武田信虎は武田信玄の父親で、一般的には「暴君」として知られている。暴君なあまり、信玄に追放されたという。
私 はこの理解に、特段異議を唱えるつもりはない。が、暴君だったという理由で彼の業績を無視するのは適切ではないと思う。というのは、信虎の時代を無視する と、北条早雲から信玄の時代へのつながりが見えなくなるし、信玄という人物と業績も十分理解することができないためだ。
信玄は信虎から国土、家臣団、人民などの地盤を受け継いだのであり、もし信虎が甲斐を統一していなければ、信濃のように近隣の強国に併呑されていた可能性がある。仮に信玄が甲斐統一を成し遂げたとしても、長い年月を要したと思う。
2011年9月末に行った歴史サイクリングでは、信虎が甲斐守護となってから、実質的な支配者となる大永元年(1521年)までの甲斐統一戦を追うことがテーマだった。
すでに500年ほど経過しているが、彼が住んだ場所、戦った場所などをめぐることで、さまざまな局面における信虎の「その時」に近づきたいと思っている。 こればっかりは机上ではできない。
信虎以前の甲斐武田氏の歴史を遡ると、清和源氏発祥からはじまる。あまりに過去に遡ると、読者にはきついと思うので、ザックリとした説明にとどめた。この辺の事情を知りたい方は次の資料をご参考いただきたい。
柴辻 俊六『武田信虎のすべて』
甲斐武田氏は戦国時代の成上り大名とは違い、源氏の流れを引く名家である。浮き沈みはあったものの、鎌倉から戦国時代まで甲斐守護であり続けた。
室町時代の中期には、甲斐も他国同様、守護代の権力が伸長した。応仁の乱の頃、甲斐守護代の跡部氏による下克上が起こってもおかしくない状況だったが、信虎の祖父、信昌は1465年に甲斐守護代の跡部氏を破り、甲斐を統一することに成功した。
信虎の祖父、信昌は跡部氏が強盛の頃、跡部氏の娘を正室として娶らされており、その子が信虎の父、信縄だった。信昌には側室の子があり、油川信恵(武田信恵)といった。信昌は跡部氏の血を引く信縄よりも、信恵を可愛がった。
そ の結果、1492年、またもや、甲斐守護の信縄 VS 信昌(父)・信恵(異母弟)という図式で争いが起こった。この戦いは関東の情勢とも無関係ではなく、守護の信縄が関東管領の山内上杉氏派で、信昌・信恵が 扇谷上杉氏派(この頃、今川氏親と北条早雲も扇谷上杉氏派)だった。
そんな中、1494年、のちの武田信虎は誕生した。早雲の伊豆討ち入りの翌年である。 この骨肉の争いは延々と続いたが、1498年の明応の大地震(東 海・東南海・南海連動型地震だった可能性が指摘されている)が起こり、もはや戦っている場合ではなくなったようで、両者は和睦した。 東日本大震災を経験した我々は、この時の甲斐や東海地方がどういう状況だったか推測できると思う。 また、いくさがやむほどの大震災を経験した5歳の信虎の姿も想像してもらいたい。
しかし、この和睦は根本的な解決にはならず、危機は潜在することになった。和睦から7年後の1505年に祖父、信昌が死去し、その2年後に父、信縄も37歳の若さで死去する。
父、信縄が死去した時、信虎は数え年で14歳だった。
甲斐守護であり、父である信縄を失い、今なら中学1年生ぐらいの少年が甲斐守護となったのである。
(つづく)
作成日:2014/8/20
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