【その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー】<h2>竜王の信玄堤へ</h2>
<p>翌朝、昭和インター近くのホテルを出て北上し、竜王の信玄堤へ向かった。</p>
<p>名前の通り、信玄堤は武田信玄が作らせたという堤防で(むろん、信玄以来の堤防と考えるべきだろう)、私はこの堤防を見てみたかった。 <br>武田信虎というテーマとは一見外れるが、結局のところ、信虎が追放されたのは信虎の人格が異常だったというよりは治水をはじめ、内政に失敗して、有力国人や家臣の支持を失ったのが主因だと私は考えている。 <br>したがって、この堤防は、親父の失敗を息子が片付けた例として考えることもでき、信虎と信玄堤は無関係ではない。</p>
<p>さて、天気予報ではこの日は曇のち晴だったが、釜無川に着いた頃、小雨が降っていた。しかし、しばらくするとあがり、薄日が差した。この日は終日、このパターンの繰り返しだった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曇天の釜無川。 </em><br><em>写真は北の八ヶ岳の方向を写している。ボンヤリと山が見えるだけで、圧迫感は感じなかった。</em>
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<h3>絵地図</h3>
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<em>今回出てくる地形、地名、勢力などの絵地図。 </em><br><em>黄色が自転車で走った経路。</em>
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<p>これが噂の聖牛である。 なかなか大きいものだった。これなら急流にも効果が期待できそうだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>写真では所詮伝わらないと思うので、ぜひ、本物をご覧あれ!</em>
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<p>聖牛に草が絡まっているが、これを放置しておくと水圧が増し、腐敗の原因にもなるので、当時は堤防を管理していた人々がいちいちとっていたのではないかと推測する。</p>
<p>現在の聖牛は石が針金で固定されているが、当時はこんなものはあるはずがない。 <br>案内板をみると、当時は竹で固定していたそうだ。竹は強く柔軟性があり、生活道具からはじまって武器にもなる。近代以前の世界では万能素材としての地位を確立していた。したがって、竹で固定しているのはやはりという感じだったが、実際のところ、維持管理するのは大変だったと思う。 <br>何せ前日雨が降っていないにもかかわらず、流れが速い。もし台風並みの雨が降ったら、大変なことになるなと思った。それを竹で水流を受け止めるのだから、容易なことではなかっただろう。</p>
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<em>石が竹で固定されている聖牛。昔の聖牛はこうだったらしい。 </em><br><em>聖牛の木同士を固定しているのは針金ではないかというツッコミは入れないようにしたい。</em>
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<p>甲州流治水法というのは、急流と急流をぶつけて、勢力を弱めるという思想でできている。コンクリートで両岸を固めて、水路を真っ直ぐ作る近代の治水法とは随分違うが、合理的な方法だと思う。</p>
<p>信玄以前、北の八ヶ岳の方から流れてくる釜無川と西の南アルプスから流れてくる御勅使川(みだいがわ)が合流するこの辺(信玄堤のある竜王周辺)は氾濫が頻発していた地帯で、その都度、被害が出ていた。付近の住民は弱り果てていただろう。津波に限らず、大量の水は恐ろしい。</p>
<p>そこで、信玄はこの2つの急流をぶつけることで水勢を弱めるという策を採った。具体的には、御勅使川の流路を変えて、釜無川にぶつけるための大治水事業を行い、信玄堤を作り上げた。おそらく、かつて、こういう方法を考えた人はいただろうが、実行できる者はいなかった。それを信玄は成し遂げた。ゆえに信玄は偉いのである。 <br>だが、その権力はどこから来たのだろうか。他でもない、信虎が人生を賭けて戦い、築いたものである。もし信虎が戦いに負けていたら、信玄は甲斐守護にすらなれなかっただろう。</p>
<p>信玄堤のことは本や映像で事前に調べているので、知っていることばかりではあったが、実際にみると、やはり分かる度合いがまったく違う。まさに腑に落ちた感じだった。</p>
<h3>守護大名から戦国大名へ</h3>
<p>話を信虎に戻そう。少年信虎は永正5年(1508年)に叔父の油川信恵を滅ぼしたあと、油川信恵派の郡内の小山田氏を圧迫、永正7年(1510年)には実質的に降伏させた。そして、信虎は妹を小山田氏の新当主に輿入れさせた。生まれてきた子は信虎の甥になる。 <br>少年の成長は早い。若武者へと変貌した信虎はこれら一連の戦いで武田家内部の争いに終止符を打ったが、これで甲斐統一が完成したわけではなかった。</p>
<p>江戸時代、武士は城下町に住むサラリーマンだったが、中世の武士は土着の領主だった。つまり、ある領内に権力地盤を有しており、守護から独立性が高く、各地に城を築いて蟠踞していた。甲斐も同様で、甲斐国内に、大井氏、今井氏、栗原氏、穴山氏などの有力国人がいて、彼らがどう動くかは彼ら自身が決めており、守護に彼らを自由に制御することはできなかった。 <br>守護家もまた領主であり、違いは守護という権威があった点だけである。この中世システムから脱却したのが、北条や今川であり、彼らは戦国大名の魁であった。戦国大名は各地の領主を排して、領内の一元的に支配し、農村を直接支配した。遅れはしたが、信虎も守護大名(中世システム)から戦国大名(近世システム)に移行しようとした。これが信虎と有力国人との軋轢の本質的な原因である。 <br>分権的な割拠状態をよしとする国人勢力にとって、信虎が力で甲斐を統一し、自分たちを自由に制御しようとする路線は守護による横暴、または、言語道断な独裁者と映ったことは想像に難くない。ゆえに抵抗は激しい。</p>
<h3>青年信虎、大井信達の館を攻める</h3>
<p>甲府盆地の西側に大井氏という武田の支流の勢力があり、当時の当主は大井信達だった。この大井氏が有力国人の代表格である。信虎としては、戦国大名として脱皮して、甲斐を統一するためにどうしてもこういった国人勢力を排する必要があった。 <br>大井信達は今川家と手を結び、甲斐守護の信虎に対抗した。国内の敵対勢力が他国の大名を国内に引き込むという例は枚挙にいとまがない。甲斐国内でも、北条と結ぶ小山田氏、信濃の諏訪氏と結ぶ今井氏があり、信虎にとっては国内問題と国外問題は連動していた。</p>
<p>当時、今川家の当主は今川氏親(義元の父)で、駿河に加え、遠江の領有も目前だった。いまだ甲斐一国の統一もままならない信虎にとって、今川氏親は最大の脅威だった。なお、今川氏親は伯父の北条早雲(伊勢宗瑞)に擁立されているので、今川と北条は強固な同盟関係にあった。 <br>ただ、信虎にとって幸いだったのが、今川は西の京へ、北条は東の相模(関東)へ向かう戦略を持っていたため、本格的な攻略の対象となることはなかったということである。</p>
<p>大井、今井といった各氏を抑え、甲斐を統一しなければ、他国の侵略を受けることは信濃が証明している。永正12年(1515年)、今川氏親と結ぶ有力国人、大井信達は蜂起した。そのため、23歳となった青年信虎は大井信達の館を攻めた。しかし、油川信恵を倒した時のようにはいかず、重臣を多数失うほどの敗北を喫っした。 <br>その後、大井信達と今川勢に圧迫された信虎は、一時、塩山の恵林寺に逃走するほどの窮地に追い込まれた。この間、今川勢が利用したのが、曽根の勝山城だった。南からの勢力が居座るにはちょうどいい城だったのだろう。</p>
<h3>年表: その時、彼らは何歳だったのか?</h3>
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<h3>大井信達の居城、椿城(上野城)</h3>
<p>大井信達の居城は甲府盆地の西麓の上野にあったという。地名をとって、上野城、椿が多かったため、椿城ともいった。南アルプスから伸びた台地の一つが上野で、北と南には深い渓谷があり、東側は急斜面になっている。</p>
<p>竜王から釜無川を渡り、南西に走る。ここでも果樹栽培が盛んだ。おそらく、この辺は高地だったため、水害は比較的軽微だったのではないかと思う。椿城の麓につくと、風化して見えないような案内板が「椿城跡」の方向を教えてくれる。<br> 最初は、立ちこぎして頑張っていたが、延々と上り坂が続くので、すぐに諦めて、押して歩いた。坂はかなり角度をあり、燦々と照りつける太陽が暑い。15分ぐらい歩いただろうか。ようやく、椿城跡を発見した。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城付近から甲府盆地をのぞむ。 </em><br><em>街がずいぶん小さく見える。結構歩いた。まったくご苦労なことである。</em>
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<p>椿城跡には現在、という日蓮宗の本重寺が建っているが、どうもおかしい。城を建てるなら、もうちょっと西側の台地の先端ではないか。しかも、先端はここよりも高地にある。 私は西側も探検することにした。自転車を寺に置き、果樹園を抜けて、歩く、さらに歩く。結構、広い。ある程度歩いて振り返ったら、思った通り、寺が下に見える。おかしいなと思いつつ、寺に戻った。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>椿城の東の台地から本重寺をのぞむ。手前から2本目の電信柱の奥に朱色の屋根が小さく見えるが、あれが本重寺である。かなり、<br>下に見える。 背後の山が南アルプス。雄大だった。</div>
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<h3>本重寺のお年寄り</h3>
<p>本重寺の縁側にお年寄りが腰をおろしている。 <br>どうもこの寺の方にみたいだったので、話しかけてみた。</p>
<p>「お寺の方ですか?」 <br>「はい」 <br>「ここが椿城跡なんですよね」私は当然のことを聞いた。 <br>「そうですが、城自体はもっと東側にありました。ここは大井氏の館跡と言われています。大井氏が滅びたあと、この寺が移されたんです」 <br>「そうなんですか。やはり、城は東側にあったんですね」私はうれしそうに言った。</p>
<p>話を聞いていると、この寺のご住職だった。 <br>このご住職がこの寺に来られたのは4年前で、それ以来、いろいろ資料を集めて、上野の案内状を作成されたそうで、その案内状を私も一部頂いた。ご住職の話によると、寺の庫裏から東側の城まで抜け道があったらしい。城の抜け道伝説はよくあるが、こういった館にもあったとは初耳で興奮した。 しかし、2ヶ所ほど、途中の畑で抜け道が陥没して、現在は通行不能だのことだった。</p>
<p>ご住職との話は興味深かったが、途中で女性がやってきてご住職に何か用事があることを告げた。 私はご住職にお礼を言って、お寺をあとにした。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>本重寺の縁側に腰掛けて、資料などを見せてもらっていた。晴れていたらこの縁側から富士山が見えるという話を伺ったので、1枚撮ってみた。作品名「幻の富士」といったところか。</em>
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<h3>信虎が敗北したのは実は富田城?</h3>
<p>信虎が大井信達を攻めた城は椿城ではなく、椿城より低地の富田城だという説がある。 <br>なぜかというと、信虎勢は城の深田に足をとられて敗れたらしいからだ。椿城にはそういう地形ではなく、大井氏の勢力下にあった富田城であれば滝沢川のほとりにあり、深田があって当然というわけである。 <br>どちらが正しいか私には分からないが、富田城が沼田に囲まれていたのは想像に難くない。一方で、椿城は台地上にあったため、田はなかったという話には納得できない。というのは、田は棚田があればできる(段々畑の田んぼ版をイメージしてもらいたい)。現在も椿城に行く途中、棚田が少なからずあった。 <br>ただ、棚田の田んぼに足をとられて大敗というのは確かに妙な話ではある。</p>
<p>富田城は笛吹川の近く、椿城から見ると、南東の低地にある。 <br>いまの甲西工場団地の中にあったという。ゆえに、中には入れない。 <br>近くをグルグル巡っただけで終わったが、南からの交通をおさえるにはいいところだと思った。椿城が政治の城なら、富田城は経済の城だったのかもしれないなどと空想してみた。</p>
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<div>滝沢川の橋の上から富田城があったといわれる甲西工業団地をのぞむ。 <br>中部横断自動車道が団地内を通っている。背後が南アルプス。</div>
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<div>(<a>つづく</a>)</div>

その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎 大井信達 信玄堤 聖牛 椿城 富田城 山梨県 甲斐市

【その2 信虎初陣ー武田信虎の戦いー】<h2>武蔵から郡内、そして、甲府盆地へ</h2>
<p>この日、朝8時半頃に自宅を出て、調布駅で京王線に乗り、調布から高尾まで生き、高尾からJR中央線に乗り換えて、甲斐の郡内を通り、甲府盆地へ入った。</p>
<h3>意外に広い</h3>
<p>甲府盆地へ入ってまず気づいたのは、甲府盆地は意外に広いということだった。 <br>「甲斐は山国」と何度も読んでいたので、山が迫って、圧迫感があるのかと思っていた。山に囲まれているのは事実だが、圧迫感はない。南北はそれほど広くはないが、東西は広く、南アルプスの山並みが霞んでいる。</p>
<h3>甲府盆地の北東、塩山駅からスタート</h3>
<p>甲府盆地の北東にある塩山駅で降り、いつものようにブロンプトン(折りたたみ自転車)を組み立てて、歴史サイクリングをスタートした。時間は午前11時頃だった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>甲府盆地の北東の塩山駅からスタート。 ブロンプトンを組み立てて、駅前を歩いていたら、仲良し3人組という風のタクシードライバーのおじさんに声をかけられ、またしてもブロンプトンについて熱く語ってしまった。 </em><br><em>調布駅でも声をかけられ、ブロンプトンについて語ること、この日、早くも2回目。</em>
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<em>今回の話で出てくる地名と地形の絵地図。 </em><br><em>さすがにひどいか。。。</em>
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<h3>恵林寺</h3>
<p>最初の目的地は、恵林寺である。 <br>恵林寺は信玄の本を読んでいた時によく出てきていたので、いつか行ってみたいと思っていた。幸い、塩山駅から2kmほどのところなので、行ってみることにした。 <br>分かってはいたが、上り坂である。自転車にダラダラと続く上り坂はきつい。しかも、この日は日差しが強く、恵林寺に着いた頃には汗だくになっていた。</p>
<p>恵林寺は武田家滅亡の時、織田信長に焼かれた。恵林寺の住持、快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定したことは有名である。恵林寺の武田不動尊も有名で、信玄をモデルに作られたといわれている。<br> 私はこの像をいつか見てみたいと思っていた。 <br>13時頃、恵林寺をあとにした。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>恵林寺山門 <br>快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定した場所に建てられたという。 なお、恵林寺はこのシリーズの中でもう1度出てくる。</div>
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<h3>気づいたこと</h3>
<p>ここからは下りである。 <br>甲府盆地は北が高く南が低い。私はいま東北にいる。ちょうど笛吹川と並行する形で、石和に向かって、風を切って下った。</p>
<p>走りはじめて、気づいたことがある。まず、人が少ない。歩いている人はほとんどいない。東京の江東区から調布に引っ越した時に、人が少なく感じだが、その比ではない。本当に人を見ない。その代わり、ブドウ畑などの果樹園がひたすら続く。まるで、住宅地と山以外はすべて果樹園のようだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>所狭しと広がるブドウ畑。 </em><br><em>肥料が置いているところにリアリティを感じる。</em>
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<p>もう1つある。それは豊富な水量と水流である。 <br>他の街でも家々の側溝を小川のせせらぎという感じと水が流れていることがあるが、この辺は側溝に水がガンガン流れている感じである。大雨が降って、側溝に人が流されて死亡したというニュースをたまに目にするが、どういう状況なのかイメージできず、今まで信じられなかった。しかし、急流の側溝を見て「ありうる話だ」と納得した。 <br>何せ高い山が近くにあり、かなりの傾斜があるため、このような急流になるようだ。これでは台風のような大雨が降ったらどうなるのやら、恐ろしい話だ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>恵林寺から石和に向かう時に渡った橋から撮った笛吹川(山梨市七日市場付近) 白波が立って、急流であることが分かる。 </em><br><em>前日に雨が降ったわけでもないのにこの水量。</em>
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<h3>甲斐守護の館があった石和</h3>
<p>信虎が1519年に躑躅ヶ崎館に移すまで、石和の川田館が甲斐守護の拠点だった。 <br>父、武田信縄の死後、少年信虎も甲斐守護として、石和の川田館の主となった。いわば、石和の川田館は信虎にとって政治的人生の出発点だった。ということなので、まずは石和に行くことにした。</p>
<h3>あの木は何ですか?</h3>
<p>ところで、サンクリング中、私はブドウ畑と同じくらいの割合で存在する畑(木)が何なのか気になってきた。だが、人がいないので聞けない。</p>
<p>石和温泉駅に近くにきた。進行方向の右側30mほどのところに小さなネギ畑がある。その畑でネギにひしゃくで水をまいている中年の女性がいる。その女性に木の正体について、聞いてみることにした。</p>
<p>「すいません」<br> 「こんにちは。」ネギの女性は笑顔で応える。気持ちのいい笑顔だ。 <br>「ちょっと教えてほしんですが、あの木は何ですか?」私は近くにある畑にある謎の木を指して尋ねた。 <br>「どれ?」分からないらしい。 <br>「あれです、あの畑の木です。ちょっと栗っぽい木です」 <br>「ああ、あれは桃の木よ」至極、当然のようにいう。<br> 「ああ、そうなんですか」何と30も半ばになろうというのに、私は桃の木を知らなかった。桃の木を知らないという人間がいること自体が想定外で、どの木のことを聞いているのか、この女性は分からなかったようだ。 <br>もし桃がなっていれば、むろん、桃の木だと分かっただろうが、桃のシーズンはとっくに終わっている。</p>
<p>ということは、ブドウ畑と二分する謎の畑は桃畑ということになる。 <br>なぞが解けて、スッキリした。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>謎の木。。。 </em><br><em>この辺の子供なら、3歳児でも知っていそう。</em>
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<p>「ブドウはほとんどなっていませんね」 <br>「まあ、お盆の頃だからね。けど、緑のブドウなんかはこれからよ」 <br>「なるほど、品種が違うんですね」 <br>「そう。それに石和は温泉が出るでしょ。温暖な土地だから、できるのが早いのよ。塩山なんかはここより少し遅れるし、八代(甲府盆地の南部)なんかの巨峰はこれからよ。地域によって、見事に出来る時期が違うのよね」 <br>「へえー、そうなんですか」私は驚いた。というのは、塩山も八代もここから見える。なのに、これほど収穫時期が違うのである。 <br>「すごく驚いてるね」私の驚き方が面白いのか、ネギの女性は朗らかに笑っている。</p>
<p>他にもいろいろ話を聞いたのち、 <br>「お仕事中、すみませんでした」 <br>「はーい、がんばってねー」 <br>「ありがとうございまーす」 <br>ということで、私はネギ畑をあとにした。</p>
<h3>信虎、叔父の油川信恵と戦う</h3>
<p>笑顔が素敵なネギの女性と別れた後、10分ぐらい走ると、川田館跡に着いた。 <br>川田館跡の看板がブドウ畑の中に立っている。ここにかつて甲斐守護の館があったと想像できるものはない。しかし、かつてはここを中心に城下町に近い街並みがあったはずだ。そして、信虎の甲斐守護としての人生はここからはじまった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>川田館跡は平等川の左岸にある。 </em><br><em>ブドウ畑の中に、川田館跡の案内板が立っている。この案内板がなければ、川田館跡だとは誰も気付かないだろう。</em><br><em> 川田館に信虎がいたのは1519年なので、1521年生まれの信玄はここで生活したことはないはずだ。</em>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>川田館跡の横で撮影したブロンプトン。だからといって、特別な意味は何も無い。 </em><br><em>前のバッグに、この歴史サイクリングで使う全ての荷物が入っている。 </em><br><em>2泊3日で自転車で130kmほど走った。乗り心地もよく、折りたためるので最高。</em>
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<p>さて、信虎の父、信縄が1507年に死去したところまで述べた。 <br>当主の交代時というのは元々動揺しやすいので、敵対勢力にとっては狙い目ではあるが、特に次の当主が若年である場合は尚更だ。当然、叔父の油川信恵は反意を露わにしはじめる。 <br>信虎は若年の当主である。普通ならここで叔父に討ち滅ぼされるのだろうが、翌年、逆に信虎は叔父、信恵の居城、曽根の勝山城にを攻めて込んで、滅ぼしてしまった。この重要な局面で初陣を勝利で飾った信虎を、信虎の支持者たちも頼もしく思ったことだろう。 <br>これで武田家内部の争いは終わった。しかし、この戦いは信虎にとって、甲斐統一の第一歩に過ぎなかった。</p>
<h3>曽根の勝山城</h3>
<p>油川信恵の居城、曽根の勝山城は甲府盆地の南部、笛吹川の南側にある。</p>
<p>石和の川田館跡を出発し、笛吹川沿い(南西)に走ること1時間ほどで、曽根にやってきた。石和と違って、この辺は稲作もしている。笛吹川の治水に成功して、用水路が整備されたことで、稲作が可能になったのだと思う。信虎の頃、この辺は洪水多発地帯だったようだ。</p>
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<em>勝山城から1kmほど上流の境川付近。 </em><br><em>稲作が行われている。石和付近の果樹園尽くしとは風景が異なる。</em>
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<p>さて、パッと見て、目立つ丘陵がいくつかある。そのうちの1つが勝山城だろうと思った。なお、郡内(山梨県東部の山岳地帯)にも勝山城がある。その城と区別するため、「曽根の」という頭文字がついている。 勝山城と思しき丘陵に近づいたが、それらしい看板などはない。 しかし、私はiPhoneを持っているため、ここが勝山城であることは分かっている。城の南側に回ると、果樹園になっており、丘陵への入り口がある。案内板がないため、果樹園に入っていいものか躊躇いながらもブロンプトンを押しつつ入っていった。 すると、勝山城の石碑を発見! やっぱりここだったかのか。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城。勝山城は甲斐と駿河を結ぶ中道往還を押さえる要衝の地にある。近くには笛吹川の氾濫原が広がり、沼田に囲まれていたようだ。 </em><br><em>なお、石碑には「沼田めぐり 攻めるにたかし 勝山城」と書いてある。</em>
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<p>城跡の北端に立つと、石和方面がよく見える。 川田館の信虎にとってはいい気分ではなかったと思う。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城から川田館があった石和方面がよく見える。 </em><br><em>実際に勝山城を見た歩いたら、意外と小さかった。それに丘陵といっても、それほど高いわけではない。この城は戦国末期まで使われたので、もうちょっといろいろと遺構も残っているかと思っていたが、期待していた程ではなかった。 「これが曲輪で、これが虎口で」と言われれば、「なるほど」と思うだろうが、単なる丘陵上の果樹園だと思えば、単なる果樹園にしか見えない。 </em><br><em>しかし、眺めはよく、ここに中道往還の押さえる位置からも、勝山城が重要な城であったのは頷ける。 </em><br><em>なお、この後も今川勢がこの城を用いて、信虎を苦しめることになる。</em>
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<p>かつて、この辺りは沼田であったという。甲冑に身をかためた15歳の信虎は500年ほど前の永正5年(1508年)10月4日、この勝山城付近で油川信恵勢と合戦におよび、決定的な勝利を収めた(勝山合戦)。<br> 少年信虎は一癖も二癖もある屈強な重臣たちに補佐されて戦ったのだろう。この戦いで叔父の油川信恵が戦死している。もし立場が逆だったら、この日に信虎の人生は終わっていたことになる。当時としてはありふれた話だろうが、厳しい話には違いない。 <br>実際にどういう戦いだったかは分からないが、今の勝山城は平和な果樹園であり、歴史を知らない人がここを訪れても城跡だとは気づくことはないだろう。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城、遠景。結構良いアングルだった。</em>
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<h3>ホテルへ</h3>
<p>勝山城跡を降りてくると、16時になっていた。ホテルは甲府盆地の真ん中やや西側の国母近くにあるので、ここから自転車で40分ぐらいかかりそうだ。いい時間である。私はホテルに向かった。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>
<h3>資料: 武田信虎の年表</h3>
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その2 信虎初陣ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎 恵林寺 川田館跡 曽根勝山城 山梨県 甲府市

【その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー】<h3>武田信虎</h3>
<p>武田信虎は武田信玄の父親で、一般的には「暴君」として知られている。暴君なあまり、信玄に追放されたという。</p>
<p>私 はこの理解に、特段異議を唱えるつもりはない。が、暴君だったという理由で彼の業績を無視するのは適切ではないと思う。というのは、信虎の時代を無視する と、北条早雲から信玄の時代へのつながりが見えなくなるし、信玄という人物と業績も十分理解することができないためだ。</p>
<p>信玄は信虎から国土、家臣団、人民などの地盤を受け継いだのであり、もし信虎が甲斐を統一していなければ、信濃のように近隣の強国に併呑されていた可能性がある。仮に信玄が甲斐統一を成し遂げたとしても、長い年月を要したと思う。</p>
<h3>今回の歴史サイクリングの概要</h3>
<p>2011年9月末に行った歴史サイクリングでは、信虎が甲斐守護となってから、実質的な支配者となる大永元年(1521年)までの甲斐統一戦を追うことがテーマだった。<br>すでに500年ほど経過しているが、彼が住んだ場所、戦った場所などをめぐることで、さまざまな局面における信虎の「その時」に近づきたいと思っている。 こればっかりは机上ではできない。</p>
<h3>信虎以前</h3>
<p>信虎以前の甲斐武田氏の歴史を遡ると、清和源氏発祥からはじまる。あまりに過去に遡ると、読者にはきついと思うので、ザックリとした説明にとどめた。この辺の事情を知りたい方は次の資料をご参考いただきたい。</p>
<p><strong>柴辻 俊六『武田信虎のすべて』</strong></p>
<h3>源氏の流れを引く名家</h3>
<p>甲斐武田氏は戦国時代の成上り大名とは違い、源氏の流れを引く名家である。浮き沈みはあったものの、鎌倉から戦国時代まで甲斐守護であり続けた。 <br>室町時代の中期には、甲斐も他国同様、守護代の権力が伸長した。応仁の乱の頃、甲斐守護代の跡部氏による下克上が起こってもおかしくない状況だったが、信虎の祖父、信昌は1465年に甲斐守護代の跡部氏を破り、甲斐を統一することに成功した。</p>
<h3>争いやまず</h3>
<p>信虎の祖父、信昌は跡部氏が強盛の頃、跡部氏の娘を正室として娶らされており、その子が信虎の父、信縄だった。信昌には側室の子があり、油川信恵(武田信恵)といった。信昌は跡部氏の血を引く信縄よりも、信恵を可愛がった。 <br>そ の結果、1492年、またもや、甲斐守護の信縄 VS 信昌(父)・信恵(異母弟)という図式で争いが起こった。この戦いは関東の情勢とも無関係ではなく、守護の信縄が関東管領の山内上杉氏派で、信昌・信恵が 扇谷上杉氏派(この頃、今川氏親と北条早雲も扇谷上杉氏派)だった。</p>
<p>そんな中、1494年、のちの武田信虎は誕生した。早雲の伊豆討ち入りの翌年である。 この骨肉の争いは延々と続いたが、1498年の<a>明応の大地震</a>(東 海・東南海・南海連動型地震だった可能性が指摘されている)が起こり、もはや戦っている場合ではなくなったようで、両者は和睦した。 東日本大震災を経験した我々は、この時の甲斐や東海地方がどういう状況だったか推測できると思う。 また、いくさがやむほどの大震災を経験した5歳の信虎の姿も想像してもらいたい。</p>
<p>しかし、この和睦は根本的な解決にはならず、危機は潜在することになった。和睦から7年後の1505年に祖父、信昌が死去し、その2年後に父、信縄も37歳の若さで死去する。</p>
<h3>信虎、家督相続</h3>
<p>父、信縄が死去した時、信虎は数え年で14歳だった。 <br>甲斐守護であり、父である信縄を失い、今なら中学1年生ぐらいの少年が甲斐守護となったのである。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , by fuji3zpg 開く

武田信虎

【なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー】<p>2年ほど前に、”荊棘の甲斐統一戦、武田信虎の「その時」を追う”というシリーズを書きました。</p>
<h2>目次</h2>
<ul>
<li><a>はじめに 北条早雲と武田信虎は同時代人</a></li>
<li><a>その1 信虎以前</a></li>
<li><a>その2 信虎初陣</a></li>
<li><a>その3 信虎、大井信達と戦う</a></li>
<li><a>その4 駿河勢、甲斐に乱入</a></li>
<li><a>その5 躑躅ヶ崎館と要害山城</a></li>
</ul>
<h2>なぜ信虎か?</h2>
<p>北条早雲がブログのテーマなのに、なぜ武田信玄の父、武田信虎が出てくるのだろうと思われた読者は少なくないと思う。</p>
<h2>早雲と信虎の年齢差</h2>
<p>次のグラフを見てもらいたい。</p>
<div> </div>
<p>実はこの2人、10数年、活動時期が一致している。 <br>1490-1500年前半の、信虎の父、武田信縄が甲斐守護であった頃、関東情勢に武田の影響力はほとんどなかった。しかし、信虎が家督を継承してから20年ほど経過した1520年代中頃に入ると、武田信虎の関東介入は北条にとって大きな頭痛の種となった。この時、早雲はすでに死去しており、当主は早雲の息子、北条氏綱だった。</p>
<h2>信虎を調べる</h2>
<p>1500年代後半-1510年代、甲斐に何があったのだろうか。<br> 私はこのことに興味を覚えたので、いろいろ調べてみた。すると、かつて暴君のイメージしかなかった信虎という人物が違ったふうに見えるようになった。そして、信玄に対する認識も変わった。</p>
<p>資料はある程度読んだので、状況は理解したが、現地に行かないと「絵」が見えない。そこで、信虎をテーマに2011年9月末に歴史サイクリングをしてきた。そのレポートを公開する前に、ざっくりと早雲と信虎の活動時期が重なった部分を見ていきたい。</p>
<h2>武田信虎の年表</h2>
<div> </div>
<h2>早雲の伊豆討ち入りと信虎誕生、そして、信虎、甲斐守護へ</h2>
<p>北条早雲が伊豆に討ち入った翌年の1494年、武田信虎は甲斐守護、武田信縄の子として誕生している。 甲斐守護、武田信縄が死去したのが1507年で、その年、信虎は14歳で甲斐守護となった。 こ<br>の頃までに、早雲は伊豆攻略を完了して、小田原城を奪い、この城を関東の橋頭堡として東相模領有の機会を窺っていた。そして、翌々年、早雲は両上杉相手に戦いをはじめる。</p>
<h2>信虎の苦闘と早雲の東相模攻略戦</h2>
<p>一方、若年ながら、信虎は翌年の1508年に叔父の油川信恵を滅ぼして、武田家内部の戦いに勝った。そして、割拠する有力国人を相手に戦いをはじめる。この戦いは武田家が守護大名から戦国大名へ脱皮できるかどうかの瀬戸際の戦いだった。もし失敗していれば、信濃のような分裂状態に陥って、近隣の強国に支配されていた可能性があった。</p>
<p>その間、早雲は東相模の雄、三浦氏と岡崎、そして、鎌倉で戦って勝利し、三浦氏の本拠地、新井城を囲んだ。 この辺りの話は『三浦一族の滅亡-かわらけー』で書いた。</p>
<p>信虎が10数年の苦闘を経て、一応の甲斐統一に成功した頃、早雲は三浦氏を滅ぼして相模攻略を完了させ、息子の氏綱に家督を譲った翌年(1519年)、死去した。</p>
<h2>時期は重なるが、正面衝突はしなかった両者</h2>
<p>このように、信虎と早雲は40歳ほど年齢が離れているにもかからず、活動時期が10年強、重なっている。しかし、互いに活動範囲が別だったので、正面からは衝突していない。このことは信虎にとって幸いだった。</p>
<p>扇谷上杉氏(時期によっては両上杉)という大きな敵を相手に戦っていた早雲にとっても、この時期は苦しく、東相模攻略以外に主力を向ける余裕はなかった。 このような事情で、同時代人にもかかわらず、早雲と信虎の関係は意識されないのだと思う。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/6/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

飯田河原合戦 上条河原合戦 フィールドをゆく 武田信虎 武田信虎の甲斐統一戦ーフィールドをゆく(4)ー

<p>滝沢川の橋の上から富田城があったといわれる甲西工業団地をのぞむ。 <br>中部横断自動車道が団地内を通っている。背後が南アルプス。</p>

作成日:2014/6/25 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎

<p>若き武田信虎による甲府盆地統一戦の絵地図。</p>
<p>昭和インター辺りから竜王の信玄堤→椿城(上野城)→富田城を歴史サイクリングしたが、黄色の太線がその走行ルート。</p>

作成日:2014/6/25 , by fuji3zpg 開く

絵地図 武田信虎

【北条早雲と武田信虎は同時代人】<h2>なぜ信虎か?</h2>
<p>北条早雲がブログのテーマなのに、なぜ武田信玄の父、武田信虎が出てくるのだろうと思われた読者は少なくないと思う。</p>
<h2>早雲と信虎の年齢差</h2>
<p>次のグラフを見てもらいたい。</p>
<div> </div>
<p>実はこの2人、10数年、活動時期が一致している。 <br>1490-1500年前半の、信虎の父、武田信縄が甲斐守護であった頃、関東情勢に武田の影響力はほとんどなかった。しかし、信虎が家督を継承してから20年ほど経過した1520年代中頃に入ると、武田信虎の関東介入は北条にとって大きな頭痛の種となった。この時、早雲はすでに死去しており、当主は早雲の息子、北条氏綱だった。</p>
<h2>信虎を調べる</h2>
<p>1500年代後半-1510年代、甲斐に何があったのだろうか。<br> 私はこのことに興味を覚えたので、いろいろ調べてみた。すると、かつて暴君のイメージしかなかった信虎という人物が違ったふうに見えるようになった。そして、信玄に対する認識も変わった。</p>
<p>資料はある程度読んだので、状況は理解したが、現地に行かないと「絵」が見えない。そこで、信虎をテーマに2011年9月末に歴史サイクリングをしてきた。そのレポートを公開する前に、ざっくりと早雲と信虎の活動時期が重なった部分を見ていきたい。</p>
<h2>武田信虎の年表</h2>
<div> </div>
<h2>早雲の伊豆討ち入りと信虎誕生、そして、信虎、甲斐守護へ</h2>
<p>北条早雲が伊豆に討ち入った翌年の1494年、武田信虎は甲斐守護、武田信縄の子として誕生している。 甲斐守護、武田信縄が死去したのが1507年で、その年、信虎は14歳で甲斐守護となった。 こ<br>の頃までに、早雲は伊豆攻略を完了して、小田原城を奪い、この城を関東の橋頭堡として東相模領有の機会を窺っていた。そして、翌々年、早雲は両上杉相手に戦いをはじめる。</p>
<h2>信虎の苦闘と早雲の東相模攻略戦</h2>
<p>一方、若年ながら、信虎は翌年の1508年に叔父の油川信恵を滅ぼして、武田家内部の戦いに勝った。そして、割拠する有力国人を相手に戦いをはじめる。この戦いは武田家が守護大名から戦国大名へ脱皮できるかどうかの瀬戸際の戦いだった。もし失敗していれば、信濃のような分裂状態に陥って、近隣の強国に支配されていた可能性があった。</p>
<p>その間、早雲は東相模の雄、三浦氏と岡崎、そして、鎌倉で戦って勝利し、三浦氏の本拠地、新井城を囲んだ。 この辺りの話は『三浦一族の滅亡-かわらけー』で書いた。</p>
<p>信虎が10数年の苦闘を経て、一応の甲斐統一に成功した頃、早雲は三浦氏を滅ぼして相模攻略を完了させ、息子の氏綱に家督を譲った翌年(1519年)、死去した。</p>
<h2>時期は重なるが、正面衝突はしなかった両者</h2>
<p>このように、信虎と早雲は40歳ほど年齢が離れているにもかからず、活動時期が10年強、重なっている。しかし、互いに活動範囲が別だったので、正面からは衝突していない。このことは信虎にとって幸いだった。</p>
<p>扇谷上杉氏(時期によっては両上杉)という大きな敵を相手に戦っていた早雲にとっても、この時期は苦しく、東相模攻略以外に主力を向ける余裕はなかった。 このような事情で、同時代人にもかかわらず、早雲と信虎の関係は意識されないのだと思う。</p>
<p>(終)</p>

北条早雲と武田信虎は同時代人

作成日:2014/6/24 , by fuji3zpg 開く

フィールドをゆく 武田信虎 北条早雲

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世界史古代概略
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応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
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