今年(2010年)5月初旬のある日、私は寄居まで電車で行き、荒川沿いに東進して、赤浜にゆき、そこから、旧鎌倉街道沿いに南下した。南下して、 (高見原の合戦があった)高見原の四津山城を見て、下りてくる頃には12時半頃になっていた。飲み物も少なくなり、のどが渇く。そして昼飯時でもあったの で、どこか適当なところで店に入るか、コンビニで昼食を買おうと思った。
自転車で走り始めると、そば屋やうどん屋など、いくつか店があったが、もう少ししっかり食べたいと思っていたので通り過ぎた。さすがに我慢できなってきたので、コンビニで何か買おうと思っていたが、行けども行けどもコンビニがない。どうもコンビニがない地域らしい。本当にないので弱ったなと思っていたら、 ついに一軒食料品店を見つけ、そこでおにぎりやパン、飲み物など、昼食を買うことができた。しかし、あれだけの区間、食料品店がないとなると、地元の人は どうしているのだろうか。道路からは見えないところに店があるのだろうか。まあ、いらぬお世話だろうが。
5月とはいえ、13時ごろの日差しが強烈なので、早くどこかで一休みしたいと思った。だが、基本的に道の両側に民家がある他は影になるものがあまりない。都心で高い建物が林立し、日陰が至 るところにある環境とは違うのである。結局、私が選んだのは、鎌倉街道を少し右側に入ったところにあったトンネルの下だった。たまに車と風が走りぬける。 一度、強風で自転車が倒れてしまった。何だか冴えない昼食になったものだ。読者は、「そういったところであれば、木陰など、たくさんあるんじゃないか」と思うかもしれないが、そういったところは私有地なので、気軽には入れない。そして、公園のような施設も見当たらなかったので、人から咎められず、昼食をと ることができるスペースというのは案外なかったのである。
そんなことで、多少苦戦しつつも昼食をとったあと、再度、鎌倉街道を南下し始めた。自転車が走ることを想定していないためか、あまり走りやすい道とはいえない道だった。次の目的地は杉山城だ。杉山城は菅谷館から北西に3kmほどのと ころにあり、当城の西側を鎌倉街道が通っている。そのため、鎌倉街道を押さえるのに適した立地にある。したがって、鎌倉街道を北から来た勢力も、南から来 た勢力もこの城は目障りなので落とそうとしたことだろう。
さて、プリントアウトした地図を見ると、杉山城の近辺に来ているのは明らかなのだが、実際にはどこなのか分からない。鎌倉街道を東に入って、しばらく山を見 ていると、どうやらこの辺りだなと目星がついた。次に見つけるべきは城の入り口だ。城址公園になっている城を除いて、山城の入り口はそれほど簡単には見つ からない。また、城はどこからでも入れるわけではなく、大抵、入り口は2つ程度であり、その入り口を見つけないと城の中には入れない。
どこが入り口なのか、トロトロ走りながら見ていたのだが、なかなか見つからない。そういう場合は、地元の人に聞くのが一番である。早速、その辺に誰かいないか、見回しているものの人がいない。この辺は人口密度が低いようだ。仕方がないのでもう少し走っていると、明らかにここが城だと確信した。すると、ほぼ同時に屋根つきの車庫に人がいることに気付いた。どうやら、おじいさんらしい。
杉山城の入り口を聞くため、私は自転車を降り、おじいさんのほうに近づいた。
すると、おじさんが手招きしている。どうしたことかと驚いていると、挨拶する間もなく、私の自転車に関する質問がおじいさんから発せられた。
「いい自転車じゃのう。」
「ありがとうございます。」
「日本製か?」
「いえ、イギリス製です。ブロンプトン(BROMPTON)といいます」
「そうか、まだ、日本のメーカはこういう自転車を作れんのか。」非常に悔しそうである。かつて、東京都板橋区の赤塚で、団塊の世代の退職組と思しき人々に声をかけられたとき、同じ質問と同じ反応を得た。これは生きた時代を反映した反応なのだろうか。
「まあ、同じような折りたたみ自転車は、ブリジストンなんかが出していますが、私はこの自転車を選びました。というのはですねえ・・・」
と、なぜか自転車の営業マンのように、私はブロンプトンの折りたたみ機構やバッグのシステムを説明し、実際に、折りたたんだり、組み立てたりして実演し た。私自身がこの自転車をはじめて見て、試乗したときに感動して、その日のうちに現金で買ったのであるから、説明にも力が入る。おじいさんも、時に感嘆 し、時に唸りながら、説明を聞いていた。
もし私がこの自転車の購入契約書を持参していたら、おじいさんは判子を押しかねない勢いだった。
自転車の話が一段落すると、
「わしが若い頃はこんなものはなかった。わしが若い頃は戦争で・・・」とおじさんが経験した戦争の話がはじまった。大変興味深い話ではあったが、おじいさんの個人的なことは私の胸の中に留めておくことにする。同じ青年期でも、これほど違うものかと私は思った。
その話の中で、油に関する興味深い話があった。戦争も末期になると、資源が乏しい日本は物資不足が深刻だった。特に致命的だったのは、石油や石炭などのエネルギー物資の不足である。おじいさんによると、松から油をとっていたというのである。その油が服に付いて重くなり、往生したそうだ。
その話を聞いて、私は驚愕した。というのは、松から油をとるという話は戦国時代の城の本で読んだことがあったからだ。まさか、戦国時代と同じことを目の前の人が65年ほど前に実際にやっていたとは。
城内やその周辺には松がよく植わっているが、これは偶然ではなく、松は建築資材、燃料、油、食料、そして、景観など、多目的に役立ったそうである。
以前から戦国時代を背景にした黒澤映画を見ていて、本当にこんな感じだったんじゃないかと思うことがある。特に、農民の姿や歩き方などは非常にリアルに感じる。現在は機械化が進んでいるので、ああいう作業を経験したことがある人はもういないだろう。たとえ黒澤監督が生きていても、かつての黒澤映画のような 芝居ができる役者はいるだろうか。
別の言い方をすると、弥生時代から戦後の高度経済成長まで、農村の暮らしは本質的に連続していたのかもしれない。
戦争の話が終わると、おじいさん自身の人生観とその人生観に裏打ちされた事業の話がはじまった。
おじいさんは戦争を経験したためか、「今この時をいかに生きるか」という意識がものすごく強い人だった。「人生は一度しかないから、自分のやろうと思った ことを徹底してやるのが一番だ」、こういう人生観である。こういった人生観に裏打ちされた、おじさんの農業経営の歴史は興味深いものだった。「人生は一度しかないから」、牛や馬はおろか、ヤギまで飼ったことがあるという。その他、どんなことをしたかいろいろと話してくれた。
そして、その話と連動したのが、杉山城の西を流れる市野川である。市野川はこの辺りでは鎌倉街道と平行して流れ、菅谷で東に流れを変え、松山城に向かう。 この市野川の開発と農地の増加、そして、治水技術の向上に伴う洪水の減少など、まさにおじいさんは市野川の変化の生き証人といえるだろう。幸いにも、私は経済と歴史に興味を持っているので、各時代について、大体の予備知識を持っていたため、適宜、質問しながら話を聞くことができた。すると、高度経済成長期 の60年代を中心に猛烈な勢いで開発が進んだ様子が手に取るように分かった。
話が一段落した感があったので(何だかんだと1時間以上話していたようだ)、私は杉山城の入り口を教えてもらって、いよいよ出発することにした。
「どうも、いろいろ教えてもらってありがとうございました。」
「いやいや、また、ここに来ることがあったら、うちに寄っていきなさい。君の姿・形はよく覚えておくから。」
私はもう一度別れの挨拶を言って、屋根つき駐車場をあとにした。
おじいさんと別れた私は杉山城の北側の入り口に向かった。
噂には聞いていたが、杉山城にこれほどの遺構が残っているとは驚きだった。保存状態の良さという点では、神奈川県の小机城を連想した。虎口(曲輪の出入り 口で、一気に多くの人数が入ってこられないように狭くなっている)、横矢掛かり(虎口に押し寄せる敵の側面から弓矢を放つ構造)などが、多数の曲輪に配置 され、よくもここまで作りこんだものだと感心した。
2010年5月撮影
杉山城の西側から見下ろすと、かつて鎌倉街道上道が通っていた平野が見える。
2010年5月撮影
本丸東虎口。土塁が出入り口が狭くなっているのが分かる。廃城になるときに、虎口の石積みが崩されたようだ。
2010年5月撮影
技巧的といわれる杉山城の虎口。虎口が凹んで左右の土塁の出っ張りから、敵に弓矢を集中させる構造になっている。
2010年5月撮影
今でも水をたたえる窪みに大きな石が置いてある。廃城時に、このようにしたようだ。
中武蔵以北の山城の場合、名の通った城でないと人に会うことはあまりない。会うとしたら、デジカメを持った若い男性が多い。この日も、若い男性が1人でデジカメを持って歩 いていた。ただ、若い女性が1人で歩いていることもないではない。しかし、この日は母娘という感じの2人が歩いていたので、何事かと思った(母のほうは、 40代半ば、娘のほうは20代前後くらいように見えた)。後で、大手口(城の南側の入り口)のほうに行くと、お寺(積善寺)の辺りにクルマがいくつか停車していたので、ああこれかと思った。二人連れの女性は「ついで」に城に来たのかもしれない。ぱっと見た感じ、はやりの「歴女」には見えなかった。
たっぷり見てまわって満足したので、北側の出入り口に戻ることにした。だが、少し道を外れてしまったようで、出口が見つからない。仕方がないので、道に出られ そうなところを探すことにした。少し歩くと、何とか降りられそうな所に出たので、そこからジャーンプした。だが、着地したところが軽い泥濘(ぬかるみ) だった。足に衝撃はあまりなかったが、多少靴がよごれた。やはり、城はちゃんとした出入り口から出入りしたほうが良さそうだ。私は苦笑いしつつ、自転車を置いたところに行って、出発することにした。
自転車で走るとすぐに、先程話し込んでいたおじいさんの家がある。通り過ぎるときにチラッと駐車場を見ると、あのおじいさんがいたので、「あっ、どうも!」といって、私は手を振った。すると、おじいさんはなんと敬礼で見送ってくれたのだった。
なにゆえの敬礼だったのかは分からない。が、その瞬間、私は若き日の彼の姿を見た気がした。そして、その立ち姿は何とも美しく思えた。これが様式の持つ美しさだろうか。おじいさんやおじいさんの世代は戦争で激烈な体験をし、戦中も戦後も働いて働いて日を過ごし、今に至る。あの時代は、捉えようによっては世界規模の戦国時代だったと言えるかもしれない。戦国時代の足軽の装備と日本帝国陸軍の装備の類似性を説いた本を読んだこともある。
この世代の人はあまり語らないが、容易に語ることができなほど、内的に深い体験だったのかもしれない。この世代が書いた歴史小説を読むとそれがよく伝わってくる。私はその様式の美しさに表現できない哀しみのようなものを感じながらも、おじいさんから何か大切なものを受け取った気がした。私はもはや振り返ることなく、前方からの風を感じながら、自転車を走らせた。
(終)
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