2年ほど前に、”荊棘の甲斐統一戦、武田信虎の「その時」を追う”というシリーズを書きました。
北条早雲がブログのテーマなのに、なぜ武田信玄の父、武田信虎が出てくるのだろうと思われた読者は少なくないと思う。
次のグラフを見てもらいたい。
実はこの2人、10数年、活動時期が一致している。
1490-1500年前半の、信虎の父、武田信縄が甲斐守護であった頃、関東情勢に武田の影響力はほとんどなかった。しかし、信虎が家督を継承してから20年ほど経過した1520年代中頃に入ると、武田信虎の関東介入は北条にとって大きな頭痛の種となった。この時、早雲はすでに死去しており、当主は早雲の息子、北条氏綱だった。
1500年代後半-1510年代、甲斐に何があったのだろうか。
私はこのことに興味を覚えたので、いろいろ調べてみた。すると、かつて暴君のイメージしかなかった信虎という人物が違ったふうに見えるようになった。そして、信玄に対する認識も変わった。
資料はある程度読んだので、状況は理解したが、現地に行かないと「絵」が見えない。そこで、信虎をテーマに2011年9月末に歴史サイクリングをしてきた。そのレポートを公開する前に、ざっくりと早雲と信虎の活動時期が重なった部分を見ていきたい。
北条早雲が伊豆に討ち入った翌年の1494年、武田信虎は甲斐守護、武田信縄の子として誕生している。 甲斐守護、武田信縄が死去したのが1507年で、その年、信虎は14歳で甲斐守護となった。 こ
の頃までに、早雲は伊豆攻略を完了して、小田原城を奪い、この城を関東の橋頭堡として東相模領有の機会を窺っていた。そして、翌々年、早雲は両上杉相手に戦いをはじめる。
一方、若年ながら、信虎は翌年の1508年に叔父の油川信恵を滅ぼして、武田家内部の戦いに勝った。そして、割拠する有力国人を相手に戦いをはじめる。この戦いは武田家が守護大名から戦国大名へ脱皮できるかどうかの瀬戸際の戦いだった。もし失敗していれば、信濃のような分裂状態に陥って、近隣の強国に支配されていた可能性があった。
その間、早雲は東相模の雄、三浦氏と岡崎、そして、鎌倉で戦って勝利し、三浦氏の本拠地、新井城を囲んだ。 この辺りの話は『三浦一族の滅亡-かわらけー』で書いた。
信虎が10数年の苦闘を経て、一応の甲斐統一に成功した頃、早雲は三浦氏を滅ぼして相模攻略を完了させ、息子の氏綱に家督を譲った翌年(1519年)、死去した。
このように、信虎と早雲は40歳ほど年齢が離れているにもかからず、活動時期が10年強、重なっている。しかし、互いに活動範囲が別だったので、正面からは衝突していない。このことは信虎にとって幸いだった。
扇谷上杉氏(時期によっては両上杉)という大きな敵を相手に戦っていた早雲にとっても、この時期は苦しく、東相模攻略以外に主力を向ける余裕はなかった。 このような事情で、同時代人にもかかわらず、早雲と信虎の関係は意識されないのだと思う。
(つづく)
作成日:2014/6/25
場所: 日本, 山梨県甲府市住吉2丁目6−38(原則、地図座標から場所を算出しています。目安とお考えください)
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