西暦: 1436年 〜 1476年

地域: 日本

今川義忠

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グラフ: 「今川義忠」と同時代の人物

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グラフ: 「今川義忠」と同時代の出来事

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表: 「今川義忠」と同時代の人物

世阿弥 1363年 〜 1443年 日本
尚巴志 1372年 〜 1439年 日本
赤松満祐 1373年 〜 1441年 日本
長尾景仲 1388年 〜 1463年 日本
足利義教 1394年 〜 1441年 日本
ウルグ・ベク 1394年 〜 1449年 地中海、西アジア
エンリケ航海王子 1394年 〜 1460年 ヨーロッパ
世宗(朝鮮王朝) 1397年 〜 1450年 東アジア
トスカネリ 1397年 〜 1482年 ヨーロッパ
足利持氏 1398年 〜 1439年 日本
グーテンベルク 1400年 〜 1468年 ヨーロッパ
一条兼良 1402年 〜 1481年 日本
シャルル7世 1403年 〜 1461年 ヨーロッパ
山名宗全(持豊) 1404年 〜 1473年 日本
日親 1407年 〜 1488年 日本
今川範忠 1408年 〜 1444年 日本
上杉憲実 1410年 〜 1466年 日本
太田道真 1411年 〜 1488年 日本
長尾景信 1413年 〜 1473年 日本
蓮如 1415年 〜 1499年 日本
上杉持朝 1416年 〜 1467年 日本
雪舟 1420年 〜 1506年 日本
宗祇 1421年 〜 1502年 日本
村田珠光 1423年 〜 1502年 日本
正統帝(英宗) 1427年 〜 1464年 東アジア
細川勝元 1430年 〜 1473年 日本
上杉房定 1431年 〜 1494年 日本
太田道灌 1432年 〜 1486年 日本
メフメト2世 1432年 〜 1481年 地中海、西アジア
北条早雲(旧説) 1432年 〜 1519年 日本
斯波義敏 1433年 〜 1508年 日本
上杉憲忠 1433年 〜 1455年 日本
狩野正信 1434年 〜 1530年 日本
足利政知 1435年 〜 1491年 日本
今川義忠 1436年 〜 1476年 日本
足利義政 1436年 〜 1490年 日本
畠山義就 1437年 〜 1491年 日本
足利成氏 1438年 〜 1497年 日本
足利義視 1439年 〜 1491年 日本
イヴァン3世 1440年 〜 1505年 ロシア
日野富子 1440年 〜 1496年 日本
長尾景春 1443年 〜 1514年 日本
ボッティチェリ 1444年 〜 1514年 ヨーロッパ
上杉定正 1446年 〜 1494年 日本
武田信昌 1447年 〜 1505年 日本
宗長 1448年 〜 1532年 日本
バルトロメウ・ディアス 1450年 〜 1500年 ヨーロッパ
三浦道寸(義同) 1451年 〜 1516年 日本
イサベル(カスティリャ王女) 1451年 〜 1504年 ヨーロッパ
クリストファー・コロンブス 1451年 〜 1506年 ヨーロッパ
リチャード3世 1452年 〜 1485年 ヨーロッパ
フェルナンド5世 1452年 〜 1516年 ヨーロッパ
レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452年 〜 1519年 ヨーロッパ
アメリゴ・ヴェスプッチ 1454年 〜 1512年 ヨーロッパ
上杉顕定 1454年 〜 1510年 日本
富樫政親 1455年 〜 1488年 日本
ジョアン2世 1455年 〜 1495年 ヨーロッパ
北条早雲 1456年 〜 1519年 日本
ヘンリ7世 1457年 〜 1509年 ヨーロッパ
上杉房能 1458年 〜 1507年 日本
三好之長 1458年 〜 1520年 日本
尼子経久 1458年 〜 1541年 日本
長尾能景 1459年 〜 1506年 日本
カブラル 1460年 〜 1526年 ヨーロッパ
足利政氏 1462年 〜 1531年 日本
足利義尚 1465年 〜 1489年 日本
足利義材(義稙) 1466年 〜 1523年 日本
細川政元 1466年 〜 1507年 日本
上杉憲房 1467年 〜 1525年 日本
マキャベリ 1469年 〜 1527年 ヨーロッパ
ヴァスコ・ダ・ガマ 1469年 〜 1524年 ヨーロッパ
エラスムス 1469年 〜 1536年 ヨーロッパ
セリム1世 1470年 〜 1520年 地中海、西アジア
ピサロ 1470年 〜 1541年 ヨーロッパ
武田信縄 1471年 〜 1507年 日本
デューラー 1471年 〜 1528年 ヨーロッパ
王陽明(王守仁) 1472年 〜 1528年 東アジア
以天宗清 1472年 〜 1554年 日本
上杉朝良 1473年 〜 1518年 日本
コペルニクス 1473年 〜 1543年 ヨーロッパ
今川氏親 1473年 〜 1526年 日本
ラス・カサス 1474年 〜 1566年 ヨーロッパ
ミケランジェロ 1475年 〜 1564年 ヨーロッパ
レオ10世 1475年 〜 1521年 ヨーロッパ
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表: 「今川義忠」と同時代の出来事

上杉禅秀の乱はじまる(~1417年) 1416年 〜 1417年 日本
フス戦争 1419年 〜 1436年 ヨーロッパ
正長の土一揆 1428年 日本
黎氏大越国、成立 1428年 〜 1789年 東アジア
オルレアンの戦い 1429年 ヨーロッパ
ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍、オルレアン解放 1429年 ヨーロッパ
尚巴志、琉球統一 1429年 日本
ジャンヌ・ダルク、火刑に処される 1431年 ヨーロッパ
永享の乱はじまる(~1439年) 1438年 〜 1439年 日本
結城合戦 1440年 日本
嘉吉の乱 1441年 日本
世宗、訓民正音(ハングル)を制定 1446年 東アジア
土木の変 1449年 東アジア
1450年頃、グーテンベルクが活版印刷をはじめる 1450年 ヨーロッパ
コンスタンティノープル、陥落 1453年 地中海、西アジア
享徳の乱はじまる(~1482年) 1454年 〜 1482年 日本
バラ戦争 1455年 〜 1485年 ヨーロッパ
分倍河原の戦い(享徳4年) 1455年 日本
太田道灌、江戸城を築城 1457年 日本
コシャマインの戦い 1457年 日本
寛正の大飢饉 1461年 日本
武田信昌、甲斐守護代の跡部氏を滅ぼす 1465年 日本
応仁の乱はじまる 1467年 〜 1477年 日本
駿河守護の今川義忠戦死で、今川家の家督相続問題発生 1476年 日本
長尾景春の乱はじまる 1476年 〜 1480年 日本
応仁の乱おわる 1477年 日本
スペイン王国(イスパニア王国)、成立 1479年 〜 1873年 ヨーロッパ
チューダー朝 1485年 〜 1603年 ヨーロッパ
山城の国一揆 1485年 日本
太田道灌が主の扇谷上杉定正に謀殺される 1486年 日本
北条氏綱(北条2代目)、出生 1487年 日本
長享の乱がはじまる(~1505年) 1487年 〜 1505年 日本
ヘンリ7世、星室庁裁判所を設立 1487年 ヨーロッパ
北条早雲、小鹿範満を討って、今川氏親を擁立 1487年 日本
加賀の一向一揆 1488年 日本
バルトロメウ・ディアス(ポルトガル)、喜望峰に到達 1488年 ヨーロッパ
関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)勃発 1488年 日本
イタリア戦争 1492年 〜 1559年 ヨーロッパ
コロンブス、サン・サルバドル島に上陸 1492年 北アメリカ
甲斐守護の武田信縄と武田信昌(信縄の父)・油川信恵(信縄の異母弟)の戦いが始まり、甲斐内乱、 1492年 〜 1498年 日本
グラナダ陥落 1492年 ヨーロッパ
明応の政変が起こり、細川政元政権が成立する 1493年 日本
北条早雲、伊豆に討ち入る 1493年 日本
扇谷上杉定正、荒川渡河に失敗して頓死 1494年 日本
大森氏頼(寄栖庵)、死去 1494年 日本
トルデシリャス条約 1494年 ヨーロッパ
三浦義同(道寸)、三浦郡に進攻し、三浦氏当主に 1494年 日本
北条早雲、小田原城を奪取 1495年 日本
蓮如、石山本願寺を築く 1496年 日本
山内上杉顕定、相模に進攻。小田原城の大森氏、山内上杉側に寝返り、小田原城は自落。 1496年 日本
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「今川義忠」の関連ノート

【その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー】<h3>信虎、窮地を脱し、大井信達と和睦</h3>
<p>永正12年(1515年)、大井信達との戦いに敗れ、武田信虎は滅亡の危機に瀕したが、2年後、郡内方面で勢力挽回した。その結果、今川氏親は連歌師、宗長(氏親の外交官でもあった)を仲介者として、信虎と接触し、永正14年(1517年)、信虎は大井信達と和睦した。</p>
<p>信虎としては、7年前に妹を小山田氏の当主に輿入れさせ、懐柔した甲斐があったとほくそ笑んでいたことだろう。</p>
<h3>宗長回想</h3>
<p>宗長、この人を覚えているだろうか。</p>
<p>宗長は北条早雲が今川氏親を擁立しようとした時に(氏親の父、今川義忠が遠江で戦死して今川家の家督継承問題が起こった文明8年(1476年))、小川の長者、長谷川法永と共に氏親・早雲の味方として動いた人物である。この時、宗長は29歳だったが、今は高齢で、70歳になっていた(しかし、彼の寿命はまだ15年残っていた)。 <br>当時、連歌師は他国の大名や要人と直に会えるため、外交官の役割も果たしていた。のちには、茶人がこの役割を果たす。</p>
<h3>大井信達の娘、大井夫人</h3>
<p>この和睦時に、大井信達から信虎がめとったのが、大井夫人である。のちに、武田信玄の母親となる人だ。信虎は24歳、大井夫人は21歳だった。 <br>信虎にとっては、自分を散々苦しめた大井信達の娘を正室として、めとることになるわけだ。生まれてきた子は、大井信達の孫となる。</p>
<p>余談だが、椿城に行った時、看板に「武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡」という看板があった。私は椿城を、信虎の宿敵、大井信達の牙城と捉えていたので、ちょっとした衝撃があった。言い方一つで印象は変わるものだ。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城を目指して歩いている時に目にした看板。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>信虎、本拠地を躑躅ヶ崎館に移る</h3>
<p>大井信達との和睦から2年後、信虎は祖父の信昌以来の甲斐守護の拠点だった、川田館から躑躅ヶ崎館を建設して移った。</p>
<p>信虎はいまだ各地に割拠する国人たちにも躑躅ヶ崎の城下町への集住を命じたので、反発をくらった。この政策も戦国大名に脱皮しようする信虎の意思を反映したものだった。 <br>分権を望む大井、今井、栗原などの有力国人は反乱を起こしたが、永正17年(1520年)、信虎は反乱軍を撃破して、一応の甲斐統一を成し遂げた。この時、信虎は27歳となっていた。</p>
<h3>駿河から大軍、来襲</h3>
<p>翌年、永正から大永と改元された。思えば、永正4年に14歳で家督を相続してから信虎は甲斐統一のため、常に体を張って戦ってきた。紙一重の生死の狭間をすり抜け、その武略と努力と幸運の結果が一応の甲斐統一だった。しかし、まだ信虎の危機は終わらない、といより最大の危機が迫っていた。</p>
<p>大永元年2月、駿河から福島勢が甲斐に乱入してきたのである(*)。 <br>8月の河内(南巨摩郡)の合戦では勝利したものの、9月には駿河の福島勢が大挙して押し寄せてきた。その数、1万5千とも言われる(実際のところ、人数はよく分からない)。それに対して、統一から日が浅い信虎勢は足並みが揃わず、2千ぐらいだったという。とにかく、信虎にとって、圧倒的に不利な戦いであったことは間違いないだろう。</p>
<div><em>(*)かつては、今川氏親が派遣した軍といわれていたが、最近では、氏親の命令ではないという説が有力視されている。いずれにしても、駿河方面から福島氏の軍勢が攻めてきたことは史実である。</em></div>
<p>信虎は同月に大島(南巨摩郡身延町大島)で福島勢と戦ったが、敗北した。福島勢はそのまま北上し、9月16日に大井氏の属城、富田城を落とした。</p>
<h3>富田城を北上、稲作地帯をゆく</h3>
<p>私は富田城を出て北上した。目的地は絵地図にある荒川湖畔の古戦場である。 <br>釜無川を渡ってからは平地が続く。稲作地帯である。かつては、この辺を釜無川の本流、支流、細流が流れていたらしい。とにかく、洪水地帯であったようで、現代のように稲作ができるのはまったくもって、信玄以来の治水事業のおかげだろう。</p>
<p>このシリーズの中で何度か書いているように、甲府盆地は思ったより広い。また、きつくはないが、緩い傾斜の上り坂になっているので、富田城を出てから古戦場に行くまでに、案外時間がかかってしまった。1時間ちょっとぐらいは走ったと思う。途中、雲間から光が指す光景は神々しかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>釜無川にかかる橋の上から雲間の光をのぞむ。本物は遥かによかった。 <br>信虎も同じような空を見ただろう。</div>
<div> </div>
<p>甲府盆地を走っていて、いくつか気づいたことがある。その内を1つをここで紹介したい。 <br>それは適当に走っても、方向が合っていたら、目的地に行けるということだ。当たり前だと思われるかもしれないが、案外そうではない。関東平野で同じ事をやると、途中で行き止まりになっていたり、全然違う方向に流されてしうことは少なくない。特に、自宅がある調布はひどく、iPhoneのGPS機能を使わなかったら、帰れないことがいくらでもあった。まるで、リアル迷路だ。 <br>まあ、それはいいとして、甲府盆地は山の形と太陽の位置を頭に入れておくと、まず方向を失うことはない。したがって、細い道でもどんどん入っていけた。こういう地域はありそうでない。生活者の意見が尊重されている地域なのかもしれないと土地不案内者ながら思った。</p>
<h3>福島勢迫り、信虎、懐妊中の大井夫人を積翠寺へ避難させる</h3>
<p>釜無川下流を押さえられ、危機感を募らせた信虎は、身重の妻、大井夫人を躑躅ヶ崎館の北方の山麓にある積翠寺に移す。そして、28歳の信虎は福島勢と戦うべく、躑躅ヶ崎館を出陣した。14年間も戦ってきた結果が、このザマである。信虎は苦々しく思っただろう。</p>
<h3>福島勢の動き</h3>
<p>さて、福島勢である。この時の福島勢の動きが遅い。妙である。 <br>富田城を落として、1ヶ月もの間、福島勢は攻めて来なかったのである。</p>
<p>なぜこれほど動きが緩慢だったのだろうか。大軍を維持するのは大変である。 <br>例えば、1万人の水・食糧・寝床・武器・排泄物の処理など、滞りなく行うようにと読者が命令されたとする。想像しただけで大変な仕事なのは明らかである。1万人を養うには相当の計画性と物資とカネが必要だ。これらが行われないとたちまち不満の声が満ち、戦力は落ち、疫病が蔓延したりする。下手をすると、戦う前に軍が崩壊したり、不満が自軍の首脳に向くこともありうる。</p>
<h3>信虎の防衛ライン</h3>
<p>信虎の防衛ラインはおそらく、笛吹川と荒川だったと思う。笛吹川は甲斐の北東から南西に流れる暴れ川だった。荒川も名前の通りだったのではないかと思う。今よりも、河原は広かっただろう。</p>
<p><a><img></a></p>
<div> <em>2日目の14時頃に、富田城を出て、稲作地帯を抜け、荒川に向かった。もしかしたら、福島勢も同じような経路で戦場に向かったかもしれない。 黄色が自転車で走った経路。</em>
</div>
<p>福島勢の動きは鈍い。その理由として、内部でまとまりを欠いていたのではないかという指摘がある。 <br>もう1つは当時は治水技術が発達していなかったので、一度大雨が降ると、川を渡れなくなる。仮に福島勢が荒川・笛吹川を越えて、躑躅ヶ崎館を襲ったとしよう。たとえ躑躅ヶ崎館を即座に落としても、詰の城の要害山城はすぐには落とせない可能性がある。 <br>その間に、大雨が降り、補給ラインが途絶えたところを、信虎が全力で反撃してくる。この状態で敗れたら大変である。下手をすると、全滅する可能性すらある。何せ後ろが洪水地帯だと自動的に背水の陣状態になるのである。それを恐れた福島勢首脳は、荒川・笛吹川流域に住む百姓に尋問して、洪水についての情報を集めていたのではないかと話が書いてあった(**)。</p>
<div>
<em>(**)洪水説は</em><em><em>武田八洲満『信 虎』</em>に出てくる。 武田信虎の数少ない歴史小説の1つ。ちょっと信虎を弱く書きすぎている感はあるが、労作であることは間違いない。</em>
</div>
<h3>両軍、激闘!飯田河原合戦</h3>
<p>理由はよくわからないが、富田城が陥落してから1ヶ月後、ようやく、福島勢は荒川の左岸にやってきた。 <br>場所は飯田河原であったという。飯田河原古戦場の石碑が立っている場所から躑躅ヶ崎館まで直線距離で3kmである。駅でいえば、甲府駅と竜王駅の間にある。</p>
<p>高校時代、私は高校まで10kmの距離を通っていた。自転車で約30分だった。つまり、3kmというのは自転車で10分ちょっとで行けてしまう距離である。騎馬で疾走すれば、もっと早く着くだろう。 <br>地図で飯田河原古戦場をはじめて調べた時、躑躅ヶ崎館との距離の近さに驚いた。これなら、身重の妻を山麓に避難させるのは当然だ。10分で妊婦が避難できるわけがない。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場付近から荒川左岸をのぞむ。 </em><br><em>対岸にいる雲霞の如き大軍が信虎の首を狙っているのである。いくら強気の信虎でもゾッとしただろう。</em>
</div>
<div> </div>
<p>この戦いが飯田河原合戦で、信虎勢は数には劣るものの、よく戦い、敵を100余人討ちとって、荒川の西側に福島勢を押し返した。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場の石碑 </em><br><em>この辺は人の往来が多く、信虎勢と福島勢が戦った跡はいささかも感じられなかった。黙祷を捧げて、古戦場をあとにした。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>信虎、嫡男誕生!</h3>
<p>その後、福島勢は、一旦、曽根の勝山城まで退去した。だが、むろん、これですべてが終わったわけではなく、次の戦いへの準備期間であるに過ぎない。</p>
<p>再び、両軍の斥候や前衛が荒川を挟んで睨み合っただろう。この睨み合いの最中に誕生したのが武田太郎、のちの武田信玄である。11月3日のことであった。当主の男児誕生に信虎勢の士気はあがった。</p>
<h3>人生のテーマ</h3>
<p>読者は人生にテーマをお持ちだろうか。持っている人も持っていない人もいると思う。</p>
<p>現代日本では、一部の例外を除いて、ある程度は自分の人生を自分で決めることができる。私も自分の人生を自分で決めてきた。歴史的に見ると、こういった状態は幸運だと言えると思う。 <br>現代日本の住人と異なり、武田信虎は好きで、甲斐守護になったのではない。門閥貴族というのはそういうもので、父親が隠居か死亡すれば、自動的に子が当主になる。つまり、地位を継ぐ基準は血の濃さだった。武田家も同じで、甲斐守護家の直系に生まれない限り、正規ルートで甲斐守護にはなれない。信虎は、甲斐守護の父、信縄が死去したので、甲斐守護になった。</p>
<p>信虎がここまで14年間も戦ってきたのは彼の好みというよりも、有無をいわさず、立場上、課せられたテーマを果たしたまでである。そのテーマとは甲斐の統一である。このテーマを果たせなければ、滅亡するか、甲斐を逃げ出す以外に道はない。</p>
<p>課せられたテーマを果たすことは、自分で選んだテーマを果たすことよりも低級だということはないと思う。要は、その人が諸々の制約の中で人生のテーマと如何に関わったかこそが問われるのだと私は思う。その点、信虎は確かに課せられたテーマを自分のテーマとして真正面から捉え、戦い抜いた男だと思う。</p>
<h3>信虎の「その時」、上条河原合戦</h3>
<p>飯田河原古戦場の2kmほど上流に上条というところがある。ここで最終決戦が行われた。信虎のテーマが成就するか、敗れ去るか、この戦いにかかっていた。人生の決定的な瞬間、つまり、「その時」であったといえる。 上条で荒川を渡ったら、指呼の間に躑躅ヶ崎館がある。信虎としては荒川の防衛ラインを破られるわけにはいかない。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>上条河原合戦古戦場付近。なぜか石碑などはないらしい。飯田河原合戦も重要だが、上条河原合戦のほうが決定的戦いだと思うので、残念に思った。<br>飯田河原古戦場から2kmほど上流の上条で戦いがあったという。地図を見ると、秩父往還がここを通っている。信虎はこの道を通って、上条河原にやってきたのかもしれない。</div>
<div> </div>
<p>信玄出生から20日後の11月23日、再び、戦雲が甲斐を覆う。 <br>旧暦は現在の暦でいうと、1ヶ月ほど進めた時期だと考えてもらいたい。つまり、現在でいうと、1月ぐらいの寒さの中での戦いだった。しかも、ここは温暖な駿河ではなく、標高の高い甲府盆地だ。もし福島勢が荒川を渡河したとしたら、荒川の水の冷たさはこたえただろう。</p>
<p>この日、福島勢と信虎勢は上条河原で激突する。信虎勢は福島氏の大軍を相手に奮戦した。信虎の家臣たちも負ければ、福島勢に殺されるか、生き残っても従属させられ、以後、一番危険な戦場に送られることになる。それに対して、福島勢には遠征の飽きと疲れもあったことだろう。</p>
<p>まさに信虎の「その時」がはじまろうとしている。 <br>20日前に生まれた新しい命のためにも、信虎は奮い立ったかもしれない。信虎を含め、戦う前に両軍の武者たちの胸中には様々な思いが去来したことだろう。それらを心の支えにして、戦いははじまった。。。</p>
<p>この上条河原合戦で、信虎勢は福島勢を大敗させ、福島勢の大将たちを軒並み討ちとった。福島勢は崩壊して、南に潰走し、曽根の勝山城に逃げ込んだ。福島勢は600人もの死者を出したともいわれている。</p>
<h3>信虎の「その時」</h3>
<div> </div>
<h3>統一成る</h3>
<p>結果は信虎の完勝だった。翌年1月14日、曽根の勝山城に籠っていた福島勢は降伏し、生き残った福島勢は駿河に退去した。苛烈な状況を切り抜け、甲斐を統一し、外敵を駆逐した若き守護に家臣はもちろん、領民も希望を見出しただろう。 今川、北条との戦いはまだまだ続くが、ここに信虎は甲斐統一に成功した。国内の国人勢力を一掃するのになお10年を要したが、もはや以前のように苦戦していない。 信虎は統一によって膨らんだ国力を使って、関東への介入、信濃への侵略を行なっていくことになる。これらの戦いが次の時代を準備した。 </p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

飯田河原の戦い 上条河原の戦い 山梨県 甲斐市

【安部川餅の誤算】<h2>北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡</h2>
<p>6月下旬の梅雨時期に、2泊3日で静岡県に行ってきた。その時のテーマは、「北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡」であった。基本的に、焼津から東進し、三島に至り、三島から南下して、修善寺でゴールという日程を考えていた。自転車による3日間の総走行距離は約180kmだった。</p>
<h2>小川の長者、長谷川法栄</h2>
<p>初日は東京駅を発し、焼津駅に降り、焼津の南隣にある小川の港へ行った。小川は、今川氏親擁立に尽力した長谷川法栄(*)の拠点である。</p>
<div><em>(*)長谷川法栄:今川氏親擁立に貢献した人物で、小川を拠点にしていた。 氏親の父、今川義忠が遠江で戦死した後、幼少の氏親はすぐに家督を相続することはできなかった。家督は、一旦、義忠の従兄弟の小鹿範満が引き継いだ。その混乱の中、法栄は氏親を小川でかくまったという。彼は早雲の有力な味方だった。 その辺の様子が司馬遼太郎『箱根の坂』に詳しく書かれている。</em></div>
<p> </p>
<h2>丸子城へ</h2>
<p>その後、朝比奈川を渡り、国道1号線を通って、泉ヶ谷の西に位置する丸子城を訪れた。丸子城は、東海道を押さえる要地にあり、今川の本拠地、今川館の北西に位置する。また、氏親が家督相続できないでいた間、この城を居城にしていたという。そうであれば、氏親擁立の中心人物であった、早雲も何度もこの城を訪れたことだろう。</p>
<p>丸子といえば、とろろ汁が有名だが、着いたときがすでに夕方だったため、店が閉まっており、とろろ汁は諦めざるを得なかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年6月27日撮影 </em><br><em>司馬遼太郎『箱根の坂』のイメージに近いと思い撮影した。</em>
</div>
<h3>安部川餅を食べよう!</h3>
<p>翌日は、しからばということで、安部川餅を食することに決め、ホテルを出た。<br>最初、駿府城(今川館跡に築城された)、そして、浅間神社を見学した後、臨済寺に行った。臨済寺は早雲の姉(司馬遼太郎『箱根の坂』では妹という設定になっている。今川義忠の正室で、今川氏親の母)、北川殿の別邸跡に建てられ、今川義元も青年期を過ごした場所だという。 <br>当寺は賤機山の山麓にあり、本堂のある高地からは市街地がよく見える。すでに10時30分を過ぎて暑くなってきたが、境内の清々しい雰囲気が心地よかった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>臨済寺の本堂前からの写真。</em>
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<p>臨済寺を出て、予定通り、安部川餅を食べに安部川橋東側に向かうことにした。この頃になると、太陽が照り始め、気温はぐんぐん上昇しているのが分かった。11時頃に目的地付近に着くと、観光ガイドブックに載っていた佇まいの店があった。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川橋の東側から、安倍川をのぞむ。</em>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川餅の「せきべや」さん</em>
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<h2>安倍川餅の「せきべや」さん、発見!</h2>
<p>ここだと思い、汗を拭いつつ、店に入った。この店が300年の歴史を持つという「安倍川餅せきべや」である。店の中は、冷房がかかっており、涼しかった。安部川餅(600円)を注文し、待つことしばし、やってきた安部川餅を見て、私は「しまった」と思った。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>「せきべや」さんの安部川餅。見た目よりボリュームがあり、満腹になった。若干、黄粉餅が分かりくいかもしれない。黄粉餅は皿の右側にある。その黄粉餅に砂糖がかかっている。</em>
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<h2>「しまった」と思った理由</h2>
<p>それは餅の味がどうこうという話ではなく、このシチュエーションでは、餅というチョイス自体が誤りだったではないかということだ。なぜかというと、その重く、粉っぽい様子に食欲が湧いてこないのである。すでに、暑さにやられつつある体に、この重量感と粉っぽさはきつい。もう少し冷たいもの、せめて、チュルチュルと食べられるものにしたらよかったと思った(もちろん、餅自体はすべていただいて、店のチョイスにミスはなかったと思った)。</p>
<h2>ご当地グルメは胃と相談しよう</h2>
<p>思えば、前日にとろろ汁を食べ損なったのがトラウマになり、何としてもご当地グルメを食べるということが強迫観念となり、冷静な判断力を鈍らせたのかもしれない。思い込みというのは恐ろしいものである。<br>昨日、とろろ汁を食べていれば、おそらくこれほど暑い中、餅を食べるのは不適と判断して、別のものを食べていたことだろう。食べ物に関しては、頭が要求するものより、胃腸が要求するものを優先させたほうがよいとつくづく思った。今度は、安部川餅を見て胃腸が喜ぶ時期に、もう一度、トライしてみたいものだ。</p>
<p>その日の夕方、いつもより腹が減らないなと思ったとき、ふと昼に食べた阿部川餅のことを思い出した。失敗にも、効用はあるようだ。</p>
<p>(終)</p>

安部川餅の誤算

作成日:2014/6/23 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

安倍川餅 フィールドをゆく 静岡県 静岡市

【臨済寺から静岡市街を撮影】<p>臨済寺は早雲の姉(今川義忠の正室で、今川氏親の母)、北川殿の別邸跡に建てられ、今川義元も青年期を過ごした場所だという。 <br>当寺は賤機山の山麓にあり、本堂のある高地からは市街地がよく見える。</p>

臨済寺から静岡市街を撮影

作成日:2014/6/23 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

臨済寺 北川殿 静岡県 静岡市

【北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-】<h2>はじめに</h2>
<p><strong>伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</strong>と絡めながら、北条早雲の生涯を見ていきたいと思います。 <br>なお、早雲の年表は当ページの最後に付しておきました。 私は早雲の生涯をざっくり4期に分けました。 以下、各期の概要をみていきましょう。</p>
<h2>第1期:1456-1486 (早雲、出生から30代まで)</h2>
<p>第 1期は早雲が歴史の表舞台に現れる以前で、彼の動きに謎が多い期間でもあります。具体的には、早雲出生(1456年)から太田道灌が謀殺される(文明18 年(1486年))までの期間です。 <br>この時期、若き早雲は幕府に出仕する一方、建仁寺や大徳寺で禅の修業もしています。また、一般には文明8年(1476年)に起こった今川家家督相続問題を 調停したと言われています(*)。<br>数え年で、早雲が21歳の時のことです。</p>
<p><em>(*)文明8年(1476年)に、駿河 守護の今川義忠が遠江で戦死して、今川家に家督相続問題が起きました。定説や歴史小説では、北条早雲が扇谷上杉氏の家宰、太田道灌に話をつけて、今川義忠 と早雲の姉、北川殿の嫡男である龍王丸(のちの今川氏親)が成人するまでの間、小鹿範満(今川義忠の従兄弟)を暫定駿河守護にすることで落着されたとされ ています)。</em></p>
<p>『疾き雲のごとく』では、第1話「道灌謀殺」でこの辺りのことが書かれています。</p>
<h2>第2期:1487-1505 (早雲、40代の頃)</h2>
<p>第 2期は小鹿範満を討って、今川氏親を擁立した長享元年(1487年)から長享の乱が終わる永正2年(1505年)頃までの期間で、早雲は幕府の関東出先機 関として、または、今川家の部将として動いていた時期です。この時期、早雲は伊豆に討ち入り、数年かけて制圧し、さらには小田原城を落としています。</p>
<p>『疾き雲のごとく』では、以下の4話が対象期間です。</p>
<ul>
<li>明応2年(1493年)の伊豆討ち入りを書いた第3話「修善寺の菩薩」</li>
<li>明応3年(1494年)の扇谷上杉定正の荒川渡河作成失敗を書いた第2話「守護家の馬丁」(早雲は、定正と同盟しており、この戦いに参陣していました)。</li>
<li>大森一族の没落(小田原城攻略戦)を書いた第4話「箱根山の守護神」(攻略した年は正確には分かりません。明応5年(1496年)から文亀元年(1501年)までには早雲は小田原城を攻略しています)。</li>
<li>長享の乱、最後の大戦となった立河原合戦(永正元年(1504年))を書いた第5話「稀なる人」</li>
</ul>
<h2>第3期:1506-1512 (早雲、50代前半から半ば頃)</h2>
<p>こ の頃から、早雲は関東の一勢力として独自の動きを展開しはじめます。永正4年(1507年)、京都で細川政元が暗殺されて、政元に追放された10代将軍、 足利義材が大内義興と細川高国の後ろ盾を得て復権します。本来であれば、政元派であった早雲は窮地に陥るところでしたが、数年前から義材派に鞍替えしてお り、京都の政変による荒波も乗り越えました(なお、この荒波をもろにくらって、沈没したのが越後上杉氏で、その同盟勢力の山内上杉氏も大打撃を受けまし た)。そして、永正6年(1509年)頃から、ついに早雲は両上杉氏に対する戦いをはじめます。</p>
<h2>第4期:1513-1519 (早雲、50代後半から死去まで)</h2>
<p>第 3期に両上杉氏に対する戦いをはじめ、攻勢に出た早雲でしたが、両上杉氏が結束するとやはり国力に雲泥の差があるため、早雲勢は小田原城付近まで押し込め られて、窮地に陥ります。しかし、永正9年(1512年)頃から、古河公方と山内上杉氏の後継者問題が発端となって、また両上杉氏は戦い始めました。その 隙を突いて、早雲は東相模の三浦氏を攻撃し、3年以上にも渡る攻囲戦の末、永正13年(1516年)7月11日に三浦道寸の籠る新井城を落としました。こ こに、早雲は生涯で伊豆と相模を手中に収めることに成功しました。そして、仕事を成し遂げた早雲は、その3年後に死去します。 <br>『疾き雲のごとく』では、最終の第6話「かわらけ」で三浦一族の滅亡(早雲の東相模攻略戦)が書かれています。</p>
<h2>最後に</h2>
<p>こ うして見ると、『疾き雲のごとく』の話が第2期に集中していることが分かります。それに対して、第3期は第5話「稀なる人」の最後の方と第6話「かわら け」の最初の方で触れられているだけです。しかし、実は第3期は、唖然とする程、話がもつれ、いろいろな人物が出てきては消えていく激しい変化が起こって います。ですから、この時期が重要でなかったわけではありません。</p>
<p> </p>
<div> </div>

北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-

作成日:2014/6/21 , by fuji3zpg 開く

フィールドをゆく 北条早雲 室町から戦国時代への動きと北条早雲の生涯ーフィールドをゆく(1)ー

【丸子城】北曲輪辺りから北東方面に丸子谷を撮影。今川氏親の幼名は龍王丸といい、父の今川義忠亡き後は今川家の家督を相続できず、この丸子谷に隠れ住んでいた。<br>龍王丸の母は北条早雲の姉だったため、早雲は龍王丸を担いで、今川家の当主に据えた。そのため、早雲は今川家に大きな地盤を得ることになった。<br><br>鬱屈した氏親の青春時代などを想像しつつ、曇天の丸子谷を眺めていた。

作成日:2013/2/22 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

早雲の城 静岡県 静岡市

ノート【更新順】
・ 岡山県の没落武士
・ 江戸東京たてもの園を訪問
・ コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
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ノートまとめ【更新順】
・ 関ヶ原の戦いの動画
・ 淀川の城
・ 姫路城大天守の昼・夕暮れ・ライトアップ!
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歴史年表【更新順】
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・ 花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
・ 歴史家・歴史小説家とその時代
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特集
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人物【更新順】
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・ 周布政之助
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出来事【更新順】
・ 新型コロナウィルス感染拡大に伴い、東京など7都道府県で非常事態宣言が発令
・ 中国の武漢で新型コロナウィルスが人に感染
・ 令和に改元決定
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世界史古代概論
・ 世界史古代概略
・ ローマと前漢、不思議な成立の符合
・ 古代の日本と西欧
戦国のはじまり
・ 早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
・ 応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
・ 北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
・ 2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
・ 歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
・ 大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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