意を(大塚・歳勝土遺跡公園には、いつでも入れる)。<br> 横浜市営地下鉄センター北駅から大塚・歳勝土遺跡公園へは徒歩8分らしい。</p>
<p>*Wikipediaの<a>大塚・歳勝土遺跡</a>に多少まとまった情報が載っている。</p>
<h2>茅ヶ崎城再訪</h2>
<p>大塚遺跡見学のあと、せっかくなので、茅ヶ崎城に向かった。しかし、日没が早く、茅ヶ崎城に着いた頃にはほぼ真っ暗。<br> しかし、まあいいやと城内を歩いてみた。北郭で、犬の散歩に来たおじさんに会った他、誰もいない。<br> 公園化されているので、所々に外灯が立っていて、そこを歩く。</p>
<p>冷気を含んだ風が、木の枝々を揺らせている。</p>
<p>もう一度来ることはないかもしれない。<br> そんなことを思いながら、茅ヶ崎城をあとにした。</p>
<p><a><img></a></p>
<p>(終)</p>

環濠集落の大塚遺跡を見学

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

大塚遺跡 環濠集落 フィールドをゆく

【狩野城の月見曲輪】<h2>修善寺の要地、柏久保城</h2>
<p>その日、三島駅から修善寺駅へ行き、修善寺駅から柏久保城を訪問した。</p>
<p>明応2年(1493年)北条早雲は伊豆討ち入り、堀越公方・足利茶々丸のいる堀越御所を落とした。南下する早雲勢は、中伊豆の狩野勢と激突した。狩野氏は平安以来、中伊豆に蟠踞する勢力で、茶々丸に味方した。両者の衝突点が、現在の修善寺駅の東側の山城・柏久保城である。</p>
<p>柏久保城を狩野川沿いに南下すると、狩野城に至り、大見川沿いに東に行くと、大見城に至る。つまり、柏久保城は、2つの川の接結点にある要地だった。</p>
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<div><em>北条早雲の伊豆討ち入り後の中伊豆勢力図マップ(1493-98年)。青色の城が早雲与党の城で、赤色の城が茶々丸与党の城である。</em></div>
<p><br>早雲は柏久保城・北側の急斜面を襲って、この城を落としたらしい。<br> 柏久保城の北側には、「新九郎谷」の石碑が建っている。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>二の郭から主郭方面を撮影。お堂辺りから主郭。当時、北条早雲に敵対していた狩野氏の本拠地、狩野城が南方にあったため、南側(左側)の土塁がある。</em></p>
<p>なお、大見城の大見三人衆は、早雲に味方した。大見三人衆は、狩野勢に攻められている柏久保城を後詰し、狩野勢を撃退したとのこと。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>狩野川が北流し、右手にクッキリ富士山が見える。ここからすぐ上流(左手前方面)で、大見川が狩野川に合流している。</em></p>
<h2>狩野城へ向う</h2>
<p>その日の予定では、柏久保城の次は、狩野城に行く予定だった。<br> 柏久保城は、富士山が見え、遺構もよく残っていて、想像以上によい山城だったため、予定よりも長居してしまった。</p>
<p>もう正午なので、途中で、どこかの店に入り昼食をとろることにした。</p>
<h2>向かい風</h2>
<p>もう11月も下旬だというのに、この日は強い南風が吹いている。しかも、南の天城山が高地で、北の三島が低地のため、ずっと緩い坂道が続く。<br> 分かっていたことなので、頑張って自転車を漕ぐ。</p>
<p>しばらくすると、後ろに自転車の気配がする。<br> 振り向くと、白髪の男性がサイクリングウェアでマウンテンバイクで走っていた。<br> よくあることなので、特に気にはしない。</p>
<p>南風がきつい。ちょっとした坂がはじまり、スピードが落ちる。<br> すると、後ろの男性が並走し、声をかけてきた。</p>
<p>「こんにちは。」<br> 「どうも、こんにちはー」</p>
<p>「どちらから来られたんですか?」<br> 「ええと、東京からです。」</p>
<p>「どちらへ行かれるんですか?」<br> 「狩野城です。」<br> 「私も同じ方向です。」</p>
<p>そんなことを話していると、坂がきつくなってきた。<br> 私は坂道に対して、ストイックな人間ではないので、あっさり自転車を降りた。<br> 男性も降りた。</p>
<p>坂を登ったところで、また乗って、一緒に狩野城に向うことになった。</p>
<h2>自転車で歴史談義</h2>
<p>風さえなければ、どうという距離ではなかったが、強い南風のために、話しながら、狩野城にノロノロ向う。<br> よく晴れた空に左右から山が迫る。風景があまり変わらないので、進んでいる感じはあまりしない。</p>
<p>話を聞くと、サイクリングウェアの男性は、大見城近くに住み、最近、伊豆の史跡をいろいろ周っているとのこと。</p>
<p>「なぜ狩野城に行こうと思ったんですか?」<br> 「北条早雲のことを調べているんです。さっきは、柏久保城に行ってきました。」<br> 「へえ、よく前は通るんですが、まだ登ったことはないんですよ。」<br> 「そうなんですかー」</p>
<p>「最近の研究では、北条早雲はすぐに伊豆を平定したわけではなく、5、6年かかったと言われています。ご存知のように、狩野城は狩野氏の本拠地で、北条早雲と は敵対関係にありました。狩野勢が柏久保城まで寄せてきたのを、大見三人衆が駆けつけて、狩野勢を撃退したそうですよ。」<br> 「はー、そうでしたか~」</p>
<p>とこんな感じで、いろいろと話をしていると、ついに狩野城まで来てしまった。<br> 腹が空いてきた。が、話が尽きない。</p>
<p>狩野城の北側の谷を通り、東側に出て、坂道を登った。</p>
<h2>狩野城の入り口</h2>
<p>「ここが狩野城の入り口です。」<br> 「あ、どうもいろいろご親切にありがとうございました。」</p>
<p>そういって、私は茂みに自転車を停めた。</p>
<p>すると、男性は<br> 「ええと、ここを登って行くと、私の別邸があるんですが、お茶でもいかがですか?そこからちょっと行くと、狩野の殿様が月見をしたという場所がありますよ。」</p>
<p>狩野の殿様が月見をした場所か、なかなか興味深い話である。<br> 狩野城を訪問したら、あとは帰るだけ。</p>
<p>「ええ、そうですか。うーん。。。」<br> 「じゃあ、お邪魔してよろしいですか」<br> 「どうぞどうぞ」<br> ということで、歩いて、男性の別邸にご案内頂いた。</p>
<p>西へ坂道を歩くこと10分弱で、別邸に到着。<br> 柿とコーヒーを頂きながら、早雲や狩野城の話、裾野の葛山氏の話などをした。柿では腹が満たされないので、非常用に買っておいた6個入りのレーズンパンを出して食べた。男性にも1つ差し上げた。<br> 時計を見ると、1時間半ほど経っていた。そろそろということで、月見の場所(月見山)に案内して頂くことになった。</p>
<h2>狩野城の月見曲輪</h2>
<p>別邸から歩くこと3分程度で、山道に入り、落ち葉をシャリシャリ踏みながら進む。</p>
<p>都合7分程度で月見曲輪に着いた。月見曲輪は、山城の痩せ尾根を平場にした感じで、北側に突き出ていた。しかし、北側は木々が茂っていて、見通しはほとんどきかない。ここで月見をしたとすると、南側を正面に幕を張ったのだろうか。</p>
<p>伝承によると、狩野の殿様(狩野茂光)が源頼朝とここで月見をしたという。<br> 頼朝は狩野の殿様と何を語らったのだろうか。</p>
<p>月見曲輪の北西隅に「狩野介茂光公観月之跡」と刻まれた石碑があった。</p>
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<p><em>源頼朝が伊豆で挙兵した時に(1180年)、狩野茂光は頼朝に味方したが、石橋山の戦いで、平氏勢力に敗れて戦死した。</em></p>
<p>石碑の横に小さなお堂があるが、朽ちつつある。代々、このお堂を管理されていた家があったそうだ。<br> なぜ朽ちつつあるのか、伺った気がするが、忘れてしまった。</p>
<h2>再び、狩野城の入り口</h2>
<p>いろいろと親切にして頂いたサイクリングウェアの男性に狩野城の入り口まで送ってもらい、そこで別れた。</p>
<p>この男性と知り合うことがなければ、月見曲輪に行くことはなかっただろう。<br> そして、狩野の殿様と頼朝の月見を空想することもない。</p>
<p>一期一会の妙を噛み締めながら、私は狩野城に入っていった。</p>
<p>(終)</p>

狩野城の月見曲輪

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

狩野城 柏久保城 フィールドをゆく 北条早雲

【三郎とハチー五十子陣ー】<p>その日はよく晴れて、大地が乾燥していた。3年前(2010年)の4月下旬のことだ。<br> 鉢形城を出て、荒川を渡ったあと、北上し、五十子陣に向かった。</p>
<h3>五十子陣</h3>
<p>15世紀の半ば、鎌倉公方は関東管領の上杉氏と争った結果、古河公方は鎌倉を落ち、古河に移って古河公方となった(享徳の乱 1454-1482)。つまり、鎌倉公方と補佐役の関東管領という室町体制が崩壊し、関東は戦国時代に突入した。<br> その後、関東管領の上杉と古河公方の両陣営は利根川を挟んで対峙した。その上杉方の陣地が五十子陣だった。<br> 現在、16時前である。もう暑くはなく、日の勢いは衰えてきている。そろそろ五十子陣に近づいているはずだ。<br> それにしても広い。視界を遮る遮蔽物がほとんどない。正面に赤城山、左手に榛名山が霞んで見える。ここは武蔵(埼玉)だが、すぐ北は上野(群馬)だ。この大陸的な雰囲気の中を自転車で進む。しかし、秩父山地はその位置をなかなか変えようとしない。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年4月撮影<br>利根川南岸から赤城山(右側)と榛名山(左側)がうっすら見える。<br>広い。。<br></em></p>
<h3>iPhone以前</h3>
<p>この頃はiPhoneを持っていなかった。ということは、GPSから位置情報が得られない。そのため、紙の地図だけが頼りである。いや、もう1つ方法がある。それは人に聞くことだ。<br> しかし、見渡しても人はそうそう歩いていない。同じ武蔵でも南武蔵とは人口密度が違う。</p>
<p>GPSが使えないなら、どうやって、現在地を推測するのか。<br> 自分は地形(ランドマーク)と太陽の位置で大体の位置を知り、それを紙の地図から得た町名番地で補正していた。<br> この方法はたいていの地域で機能する。しかし、北関東のように、町の区分が広すぎると、苦しくなってくる。あと、日が暮れると、地形も太陽の位置も分からない。必然的に、現在地は闇の中となる。</p>
<p>いずれにしても、iPhone以前は現在地がどこなのか知ることは困難だったため、行動は非効率だった。しかし、分からないがゆえに、遠方の知らない土地にゆく時は、大いに興奮した。</p>
<h3>小学校に人がいた</h3>
<p>五十子陣の近くにはいるはずだ。そう思って、ウロウロしていると、小学校があった。止まって、場所を確認する。が、どの小学校か分からない。ここは広い武蔵の最北端。<br> 小学校の金網沿いに、小学生が何人かいる。その左に、柴犬を連れたおじさん(40歳過ぎぐらい)が小学生たちに向かって歩いてきた。<br> 柴犬が小学生たちに吠える、吠える、とにかく吠える。吠えることしか知らないかのようだ。この際、名前を「ハチ」と名付けよう。<br> おじさんは「うるせえっ」とハチを一喝するが、ハチは全く意に介さない。</p>
<p>まあ、ハチはやかましいが、小学生に聞くよりも、おじさんに聞いた方が良かろうと思い、おじさんに話しかけた。<br> 「すいません、この辺に行きたいんですが。」<br> 五十子陣って、どこですか?とは聞かない。経験的に、余程有名な史跡でないと地元の人は知らないことが多い。五十子陣はマニアックだ。中世関東史において、重要な土地だったのにも関わらず。</p>
<p>おじさんは目を細めて、「えーと、いまは○○小学校だから。。。」と私の地図を見ている。その間も、もちろん、ハチは吠えている。<br> 「うるせえっ」とまた叱るが、効果なし。おじさんはしばし無言でハチを睨んで、怒気を発する。その刹那、後方に跳んだっ!</p>
<p>一瞬何が起こったか分からなかったが、明らかに飛び蹴りだった。<br> だが、ハチは素早い身のこなしで、難なくかわし、「ニヤリ」と笑った。そして、満足した様子で、吠えるのをやめ、行儀よくお座りしている。</p>
<p>飼い犬に飛び蹴りを放つ人を、自分は今まで見たことがない。しかも、その後、おじさんは何事もなかったように数歩で戻ってきて、<br> 「えー、小学校がここだからこっちだね」と北西の方向を指差した。</p>
<p>この野性的な出来事を前に、このおじさんは「三郎」に見えてきた。三郎とは『男衾三郎絵巻』の三郎、つまり、中世武蔵の荒武者の姿である。</p>
<p>三郎とハチは、こんなことを毎日繰り返しているのかもしれない。<br> 南武蔵では、犬は従順で、おとなしいペットである。飼い主も優しく、いきなり飛び蹴りを繰り出したりしない。</p>
<p>三郎に弓矢や槍刀を渡したら、さぞかし、勇敢に違いない。<br> また、いざ鎌倉という時には、ハチは三郎のために、決死の働きをするだろう。たぶん。</p>
<p>脳内で大鎧姿となった三郎殿に礼を述べ、私は北西にあるという五十子陣を目指して、自転車を漕ぎはじめた。</p>
<p>(終)</p>

三郎とハチー五十子陣ー

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

五十子陣 フィールドをゆく