東日本大震災で亡くなった方のご冥福をお祈り致します。また、被災された方にお見舞い申し上げます。
3 月11日(金)。この日、私は自宅付近で昼食をとった後、六本木に向かい、13時過ぎに六本木ヒルズの40階でWebアプリ開発の仕事を始めました。そこは好きなところに腰掛けて個人が仕事をするフリースペース形式のオフィスです。この日は、40階のフロアに30人程度の利用者が仕事に勤しんでいました。
揺 れが始まった当初、ちょっと強い地震程度にしか思いませんでした。私は高校生の時に京都で阪神淡路大震災を経験しています。その時は、縦にドカンと衝撃が 来て、南のほうから大地が崩壊していくような音と振動が伝わってきました。この経験があるので、今回のような横揺れには大して警戒感はありませんでした。
しかし、ちょっと強い地震がさらにひどくなり、おさまる気配がありません。私は落下物がないか、上を確認し、片膝を地面につけて、揺れが収まるのを待ちま した。その間、地震を告げる無機質な自動のアナウンス(日本語の次に英語)が流れました。すると、素早く従業員の方がやって来て、窓から離れるように注意を促しました。揺れが最も激しい時に(洒落にならないほど揺れていた時に)、フロアの責任者と見られる男性がフロアの中央にやってきて、免震構造なので大丈夫だと言っていましたが、真っ直ぐ立っていられないほどの揺れのためか、声は緊張し、少し上ずっていました。
六本木ヒルズの免震技術は優れているのかもしれませんが、タイタニックであれ、アルマダ(スペインの無敵艦隊)であれ、評判の高いものが儚いことになった 例も少なくないので、揺れが激しい時は不安になりました。しかし、30人ほどの利用者やフロアの係りの人の中に、パニックに陥る人は誰もいませんでした。
何 分間かの揺れが一旦収まったので、やれやれと思っていると、何人かが窓の近くで何か言っています。私も窓から3mほど離れたところで外を覗いてみると、品川の辺りから多量の煙が立ち昇っていました(正確にどこが燃えていたのかは今も分かりません)。これは大変なことになるのではないかと思いました。
幸い、インターネットは問題なく利用できたので、他の利用者が東北で強い地震があったことを素早く調べて話していました。むろん、当時は東北を中心に、これほどの惨事になるなど、想像もしていませんでした。
私は40階にいて、相当遠くまで見えるため、その他の火災や津波が発生していないことはすぐに分かりました(天気の良い日は富士山がクッキリ見えます)。仮 に津波が発生しても、どう考えても40階まで到達しそうにありません。という状況だったので、目下、考えうる脅威は六本木ヒルズの階下で発生する火災でし た。
30分ほどすると、エレベータ以外はすべて問題なく機能している旨のアナウンスがあったので、まずはひと安心でした。ただ、絶えず余震に揺られ、たまに結構強い揺れがあるため、徐々に大地が揺れているのか、免震構造のビルが揺れているのか、私の脳が揺れているのか分からない、いわば、船酔いのような感じになってきました。私はこれをヒルズ酔いと名づけて、無事にヒルズを脱出して、この地震から生き延びたら、必ずこのネタを当サイトに書こうと強く決意しました。地震から10日ほど後にニュースをネットで見ていたら、同様の症状に対する報道があり、これを「地震酔い」と表現していました。
地震発生から1時間ほどしてもエレベータが回復しないので、40階ですが、非常階段から徒歩で降りることにしました。というのは、地下鉄が止まっているのはイン ターネットで知っているので、なるべく早く地上に降りて、明るいうちに徒歩で自宅に戻りたかったからです。そこで、フロアの責任者と思しき人に非常階段の場所を聞いたところ、エレベータが回復するまでもうしばらく待ってほしいと言われました。仕方なく再度席に戻って、PCを操作していると、仙台空港が水浸しになっている映像を見ました。これは大変なことになったぞと思って、いろいろ調べたり、今後のプランを考えたりしていると、京都の肉親から連絡があり、 大丈夫かと問われたので、「高いところにいるので、少なくとも津波の心配はない」と答えておきました。最終的に、2時間半もの間、40階でブラブラ揺られ ることになるとは思ってもいなかったので、40階で足止めされていることは言いませんでした。
ヒ ルズ酔いのため、PCを見ていると気分が悪くなってくるので、窓に近づいて、秩父や丹沢山地の山々をのぞんでみました。強い揺れがあったにも関わらず、 山々は何事もなかったように泰然自若としています。当たり前といえばそれまでですが、この時は「たいしたものだ」という妙な感慨がありました。
地震発生から2時間強経過した17時頃、非常階段から徒歩で降りることを希望する人は集まるように言われたので、勇んで集合場所に向かいました。この後、長時間歩くことになると思ったので、係の人にちょっとトイレに行ってきますと言って、素早く用を足して戻ってきました。戻ってくると、関西在住と思われる中年のおじさんがちょっとトイレに行ってくると言って、急いでトイレに向かいました。3分ぐらい待っても帰って来ないので、少し心配しました。その頃には皆 おじさんの帰りを待っていたので、焦れた係の男性が様子を見に行ったところ、もう少しで戻ってくる旨、合図をしました。結局、男性は「すいません」とか言いながら戻ってきたので、ホッとしつつも、時が時なので、早くしてほしいものだと思いました。
歩いて降りる人は総員15名ぐらいだったと思います。
そのうちの1人が非常階段と降りる人たちの写真を1枚パチッと撮っていました。その時、微妙な空気が流れました。
誘導役の係の男性は「誘導したら、戻ってくる」というようなことを同僚の男性に言っていました。
連れのいる人は最初話しながら降りていましたが、半分の20階ぐらいで口数がぐっと少なくなってきました。私は1人だったので、リズムよく呼吸することを 心がけて、黙々と降りました。すると、前を歩いていた2人組の男性が、重苦しい雰囲気を吹き飛ばすように、「膝が笑ってきた」とか言って、2人でゲラゲラ 笑っていました。私も思わず「だよな」と思いながら、ニヤニヤしてしまいました。10階まで降りてくると、さすがに疲労感が出てきましたが、もう少しだと思い、ひと踏ん張りしました。一番下の階(多分2階)に着いた時は、ヤレヤレ、ようやくヒルズ脱出だと思いました。
やはり、大地を歩けるということは大きな安心感がありました。
一方、人の許可無く、歩いて降りられないところは今後極力行きたくないものだと切に思いました。ただ、エレベータに閉じ込められた人に比べたら、40階で揺られた苦痛もモノの数ではなかったでろうとも思いました。ヒルズを出る瞬間、「エレベータが1基動き始めた」という声が耳に入りました。
フロアの責任者と従業員は危機に対して立派に行動していました。利用者も誰1人として、パニックになりませんでした。最後の1時間ぐらいはクラシックが再び流れて、どう見ても普通に仕事をしている人も少なからずいました。実に驚くべきことだと思いました。
さて、ヒルズを脱出したのは幸いでしたが、この時点で17時30分過ぎになっており、暗くなってきています。地下鉄はすべてストップしていることをネットで確認しているので、この後、六本木から江東区の自宅まで歩いて帰る必要があります。当時は6kmほどだと思っていました。後日、Googleマップで自分 が歩いた大体の経路を測ってみると、8キロ強ありました。
六本木ヒルズのノースタワーのエスカレータで2階から1階に降りて、さてもう一踏ん張り頑張るかと気合を入れ直し、私はエントランスを出て、コンクリートの道路に第一歩を踏み出しました。
六本木ヒルズのノースタワーのエントランスを出た私は比較的細い路地を歩きはじました。
すると、若い2人連れの女性が「ここ入ろっか」などと言って、大画面のテレビがあるバーに入っていきました。また、左右を見ると、多くの人がイタリア料理屋でうまそうなパスタを食べたり、居酒屋で飲み食いしていたので、もしかしたら地上はたいして揺れなかったのかと一瞬思いました。
ただ、もう少し歩くと、すでに閉店している店があったり、ヘルメットを被って歩いている人がいたり、すべての地下鉄がストップしているわけですから、只事であるはずはないと思いました。
ようやくヒルズを脱出したので、もう心配なかろうと思い、携帯で親に電話したところ不通でした。それまで携帯が使えなかったことに気づかなかったことは不覚 でした。ただ、iPhoneのインターネットが生きているのは確認していたので、iPhoneからメールで親に無事を報告しました。
六本木ヒルズを脱出した後、どういうルートを通って帰ったらよいか、私はだいたい知っていました。というのは、江東区の自宅から渋谷まで何度か自転車で往復したことがあり、その際に六本木を通っています。そのため、この辺は多少土地勘があったのです。また、iPhoneが生きていたので、Googleマップも見られました(もしiPhoneが機能していなければ、紙の地図が必要なところでしたが、 iPhoneがあるため、最近、紙の地図を持ち歩いていませんでした。紙の地図もiPhoneのGoogleマップもダメな場合は、各地域に設置してある地図をiPhoneで撮って参考にする手があります)。これも大きなアドバンテージでした。
一方で、こういう日のために、方位磁針、高度 計、温度計、気圧計などの多機能腕時計を普段持ち歩いているのですが、それを忘れていました。また、非常用に持ち歩いている携帯ラジオ用の単4電池が1本しかなかったため、近くのコンビニで購入しました(この携帯ラジオは単4電池が2本必要。普段、電池を入れておくと、知らない間に電源が入り、使うときに 電池切れになるリスクを避けるため、普段は電池を外している)。ソニー製のアルカリ電池、4本入りで480円でした。もしコンビニが機能していなければ、 困るところでした。これらは誤算でした。
六本木という土地は武蔵野台地の 東の端の方なので、坂を降りると低地に入ります。低地はもし津波が来たら危険です。そのため、早速購入した電池を携帯ラジオに入れて、ラジオを聞きながら移動しました。むろん、今回の地震で、今更、津波が起こる確率はほぼないわけですが、ゲームと違って、「あーあ、死んでしまった。リセット。」というわけにはいきません。また、以前から関東での大震災や東海地震の可能性が指摘されています。今後発生するであろう海溝型の大震災で、津波が起こる可能性はあるわけで、津波に警戒して歩くということはその際の事前シミュレーションという効果もあります。このような問題意識を持つと、気づくことが多々あります。
江東区の自宅に戻るには、どうしても六本木を降りて、低地を歩く必要があります。むろん、六本木やより西側のホテルに泊まるという選択肢もありましたが、すでに本震は2時間半前に終わっており、10km以内のところに自宅があるので、そこまでする必要はないように思いました(もし津波の危険が高ければ、武蔵野台地に留まるというのは有力な選択肢でした)。
歩いていると、いろいろな声が聞こえ、また、印象に残ることがありました。
前を歩いていた2人組のサラリーマン風の男性(年齢は30歳前後)の「千葉に先日家を買ったんですよ」という言葉とか、「もし停電だったら、コワイよね」といった若い女性の言葉です。
また、婦人用の靴屋が開いていたので、こんな時によく営業しているなと思いましたが、よく考えたら、これから徒歩で自宅に帰る女性で、ハイヒールを履いている人がいたら、すぐに足が痛くなるかもしれません。そういうお客さんのために開いているのかなと思いました。さらには、自宅に戻ってテレビを見たら、自転車が飛ぶように売れたと言っていました。なるほど、それはそうだろうなと思いました。
地上に出て思ったことは、風が強く寒いことでした。もし火災が発生したら、まずいことになっていたのではないかと思いました。また、雨が降らなかったことも有難かったです。ただでさえ、強風で寒いのに、これに雨に濡れたら、体力・気力ともにさらに辛いことになるでしょう。
幸い、私は当日フード付きのダウンの防寒着を着ていたので、風と寒さは問題になりませんでした。靴は歩きやすい運動靴でしたが、防水性能はなかったので、雨が降らなくて助かりました。
さて、阪神淡路大震災の時に高速道路が倒れたことを思い出しながら、六本木から北東に向かって、高速道路沿いを歩き、虎ノ門まで進みました。虎ノ門は外堀通りに面しています。「外堀」とある通り、江戸時代は江戸城の外堀だったため、周辺に比べると低い土地です。
私の幼なじみが虎ノ門付近で働いているはずなので、彼は大丈夫だろうかと思いましたが、建物に対する被害はこれまで全く見なかったので、大丈夫だろうと思いました。また、携帯電話が不通なので、確認するすべもありません。
この辺はとても人が多く、しかも、東から西に大量に人が流れていきます。人の流れというのはすごいもので、流れに逆らって動くのは一苦労でした。車は渋滞し て、ほとんど動いていませんでした。その横を、自転車がサーと走り抜けます。こういう時、自転車はとても便利だなと思いました。ただ、自転車はパンクする と、機動力がガタ落ちになります。
反対向きの人の流れで動きづらいので、私は路地に入ることにしました。すると、途端に移動が楽になりました。1本入るだけで、ほとんど誰も歩いていません。
私は防災の専門家でも何でもない普通のIT業者なので、この行動が教科書的に正しいことなのかどうか分かりません。路地に入ったことで移動速度の向上というメリットは確実にありましたが、デメリットというかリスクも確かにありました。
というのは、新富町の辺りで、看板が不安定になり、一部道路が封鎖されていたことがあり、また、人形町を過ぎた辺りの古い民家で瓦が落下していました。さらに場所は覚えていませんが(新橋周辺だったかもしれません)、ものすごくガス臭い路地があり、「ガス漏れ、火に注意」などと書かれた紙が貼ってあったところもありました。仮に私がその時タバコを吸っていたら(私はスモーカーではありませんが)、張り紙に気づく前に自分だけ火事になっていたかもしれないと 思うぐらいに強烈なガス漏れでした。このように、有事の際には路地までなかなかチェックができないでしょうから、移動の容易さをとるか、リスクを避けて表通りを歩くかは、場合によっては人生の岐路になるかもしれないと思いました。
さて、外堀通りを通って、虎ノ門を抜け、新橋に入ります。新橋の北側に日比谷公園があります。
戦国時代初期に、太田道灌が江戸城を築いた頃は、この辺りまで海が入り込んでいました。入間川、荒川など、関東を流れる大河による河川運送と江戸湾の海運 ルートを結び、かつ、武蔵野台地の東端に位置する地勢に注目し、道灌(道灌は扇ヶ谷上杉氏の家宰(執事)だった)はこの地に城を作ったとされています。太田道灌が江戸城からの情景を詠んだという歌の中に、
わが庵は 松原つづき 海近く
富士の高嶺を 軒端にぞみる
というのがあります。この歌から分かるように、戦国時代の江戸城は松原が続く「海近」い城でした。
地形的には、江戸城は東側が低地で、西側が高地です。もし津波が来る危険があれば、私なら、日比谷公園や皇居(江戸城)の東側の低地よりも、西側の高地に避難します。
このように、自分が住んでいる地域の歴史を学んでおくと、単に昔のことを知るということに留まらず、震災などの有事の際に役に立つことがあります。
今後の歴史教育に防災という観点を入れることで、他人事から自分のことへと学ぶ内容がグッと身近なものになるのでないかと思います。
歴史というのは、大抵、有事について書かれています。「文明18年(1486年)、人々は幸せに暮らしていた」などということは通常記録されません。通常、「文明18年(1486年)、太田道灌は主の扇谷上杉定正に謀殺された」というように記述されます。歴史という有事の記録を紐解くことで、いざという時の判断材料にするわけです。
一般的に津波の際には低地は危険です。出版されている災害予測地図(私は江東区在住なので、東京23区を対象とした 目黒 公郎 『東京直下大地震 生き残り地図―あなたは震度6強を生き抜くことができるか?!』 を2年ほど前に買って持っています)、古地図、地図ソフトのプロアトラスのジオラマ機能などで地形や地震予測地図を見ておくと(できれば、そのデータや画 像をiPhoneなどに取り込んでおくと)、どの経路を通るべきか判断する1つの判断材料になります。いざという時に、ググッている暇はありません。手持ちの知識、装備、体力、そして、それらを踏まえた状況判断が大切だと改めて思いました。
また、かつて海だったところを埋め立てた土地は地盤が弱く、液状化現象が起こる危険があります。液状化現象が起こった土地は移動しづらいので、有事の際は可能な限り避けたほうがいいでしょう。他には、地名 に「池」「沼」「谷」という名前がついていると、かつてはそういう地形だった可能性があります。普段はコンクリートに覆われて見えませんが、激しい揺れに晒された時に違いが出てくるかもしれません。昔の地形を知っていれば、避けられるリスクもあるかもしれません。
あと、普段から目印になる山や高い建物を意識しておくのも効果的だと思います。今回は暗かったので見ていませんでしたが、江東区やその近辺なら、スカイツリーがよく見えるので、私は歴史サイクリングをする時にスカイツリーをよくランドマークとして使っています。ランドマークがあれば、地図がなくても、大まかに自分の位置や方向が分かります。
さて、新橋を抜けて銀座を歩いている頃に、もし津波が来たら、逃げ込める空間というのは飲食店のあるような繁華街のほうが多いかもしれないことに気が付きました。というのは、多くのオフィスビルは玄関が閉まっていたので、仮に津波が来た場合、一時的に入ろうにも入れません。その点、繁華街は2階以上へ行く 階段がビルの入口のあるので、いざとなったら、そこへ駆け込むことができます。
ただ、今回の地震では問題となりませんでしたが、繁華街は飲食店も多いので、火災の危険があります。津波が来たので、ビルに逃げ込んだら、そこは火の海 だったのいうのでは洒落になりません。また、老朽化しているビルなら、津波の衝撃で次の瞬間に何が起こるかは分かりません。東京で津波が起こるほどの地震が発生した時に繁華街が無傷だとは常識的に考えて思えません。
また、「多くのオフィスビルが閉まっていた」というのは私の個人的な経験ですが、もう少し明るい時は開いていたかもしれません。開いていたら、オフィスビルのほうが頼もしいように思います。
こういう想定を考えていると、キリがありません。たとえ完璧な理論を知っていても、いろいろ複雑なことを考えてモタモタしている間に流されてしまったら、元も子もありません。
だからこそ、「その時」のために事前にシミュレーションしておくことは大切だと思います。そうすれば、いざという時に合理的な選択肢がいくつか思い浮かび、状況に合わせて、そのうちの1つを選んで生き延びることができるかもしれません。
もしこの辺りを歩いている時に津波が迫ってきたら、私は階段があり、強そうな建物にダッシュするつもりです。むろん、その前に高台に避難したいところです。
などといろいろなケースを考えながら、銀座を抜けて、新富町の辺りで路地から大通り(新大橋通り)に出ました。新大橋通り沿いに歩くと、自宅に着くことがで きます。新富町を通りすぎて、八丁堀付近を北上していると、いよいよ疲労感を感じはじめました。時間を確認すると、20時頃、つまり、六本木ヒルズを出 て、2時間半ぐらい経過しています。ヒルズを出てからまだ一度も小休止をとっていないので、疲労がたまるのは当然でした。その横をまたまた自転車が颯爽と走り抜けていきます。
虎ノ門付近に比べたら、格段に人口密度が減りましたが、まだ多くの人が新大橋通りを歩いていました。私の前を30歳くらいの女性が歩いており、その両脇をスーツを着た同じ歳くらいの男性が固めていました。何を話していたかは分かりませんでしたが、悲壮な感じはなく、普通に話しながら歩いていました。私が経験した範囲では、おおむね、こういう雰囲気でした。
私は信号で待っている間、なるべくガードレールにもたれたり、屈伸運動などをして、体力の温存や関節の柔軟性維持に努めました。また、あたたかい飲み物と菓子パンを持っていたので、少しずつ食べて、補給しました。信号待ちの時に、外からコンビニを覗くと、お客さんが行儀よく並んでモノを買っていました。店員は当たり前のようにレジをこなし、棚に商品を補給していました。このような有事の際にも冷静に行動する人々を見て、私は本当にすごいことだと当時思い、 今でもそう思います。
さて、人形町付近を過ぎる頃に、前を歩いている2人組の男性が「千葉まで帰ります」と言っているのが聞こえました。本当にお疲れ様だなあと思いました。
私自身は30代前半の男で週末には歴史サイクリングをしているので、体力に特に不安はなく、また、地理感覚もあり情報端末も持っていたので、知識についても問題はありませんでした。つまり、ヒルズの40階で揺られて、40階から徒歩で降りてきたことを除いては、比較的条件がよかったわけですが、それでも、 17時半にヒルズの1階を出発して、すでに3時間ぐらい経過して、それなりに疲れていました。新大橋通りを渡る頃には人の数も減り、パラパラと人々が歩いている感じでした。新大橋を渡り終えると、私は勝手知ったる路地に入りました。
結局、自宅に着くと、ヒルズを出てから3時半弱経過した21時前になっていました。
パッと見たところ、自宅のあるマンションに亀裂などのダメージはありませんでした。家の中は自転車が倒れていたことと26インチの液晶モニタが私の椅子に 倒れこんでいたことを除いては大したことはありませんでした。部屋の中は、倒れやすいものが倒れていたという印象でした。
テレビをつけると、地震のニュースがひっきりなしに報道されています。衝撃的な映像が流され、これはいかんなと思いました。
ひと通りニュースを見た後、まだまだ強い余震があるだろうから、家具などで圧死しないように準備してから眠ろうと思い、私は作業をはじめました。
(終)
作成日:2011/3/11
場所: 日本, 東京都港区六本木6丁目10−1(原則、地図座標から場所を算出しています。目安とお考えください)
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