西暦: 1446年 〜 1494年

扇谷上杉氏の当主。持朝の子。扇谷上杉氏の前当主が没したときに、跡継ぎがいなかったため、 太田道灌などの重臣に擁立された。家宰の道灌の活躍で、長尾景春の乱を鎮圧したが、次第に勢力を増してくる道灌に疑心を抱き、謀殺した。道灌亡き後、山内上杉氏と戦い(長享の乱)、戦いを有利に進めていたが、荒川渡河時に落馬し、落命した。

地域: 日本

上杉定正

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関連する歴史年表: 北条早雲 第1期(1456-1486年): 京から駿河へ | 太田道灌 | 北条早雲


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グラフ: 「上杉定正」と同時代の人物

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グラフ: 「上杉定正」と同時代の出来事

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表: 「上杉定正」と同時代の人物

長尾景仲 1388年 〜 1463年 日本
エンリケ航海王子 1394年 〜 1460年 ヨーロッパ
ウルグ・ベク 1394年 〜 1449年 地中海、西アジア
世宗(朝鮮王朝) 1397年 〜 1450年 東アジア
トスカネリ 1397年 〜 1482年 ヨーロッパ
グーテンベルク 1400年 〜 1468年 ヨーロッパ
一条兼良 1402年 〜 1481年 日本
シャルル7世 1403年 〜 1461年 ヨーロッパ
山名宗全(持豊) 1404年 〜 1473年 日本
日親 1407年 〜 1488年 日本
上杉憲実 1410年 〜 1466年 日本
太田道真 1411年 〜 1488年 日本
長尾景信 1413年 〜 1473年 日本
蓮如 1415年 〜 1499年 日本
上杉持朝 1416年 〜 1467年 日本
雪舟 1420年 〜 1506年 日本
宗祇 1421年 〜 1502年 日本
村田珠光 1423年 〜 1502年 日本
正統帝(英宗) 1427年 〜 1464年 東アジア
細川勝元 1430年 〜 1473年 日本
上杉房定 1431年 〜 1494年 日本
北条早雲(旧説) 1432年 〜 1519年 日本
メフメト2世 1432年 〜 1481年 地中海、西アジア
太田道灌 1432年 〜 1486年 日本
上杉憲忠 1433年 〜 1455年 日本
斯波義敏 1433年 〜 1508年 日本
狩野正信 1434年 〜 1530年 日本
足利政知 1435年 〜 1491年 日本
足利義政 1436年 〜 1490年 日本
今川義忠 1436年 〜 1476年 日本
畠山義就 1437年 〜 1491年 日本
足利成氏 1438年 〜 1497年 日本
足利義視 1439年 〜 1491年 日本
日野富子 1440年 〜 1496年 日本
イヴァン3世 1440年 〜 1505年 ロシア
長尾景春 1443年 〜 1514年 日本
ボッティチェリ 1444年 〜 1514年 ヨーロッパ
上杉定正 1446年 〜 1494年 日本
武田信昌 1447年 〜 1505年 日本
宗長 1448年 〜 1532年 日本
バルトロメウ・ディアス 1450年 〜 1500年 ヨーロッパ
イサベル(カスティリャ王女) 1451年 〜 1504年 ヨーロッパ
クリストファー・コロンブス 1451年 〜 1506年 ヨーロッパ
三浦道寸(義同) 1451年 〜 1516年 日本
リチャード3世 1452年 〜 1485年 ヨーロッパ
レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452年 〜 1519年 ヨーロッパ
フェルナンド5世 1452年 〜 1516年 ヨーロッパ
上杉顕定 1454年 〜 1510年 日本
アメリゴ・ヴェスプッチ 1454年 〜 1512年 ヨーロッパ
富樫政親 1455年 〜 1488年 日本
ジョアン2世 1455年 〜 1495年 ヨーロッパ
北条早雲 1456年 〜 1519年 日本
ヘンリ7世 1457年 〜 1509年 ヨーロッパ
三好之長 1458年 〜 1520年 日本
尼子経久 1458年 〜 1541年 日本
上杉房能 1458年 〜 1507年 日本
長尾能景 1459年 〜 1506年 日本
カブラル 1460年 〜 1526年 ヨーロッパ
足利政氏 1462年 〜 1531年 日本
足利義尚 1465年 〜 1489年 日本
足利義材(義稙) 1466年 〜 1523年 日本
細川政元 1466年 〜 1507年 日本
上杉憲房 1467年 〜 1525年 日本
エラスムス 1469年 〜 1536年 ヨーロッパ
マキャベリ 1469年 〜 1527年 ヨーロッパ
ヴァスコ・ダ・ガマ 1469年 〜 1524年 ヨーロッパ
セリム1世 1470年 〜 1520年 地中海、西アジア
ピサロ 1470年 〜 1541年 ヨーロッパ
デューラー 1471年 〜 1528年 ヨーロッパ
武田信縄 1471年 〜 1507年 日本
王陽明(王守仁) 1472年 〜 1528年 東アジア
以天宗清 1472年 〜 1554年 日本
今川氏親 1473年 〜 1526年 日本
コペルニクス 1473年 〜 1543年 ヨーロッパ
上杉朝良 1473年 〜 1518年 日本
ラス・カサス 1474年 〜 1566年 ヨーロッパ
レオ10世 1475年 〜 1521年 ヨーロッパ
ミケランジェロ 1475年 〜 1564年 ヨーロッパ
大内義興 1477年 〜 1528年 日本
上杉定実 1478年 〜 1550年 日本
マゼラン(マガリャンイス) 1480年 〜 1521年 ヨーロッパ
足利義澄 1481年 〜 1511年 日本
バーブル 1483年 〜 1530年 南アジア、東南アジア
マルティン・ルター 1483年 〜 1546年 ヨーロッパ
ツヴィングリ 1484年 〜 1531年 ヨーロッパ
細川高国 1484年 〜 1531年 日本
コルテス 1485年 〜 1547年 ヨーロッパ
足利高基 1485年 〜 1535年 日本
北条氏綱 1487年 〜 1541年 日本
イスマーイール1世 1487年 〜 1524年 地中海、西アジア
上杉朝興 1488年 〜 1537年 日本
細川澄元 1489年 〜 1520年 日本
長尾為景 1489年 〜 1542年 日本
ミュンツァー 1490年 〜 1525年 ヨーロッパ
ヘンリー8世 1491年 〜 1547年 ヨーロッパ
イグナティウス・ロヨラ 1491年 〜 1556年 ヨーロッパ
長野業正(長野業政) 1491年 〜 1561年 日本
北条幻庵(長綱) 1493年 〜 1589年 日本
スレイマン1世 1494年 〜 1566年 地中海、西アジア
武田信虎 1494年 〜 1574年 日本
フランソワ1世 1494年 〜 1547年 ヨーロッパ
斎藤道三 1494年 〜 1556年 日本
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表: 「上杉定正」と同時代の出来事

正長の土一揆 1428年 日本
黎氏大越国、成立 1428年 〜 1789年 東アジア
尚巴志、琉球統一 1429年 日本
オルレアンの戦い 1429年 ヨーロッパ
ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍、オルレアン解放 1429年 ヨーロッパ
ジャンヌ・ダルク、火刑に処される 1431年 ヨーロッパ
永享の乱はじまる(~1439年) 1438年 〜 1439年 日本
結城合戦 1440年 日本
嘉吉の乱 1441年 日本
世宗、訓民正音(ハングル)を制定 1446年 東アジア
土木の変 1449年 東アジア
1450年頃、グーテンベルクが活版印刷をはじめる 1450年 ヨーロッパ
コンスタンティノープル、陥落 1453年 地中海、西アジア
享徳の乱はじまる(~1482年) 1454年 〜 1482年 日本
バラ戦争 1455年 〜 1485年 ヨーロッパ
分倍河原の戦い(享徳4年) 1455年 日本
コシャマインの戦い 1457年 日本
太田道灌、江戸城を築城 1457年 日本
寛正の大飢饉 1461年 日本
武田信昌、甲斐守護代の跡部氏を滅ぼす 1465年 日本
応仁の乱はじまる 1467年 〜 1477年 日本
駿河守護の今川義忠戦死で、今川家の家督相続問題発生 1476年 日本
長尾景春の乱はじまる 1476年 〜 1480年 日本
応仁の乱おわる 1477年 日本
スペイン王国(イスパニア王国)、成立 1479年 〜 1873年 ヨーロッパ
山城の国一揆 1485年 日本
チューダー朝 1485年 〜 1603年 ヨーロッパ
太田道灌が主の扇谷上杉定正に謀殺される 1486年 日本
北条早雲、小鹿範満を討って、今川氏親を擁立 1487年 日本
北条氏綱(北条2代目)、出生 1487年 日本
長享の乱がはじまる(~1505年) 1487年 〜 1505年 日本
ヘンリ7世、星室庁裁判所を設立 1487年 ヨーロッパ
関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)勃発 1488年 日本
加賀の一向一揆 1488年 日本
バルトロメウ・ディアス(ポルトガル)、喜望峰に到達 1488年 ヨーロッパ
コロンブス、サン・サルバドル島に上陸 1492年 北アメリカ
グラナダ陥落 1492年 ヨーロッパ
イタリア戦争 1492年 〜 1559年 ヨーロッパ
甲斐守護の武田信縄と武田信昌(信縄の父)・油川信恵(信縄の異母弟)の戦いが始まり、甲斐内乱、 1492年 〜 1498年 日本
明応の政変が起こり、細川政元政権が成立する 1493年 日本
北条早雲、伊豆に討ち入る 1493年 日本
大森氏頼(寄栖庵)、死去 1494年 日本
トルデシリャス条約 1494年 ヨーロッパ
扇谷上杉定正、荒川渡河に失敗して頓死 1494年 日本
三浦義同(道寸)、三浦郡に進攻し、三浦氏当主に 1494年 日本
北条早雲、小田原城を奪取 1495年 日本
蓮如、石山本願寺を築く 1496年 日本
山内上杉顕定、相模に進攻。小田原城の大森氏、山内上杉側に寝返り、小田原城は自落。 1496年 日本
ヴァスコ=ダ=ガマ、インド航路発見(カリカット到着) 1498年 ヨーロッパ
茶々丸、甲斐国で死亡(下田の深根城での討死説もある)→北条早雲、伊豆一国を制圧 1498年 日本
明応地震 1498年 日本
カブラル(ポルトガル人)、ブラジルに漂着。ブラジルの領有を宣言。 1500年 ヨーロッパ
北条早雲、1501年までに小田原城を奪取(新説) 1501年 日本
サファヴィー朝、成立 1501年 〜 1736年 地中海、西アジア
北条早雲と今川氏親、扇谷上杉朝良の援軍として、立河原の合戦に参戦し、山内上杉顕定勢と戦い勝利する。 1504年 日本
扇谷上杉朝良、山内上杉顕定に降り、長享の乱が終わる 1505年 日本
細川政元、暗殺される 1507年 日本
武田信虎、父の信縄が死去し、甲斐の家督を相続 1507年 日本
越後守護の上杉房能(山内上杉顕定の実弟)、越後守護代の長尾為景に敗れて自害 1507年 日本
武田信虎、叔父の油川信恵を滅ぼす 1508年 日本
大内義興、上京し、細川高国と足利義稙(10代将軍、義材)を将軍に擁立 1508年 日本
北条早雲、武蔵(扇谷上杉朝良の領国)に進攻し、両上杉氏と敵対関係に入る 1509年 日本
山内上杉顕定、長尾為景を討つため、越後に進攻 1509年 日本
山内上杉顕定、長森原(新潟県六日町)で討ち死 1510年 日本
三浦の乱 1510年 日本
ポルトガル、ゴアを占領 1510年 南アジア、東南アジア
北条早雲、三浦勢と鎌倉で戦い破る→三浦勢は新井城に立て籠もる 1513年 日本
チャルディラーンの戦い 1514年 地中海、西アジア
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「上杉定正」の関連ノート

【東日本大震災と太田道灌、そして、江戸】<p>東日本大震災で亡くなった方のご冥福をお祈り致します。また、被災された方にお見舞い申し上げます。</p>
<h2>その日はいつもと変わらない金曜日だった</h2>
<p>3 月11日(金)。この日、私は自宅付近で昼食をとった後、六本木に向かい、13時過ぎに六本木ヒルズの40階でWebアプリ開発の仕事を始めました。そこは好きなところに腰掛けて個人が仕事をするフリースペース形式のオフィスです。この日は、40階のフロアに30人程度の利用者が仕事に勤しんでいました。</p>
<h2>14時46分、地震発生 激しい揺れ 。。。</h2>
<p>揺 れが始まった当初、ちょっと強い地震程度にしか思いませんでした。私は高校生の時に京都で阪神淡路大震災を経験しています。その時は、縦にドカンと衝撃が 来て、南のほうから大地が崩壊していくような音と振動が伝わってきました。この経験があるので、今回のような横揺れには大して警戒感はありませんでした。</p>
<p>しかし、ちょっと強い地震がさらにひどくなり、おさまる気配がありません。私は落下物がないか、上を確認し、片膝を地面につけて、揺れが収まるのを待ちま した。その間、地震を告げる無機質な自動のアナウンス(日本語の次に英語)が流れました。すると、素早く従業員の方がやって来て、窓から離れるように注意を促しました。揺れが最も激しい時に(洒落にならないほど揺れていた時に)、フロアの責任者と見られる男性がフロアの中央にやってきて、免震構造なので大丈夫だと言っていましたが、真っ直ぐ立っていられないほどの揺れのためか、声は緊張し、少し上ずっていました。<br> 六本木ヒルズの免震技術は優れているのかもしれませんが、タイタニックであれ、アルマダ(スペインの無敵艦隊)であれ、評判の高いものが儚いことになった 例も少なくないので、揺れが激しい時は不安になりました。しかし、30人ほどの利用者やフロアの係りの人の中に、パニックに陥る人は誰もいませんでした。</p>
<h2>品川付近で煙が上がる</h2>
<p>何 分間かの揺れが一旦収まったので、やれやれと思っていると、何人かが窓の近くで何か言っています。私も窓から3mほど離れたところで外を覗いてみると、品川の辺りから多量の煙が立ち昇っていました(正確にどこが燃えていたのかは今も分かりません)。これは大変なことになるのではないかと思いました。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011/3/26 追記:</em><br><em> 私が見たのはどうもお台場(港区)での火災だったようです。</em>
</div>
<p>幸い、インターネットは問題なく利用できたので、他の利用者が東北で強い地震があったことを素早く調べて話していました。むろん、当時は東北を中心に、これほどの惨事になるなど、想像もしていませんでした。</p>
<p>私は40階にいて、相当遠くまで見えるため、その他の火災や津波が発生していないことはすぐに分かりました(天気の良い日は富士山がクッキリ見えます)。仮 に津波が発生しても、どう考えても40階まで到達しそうにありません。という状況だったので、目下、考えうる脅威は六本木ヒルズの階下で発生する火災でし た。</p>
<h2>「ヒルズ酔い」</h2>
<p>30分ほどすると、エレベータ以外はすべて問題なく機能している旨のアナウンスがあったので、まずはひと安心でした。ただ、絶えず余震に揺られ、たまに結構強い揺れがあるため、徐々に大地が揺れているのか、免震構造のビルが揺れているのか、私の脳が揺れているのか分からない、いわば、船酔いのような感じになってきました。私はこれをヒルズ酔いと名づけて、無事にヒルズを脱出して、この地震から生き延びたら、必ずこのネタを当サイトに書こうと強く決意しました。地震から10日ほど後にニュースをネットで見ていたら、同様の症状に対する報道があり、これを「地震酔い」と表現していました。</p>
<h2>エレベータは点検中</h2>
<p>地震発生から1時間ほどしてもエレベータが回復しないので、40階ですが、非常階段から徒歩で降りることにしました。というのは、地下鉄が止まっているのはイン ターネットで知っているので、なるべく早く地上に降りて、明るいうちに徒歩で自宅に戻りたかったからです。そこで、フロアの責任者と思しき人に非常階段の場所を聞いたところ、エレベータが回復するまでもうしばらく待ってほしいと言われました。仕方なく再度席に戻って、PCを操作していると、仙台空港が水浸しになっている映像を見ました。これは大変なことになったぞと思って、いろいろ調べたり、今後のプランを考えたりしていると、京都の肉親から連絡があり、 大丈夫かと問われたので、「高いところにいるので、少なくとも津波の心配はない」と答えておきました。最終的に、2時間半もの間、40階でブラブラ揺られ ることになるとは思ってもいなかったので、40階で足止めされていることは言いませんでした。</p>
<h2>動かざること山の如し</h2>
<p>ヒ ルズ酔いのため、PCを見ていると気分が悪くなってくるので、窓に近づいて、秩父や丹沢山地の山々をのぞんでみました。強い揺れがあったにも関わらず、 山々は何事もなかったように泰然自若としています。当たり前といえばそれまでですが、この時は「たいしたものだ」という妙な感慨がありました。</p>
<h2>40階から徒歩で降りることに</h2>
<p>地震発生から2時間強経過した17時頃、非常階段から徒歩で降りることを希望する人は集まるように言われたので、勇んで集合場所に向かいました。この後、長時間歩くことになると思ったので、係の人にちょっとトイレに行ってきますと言って、素早く用を足して戻ってきました。戻ってくると、関西在住と思われる中年のおじさんがちょっとトイレに行ってくると言って、急いでトイレに向かいました。3分ぐらい待っても帰って来ないので、少し心配しました。その頃には皆 おじさんの帰りを待っていたので、焦れた係の男性が様子を見に行ったところ、もう少しで戻ってくる旨、合図をしました。結局、男性は「すいません」とか言いながら戻ってきたので、ホッとしつつも、時が時なので、早くしてほしいものだと思いました。</p>
<p>歩いて降りる人は総員15名ぐらいだったと思います。<br> そのうちの1人が非常階段と降りる人たちの写真を1枚パチッと撮っていました。その時、微妙な空気が流れました。<br> 誘導役の係の男性は「誘導したら、戻ってくる」というようなことを同僚の男性に言っていました。<br> 連れのいる人は最初話しながら降りていましたが、半分の20階ぐらいで口数がぐっと少なくなってきました。私は1人だったので、リズムよく呼吸することを 心がけて、黙々と降りました。すると、前を歩いていた2人組の男性が、重苦しい雰囲気を吹き飛ばすように、「膝が笑ってきた」とか言って、2人でゲラゲラ 笑っていました。私も思わず「だよな」と思いながら、ニヤニヤしてしまいました。10階まで降りてくると、さすがに疲労感が出てきましたが、もう少しだと思い、ひと踏ん張りしました。一番下の階(多分2階)に着いた時は、ヤレヤレ、ようやくヒルズ脱出だと思いました。</p>
<h2>ヒルズ脱出、夕暮れ、そして、徒歩帰宅開始</h2>
<p>やはり、大地を歩けるということは大きな安心感がありました。<br> 一方、人の許可無く、歩いて降りられないところは今後極力行きたくないものだと切に思いました。ただ、エレベータに閉じ込められた人に比べたら、40階で揺られた苦痛もモノの数ではなかったでろうとも思いました。ヒルズを出る瞬間、「エレベータが1基動き始めた」という声が耳に入りました。</p>
<p>フロアの責任者と従業員は危機に対して立派に行動していました。利用者も誰1人として、パニックになりませんでした。最後の1時間ぐらいはクラシックが再び流れて、どう見ても普通に仕事をしている人も少なからずいました。実に驚くべきことだと思いました。</p>
<p>さて、ヒルズを脱出したのは幸いでしたが、この時点で17時30分過ぎになっており、暗くなってきています。地下鉄はすべてストップしていることをネットで確認しているので、この後、六本木から江東区の自宅まで歩いて帰る必要があります。当時は6kmほどだと思っていました。後日、Googleマップで自分 が歩いた大体の経路を測ってみると、8キロ強ありました。</p>
<p>六本木ヒルズのノースタワーのエスカレータで2階から1階に降りて、さてもう一踏ん張り頑張るかと気合を入れ直し、私はエントランスを出て、コンクリートの道路に第一歩を踏み出しました。</p>
<h2>徒歩帰宅スタート</h2>
<p>六本木ヒルズのノースタワーのエントランスを出た私は比較的細い路地を歩きはじました。<br> すると、若い2人連れの女性が「ここ入ろっか」などと言って、大画面のテレビがあるバーに入っていきました。また、左右を見ると、多くの人がイタリア料理屋でうまそうなパスタを食べたり、居酒屋で飲み食いしていたので、もしかしたら地上はたいして揺れなかったのかと一瞬思いました。<br> ただ、もう少し歩くと、すでに閉店している店があったり、ヘルメットを被って歩いている人がいたり、すべての地下鉄がストップしているわけですから、只事であるはずはないと思いました。</p>
<h2>携帯は不通</h2>
<p>ようやくヒルズを脱出したので、もう心配なかろうと思い、携帯で親に電話したところ不通でした。それまで携帯が使えなかったことに気づかなかったことは不覚 でした。ただ、iPhoneのインターネットが生きているのは確認していたので、iPhoneからメールで親に無事を報告しました。</p>
<h2>地図、多機能時計、携帯ラジオ</h2>
<p>六本木ヒルズを脱出した後、どういうルートを通って帰ったらよいか、私はだいたい知っていました。<img>というのは、江東区の自宅から渋谷まで何度か自転車で往復したことがあり、その際に六本木を通っています。そのため、この辺は多少土地勘があったのです。また、iPhoneが生きていたので、Googleマップも見られました(もしiPhoneが機能していなければ、紙の地図が必要なところでしたが、 iPhoneがあるため、最近、紙の地図を持ち歩いていませんでした。紙の地図もiPhoneのGoogleマップもダメな場合は、各地域に設置してある地図をiPhoneで撮って参考にする手があります)。これも大きなアドバンテージでした。</p>
<p>一方で、こういう日のために、方位磁針、高度 計、温度計、気圧計などの多機能腕時計を普段持ち歩いているのですが、それを忘れていました。また、非常用に持ち歩いている携帯ラジオ用の単4電池が1本しかなかったため、近くのコンビニで購入しました(この携帯ラジオは単4電池が2本必要。普段、電池を入れておくと、知らない間に電源が入り、使うときに 電池切れになるリスクを避けるため、普段は電池を外している)。ソニー製のアルカリ電池、4本入りで480円でした。もしコンビニが機能していなければ、 困るところでした。これらは誤算でした。</p>
<h2>六本木周辺の地形</h2>
<p>六本木という土地は武蔵野台地の 東の端の方なので、坂を降りると低地に入ります。低地はもし津波が来たら危険です。そのため、早速購入した電池を携帯ラジオに入れて、ラジオを聞きながら移動しました。むろん、今回の地震で、今更、津波が起こる確率はほぼないわけですが、ゲームと違って、「あーあ、死んでしまった。リセット。」というわけにはいきません。また、以前から関東での大震災や東海地震の可能性が指摘されています。今後発生するであろう海溝型の大震災で、津波が起こる可能性はあるわけで、津波に警戒して歩くということはその際の事前シミュレーションという効果もあります。このような問題意識を持つと、気づくことが多々あります。</p>
<p>江東区の自宅に戻るには、どうしても六本木を降りて、低地を歩く必要があります。むろん、六本木やより西側のホテルに泊まるという選択肢もありましたが、すでに本震は2時間半前に終わっており、10km以内のところに自宅があるので、そこまでする必要はないように思いました(もし津波の危険が高ければ、武蔵野台地に留まるというのは有力な選択肢でした)。</p>
<h2>徒歩帰宅中に聞いた声</h2>
<p>歩いていると、いろいろな声が聞こえ、また、印象に残ることがありました。<br> 前を歩いていた2人組のサラリーマン風の男性(年齢は30歳前後)の「千葉に先日家を買ったんですよ」という言葉とか、「もし停電だったら、コワイよね」といった若い女性の言葉です。<br> また、婦人用の靴屋が開いていたので、こんな時によく営業しているなと思いましたが、よく考えたら、これから徒歩で自宅に帰る女性で、ハイヒールを履いている人がいたら、すぐに足が痛くなるかもしれません。そういうお客さんのために開いているのかなと思いました。さらには、自宅に戻ってテレビを見たら、自転車が飛ぶように売れたと言っていました。なるほど、それはそうだろうなと思いました。</p>
<h2>風、火災、雨</h2>
<p>地上に出て思ったことは、風が強く寒いことでした。もし火災が発生したら、まずいことになっていたのではないかと思いました。また、雨が降らなかったことも有難かったです。ただでさえ、強風で寒いのに、これに雨に濡れたら、体力・気力ともにさらに辛いことになるでしょう。<br> 幸い、私は当日フード付きのダウンの防寒着を着ていたので、風と寒さは問題になりませんでした。靴は歩きやすい運動靴でしたが、防水性能はなかったので、雨が降らなくて助かりました。</p>
<h2>六本木から北東へ進む</h2>
<p>さて、阪神淡路大震災の時に高速道路が倒れたことを思い出しながら、六本木から北東に向かって、高速道路沿いを歩き、虎ノ門まで進みました。虎ノ門は外堀通りに面しています。「外堀」とある通り、江戸時代は江戸城の外堀だったため、周辺に比べると低い土地です。<br> 私の幼なじみが虎ノ門付近で働いているはずなので、彼は大丈夫だろうかと思いましたが、建物に対する被害はこれまで全く見なかったので、大丈夫だろうと思いました。また、携帯電話が不通なので、確認するすべもありません。</p>
<p>この辺はとても人が多く、しかも、東から西に大量に人が流れていきます。人の流れというのはすごいもので、流れに逆らって動くのは一苦労でした。車は渋滞し て、ほとんど動いていませんでした。その横を、自転車がサーと走り抜けます。こういう時、自転車はとても便利だなと思いました。ただ、自転車はパンクする と、機動力がガタ落ちになります。</p>
<h2>路地へ</h2>
<p>反対向きの人の流れで動きづらいので、私は路地に入ることにしました。すると、途端に移動が楽になりました。1本入るだけで、ほとんど誰も歩いていません。<br> 私は防災の専門家でも何でもない普通のIT業者なので、この行動が教科書的に正しいことなのかどうか分かりません。路地に入ったことで移動速度の向上というメリットは確実にありましたが、デメリットというかリスクも確かにありました。<br> というのは、新富町の辺りで、看板が不安定になり、一部道路が封鎖されていたことがあり、また、人形町を過ぎた辺りの古い民家で瓦が落下していました。さらに場所は覚えていませんが(新橋周辺だったかもしれません)、ものすごくガス臭い路地があり、「ガス漏れ、火に注意」などと書かれた紙が貼ってあったところもありました。仮に私がその時タバコを吸っていたら(私はスモーカーではありませんが)、張り紙に気づく前に自分だけ火事になっていたかもしれないと 思うぐらいに強烈なガス漏れでした。このように、有事の際には路地までなかなかチェックができないでしょうから、移動の容易さをとるか、リスクを避けて表通りを歩くかは、場合によっては人生の岐路になるかもしれないと思いました。</p>
<h2>わが庵は 松原つづき 海近く</h2>
<p>さて、外堀通りを通って、虎ノ門を抜け、新橋に入ります。新橋の北側に日比谷公園があります。<br> 戦国時代初期に、太田道灌が江戸城を築いた頃は、この辺りまで海が入り込んでいました。入間川、荒川など、関東を流れる大河による河川運送と江戸湾の海運 ルートを結び、かつ、武蔵野台地の東端に位置する地勢に注目し、道灌(道灌は扇ヶ谷上杉氏の家宰(執事)だった)はこの地に城を作ったとされています。太田道灌が江戸城からの情景を詠んだという歌の中に、</p>
<blockquote>
<div>わが庵は 松原つづき 海近く<br>   富士の高嶺を 軒端にぞみる</div>
</blockquote>
<p>というのがあります。この歌から分かるように、戦国時代の江戸城は松原が続く「海近」い城でした。<br> 地形的には、江戸城は東側が低地で、西側が高地です。もし津波が来る危険があれば、私なら、日比谷公園や皇居(江戸城)の東側の低地よりも、西側の高地に避難します。<br> このように、自分が住んでいる地域の歴史を学んでおくと、単に昔のことを知るということに留まらず、震災などの有事の際に役に立つことがあります。<br> 今後の歴史教育に防災という観点を入れることで、他人事から自分のことへと学ぶ内容がグッと身近なものになるのでないかと思います。<br> 歴史というのは、大抵、有事について書かれています。「文明18年(1486年)、人々は幸せに暮らしていた」などということは通常記録されません。通常、「文明18年(1486年)、太田道灌は主の扇谷上杉定正に謀殺された」というように記述されます。歴史という有事の記録を紐解くことで、いざという時の判断材料にするわけです。</p>
<h2>地形と情報</h2>
<p>一般的に津波の際には低地は危険です。出版されている災害予測地図(私は江東区在住なので、東京23区を対象とした 目黒 公郎 『東京直下大地震 生き残り地図―あなたは震度6強を生き抜くことができるか?!』 を2年ほど前に買って持っています)、古地図、地図ソフトのプロアトラスのジオラマ機能などで地形や地震予測地図を見ておくと(できれば、そのデータや画 像をiPhoneなどに取り込んでおくと)、どの経路を通るべきか判断する1つの判断材料になります。いざという時に、ググッている暇はありません。手持ちの知識、装備、体力、そして、それらを踏まえた状況判断が大切だと改めて思いました。</p>
<p>また、かつて海だったところを埋め立てた土地は地盤が弱く、液状化現象が起こる危険があります。液状化現象が起こった土地は移動しづらいので、有事の際は可能な限り避けたほうがいいでしょう。他には、地名 に「池」「沼」「谷」という名前がついていると、かつてはそういう地形だった可能性があります。普段はコンクリートに覆われて見えませんが、激しい揺れに晒された時に違いが出てくるかもしれません。昔の地形を知っていれば、避けられるリスクもあるかもしれません。<br> あと、普段から目印になる山や高い建物を意識しておくのも効果的だと思います。今回は暗かったので見ていませんでしたが、江東区やその近辺なら、スカイツリーがよく見えるので、私は歴史サイクリングをする時にスカイツリーをよくランドマークとして使っています。ランドマークがあれば、地図がなくても、大まかに自分の位置や方向が分かります。</p>
<p>さて、新橋を抜けて銀座を歩いている頃に、もし津波が来たら、逃げ込める空間というのは飲食店のあるような繁華街のほうが多いかもしれないことに気が付きました。というのは、多くのオフィスビルは玄関が閉まっていたので、仮に津波が来た場合、一時的に入ろうにも入れません。その点、繁華街は2階以上へ行く 階段がビルの入口のあるので、いざとなったら、そこへ駆け込むことができます。<br> ただ、今回の地震では問題となりませんでしたが、繁華街は飲食店も多いので、火災の危険があります。津波が来たので、ビルに逃げ込んだら、そこは火の海 だったのいうのでは洒落になりません。また、老朽化しているビルなら、津波の衝撃で次の瞬間に何が起こるかは分かりません。東京で津波が起こるほどの地震が発生した時に繁華街が無傷だとは常識的に考えて思えません。<br> また、「多くのオフィスビルが閉まっていた」というのは私の個人的な経験ですが、もう少し明るい時は開いていたかもしれません。開いていたら、オフィスビルのほうが頼もしいように思います。</p>
<p>こういう想定を考えていると、キリがありません。たとえ完璧な理論を知っていても、いろいろ複雑なことを考えてモタモタしている間に流されてしまったら、元も子もありません。<br> だからこそ、「その時」のために事前にシミュレーションしておくことは大切だと思います。そうすれば、いざという時に合理的な選択肢がいくつか思い浮かび、状況に合わせて、そのうちの1つを選んで生き延びることができるかもしれません。<br> もしこの辺りを歩いている時に津波が迫ってきたら、私は階段があり、強そうな建物にダッシュするつもりです。むろん、その前に高台に避難したいところです。</p>
<h2>そろそろ疲労が。。。</h2>
<p>などといろいろなケースを考えながら、銀座を抜けて、新富町の辺りで路地から大通り(新大橋通り)に出ました。新大橋通り沿いに歩くと、自宅に着くことがで きます。新富町を通りすぎて、八丁堀付近を北上していると、いよいよ疲労感を感じはじめました。時間を確認すると、20時頃、つまり、六本木ヒルズを出 て、2時間半ぐらい経過しています。ヒルズを出てからまだ一度も小休止をとっていないので、疲労がたまるのは当然でした。その横をまたまた自転車が颯爽と走り抜けていきます。<br> 虎ノ門付近に比べたら、格段に人口密度が減りましたが、まだ多くの人が新大橋通りを歩いていました。私の前を30歳くらいの女性が歩いており、その両脇をスーツを着た同じ歳くらいの男性が固めていました。何を話していたかは分かりませんでしたが、悲壮な感じはなく、普通に話しながら歩いていました。私が経験した範囲では、おおむね、こういう雰囲気でした。<br> 私は信号で待っている間、なるべくガードレールにもたれたり、屈伸運動などをして、体力の温存や関節の柔軟性維持に努めました。また、あたたかい飲み物と菓子パンを持っていたので、少しずつ食べて、補給しました。信号待ちの時に、外からコンビニを覗くと、お客さんが行儀よく並んでモノを買っていました。店員は当たり前のようにレジをこなし、棚に商品を補給していました。このような有事の際にも冷静に行動する人々を見て、私は本当にすごいことだと当時思い、 今でもそう思います。</p>
<h2>千葉まで帰ります</h2>
<p>さて、人形町付近を過ぎる頃に、前を歩いている2人組の男性が「千葉まで帰ります」と言っているのが聞こえました。本当にお疲れ様だなあと思いました。<br> 私自身は30代前半の男で週末には歴史サイクリングをしているので、体力に特に不安はなく、また、地理感覚もあり情報端末も持っていたので、知識についても問題はありませんでした。つまり、ヒルズの40階で揺られて、40階から徒歩で降りてきたことを除いては、比較的条件がよかったわけですが、それでも、 17時半にヒルズの1階を出発して、すでに3時間ぐらい経過して、それなりに疲れていました。新大橋通りを渡る頃には人の数も減り、パラパラと人々が歩いている感じでした。新大橋を渡り終えると、私は勝手知ったる路地に入りました。</p>
<p>結局、自宅に着くと、ヒルズを出てから3時半弱経過した21時前になっていました。<br> パッと見たところ、自宅のあるマンションに亀裂などのダメージはありませんでした。家の中は自転車が倒れていたことと26インチの液晶モニタが私の椅子に 倒れこんでいたことを除いては大したことはありませんでした。部屋の中は、倒れやすいものが倒れていたという印象でした。</p>
<h2>作業はつづく</h2>
<p>テレビをつけると、地震のニュースがひっきりなしに報道されています。衝撃的な映像が流され、これはいかんなと思いました。<br> ひと通りニュースを見た後、まだまだ強い余震があるだろうから、家具などで圧死しないように準備してから眠ろうと思い、私は作業をはじめました。</p>
<p>(終)</p>

東日本大震災と太田道灌、そして、江戸

作成日:2011/3/11 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

東日本大震災 災害と防災ーフィールドをゆく(5)ー 東京都 港区

【実蒔原古戦場から七沢城を遠望】<p>実蒔原合戦の前、上杉顕定勢は、上杉定正勢が追ってくるまで、七沢城(要害)を攻めていた。</p>
<p>写真の中央が神奈川リハビリテーション病院で、七沢城の中核部分と言われている。写真から分かるように、実蒔原古戦場から七沢城を目視できる位置にある(直線距離で1km程度の距離)。</p>

実蒔原古戦場から七沢城を遠望

作成日:2014/6/26 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

七沢城 上杉定正 上杉顕定 長享の乱

【荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-】<h3>舞台は赤浜</h3>
<p>鉢形城の東に赤浜という土地がある。ここが鎌倉街道上道の荒川渡河地点だった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 荒川の南岸、赤浜の渡し(渡河地点)付近。</em>
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<h3>意外と少ない渡河地点</h3>
<p>川というのは、一見どこでも渡れそうだが、大河の場合、川底の地形や水量の多寡という条件があるため、渡れるところと渡れないところがある。渡れて、かつ、交通の便がよい場所が重要な渡河地点となる。</p>
<p>現在、荒川であれ、利根川であれ、川沿いを自転車で走ると、サイクリングロードが整備され、快適に走ることができる。基本的に堤防に囲まれているので、視界は限られる。その限られた視界に、橋が現れては消えてゆく。「○○橋」という橋の名前を見ないと、自分がどこまで走ったか、分からなくなる。</p>
<p>いずれにしても、これらの橋があることで、両岸を容易に行き来できる。だが、もし橋がなかったらと想像してもらいたい。渡るのは大変である。まず、川を渡ると、服が濡れる。転んで怪我をしたり、下手をすると、溺れて落命するかもしれない。であるから、かつて、渡河していた人々はおそらく何か用事があって川を 渡っていたはずで、荷物を持っていることも多かっただろう。</p>
<h3>架橋・治水技術の成果</h3>
<p>江戸時代に、大井川の増水によって、宿場町に何日も足止めされ、その間に路銀をすっかり失ったという話もあるように、大河というのは雨が降って増水すると渡れなく なることがあった。現代は極端な場合を除いて、川が増水して渡れないというケースは経験しないだろう。それは川の上流にダムなどの治水対策が施されていて、水量を調節しているためである。</p>
<p>実際、長尾景春の乱が発生した当初、太田道灌は相模にいる味方を呼び寄せて、江戸城-川越城ラインを遮断する豊島氏を攻めようとしたが、大雨で多摩川が増水して、相模勢は来ることができなかったという。</p>
<h3>渡河作戦の難しさ</h3>
<p>このように、橋とダムによって、現代では川を意識することが少なくなったが、中世における河川の状況は随分違ったことをお分かりいただけたと思う。しかも、軍事作戦で川を渡るとなると一層困難である。</p>
<p>まず、重量のある甲冑を身につけ、騎馬武者は馬に乗って渡河する。そればかりか、対岸には敵が手ぐすね引いて待っているのである。<br> 水の中では、陸上のように機敏に動けないから、まさに格好の標的となってしまう。そして、味方に死傷者を出しながらも、弓矢の雨の中を必死に渡って、運よく対岸に着いたとしても、優勢な敵が味方を袋叩きにしようと待っている。</p>
<p>このように渡河作戦は困難なので、孫子の兵法書に渡河方法が書かれている(行軍篇(第九))ほど、渡河はいくさにおける重要なテーマだった。</p>
<h3>扇谷上杉定正</h3>
<p>さて、この話の主人公は、扇谷上杉定正という人物である。<br> この男は、山内上杉顕定にそそのかされて、自分を擁立し、しかも自家の勢力を強めてくれた、家宰の太田道灌を謀殺した人物として歴史に記録されている。道灌を謀殺したことで、定正に見限りをつける勢力もあり、扇谷家の勢力は減退したが、定正は凡庸な人物ではなかった。</p>
<h3>定正、関東三戦に勝利する</h3>
<p>道灌謀殺後、定正は関東管領家の山内上杉顕定と対立関係に入った。</p>
<p>不利な形勢の中で、軍事面では長享2年(1488年)の関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)を有利に進め、外交では第2代古河公方の足利政氏や政氏の庇護下にあった長尾景春、そして、伊豆を奪取した北条早雲を味方につけ、山内上杉顕定に対抗した。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦</h3>
<p>その後、徐々に勢力を北武蔵に伸ばした定正はついに明応3年(1494年)に荒川に到達し、渡河しようとした。なお、この作戦には定正の援軍として早雲も参戦している。<br> もしこの作戦が成功し、上野国の山内上杉氏を倒せば、山内上杉氏に代わって、扇谷上杉氏が関東の覇者になれる可能性が出てくる。</p>
<p>だが、ここで思いがけないことが起こったのである。定正が荒川渡河時に落馬して、頓死してしまった。扇谷上杉氏の当主になってから約20年もの間、関東の戦乱を生き抜き、道灌謀殺後の苦しい時期も何とか切り抜けてきた定正に一体何が起こったのか。それは残念ながら分からないが、荒川の存在とその流れが彼の落 命の一因となったことは確かだろう。</p>
<p>定正落命は、司馬遼太郎『新装版 箱根の坂(下)』 (講談社文庫)<img>、伊東潤『疾き雲のごとく』<img>の第2話「守護家の馬丁」で書かれている(司馬さんの本では赤浜を過ぎた荒川北岸で、伊東さんの本では荒川南岸で死亡したことになっている。詳しくは各書籍をご覧いただきたい)。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦失敗時の関連人物たち</h3>
<div> </div>
<h3>定正の死と扇谷上杉氏の衰退</h3>
<p>原因はどうあれ、定正が死去したことで、元々、勢力的に劣勢だった扇谷上杉氏は急速に衰退していく。結果からみると、やはり彼の存在が扇谷上杉氏を支えていたことが分かる。</p>
<h3>早雲を関東に引き入れた定正</h3>
<p>もう1つ、彼の果たした役割としては北条早雲を関東に引き入れたことである。<br> 定正の養子、扇谷上杉朝良の代に早雲は小田原を手に入れ、関東の西の入り口に地盤を得た。そして、最終的に、早雲は相模一国を手に入れるのである。<br> それから半世紀ほど後、早雲の孫、北条氏康が最終的に川越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼすことになる。短期的に正しい決断が、長期的に見ると必ずしも正しくないこともあるという一例だろう。</p>
<h3>再び、赤浜</h3>
<p>私は赤浜の渡しで大きな石の前に立っている。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 赤浜の渡河地点付近の写真。</em><br><em> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</em>
</div>
<div> </div>
<p>5月初旬だったこともあり、ボカボカ陽気で眠くなるようなところだった。<br> 中世の名もなき人々、そして、著名な歴史人物(たとえば、元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府を倒すため軍を率いて鎌倉街道上道を南下した新田義貞)もこの辺りを渡ったことだろう。<br> そして、高見原から鎌倉街道の上道を北上してきた定正は、鎌倉街道上道の高地から赤浜の低地の風景を目にしたあと、この辺りで荒川を渡河しようとして落命したのかもしれない。</p>
<p>今は近くに橋がかかっているので、釣り人らしき人以外、誰も顧みないこの地は、かつて坂東武者たちの生死を懸けた歴史の舞台だったのである。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。</em><br><em> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</em><br><em> 赤浜の北岸が花園である。</em><br><em> 荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</em>
</div>
<p><a><img></a></p>
<div>2010年5月1日撮影:<br> 上の写真を撮影した付近に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標識がいくつか立っている。</div>
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荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

赤浜の渡し 上杉定正 埼玉県 大里郡

【立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー】<h2>立河原の戦いとその後</h2>
<p>今回のテーマは「<strong>立河原の戦い</strong>」である。</p>
<p>永正元年(1504年)、古河公方、足利政氏を擁する山内上杉顕定の軍勢と扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍が、多摩川と浅川の合流点である立河原で戦った。この戦いを立河原の戦いという。 <br>合戦の結果は、扇谷上杉氏・今川氏親・北条早雲の連合軍が大勝だったものの、その後、越後から越後上杉氏の援軍(越後守護は山内上杉顕定の実弟、上杉房能)が到着し、翌年(1505年)、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に降伏する。その結果、20年弱続いた両上杉氏の対立(長享の乱)は山内上杉氏の勝利で終結した。</p>
<h2>立河原の戦いと関連人物</h2>
<div> </div>
<h2>第5話「稀なる人」で出てくる土地をめぐる</h2>
<p><strong>伊東潤 『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</strong>の第5話「稀なる人」では、立河原の戦いが扱われている。そこで、この話に出てくる土地をまわることにした。 <br>小説では、枡形山城→高幡城→普済寺という流れで話が進むが、その流れで走ると、ダラダラとした上り坂をひたすら登ることになる。 <br>私は、以前、古河城→小山城→結城城を巡った時に、同じくダラダラ続く登り道に苦しめられた。ゆえに、不本意ではあるが、ダラダラ上り坂は避けて、下り坂を選んだのである。</p>
<h2>出発、電車で立川駅へ</h2>
<p>さて、自宅を発して、東京駅に着いたのが午前7時、電車に乗り、普済寺近郊にある立川駅に8時過ぎに到着した。立川駅を出て、さっさと折りたたみ自転車を組み立てる。そして、iPhone4を自転車に装着して、さあ出発。</p>
<h2>普済寺</h2>
<p>最初の目的地は普済寺だった。立川駅から数百メートルほどなので、8時30分前には着いた。</p>
<p>普済寺は東京都立川市にある臨済宗建長寺派の寺院で、武蔵七党西党日奉の支族である立河氏の館があったと言われている。 <br>伊東さんの小説では、立河原の戦いに際して、山内上杉顕定は2代古河公方の公方足利政氏を奉じて普済寺に陣を構えたとしている。現地には、立河氏の館跡と言われる土塁が遺構として残っていた。</p>
<h2>多摩川へ</h2>
<p>普済寺を出て、多摩川には数分ほどで着いた。 <br>サイクリングロードに入ると、実に気持ちよく走ることができる。この日の数日前まで残暑が厳しかったが、この日の午前中は特に涼しく、サイクリングには適したコンディションだった。</p>
<p>さて、サイクリングロード沿いに南東に進み、浅川との合流点の少し前辺りまできた。<br> 伊東さんの小説では、高幡城を出た氏親・早雲の連合軍が多摩川を渡って、普済寺を出撃した山内上杉顕定勢と戦ったことになっているので、距離的に中間地帯のこの辺が戦場になるかもしれないと勝手に想像してみた。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ある程度の広さがあり、大河の河原らしい草が生えている。ただ、河原に石がないので、小説のイメージ通りにはいかない。 なお、戦いは旧暦の9月27日だったとのことなので、新暦で言うと、11月上旬頃ということになる。とすれば、渡河して体が濡れるとさぞかし兵たちは寒かっただろう。顕定にはその様子が好機と映ったとしても不思議ではない。 <br>*写真は東京都府中市四谷の辺り。 なお、渡河作戦の難しさについては、『荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正- ~その1~』に書いた。</em>
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<p>来た道を少し戻って、都道20号の橋で多摩川を渡り、万願寺駅で南下するという経路で、浅川に着いた。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>9時15分ごろ、浅川を渡る。 <br>多摩丘陵の北端が見える。写真枠外の右側に高幡城がある。</em>
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<h2>高幡城</h2>
<p>浅川を渡ると、高幡不動はもうすぐだ。高幡不動に着く前に一休みしたので、高幡不動に着いたのは10時ごろだった。高幡城は、高幡不動の裏山にあり、そこからの眺望はよく、多摩川方面を遠望できる。</p>
<p>高幡不動に着いて、自転車をとめて、境内を歩くとすぐに土方歳三の銅像が立っているので、一瞬、おやっと思った。そういえば、土方歳三は武州多摩の出身だったことを思い出した。後で調べてみると、高幡不動は新選組副長である土方歳三の菩提寺だそうだ。土産物屋をのぞくと、土方グッズがたくさん売られており、新選組人気を確認した次第である。</p>
<p>目的地は高幡城なので、かつて城があった裏山に向かった。高幡城は比高50mの山城なので、少し坂道を登ると本丸跡を見つけることができた。 <br>伊東さんの小説では、ここで扇谷陣営の軍議が行われたことになっている。今は木々が繁っているので、その隙間からしか眺めが得られないが、かつては木を切っていたはずなので、本丸からの眺めはさぞかしよかったと思う。</p>
<h2>犬懸上杉憲秋、回想</h2>
<p>突然だが、犬懸上杉憲秋という人物をご存知だろうか。中世関東史を学んだ人以外は生涯知ることもない人物だと思うが、北条早雲が生まれる1年前にこの城で自害して亡くなった人である。</p>
<p>彼の父親は犬懸上杉氏憲(禅秀)で、1416年に上杉禅秀の乱という反乱を起こした人物として有名だ。犬懸家は山内家と交代で関東管領を歴任していた名家だったが、上杉禅秀の乱を契機に没落してしまった(その代わりに台頭したのが、扇谷家)。何事もなければ、輝かしい未来を約束された人生から一転、上杉憲秋は謀反人の子供になってしまったわけだ。<br>そして、何とか手柄を立てて犬懸家を復興させようと、家運を両上杉氏に賭けて、憲秋は戦いに臨んだ。享徳4年(1455年)1月、鎌倉公方・足利成氏勢と両上杉勢は、府中の分倍河原から東京都昭島市拝島辺りで戦った。この戦い(第1次立河原の戦い)で、憲秋は両上杉氏側の先鋒を務めるが、敗れてしまい、高幡城で自刃した。なお、第2次立河原の戦いが今回のテーマ「立河原の戦い」である。</p>
<p>なぜ私はこの人物のことを書いているか、その理由を記してみたいと思う。<br> 私は以前、坂田祐樹氏の 『<a>関東公方成氏</a><img>』という小説を読んだことがあり、その中で上杉憲秋が出てくる。 <br>その小説の中で、彼は自分の運命を恨み、ニヒルな笑いを浮かべながらも社会的に生き返る機会を探しながら生きている。その姿がなぜか私には印象的だった。そして、今回、伊東さんの小説をテーマに高幡城をまわることになり、高幡城について調べていると、彼がここで自害したことを見つけ、何か思うところがあり、こうして記してみたわけである。 <br>おそらく、坂田さんの小説を読んでいなかったら、彼のことをこうして書くこともなかっただろう。そう考えると、歴史小説は過去と現在を結ぶ機能があることに気付く。たとえ回想する人が少数であっても、500年後に回想される人物はそうは多くないだろう。<br>むろん、その回想が実際の彼にどれだけ即しているかを確かめるすべはないのだが。 そして、もう1つ歴史小説が持つ面白い機能は、一度人物のイメージが形成されると、そのキャラクターに親しみを覚えることだと思う。親しみを覚えたこそ、私はこうして彼について記しているわけだ。</p>
<p>遠い昔のこととはいえ、一人の男が時代に翻弄されながらも、活路を求めて生きて、戦って、敗れ、自害したその場所にいると何かしらの思いが湧いてこざるを得ない。</p>
<h2>関戸城</h2>
<p>さて、高幡不動を出て、川崎街道を東に進み、次は枡形山城を目指す。 <br>右手に多摩丘陵を見ながら、所々、上り坂はあるものの、基本的になだらかな下り坂を走っているので、想定通り、快適に走れる。 <br>府中から見て多摩川の対岸にある関戸には、11時過ぎに着いた。<br> 今回のテーマには関係ないが、この辺りにはかつて関戸城という城があった。関戸城は、高幡城と同じく、多摩丘陵の北端にある山城で、城の右側を鎌倉街道上道が通っている要衝である。中世の府中はとても栄えていた土地で、府中の対岸にある関戸には宿があり栄えていた。また、その重要性ゆえに鎌倉の攻防をめぐって、何度も大きな戦いがあった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>2010年9月撮影 <br>自転車で走っていて、偶然見つけた標柱。1333年に新田義貞が分倍河原と関戸で鎌倉幕府軍と戦って勝利し、その数日後に鎌倉を陥落させている。つまり、この地を制して、はじめて鎌倉への道が開かれるのである。</em></div>
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<p>事前に調べたところ、関戸城には遺構は残っていないものの、天守台の標柱があるとのことだったので、それを探すことにした。天守台がある場所というのは、一番高いところか、それに準ずるところと相場は決まっているので、それらしい場所を目指して、丘陵を登っていく。<br> 大体、この辺りだろうという勘が働いたので、その辺を歩いていると、地元の人と思しき年配の女性が歩いてきた。もしかしたら標柱のことをご存知かもしれないと思い、聞いてみることにした。</p>
<p>「あのー、すいません」 <br>「あ、はい」 <br>「この辺に昔、関戸城があって、その案内板みたいなものがこのあたりにあると思うんですが、ご存じないでしょうか。」 <br>「ええと、ごめんなさい。知らないわ。」</p>
<p>そんなやりとりをしていると、細い道にタクシーが入ってくる。私は急いで自転車を道路の横によける。そのタクシーは5mほど先に進んだところで止まった。</p>
<p>「ここは桜ヶ丘1丁目で、関戸はもっと東だから、そっちにあるんじゃないかしら」<br>「なるほど、そうなんですか。どうもありがとうございました。」<br> 私は関戸城が桜ヶ丘1丁目にあることを資料で知っていたが、親切に教えてくれた人に言い返すのも何だと思い、その場を去ろうとした。すると、後ろから声がする。 <br>「あのー」<br> 私が振り返ると、 <br>「タクシーの運転手さんに聞いてみたらどうかしら。ご存知かもしれませんよ。」 <br>なるほど、それは一理ある。<br> 私はお礼を言って、タクシーに向かった。</p>
<p>タクシーに向かうと、どうもタクシーの運転手さんはお疲れのようで、何だか話しかけずらい雰囲気だった。そこで、「まあいいか、どうせ標柱はこの近くにあるはずだ」と思って、再び探し始めました。すると、その場所からすぐのところに標柱が見つかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ついに見つけた「天守台」標柱。自分の推理が当たった時は素直に嬉しいものである。 <br>多摩川方面への写真を撮ろうと思ったが、この付近(桜ヶ丘1丁目)は所狭しと住宅が立ち並び、よい写真は撮れなかった。しかし、住宅の隙間からは北、東、南に視野が得られることが分かった。</em>
</div>
<div> </div>
<p>私が尋ねた女性がなぜすぐそこにある標柱を知らなかったのか分からないが、やはり近所であっても関心がないと知らないものなのかもしれない。というのも、私は大学生の頃、今回の目的地の1つである枡形山城の近くに住んでいたが、枡形山城の存在を知なかった。近年、中世関東史を調べていて、はじめて枡形山城の存在に気付いたのである。</p>
<p>関戸城を出た頃には、昼前になっていたので、多摩川を渡り、府中方面へ行き、中華料理屋で昼食をとった。 <br>昼食後、私は本日最後の目的地である枡形山城に向かって走り始めた。</p>
<h2>iPhone4の携帯式充電池</h2>
<p>私は「EveryTrail」という、GPSを使って自転車で走ったところを記録して、地図に書き込んでくれるソフトを使っている(*)。 <br>このソフトは便利だが、電池の消費がすさまじく、2時間半ほど使った結果、残りの電池残量が50%を切っていた。ただ、これはこのソフトの問題というより、GPSを使った同種のソフトでも同じように消費する。あらかじめ分かっていた問題だったので、私は事前にサンヨーの携帯式充電池(KBC-L2AS )を買っておいた。</p>
<p><em>(*)2010年当時の話。当時は歴史めぐりにこういうツールを使うのは先進的な試みだった。</em></p>
<p></p>
<p>装着するとこんな感じになる。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年9月 </em><br><em>自転車ホルダーにiPhone4を装着し、さらに携帯式充電池をiPhone4に接続した写真。バッグの中に、携帯式充電池が入っており、白いケーブルを通して、iPhoneと接続されている。iPhoneアプリの「EveryTrail」を使いながら充電できる。</em>
</div>
<div> </div>
<h2>乞田川の上り坂</h2>
<p>さて、電池の心配もなくなったので、午後の部、出発。 <br>多摩川を再び南側に渡って、川崎街道を東進する。乞田川(こったがわ)を渡るあたりから、上り坂が続く。昼食をとったばかりで元気だったので、最初は颯爽と駆け上がっていったが、走っても走っても終わらないので、ついに自転車を押して歩くことにした。あとで、乞田川にかかる橋から坂がおわる連光寺坂上辺りまで距離を測ってみると、1km強あった。長いはずである。</p>
<h2>懐かしの向ヶ丘公園駅</h2>
<p>その分、下り坂は気持ちよく走ることができた。 <br>その後も、基本的に下り坂なので快適だ。特に問題もなく、稲城市を通って、川崎市多摩区に入る。そして、14時ごろ、懐かしの向ヶ丘遊園駅に着いた。私は大学生の頃にこの周辺に住んでおり、向ヶ丘遊園駅にもよく来た。駅は改装されたようで、きれいになっていた。並んでいる店も結構変わっていたが、街の構造自体に変化はないようだ。</p>
<h2>枡形山城へ</h2>
<p>さて、今回は感傷に浸りに来たわけではないので、気を取り直して、枡形山城に向かう。 <br>枡形山城は、直線距離で向ヶ丘遊園の南700mほどのところにある生田緑地の中にある。当城は、標高80m強、比高60m弱の山城で、多摩丘陵の北端にあり、多摩川方面の武蔵野台地を一望できる。そういう点では、高幡城や関戸城と似ている。</p>
<p>永正元年(1504年)の立河原の戦いの時、北条早雲が先に当城に着き、数日後の9月20日に今川氏親が到着して、合流した。その様子が伊東潤 『疾き雲のごとく 』の第5話「稀なる人」でも書かれている。そして、その後、早雲と氏親は9月27日の立河原の戦いを迎えた。</p>
<p>枡形山城跡を目指して山を登っていくと、緑が豊かで改めて良いところだと思った。大学時代、一度も訪れたことがなかったのは惜しいことだ。 <br>山頂に着くと、子供連れの親子が結構たくさんいる。子供が大声で叫びながら、遊んでいる。山頂はそれなりの広さがあり、公園になっている。遊ぶ環境もあり、当然クルマも走っていないため、親にとっては安心して遊ばせることができるスポットなのだろう。</p>
<h2>iPhone4の逆光問題</h2>
<p>曲輪の北端には、結構大きな望楼が建っていて、そこから四方を遠望することができる。 <br>早速、iPhone4で写真を撮ってみた。すると、逆光のためか、写りがよくない。そこで、Panasonic製のデジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で撮ってみると、かなり違いがあった。高幡城でも少し気にはなっていたが、やはりそうだったのかという感じだ。「iPhone4があるので、デジカメは必要なし」というわけにはいかず、当面、併用することになりそうである。 <br>まあ、写真を編集すればある程度は何とかなるが、数が数だけにできるだけ、そのまま使いたいものだ。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>iPhone4で撮影した枡形山城からの写真。</em>
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<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>Panasonic製デジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で、ほぼ同じ場所と時間から撮った写真。ただし、逆光ではないところで撮ると、それほど変わらない。さすがにPanasonicのデジカメはカメラ専用機器だけあって、対応できる状況の幅が広いのだろうか。</em>
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<p>城の周辺を少し散策したあと、向ヶ丘遊園駅に戻り、この日の歴史サイクリングを終えた。</p>
<h2>おまけ: 寿桂尼の生涯</h2>
<p>「稀なる人」の最後のほうで、今川氏親が藤原北家カ勧修寺流中御門家の娘を妻に迎える話が出てくるが、この女性こそ、後に寿桂尼と呼ばれる人で、今川氏親の正室であり、今川義元の母である。</p>
<p>氏親が晩年、病気で政務をとれなくなると、氏親を補佐した。氏親の死後も、陰に日向に今川家を支え続けた。今川義元が当主になると、今川家の全盛期を迎えた。しかし、義元は、永禄3年(1560年)、尾張攻略の途中に桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られてしまう。 <br>その後、今川義元の子(寿桂尼の孫)、氏真が当主となるが、今川家の衰退がはじまり、永禄11年(1568年)武田信玄の駿河侵攻の数ヶ月前に寿桂尼は死去した。</p>
<p>彼女は1505年頃に今川家に嫁いでいるので、晩年の早雲を知っていたはずであり、織田信長のために、頼りになる実子の義元を失い、武田信玄によって、今川家が実質的に滅ぼされる直前まで生きたことになる。 <br>このように、寿桂尼の生涯を追っていくことで、戦国初期(代表的人物:早雲)から中期(代表的人物:信玄)、そして、後期(代表的人物:信長)のはじまりまでを見ていくことができる。</p>
<p>分かりきったことではあるが、寿桂尼の人生を通して、戦国時代とは何とも厳しい時代であったと改めて思うのである。</p>
<p>(終)</p>
<p><em>* なお、マップの位置は今回の歴史サイクリングの範囲を大体示すために設定した。合戦がそこであったという意味ではないので、ご注意を。</em></p>

立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

立河原の戦い フィールドをゆく 北条早雲 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー

【長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜】<h2>別の戦国時代をつくる可能性を持っていた男、長尾景春</h2>
<p>別の戦国時代を作る可能性を持っていた人物として、長尾景春がいる。一般には知られざるこの人物について、これから書いていきたい(*)。</p>
<p><em>(*)この記事の公開は2011年10月14日で、長尾景春が主役の歴史小説、伊東潤氏『叛鬼』はまだ出版されていなかった。伊東さんの著書によって、長尾景春はの知名度は以前よりも上がったと思う。</em></p>
<p>長尾景春は訳あって、主人の関東管領、山内上杉顕定を相手に謀反を起こし、主の顕定を窮地に陥れた。これが文明8年(1476年)からはじまる長尾景春の乱で、景春が30代前半の頃のことである。しかし、不運にも、彼の同時代には太田道灌がいた。</p>
<p>長尾景春は巧みな外交と調略を駆使して、戦略的優位を準備するものの、太田道灌との戦闘に敗れた。戦略的に勝っているからといって、自動的に最終的な勝利が得れれるというものではない。</p>
<p>長尾景春について述べる前に、同姓の越後守護代、長尾為景について見ていきたい。</p>
<h2>下克上を成功させた男、長尾為景</h2>
<p>永正4年(1507年)長尾為景は越後守護の上杉氏に下克上を起こして成功し、傀儡の越後守護を擁立することに成功した。そして、首尾よく傀儡越後守護も追放して、為景自身が越後の支配者となった。彼の息子の長尾景虎はその地盤を引き継ぎ、さらには、(北条早雲の孫、北条氏康に河越夜戦(1546年)で撃破され、その後、没落させられた)関東管領の山内上杉憲政から山内上杉氏の名と関東管領の職を受け継ぎ、「山内上杉」謙信となった。そして、謙信は武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国の雄たちと激しく争うことになる。</p>
<h2>「長尾景春の乱」の原因:景春、山内上杉氏の家宰職を継承できず</h2>
<p>社会的地位からいうと、長尾景春は越後守護代の長尾為景(上杉謙信の父)と似たところにいた。</p>
<p>長尾景春の祖父(白井長尾景仲)も父(白井長尾景信)も、主の山内上杉氏の家宰(執事)だった。文明5年(1473年)に、父の長尾景信が死去した。景春は、当然、自分がその地位を引き継げると思っていた。 <br>しかし、彼の家(白井長尾家)の勢力が主家を凌ぐのを恐れた若き当主、関東管領の山内上杉顕定が、景春の叔父を家宰に任命した(上杉顕定の懸念は、越後の長尾為景の例を見ても空想ではなかった)。 <br>景春にとって、この処置は認められるものではない。怒りなどの感情もあっただろうが、それより、家宰職には膨大な利権があり、家臣や同輩はそれを当てにしている。景春が利権を手放せば、人々は去っていき、景春の政治生命は致命的なダメージを受けることになる。 <br>景春は政治的な死を選んで隠遁するか、家宰職を認めさせるために主と戦うかの二者択一を迫られたのである。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>白井城から榛名山をのぞむ。手前に流れる川が吾妻川。 </em><br><em>白井城は代々、山内上杉氏の家宰を務める白井長尾家の本拠地だった。当城は群馬県渋川市白井に位置する崖端城である。白井城の西側を吾妻川が東側を利根川が流れており、城の南側で合流しており、さらに三国街道がこの城の近くを通るため、上野と越後の交通の要衝でもある。 </em><br><em>かつての城域の大部分は、現在、畑だが、一曲輪を中心に遺構も残っている。</em>
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<h2>景春、挙兵</h2>
<p>景春は関東の有力国人を多数味方につける一方、文明8年(1476年)頃、<a>鉢形城</a>を築城して拠点とした。また、当時、享徳の乱が継続中で、主家の山内上杉氏と古河公方は対立しており、主家と敵対している古河公方、足利成氏を味方につけ、着々と軍事的、外交的な策を駆使して、蜂起のときを待った。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年4月25日撮影 </em><br><em>鉢形城の北側からのアングル。写真中央の川が荒川。城の堅固さが偲ばれる。遺構の良好に残り、北条氏末期の鉢形城の様子がよく分かる。 </em><br><em>長尾景春が太田道灌(両上杉氏)との戦いに敗れ、この城を追われたあと、この城は山内上杉氏の武蔵支配の拠点となった。16世紀の半ばに、後北条氏が山内上杉氏に代わって、この地を支配するようになっても、鉢形城は重要拠点でありつづけた。景春の築城眼は的を得ていたようだ。</em>
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<p><a><img></a></p>
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<em>長尾景春の乱、概略絵地図 </em><br><em>当時の関東は、利根川を境に東が古河公方の勢力圏、西が両上杉氏の勢力圏だった(なお、当時の利根川の流路は現在と違い、関東を東西に分けていた)。古河公方勢と対戦中だった両上杉の前線拠点、五十子陣は背後から長尾景春に攻撃され、崩壊した。</em>
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<h2>景春の、そして、関東の運命を握る男、太田道灌</h2>
<p>景春にとって、最大の脅威は江戸を中心に勢力を持っている太田道灌だった。道灌は文武両道の名将で、足軽を組織して、強力な軍事力を養う一方、関東の大河の下流を押さえる江戸に堅固な江戸城を築き、大きな経済力も持っていた(道灌はその強力さ故に、10年後、道灌の主人、扇谷上杉定正に謀殺されることになる)。</p>
<p>ただ、道灌は主の扇谷上杉定正や定正の同盟者である山内上杉顕定との関係がうまくいっておらず、彼らの間に溝が広がりつつあった。景春にとって、道灌は敵にまわすと最大の脅威なので、この隙をついて、道灌を味方につけるか、それが無理ならせめて中立を維持させる必要があった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年2月撮影</em><br><em>江戸城に残る3つの櫓の1つ、富士見櫓。かつて太田道灌が築いた静勝軒の故地に江戸城の富士見櫓が建っているという。 静勝軒は道灌の軒号でもある。</em>
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<h2>景春、初戦に勝利。</h2>
<p>景春は道灌と両上杉首脳の不仲を好機として蜂起した。景春の基本戦略は五十子陣にいる両上杉首脳と道灌の連携を分断し、道灌を足止めする一方、両上杉の軍勢に打撃を与え、機を見て、主の山内上杉顕定と和睦し、政治目標を実現するというものだったと思う。家宰職を得ることが景春の政治的な目標なら、この戦略は的を得ているだろう。</p>
<p>初戦は上々で、文明9年(1477年)1月に主の顕定と扇谷上杉定正のいる五十子陣を襲って崩壊させた。顕定と定正は何とか利根川の北に逃げ延びた。これが「長尾景春の乱」の最初の戦いだった(この戦いは4年に及んだ)。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年4月撮影 </em><br><em>両上杉氏が古河公方との戦いのために築いた五十子陣跡。近辺は茫漠たる平野が広がる。 その重要な拠点を景春は崩壊させた。そのため、両上杉首脳は窮地に陥るが、太田道灌の活躍によって何とか生き延びた。</em>
</div>
<h2>道灌、動く</h2>
<p>景春は山内上杉顕定との和睦の取次ぎを期待して、道灌に使者を送った。景春の政治的目標は山内上杉氏の家宰職の継承だったのだと思う。そうでなければ、顕定勢の撃滅を目指していたはずだ。 <br>景春の意図はどうであれ、結局、道灌による和睦斡旋は失敗した。すると、道灌は景春を討つべく、江戸城から北上してきた。</p>
<p>道灌は江戸城と河越城の連絡線を遮断している練馬城・石神井城の豊島氏を江古田・沼袋の戦いで撃破した。この戦いによる勝利で江戸城・河越城のラインを確保した道灌はさらに北上を続けた。 <br>景春は当時五十子陣にいた。道灌は、景春の拠点、鉢形城と五十子陣の間で陣を構えることで、景春の補給ラインを分断した。景春は補給ラインを確保すべく南下したが、これは道灌の「手」だった。</p>
<p>道灌は景春をおびき寄せて合戦に持ちこんだ(用土原・針谷の戦い)。景春は道灌の術中にはまり、敗れた。その後も、道灌は景春勢を各地で撃破して、景春を秩父の奥地に追い込んでいった。そして、文明12年(1480年)、景春最後の拠点、秩父の日野要害(熊倉城)も道灌に攻略され、景春は没落した。</p>
<p>なお、景春は道灌の妻の甥にあたり、お互いよく知った仲であったと言われている。</p>
<h2>景春の実現されなかった可能性を考える</h2>
<p>長尾景春は長尾景春の乱に敗れたが、その後も神出鬼没の活躍で、主の山内上杉顕定を苦しめた。やはり、只者ではなかったことが分かる。しかし、これらの活躍もあくまでも好機に便乗するという形であって、景春が再び時代の主役になることはなかった。</p>
<p>ここで、少々、「もし」を考えてみたい。 <br>もしこの時道灌が江戸城を動かなかったり、さらに言うと、道灌が景春に協力していたら、古河公方との戦いにも直面していた両上杉氏(山内上杉氏と扇谷上杉氏)は二方向、道灌も含めれば、三方向から挟撃され、一時的であれ、両上杉氏主力が壊滅していた可能性はかなりあったと思う。</p>
<p>当時、長尾為景の下克上はまだ起こっておらず、山内上杉氏は越後上杉氏の援軍を期待できたため、山内上杉氏がたやすく滅亡したかどうかは疑問ではあるものの(また、京都では弱体ながら室町幕府は存在していた。幕府は基本的に親上杉なので、近隣諸国からも両上杉氏に援軍が来ていた可能性もある)、一方では景春か道灌が古河公方を担いで関東を統一し、彼らの子供あたりが源頼朝のように関東の強兵を率いて京に攻め上り、天下に号令していた可能性もゼロではない(実際、永正5年(1508年)、大内義興は前将軍の足利義稙を擁して上京し、10年間、自派の政権を維持した)。</p>
<p>実際には、このシナリオ(景春と道灌が同盟し、両上杉氏を倒すシナリオ)は実現されなかったわけだが、もし実現していたら、その後の展開は全く変わっていただろう。 <br>状況は違うが、後に景春や古河公方と同盟して、両上杉氏と対抗した人物がいる。そう、それが北条早雲である。もしこの時(景春が蜂起したとき)に早雲が道灌の立場であれば、どういう判断を下していただろうか。</p>
<h2>長尾景春と長尾為景</h2>
<p>結局、失敗した長尾景春の乱だったが、景春は優れた戦略家であり、実行力もあった。ただ、相手(太田道灌)が悪かったと言えるかもしれない。</p>
<p>長尾景春の乱から、約30年後、越後で長尾為景が越後上杉氏を倒して、下克上に成功した。 長尾景春はある意味、長尾為景になり損なった男ということもできると思う。</p>
<h2>年表: 長尾景春の乱</h2>
<div> </div>
<p>(終)</p>

長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜

作成日:2014/6/22 , by fuji3zpg 開く

長尾景春の乱 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー

【北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-】<h2>はじめに</h2>
<p><strong>伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</strong>と絡めながら、北条早雲の生涯を見ていきたいと思います。 <br>なお、早雲の年表は当ページの最後に付しておきました。 私は早雲の生涯をざっくり4期に分けました。 以下、各期の概要をみていきましょう。</p>
<h2>第1期:1456-1486 (早雲、出生から30代まで)</h2>
<p>第 1期は早雲が歴史の表舞台に現れる以前で、彼の動きに謎が多い期間でもあります。具体的には、早雲出生(1456年)から太田道灌が謀殺される(文明18 年(1486年))までの期間です。 <br>この時期、若き早雲は幕府に出仕する一方、建仁寺や大徳寺で禅の修業もしています。また、一般には文明8年(1476年)に起こった今川家家督相続問題を 調停したと言われています(*)。<br>数え年で、早雲が21歳の時のことです。</p>
<p><em>(*)文明8年(1476年)に、駿河 守護の今川義忠が遠江で戦死して、今川家に家督相続問題が起きました。定説や歴史小説では、北条早雲が扇谷上杉氏の家宰、太田道灌に話をつけて、今川義忠 と早雲の姉、北川殿の嫡男である龍王丸(のちの今川氏親)が成人するまでの間、小鹿範満(今川義忠の従兄弟)を暫定駿河守護にすることで落着されたとされ ています)。</em></p>
<p>『疾き雲のごとく』では、第1話「道灌謀殺」でこの辺りのことが書かれています。</p>
<h2>第2期:1487-1505 (早雲、40代の頃)</h2>
<p>第 2期は小鹿範満を討って、今川氏親を擁立した長享元年(1487年)から長享の乱が終わる永正2年(1505年)頃までの期間で、早雲は幕府の関東出先機 関として、または、今川家の部将として動いていた時期です。この時期、早雲は伊豆に討ち入り、数年かけて制圧し、さらには小田原城を落としています。</p>
<p>『疾き雲のごとく』では、以下の4話が対象期間です。</p>
<ul>
<li>明応2年(1493年)の伊豆討ち入りを書いた第3話「修善寺の菩薩」</li>
<li>明応3年(1494年)の扇谷上杉定正の荒川渡河作成失敗を書いた第2話「守護家の馬丁」(早雲は、定正と同盟しており、この戦いに参陣していました)。</li>
<li>大森一族の没落(小田原城攻略戦)を書いた第4話「箱根山の守護神」(攻略した年は正確には分かりません。明応5年(1496年)から文亀元年(1501年)までには早雲は小田原城を攻略しています)。</li>
<li>長享の乱、最後の大戦となった立河原合戦(永正元年(1504年))を書いた第5話「稀なる人」</li>
</ul>
<h2>第3期:1506-1512 (早雲、50代前半から半ば頃)</h2>
<p>こ の頃から、早雲は関東の一勢力として独自の動きを展開しはじめます。永正4年(1507年)、京都で細川政元が暗殺されて、政元に追放された10代将軍、 足利義材が大内義興と細川高国の後ろ盾を得て復権します。本来であれば、政元派であった早雲は窮地に陥るところでしたが、数年前から義材派に鞍替えしてお り、京都の政変による荒波も乗り越えました(なお、この荒波をもろにくらって、沈没したのが越後上杉氏で、その同盟勢力の山内上杉氏も大打撃を受けまし た)。そして、永正6年(1509年)頃から、ついに早雲は両上杉氏に対する戦いをはじめます。</p>
<h2>第4期:1513-1519 (早雲、50代後半から死去まで)</h2>
<p>第 3期に両上杉氏に対する戦いをはじめ、攻勢に出た早雲でしたが、両上杉氏が結束するとやはり国力に雲泥の差があるため、早雲勢は小田原城付近まで押し込め られて、窮地に陥ります。しかし、永正9年(1512年)頃から、古河公方と山内上杉氏の後継者問題が発端となって、また両上杉氏は戦い始めました。その 隙を突いて、早雲は東相模の三浦氏を攻撃し、3年以上にも渡る攻囲戦の末、永正13年(1516年)7月11日に三浦道寸の籠る新井城を落としました。こ こに、早雲は生涯で伊豆と相模を手中に収めることに成功しました。そして、仕事を成し遂げた早雲は、その3年後に死去します。 <br>『疾き雲のごとく』では、最終の第6話「かわらけ」で三浦一族の滅亡(早雲の東相模攻略戦)が書かれています。</p>
<h2>最後に</h2>
<p>こ うして見ると、『疾き雲のごとく』の話が第2期に集中していることが分かります。それに対して、第3期は第5話「稀なる人」の最後の方と第6話「かわら け」の最初の方で触れられているだけです。しかし、実は第3期は、唖然とする程、話がもつれ、いろいろな人物が出てきては消えていく激しい変化が起こって います。ですから、この時期が重要でなかったわけではありません。</p>
<p> </p>
<div> </div>

北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-

作成日:2014/6/21 , by fuji3zpg 開く

フィールドをゆく 北条早雲 室町から戦国時代への動きと北条早雲の生涯ーフィールドをゆく(1)ー

【鎌倉城】扇谷上杉管領屋敷跡。<br><br>      扇谷上杉家は、室町時代に上杉氏の流れの1つ。<br>      太田道灌を謀殺した扇谷上杉定正が有名。<br><br>      室町時代、鎌倉には鎌倉府が置かれ、東国の中心地として鎌倉は繁栄していた。<br>      ここの地名は扇谷で、上杉の一派が屋敷を構えた。地名から、扇谷上杉家を称することになった。

作成日:2013/9/4 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 鎌倉市

<p>【高見城】鎌倉街道上道から高見城を遠望。パッと見て、すぐに高見城(四津山城)だと気づいた。それぐらい、目立つ山。</p>
<p>現在、四津山の山頂からは北と西は木々が繁り見えないので、南と東にしか視界が開けていないが、おそらく、当時は北と西も木を切っていただろうから、360度の視野で見えただろう。</p>
<p>司馬遼太郎『箱根の坂』でも、北条早雲が扇谷上杉定正の援軍として参戦し、早雲が四津山城を騎馬で駆け上がる様を書いているが、そういう絵になる山城だと思う。</p>

作成日:2013/3/2 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

早雲の城 武蔵比企丘陵の城

ノート【更新順】
・ 岡山県の没落武士
・ 江戸東京たてもの園を訪問
・ コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
もっと見る
ノートまとめ【更新順】
・ 関ヶ原の戦いの動画
・ 淀川の城
・ 姫路城大天守の昼・夕暮れ・ライトアップ!
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歴史年表【更新順】
・ 『おんな城主 直虎』年表
・ 花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
・ 歴史家・歴史小説家とその時代
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特集
・ 関ヶ原の戦い
・ 幕末維新
・ 文明論
・ 北条早雲
人物【更新順】
・ 子母澤寛
・ 周布政之助
・ 小田村伊之助
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出来事【更新順】
・ 新型コロナウィルス感染拡大に伴い、東京など7都道府県で非常事態宣言が発令
・ 中国の武漢で新型コロナウィルスが人に感染
・ 令和に改元決定
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世界史古代概論
・ 世界史古代概略
・ ローマと前漢、不思議な成立の符合
・ 古代の日本と西欧
戦国のはじまり
・ 早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
・ 応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
・ 北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
・ 2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
・ 歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
・ 大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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