安倍川餅を食べた後(「安部川餅の誤算」参照)、私は、八幡山、三保の松原、梅蔭禅寺を訪れ、静岡市街に別れを告げ、東海道を東に向かった。
そして、興津川を渡って、さった峠(薩蝓オ峠)の手前に来たときは、16時頃になっていた。
国道1号線を走ると、すぐに通り抜けることができるのだが、あえて峠を越すことにした。
というのは、この地は以前から気になる土地であり、機会があれば、行ってみたいと思っていた。
その理由は、近代以前、この峠は旅人にとって、通り抜けるのが厳しい難所であったこと、また、中世に2度大きな戦いがあり、古戦場でもある(*)こと。
そして、司馬遼太郎 『箱根の坂』では、北条早雲が関東に行こうとしたところ、さった峠で盗賊に身包みを剥がされてしまい、これを機に北川殿(物語の中では、早雲の妹、史実では姉とされている)と浅間神社で再会する。これが早雲と駿河の強力な縁となる。その転換点として、さった峠が書かれていた。
以上の点から、さった峠に興味を持っていたのである。
さて、さった峠を目指して、走り出した私は現地の案内板に沿って進んだ。しばらくすると、小さい子供が3人ほど遊んでおり、その傍には子供の母親と思しき若い女性が2人と年配の女性が2人ほどいて、おしゃべりをしていた。
果たして自転車でさった峠を越せるのか、私は知らなかったので、奥様方に尋ねることにした。
「あのー、すみません。」
少し不審さと恐れが混じった複雑な顔で私を見る。ブラブラしている男を警戒する、これが母性本能というものだろうか。
「この自転車で、さった峠を越そうと思っているんですが、大丈夫でしょうか。」
奥さんたちの顔が、パッと無邪気で明るい表情に変わる。危険な人間ではないことを確認した安堵と郷土の誇りをくすぐられた満足感からだろうか、表情が一変した。人間というのは、一瞬でよくもこれほど見事に顔の印象が変わるものだと私は感心した。
奥さんたちはしばし顔を見合わせて、
「自転車で?」「どうだろう?」 という感じで、相談し始めた。
どうやら、こういう問いを尋ねられたことはないようだ。
しばし相談したあと、年配の女性が 「大丈夫よ。若いんだから!」 ということで、結論が出たようだ。
「そうですか。大丈夫ですかね。」
少し不安を抱きながら、若いんだから大丈夫という根拠で、私は峠を越すことになった。
「この道を行けばいいんですか?」
「そうそう。道沿いに行けば、分かると思うわよ。」
「なるほど。ありがとうございました。」
「じゃあ、がんばってね!」
「はい、どうも。」
ということで、道なりに進んだ。
坂がきついところでは自転車を押して、平らなところでは自転車で走った。しばらくすると、急な坂があったので、自転車を押して登ると、行き止まりになっていた。
先に着いていた原付バイクのにいさんが案内板を食い入るように見ていた。何か重要なことが書いてあるのか、それにどうやって上に行くんだろうと思って、しばし、ぼんやりしていた。どうやら、原付のにいさんは諦めたらしく、元の道を戻っていった。
案内板を見ると、この道は明暦元年(1655年)に拓かれ、中の道という名であるという。
この道の他に、あと2つ道があったそうだ。 参考にはなったが、舗装路がここで終わっているため、これ以上、進めそうにない。迂回路があるかどうか知りたいのだが、そういう情報は何もなかった。だから、原付のにいさんも案内板の前で考え込んでいたようだ。
どうしようかと考えていると、道の左奥に農作業をしている中年の夫婦(推定)がいることに気付いた。自転車を脇に置いて、彼らにさった峠に至る道を聞くことにした。
「あ、どうも、お仕事中すいません。」
奥さんが顔をあげた。
「あそこの自転車でここまで来たんですが、舗装路はここで終わってしまっているんですか。」
「そうよ。」
「自転車で峠を越したいんですが、自転車じゃ、無理ですかね。」
奥さんは
「お父さん!お父さん!」
と旦那さんを呼んでくれた。
「なんだ」
「自転車でさった峠に行きたいそうなんだけど、どうしたらいいかなあ。」
「そうだな、ここはこれ以上行けないから、一旦戻って、迂回したらいいんじゃないか。」
「ええとね、この坂を下りて、右に行って・・・」
と説明してくれるのだが、何せ不案内の土地なのでよく分からない。
弱ったなと思いながら、適当に相槌を打っていると、奥さんが 「それじゃ、分かりにくいわよ。自転車を持って、このまま行ったほうが早いじゃないの。」
道は階段状に整備されているので、自転車を転がすことはできない。したがって、自転車を抱えて運ぶしかないのである。
しばらく、夫婦で話が続いたが、どうやら奥さんのほうが気力が充実し、迫力があって、旦那さんを圧倒しつつあった。そして、ついに旦那さんは折れ、私は自転車を抱えて、中の道を進むことになった。
道は途中で森に入るので、道がその後どういう状況になっているのか、現在地からはよく分からない。
「あの階段はどれくらい続くんですか?」
「そうね。少しあるけど、大丈夫よ。若いんだから!」
またそれかと思いつつ、
「なるほど。そうですか。ずっと続くわけじゃないんですね。階段が終わったら、平らな道なんですか。」
「そうよ、コンクリートじゃないけど、自転車でも通れるわよ。」
「なるほど」
私は意を決して、階段に進むことにした。
「どうもお邪魔して、すみませんでした。それじゃ、行ってきます。」
「がんばってね!」
ご夫婦に見送ってもらい、私は階段に向かった。
階段の前まで自転車を押していった後、私は自転車を抱えて、階段を登り始めた。
はじめはあまり重さが気にならなかったが、しばらくすると、やはり重い。
自転車の本体が13kg強あり、プラスパソコン入りの荷物もあるので、重量はおそらく18kgほどだろうと思う。梅雨時期ということもあり、水は2リットル入りのペットボトルをを買っており、まだ、なみなみと残っている。
また、断続的に続く雨の影響で、足元が緩く歩きづらいことに加えて、(おそらく)梅の実が落ちて、滑りやすい枯葉とブレンドされている。その腐敗した甘く微妙なにおいが辺りにたち込めて、私の呼吸を苦しめた。
若いから大丈夫というのは、やはり若者の体力がないと無理な道だったんだとはっきり体で悟りながらも、とにかく今は登りきる以外に道はない。手が痺れる。自転車を右手から左手に持ち替えるが、すぐにきつくなってくる。一度自転車を地面に置くと、もう持ち上げられない気がした。出口はまだか。私は暗い森の中を力を尽くして歩いた。
ようやく階段が終った時には汗だく状態だった。自転車を置き、視線を上げると、目の前に駿河湾が広がっていた。いい眺めだ。息を弾ませながら、この苦役は報われたと思った。やはり、海というのは広大でいいものだ。何というか、息がスッーと通るのである。
しばらく、道なりに歩いていくと、何か見たことのある風景であることに気付いた。そう、歌川広重の東海道五十三次でお馴染みの風景である。そこには、さった峠の石碑や案内板が立っていた。同じところに、長いすがあったので、座って一休みすることにした。
この道は江戸初期に開通したので、坂本龍馬や西郷隆盛といった明治維新の志士たちも通ったことだろう。
また、中世の二度のいくさのこと、そして、早雲が盗賊に襲われ、身包み剥がされて、さった山をトボトボと興津方面に下りていく様子といった幻影を心で描きながら、ぼんやりしていた。
その後、さらに道なりに進むと、問題なく迂回路からの合流地点に出て、さらに行くと由比に至った。
ということなので、もし皆さんが自転車でさった峠の中の道に来るときは、由比(東京方面)から来たほうがよいだろう。そして、石碑を見たら、引き返して、迂回路か国道を通るのである。決して、(特に梅雨時期に)階段に挑んだりしないようにしていただきたい。思い出作りに敢えて通りたいという人を私は止めはしないが。。。
(終)
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2010年6月28日撮影
興津川にかかる橋からさった山をのぞむ