西暦: 1147年 〜 1199年

地域: 日本

源頼朝

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関連する歴史年表: 承久の乱と北条政子を中心にした人物・出来事年表承久の乱から蒙古襲来に向けての動きモンゴル帝国の拡大源平合戦


グラフと表の条件設定
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グラフ: 「源頼朝」と同時代の人物

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グラフ: 「源頼朝」と同時代の出来事

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表: 「源頼朝」と同時代の人物

秦檜 1090年 〜 1155年 東アジア
源為義 1096年 〜 1156年 日本
平忠盛 1096年 〜 1153年 日本
藤原忠通 1097年 〜 1164年 日本
欽宗 1100年 〜 1161年 東アジア
鳥羽天皇(上皇) 1103年 〜 1156年 日本
藤原通憲(信西) 1106年 〜 1159年 日本
高宗(南宋) 1107年 〜 1187年 東アジア
王重陽 1113年 〜 1170年 東アジア
西行 1118年 〜 1190年 日本
平清盛 1118年 〜 1181年 日本
千葉常胤 1118年 〜 1201年 日本
崇徳天皇(上皇) 1119年 〜 1164年 日本
藤原頼長 1120年 〜 1156年 日本
重源 1121年 〜 1206年 日本
藤原秀衡 1122年 〜 1187年 日本
源義朝 1123年 〜 1160年 日本
イブン・ルシュド(アヴェロエス) 1126年 〜 1198年 地中海、西アジア
三浦義澄 1127年 〜 1200年 日本
後白河天皇(後白河法皇) 1127年 〜 1192年 日本
武田信義 1128年 〜 1186年 日本
朱熹(朱子) 1130年 〜 1200年 東アジア
法然 1133年 〜 1212年 日本
ヘンリ2世 1133年 〜 1189年 ヨーロッパ
藤原信頼 1133年 〜 1159年 日本
平重盛 1138年 〜 1179年 日本
サラディン(サラーフ・アッディーン) 1138年 〜 1193年 地中海、西アジア
藤原成親 1138年 〜 1177年 日本
北条時政 1138年 〜 1215年 日本
源為朝 1139年 〜 1170年 日本
三善康信 1140年 〜 1221年 日本
源義平 1141年 〜 1160年 日本
栄西 1141年 〜 1215年 日本
藤原隆信 1142年 〜 1205年 日本
二条天皇 1143年 〜 1165年 日本
和田義盛 1147年 〜 1213年 日本
平宗盛 1147年 〜 1185年 日本
源頼朝 1147年 〜 1199年 日本
大江広元 1148年 〜 1225年 日本
九条兼実 1149年 〜 1207年 日本
以仁王 1151年 〜 1180年 日本
木曽義仲(源義仲) 1154年 〜 1184年 日本
慈円 1155年 〜 1225年 日本
鴨長明 1155年 〜 1216年 日本
貞慶(解脱) 1155年 〜 1213年 日本
平徳子(建礼門院) 1155年 〜 1213年 日本
リチャード1世 1157年 〜 1199年 ヨーロッパ
北条政子 1157年 〜 1225年 日本
源義経 1159年 〜 1189年 日本
インノケンティウス3世 1160年 〜 1216年 ヨーロッパ
高倉天皇 1161年 〜 1181年 日本
藤原定家 1162年 〜 1241年 日本
チンギス・ハーン 1162年 〜 1227年 中央アジア、北アジア
北条義時 1163年 〜 1224年 日本
畠山重忠 1164年 〜 1205年 日本
フィリップ2世 1165年 〜 1223年 ヨーロッパ
ジョン王 1167年 〜 1216年 ヨーロッパ
ドミニコ(ドミニコ修道会の創始者) 1170年 〜 1221年 ヨーロッパ
明恵(高弁) 1173年 〜 1232年 日本
親鸞 1173年 〜 1262年 日本
北条時房 1175年 〜 1240年 日本
藤原信実 1176年 〜 1265年 日本
安徳天皇 1178年 〜 1185年 日本
後鳥羽天皇 1180年 〜 1239年 日本
フランチェスコ(フランチェスコ修道会の創始者) 1181年 〜 1226年 ヨーロッパ
プラノ・カルピニ 1182年 〜 1252年 ヨーロッパ
北条泰時 1183年 〜 1242年 日本
オゴタイ・ハーン 1186年 〜 1241年 東アジア
源実朝 1192年 〜 1219年 日本
土御門天皇(上皇) 1195年 〜 1231年 日本
順徳天皇(上皇) 1197年 〜 1242年 日本
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表: 「源頼朝」と同時代の出来事

南宋、成立 1127年 〜 1276年 東アジア
紹興の和議 1142年 東アジア
ポルトガル王国 1143年 〜 1910年 ヨーロッパ
第2回十字軍 1147年 〜 1149年 ヨーロッパ
ゴール朝、成立 1148年 〜 1215年 南アジア、東南アジア
プランタジネット朝 1154年 〜 1399年 ヨーロッパ
保元の乱 1156年 日本
平治の乱 1159年 日本
平清盛、太政大臣になる 1167年 日本
アイユーブ朝、成立 1169年 〜 1250年 地中海、西アジア
鹿ヶ谷の陰謀 1177年 日本
平清盛、福原へ遷都(同年11月、京都に都を戻す) 1180年 日本
治承・寿永の乱 1180年 〜 1185年 日本
侍所、設置(別当は和田義盛) 1180年 日本
富士川の戦い 1180年 日本
平重衡、南都焼打ち 1180年 日本
養和の飢饉 1181年 〜 1183年 日本
平清盛、死去 1181年 日本
寿永二年十月宣旨(源頼朝、後白河法皇から東国の支配権を承認される) 1183年 日本
倶利伽羅峠の戦い 1183年 日本
問注所、設置(執事は三善康信) 1184年 日本
公文所、設置(別当は大江広元) 1184年 日本
一の谷の戦い 1184年 日本
宇治川の戦い 1184年 日本
壇ノ浦の戦い 1185年 日本
源頼朝、守護・地頭を設置する 1185年 日本
屋島の戦い 1185年 日本
サラディン(アイユーブ朝)、イェルサレム奪還 1187年 地中海、西アジア
第3回十字軍 1189年 〜 1192年 地中海、西アジア
源頼朝、奥州を平定 1189年 日本
源頼朝、征夷大将軍になる 1192年 日本
教皇、インノケンティウス3世、即位 1198年 〜 1216年 ヨーロッパ
第4回十字軍 1202年 〜 1204年 ヨーロッパ
比企氏の乱 1203年 日本
源頼家、謀殺される 1204年 日本
第4回十字軍、コンスタンティノープルを陥落させ、ラテン帝国を建てる 1204年 〜 1261年 ヨーロッパ
北条時政、畠山重忠を滅ぼす 1205年 日本
藤原定家ら、『新古今和歌集』 1205年 日本
テムジン(チンギス・ハーン)、モンゴル統一 1206年 中央アジア、北アジア
モンゴル、金(王朝)と開戦 1211年 〜 1234年 東アジア
少年十字軍 1212年 ヨーロッパ
鴨長明、『方丈記』 1212年 日本
和田合戦 1213年 日本
英、大憲章(マグナカルタ)制定 1215年 ヨーロッパ
源実朝、暗殺される 1219年 日本
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「源頼朝」の関連ノート

【GPS+wifi付き一眼レフ Canon EOS 6D レビュー】<p>今年(2013年)5月に、Canonの一眼レフカメラ Canon EOS 6D を購入した。</p>
<p><a>Canon EOS 6D 公式サイト</a></p>
<p>購入から約5ヶ月経過し、このカメラで歴史系写真を中心に約5000枚程度撮影した。<br> 購入からざっくり振り返ってみたい。</p>
<p><a><img></a><br> <img></p>
<h2>一眼レフ前史: コンデジからiPhoneへ</h2>
<p>3年半ほど前に、歴史系写真を本格的に撮りはじめたが、その時に使ったのがPanasonicのデジカメ(コンパクトデジタルカメラ)だった。<br> 2年半ほど前に、iPhone4を入手し、デジカメとiPhoneで撮影していたが、iPhoneの使用比率が徐々に増え、昨年はiPhoneのみで撮影していた。</p>
<p>前 出のPanasonicデジカメには、GPS機能はついていなかった(当時はそういうものだった)ため、今となってはどこで撮影したのか分からない写真も 多い。また、wifi機能も付いていなかったので、写真の投稿は帰宅後ということになる。その点、iPhoneはGPS付きで、Twitter投稿も簡単 だったため、徐々にデジカメはiPhoneにその座を譲った。</p>
<p>どこで撮ったかという位置情報を記録しておかないと、時間の経過とともに忘れてしまう。特に、ブログを書きはじめてから、GPS機能は自分には必須だと思うようになった。</p>
<h2>iPhoneから一眼レフへ</h2>
<p>一眼レフの購入を決めるきっかけは、知人との打ち合わせだった。<br> 話の中で、美しい写真の重要性を認識した。</p>
<p>ちょうど仕事の合間だったこともあって、翌日じっくり検討し、GPS+wifi付き一眼レフ Canon EOS 6Dを買うことにした。翌々日、西新宿のヨドバシカメラへ行って、店員さんに相談・確認の上、Canon EOS 6Dを購入した。</p>
<h2>GPS+wifi付き一眼レフ Canon EOS 6D</h2>
<p>■ GPS(位置情報)<br> 一眼レフは、確かにiPhoneやデジカメ(コンパクトデジタルカメラ)を寄せつけないクオリティがある。<br> しかし、写真に位置情報を付けられないなら、自分は一眼レフカメラを買わなかっただろう。つまり、自分にとって重要なのは、位置情報を付けられる一眼レフがあるかどうかだった。</p>
<p>5ヶ月前に調べたところ、一眼レフでGPSとwifiが両方内蔵しているのは Canon EOS 6D だけだった。そのため、6Dに決めた。</p>
<p><a>外付けGPS</a>(「GPSレシーバー GP-E2 25,000円(ケース付き、税別)」らしい)も売っているが、大きな一眼レフがさらに大きくなり、動きながら撮影する自分のスタイルには合わないと判断した。</p>
<p>ただ、残念ながら、6Dの内蔵GPSでは方位までは取得できない。<br> この点、iPhoneの方が優っている。</p>
<p>なお、6Dの内蔵GPSの精度は、実感としてはiPhone5と変わらない。</p>
<p>■ wifi<br> 6Dにはwifiも内蔵されているため、一眼レフで撮影したあと、iPhoneに写真を移し、即座に共有できる。</p>
<p>* 6DからiPhoneに写真を移すには、iPhoneに”<a>EOS Remote</a>”というアプリをインストールし、iPhoneから6Dのwifiに接続する操作を行う。</p>
<p>こ の点も重要で、写真の中には即座に Twitter/Facebook/Instagram などで共有したいものもある。6DからiPhoneにwifiで移した写真は、GPSなどをはじめ、ほとんどの付加情報が欠落してしまうのが欠点だが、即 座に共有する写真は、目的が記録ではなく、コミュニケーションなので、気にしていない。また、<a>Instagram</a>のように、SNSの方で位置情報を付けられるサービスもある。</p>
<h2>Canon EOS 6Dの難点</h2>
<p>1.Canon EOS 6Dというよりも一般的に、一眼レフは重い。6Dは5D MarkⅢなどよりは軽いが、iPhoneやデジカメと比べると、ズッシリくる重さ(約1.4kg)だ。最近、筋力が付いてきたのかマシにはなったが、機 動力が2割程度は落ちるイメージである(6Dを持って、歴史めぐりすることを別名「一眼筋トレ」と呼んでいる。。親しみを込めて)。<br> 2.一眼レフは大きいため、自転車との相性もいいとは言えない。どうしても、カメラ用バッグが1つ増えてしまう。また、撮影対象を見つけてから、カメラ バッグからカメラを取り出して撮影となるので、特に移動中はiPhoneやコンデジよりも撮影するまでのスピードが劣る。</p>
<p>それでもなお、自分が6Dを使っているのは、位置情報付きのハイクオリティ写真を撮れるためだ。<br> 6Dでうまく撮れた時の感動は大きい。</p>
<h2>Canon EOS 6Dで撮影した写真</h2>
<p>以下、6Dで撮影した写真である。<br> ご参考までに。</p>
<div>写真をクリックすると、リンク先のページにマップがあり、撮影位置が分かります。</div>
<p>■ 石碑<br> ・鎌倉の十二所にある大江広元邸跡(2013年9月1日)<br> <a><img></a></p>
<p>■ 建物・櫓<br> ・二条城本丸にある御書院の玄関車寄(2013年9月25日)<br><a><img></a></p>
<p>■ 石垣<br> ・雲海で有名な竹田城: 南二の丸から本丸の石垣を見上げる(2013年9月21日)<br> <a><img></a></p>
<p>■ イベント<br> ・新井城の笠懸「道寸祭り」(1)(2013年5月26日)<br> <a><img></a></p>
<p>・新井城の笠懸「道寸祭り」(2): この射手は女性で、男性射手の重厚さと比べて、優美さを感じる。(2013年5月26日)<br> <a><img></a></p>
<p>■ 風景<br> ・竹田城: 竹田城北西の藤和峠より撮影(2013年9月21日)<br><a><img></a></p>
<p>■ 料理<br> ・川越城サイクリングを終えて、イタリアンで締めた時の写真(2013年5月19日)<br><a><img></a></p>
<p>■ ネコ<br> ・浄妙寺の五輪塔で寝ていたネコ<br><a><img></a></p>
<h2>Canon EOS 6Dとコンデジ(Canon PowerShot SX280HS)の写真を比較</h2>
<p>■ 鎌倉 亀ヶ谷切通しの地蔵菩薩をSX280HSと一眼レフで撮り比べてみた。<br> なお、亀ヶ谷切通しは山ノ内と扇ヶ谷を結ぶ亀ヶ谷切通し。切通しとは、鎌倉を出入りする細い通路で、鎌倉の治安維持・防衛の役割も果たした。</p>
<p>・コンデジ(Canon PowerShot SX280HS)で撮った写真<br> <a><img></a></p>
<p>・Canon EOS 6Dで撮った写真<br><a><img></a></p>
<p>両者は、同じ日・ほぼ同じ時間・アングルで撮影した。<br> やはり、一眼レフの方が鮮明ではないだろうか。</p>
<p>*なお、このコンデジ(<a>Canon PowerShot SX280HS</a>)は、6Dとほぼ同じ時期(2013年6月)に6Dのサブ機として買った。</p>
<p>(終)</p>

GPS+wifi付き一眼レフ Canon EOS 6D レビュー

作成日:2014/6/27 , by fuji3zpg 開く

EOS-6D 一眼レフカメラ カメラーフィールドをゆく(6)ー

【狩野城の月見曲輪】<h2>修善寺の要地、柏久保城</h2>
<p>その日、三島駅から修善寺駅へ行き、修善寺駅から柏久保城を訪問した。</p>
<p>明応2年(1493年)北条早雲は伊豆討ち入り、堀越公方・足利茶々丸のいる堀越御所を落とした。南下する早雲勢は、中伊豆の狩野勢と激突した。狩野氏は平安以来、中伊豆に蟠踞する勢力で、茶々丸に味方した。両者の衝突点が、現在の修善寺駅の東側の山城・柏久保城である。</p>
<p>柏久保城を狩野川沿いに南下すると、狩野城に至り、大見川沿いに東に行くと、大見城に至る。つまり、柏久保城は、2つの川の接結点にある要地だった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>北条早雲の伊豆討ち入り後の中伊豆勢力図マップ(1493-98年)。青色の城が早雲与党の城で、赤色の城が茶々丸与党の城である。</em></div>
<p><br>早雲は柏久保城・北側の急斜面を襲って、この城を落としたらしい。<br> 柏久保城の北側には、「新九郎谷」の石碑が建っている。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>二の郭から主郭方面を撮影。お堂辺りから主郭。当時、北条早雲に敵対していた狩野氏の本拠地、狩野城が南方にあったため、南側(左側)の土塁がある。</em></p>
<p>なお、大見城の大見三人衆は、早雲に味方した。大見三人衆は、狩野勢に攻められている柏久保城を後詰し、狩野勢を撃退したとのこと。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>狩野川が北流し、右手にクッキリ富士山が見える。ここからすぐ上流(左手前方面)で、大見川が狩野川に合流している。</em></p>
<h2>狩野城へ向う</h2>
<p>その日の予定では、柏久保城の次は、狩野城に行く予定だった。<br> 柏久保城は、富士山が見え、遺構もよく残っていて、想像以上によい山城だったため、予定よりも長居してしまった。</p>
<p>もう正午なので、途中で、どこかの店に入り昼食をとろることにした。</p>
<h2>向かい風</h2>
<p>もう11月も下旬だというのに、この日は強い南風が吹いている。しかも、南の天城山が高地で、北の三島が低地のため、ずっと緩い坂道が続く。<br> 分かっていたことなので、頑張って自転車を漕ぐ。</p>
<p>しばらくすると、後ろに自転車の気配がする。<br> 振り向くと、白髪の男性がサイクリングウェアでマウンテンバイクで走っていた。<br> よくあることなので、特に気にはしない。</p>
<p>南風がきつい。ちょっとした坂がはじまり、スピードが落ちる。<br> すると、後ろの男性が並走し、声をかけてきた。</p>
<p>「こんにちは。」<br> 「どうも、こんにちはー」</p>
<p>「どちらから来られたんですか?」<br> 「ええと、東京からです。」</p>
<p>「どちらへ行かれるんですか?」<br> 「狩野城です。」<br> 「私も同じ方向です。」</p>
<p>そんなことを話していると、坂がきつくなってきた。<br> 私は坂道に対して、ストイックな人間ではないので、あっさり自転車を降りた。<br> 男性も降りた。</p>
<p>坂を登ったところで、また乗って、一緒に狩野城に向うことになった。</p>
<h2>自転車で歴史談義</h2>
<p>風さえなければ、どうという距離ではなかったが、強い南風のために、話しながら、狩野城にノロノロ向う。<br> よく晴れた空に左右から山が迫る。風景があまり変わらないので、進んでいる感じはあまりしない。</p>
<p>話を聞くと、サイクリングウェアの男性は、大見城近くに住み、最近、伊豆の史跡をいろいろ周っているとのこと。</p>
<p>「なぜ狩野城に行こうと思ったんですか?」<br> 「北条早雲のことを調べているんです。さっきは、柏久保城に行ってきました。」<br> 「へえ、よく前は通るんですが、まだ登ったことはないんですよ。」<br> 「そうなんですかー」</p>
<p>「最近の研究では、北条早雲はすぐに伊豆を平定したわけではなく、5、6年かかったと言われています。ご存知のように、狩野城は狩野氏の本拠地で、北条早雲と は敵対関係にありました。狩野勢が柏久保城まで寄せてきたのを、大見三人衆が駆けつけて、狩野勢を撃退したそうですよ。」<br> 「はー、そうでしたか~」</p>
<p>とこんな感じで、いろいろと話をしていると、ついに狩野城まで来てしまった。<br> 腹が空いてきた。が、話が尽きない。</p>
<p>狩野城の北側の谷を通り、東側に出て、坂道を登った。</p>
<h2>狩野城の入り口</h2>
<p>「ここが狩野城の入り口です。」<br> 「あ、どうもいろいろご親切にありがとうございました。」</p>
<p>そういって、私は茂みに自転車を停めた。</p>
<p>すると、男性は<br> 「ええと、ここを登って行くと、私の別邸があるんですが、お茶でもいかがですか?そこからちょっと行くと、狩野の殿様が月見をしたという場所がありますよ。」</p>
<p>狩野の殿様が月見をした場所か、なかなか興味深い話である。<br> 狩野城を訪問したら、あとは帰るだけ。</p>
<p>「ええ、そうですか。うーん。。。」<br> 「じゃあ、お邪魔してよろしいですか」<br> 「どうぞどうぞ」<br> ということで、歩いて、男性の別邸にご案内頂いた。</p>
<p>西へ坂道を歩くこと10分弱で、別邸に到着。<br> 柿とコーヒーを頂きながら、早雲や狩野城の話、裾野の葛山氏の話などをした。柿では腹が満たされないので、非常用に買っておいた6個入りのレーズンパンを出して食べた。男性にも1つ差し上げた。<br> 時計を見ると、1時間半ほど経っていた。そろそろということで、月見の場所(月見山)に案内して頂くことになった。</p>
<h2>狩野城の月見曲輪</h2>
<p>別邸から歩くこと3分程度で、山道に入り、落ち葉をシャリシャリ踏みながら進む。</p>
<p>都合7分程度で月見曲輪に着いた。月見曲輪は、山城の痩せ尾根を平場にした感じで、北側に突き出ていた。しかし、北側は木々が茂っていて、見通しはほとんどきかない。ここで月見をしたとすると、南側を正面に幕を張ったのだろうか。</p>
<p>伝承によると、狩野の殿様(狩野茂光)が源頼朝とここで月見をしたという。<br> 頼朝は狩野の殿様と何を語らったのだろうか。</p>
<p>月見曲輪の北西隅に「狩野介茂光公観月之跡」と刻まれた石碑があった。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>源頼朝が伊豆で挙兵した時に(1180年)、狩野茂光は頼朝に味方したが、石橋山の戦いで、平氏勢力に敗れて戦死した。</em></p>
<p>石碑の横に小さなお堂があるが、朽ちつつある。代々、このお堂を管理されていた家があったそうだ。<br> なぜ朽ちつつあるのか、伺った気がするが、忘れてしまった。</p>
<h2>再び、狩野城の入り口</h2>
<p>いろいろと親切にして頂いたサイクリングウェアの男性に狩野城の入り口まで送ってもらい、そこで別れた。</p>
<p>この男性と知り合うことがなければ、月見曲輪に行くことはなかっただろう。<br> そして、狩野の殿様と頼朝の月見を空想することもない。</p>
<p>一期一会の妙を噛み締めながら、私は狩野城に入っていった。</p>
<p>(終)</p>

狩野城の月見曲輪

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

狩野城 柏久保城 フィールドをゆく 北条早雲

【長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜】<h2>別の戦国時代をつくる可能性を持っていた男、長尾景春</h2>
<p>別の戦国時代を作る可能性を持っていた人物として、長尾景春がいる。一般には知られざるこの人物について、これから書いていきたい(*)。</p>
<p><em>(*)この記事の公開は2011年10月14日で、長尾景春が主役の歴史小説、伊東潤氏『叛鬼』はまだ出版されていなかった。伊東さんの著書によって、長尾景春はの知名度は以前よりも上がったと思う。</em></p>
<p>長尾景春は訳あって、主人の関東管領、山内上杉顕定を相手に謀反を起こし、主の顕定を窮地に陥れた。これが文明8年(1476年)からはじまる長尾景春の乱で、景春が30代前半の頃のことである。しかし、不運にも、彼の同時代には太田道灌がいた。</p>
<p>長尾景春は巧みな外交と調略を駆使して、戦略的優位を準備するものの、太田道灌との戦闘に敗れた。戦略的に勝っているからといって、自動的に最終的な勝利が得れれるというものではない。</p>
<p>長尾景春について述べる前に、同姓の越後守護代、長尾為景について見ていきたい。</p>
<h2>下克上を成功させた男、長尾為景</h2>
<p>永正4年(1507年)長尾為景は越後守護の上杉氏に下克上を起こして成功し、傀儡の越後守護を擁立することに成功した。そして、首尾よく傀儡越後守護も追放して、為景自身が越後の支配者となった。彼の息子の長尾景虎はその地盤を引き継ぎ、さらには、(北条早雲の孫、北条氏康に河越夜戦(1546年)で撃破され、その後、没落させられた)関東管領の山内上杉憲政から山内上杉氏の名と関東管領の職を受け継ぎ、「山内上杉」謙信となった。そして、謙信は武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国の雄たちと激しく争うことになる。</p>
<h2>「長尾景春の乱」の原因:景春、山内上杉氏の家宰職を継承できず</h2>
<p>社会的地位からいうと、長尾景春は越後守護代の長尾為景(上杉謙信の父)と似たところにいた。</p>
<p>長尾景春の祖父(白井長尾景仲)も父(白井長尾景信)も、主の山内上杉氏の家宰(執事)だった。文明5年(1473年)に、父の長尾景信が死去した。景春は、当然、自分がその地位を引き継げると思っていた。 <br>しかし、彼の家(白井長尾家)の勢力が主家を凌ぐのを恐れた若き当主、関東管領の山内上杉顕定が、景春の叔父を家宰に任命した(上杉顕定の懸念は、越後の長尾為景の例を見ても空想ではなかった)。 <br>景春にとって、この処置は認められるものではない。怒りなどの感情もあっただろうが、それより、家宰職には膨大な利権があり、家臣や同輩はそれを当てにしている。景春が利権を手放せば、人々は去っていき、景春の政治生命は致命的なダメージを受けることになる。 <br>景春は政治的な死を選んで隠遁するか、家宰職を認めさせるために主と戦うかの二者択一を迫られたのである。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月撮影 </em><br><em>白井城から榛名山をのぞむ。手前に流れる川が吾妻川。 </em><br><em>白井城は代々、山内上杉氏の家宰を務める白井長尾家の本拠地だった。当城は群馬県渋川市白井に位置する崖端城である。白井城の西側を吾妻川が東側を利根川が流れており、城の南側で合流しており、さらに三国街道がこの城の近くを通るため、上野と越後の交通の要衝でもある。 </em><br><em>かつての城域の大部分は、現在、畑だが、一曲輪を中心に遺構も残っている。</em>
</div>
<h2>景春、挙兵</h2>
<p>景春は関東の有力国人を多数味方につける一方、文明8年(1476年)頃、<a>鉢形城</a>を築城して拠点とした。また、当時、享徳の乱が継続中で、主家の山内上杉氏と古河公方は対立しており、主家と敵対している古河公方、足利成氏を味方につけ、着々と軍事的、外交的な策を駆使して、蜂起のときを待った。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年4月25日撮影 </em><br><em>鉢形城の北側からのアングル。写真中央の川が荒川。城の堅固さが偲ばれる。遺構の良好に残り、北条氏末期の鉢形城の様子がよく分かる。 </em><br><em>長尾景春が太田道灌(両上杉氏)との戦いに敗れ、この城を追われたあと、この城は山内上杉氏の武蔵支配の拠点となった。16世紀の半ばに、後北条氏が山内上杉氏に代わって、この地を支配するようになっても、鉢形城は重要拠点でありつづけた。景春の築城眼は的を得ていたようだ。</em>
</div>
<div> </div>
<p><a><img></a></p>
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<em>長尾景春の乱、概略絵地図 </em><br><em>当時の関東は、利根川を境に東が古河公方の勢力圏、西が両上杉氏の勢力圏だった(なお、当時の利根川の流路は現在と違い、関東を東西に分けていた)。古河公方勢と対戦中だった両上杉の前線拠点、五十子陣は背後から長尾景春に攻撃され、崩壊した。</em>
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<h2>景春の、そして、関東の運命を握る男、太田道灌</h2>
<p>景春にとって、最大の脅威は江戸を中心に勢力を持っている太田道灌だった。道灌は文武両道の名将で、足軽を組織して、強力な軍事力を養う一方、関東の大河の下流を押さえる江戸に堅固な江戸城を築き、大きな経済力も持っていた(道灌はその強力さ故に、10年後、道灌の主人、扇谷上杉定正に謀殺されることになる)。</p>
<p>ただ、道灌は主の扇谷上杉定正や定正の同盟者である山内上杉顕定との関係がうまくいっておらず、彼らの間に溝が広がりつつあった。景春にとって、道灌は敵にまわすと最大の脅威なので、この隙をついて、道灌を味方につけるか、それが無理ならせめて中立を維持させる必要があった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年2月撮影</em><br><em>江戸城に残る3つの櫓の1つ、富士見櫓。かつて太田道灌が築いた静勝軒の故地に江戸城の富士見櫓が建っているという。 静勝軒は道灌の軒号でもある。</em>
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<h2>景春、初戦に勝利。</h2>
<p>景春は道灌と両上杉首脳の不仲を好機として蜂起した。景春の基本戦略は五十子陣にいる両上杉首脳と道灌の連携を分断し、道灌を足止めする一方、両上杉の軍勢に打撃を与え、機を見て、主の山内上杉顕定と和睦し、政治目標を実現するというものだったと思う。家宰職を得ることが景春の政治的な目標なら、この戦略は的を得ているだろう。</p>
<p>初戦は上々で、文明9年(1477年)1月に主の顕定と扇谷上杉定正のいる五十子陣を襲って崩壊させた。顕定と定正は何とか利根川の北に逃げ延びた。これが「長尾景春の乱」の最初の戦いだった(この戦いは4年に及んだ)。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年4月撮影 </em><br><em>両上杉氏が古河公方との戦いのために築いた五十子陣跡。近辺は茫漠たる平野が広がる。 その重要な拠点を景春は崩壊させた。そのため、両上杉首脳は窮地に陥るが、太田道灌の活躍によって何とか生き延びた。</em>
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<h2>道灌、動く</h2>
<p>景春は山内上杉顕定との和睦の取次ぎを期待して、道灌に使者を送った。景春の政治的目標は山内上杉氏の家宰職の継承だったのだと思う。そうでなければ、顕定勢の撃滅を目指していたはずだ。 <br>景春の意図はどうであれ、結局、道灌による和睦斡旋は失敗した。すると、道灌は景春を討つべく、江戸城から北上してきた。</p>
<p>道灌は江戸城と河越城の連絡線を遮断している練馬城・石神井城の豊島氏を江古田・沼袋の戦いで撃破した。この戦いによる勝利で江戸城・河越城のラインを確保した道灌はさらに北上を続けた。 <br>景春は当時五十子陣にいた。道灌は、景春の拠点、鉢形城と五十子陣の間で陣を構えることで、景春の補給ラインを分断した。景春は補給ラインを確保すべく南下したが、これは道灌の「手」だった。</p>
<p>道灌は景春をおびき寄せて合戦に持ちこんだ(用土原・針谷の戦い)。景春は道灌の術中にはまり、敗れた。その後も、道灌は景春勢を各地で撃破して、景春を秩父の奥地に追い込んでいった。そして、文明12年(1480年)、景春最後の拠点、秩父の日野要害(熊倉城)も道灌に攻略され、景春は没落した。</p>
<p>なお、景春は道灌の妻の甥にあたり、お互いよく知った仲であったと言われている。</p>
<h2>景春の実現されなかった可能性を考える</h2>
<p>長尾景春は長尾景春の乱に敗れたが、その後も神出鬼没の活躍で、主の山内上杉顕定を苦しめた。やはり、只者ではなかったことが分かる。しかし、これらの活躍もあくまでも好機に便乗するという形であって、景春が再び時代の主役になることはなかった。</p>
<p>ここで、少々、「もし」を考えてみたい。 <br>もしこの時道灌が江戸城を動かなかったり、さらに言うと、道灌が景春に協力していたら、古河公方との戦いにも直面していた両上杉氏(山内上杉氏と扇谷上杉氏)は二方向、道灌も含めれば、三方向から挟撃され、一時的であれ、両上杉氏主力が壊滅していた可能性はかなりあったと思う。</p>
<p>当時、長尾為景の下克上はまだ起こっておらず、山内上杉氏は越後上杉氏の援軍を期待できたため、山内上杉氏がたやすく滅亡したかどうかは疑問ではあるものの(また、京都では弱体ながら室町幕府は存在していた。幕府は基本的に親上杉なので、近隣諸国からも両上杉氏に援軍が来ていた可能性もある)、一方では景春か道灌が古河公方を担いで関東を統一し、彼らの子供あたりが源頼朝のように関東の強兵を率いて京に攻め上り、天下に号令していた可能性もゼロではない(実際、永正5年(1508年)、大内義興は前将軍の足利義稙を擁して上京し、10年間、自派の政権を維持した)。</p>
<p>実際には、このシナリオ(景春と道灌が同盟し、両上杉氏を倒すシナリオ)は実現されなかったわけだが、もし実現していたら、その後の展開は全く変わっていただろう。 <br>状況は違うが、後に景春や古河公方と同盟して、両上杉氏と対抗した人物がいる。そう、それが北条早雲である。もしこの時(景春が蜂起したとき)に早雲が道灌の立場であれば、どういう判断を下していただろうか。</p>
<h2>長尾景春と長尾為景</h2>
<p>結局、失敗した長尾景春の乱だったが、景春は優れた戦略家であり、実行力もあった。ただ、相手(太田道灌)が悪かったと言えるかもしれない。</p>
<p>長尾景春の乱から、約30年後、越後で長尾為景が越後上杉氏を倒して、下克上に成功した。 長尾景春はある意味、長尾為景になり損なった男ということもできると思う。</p>
<h2>年表: 長尾景春の乱</h2>
<div> </div>
<p>(終)</p>

長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜

作成日:2014/6/22 , by fuji3zpg 開く

長尾景春の乱 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー

【英雄たちの選択「尼将軍北条政子の決断 時代を動かした名演説」を見る前に】<p>2014/6/19(20-21時)のNHKBS「英雄たちの選択」は、承久の乱における北条政子の決断です。<br>”<a>尼将軍北条政子の決断 時代を動かした名演説</a>”</p><br><p> </p><br><p>源頼朝の死後、頼朝の側近勢力・有力御家人・北条氏勢力などが権力闘争を展開し、鎌倉幕府は一枚岩とは言えない状態でした。<br>北条政子の子、源頼家・実朝は2代・3代将軍となりましたが、この権力闘争の中でいずれも落命します。<br><br>常識的に考えると、政子は母としての幸福と不幸を両方味わったのではなないでしょうか。<br>激動の時代、権力者は何の犠牲もなく、権力を維持できるわけではありません。<br><br>実子である3代将軍・源実朝が暗殺されて2年後、朝廷復権を企図した後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発します。<br>動揺する鎌倉幕府の御家人たち。<br><br>そんな不安定な情勢の最中、北条政子が下した決断とは!<br><br>■ 承久の乱と北条政子の年表を作っておきました。<br>・<a>承久の乱の時、北条政子はじめとする要人が何歳であったか</a><br>・<a>北条政子の人物年表</a></p>

英雄たちの選択「尼将軍北条政子の決断 時代を動かした名演説」を見る前に

作成日:2014/6/19 , by rekius 開く

英雄たちの選択

<p>今週木曜(2014/6/19)の「英雄たちの選択」は承久の乱における北条政子の決断です。<br><a>英雄たちの選択「尼将軍北条政子の決断 時代を動かした名演説」</a><br><br>この戦いの結果、鎌倉幕府の西国支配力が強化されました。源頼朝が征夷大将軍になって、いきなり、日本全国を統一したわけではありません。<br><br>仮に京都と鎌倉の二重支配のまま、蒙古襲来を迎えていたら、どうなったでしょうか。<br><br>蒙古襲来当時のモンゴルは(最盛期には)旧ソ連と中国と中東(エジプト以西は含まない)を合わせたくらいの領土を持っていました。<br>冷戦期を多少なりとも知っている我々の世代としては、その脅威が想像できるのはないかと思います。<br><br>仮に西国が蒙古と手を結んだり、そうでなくても非協力的ならば、鎌倉幕府の命令で長大な元寇防塁を築いたりすることなど、困難だったはず。そうならば、日本の歴史も随分変わったかもしれませんね。<br><br>国際関係で見た承久の乱の影響というのも考えておきたいところです。</p>

作成日:2014/6/16 , by rekius 開く

【鎌倉城】大江広元屋敷跡。<br><br>      源頼朝の大倉幕府跡から金沢街道に沿って、東に1.5kmほど行くと、十二所に大江広元屋敷跡がある。<br>      大江広元の京都の公家だったが、頼朝の招きに応じて、鎌倉に入り、鎌倉幕府の成立と初期の安定に貢献した。<br><br>      ここから北西の明王院周辺に梶原景時屋敷があったようだが、残念ながら、石碑の類は見つけられなかった。<br>      なかなか中世的な雰囲気が濃いところだった。

作成日:2013/9/12 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 鎌倉市

【鎌倉城】源頼朝から3代源実朝の頃まで、幕府の所在地だった大蔵幕府跡。<br>      頼朝の墓所、法華堂跡から南に150mほどのところに石碑が建っている。

作成日:2013/8/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

鎌倉幕府所在地と八幡宮を歩く 神奈川県 鎌倉市

【鎌倉城】源頼朝の墓所があった法華堂跡。<br>      鎌倉入りした源頼朝が幕府を設置した大倉は、法華堂の南側平野部にあった。<br><br>      宝治合戦の折りには、三浦泰村ら三浦一族郎党500名余がこの地で自害したと伝えられている。

作成日:2013/8/23 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

鎌倉幕府所在地と八幡宮を歩く 神奈川県 鎌倉市

【鎌倉城】鶴岡八幡宮の前身の元八幡宮(由比若宮)。<br>       由比若宮は、源頼義が源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請し、祀った。鎌倉入りした源頼朝は、最初にこの地に訪れたという。それだけ、由比若宮は源氏にとって、重要な神社だったのだろう。その後、現在の鶴岡八幡宮の位置に移された。<br><br>      鎌倉幕府黎明期の話である。

作成日:2013/8/23 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

鎌倉幕府所在地と八幡宮を歩く 神奈川県 鎌倉市

【岡崎城】岡崎城の北瀬にある”岡崎四郎義実公之墓”。岡崎義実は剛勇の武将で、源頼朝の鎌倉幕府樹立に尽力した。

作成日:2013/5/9 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 平塚市

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