西暦: 1537年 〜 1598年

読み: とよとみひでよし /
別名: 羽柴秀吉 木下藤吉郎
地域: 日本

豊臣秀吉

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グラフ: 「豊臣秀吉」と同時代の人物

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グラフ: 「豊臣秀吉」と同時代の出来事

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表: 「豊臣秀吉」と同時代の人物

尼子経久 1458年 〜 1541年 日本
ピサロ 1470年 〜 1541年 ヨーロッパ
以天宗清 1472年 〜 1554年 日本
コペルニクス 1473年 〜 1543年 ヨーロッパ
ラス・カサス 1474年 〜 1566年 ヨーロッパ
ミケランジェロ 1475年 〜 1564年 ヨーロッパ
上杉定実 1478年 〜 1550年 日本
マルティン・ルター 1483年 〜 1546年 ヨーロッパ
コルテス 1485年 〜 1547年 ヨーロッパ
北条氏綱 1487年 〜 1541年 日本
上杉朝興 1488年 〜 1537年 日本
長尾為景 1489年 〜 1542年 日本
ヘンリー8世 1491年 〜 1547年 ヨーロッパ
イグナティウス・ロヨラ 1491年 〜 1556年 ヨーロッパ
長野業正(長野業政) 1491年 〜 1561年 日本
北条幻庵(長綱) 1493年 〜 1589年 日本
斎藤道三 1494年 〜 1556年 日本
スレイマン1世 1494年 〜 1566年 地中海、西アジア
武田信虎 1494年 〜 1574年 日本
フランソワ1世 1494年 〜 1547年 ヨーロッパ
六角定頼 1495年 〜 1552年 日本
後奈良天皇 1496年 〜 1557年 日本
太原雪斎 1496年 〜 1555年 日本
毛利元就 1497年 〜 1571年 日本
大井夫人 1497年 〜 1552年 日本
カール5世 1500年 〜 1558年 ヨーロッパ
李退渓 1501年 〜 1570年 東アジア
武野紹鴎 1502年 〜 1555年 日本
武野紹鷗 1502年 〜 1555年 日本
雪村周継 1504年 〜 1589年 日本
フランシスコ・ザビエル 1506年 〜 1552年 ヨーロッパ
大内義隆 1507年 〜 1551年 日本
山科言継 1507年 〜 1579年 日本
足利晴氏 1508年 〜 1560年 日本
長尾晴景 1509年 〜 1553年 日本
カルヴァン 1509年 〜 1564年 ヨーロッパ
松永久秀 1510年 〜 1577年 日本
足利義晴 1511年 〜 1550年 日本
織田信秀 1511年 〜 1551年 日本
真田幸隆 1513年 〜 1574年 日本
細川晴元 1514年 〜 1563年 日本
北条氏康 1515年 〜 1571年 日本
北条綱成 1515年 〜 1587年 日本
メアリ1世 1516年 〜 1558年 ヨーロッパ
正親町天皇 1517年 〜 1593年 日本
今川義元 1519年 〜 1560年 日本
カトリーヌ・ド・メディシス 1519年 〜 1589年 ヨーロッパ
今井宗久 1520年 〜 1593年 日本
陶晴賢 1521年 〜 1555年 日本
武田信玄 1521年 〜 1573年 日本
柴田勝家 1522年 〜 1583年 日本
三好長慶 1522年 〜 1564年 日本
千利休 1522年 〜 1591年 日本
上杉憲政 1523年 〜 1579年 日本
上杉朝定 1525年 〜 1546年 日本
張居正 1525年 〜 1582年 東アジア
長尾政景 1526年 〜 1564年 日本
松平広忠 1526年 〜 1549年 日本
柳生宗厳(石舟斎) 1527年 〜 1606年 日本
フェリペ2世 1527年 〜 1598年 ヨーロッパ
斎藤義龍 1527年 〜 1561年 日本
種子島時堯 1528年 〜 1579年 日本
明智光秀 1528年 〜 1582年 日本
ボーダン 1530年 〜 1596年 ヨーロッパ
大友義鎮(大友宗麟) 1530年 〜 1587年 日本
上杉謙信 1530年 〜 1578年 日本
イヴァン4世(雷帝) 1530年 〜 1584年 ロシア
エリザベス1世 1533年 〜 1603年 ヨーロッパ
小早川隆景 1533年 〜 1597年 日本
オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム) 1533年 〜 1584年 ヨーロッパ
モンテーニュ 1533年 〜 1592年 ヨーロッパ
大村純忠 1533年 〜 1587年 日本
朝倉義景 1533年 〜 1573年 日本
島津義久 1533年 〜 1611年 日本
織田信長 1534年 〜 1582年 日本
荒木村重 1535年 〜 1586年 日本
島津義弘 1535年 〜 1619年 日本
近衛前久 1536年 〜 1612年 日本
足利義輝 1536年 〜 1565年 日本
足利義昭 1537年 〜 1597年 日本
豊臣秀吉 1537年 〜 1598年 日本
前田利家 1538年 〜 1599年 日本
北条氏政 1538年 〜 1590年 日本
ヴァリニャーニ(バリニャーノ) 1539年 〜 1606年 日本
長宗我部元親 1539年 〜 1599年 日本
前田玄以 1539年 〜 1602年 日本
豊臣秀長 1540年 〜 1591年 日本
北条氏照 1540年 〜 1590年 日本
足利義氏 1541年 〜 1583年 日本
エル・グレコ 1541年 〜 1614年 ヨーロッパ
北条氏邦 1541年 〜 1597年 日本
中川清秀 1542年 〜 1583年 日本
徳川家康 1542年 〜 1616年 日本
アクバル 1542年 〜 1605年 南アジア、東南アジア
顕如(光佐) 1543年 〜 1592年 日本
狩野永徳 1543年 〜 1590年 日本
ドレーク 1543年 〜 1596年 ヨーロッパ
古田織部 1544年 〜 1615年 日本
増田長盛 1545年 〜 1615年 日本
北条氏規 1545年 〜 1600年 日本
李舜臣 1545年 〜 1598年 東アジア
浅井長政 1545年 〜 1573年 日本
最上義光 1546年 〜 1614年 日本
黒田官兵衛 1546年 〜 1604年 日本
武田勝頼 1546年 〜 1582年 日本
浅野長政 1547年 〜 1611年 日本
お市 1547年 〜 1583年 日本
真田昌幸 1547年 〜 1611年 日本
織田有楽斎 1547年 〜 1621年 日本
セルバンテス 1547年 〜 1616年 ヨーロッパ
斎藤竜興 1548年 〜 1573年 日本
北政所 1548年 〜 1624年 日本
本多忠勝 1548年 〜 1610年 日本
松浦鎮信 1549年 〜 1614年 日本
シャルル9世 1550年 〜 1574年 ヨーロッパ
高山右近 1552年 〜 1615年 日本
マテオ・リッチ(利瑪竇) 1552年 〜 1610年 東アジア
誠仁親王 1552年 〜 1586年 日本
今井宗薫 1552年 〜 1627年 日本
アンリ4世 1553年 〜 1610年 ヨーロッパ
毛利輝元 1553年 〜 1625年 日本
角倉了以 1554年 〜 1614年 日本
上杉景勝 1556年 〜 1623年 日本
藤堂高虎 1556年 〜 1630年 日本
ヤン・ヨーステン(耶楊子) 1556年 〜 1623年 日本
織田信忠 1557年 〜 1582年 日本
小西行長 1558年 〜 1600年 日本
織田信雄 1558年 〜 1630年 日本
本阿弥光悦 1558年 〜 1637年 日本
大谷吉継 1559年 〜 1600年 日本
松平信康 1559年 〜 1579年 日本
狩野山楽 1559年 〜 1635年 日本
ヌルハチ(太祖) 1559年 〜 1626年 東アジア
直江兼続 1560年 〜 1619年 日本
石田三成 1560年 〜 1600年 日本
吉川広家 1561年 〜 1625年 日本
フランシス・ベーコン 1561年 〜 1626年 ヨーロッパ
藤原惺窩 1561年 〜 1619年 日本
福島正則 1561年 〜 1624年 日本
井伊直政 1561年 〜 1602年 日本
加藤清正 1562年 〜 1611年 日本
北条氏直 1562年 〜 1591年 日本
徐光啓 1562年 〜 1633年 東アジア
万暦帝(神宗) 1563年 〜 1620年 東アジア
シェークスピア 1564年 〜 1616年 ヨーロッパ
ウィリアム・アダムズ(三浦按針) 1564年 〜 1620年 日本
池田輝政 1564年 〜 1613年 日本
ガリレオ=ガリレイ 1564年 〜 1642年 ヨーロッパ
真田信之 1566年 〜 1658年 日本
ジェームズ1世 1566年 〜 1625年 ヨーロッパ
有馬晴信 1567年 〜 1612年 日本
真田信繁 1567年 〜 1615年 日本
姜沆(きょうこう、カンハン) 1567年 〜 1618年 東アジア
伊達政宗 1567年 〜 1636年 日本
豊臣秀次 1568年 〜 1595年 日本
黒田長政 1568年 〜 1623年 日本
淀殿 1569年 〜 1615年 日本
金地院崇伝 1569年 〜 1633年 日本
末吉孫左衛門 1570年 〜 1617年 日本
常高院(初) 1570年 〜 1633年 日本
松永貞徳 1571年 〜 1653年 日本
アッバース1世 1571年 〜 1629年 地中海、西アジア
柳生宗矩 1571年 〜 1646年 日本
支倉常長 1571年 〜 1622年 日本
宇喜多秀家 1572年 〜 1655年 日本
沢庵 1573年 〜 1645年 日本
崇源院(江) 1573年 〜 1626年 日本
島津家久 1574年 〜 1638年 日本
ルーベンス 1577年 〜 1640年 ヨーロッパ
徳川秀忠 1579年 〜 1632年 日本
小早川秀秋 1582年 〜 1602年 日本
ヴァレンシュタイン(ワレンシュタイン) 1583年 〜 1634年 ヨーロッパ
グロティウス 1583年 〜 1645年 ヨーロッパ
林羅山(林道春) 1583年 〜 1657年 日本
宮本武蔵 1584年 〜 1645年 日本
リシュリュー 1585年 〜 1642年 ヨーロッパ
ホッブズ 1588年 〜 1679年 ヨーロッパ
山田長政 1590年 〜 1630年 南アジア、東南アジア
シャー・ジャハーン 1592年 〜 1666年 南アジア、東南アジア
ホンタイジ(清の太宗) 1592年 〜 1643年 東アジア
豊臣秀頼 1593年 〜 1615年 日本
グスタフ・アドルフ 1594年 〜 1632年 ヨーロッパ
後水尾天皇 1596年 〜 1680年 日本
デカルト 1596年 〜 1650年 ヨーロッパ
酒井田柿右衛門 1596年 〜 1666年 日本
ミハイル・ロマノフ 1596年 〜 1645年 ロシア
谷時中 1598年 〜 1649年 日本
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表: 「豊臣秀吉」と同時代の出来事

法華一揆 1532年 日本
鶴岡八幡宮の造営始まる 1532年 日本
武田信虎の嫡男、武田太郎(武田信玄)、扇谷上杉朝興の娘を娶る 1533年 日本
ピサロ、インカ帝国を滅ぼす 1533年 中南米
イエズス会、結成 1534年 ヨーロッパ
ヘンリ8世、首長法を発布(イギリス国教会成立) 1534年 ヨーロッパ
スレイマン1世、仏にカピチュレーションを認める 1535年 地中海、西アジア
北条氏綱、今川氏輝の要請で、武田信虎勢と甲斐の郡内山中で戦う 1535年 日本
長尾為景、長男の長尾晴景に家督を譲る 1536年 日本
(武田信玄)元服し、武田晴信と名乗る 1536年 日本
駿河守護の今川氏輝死去。今川氏で内乱が勃発し(花倉の乱)で、今川義元が勝者になる 1536年 日本
天文法華の乱 1536年 日本
伊達稙宗、『塵芥集』を定める 1536年 日本
扇谷上杉朝興死去。家督は朝定が継ぐ 1537年 日本
河東一乱 1537年 日本
武田信虎の娘が今川義元に嫁ぎ、甲駿同盟が成立 1537年 日本
7月、北条氏綱、扇谷上杉氏の本拠、河越城を奪う 1537年 日本
プレヴェザの海戦 1538年 地中海、西アジア
北条氏綱、松戸台で小弓公方の足利義明勢と戦う(第1次国府台合戦) 1538年 日本
北条氏綱、娘を古河公方、足利晴氏の正室とする。その結果、北条氏は足利家の「ご一家」となる 1539年 日本
鶴岡八幡宮の正殿遷宮(落成式)が行われる 1540年 日本
北条氏綱、死去 1541年 日本
武田晴信(のちの信玄)、父の信虎を駿河に追放し、家督を手に入れる 1541年 日本
カルヴァン、ジュネーブ(スイス)で宗教改革(神政政治)をはじめる 1541年 ヨーロッパ
斎藤利政(道三)、美濃を押領する 1542年 日本
生野銀山、発見 1542年 日本
鉄砲伝来 1543年 日本
ポトシ銀山、発見 1545年 中南米
トリエント公会議 1545年 〜 1563年 ヨーロッパ
シュマルカルデン戦争 1546年 〜 1547年 ヨーロッパ
北条氏康、河越夜戦で、古河公方(足利晴氏)、山内上杉氏(上杉憲政)、扇谷上杉氏(上杉朝定)連合軍を撃破 1546年 日本
松平広忠、今川義元に息子の竹千代(徳川家康)を人質に送ったが、途中で織田信秀に奪われる 1547年 日本
(武田信玄)「甲州法度之次第」を定める 1547年 日本
織田信秀、美濃の斎藤道三を攻めるも大敗(加納口の戦い) 1547年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、兄の長尾晴景から家督を受け継ぎ、越後守護代となる 1548年 日本
小豆坂の戦いで、今川義元、織田信秀を破る 1548年 日本
上田原の戦い 1548年 日本
塩尻峠の戦い 1548年 日本
今川義元、安祥城を落とし、城主、織田信広(織田信秀の子)を捕らえ、竹千代(徳川家康)と交換する 1549年 日本
織田信長、斎藤道三の娘(濃姫)を室に迎える 1549年 日本
細川晴元、江口の戦いで三好長慶に大敗 1549年 日本
フランシスコ・ザビエル、来日 1549年 日本
戸石崩れ 1550年 日本
陶晴賢、大内義隆を滅ぼす 1551年 日本
織田信長、父(織田信秀)の死により、家督を継承 1551年 日本
北条氏康、甥の足利義氏を古河公方に擁立 1552年 日本
山内上杉憲政、長尾景虎を頼って、越後に落ちる 1552年 日本
第1回川中島の戦い 1553年 日本
甲相駿三国同盟、成立 1554年 〜 1569年 日本
前古河公方、足利晴氏が挙兵するが、北条氏康に敗れて捕らえられ、相模の波多野に幽閉される 1554年 日本
厳島の戦い 1555年 日本
第2回川中島の戦い 1555年 日本
アウグスブルクの和議 1555年 ヨーロッパ
斎藤道三、息子の斎藤義龍に討たれる(長良川の戦い) 1556年 日本
アクバル、即位 1556年 〜 1605年 南アジア、東南アジア
フェリペ2世、即位 1556年 〜 1598年 ヨーロッパ
長尾景虎(上杉謙信)、出家するため高野山へ向かう 1556年 日本
第3回川中島の戦い 1557年 日本
統一法、制定される(英) 1559年 ヨーロッパ
北条氏康、永禄2年(1559年)頃には上野を勢力下におさめる 1559年 日本
北条氏康、家督を嫡子、北条氏政に譲る。しかし、この後も、氏康が軍政を手動する。 1559年 日本
長尾景虎(上杉謙信)、二度目の上洛。将軍、足利義輝から関東管領任命の内示を受ける 1559年 日本
武田晴信、信玄と号す 1559年 日本
長宗我部元親、家督相続 1560年 日本
桶狭間の戦い 1560年 日本
上杉謙信(長尾景虎)、関東管領となる 1561年 日本
上杉謙信、関東に侵攻し、小田原城を攻める 1561年 日本
第4回川中島の戦い 1561年 日本
ユグノー戦争 1562年 〜 1598年 ヨーロッパ
武田・北条連合軍、上杉謙信方の松山城を攻略する 1563年 日本
アクバル、ジズヤを廃止 1564年 南アジア、東南アジア
三好長慶、死去 1564年 日本
第5回川中島の戦い 1564年 日本
13代将軍、足利義輝、殺害される 1565年 日本
武田信玄、箕輪城を落とし、西上野を掌握 1566年 日本
織田信長、美濃攻略 1567年 日本
武田義信(信玄嫡男)、死去(自刃か) 1567年 日本
武田信玄、駿河侵攻はじめる 1568年 日本
織田信長、足利義昭を奉じて、京都に入る 1568年 日本
オランダ独立戦争 1568年 〜 1609年 ヨーロッパ
武田信玄、小田原城包囲 1569年 日本
三増峠の戦い 1569年 日本
姉川の戦い 1570年 日本
石山戦争(石山合戦) 1570年 〜 1580年 日本
比叡山焼き討ち 1571年 日本
スペイン、マニラ建設 1571年 南アジア、東南アジア
レパント海戦 1571年 地中海、西アジア
北条氏康、死去 1571年 日本
三方原の戦い 1572年 日本
サン・バルテルミの虐殺 1572年 ヨーロッパ
張居正の改革 1572年 〜 1582年 東アジア
浅井氏滅亡 1573年 日本
羽柴秀吉(豊臣秀吉)、近江に長浜城を築城 1573年 日本
織田信長、15代将軍 足利義昭を追放し、室町幕府滅亡 1573年 日本
武田信玄、信濃の駒場で没す 1573年 日本
織田信長、長島一向一揆を鎮圧 1574年 日本
長篠の戦い 1575年 日本
織田信長、越前一向一揆を鎮圧 1575年 日本
長宗我部元親、土佐統一 1575年 日本
織田信長、安土城を築城 1576年 〜 1579年 日本
織田水軍、毛利水軍に敗れる(第一次木津川口の海戦) 1576年 日本
荒木村重(摂津)、織田信長に謀反 1578年 〜 1579年 日本
織田水軍、大砲を搭載した大型船で毛利水軍を破る(第二次木津川口の海戦) 1578年 日本
ユトレヒト同盟 1579年 ヨーロッパ
織田信雄(織田信長の次男)、伊賀に侵攻(第一次天正伊賀の乱) 1579年 日本
安土宗論 1579年 日本
秀吉、織田信長から生野銀山を与えられる 1580年 日本
スペイン(フェリペ2世)、ポルトガル王国を併合 1580年 〜 1640年 ヨーロッパ
顕如、石山本願寺から退去(石山戦争、おわる) 1580年 日本
オランダ、独立宣言 1581年 ヨーロッパ
第二次天正伊賀の乱 1581年 日本
京都御馬揃え 1581年 日本
織田信長、武田氏(武田勝頼)を滅ぼす 1582年 日本
本能寺の変 1582年 日本
山崎の戦い 1582年 日本
太閤検地 1582年 〜 1598年 日本
天正少年使節、派遣される 1582年 〜 1590年 日本
賎ヶ嶽の戦い 1583年 日本
豊臣秀吉、大坂城を築城 1583年 〜 1585年 日本
羽柴秀吉(豊臣秀吉)、関白に就任 1584年 日本
小牧・長久手の戦い 1584年 日本
スペイン人、平戸に来航 1584年 日本
豊臣秀吉、紀伊平定(根来・雑賀一揆を平定) 1585年 日本
豊臣秀吉、九州に惣無事令を下す 1585年 日本
豊臣秀吉、四国平定 1585年 日本
秀吉、豊臣姓を賜り、太政大臣に就任 1586年 日本
豊臣秀吉、九州平定 1587年 日本
北野大茶会 1587年 日本
バテレン追放令 1587年 日本
豊臣秀吉、イエズス会領だった長崎を直轄地とする 1588年 日本
アルマダ海戦 1588年 ヨーロッパ
海賊取締令 1588年 日本
刀狩令 1588年 日本
アンリ4世、即位(ブルボン朝、はじまる) 1589年 〜 1830年 ヨーロッパ
豊臣秀吉、北条氏を降す(日本統一) 1590年 日本
徳川家康、江戸城に入城。以降、江戸城は徳川家の本拠地となる。 1590年 日本
人払令(身分統制令) 1591年 日本
千利休、切腹 1591年 日本
文禄・慶長の役 1592年 〜 1598年 日本
豊臣秀頼、誕生 1593年 日本
豊臣秀次、自害 1595年 日本
サン・フェリペ号事件 1596年 日本
李時珍『本草綱目』刊行 1596年 東アジア
26聖人殉教 1596年 日本
アッバース1世(サファヴィー朝)、首都をイスファハーンに移す 1597年 地中海、西アジア
豊臣秀吉、死去 1598年 日本
ナントの勅令(ナントの王令) 1598年 ヨーロッパ
前田利家、死去 1599年 日本
シェークスピア『ハムレット』を著す 1600年 〜 1601年 ヨーロッパ
ヤン・ヨーステンらが乗るリーフデ号(オランダ船)、豊後臼杵に漂着 1600年 日本
関ヶ原の戦い 1600年 日本
イギリス、東インド会社設立 1600年 ヨーロッパ
オランダ、東インド会社を設立 1602年 〜 1799年 ヨーロッパ
マテオ・リッチ『坤輿万国全図』を作成 1602年 東アジア
江戸幕府成立 1603年 日本
英、スチュワート朝の成立 1603年 〜 1714年 ヨーロッパ
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「豊臣秀吉」の関連ノート

【【2014/8/10放送分|軍師官兵衛】荒木村重再登場】<p>軍師官兵衛、あっという間に四国平定まで終わりましたね。</p>
<p><a>大河の年表</a>も更新しました。<br>石田三成、若いですね。まあ、関ヶ原の戦いの時で40歳なので、まあ当然といえば当然ですが。</p>
<div> </div>
<p>Twitterを見ていると、これでは黒田家のホームドラマではないかといっている人もいましたが、まあ、昨今の予算事情を反映して、集中と選択を進めているのかもしれませんね。本能寺の変や高松城の水攻めなどではかなりがんばっていたわけで。</p>
<p> さて、荒木村重が再登場して、得体の知れない雰囲気を醸し出していました。<br>村重カードの切り方が作品の出来を左右することもあるので、目が離せません。</p>
<p>また、織田信長亡き後、存在感を増してくるのが、千利休と茶の湯です。<br>豊臣秀吉の金ピカ世界と利休の侘び世界が併存するという奇妙な時代が来ます。 </p>
<p>秀吉政権になって、積年の仇同士が同じ陣営に入り、そこにいろいろな確執が生じるわけですが、その辺もどう表現されるかされないのか、注目したいところです。</p>

【2014/8/10放送分|軍師官兵衛】荒木村重再登場

作成日:2014/8/11 , by rekius 開く

軍師官兵衛 荒木村重 千利休

【堺の小西行長屋敷跡】<p>堺の小西行長屋敷跡は紀州街道に面していて、現在は路面電車が通っている。</p>
<p>小西行長の父は堺の豪商だったという。小西行長は豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名で、秀吉の天下統一戦や朝鮮戦役などに参加した。関ヶ原の戦いでは石田三成に味方したが、敗れて、京都の六条河原で斬首された。</p>

堺の小西行長屋敷跡

作成日:2014/7/19 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

小西行長 堺 大阪府 堺市

【淀古城跡の石碑がある妙教寺】<p>豊臣秀吉の側室、淀殿が鶴松を出産したという淀古城。<br>その石碑が妙教寺境内にある。</p>
<p>時代は下って、幕末の鳥羽・伏見の戦いの際には、この付近は激戦地となり、妙教寺本堂にも砲弾が飛んできて、本堂丸柱に当たって、貫通したそうだ。</p>
<p>やや見づらいが、石碑の左側に「戊辰役砲弾貫通跡」と書いてある。</p>

淀古城跡の石碑がある妙教寺

作成日:2014/7/8 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

淀古城 鳥羽・伏見の戦い 淀殿 淀川の城 京都府 京都市

【淀城北側から天王山(山崎)方面を撮影】<p>淀城北側の宮前橋から天王山方面を撮影。淀川の位置関係から中央の山のどちらかが天王山と思われる。<br>本能寺の変(1582年)の後、羽柴秀吉が中国大返しで京に戻ってきて、明智光秀と戦ったのが山崎の戦い。</p>
<p>秀吉の本陣は天王山の宝積寺に本陣を置いたので、当時、ここから眺めていれば、天王山の山麓の戦いが見えていたかもしれない。</p>

淀城北側から天王山(山崎)方面を撮影

作成日:2014/7/8 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

山崎の戦い 淀城 山崎の戦いゆかりの地 淀川の城 京都府 京都市

【【動画】山中城・岱崎出丸の畝堀を撮影(2013/11/20|27秒)】<p>岱崎出丸の畝堀の下が箱根旧街道なので、小田原戦役の際、豊臣秀吉勢の渡辺勘兵衛らはこの畝堀を越えて岱崎出丸で取りついたことになる。</p>

【動画】山中城・岱崎出丸の畝堀を撮影(2013/11/20|27秒)

作成日:2014/6/28 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

動画 城

【小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー】<h2>今回の歴史サイクリングの要約</h2>
<p>2010年9月26日、私は小田原城周辺で歴史サイクリングをしてきた。今回のテーマは、伊東潤 『疾き雲のごとく』の第4話「箱根山の守護神」関連の土地を巡ることである。 <br>この話は、北条早雲以前に小田原と御殿場付近に勢力を張っていた大森氏の興亡の物語で、早雲の立場から見ると、小田原城攻略戦であった。 <br>物語の舞台は箱根と小田原だが、箱根と小田原を1日で巡るのはきついので、今回は小田原周辺に絞った。</p>
<p>コースとしては、電車で国府津駅に行き、その後、自転車で、小田原城→岩原城→松田城→国府津駅という流れである。</p>
<h2>出発</h2>
<p>自宅を発して、小田原の東の入り口にあたる国府津駅まで電車で移動するため、東京駅に向かう。東京駅に着いたのは8時前だった。そして、東京駅から電車に乗ること約1時間15分程度で、国府津駅に到着した。 <br>駅の外で、折りたたみ自転車を組み立て、準備OKの状態になったのが9時半。これから小田原城に向かう。</p>
<h2>国道1号線を西へ</h2>
<p>国府津駅の南には、国道1号線が通っており、小田原城付近まで行くことができる。自転車で走り始めると、早速、ロードレーサーに乗った人たちがビュンビュン走っている。私はいつも通り、時速20km程度でトロトロ走っていく。 <br>さすがに自転車ライダーが多数走っているだけのことはあり、風光明媚なところで、左には相模湾、右手には丹沢山地の山々が連なり、正面には箱根の山が鎮座している。 <br>今回は単なるサイクリングであっても十分楽しめそうだ。</p>
<h2>酒匂川</h2>
<p>さて、国道1号線を西に向かって走っていると、小田原一の大河である酒匂川が見えてくる。 <br>いつも新幹線から見ている川だが、実際に見ると随分印象が違う。また、地図で見て想像していたよりも、川幅は広く感じた。 <br>当日の少し前に雨が降ったようで、川の水は随分濁っていた。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川。思ったより、河口部は広かった。</em>
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<h2>山王川</h2>
<p>しばらく進むと、山王川が流れている。 <br>北条氏は、豊臣秀吉による関東侵攻に備えて、小田原城を大拡張したが、その時の外郭の東端が山王川だった(西端が早川)。小田原城の外郭(総構(そうがまえ)ともいう)は約12kmにもなり、小田原の城下町をすっぽりと囲んでいた。</p>
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<em>2012年10月撮影 </em><br><em>小田原城外郭の東端を形成していた山王川。</em>
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<p>海がある土地に来たわけだから、やはり、砂浜に行こうということで、御幸が浜という小田原城の南にある浜に行き、相模湾を拝んできた。</p>
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<em>2012年10月</em><br><em>小田原城南にある御幸の浜。相模湾が広がる。</em>
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<h2>小田原城に到着</h2>
<p>その後、小田原城に行き、城内を見てまわることにした。 <br>城内に入ると、江戸時代の小田原城を再現するプロジェクトが進んでいるそうで、銅門(あかがねもん)や馬出門枡形などが復元されていた。さらに進んでいくと、本丸に着く。そして、本丸には立派な復興天守が建てられている(本丸の域内になぜか猿が飼育されていた。子供に人気があったので、猿たちは子供寄せ「パンダ」なのだろうか)。</p>
<p>天守閣の中に入ると、小田原城の歴史紹介や小田原ゆかりの展示品がなされており、なかなか見応えたがあった。そして、最上階は展望スペースになっており、四方を遠望できる。<br> 本当に眺めの良いところで、相模湾はむろんのこと、豊臣秀吉が築いた石垣山城のあった山も見ることができる。</p>
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<div><em>2012年2月撮影<br>小田原城の天守閣。天守閣の中は資料館になっていている。最上階は展望スペースになっており、よい眺めだった。</em></div>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから三浦半島をのぞむ。</em>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから丹沢山地方面をのぞむ。</em>
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<em>2010年9月 </em><br><em>北条早雲や早雲に敗れた大森氏時代の小田原城は、現在の小田原城の北にある八幡山古郭にあったと言われている。遅くとも、後北条氏3代当主の北条氏康の頃には、現在の小田原城にも城域が拡大されたという。そして、江戸時代になると、八幡山古郭のほうは放棄され、現在の小田原城が中心となった。 <br>なお、「箱根山の守護神」の中で出てくる「華岳城」というのが、八幡山古郭にあった小田原城を意味している。</em>
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<em>2010年9月 </em><br><em>小田原城の展望スペースから石垣山一夜城があった石垣山をのぞむ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東に侵攻し、小田原城を包囲した、その時に、秀吉が築城したのが石垣山一夜城である。 <br>築城が終わり、石垣山一夜城を隠す木々を切ったため、小田原城から見ると、一夜で城ができたように見えた。ゆえに、石垣山「一夜城」と言われているそうだ。</em>
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<p>天守閣から降りてくると、12時半前になっていたので、昼食をとることにした。 <br>今回も「EveryTrail」(*)を使っているため、iPhone4の電池の消耗が激しい。昼食をとりながら充電しようと思い、バッグの中をさぐってみると、「あれ、携帯式充電池がない!」「これはしたり」、忘れてきたのだった。 <br>その時点で、電池残量は50%程度だったので、これは厳しいなと思いながら、何とか節電することで切り抜けようと決意した。 <br>この後、「EveryTrail」の記録が途切れ途切れになっているのは節電努力の跡である。多少、見づらいかもしれないが、勘弁してください。</p>
<p>昼食をとった後、小田原城の北側に向かった。というのは、現在の小田原城は、徳川時代の小田原城の位置にあり、今回のテーマである大森氏時代の小田原城はもう少し北にある丘陵にあったと言われているためだ。実際にその丘陵に登ってみると、小田原城のある地点よりも高所だということが分かる。 <br>伊東さんの本の「箱根山の守護神」で出てくる「華岳城」というのはこの辺りにあった城を意味している。<br><br>(*)iPhoneの地図アプリ。2010年当時使っていた。</p>
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<em>2013年1月撮影 </em><br><em>八幡山古郭東曲輪から小田原城をのぞむ。八幡山古郭の中でも、中心部はもう少し北側の高地にある。それでも、小田原城よりも、この曲輪のほうが高いところにある。</em>
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<p>華岳城のさらに北西に行くと、小峯御鐘ノ台に至る。 ここには、北条氏末期に構築されたという大きな堀や曲輪がかなりよい状態で現存している。ただ、蚊がやたら多く、かつ、しつこくて閉口した。</p>
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<em>2010年9月 </em><br><em>八幡山古郭の北西にある御鐘ノ台の空堀。大規模な空堀であることが分かる。</em>
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<p>御鐘ノ台はなかなか興味深いところだった。 自転車をとめて、ぐるぐるめぐっている間に結構時間が経過していたようで、御鐘ノ台を出る頃には14時半になっていた。</p>
<h2>岩原城へ</h2>
<p>さて、次の目的地は岩原城である。 <br>岩原城は大森氏頼(寄栖庵)の隠居後の居城といわれ、舌状台地の上に築かれていた。 伊東さんの本の「箱根山の守護神」でも出てくる。この話の中で出てくる、寄栖庵の衣擦れの音が妙にリアルに感じた。</p>
<p>私は小田原城の御鐘ノ台を出て、東に向かった後、県道74号を北上した。 <br>所々、上り坂があったが、大したことはなかった。左側(西側)に台地を見つつ、順調に距離を伸ばした。 <br>30分ほど走ると、岩原城の近くに来たので、左折して、台地を登っていく。結構きつい坂で、自転車では登れないので、押して登る。 <br>台地の頂上に近づくにつれて、なぜここに城が築かれたのか分かるような気がした。足柄方面、秦野に通じる松田方面がよく見えるのである。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城から松田城方面(北東)をのぞむ。岩原城から松田方面を目視できるのが分かる。 <br>松田氏は、足柄方面から勢力を強めてくる大森氏に危機感を持っており、関係はよくなかった。やはり、対立勢力が目に見える範囲にいるというのは緊張感を高めたことだろう。のちに、松田氏は北条早雲を小田原に引き入れ、大森氏を討つことになる。</em>
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<h2>岩原城の地勢</h2>
<p>また、小田原城から自転車で30分なので、小田原城から遠くはない(小田原城は見えなかったが、小田原方面は一部見える)。したがって、これら三方面で何かあれば、この城から対応することも容易だと思った。であればこそ、寄栖庵は隠居後の所在地にこの城を選んだのかもしれない。 <br>さらに進むと、岩原城への道標があった。それを辿っていくと、思ったより簡単に岩原城址は見つかった。 城址は民家の奥にあった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>微高地の上にある岩原城。この微高地の周りは畑と崖だった。</em>
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<h2>「シロ」</h2>
<p>自転車をとめて、城址のほうへ歩いていくと、やや大型の白っぽい色の犬が激しく吠えてきた(ここでは仮にこの犬を「シロ」と呼んでおこう)。 <br>私はそれほど犬に恐怖心を持っていないので、多少、やかましいと思いながらもスルーできる。城址には岩原城の石碑と大森家のものと思われるお墓があった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城の標柱</em>
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<h2>城址としての遺構はないが</h2>
<p>城址にはまったくといってよいほど遺構が残っていなかったが、台地上から見える景色が雄弁にこの城の存在意義を語っているようにも思える。</p>
<p>岩原城の案内板を読んだり、写真を撮ったりしている間も、ずっとシロは吠え続けていた。これほどしつこく吠えられたのは、実蒔原古戦場を訪れたとき以来である。</p>
<p>それほど不審な振る舞いをしているわけではないのに吠えられるのは心外だったが、最後のほうはよくこれだけ吠えられるものだと感心した。</p>
<p>ただ、私が帰る頃になると、さすがに疲れてきたようで、当初の勢いはなかった。そして、私が城から離れると、シロはすぐに吠えるのをやめた。なぜかシロのホッとした気持ちと自分の仕事をやり遂げた自負心が伝わってきたような気がした。</p>
<h2>松田城へ</h2>
<p>さて、シロと別れて、これから松田城に向かうわけであるが、すでにこの時点でiPhoneの電池の残量が30%程度になっている。最後までもってくれるのか、気になりながらの出発だ。 <br>松田城は秦野方面から足柄平野(小田原の平野)に入る入り口にあり、在地勢力である松田氏が支配していた。早雲が相模に進出するときも当初から協力したため、その後、大変優遇された。「箱根山の守護神」では松田城は出て来ないが(*)が、小田原を北のほうから眺めるとどう見えるのか知りたかったので、行ってみることにした。</p>
<div><em>(*)第5話「稀なる人」のP.176に「その隣が松田左衛門」とあるが、この「松田左衛門」が松田城付近に勢力を持っていた松田氏のこと。</em></div>
<h2>紙の地図とiPhoneのGPS機能の使いわけるコツ</h2>
<p>松田城がある山は目視できるので(実際には地図と風景を照らし合わせて「あの辺だろう」と当たりをつけているに過ぎないが)、それをランドマークにしつつ、適当に走りやすい道を走る。 <br>やはり、iPhoneのGPS機能があると、ほぼ道に迷うということはないので、その点では大変便利だ。ただ、画面が小さいので、表示できる情報に限りがある。そのため、私は折りたたみ用の神奈川県の地図を買って、大体の地形や地名を頭に入れた上で、iPhoneの詳細情報を見ることにしている。 <br>そうすると、全体像を把握した上で、詳細情報を活用できる。</p>
<h2>松田城の入り口</h2>
<p>松田城に近づくにつれ、空気も景色もよくなってきます。酒匂川を越えると、ここが神奈川県であることを忘れてしまうほど、ゆったりした雰囲気になる。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川から北方面を撮影。</em><br><em>(おそらく視界には入っていないが)北西に松田城がある。</em>
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<p>いいところだなと思いながら、松田城の入り口を探す。 <br>しばらく走っていると、松田城の入り口を示す案内板を見つけたので、右折して、山を登っていく。 東名高速道路の上にかかっている橋を渡ると、松田城の入り口があった。城の入り口に入ると、一瞬唖然とした。</p>
<p>まるで、ジャングルである。人が来ていないのがよく分かる。松田城入り口に入らずに直進すると、舗装された道があり、これが迂回路になっていそうだったが、敢えて、このまま進むことにした。むろん、自転車は城の入り口の草むらの中に置いていく。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ジャングルのような松田城入り口。最初は迂回することを考えたが、この先がどうなっているのか知りたい誘惑に抗することはできなかった。</em>
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<p>入り口には、咬まれると何時間か動けなくなりそうなサイズのクモが巣くっていた。クモの巣を顔面に喰らうのは勘弁して欲しいので、細い木の棒を前方に振り回して進む。 <br>ただ、案外、ジャングルは入り口だけで、その後は普通の山道だった(クモの巣は所どころあったが)。おそらく、松田城を訪れた人はこの入り口を見て驚き、怯んで舗装された道を迂回する行動をとるのではないかと思う(そして、それが正解だとも思う)。</p>
<h2>松田城付近からの眺め</h2>
<p>松田城への道を登って、案内板のあるポイントに着くと、素晴らしい眺望が広がっていた。まさに、これが見たいがために、ここへ来たのである。 <br>私の勝手な推測だが、松田氏は、代々、秦野との交通と目の前にある酒匂川の河川の流れを押さえていたのではないだろうか。その様子が目に浮かぶ。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城から足柄平野を一望できるのが分かる。</em><br><em>足柄平野の右側が小田原、左側が国府津、中央に酒匂川が流れている。</em><br><em>松田城は秦野からの入り口を押さえる位置にあるので、ここが足柄平野の要地であったのだろう。</em>
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<h2>松田城のいま</h2>
<p>城域に入っていくと、中年の男性が草刈をしていた。お陰で歩きやすかった。 <br>かつての曲輪はみかん畑に変っていた。何だか懐かしい風景だった。城の遺構としては見るべきものはあまりなかったが、その眺めの良さを考えると来た甲斐があった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城の標柱</em>
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<h2>帰り道、雨が。。。</h2>
<p>松田城をあとにした時点で、16時半頃になっていた。 <br>小腹が空いたので、持参したバナナでも食べようかと思って、自転車を橋の上にあるちょっとしたスペースに寄せたとき、ポツリと雨が降ってきた。そして、時を同じくして周囲が急に暗くなってきた。</p>
<p>この日、小田原市の予報は夕方から雨だったので、ついに来るべきときが来たと思い、バナナを諦めて、自転車を漕ぎ始めた。目指すは本日の出発地点の国府津駅で、大体、距離は12km程度である。国府津駅まで戻れば、不完全ながら、足柄平野を一周したことになる。<br>だが、ドシャ降りの雨の中を走りたくないので、本降りになってきたら、御殿場線の最寄り駅に駆けこんで、電車で帰ることにする。 <br>なお、この時点で、iPhoneの電池残量は10%強しかなかったので、必要なときだけ、Google Mapsという地図ソフトで現在地を確認することにした。</p>
<h2>県道72号線を南下</h2>
<p>基本的には、距離的に最短であろう県道72号線を走ることにした。 <br>県道72号は足柄平野の東端を通っており、高地を走ることになる。ということは、坂がありそうだが、まあよかろうと思って走りはじめた。 <br>最初はポツリポツリの雨だったが、次第に強さを増し始めた。一時、電車を考えたが、そんなときに限って雨が緩やかになる。</p>
<p>上曽我辺りに来ると、結構、暗くなってきたので、ライトを点ける。<br>私の自転車はダイナモのライトなので、人力でライトが点灯する。したがって、上り坂ではライトを点けるための重みが加わる。上下を繰り返す道と強弱を繰り返す雨、そして、ダイナモライトの重みに閉口しながらも、下曽我まで来た。下曽我は曽我梅林で有名である。だが、残念ながら、この頃には夕闇が辺りを蔽って、梅の木のシルエットが見えるだけだった。</p>
<h2>滑りこみセーフか</h2>
<p>曽我梅林の辺りから国府津駅まで、あと3kmほどだ。 <br>あともう少しということで、雨の中を懸命に走った。そして、ついに国府津駅に着いた。</p>
<p>駅前で自転車をたたんで、国府津駅のホームで東京駅行きの電車を待つ。「やれやれ」と思いながら、コーンポタージュの缶ジュースを買って、イスに座って飲みはじめると(この日は結構寒かった)、ザーと雨が降ってきた。危ないところだった。</p>
<p>(終)</p>

小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

小田原城 疾き雲のごとく フィールドをゆく 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー 神奈川県 小田原市

【早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-】<h2>なぜ早雲か?</h2>
<p>戦国時代というと、人気があるのは武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉あたりでしょうか。こういった人気のある戦国武将を差し置いて、なぜ私は北条早雲という人物をテーマにしているのでしょうか。以下、理由を述べてみたいと思います。</p>
<h2>室町幕府の成立と相対的安定期</h2>
<p>有力守護大名の連合政権だった室町幕府は成立の当初からを弱体でしたが、曲がりながらにも権威と権力を持った室町幕府は正義を提供していました(ただし、足<br>利義満の時代から嘉吉の乱(嘉吉元年(1441年)、6代将軍、足利義教が赤松満祐に暗殺された事件)までは比較的安定していました。つまり、幕府が正し<br>いとすることが正しいということで世の中がそれなりに処理されていました。</p>
<h2>立ち腐れる室町幕府と織豊政権の成立</h2>
<p>しかし、室町体制が崩壊すると、何が正しいかは戦いによって決まる時代に入ってしまいました。その結果、自衛のため、弱者は有力者を頼り、有力者は最有力者を頼るという関係が各地で再構築され始めました。その権力の頂点が戦国大名です。<br><br><em>司馬さんは、早雲の生涯を通して、この辺りのプロセスをうまく書いています(参考図書を参照)。</em><br><br>そして、戦国大名同士、さらには戦国大名と宗教勢力の戦いがはじまり、最終的には織田信長の地盤を受け継いだ豊臣秀吉が、天正18年(1590年)に早雲の子孫である後北条氏を降して、全国を統一しました。</p>
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<p><em>2010年9月撮影</em><br><em>全国で最後まで豊臣秀吉と戦った後北条氏の本拠地、小田原城から見た石垣山の眺め。豊臣秀吉は石垣山に石垣山一夜城を築いた。</em></p>
<h2>戦国時代はいつからか?</h2>
<p>戦国時代のはじまりというのは、実はいろいろな解釈があって、これが定説という年は決まっていません。応仁の乱がはじまった1467年説、旧説では北条早雲の伊豆討ち入りの1491年説、近年では明応の政変の起こった1493年説が有力なところです。<br>私見では、弱体ながらも、室町幕府というのは、9代将軍、足利義尚までは存在していたと考えています。しかし、その後、細川政元による明応の政変(1493年)以降は、京都を押さえ、将軍を擁した有力戦国大名が実力で政権を立てるようになるため、その時点で足利将軍を中心とした室町幕府の実体は消滅したという考えています。いずれにしても、15世紀の後半には実体としての室町幕府は消滅し、戦国大名がしのぎを削る戦国時代に突入したと考えてよいと思います。<br>なお、1492年に、コロンブスが大西洋を渡ってカリブ海のサンサルバドル島に到達します。つまり、早雲が生きた時代に、西欧では大航海時代を迎えていま<br>した。</p>
<h2>室町体制の崩壊と秩序の再編</h2>
<p>戦国初期というのは、室町体制の崩壊と秩序の再編が激烈に行われた時期でした。この時期には、誰が最終的に全国を統一するか全く分からない状態でした。つまり、ちょっとした基盤があれば、誰にでもチャンスがあった時代でした。安芸の一国人に過ぎなかった毛利元就(北条早雲の約40年後出生)が一代で中国地方をほぼ統一したのはその代表例です。</p>
<h2>戦国初期の目まぐるしさ</h2>
<p>とにかく、戦国初期というのはいろいろな人物が出てきては消えていきます。系図と年表を広げながら、書籍や資料を読んでいかないと、すぐに訳が分からなくなります。当然、当時を生きた人は当事者なわけですから大変です。享徳3年(1454年)に享徳の乱がはじまり、全国に先駆けて戦国時代に突入した関東では、関東管領家の山内上杉氏や扇谷上杉氏といった守護大名の当主レベルでも、戦死した人物は少なからずいます。ですから、その下の階級のレベルの人になると、それはもう大変な状態だったでしょう。</p>
<h2>早雲は関東地生えの人ではなかった</h2>
<p>関東では、最終的に後北条氏が最有力勢力になりましたが、当初、早雲は関東に寸土も持っていない状態でした。ですから、太田道灌が謀殺された頃(文明18年(1486年))、彼の子孫が関東の主になるとは誰も考えることはできなかったでしょう。つまり、状況によっては、他の未来もいくらでもありえたのです。</p>
<h2>なぜ早雲を調べているのか</h2>
<p>武田信玄や織田信長の時期には次の天下人の有力者が見えてきており、戦国初期のようなカオス感はありません。このカオス感が戦国初期の魅力の1つです。<br><br>戦国初期のカオスの渦中にあって、当事者たちは何を思い、何を行って、どういう秩序を新たに作り上げていったのでしょうか。<br><br>その体現者の一人が北条早雲です。<br>また、早雲の主な活動範囲は、京ー駿河ー伊豆ー相模で、私自身の活動範囲に近いときています。<br>そのため、北条早雲をしかと調べたいと思ったわけです。<br><br>(終)<br><br></p>
<h2>参考図書: 北条早雲が主人公の歴史小説紹介</h2>
<h3>司馬遼太郎『箱根の坂』</h3>
<div>司馬さんの最晩年の歴史小説(初版は1984年。司馬さん、61歳の時)。全三巻。</div>
<p>魅力的なストーリーに匠に歌を織り交ぜ、あっという間に物語に引き込まれました。彼の作品の中でも屈指の作品だと思います。<br><br><a>新装版 箱根の坂(上) (講談社文庫)</a><br><a>新装版 箱根の坂(中) (講談社文庫)</a><br><a>新装版 箱根の坂(下) (講談社文庫)</a><br><br></p>
<h3>伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</h3>
<p>ただ、『箱根の坂』が出版されてから、既に一世代経つなかで、新学説が出てきています。新説に対応した作品が伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』です。<br> この作品は主人公からその時代を見るという伝統的な手法と違い、早雲に関わった人から早雲を見るという視点で書かれています。6つの短編小説から成り、各短編小説はそれ自体で完結しています。<br><br> 短編小説の各主人公はそれぞれの人生の中で、早雲(宗瑞)という人にあって、重大な影響を受けます(多くは、悲劇的な結果となる)。<br> 数ある早雲を主人公とする歴史小説の中でも異彩を放つ作品です。<br><br><a>疾き雲のごとく (講談社文庫)</a><br><br></p>
<h3>伊東潤『黎明に起つ』</h3>
<p>伊東さんの長編小説です。<br>早雲と北条氏の民政重視の政治は有名ですが、本書では、どういう背景・経験を通じて、早雲が民政重視の思想を持つに至り、実践していったかが強烈に意識されて、書かれています。<br><br> 早雲も生まれてすぐに民政重視の政治をしようと思ったわけではないでしょう。幼少の頃より、応仁の乱をはじめとする乱世に揉まれ、その中で思想を確立し、統治システムを練り上げていったわけです。<br> その早雲の軌跡が、見所です。<br><br><a>黎明に起つ</a><br><br></p>

早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-

作成日:2014/6/13 , by fuji3zpg 開く

フィールドをゆく 北条早雲 室町から戦国時代への動きと北条早雲の生涯ーフィールドをゆく(1)ー

【堺】堺の土居川。<br>名前の通り、かつて堺の西側の堀だった。<br><br>堺のHP http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/doro/doboku/kasensuiro/suikankyo/watashitachikawa.html にあるように、きれいとは言えない水質だった。<br><br>が、かつては千利休や今井宗久などの茶人や豊臣秀吉・小西行長などの武将もこの辺を通ったのではないか。そういえば、「軍師官兵衛」にも堺が少し出てきていましたね。<br><br>なお、上記HPによると、豊臣秀吉が堀を埋め、徳川期に再度、堀が掘られたが、以前よりも外側に掘られたとのこと。

作成日:2014/6/8 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

堺の茶人の屋敷跡をめぐる 大阪府 堺市

【【清洲城】新幹線から清州城を撮影。】新幹線から撮影した清州城の模擬天守。

関ヶ原の戦いの当時、清洲城には30万石ともいわれる大量の兵糧が蓄えられていた。もちろん、これは豊臣秀吉が徳川家康からの攻撃を想定してのことだろう。

清洲城主は福島正則で、秀吉に取り立てられた武将である。他にも、掛川城に同じく秀吉恩顧の山内一豊を置くなど、秀吉は秀吉恩顧の武将たちで東海道沿いを固めていた。

しかし、これら秀吉恩顧の武将たちは、石田三成が挙兵すると、徳川家康に味方してしまう(小山評定)。
それは小山評定で、福島正則が家康に従うことを明言したことで、この流れが作られたと言われている。

確かに関ヶ原の戦いでは、清洲城は戦場にならなかったが、戦場が関ヶ原となった大きな理由の一つが、清洲城(福島正則)を徳川家康が取り込んだことにあった。

【清洲城】新幹線から清州城を撮影。

作成日:2014/5/26 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

関ヶ原の戦い 城 福島正則 関ヶ原の戦いー小山評定ー 愛知県 清須市

【石垣山一夜城】本丸展望台から小田原城方面を撮影。<br>やや分かりにくいが、小田原城天守が写真中央の緑の左側に建っているのが見える。<br><br>小田原戦役の際、豊臣秀吉、石田三成、黒田官兵衛らも、ここから小田原城を眺めたのではなかろうか。

作成日:2013/12/16 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

同じ場所から倍率を変えて撮影してみた(石垣山一夜城の本丸展望台) 神奈川県 小田原市

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