古河城、小山城、結城城を1日でまわるという意欲的なプランを立て、今年(2010年)の5月はじめ頃に現地に行ってきた。この辺りは、享徳の乱後、古河公方の地盤となった地域である。
関東は、畿内の応仁の乱に先駆けて、享徳の乱が起こり、戦乱の時代へと入った。
まずは栗橋駅で降り、利根川を渡って、古河に向かった。妙なところにある古河城跡(治水の影響で堤防の天辺にある)を見た後、谷中湖に向かった。谷中湖は今回のテーマには関係なかったのだが、とても大きな湖と湿地帯が地図に示されていたので、どんなところか興味を持ったのである。
実際に谷中湖に向かって自転車で走ってみると、とてつもない広さで驚いた。 こんな感じである。

司馬遼太郎の『箱根の坂』で、都から来た歌人が先人の歌で坂東の広さを知っているはずなのにも関わらず、皆一様にその広さに驚いたと書いていた。「都は日が山からのぼり、山に沈むが、坂東は地からのぼり、地に沈む」、確かこんなような表現だったように思う。今の東京の空はビルが林立して狭いが、この辺はそういう雰囲気を色濃く残している。 もしかしたら、中世の坂東の低地とはいうのはこんな感じだったのかもしれない。
こういった土地で生活するにはもう馬に乗るしかないのではないか。歩いていたら、埒が明かないだろう。「武蔵野はどのようなところか」という帝の問いに対し、太田道灌が答えたという
露おかぬ かたもありけり 夕立の
空より広き 武蔵野の原
という歌を思い出さずにはいられない。「空より広き」とは雄大である。
10km四方ほどでしかない、京都の盆地の住人とは距離感覚も違っていただろう。そういうところで、坂東武者たちは狩り、笠懸、流鏑馬、犬追物などで、弓矢を鍛えて、「いざ、鎌倉」と備えていたのかもしれない。
いろいろと勝手な想像を膨らませながら走っていると、いつしか自分がどこを走っているか、分からなくなった。
ひたすら広く、ランドマークがないので、距離感がつかめない。それでも、しばらく道なりに走っていると、幸運にも地図があった。しかし、その地図は相当大雑把で、しかも現在地が書いていない。少なくとも、この地図の作成者は、迷子の輩に現在地を教えるつもりで作ったのではないらしい。
しばらくの間、どうしようか地図を見ながら考えていると、中年のおやじさんが話しかけてくれた。どうも散歩をしている人らしい。
「どうしたの?」
「ええと、ちょっと谷中湖に行く道が分からなくてですね、それでこの地図を見ていたんですが、この地図を見てもよく分からないんですよ。」
おやじさんは地図を見て、
「本当だ。現在地、書いてないね。」
「今、この地図で言うと、どの辺りなんですか?」
「ええとね。実はオレもよく分からないんだ。」
「エエッ」散歩をしている人が現在地を知らないとはどういうことなのであろうか。
「こんだけ広いでしょ。だからどこ歩いているか、よく分からないんだよね。」
「・・・」私が絶句していると、
「けど、毎日同じコースを歩いているから、オレは平気なんだよ。」
「そうなんですか。」なるほど、全体像を掴んでいなくても、自分が歩く道だけ知っていれば、問題なさそうだ。
「じゃあ、もう少し走って、他の人に聞いてみます。」
「うん、そうしてよ。気をつけてね。」
まさか、谷中湖の周辺に住んでいる人は、皆、こんな感じの地理感覚の持ち主なのかと疑ってしまった。しかし、おやじさんと別れた後、縁あって2人の中年の男性と話をしたのだが、その人たちはちゃんと地理が分かっていた(しかも、地元の方だった)。
であるから、おそらく、おやじさんの感覚が特別だったのだろうと思う。 いずれにしろ、谷中湖周辺がいかに広々としているか、ひいては幻の坂東原風景を読者に伝えるために、素晴らしいエピソードをプレゼントしてくれたおやじさんに感謝したい。
(終)
![]() |
歴ウス 公式Twitterページ |
![]() |
歴ウス 公式Facebookページ |
| 歴ウス 公式YouTubeチャンネル |