【荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-】<h3>舞台は赤浜</h3>
<p>鉢形城の東に赤浜という土地がある。ここが鎌倉街道上道の荒川渡河地点だった。</p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 荒川の南岸、赤浜の渡し(渡河地点)付近。</em>
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<h3>意外と少ない渡河地点</h3>
<p>川というのは、一見どこでも渡れそうだが、大河の場合、川底の地形や水量の多寡という条件があるため、渡れるところと渡れないところがある。渡れて、かつ、交通の便がよい場所が重要な渡河地点となる。</p>
<p>現在、荒川であれ、利根川であれ、川沿いを自転車で走ると、サイクリングロードが整備され、快適に走ることができる。基本的に堤防に囲まれているので、視界は限られる。その限られた視界に、橋が現れては消えてゆく。「○○橋」という橋の名前を見ないと、自分がどこまで走ったか、分からなくなる。</p>
<p>いずれにしても、これらの橋があることで、両岸を容易に行き来できる。だが、もし橋がなかったらと想像してもらいたい。渡るのは大変である。まず、川を渡ると、服が濡れる。転んで怪我をしたり、下手をすると、溺れて落命するかもしれない。であるから、かつて、渡河していた人々はおそらく何か用事があって川を 渡っていたはずで、荷物を持っていることも多かっただろう。</p>
<h3>架橋・治水技術の成果</h3>
<p>江戸時代に、大井川の増水によって、宿場町に何日も足止めされ、その間に路銀をすっかり失ったという話もあるように、大河というのは雨が降って増水すると渡れなく なることがあった。現代は極端な場合を除いて、川が増水して渡れないというケースは経験しないだろう。それは川の上流にダムなどの治水対策が施されていて、水量を調節しているためである。</p>
<p>実際、長尾景春の乱が発生した当初、太田道灌は相模にいる味方を呼び寄せて、江戸城-川越城ラインを遮断する豊島氏を攻めようとしたが、大雨で多摩川が増水して、相模勢は来ることができなかったという。</p>
<h3>渡河作戦の難しさ</h3>
<p>このように、橋とダムによって、現代では川を意識することが少なくなったが、中世における河川の状況は随分違ったことをお分かりいただけたと思う。しかも、軍事作戦で川を渡るとなると一層困難である。</p>
<p>まず、重量のある甲冑を身につけ、騎馬武者は馬に乗って渡河する。そればかりか、対岸には敵が手ぐすね引いて待っているのである。<br> 水の中では、陸上のように機敏に動けないから、まさに格好の標的となってしまう。そして、味方に死傷者を出しながらも、弓矢の雨の中を必死に渡って、運よく対岸に着いたとしても、優勢な敵が味方を袋叩きにしようと待っている。</p>
<p>このように渡河作戦は困難なので、孫子の兵法書に渡河方法が書かれている(行軍篇(第九))ほど、渡河はいくさにおける重要なテーマだった。</p>
<h3>扇谷上杉定正</h3>
<p>さて、この話の主人公は、扇谷上杉定正という人物である。<br> この男は、山内上杉顕定にそそのかされて、自分を擁立し、しかも自家の勢力を強めてくれた、家宰の太田道灌を謀殺した人物として歴史に記録されている。道灌を謀殺したことで、定正に見限りをつける勢力もあり、扇谷家の勢力は減退したが、定正は凡庸な人物ではなかった。</p>
<h3>定正、関東三戦に勝利する</h3>
<p>道灌謀殺後、定正は関東管領家の山内上杉顕定と対立関係に入った。</p>
<p>不利な形勢の中で、軍事面では長享2年(1488年)の関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)を有利に進め、外交では第2代古河公方の足利政氏や政氏の庇護下にあった長尾景春、そして、伊豆を奪取した北条早雲を味方につけ、山内上杉顕定に対抗した。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦</h3>
<p>その後、徐々に勢力を北武蔵に伸ばした定正はついに明応3年(1494年)に荒川に到達し、渡河しようとした。なお、この作戦には定正の援軍として早雲も参戦している。<br> もしこの作戦が成功し、上野国の山内上杉氏を倒せば、山内上杉氏に代わって、扇谷上杉氏が関東の覇者になれる可能性が出てくる。</p>
<p>だが、ここで思いがけないことが起こったのである。定正が荒川渡河時に落馬して、頓死してしまった。扇谷上杉氏の当主になってから約20年もの間、関東の戦乱を生き抜き、道灌謀殺後の苦しい時期も何とか切り抜けてきた定正に一体何が起こったのか。それは残念ながら分からないが、荒川の存在とその流れが彼の落 命の一因となったことは確かだろう。</p>
<p>定正落命は、司馬遼太郎『新装版 箱根の坂(下)』 (講談社文庫)<img>、伊東潤『疾き雲のごとく』<img>の第2話「守護家の馬丁」で書かれている(司馬さんの本では赤浜を過ぎた荒川北岸で、伊東さんの本では荒川南岸で死亡したことになっている。詳しくは各書籍をご覧いただきたい)。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦失敗時の関連人物たち</h3>
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<h3>定正の死と扇谷上杉氏の衰退</h3>
<p>原因はどうあれ、定正が死去したことで、元々、勢力的に劣勢だった扇谷上杉氏は急速に衰退していく。結果からみると、やはり彼の存在が扇谷上杉氏を支えていたことが分かる。</p>
<h3>早雲を関東に引き入れた定正</h3>
<p>もう1つ、彼の果たした役割としては北条早雲を関東に引き入れたことである。<br> 定正の養子、扇谷上杉朝良の代に早雲は小田原を手に入れ、関東の西の入り口に地盤を得た。そして、最終的に、早雲は相模一国を手に入れるのである。<br> それから半世紀ほど後、早雲の孫、北条氏康が最終的に川越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼすことになる。短期的に正しい決断が、長期的に見ると必ずしも正しくないこともあるという一例だろう。</p>
<h3>再び、赤浜</h3>
<p>私は赤浜の渡しで大きな石の前に立っている。</p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 赤浜の渡河地点付近の写真。</em><br><em> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</em>
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<p>5月初旬だったこともあり、ボカボカ陽気で眠くなるようなところだった。<br> 中世の名もなき人々、そして、著名な歴史人物(たとえば、元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府を倒すため軍を率いて鎌倉街道上道を南下した新田義貞)もこの辺りを渡ったことだろう。<br> そして、高見原から鎌倉街道の上道を北上してきた定正は、鎌倉街道上道の高地から赤浜の低地の風景を目にしたあと、この辺りで荒川を渡河しようとして落命したのかもしれない。</p>
<p>今は近くに橋がかかっているので、釣り人らしき人以外、誰も顧みないこの地は、かつて坂東武者たちの生死を懸けた歴史の舞台だったのである。</p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。</em><br><em> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</em><br><em> 赤浜の北岸が花園である。</em><br><em> 荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</em>
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<div>2010年5月1日撮影:<br> 上の写真を撮影した付近に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標識がいくつか立っている。</div>
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荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

赤浜の渡し 上杉定正 埼玉県 大里郡

<p>赤浜の渡しから少し南下した高台に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標柱がいくつか立っている。</p>

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

鎌倉街道上道 赤浜の渡し 埼玉県 大里郡

【鎌倉街道上道・赤浜の渡しから関越自動車道を撮影】<p>赤浜の渡河地点付近の写真。<br> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</p>

鎌倉街道上道・赤浜の渡しから関越自動車道を撮影

作成日:2014/6/26 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

鎌倉街道上道 赤浜の渡し 埼玉県 大里郡

<p>五十子陣の北側、利根川南岸から赤城山(右側)と榛名山(左側)がうっすら見える。</p>
<p>享徳の乱の時には、利根川北岸に古河公方・北関東勢が陣取り、南岸の五十子陣には両上杉勢が対陣していた。<br>ということは、こんな感じの風景を太田道灌、長尾景春らも見ていただろう。</p>

作成日:2014/6/26 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 本庄市

<p>杉山城の西側から見下ろすと、かつて鎌倉街道上道が通っていた平野が見える。</p>

作成日:2014/6/25 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 比企郡

【四津山城(高見城)からの眺め】<p>物見の城としては申し分ない視野である。<br> 山麓を鎌倉街道が通っている。旧鎌倉街道沿いを北から走ってくると、この山が四津山城(高見城)だとすぐに分かった。ということは城からも私が走ってきた道が見えているはずである。</p>
<p><br> なお、写真中央あたりで、長享2年(1488年)に両上杉勢が戦った(高見原合戦)。</p>

四津山城(高見城)からの眺め

作成日:2014/6/25 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

高見原合戦 埼玉県 比企郡

【空より広き 「谷中湖」の原?】<h2>武蔵、下野、常陸の接点を巡る</h2>
<p>古河城、小山城、結城城を1日でまわるという意欲的なプランを立て、今年(2010年)の5月はじめ頃に現地に行ってきた。この辺りは、享徳の乱後、古河公方の地盤となった地域である。</p>
<h2>参考資料: 享徳の乱</h2>
<p>関東は、畿内の応仁の乱に先駆けて、享徳の乱が起こり、戦乱の時代へと入った。</p>
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<h2>利根川を渡り、古河、そして、谷中湖へ</h2>
<p>まずは栗橋駅で降り、利根川を渡って、古河に向かった。妙なところにある古河城跡(治水の影響で堤防の天辺にある)を見た後、谷中湖に向かった。谷中湖は今回のテーマには関係なかったのだが、とても大きな湖と湿地帯が地図に示されていたので、どんなところか興味を持ったのである。</p>
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<p>実際に谷中湖に向かって自転車で走ってみると、とてつもない広さで驚いた。 こんな感じである。</p>
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<div><em>アメリカ西部やオーストラリアなら、いざ知らず、日本でこんなに広いところがあろうとは…。</em></div>
<h2>日が地に沈む</h2>
<p>司馬遼太郎の『<a>箱根の坂</a>』で、都から来た歌人が先人の歌で坂東の広さを知っているはずなのにも関わらず、皆一様にその広さに驚いたと書いていた。「都は日が山からのぼり、山に沈むが、坂東は地からのぼり、地に沈む」、確かこんなような表現だったように思う。今の東京の空はビルが林立して狭いが、この辺はそういう雰囲気を色濃く残している。 もしかしたら、中世の坂東の低地とはいうのはこんな感じだったのかもしれない。</p>
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<h2>空より広き</h2>
<p>こういった土地で生活するにはもう馬に乗るしかないのではないか。歩いていたら、埒が明かないだろう。「武蔵野はどのようなところか」という帝の問いに対し、太田道灌が答えたという</p>
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<div>露おかぬ かたもありけり 夕立の<br>    空より広き 武蔵野の原</div>
</blockquote>
<p>という歌を思い出さずにはいられない。「空より広き」とは雄大である。<br>10km四方ほどでしかない、京都の盆地の住人とは距離感覚も違っていただろう。そういうところで、坂東武者たちは狩り、笠懸、流鏑馬、犬追物などで、弓矢を鍛えて、「いざ、鎌倉」と備えていたのかもしれない。</p>
<h2>ここはどこ?</h2>
<p>いろいろと勝手な想像を膨らませながら走っていると、いつしか自分がどこを走っているか、分からなくなった。</p>
<p>ひたすら広く、ランドマークがないので、距離感がつかめない。それでも、しばらく道なりに走っていると、幸運にも地図があった。しかし、その地図は相当大雑把で、しかも現在地が書いていない。少なくとも、この地図の作成者は、迷子の輩に現在地を教えるつもりで作ったのではないらしい。</p>
<h2>おやじさん、登場</h2>
<p>しばらくの間、どうしようか地図を見ながら考えていると、中年のおやじさんが話しかけてくれた。どうも散歩をしている人らしい。</p>
<p>「どうしたの?」<br> 「ええと、ちょっと谷中湖に行く道が分からなくてですね、それでこの地図を見ていたんですが、この地図を見てもよく分からないんですよ。」</p>
<p>おやじさんは地図を見て、 <br>「本当だ。現在地、書いてないね。」 <br>「今、この地図で言うと、どの辺りなんですか?」 <br>「ええとね。実はオレもよく分からないんだ。」<br>「エエッ」散歩をしている人が現在地を知らないとはどういうことなのであろうか。<br>「こんだけ広いでしょ。だからどこ歩いているか、よく分からないんだよね。」</p>
<p>「・・・」私が絶句していると、<br> 「けど、毎日同じコースを歩いているから、オレは平気なんだよ。」 <br>「そうなんですか。」なるほど、全体像を掴んでいなくても、自分が歩く道だけ知っていれば、問題なさそうだ。<br> 「じゃあ、もう少し走って、他の人に聞いてみます。」 <br>「うん、そうしてよ。気をつけてね。」</p>
<p>まさか、谷中湖の周辺に住んでいる人は、皆、こんな感じの地理感覚の持ち主なのかと疑ってしまった。しかし、おやじさんと別れた後、縁あって2人の中年の男性と話をしたのだが、その人たちはちゃんと地理が分かっていた(しかも、地元の方だった)。</p>
<p>であるから、おそらく、おやじさんの感覚が特別だったのだろうと思う。 いずれにしろ、谷中湖周辺がいかに広々としているか、ひいては幻の坂東原風景を読者に伝えるために、素晴らしいエピソードをプレゼントしてくれたおやじさんに感謝したい。</p>
<p>(終)</p>

空より広き 「谷中湖」の原?

作成日:2014/6/22 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

谷中湖 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー 埼玉県 加須市

【川越城】三ツ木原古戦場碑。1537年、川越城攻略を目指す北条氏綱が扇谷上杉朝定の軍勢と戦い、勝利した。その古戦場。

作成日:2013/4/16 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 狭山市

【菅谷館】菅谷館の北にある武蔵嵐山駅から北側を撮影。長享の乱の菅谷原合戦(1488年)はこの辺りで戦われたと思われる。菅谷原合戦は、両上杉による合戦で、戦死者700名、馬数百匹が倒れたという。<br><br>      なお、杉山城はここから北西約2.5kmで、写真の左側にあるはず(見えないが)。

作成日:2013/3/4 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

菅谷館と松山城を歩く 武蔵比企丘陵の城 埼玉県 比企郡

【菅谷館】左手の盛土が正てん門。右手の土塁は三の郭虎口の北側。正てん門は西の郭から三の郭に侵入する際の目隠しになっている。

作成日:2013/3/3 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

菅谷館と松山城を歩く 埼玉県 比企郡

【松山城】三の曲輪から曲輪四を撮影。曲輪四は三の曲輪よりも一段低い。

作成日:2013/3/3 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

菅谷館と松山城を歩く 埼玉県 比企郡

【杉山城】現地北側の案内板。杉山城の入り口がなかなか分からず困った。当時はiPhoneを持っていなかったので、7万分の1と2.5万分の1の地図をプリントアウトして持って行っていた。城の近くまで行き、入り口が分からなかったら、近所の人に聞くということをしていた。<br><br>中・北武蔵の公園化されていない山城は、本当に入り口が分かりずらい。まあ、それも楽しみの1つなのだが。

作成日:2013/2/22 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武蔵比企丘陵の城