西暦: 1173年 〜 1262年

地域: 日本

親鸞

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グラフ: 「親鸞」と同時代の人物

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グラフ: 「親鸞」と同時代の出来事

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表: 「親鸞」と同時代の人物

高宗(南宋) 1107年 〜 1187年 東アジア
西行 1118年 〜 1190年 日本
千葉常胤 1118年 〜 1201年 日本
平清盛 1118年 〜 1181年 日本
重源 1121年 〜 1206年 日本
藤原秀衡 1122年 〜 1187年 日本
イブン・ルシュド(アヴェロエス) 1126年 〜 1198年 地中海、西アジア
三浦義澄 1127年 〜 1200年 日本
後白河天皇(後白河法皇) 1127年 〜 1192年 日本
武田信義 1128年 〜 1186年 日本
朱熹(朱子) 1130年 〜 1200年 東アジア
ヘンリ2世 1133年 〜 1189年 ヨーロッパ
法然 1133年 〜 1212年 日本
平重盛 1138年 〜 1179年 日本
北条時政 1138年 〜 1215年 日本
サラディン(サラーフ・アッディーン) 1138年 〜 1193年 地中海、西アジア
藤原成親 1138年 〜 1177年 日本
三善康信 1140年 〜 1221年 日本
栄西 1141年 〜 1215年 日本
藤原隆信 1142年 〜 1205年 日本
源頼朝 1147年 〜 1199年 日本
平宗盛 1147年 〜 1185年 日本
和田義盛 1147年 〜 1213年 日本
大江広元 1148年 〜 1225年 日本
九条兼実 1149年 〜 1207年 日本
以仁王 1151年 〜 1180年 日本
木曽義仲(源義仲) 1154年 〜 1184年 日本
平徳子(建礼門院) 1155年 〜 1213年 日本
慈円 1155年 〜 1225年 日本
鴨長明 1155年 〜 1216年 日本
貞慶(解脱) 1155年 〜 1213年 日本
北条政子 1157年 〜 1225年 日本
リチャード1世 1157年 〜 1199年 ヨーロッパ
源義経 1159年 〜 1189年 日本
インノケンティウス3世 1160年 〜 1216年 ヨーロッパ
高倉天皇 1161年 〜 1181年 日本
藤原定家 1162年 〜 1241年 日本
チンギス・ハーン 1162年 〜 1227年 中央アジア、北アジア
北条義時 1163年 〜 1224年 日本
畠山重忠 1164年 〜 1205年 日本
フィリップ2世 1165年 〜 1223年 ヨーロッパ
ジョン王 1167年 〜 1216年 ヨーロッパ
ドミニコ(ドミニコ修道会の創始者) 1170年 〜 1221年 ヨーロッパ
明恵(高弁) 1173年 〜 1232年 日本
親鸞 1173年 〜 1262年 日本
北条時房 1175年 〜 1240年 日本
藤原信実 1176年 〜 1265年 日本
安徳天皇 1178年 〜 1185年 日本
後鳥羽天皇 1180年 〜 1239年 日本
フランチェスコ(フランチェスコ修道会の創始者) 1181年 〜 1226年 ヨーロッパ
プラノ・カルピニ 1182年 〜 1252年 ヨーロッパ
北条泰時 1183年 〜 1242年 日本
オゴタイ・ハーン 1186年 〜 1241年 東アジア
源実朝 1192年 〜 1219年 日本
土御門天皇(上皇) 1195年 〜 1231年 日本
順徳天皇(上皇) 1197年 〜 1242年 日本
道元 1200年 〜 1253年 日本
公暁 1200年 〜 1219年 日本
叡尊(思円) 1201年 〜 1290年 日本
グユク(定宗) 1206年 〜 1248年 中央アジア、北アジア
バトゥ 1207年 〜 1255年 ロシア
モンケ(憲宗) 1208年 〜 1259年 中央アジア、北アジア
シモン・ド・モンフォール 1208年 〜 1265年 ヨーロッパ
蘭渓道隆 1213年 〜 1278年 日本
ロジャー・ベーコン 1214年 〜 1294年 ヨーロッパ
ルイ9世 1214年 〜 1270年 ヨーロッパ
フビライ・ハーン 1215年 〜 1294年 東アジア
忍性(良観) 1217年 〜 1303年 日本
フラグ 1218年 〜 1265年 地中海、西アジア
藤原頼経 1218年 〜 1256年 日本
仲恭天皇 1218年 〜 1234年 日本
後嵯峨天皇(上皇) 1220年 〜 1272年 日本
ルブルック 1220年 〜 1293年 ヨーロッパ
日蓮 1222年 〜 1282年 日本
金沢実時 1224年 〜 1276年 日本
トマス・アクィナス 1225年 〜 1274年 ヨーロッパ
無学祖元 1226年 〜 1286年 日本
北条時頼 1227年 〜 1263年 日本
郭守敬 1231年 〜 1316年 東アジア
安達泰盛 1231年 〜 1285年 日本
ボニファティウス8世 1235年 〜 1303年 ヨーロッパ
パスパ 1235年 〜 1280年 東アジア
藤原頼嗣 1239年 〜 1256年 日本
一遍 1239年 〜 1289年 日本
平頼綱 1241年 〜 1291年 日本
宗尊親王 1242年 〜 1274年 日本
モンテ・コルヴィノ 1247年 〜 1328年 ヨーロッパ
ラシード・アッディーン(ラシード・ウッディーン) 1247年 〜 1318年 地中海、西アジア
北条時宗 1251年 〜 1284年 日本
マルコ・ポーロ 1254年 〜 1324年 ヨーロッパ
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表: 「親鸞」と同時代の出来事

プランタジネット朝 1154年 〜 1399年 ヨーロッパ
保元の乱 1156年 日本
平治の乱 1159年 日本
平清盛、太政大臣になる 1167年 日本
アイユーブ朝、成立 1169年 〜 1250年 地中海、西アジア
鹿ヶ谷の陰謀 1177年 日本
平重衡、南都焼打ち 1180年 日本
平清盛、福原へ遷都(同年11月、京都に都を戻す) 1180年 日本
富士川の戦い 1180年 日本
治承・寿永の乱 1180年 〜 1185年 日本
侍所、設置(別当は和田義盛) 1180年 日本
養和の飢饉 1181年 〜 1183年 日本
平清盛、死去 1181年 日本
寿永二年十月宣旨(源頼朝、後白河法皇から東国の支配権を承認される) 1183年 日本
倶利伽羅峠の戦い 1183年 日本
一の谷の戦い 1184年 日本
問注所、設置(執事は三善康信) 1184年 日本
宇治川の戦い 1184年 日本
公文所、設置(別当は大江広元) 1184年 日本
壇ノ浦の戦い 1185年 日本
源頼朝、守護・地頭を設置する 1185年 日本
屋島の戦い 1185年 日本
サラディン(アイユーブ朝)、イェルサレム奪還 1187年 地中海、西アジア
源頼朝、奥州を平定 1189年 日本
第3回十字軍 1189年 〜 1192年 地中海、西アジア
源頼朝、征夷大将軍になる 1192年 日本
教皇、インノケンティウス3世、即位 1198年 〜 1216年 ヨーロッパ
第4回十字軍 1202年 〜 1204年 ヨーロッパ
比企氏の乱 1203年 日本
源頼家、謀殺される 1204年 日本
第4回十字軍、コンスタンティノープルを陥落させ、ラテン帝国を建てる 1204年 〜 1261年 ヨーロッパ
藤原定家ら、『新古今和歌集』 1205年 日本
北条時政、畠山重忠を滅ぼす 1205年 日本
テムジン(チンギス・ハーン)、モンゴル統一 1206年 中央アジア、北アジア
モンゴル、金(王朝)と開戦 1211年 〜 1234年 東アジア
鴨長明、『方丈記』 1212年 日本
少年十字軍 1212年 ヨーロッパ
和田合戦 1213年 日本
英、大憲章(マグナカルタ)制定 1215年 ヨーロッパ
源実朝、暗殺される 1219年 日本
慈円『愚管抄』 1220年 日本
六波羅探題、設置 1221年 日本
承久の乱 1221年 日本
評定衆、設置 1225年 日本
北条時房、連署に就任 1225年 日本
藤原頼経、将軍に就任 1226年 日本
モンゴル、西夏を滅ぼす 1227年 日本
オゴタイ=ハン、即位 1229年 〜 1241年 中央アジア、北アジア
高麗に、モンゴル帝国侵攻開始 1231年 〜 1259年 東アジア
御成敗式目 1232年 日本
モンゴル(オゴタイ・ハーン)、金王朝を滅ぼす 1234年 東アジア
カスティリャ王国、コルドバ占領 1236年 ヨーロッパ
バトゥのヨーロッパ遠征 1236年 〜 1242年 ロシア
ワールシュタットの戦い 1241年 ヨーロッパ
キプチャク・ハーン国 1243年 〜 1502年 ロシア
プラノ・カルピニ、グユク・ハーンにローマ教皇の新書を渡す 1246年 中央アジア、北アジア
宝治合戦 1247年 日本
マムルーク朝、成立 1250年 〜 1517年 地中海、西アジア
宗尊親王、将軍に就任 1252年 日本
ルブルック、モンケ・ハーンとカラコロムで会見 1254年 中央アジア、北アジア
独、大空位時代 1256年 〜 1273年 ヨーロッパ
モンゴル帝国、バグダード占領。アッバース朝滅亡。 1258年 地中海、西アジア
イル=ハン国、成立 1258年 〜 1353年 地中海、西アジア
高麗、モンゴルに降伏 1259年 東アジア
アイン・ジャールートの戦い 1260年 地中海、西アジア
フビライ・ハーン、即位 1260年 東アジア
日蓮、『立正安国論』を北条時頼に提出 1260年 日本
英国、議会のはじまり(シモン=ド=モンフォールの議会) 1265年 ヨーロッパ
三別抄の乱 1270年 〜 1273年 東アジア
元朝、成立 1271年 〜 1368年 東アジア
マルコ・ポーロ、東方旅行 1271年 〜 1295年 ヨーロッパ
文永の役(第1回元寇) 1274年 日本
異国警固番役 1275年 日本
南宋滅亡(崖山の戦い) 1279年 東アジア
弘安の役(第2回元寇) 1281年 日本
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「親鸞」の関連ノート

【親鸞上人御入滅之地の石碑】浄土真宗の祖、親鸞がこの地で亡くなったという石碑。

飲み会に向かう際に偶然見つけた。
京都はこういう偶然が桁違いに多い。

親鸞上人御入滅之地の石碑

作成日:2015/6/30 , 地図あり・方位あり・方位あり, by rekius 開く

親鸞 京都府 京都市

【その5 躑躅ヶ崎館と要害山城ー武田信虎の戦いー】<h2>躑躅ヶ崎館</h2>
<p>3日目、多少の疲労感が残る中、ホテルを出発した。目的地は躑躅ヶ崎館、現在の武田神社である。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>躑躅ヶ崎館付近の絵地図。 </em><br><em>躑躅ヶ崎館は相川扇状地の谷に位置し、西側は北から南へ荒川、東側は北東から南西へ笛吹川が流れている。北には山の麓に積翠寺が、詰の城として要害山城がある。 </em><br><em>その4で触れたとおり、福島勢乱入の際、身重の大井夫人が積翠寺に避難して信玄を生んだ。 この時を含め、結局、要害山城で戦闘が行われることはなかった。</em>
</div>
<div> </div>
<p>かつて、信虎が作った躑躅ヶ崎館は、信玄、勝頼も拠点とし、勝頼が韮崎の新府城に移すまで、武田家の本拠地だった。<br> 信玄ファンにとっては、「聖地」と言えるかもしれない。</p>
<h3>信玄と信玄公</h3>
<p>余談だが、山梨に来てから、信玄は「信玄」ではなく、「信玄公」であることを思い知らされた。現在も信玄が尊敬されていると本に書いてあったので知ってはいたが、土産物屋にはたいてい「信玄」の名が付いている。たとえば、「信玄餅」というのがある。</p>
<p>この旅の行く先々で、10名ぐらいの人と話をしたと思うが、やはり、「信玄」というのと「信玄公」というのでは微妙に反応が違うことに気づいた。 <br>勝手な想像だが、浄土真宗の人に「親鸞」というのと「親鸞聖人」というのとの違いに似ているかもしれない。 ともあれ、同宗のよしみを感じてくれるようなので、3日目からは「信玄公」ということにした。</p>
<h3>武田神社</h3>
<p>武田神社は甲府駅の2kmほど北にあり、なだらかな上り坂が続く。 <br>いつものように最初は頑張って坂を走ったが、途中で諦めて、自転車を降りて歩いた。いま歩いている武田通りには、信玄の家臣や一門の屋敷跡を告げる案内板がいくつも立っている。山梨大学付近の秋山伯耆守や信玄の弟、武田信繁の屋敷など、お馴染みの人物の屋敷の位置が紹介されていた。</p>
<p>武田神社の前に行くと、水堀がある。ここで大軍を相手に籠城することは無理だが、館として使用するなら立派なものだった。武田神社の内部は想像より、多少小さめだったが、遺構はよく残っていた。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年10月撮影: </em><br><em>躑躅ヶ崎館跡、西曲輪の水堀。</em>
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<div> </div>
<p>信玄の嫡男、武田義信が住んだとされる西曲輪には、ほとんど何もなかったが、現在、発掘調査が行われたいるようで、ブルーシートが敷かれていた。</p>
<p>西曲輪から武田神社を出ると、かつて味噌曲輪だった野に出る。まさに古城の雰囲気があり、想像力を掻き立てられる。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年撮影: </em><br><em>かつて、味噌曲輪だったところ。撮影地点から北側に信玄の弟、武田逍遥軒信廉の屋敷があった。</em>
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<div> </div>
<p>ここから北に2kmほど行くと、大永元年(1521年)、福島勢乱入の際、身重の大井夫人が避難したという積翠寺と躑躅ヶ崎館の詰めの城(有事の際に使用する城)、要害山城がある。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年10月撮影: </em><br><em>躑躅ヶ崎館から要害山城方面をのぞむ。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>積翠寺</h3>
<p>見た感じ、積翠寺、要害山城まで上り坂が続くので、自転車を置いて、歩いていくことにした。</p>
<p>現在、11時である。この日は過ごしやすかったが、なぜかこの時間帯だけは日が照っていた。結構暑く、汗が出る。しかも2日間の疲労(自転車だけで約100km走っていた)に加えて、すでに休みなく2時間半ほど武田神社内をウロウロしていたので、登りはじめる前から結構疲れていた。</p>
<p>上り坂であったことと道がクネクネしていたこともあってか、2kmという疲労感ではなかった。 <br>が、ともかく、積翠寺に到着した。ここからの眺めはよく、甲府盆地の西側を一望できる。ただ、残念ながら、電信柱と電線が眺めを邪魔していた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年10月撮影: </em><br><em>石碑には「機山武田信玄公誕生之地」と書いてある。 </em><br><em>これまで見てきたように、武田信玄が生まれた頃、危機的な状況だった。信玄の人生は赤子の頃から試練に晒されていたが、この時は父、信虎が守ってくれた。</em>
</div>
<div> </div>
<p>例の乱入の折に生まれた信玄の人生は、ここからはじまったのである。 <br>感慨に浸りながら、これからの彼の人生と眼下で戦っていた信虎のことを思った。もし信虎が上条河原の戦いで負けていれば、信玄は生後10日ほどで、ここからどのかの土地に落ちるか、逃げ切れず捕まっていたかもしれない。</p>
<h3>要害山城</h3>
<p>あとは要害山城に登るだけである。 <br>積翠寺の100mほど北に行くと、「要害」というホテルがある。ここに要害山城に関する案内板があり、そこから右手に城への入り口がある。このホテルで昼食をとるかどうか迷ったが、どうせまた汗だくになるのは明らかなので、下山後、温泉に入って、昼食をとることにした。</p>
<p>飴を左膝のポケットから取り出して舐める。これで少しは元気が出るだろう。さて、出発。</p>
<p>この城ははっきり言って山だった。まあ、要害山城という名前の通り、山城なので当然なのだが、特に登り始めの傾斜がきつくて閉口した。半分ぐらい登ると、曲輪と門が続く、この辺まで来ると、傾斜は階段になっており、登りやすかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年10月撮影: </em><br><em>要害山の尾根にこういった曲輪がいくつも並び、その都度、門が配置されていた。</em>
</div>
<div> </div>
<p>資料によると、門は8つあるそうで、山城にしては立派なものである。 <br>最後の門に到達して、本郭に来たときは思わず「ヤッター!」と叫んだ。もし誰かいたら、恥ずかしかっただろう。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年10月撮影: </em><br><em>要害山城、最後の門跡。 </em><br><em>中盤から嫌気が差していたので、ここに辿り着いた時には両腕ガッツポーズをして叫んだ。 </em><br><em>なお、この日は土曜日の昼頃だったが、結局、誰一人出会わなかった。関東の場合は、どんなにマニアックな城に行っても、誰かしらいるものだが、山城とはいえ、週末に要害山城のような(城好きには)著名な城で誰とも会わないというのは驚きだった。</em>
</div>
<div> </div>
<p>本郭は想定外に広かった。 <br>本郭をしばらく散策したあと、倒木に腰をおろして休んだ。 <br>噴き出る汗を拭いながら、周囲の、そして、眼下の景色をしばし眺めていた。</p>
<p>さあ、下りよう。 <br>ホテルの温泉と昼食が待っている。</p>
<p>空腹と疲労による重い足取りで、私は山を下りはじめた。</p>
<h3>ホテル「要害」</h3>
<p>ヘトヘトになって、ホテル「要害」に着いた。</p>
<p>受付で温泉と昼食を頼むと、どちらを先にするか聞かれたので、温泉に先に行くと答えた。 <br>温泉のある一段下の階に行って、男湯の暖簾をくぐると、おじさんが2人いたが、入れ替わるように出ていった。風呂場に行くと、誰もいなかった。まあ14時頃だったので、不思議ではないが、思わぬ貸切風呂を満喫できた。</p>
<p>温泉で疲れを癒したあと、昼食をとった。 何とかという魚の甘煮がメインの定食を注文し、絶景をテラスから楽しんだ。腹べこだったこともあったかもしれないが、甘煮はおいしかった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年10月撮影: </em><br><em>ホテル「要害」からの眺めがとてもよかった。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>こんにちはー!</h3>
<p>腹も満たされたので、武田神社を目指して、ホテル「要害」を出発した。</p>
<p>なぜか知らないが、ここは気持ちのいいところだった。思わず、鼻歌まじりで歩いてしまいそうだ。しかも、この頃には日差しも柔らかく、気温も適当に過ごしやすい。まさに、ハイキングにピッタリの天気といえる。</p>
<p>積翠寺から200mほど、下りた所で、5歳ともう少し小さいぐらいの女の子が行きと同じように遊んでいた。様子からして、姉妹かもしれない。 <br>私が通り過ぎる頃、大きい方の女の子が「こんにちはー!」と元気のいい声で挨拶してくれ、小さい方の女の子も高い声で「こんにちはー!」と続いた。 <br>旅の途中、私から声をかけることはあっても、かけられることは少ないので、ちょっと驚いたが、私もにこやかに「こんにちはー!」といった。 これだけの何でもない話だが、とても清々しい気分になった。</p>
<h3>日程終了</h3>
<p>事前に予定していた場所にはすべて行くことができた。 <br>入念に準備していたこともあるが、iPhoneのGPS機能とGoogleマップに負うところが大きい。もしiPhoneを持っていなかったら、半分ぐらいしか行けなかっただろう。</p>
<p>歴史サイクリングは楽しいものだが、今回は異様に面白かった。 <br>また機会を見つけて、ブロンプトンで走りにいきたいものだ。</p>
<p>(終)</p>

その5 躑躅ヶ崎館と要害山城ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

躑躅ヶ崎館 積翠寺 要害山城 山梨県 甲府市

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