2010年10月2日、私は三浦半島で歴史サイクリングをしてきた。テーマは、伊東潤 『疾き雲のごとく』の最終話「かわらけ」関連の土地を巡ることだ。
この話は、鎌倉時代以来、三浦半島に勢力を張った名家、三浦氏滅亡の物語である。北条早雲は伊豆を奪取して以来、東に進み、1501年までに西相模の小田原を手に入れた。そして、早雲は三浦半島を中心として東相模に勢力を持つ三浦氏と激突した。
折りしも、三浦氏の当主は、文武両道の誉れが高い三浦道寸だった。その道寸とその一族も、早雲の粘り強い攻めに抗しきれず、永正13年(1516年)7月11日、三浦半島の南西部の新井城で滅亡した。これによって、早雲は伊豆、相模の2カ国を手に入れた。その早雲も、三浦氏滅亡の3年後に死去しました。数え年で64歳だった。
今回の歴史サイクリングのコースは、大船(玉縄城が近くにある)→鎌倉(住吉城)→三崎城→新井城という流れである。
この日、自宅を出発して、7時30分頃に東京駅に着きた。そして、電車で大船駅に向かう。大船には北条早雲が築城したという玉縄城が、かつて駅の西側の台地に広がっていた。
永正9年(1512年)に岡崎城に籠る三浦勢を駆逐した早雲はその勢力を東に伸ばし、翌年には、鎌倉の南東に位置する住吉城を落とした。目指すは三浦氏の本拠地である新井城。しかし、三浦氏の主家である扇谷上杉氏の援軍が武蔵(北)からやってくるのは時間の問題だ。そこで、早雲は大船に玉縄城を構築し、扇谷上杉勢への備えとしたのだった。
玉縄城には昔行ったことがあるので、今回は玉縄城に寄らず、一路、鎌倉を目指した。
私は鎌倉に過去何度か行ったことがあるが、鎌倉七口の1つ、化粧坂を通ったことがなかったので、今回は化粧坂に行ってみることにした。化粧坂は鎌倉街道上道の出入り口で、元弘3年(1333年)の新田義貞による鎌倉攻めの際にも激戦地になった。このように、中世関東史を学ぶ人にとっては化粧坂は一度は訪れてみたい土地なのだ。
大船からは上り坂が続き、ある時は自転車で、ある時は自転車を押して進むこと40分弱で化粧坂に着いた。自転車を降りて、化粧坂に向かって歩いていると、何か気配を感じたので、右前方を見ると、3mほど先にいるリスと目が合った。すかさず、腰の物に手をやって(むろん、刀ではなく、カメラです)、リスをレンズに捉えてやろうと思ったが、リスもほぼ同時に逃げ始める。リスはスルスル動いて、キョロキョロし、また、スルスル動いて、キョロキョロして、まるでマンガかアニメのように動いて、カメラの視界からいなくなる。
不思議と自分の目で見るとすぐ見つけられるのに、カメラで見ると、どこにいるのか分からなくなる。そして、ついにどこに行ったのか分からなくなってしまった。
普段、城や石碑など、大きくて動かないものを撮っているので気づなかったが、小さくて動くものをカメラで撮るのは案外難しいものだということを知った。残念ながら、リスを撮ることはできなかったが、野生のリスをこれほど至近距離で見たのははじめてだったので、幸先の良いことだと思った。
もう少し進むと、化粧坂の本体に部分に入った。噂通り、なかなか中世的な雰囲気が色濃く残っていた。馬が自由に走れないようするための巨石が道にある。しかし、坂自体は短くて、あっという間に舗装路に出てしった。軍勢を防ぐのであれば、もう少し防備を固めないとどうにもならないので、おそらく、現在残っている遺構は全体の一部なのだろう。
化粧坂は階段状になっているため、自転車で進めない。そのため、化粧坂を通って鎌倉市街に入るのを諦めて、源氏山公園から抜けることにした。
源氏山公園を進んで階段のない舗装路を探しましたが見つからず、仕方がないので、自転車を持ち抱えて階段を下りることにした。私が進んだのは扇谷に抜ける道だった(なお、扇谷上杉氏の「扇谷」は鎌倉の扇谷に屋敷があったことに由来する)。
最初はどうということもなく自転車を持ち運んでいたが、階段が終わったあとも舗装路はなく、土の道にたまに大きな段差という感じの道が続く。私はさった峠の自転車持ち運び(「さった峠の試練」)を思い出したが、今回は、まだ朝方で元気だったこと、下りだったこと、PCを持っておらず荷物が軽かったことなどもあって、疲労感には雲泥の差がありましあった。しかし、それでも最後のほうはやや手が疲れてきたところに、ものすごく狭い道に直面した。
しかも、この道は苔生しており、手ぶらでも用心して歩かないと滑って転びそうだ。これを自転車を持ちながら通るのは容易ではない。何だかマンガのような(もののけ姫が出てきても違和感がなさそうな)道だなと思いながら、自転車を胸辺りまで持ち上げたまま、おっかなびっくりのすり足で進み、ようやく通り抜けることができた。
狭い道を通り抜けた後、反対方面から、観光客と思しき中年夫婦が近づいてきて、奥さんがこの道を見て「えっ、ここ通るの?」と言って、しばらくフリーズしていた。
やはり、私だけが狭いと感じたわけではなさそうだ。「この道は自転車を持って通るには難易度の高い道だった。こんなことなら、化粧坂切通を自転車を担いで通ればよかった」と総括して、扇谷に抜ける切通しを抜け、鎌倉市街に入って行った。
鎌倉の面白いところは、苔生した中世的世界と現代社会が背中合わせになっている点である。扇谷の切通を抜けると、舗装路に住宅地、そして、もう数分走ると、鎌倉駅前に出る。
鎌倉駅前には、現代的な人々、店、交通機関などがある。その一方では、「下馬」といったかつての光景を思い起こさせるような地名の交差点があったりもする。そして、鎌倉の魅力を1つ挙げると、それは海だろう。鶴岡八幡宮は鎌倉の盆地の北に鎮座しているが、そこから見る光景はなかなか良い。それに加え、由比ガ浜ではマリンスポーツや釣りをしている人々もいる。
海からの光景というのは、陸からの光景と随分違うもので、その移動原理にも違いがある。陸で生きる人にとっては海は移動の障害以外の何者でもないが、海で生きる人にとっては海は交通路だ(そして、これが陸軍と海軍の本質的な発想の違いとなり、引いては組織間の摩擦の原因にもなるようだ)。したがって、同じ日本人といっても、当時、陸で生きていた人と海で生きていた人の考え方、習慣、行動原理は随分違ったものだったのではないかと思う。
さて、由比ガ浜を東端まで移動して見上げると、崖がそびえ立っています。かつて、ここに住吉城があった。ここを突破されると、小坪に侵入されるため、三浦氏は城を作って防御しようというわけだ。
永正9年(1512年)6月頃からはじまった山内上杉氏と古河公方家の内紛で、山内上杉氏と扇谷上杉氏が再度対立し始めると、早雲はその隙を突いて、東進し、同年8月には相模の岡崎城を奪って、その勢いで鎌倉に押し寄せた。そして、翌年(永正10年)1月、早雲勢と三浦勢は鎌倉近辺で激突し、勝利した。住吉城の三浦勢はなお粘ったものの、同年7月に落城しました。三浦勢は敗走し、三浦半島の新井城に逼塞せざるを得ない状況になった。
住吉城があった場所は、現在、住宅開発が進んで、遺構はほとんど残っていないようだ。住吉城があったところからどのように見えるのか知りたかったので、私は坂を上って行ってみた。すると、小坪方面は多少見えたが、残念ながら、住宅街に遮られて鎌倉方面へのよい眺めは得られなかった。
さて、住吉城近辺から小坪に移動し、国道134号に出た。しばらく走ると、海岸沿いが見えてきた。空は晴れ、気持ちの良い風が吹いている。眺めもいい。三浦半島の西側の海岸線はもちろんのこと、鎌倉、江の島、そして、うっすらと伊豆半島も見える。道々には、海の幸を食材にした洒落た店がところどころにある。砂浜では子供がはしゃいでいる。まったくもって、結構なところである。私は12時前に立石で軽く持参したバナナなどを食べ、空腹を満たしたあと、三崎に向けて走り始めた。
鎌倉から三崎までは約20kmあり、基本的には南下していく。12時ごろに洒落た店でしっかりした昼食を食べなかった理由はただ1つ、三崎港でマグロを食べるためである。
三崎港は日本有数のマグロ水揚げ量を誇る港だ。 そして、この地は三浦氏の拠点の1つであり、後に、早雲の子孫たちが東京湾対岸の安房の里見氏との戦うために、水軍の拠点を作った。三浦港の対岸には城ヶ島があり、この島が三崎港の防波堤になる。また、三崎港の北側は台地になっており、そこに三崎城が築かれた。
三崎港に到着したときは13時頃になっており、腹もマグロを欲している。
マグロ料理を出す店を適当に選んで、店に入る。その店は2階にある割と広い店だったが、座敷は人で埋まっていた。私は1人なのでカウンターに陣取り、メニューを物色したあと、マグロ漬丼を頼んだ。 そして、マグロ漬丼を待っているときに思いついたのが、「歴史サイクリング」というコンセプトだった。それまでは史跡巡りとサイクリングを一語で表せないかとずっと考えていたのだが、この時、ふと思いついた。
マグロ漬丼を堪能したあと、城ヶ島に向かった。 城ヶ島から千葉県の対岸は目視できる。後で地図で確認すると、約20km弱だった。新井城の三浦勢は早雲勢に陸から包囲された後も、三浦水軍を使って、海からの補給を得ることができた。そのため、新井城に籠城してから3年もの間、支え続けることができた。籠った方も囲んだ方も、さぞかし往生しただろう。 当時、江戸、安房、上総方面から三浦氏が補給を受けていれば、この付近を補給船が通り、新井城に向かったのではなかろうか。
再び、三崎に戻り、かつて三崎城があった地域を巡った後、本日最後の目的地である新井城址に向かった。 新井城址は、京急油壺マリンパーク付近にある。新井城は、北に小網代湾、南を油壺湾に挟まれ、陸続きなのは東側のみという出島にあり、東側を堀切ってしまえば、海から以外に近づくことができない島になる。 解説本などによると、東側は空堀が掘られて、板橋をかけて、渡っていたようだ。ただ、安政の大地震と関東大震災によって、半島が隆起したそうで、かつては現在と違い、砂浜はなく断崖絶壁だったそうである。
さすがの早雲もこの城には手を焼き、容易に落とすことができない。それに対して、三浦勢は洞窟に蓄えた豊富な備蓄と海上からの補給で耐え忍ぶ。 そうこうしている内に、三浦氏の主家の扇谷上杉氏から援軍がやってくるが、早雲は大船の玉縄城で撃退に成功する。そして、包囲すること3年、ついに三浦勢も力尽き、永正13年(1516年)7月11日に滅亡した。
油壺という地名の源は、新井城落城の際、三浦武士たちの血で湾が赤く染まったためと言われている。私が新井城を訪れたときにはすでに夕方になっていた。三浦氏が滅亡した旧暦の7月11日と新暦のこの日では、1ヶ月ちょっとズレがあるが、晴れていれば、三浦氏が滅亡した日も同じようなところに夕日が沈んでいたことだろう。そして、その夕日を早雲は眺めていたかもしれない。
道寸は辞世の句に
討つものも 討たるるものも かわらけよ砕けて後は もとのつちくれ
と詠んだと伝わっている。 私は静かに合掌して、新井城をあとにした。
(終)
作成日:2014/6/24
場所: 日本, 神奈川県横須賀市秋谷2丁目10−3(原則、地図座標から場所を算出しています。目安とお考えください)
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