<p>姫路城西の丸から東に進み、はの門前の石段。<br>敵軍が歩きにくいように、高さと長さが変えてある。</p>
<p>2003年NHK大河『武蔵』で、姫路城に幽閉された武蔵が逃げたシーンに使われたらしい。あと、黒澤明監督の映画『影武者』の武田信玄狙撃のシーンでも使われた。</p>

作成日:2014/10/20 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

ロケ地 兵庫県 姫路市

【その5 躑躅ヶ崎館と要害山城ー武田信虎の戦いー】<h2>躑躅ヶ崎館</h2>
<p>3日目、多少の疲労感が残る中、ホテルを出発した。目的地は躑躅ヶ崎館、現在の武田神社である。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>躑躅ヶ崎館付近の絵地図。 </em><br><em>躑躅ヶ崎館は相川扇状地の谷に位置し、西側は北から南へ荒川、東側は北東から南西へ笛吹川が流れている。北には山の麓に積翠寺が、詰の城として要害山城がある。 </em><br><em>その4で触れたとおり、福島勢乱入の際、身重の大井夫人が積翠寺に避難して信玄を生んだ。 この時を含め、結局、要害山城で戦闘が行われることはなかった。</em>
</div>
<div> </div>
<p>かつて、信虎が作った躑躅ヶ崎館は、信玄、勝頼も拠点とし、勝頼が韮崎の新府城に移すまで、武田家の本拠地だった。<br> 信玄ファンにとっては、「聖地」と言えるかもしれない。</p>
<h3>信玄と信玄公</h3>
<p>余談だが、山梨に来てから、信玄は「信玄」ではなく、「信玄公」であることを思い知らされた。現在も信玄が尊敬されていると本に書いてあったので知ってはいたが、土産物屋にはたいてい「信玄」の名が付いている。たとえば、「信玄餅」というのがある。</p>
<p>この旅の行く先々で、10名ぐらいの人と話をしたと思うが、やはり、「信玄」というのと「信玄公」というのでは微妙に反応が違うことに気づいた。 <br>勝手な想像だが、浄土真宗の人に「親鸞」というのと「親鸞聖人」というのとの違いに似ているかもしれない。 ともあれ、同宗のよしみを感じてくれるようなので、3日目からは「信玄公」ということにした。</p>
<h3>武田神社</h3>
<p>武田神社は甲府駅の2kmほど北にあり、なだらかな上り坂が続く。 <br>いつものように最初は頑張って坂を走ったが、途中で諦めて、自転車を降りて歩いた。いま歩いている武田通りには、信玄の家臣や一門の屋敷跡を告げる案内板がいくつも立っている。山梨大学付近の秋山伯耆守や信玄の弟、武田信繁の屋敷など、お馴染みの人物の屋敷の位置が紹介されていた。</p>
<p>武田神社の前に行くと、水堀がある。ここで大軍を相手に籠城することは無理だが、館として使用するなら立派なものだった。武田神社の内部は想像より、多少小さめだったが、遺構はよく残っていた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年10月撮影: </em><br><em>躑躅ヶ崎館跡、西曲輪の水堀。</em>
</div>
<div> </div>
<p>信玄の嫡男、武田義信が住んだとされる西曲輪には、ほとんど何もなかったが、現在、発掘調査が行われたいるようで、ブルーシートが敷かれていた。</p>
<p>西曲輪から武田神社を出ると、かつて味噌曲輪だった野に出る。まさに古城の雰囲気があり、想像力を掻き立てられる。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年撮影: </em><br><em>かつて、味噌曲輪だったところ。撮影地点から北側に信玄の弟、武田逍遥軒信廉の屋敷があった。</em>
</div>
<div> </div>
<p>ここから北に2kmほど行くと、大永元年(1521年)、福島勢乱入の際、身重の大井夫人が避難したという積翠寺と躑躅ヶ崎館の詰めの城(有事の際に使用する城)、要害山城がある。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年10月撮影: </em><br><em>躑躅ヶ崎館から要害山城方面をのぞむ。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>積翠寺</h3>
<p>見た感じ、積翠寺、要害山城まで上り坂が続くので、自転車を置いて、歩いていくことにした。</p>
<p>現在、11時である。この日は過ごしやすかったが、なぜかこの時間帯だけは日が照っていた。結構暑く、汗が出る。しかも2日間の疲労(自転車だけで約100km走っていた)に加えて、すでに休みなく2時間半ほど武田神社内をウロウロしていたので、登りはじめる前から結構疲れていた。</p>
<p>上り坂であったことと道がクネクネしていたこともあってか、2kmという疲労感ではなかった。 <br>が、ともかく、積翠寺に到着した。ここからの眺めはよく、甲府盆地の西側を一望できる。ただ、残念ながら、電信柱と電線が眺めを邪魔していた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月撮影: </em><br><em>石碑には「機山武田信玄公誕生之地」と書いてある。 </em><br><em>これまで見てきたように、武田信玄が生まれた頃、危機的な状況だった。信玄の人生は赤子の頃から試練に晒されていたが、この時は父、信虎が守ってくれた。</em>
</div>
<div> </div>
<p>例の乱入の折に生まれた信玄の人生は、ここからはじまったのである。 <br>感慨に浸りながら、これからの彼の人生と眼下で戦っていた信虎のことを思った。もし信虎が上条河原の戦いで負けていれば、信玄は生後10日ほどで、ここからどのかの土地に落ちるか、逃げ切れず捕まっていたかもしれない。</p>
<h3>要害山城</h3>
<p>あとは要害山城に登るだけである。 <br>積翠寺の100mほど北に行くと、「要害」というホテルがある。ここに要害山城に関する案内板があり、そこから右手に城への入り口がある。このホテルで昼食をとるかどうか迷ったが、どうせまた汗だくになるのは明らかなので、下山後、温泉に入って、昼食をとることにした。</p>
<p>飴を左膝のポケットから取り出して舐める。これで少しは元気が出るだろう。さて、出発。</p>
<p>この城ははっきり言って山だった。まあ、要害山城という名前の通り、山城なので当然なのだが、特に登り始めの傾斜がきつくて閉口した。半分ぐらい登ると、曲輪と門が続く、この辺まで来ると、傾斜は階段になっており、登りやすかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年10月撮影: </em><br><em>要害山の尾根にこういった曲輪がいくつも並び、その都度、門が配置されていた。</em>
</div>
<div> </div>
<p>資料によると、門は8つあるそうで、山城にしては立派なものである。 <br>最後の門に到達して、本郭に来たときは思わず「ヤッター!」と叫んだ。もし誰かいたら、恥ずかしかっただろう。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年10月撮影: </em><br><em>要害山城、最後の門跡。 </em><br><em>中盤から嫌気が差していたので、ここに辿り着いた時には両腕ガッツポーズをして叫んだ。 </em><br><em>なお、この日は土曜日の昼頃だったが、結局、誰一人出会わなかった。関東の場合は、どんなにマニアックな城に行っても、誰かしらいるものだが、山城とはいえ、週末に要害山城のような(城好きには)著名な城で誰とも会わないというのは驚きだった。</em>
</div>
<div> </div>
<p>本郭は想定外に広かった。 <br>本郭をしばらく散策したあと、倒木に腰をおろして休んだ。 <br>噴き出る汗を拭いながら、周囲の、そして、眼下の景色をしばし眺めていた。</p>
<p>さあ、下りよう。 <br>ホテルの温泉と昼食が待っている。</p>
<p>空腹と疲労による重い足取りで、私は山を下りはじめた。</p>
<h3>ホテル「要害」</h3>
<p>ヘトヘトになって、ホテル「要害」に着いた。</p>
<p>受付で温泉と昼食を頼むと、どちらを先にするか聞かれたので、温泉に先に行くと答えた。 <br>温泉のある一段下の階に行って、男湯の暖簾をくぐると、おじさんが2人いたが、入れ替わるように出ていった。風呂場に行くと、誰もいなかった。まあ14時頃だったので、不思議ではないが、思わぬ貸切風呂を満喫できた。</p>
<p>温泉で疲れを癒したあと、昼食をとった。 何とかという魚の甘煮がメインの定食を注文し、絶景をテラスから楽しんだ。腹べこだったこともあったかもしれないが、甘煮はおいしかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年10月撮影: </em><br><em>ホテル「要害」からの眺めがとてもよかった。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>こんにちはー!</h3>
<p>腹も満たされたので、武田神社を目指して、ホテル「要害」を出発した。</p>
<p>なぜか知らないが、ここは気持ちのいいところだった。思わず、鼻歌まじりで歩いてしまいそうだ。しかも、この頃には日差しも柔らかく、気温も適当に過ごしやすい。まさに、ハイキングにピッタリの天気といえる。</p>
<p>積翠寺から200mほど、下りた所で、5歳ともう少し小さいぐらいの女の子が行きと同じように遊んでいた。様子からして、姉妹かもしれない。 <br>私が通り過ぎる頃、大きい方の女の子が「こんにちはー!」と元気のいい声で挨拶してくれ、小さい方の女の子も高い声で「こんにちはー!」と続いた。 <br>旅の途中、私から声をかけることはあっても、かけられることは少ないので、ちょっと驚いたが、私もにこやかに「こんにちはー!」といった。 これだけの何でもない話だが、とても清々しい気分になった。</p>
<h3>日程終了</h3>
<p>事前に予定していた場所にはすべて行くことができた。 <br>入念に準備していたこともあるが、iPhoneのGPS機能とGoogleマップに負うところが大きい。もしiPhoneを持っていなかったら、半分ぐらいしか行けなかっただろう。</p>
<p>歴史サイクリングは楽しいものだが、今回は異様に面白かった。 <br>また機会を見つけて、ブロンプトンで走りにいきたいものだ。</p>
<p>(終)</p>

その5 躑躅ヶ崎館と要害山城ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

躑躅ヶ崎館 積翠寺 要害山城 山梨県 甲府市

【その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー】<h3>信虎、窮地を脱し、大井信達と和睦</h3>
<p>永正12年(1515年)、大井信達との戦いに敗れ、武田信虎は滅亡の危機に瀕したが、2年後、郡内方面で勢力挽回した。その結果、今川氏親は連歌師、宗長(氏親の外交官でもあった)を仲介者として、信虎と接触し、永正14年(1517年)、信虎は大井信達と和睦した。</p>
<p>信虎としては、7年前に妹を小山田氏の当主に輿入れさせ、懐柔した甲斐があったとほくそ笑んでいたことだろう。</p>
<h3>宗長回想</h3>
<p>宗長、この人を覚えているだろうか。</p>
<p>宗長は北条早雲が今川氏親を擁立しようとした時に(氏親の父、今川義忠が遠江で戦死して今川家の家督継承問題が起こった文明8年(1476年))、小川の長者、長谷川法永と共に氏親・早雲の味方として動いた人物である。この時、宗長は29歳だったが、今は高齢で、70歳になっていた(しかし、彼の寿命はまだ15年残っていた)。 <br>当時、連歌師は他国の大名や要人と直に会えるため、外交官の役割も果たしていた。のちには、茶人がこの役割を果たす。</p>
<h3>大井信達の娘、大井夫人</h3>
<p>この和睦時に、大井信達から信虎がめとったのが、大井夫人である。のちに、武田信玄の母親となる人だ。信虎は24歳、大井夫人は21歳だった。 <br>信虎にとっては、自分を散々苦しめた大井信達の娘を正室として、めとることになるわけだ。生まれてきた子は、大井信達の孫となる。</p>
<p>余談だが、椿城に行った時、看板に「武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡」という看板があった。私は椿城を、信虎の宿敵、大井信達の牙城と捉えていたので、ちょっとした衝撃があった。言い方一つで印象は変わるものだ。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城を目指して歩いている時に目にした看板。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>信虎、本拠地を躑躅ヶ崎館に移る</h3>
<p>大井信達との和睦から2年後、信虎は祖父の信昌以来の甲斐守護の拠点だった、川田館から躑躅ヶ崎館を建設して移った。</p>
<p>信虎はいまだ各地に割拠する国人たちにも躑躅ヶ崎の城下町への集住を命じたので、反発をくらった。この政策も戦国大名に脱皮しようする信虎の意思を反映したものだった。 <br>分権を望む大井、今井、栗原などの有力国人は反乱を起こしたが、永正17年(1520年)、信虎は反乱軍を撃破して、一応の甲斐統一を成し遂げた。この時、信虎は27歳となっていた。</p>
<h3>駿河から大軍、来襲</h3>
<p>翌年、永正から大永と改元された。思えば、永正4年に14歳で家督を相続してから信虎は甲斐統一のため、常に体を張って戦ってきた。紙一重の生死の狭間をすり抜け、その武略と努力と幸運の結果が一応の甲斐統一だった。しかし、まだ信虎の危機は終わらない、といより最大の危機が迫っていた。</p>
<p>大永元年2月、駿河から福島勢が甲斐に乱入してきたのである(*)。 <br>8月の河内(南巨摩郡)の合戦では勝利したものの、9月には駿河の福島勢が大挙して押し寄せてきた。その数、1万5千とも言われる(実際のところ、人数はよく分からない)。それに対して、統一から日が浅い信虎勢は足並みが揃わず、2千ぐらいだったという。とにかく、信虎にとって、圧倒的に不利な戦いであったことは間違いないだろう。</p>
<div><em>(*)かつては、今川氏親が派遣した軍といわれていたが、最近では、氏親の命令ではないという説が有力視されている。いずれにしても、駿河方面から福島氏の軍勢が攻めてきたことは史実である。</em></div>
<p>信虎は同月に大島(南巨摩郡身延町大島)で福島勢と戦ったが、敗北した。福島勢はそのまま北上し、9月16日に大井氏の属城、富田城を落とした。</p>
<h3>富田城を北上、稲作地帯をゆく</h3>
<p>私は富田城を出て北上した。目的地は絵地図にある荒川湖畔の古戦場である。 <br>釜無川を渡ってからは平地が続く。稲作地帯である。かつては、この辺を釜無川の本流、支流、細流が流れていたらしい。とにかく、洪水地帯であったようで、現代のように稲作ができるのはまったくもって、信玄以来の治水事業のおかげだろう。</p>
<p>このシリーズの中で何度か書いているように、甲府盆地は思ったより広い。また、きつくはないが、緩い傾斜の上り坂になっているので、富田城を出てから古戦場に行くまでに、案外時間がかかってしまった。1時間ちょっとぐらいは走ったと思う。途中、雲間から光が指す光景は神々しかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>釜無川にかかる橋の上から雲間の光をのぞむ。本物は遥かによかった。 <br>信虎も同じような空を見ただろう。</div>
<div> </div>
<p>甲府盆地を走っていて、いくつか気づいたことがある。その内を1つをここで紹介したい。 <br>それは適当に走っても、方向が合っていたら、目的地に行けるということだ。当たり前だと思われるかもしれないが、案外そうではない。関東平野で同じ事をやると、途中で行き止まりになっていたり、全然違う方向に流されてしうことは少なくない。特に、自宅がある調布はひどく、iPhoneのGPS機能を使わなかったら、帰れないことがいくらでもあった。まるで、リアル迷路だ。 <br>まあ、それはいいとして、甲府盆地は山の形と太陽の位置を頭に入れておくと、まず方向を失うことはない。したがって、細い道でもどんどん入っていけた。こういう地域はありそうでない。生活者の意見が尊重されている地域なのかもしれないと土地不案内者ながら思った。</p>
<h3>福島勢迫り、信虎、懐妊中の大井夫人を積翠寺へ避難させる</h3>
<p>釜無川下流を押さえられ、危機感を募らせた信虎は、身重の妻、大井夫人を躑躅ヶ崎館の北方の山麓にある積翠寺に移す。そして、28歳の信虎は福島勢と戦うべく、躑躅ヶ崎館を出陣した。14年間も戦ってきた結果が、このザマである。信虎は苦々しく思っただろう。</p>
<h3>福島勢の動き</h3>
<p>さて、福島勢である。この時の福島勢の動きが遅い。妙である。 <br>富田城を落として、1ヶ月もの間、福島勢は攻めて来なかったのである。</p>
<p>なぜこれほど動きが緩慢だったのだろうか。大軍を維持するのは大変である。 <br>例えば、1万人の水・食糧・寝床・武器・排泄物の処理など、滞りなく行うようにと読者が命令されたとする。想像しただけで大変な仕事なのは明らかである。1万人を養うには相当の計画性と物資とカネが必要だ。これらが行われないとたちまち不満の声が満ち、戦力は落ち、疫病が蔓延したりする。下手をすると、戦う前に軍が崩壊したり、不満が自軍の首脳に向くこともありうる。</p>
<h3>信虎の防衛ライン</h3>
<p>信虎の防衛ラインはおそらく、笛吹川と荒川だったと思う。笛吹川は甲斐の北東から南西に流れる暴れ川だった。荒川も名前の通りだったのではないかと思う。今よりも、河原は広かっただろう。</p>
<p><a><img></a></p>
<div> <em>2日目の14時頃に、富田城を出て、稲作地帯を抜け、荒川に向かった。もしかしたら、福島勢も同じような経路で戦場に向かったかもしれない。 黄色が自転車で走った経路。</em>
</div>
<p>福島勢の動きは鈍い。その理由として、内部でまとまりを欠いていたのではないかという指摘がある。 <br>もう1つは当時は治水技術が発達していなかったので、一度大雨が降ると、川を渡れなくなる。仮に福島勢が荒川・笛吹川を越えて、躑躅ヶ崎館を襲ったとしよう。たとえ躑躅ヶ崎館を即座に落としても、詰の城の要害山城はすぐには落とせない可能性がある。 <br>その間に、大雨が降り、補給ラインが途絶えたところを、信虎が全力で反撃してくる。この状態で敗れたら大変である。下手をすると、全滅する可能性すらある。何せ後ろが洪水地帯だと自動的に背水の陣状態になるのである。それを恐れた福島勢首脳は、荒川・笛吹川流域に住む百姓に尋問して、洪水についての情報を集めていたのではないかと話が書いてあった(**)。</p>
<div>
<em>(**)洪水説は</em><em><em>武田八洲満『信 虎』</em>に出てくる。 武田信虎の数少ない歴史小説の1つ。ちょっと信虎を弱く書きすぎている感はあるが、労作であることは間違いない。</em>
</div>
<h3>両軍、激闘!飯田河原合戦</h3>
<p>理由はよくわからないが、富田城が陥落してから1ヶ月後、ようやく、福島勢は荒川の左岸にやってきた。 <br>場所は飯田河原であったという。飯田河原古戦場の石碑が立っている場所から躑躅ヶ崎館まで直線距離で3kmである。駅でいえば、甲府駅と竜王駅の間にある。</p>
<p>高校時代、私は高校まで10kmの距離を通っていた。自転車で約30分だった。つまり、3kmというのは自転車で10分ちょっとで行けてしまう距離である。騎馬で疾走すれば、もっと早く着くだろう。 <br>地図で飯田河原古戦場をはじめて調べた時、躑躅ヶ崎館との距離の近さに驚いた。これなら、身重の妻を山麓に避難させるのは当然だ。10分で妊婦が避難できるわけがない。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場付近から荒川左岸をのぞむ。 </em><br><em>対岸にいる雲霞の如き大軍が信虎の首を狙っているのである。いくら強気の信虎でもゾッとしただろう。</em>
</div>
<div> </div>
<p>この戦いが飯田河原合戦で、信虎勢は数には劣るものの、よく戦い、敵を100余人討ちとって、荒川の西側に福島勢を押し返した。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場の石碑 </em><br><em>この辺は人の往来が多く、信虎勢と福島勢が戦った跡はいささかも感じられなかった。黙祷を捧げて、古戦場をあとにした。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>信虎、嫡男誕生!</h3>
<p>その後、福島勢は、一旦、曽根の勝山城まで退去した。だが、むろん、これですべてが終わったわけではなく、次の戦いへの準備期間であるに過ぎない。</p>
<p>再び、両軍の斥候や前衛が荒川を挟んで睨み合っただろう。この睨み合いの最中に誕生したのが武田太郎、のちの武田信玄である。11月3日のことであった。当主の男児誕生に信虎勢の士気はあがった。</p>
<h3>人生のテーマ</h3>
<p>読者は人生にテーマをお持ちだろうか。持っている人も持っていない人もいると思う。</p>
<p>現代日本では、一部の例外を除いて、ある程度は自分の人生を自分で決めることができる。私も自分の人生を自分で決めてきた。歴史的に見ると、こういった状態は幸運だと言えると思う。 <br>現代日本の住人と異なり、武田信虎は好きで、甲斐守護になったのではない。門閥貴族というのはそういうもので、父親が隠居か死亡すれば、自動的に子が当主になる。つまり、地位を継ぐ基準は血の濃さだった。武田家も同じで、甲斐守護家の直系に生まれない限り、正規ルートで甲斐守護にはなれない。信虎は、甲斐守護の父、信縄が死去したので、甲斐守護になった。</p>
<p>信虎がここまで14年間も戦ってきたのは彼の好みというよりも、有無をいわさず、立場上、課せられたテーマを果たしたまでである。そのテーマとは甲斐の統一である。このテーマを果たせなければ、滅亡するか、甲斐を逃げ出す以外に道はない。</p>
<p>課せられたテーマを果たすことは、自分で選んだテーマを果たすことよりも低級だということはないと思う。要は、その人が諸々の制約の中で人生のテーマと如何に関わったかこそが問われるのだと私は思う。その点、信虎は確かに課せられたテーマを自分のテーマとして真正面から捉え、戦い抜いた男だと思う。</p>
<h3>信虎の「その時」、上条河原合戦</h3>
<p>飯田河原古戦場の2kmほど上流に上条というところがある。ここで最終決戦が行われた。信虎のテーマが成就するか、敗れ去るか、この戦いにかかっていた。人生の決定的な瞬間、つまり、「その時」であったといえる。 上条で荒川を渡ったら、指呼の間に躑躅ヶ崎館がある。信虎としては荒川の防衛ラインを破られるわけにはいかない。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>上条河原合戦古戦場付近。なぜか石碑などはないらしい。飯田河原合戦も重要だが、上条河原合戦のほうが決定的戦いだと思うので、残念に思った。<br>飯田河原古戦場から2kmほど上流の上条で戦いがあったという。地図を見ると、秩父往還がここを通っている。信虎はこの道を通って、上条河原にやってきたのかもしれない。</div>
<div> </div>
<p>信玄出生から20日後の11月23日、再び、戦雲が甲斐を覆う。 <br>旧暦は現在の暦でいうと、1ヶ月ほど進めた時期だと考えてもらいたい。つまり、現在でいうと、1月ぐらいの寒さの中での戦いだった。しかも、ここは温暖な駿河ではなく、標高の高い甲府盆地だ。もし福島勢が荒川を渡河したとしたら、荒川の水の冷たさはこたえただろう。</p>
<p>この日、福島勢と信虎勢は上条河原で激突する。信虎勢は福島氏の大軍を相手に奮戦した。信虎の家臣たちも負ければ、福島勢に殺されるか、生き残っても従属させられ、以後、一番危険な戦場に送られることになる。それに対して、福島勢には遠征の飽きと疲れもあったことだろう。</p>
<p>まさに信虎の「その時」がはじまろうとしている。 <br>20日前に生まれた新しい命のためにも、信虎は奮い立ったかもしれない。信虎を含め、戦う前に両軍の武者たちの胸中には様々な思いが去来したことだろう。それらを心の支えにして、戦いははじまった。。。</p>
<p>この上条河原合戦で、信虎勢は福島勢を大敗させ、福島勢の大将たちを軒並み討ちとった。福島勢は崩壊して、南に潰走し、曽根の勝山城に逃げ込んだ。福島勢は600人もの死者を出したともいわれている。</p>
<h3>信虎の「その時」</h3>
<div> </div>
<h3>統一成る</h3>
<p>結果は信虎の完勝だった。翌年1月14日、曽根の勝山城に籠っていた福島勢は降伏し、生き残った福島勢は駿河に退去した。苛烈な状況を切り抜け、甲斐を統一し、外敵を駆逐した若き守護に家臣はもちろん、領民も希望を見出しただろう。 今川、北条との戦いはまだまだ続くが、ここに信虎は甲斐統一に成功した。国内の国人勢力を一掃するのになお10年を要したが、もはや以前のように苦戦していない。 信虎は統一によって膨らんだ国力を使って、関東への介入、信濃への侵略を行なっていくことになる。これらの戦いが次の時代を準備した。 </p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

飯田河原の戦い 上条河原の戦い 山梨県 甲斐市