西暦: 1413年 〜 1473年

関東管領山内上杉氏の家宰。父は景仲。子は景春。

地域: 日本

長尾景信

関連情報: Wikipediaツイート で「長尾景信」を調べる


グラフと表の条件設定
項目の重要度と地域で以下のグラフと表に出力するデータ数を絞り込むことができます。
重要度 :   すべて  重要  重要+普通
地域 :   すべて  日本  欧米  東アジア  西アジア

グラフ: 「長尾景信」と同時代の人物

項目メニューに戻る

グラフ: 「長尾景信」と同時代の出来事

項目メニューに戻る

表: 「長尾景信」と同時代の人物

今川了俊(貞世) 1325年 〜 1420年 日本
永楽帝(成祖) 1360年 〜 1424年 東アジア
世阿弥 1363年 〜 1443年 日本
フス 1370年 〜 1415年 ヨーロッパ
鄭和 1371年 〜 1434年 東アジア
尚巴志 1372年 〜 1439年 日本
赤松満祐 1373年 〜 1441年 日本
足利義持 1386年 〜 1428年 日本
長尾景仲 1388年 〜 1463年 日本
ウルグ・ベク 1394年 〜 1449年 地中海、西アジア
エンリケ航海王子 1394年 〜 1460年 ヨーロッパ
足利義教 1394年 〜 1441年 日本
トスカネリ 1397年 〜 1482年 ヨーロッパ
世宗(朝鮮王朝) 1397年 〜 1450年 東アジア
足利持氏 1398年 〜 1439年 日本
グーテンベルク 1400年 〜 1468年 ヨーロッパ
マサッチオ(マザッチョ) 1401年 〜 1428年 ヨーロッパ
一条兼良 1402年 〜 1481年 日本
シャルル7世 1403年 〜 1461年 ヨーロッパ
山名宗全(持豊) 1404年 〜 1473年 日本
日親 1407年 〜 1488年 日本
今川範忠 1408年 〜 1444年 日本
上杉憲実 1410年 〜 1466年 日本
太田道真 1411年 〜 1488年 日本
ジャンヌ・ダルク 1412年 〜 1431年 ヨーロッパ
長尾景信 1413年 〜 1473年 日本
蓮如 1415年 〜 1499年 日本
上杉持朝 1416年 〜 1467年 日本
雪舟 1420年 〜 1506年 日本
宗祇 1421年 〜 1502年 日本
村田珠光 1423年 〜 1502年 日本
正統帝(英宗) 1427年 〜 1464年 東アジア
細川勝元 1430年 〜 1473年 日本
上杉房定 1431年 〜 1494年 日本
太田道灌 1432年 〜 1486年 日本
北条早雲(旧説) 1432年 〜 1519年 日本
メフメト2世 1432年 〜 1481年 地中海、西アジア
上杉憲忠 1433年 〜 1455年 日本
斯波義敏 1433年 〜 1508年 日本
狩野正信 1434年 〜 1530年 日本
足利政知 1435年 〜 1491年 日本
今川義忠 1436年 〜 1476年 日本
足利義政 1436年 〜 1490年 日本
畠山義就 1437年 〜 1491年 日本
足利成氏 1438年 〜 1497年 日本
足利義視 1439年 〜 1491年 日本
日野富子 1440年 〜 1496年 日本
イヴァン3世 1440年 〜 1505年 ロシア
長尾景春 1443年 〜 1514年 日本
ボッティチェリ 1444年 〜 1514年 ヨーロッパ
上杉定正 1446年 〜 1494年 日本
武田信昌 1447年 〜 1505年 日本
宗長 1448年 〜 1532年 日本
バルトロメウ・ディアス 1450年 〜 1500年 ヨーロッパ
三浦道寸(義同) 1451年 〜 1516年 日本
クリストファー・コロンブス 1451年 〜 1506年 ヨーロッパ
イサベル(カスティリャ王女) 1451年 〜 1504年 ヨーロッパ
リチャード3世 1452年 〜 1485年 ヨーロッパ
フェルナンド5世 1452年 〜 1516年 ヨーロッパ
レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452年 〜 1519年 ヨーロッパ
アメリゴ・ヴェスプッチ 1454年 〜 1512年 ヨーロッパ
上杉顕定 1454年 〜 1510年 日本
ジョアン2世 1455年 〜 1495年 ヨーロッパ
富樫政親 1455年 〜 1488年 日本
北条早雲 1456年 〜 1519年 日本
ヘンリ7世 1457年 〜 1509年 ヨーロッパ
上杉房能 1458年 〜 1507年 日本
尼子経久 1458年 〜 1541年 日本
三好之長 1458年 〜 1520年 日本
長尾能景 1459年 〜 1506年 日本
カブラル 1460年 〜 1526年 ヨーロッパ
足利政氏 1462年 〜 1531年 日本
足利義尚 1465年 〜 1489年 日本
細川政元 1466年 〜 1507年 日本
足利義材(義稙) 1466年 〜 1523年 日本
上杉憲房 1467年 〜 1525年 日本
エラスムス 1469年 〜 1536年 ヨーロッパ
マキャベリ 1469年 〜 1527年 ヨーロッパ
ヴァスコ・ダ・ガマ 1469年 〜 1524年 ヨーロッパ
セリム1世 1470年 〜 1520年 地中海、西アジア
ピサロ 1470年 〜 1541年 ヨーロッパ
武田信縄 1471年 〜 1507年 日本
デューラー 1471年 〜 1528年 ヨーロッパ
以天宗清 1472年 〜 1554年 日本
王陽明(王守仁) 1472年 〜 1528年 東アジア
上杉朝良 1473年 〜 1518年 日本
コペルニクス 1473年 〜 1543年 ヨーロッパ
今川氏親 1473年 〜 1526年 日本
項目メニューに戻る

表: 「長尾景信」と同時代の出来事

ニコポリスの戦い 1396年 地中海、西アジア
足利義満、鹿苑寺金閣を建立 1397年 日本
カルマル同盟 1397年 ヨーロッパ
洪武帝、六諭を発布 1397年 東アジア
靖難の役 1399年 〜 1402年 東アジア
応永の乱 1399年 日本
日明貿易、はじまる 1401年 日本
永楽帝、即位 1402年 〜 1424年 日本
アンカラの戦い 1402年 地中海、西アジア
鄭和の南海遠征 1405年 〜 1433年 東アジア
『永楽大典』完成 1408年 東アジア
足利義満、死去 1408年 日本
永楽帝によるモンゴル遠征 1410年 〜 1424年 東アジア
コンスタンツ公会議 1414年 〜 1418年 ヨーロッパ
上杉禅秀の乱はじまる(~1417年) 1416年 〜 1417年 日本
フス戦争 1419年 〜 1436年 ヨーロッパ
黎氏大越国、成立 1428年 〜 1789年 東アジア
正長の土一揆 1428年 日本
尚巴志、琉球統一 1429年 日本
オルレアンの戦い 1429年 ヨーロッパ
ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍、オルレアン解放 1429年 ヨーロッパ
ジャンヌ・ダルク、火刑に処される 1431年 ヨーロッパ
永享の乱はじまる(~1439年) 1438年 〜 1439年 日本
結城合戦 1440年 日本
嘉吉の乱 1441年 日本
世宗、訓民正音(ハングル)を制定 1446年 東アジア
土木の変 1449年 東アジア
1450年頃、グーテンベルクが活版印刷をはじめる 1450年 ヨーロッパ
コンスタンティノープル、陥落 1453年 地中海、西アジア
享徳の乱はじまる(~1482年) 1454年 〜 1482年 日本
分倍河原の戦い(享徳4年) 1455年 日本
バラ戦争 1455年 〜 1485年 ヨーロッパ
コシャマインの戦い 1457年 日本
太田道灌、江戸城を築城 1457年 日本
寛正の大飢饉 1461年 日本
武田信昌、甲斐守護代の跡部氏を滅ぼす 1465年 日本
応仁の乱はじまる 1467年 〜 1477年 日本
駿河守護の今川義忠戦死で、今川家の家督相続問題発生 1476年 日本
長尾景春の乱はじまる 1476年 〜 1480年 日本
応仁の乱おわる 1477年 日本
スペイン王国(イスパニア王国)、成立 1479年 〜 1873年 ヨーロッパ
チューダー朝 1485年 〜 1603年 ヨーロッパ
山城の国一揆 1485年 日本
太田道灌が主の扇谷上杉定正に謀殺される 1486年 日本
長享の乱がはじまる(~1505年) 1487年 〜 1505年 日本
ヘンリ7世、星室庁裁判所を設立 1487年 ヨーロッパ
北条氏綱(北条2代目)、出生 1487年 日本
北条早雲、小鹿範満を討って、今川氏親を擁立 1487年 日本
バルトロメウ・ディアス(ポルトガル)、喜望峰に到達 1488年 ヨーロッパ
関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)勃発 1488年 日本
加賀の一向一揆 1488年 日本
甲斐守護の武田信縄と武田信昌(信縄の父)・油川信恵(信縄の異母弟)の戦いが始まり、甲斐内乱、 1492年 〜 1498年 日本
コロンブス、サン・サルバドル島に上陸 1492年 北アメリカ
イタリア戦争 1492年 〜 1559年 ヨーロッパ
グラナダ陥落 1492年 ヨーロッパ
明応の政変が起こり、細川政元政権が成立する 1493年 日本
北条早雲、伊豆に討ち入る 1493年 日本
項目メニューに戻る

関連情報: Wikipediaツイート で「長尾景信」を調べる

「長尾景信」の関連ノート

【長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜】<h2>別の戦国時代をつくる可能性を持っていた男、長尾景春</h2>
<p>別の戦国時代を作る可能性を持っていた人物として、長尾景春がいる。一般には知られざるこの人物について、これから書いていきたい(*)。</p>
<p><em>(*)この記事の公開は2011年10月14日で、長尾景春が主役の歴史小説、伊東潤氏『叛鬼』はまだ出版されていなかった。伊東さんの著書によって、長尾景春はの知名度は以前よりも上がったと思う。</em></p>
<p>長尾景春は訳あって、主人の関東管領、山内上杉顕定を相手に謀反を起こし、主の顕定を窮地に陥れた。これが文明8年(1476年)からはじまる長尾景春の乱で、景春が30代前半の頃のことである。しかし、不運にも、彼の同時代には太田道灌がいた。</p>
<p>長尾景春は巧みな外交と調略を駆使して、戦略的優位を準備するものの、太田道灌との戦闘に敗れた。戦略的に勝っているからといって、自動的に最終的な勝利が得れれるというものではない。</p>
<p>長尾景春について述べる前に、同姓の越後守護代、長尾為景について見ていきたい。</p>
<h2>下克上を成功させた男、長尾為景</h2>
<p>永正4年(1507年)長尾為景は越後守護の上杉氏に下克上を起こして成功し、傀儡の越後守護を擁立することに成功した。そして、首尾よく傀儡越後守護も追放して、為景自身が越後の支配者となった。彼の息子の長尾景虎はその地盤を引き継ぎ、さらには、(北条早雲の孫、北条氏康に河越夜戦(1546年)で撃破され、その後、没落させられた)関東管領の山内上杉憲政から山内上杉氏の名と関東管領の職を受け継ぎ、「山内上杉」謙信となった。そして、謙信は武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国の雄たちと激しく争うことになる。</p>
<h2>「長尾景春の乱」の原因:景春、山内上杉氏の家宰職を継承できず</h2>
<p>社会的地位からいうと、長尾景春は越後守護代の長尾為景(上杉謙信の父)と似たところにいた。</p>
<p>長尾景春の祖父(白井長尾景仲)も父(白井長尾景信)も、主の山内上杉氏の家宰(執事)だった。文明5年(1473年)に、父の長尾景信が死去した。景春は、当然、自分がその地位を引き継げると思っていた。 <br>しかし、彼の家(白井長尾家)の勢力が主家を凌ぐのを恐れた若き当主、関東管領の山内上杉顕定が、景春の叔父を家宰に任命した(上杉顕定の懸念は、越後の長尾為景の例を見ても空想ではなかった)。 <br>景春にとって、この処置は認められるものではない。怒りなどの感情もあっただろうが、それより、家宰職には膨大な利権があり、家臣や同輩はそれを当てにしている。景春が利権を手放せば、人々は去っていき、景春の政治生命は致命的なダメージを受けることになる。 <br>景春は政治的な死を選んで隠遁するか、家宰職を認めさせるために主と戦うかの二者択一を迫られたのである。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月撮影 </em><br><em>白井城から榛名山をのぞむ。手前に流れる川が吾妻川。 </em><br><em>白井城は代々、山内上杉氏の家宰を務める白井長尾家の本拠地だった。当城は群馬県渋川市白井に位置する崖端城である。白井城の西側を吾妻川が東側を利根川が流れており、城の南側で合流しており、さらに三国街道がこの城の近くを通るため、上野と越後の交通の要衝でもある。 </em><br><em>かつての城域の大部分は、現在、畑だが、一曲輪を中心に遺構も残っている。</em>
</div>
<h2>景春、挙兵</h2>
<p>景春は関東の有力国人を多数味方につける一方、文明8年(1476年)頃、<a>鉢形城</a>を築城して拠点とした。また、当時、享徳の乱が継続中で、主家の山内上杉氏と古河公方は対立しており、主家と敵対している古河公方、足利成氏を味方につけ、着々と軍事的、外交的な策を駆使して、蜂起のときを待った。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年4月25日撮影 </em><br><em>鉢形城の北側からのアングル。写真中央の川が荒川。城の堅固さが偲ばれる。遺構の良好に残り、北条氏末期の鉢形城の様子がよく分かる。 </em><br><em>長尾景春が太田道灌(両上杉氏)との戦いに敗れ、この城を追われたあと、この城は山内上杉氏の武蔵支配の拠点となった。16世紀の半ばに、後北条氏が山内上杉氏に代わって、この地を支配するようになっても、鉢形城は重要拠点でありつづけた。景春の築城眼は的を得ていたようだ。</em>
</div>
<div> </div>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>長尾景春の乱、概略絵地図 </em><br><em>当時の関東は、利根川を境に東が古河公方の勢力圏、西が両上杉氏の勢力圏だった(なお、当時の利根川の流路は現在と違い、関東を東西に分けていた)。古河公方勢と対戦中だった両上杉の前線拠点、五十子陣は背後から長尾景春に攻撃され、崩壊した。</em>
</div>
<h2>景春の、そして、関東の運命を握る男、太田道灌</h2>
<p>景春にとって、最大の脅威は江戸を中心に勢力を持っている太田道灌だった。道灌は文武両道の名将で、足軽を組織して、強力な軍事力を養う一方、関東の大河の下流を押さえる江戸に堅固な江戸城を築き、大きな経済力も持っていた(道灌はその強力さ故に、10年後、道灌の主人、扇谷上杉定正に謀殺されることになる)。</p>
<p>ただ、道灌は主の扇谷上杉定正や定正の同盟者である山内上杉顕定との関係がうまくいっておらず、彼らの間に溝が広がりつつあった。景春にとって、道灌は敵にまわすと最大の脅威なので、この隙をついて、道灌を味方につけるか、それが無理ならせめて中立を維持させる必要があった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年2月撮影</em><br><em>江戸城に残る3つの櫓の1つ、富士見櫓。かつて太田道灌が築いた静勝軒の故地に江戸城の富士見櫓が建っているという。 静勝軒は道灌の軒号でもある。</em>
</div>
<div> </div>
<h2>景春、初戦に勝利。</h2>
<p>景春は道灌と両上杉首脳の不仲を好機として蜂起した。景春の基本戦略は五十子陣にいる両上杉首脳と道灌の連携を分断し、道灌を足止めする一方、両上杉の軍勢に打撃を与え、機を見て、主の山内上杉顕定と和睦し、政治目標を実現するというものだったと思う。家宰職を得ることが景春の政治的な目標なら、この戦略は的を得ているだろう。</p>
<p>初戦は上々で、文明9年(1477年)1月に主の顕定と扇谷上杉定正のいる五十子陣を襲って崩壊させた。顕定と定正は何とか利根川の北に逃げ延びた。これが「長尾景春の乱」の最初の戦いだった(この戦いは4年に及んだ)。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年4月撮影 </em><br><em>両上杉氏が古河公方との戦いのために築いた五十子陣跡。近辺は茫漠たる平野が広がる。 その重要な拠点を景春は崩壊させた。そのため、両上杉首脳は窮地に陥るが、太田道灌の活躍によって何とか生き延びた。</em>
</div>
<h2>道灌、動く</h2>
<p>景春は山内上杉顕定との和睦の取次ぎを期待して、道灌に使者を送った。景春の政治的目標は山内上杉氏の家宰職の継承だったのだと思う。そうでなければ、顕定勢の撃滅を目指していたはずだ。 <br>景春の意図はどうであれ、結局、道灌による和睦斡旋は失敗した。すると、道灌は景春を討つべく、江戸城から北上してきた。</p>
<p>道灌は江戸城と河越城の連絡線を遮断している練馬城・石神井城の豊島氏を江古田・沼袋の戦いで撃破した。この戦いによる勝利で江戸城・河越城のラインを確保した道灌はさらに北上を続けた。 <br>景春は当時五十子陣にいた。道灌は、景春の拠点、鉢形城と五十子陣の間で陣を構えることで、景春の補給ラインを分断した。景春は補給ラインを確保すべく南下したが、これは道灌の「手」だった。</p>
<p>道灌は景春をおびき寄せて合戦に持ちこんだ(用土原・針谷の戦い)。景春は道灌の術中にはまり、敗れた。その後も、道灌は景春勢を各地で撃破して、景春を秩父の奥地に追い込んでいった。そして、文明12年(1480年)、景春最後の拠点、秩父の日野要害(熊倉城)も道灌に攻略され、景春は没落した。</p>
<p>なお、景春は道灌の妻の甥にあたり、お互いよく知った仲であったと言われている。</p>
<h2>景春の実現されなかった可能性を考える</h2>
<p>長尾景春は長尾景春の乱に敗れたが、その後も神出鬼没の活躍で、主の山内上杉顕定を苦しめた。やはり、只者ではなかったことが分かる。しかし、これらの活躍もあくまでも好機に便乗するという形であって、景春が再び時代の主役になることはなかった。</p>
<p>ここで、少々、「もし」を考えてみたい。 <br>もしこの時道灌が江戸城を動かなかったり、さらに言うと、道灌が景春に協力していたら、古河公方との戦いにも直面していた両上杉氏(山内上杉氏と扇谷上杉氏)は二方向、道灌も含めれば、三方向から挟撃され、一時的であれ、両上杉氏主力が壊滅していた可能性はかなりあったと思う。</p>
<p>当時、長尾為景の下克上はまだ起こっておらず、山内上杉氏は越後上杉氏の援軍を期待できたため、山内上杉氏がたやすく滅亡したかどうかは疑問ではあるものの(また、京都では弱体ながら室町幕府は存在していた。幕府は基本的に親上杉なので、近隣諸国からも両上杉氏に援軍が来ていた可能性もある)、一方では景春か道灌が古河公方を担いで関東を統一し、彼らの子供あたりが源頼朝のように関東の強兵を率いて京に攻め上り、天下に号令していた可能性もゼロではない(実際、永正5年(1508年)、大内義興は前将軍の足利義稙を擁して上京し、10年間、自派の政権を維持した)。</p>
<p>実際には、このシナリオ(景春と道灌が同盟し、両上杉氏を倒すシナリオ)は実現されなかったわけだが、もし実現していたら、その後の展開は全く変わっていただろう。 <br>状況は違うが、後に景春や古河公方と同盟して、両上杉氏と対抗した人物がいる。そう、それが北条早雲である。もしこの時(景春が蜂起したとき)に早雲が道灌の立場であれば、どういう判断を下していただろうか。</p>
<h2>長尾景春と長尾為景</h2>
<p>結局、失敗した長尾景春の乱だったが、景春は優れた戦略家であり、実行力もあった。ただ、相手(太田道灌)が悪かったと言えるかもしれない。</p>
<p>長尾景春の乱から、約30年後、越後で長尾為景が越後上杉氏を倒して、下克上に成功した。 長尾景春はある意味、長尾為景になり損なった男ということもできると思う。</p>
<h2>年表: 長尾景春の乱</h2>
<div> </div>
<p>(終)</p>

長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜

作成日:2014/6/22 , by fuji3zpg 開く

長尾景春の乱 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー

ノートのタグ

ニュース 人物記事 動画
戦国 幕末維新

ノートまとめのタグ

江戸城 大坂城 竹田城
二条城 鎌倉 神奈川
東京 京都 静岡

歴史年表のタグ

源平 戦国 幕末維新
ギリシア・ローマ 大航海時代 ナポレオン
モンゴル 近代 近代日本

項目のカテゴリー

人物 出来事
ノート【更新順】
コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
江戸東京たてもの園を訪問
コルク社主催の伊東潤氏の第2回読者会に参加
もっと見る
ノートまとめ【更新順】
関ヶ原の戦いの動画
淀川の城
姫路城大天守の昼・夕暮れ・ライトアップ!
もっと見る
歴史年表【更新順】
『おんな城主 直虎』年表
花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
歴史家・歴史小説家とその時代
もっと見る
特集
関ヶ原の戦い
幕末維新
文明論
北条早雲
人物【更新順】
子母澤寛
周布政之助
小田村伊之助
もっと見る
出来事【更新順】
パナマ文書の公表
熊本地震 (2016年)
斎藤道三、息子の斎藤義龍に討たれる(長良川の戦い)
もっと見る
世界史古代概論
世界史古代概略
ローマと前漢、不思議な成立の符合
古代の日本と西欧
戦国のはじまり
早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
お知らせ
特集ページを追加
検索ページを追加しました
ドメイン変更のお知らせ
もっと見る
Twitter logo blue 144 歴ウス
公式Twitterページ
Fb f logo  blue 144 歴ウス
公式Facebookページ
Youtube icon full color 144 歴ウス
公式YouTubeチャンネル