【安倍川東岸にある安倍川餅「せきべや」さん】<p>300年の歴史を持つという「安倍川餅せきべや」さんである。</p>
<p>行ったのは2010年の6月末で暑かった。<br>店の中は、冷房がかかっており、涼しかった。</p>
<p>安部川餅(600円)を注文した。<br>素朴な味で良かったが、暑さで消化力が落ちていて、少しもたれた。</p>
<p>自分と同じように、多くの旅人がここでこのお店の安倍川餅を食べたのではないか。</p>

安倍川東岸にある安倍川餅「せきべや」さん

作成日:2014/6/23 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

安倍川餅 静岡県 静岡市

【臨済寺から静岡市街を撮影】<p>臨済寺は早雲の姉(今川義忠の正室で、今川氏親の母)、北川殿の別邸跡に建てられ、今川義元も青年期を過ごした場所だという。 <br>当寺は賤機山の山麓にあり、本堂のある高地からは市街地がよく見える。</p>

臨済寺から静岡市街を撮影

作成日:2014/6/23 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

臨済寺 北川殿 静岡県 静岡市

【現代に甦る山吹伝説?】<h3>伝説となった名将、太田道灌</h3>
<p>皆さん、太田道灌という人物をご存知だろうか。享徳の乱でその武名を馳せただけではなく、歌も詠み、教養人としても知られた人である。 戦前ぐらいまで、太田道灌は文武両道の伝説的有名人だった。</p>
<div> </div>
<p>数 ある道灌伝説の中でも、山吹伝説は三本の指に入るほど有名だ。年配の方はご存知の方も多いだろうが、若い人のために若干の説明をしよう(なお、この伝説に は細部でバリエーションがあるので、本やネットで調べると、微妙に違う話に出くわすかもしれないが、大体以下のような話だ)。</p>
<h3>山吹伝説</h3>
<p>ある日、道灌は鷹狩りに出かけた。いつしかにわか雨が降ってきたので、彼は近くの小屋に立ち寄り、雨よけの蓑を借りようとした。道灌が小屋の家人を呼び、用件を伝えると、若い娘が無言で一輪の山吹(<a>ヤマブキ</a>)の花を道灌に差し出した。欲しかったのは蓑であり、花ではない。意味が分からなかった道灌は立腹して立ち去った。</p>
<p>あとで、道灌がそのことをある人に聞くと、</p>
<blockquote>
<p>七重八重(ななえやえ) 花は咲けども 山吹の<br>  みの(実の、蓑)一つだに なきぞ悲しき</p>
</blockquote>
<p>という古歌(後拾遺和歌集)に託して、その娘は貧しくて1つの蓑さえないことを伝えたのだと分かった。道灌はこのことを恥じ、以後、和歌の道に励んだという話だ。</p>
<p>なお、この山吹伝説の地として、越生と新宿の2つが有名である。</p>
<h3>下総千葉を走る</h3>
<p>さ て、現代に話を戻そう。 私は今年(2010年)4月下旬に、千葉の道灌ゆかりの地をまわっていた。その日、すでに臼井城を見て、印旛沼のサイクリングロードを通り、本佐倉(もと さくら)城にやってきたころには、すでに夕方の気配が漂い始め、分厚い雲が足早に流れていた。</p>
<h3>本佐倉城へ</h3>
<p>本佐倉城は、太田道灌と対立した下総千葉氏の本拠地で、印旛沼に接した堅固な城だった。文明16年(1484年)、千葉孝胤が築城したという。</p>
<p>私が城に入る前に、散歩から帰るという感じの老夫婦とすれ違った他は誰にも会わなかった。 城の中に入っていくと、城内は整備されており、遺構は良好に保存されていた。城の規模は大きく、当時の千葉氏の権力の大きさを感じさせた。</p>
<p><img></p>
<p><em>左手が城山曲輪。きれいに整備されているのが分かる。突き当りを左に行くと、虎口がある。</em></p>
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<p><img></p>
<div><em>比高が10mもあるという大きな空堀(倉跡とセッテイ間の空堀)。</em></div>
<div> </div>
<h3>にわか雨、そして。。。</h3>
<p>しばらく見てまわっていると、にわか雨が降ってきた。<br>その日は雨が降る予報は全くなかった。雨具は持っていない。だがよく考えると、それは東京の予報であって、千葉の予報は見ていなかった。などと考えているうちに、本降りになってきた。このままだと自転車が濡れるので、カバーをかけに城の入り口に戻った。</p>
<p>自転車を置いたところに着いた時には濡れネズミ状態だった。 <br>城の入り口には民家があり、そこに農作業を終え、帰ろうとする女性がいた。濡れネズミを哀れに思ったのか、この女性は声をかけてくれた。 「雨が降ってきたわね。ちょっと待ってなさい。傘を持ってきてあげるから。」 そういって家に入って行き、傘をとってきてくれた。</p>
<p>「これ、あげるから持っていきなさい。」 <br>「えっ、いいんですか?」 <br>「いいの、いいの。持っていっちゃいなさい。」 <br>「どうもすいません。ありがとうございます。」 <br>私は感謝の言葉とともに、丁寧にお辞儀した。</p>
<p>「どこから来たの?」 <br>「東京の江東区です。」<br> 私がそう答えると、<br>少し驚いたふうに<br> 「ほんとに!?」<br> 「いやあ、あの折りたたみ自転車を電車に乗せて、近くの駅で降りて、この城に来たんですよ。」 <br>「へえー、そうなの。」女性は納得顔になった。 <br>「暗くなってきたから、気をつけて帰ってね。」なんていい人だろう。いろいろな土地を巡っていると、土地の人の善意に触れることが度々あるが、今回は指折りの出来事だった。<br> 「ありがとうございます。」 私はその女性にお礼と別れを告げ、傘を差して城に向かって歩き出した。</p>
<h3>現代版、山吹伝説か???</h3>
<p>この話、500年前の話と少し似ていないだろうか? 偶然にしては少し出来過ぎた話のようだが、実話である。特に道灌ゆかりの地を巡っていたので、余計に印象的な出来事だった。</p>
<p>(終)</p>

現代に甦る山吹伝説?

作成日:2014/6/21 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

山吹伝説 本佐倉城 フィールドをゆく 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー 千葉県 印旛郡

【空より広き 「谷中湖」の原?】<h2>武蔵、下野、常陸の接点を巡る</h2>
<p>古河城、小山城、結城城を1日でまわるという意欲的なプランを立て、今年(2010年)の5月はじめ頃に現地に行ってきた。この辺りは、享徳の乱後、古河公方の地盤となった地域である。</p>
<h2>参考資料: 享徳の乱</h2>
<p>関東は、畿内の応仁の乱に先駆けて、享徳の乱が起こり、戦乱の時代へと入った。</p>
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<h2>利根川を渡り、古河、そして、谷中湖へ</h2>
<p>まずは栗橋駅で降り、利根川を渡って、古河に向かった。妙なところにある古河城跡(治水の影響で堤防の天辺にある)を見た後、谷中湖に向かった。谷中湖は今回のテーマには関係なかったのだが、とても大きな湖と湿地帯が地図に示されていたので、どんなところか興味を持ったのである。</p>
<div> </div>
<p>実際に谷中湖に向かって自転車で走ってみると、とてつもない広さで驚いた。 こんな感じである。</p>
<p><img></p>
<div><em>アメリカ西部やオーストラリアなら、いざ知らず、日本でこんなに広いところがあろうとは…。</em></div>
<h2>日が地に沈む</h2>
<p>司馬遼太郎の『<a>箱根の坂</a>』で、都から来た歌人が先人の歌で坂東の広さを知っているはずなのにも関わらず、皆一様にその広さに驚いたと書いていた。「都は日が山からのぼり、山に沈むが、坂東は地からのぼり、地に沈む」、確かこんなような表現だったように思う。今の東京の空はビルが林立して狭いが、この辺はそういう雰囲気を色濃く残している。 もしかしたら、中世の坂東の低地とはいうのはこんな感じだったのかもしれない。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><a><img></a></p>
<h2>空より広き</h2>
<p>こういった土地で生活するにはもう馬に乗るしかないのではないか。歩いていたら、埒が明かないだろう。「武蔵野はどのようなところか」という帝の問いに対し、太田道灌が答えたという</p>
<blockquote>
<div>露おかぬ かたもありけり 夕立の<br>    空より広き 武蔵野の原</div>
</blockquote>
<p>という歌を思い出さずにはいられない。「空より広き」とは雄大である。<br>10km四方ほどでしかない、京都の盆地の住人とは距離感覚も違っていただろう。そういうところで、坂東武者たちは狩り、笠懸、流鏑馬、犬追物などで、弓矢を鍛えて、「いざ、鎌倉」と備えていたのかもしれない。</p>
<h2>ここはどこ?</h2>
<p>いろいろと勝手な想像を膨らませながら走っていると、いつしか自分がどこを走っているか、分からなくなった。</p>
<p>ひたすら広く、ランドマークがないので、距離感がつかめない。それでも、しばらく道なりに走っていると、幸運にも地図があった。しかし、その地図は相当大雑把で、しかも現在地が書いていない。少なくとも、この地図の作成者は、迷子の輩に現在地を教えるつもりで作ったのではないらしい。</p>
<h2>おやじさん、登場</h2>
<p>しばらくの間、どうしようか地図を見ながら考えていると、中年のおやじさんが話しかけてくれた。どうも散歩をしている人らしい。</p>
<p>「どうしたの?」<br> 「ええと、ちょっと谷中湖に行く道が分からなくてですね、それでこの地図を見ていたんですが、この地図を見てもよく分からないんですよ。」</p>
<p>おやじさんは地図を見て、 <br>「本当だ。現在地、書いてないね。」 <br>「今、この地図で言うと、どの辺りなんですか?」 <br>「ええとね。実はオレもよく分からないんだ。」<br>「エエッ」散歩をしている人が現在地を知らないとはどういうことなのであろうか。<br>「こんだけ広いでしょ。だからどこ歩いているか、よく分からないんだよね。」</p>
<p>「・・・」私が絶句していると、<br> 「けど、毎日同じコースを歩いているから、オレは平気なんだよ。」 <br>「そうなんですか。」なるほど、全体像を掴んでいなくても、自分が歩く道だけ知っていれば、問題なさそうだ。<br> 「じゃあ、もう少し走って、他の人に聞いてみます。」 <br>「うん、そうしてよ。気をつけてね。」</p>
<p>まさか、谷中湖の周辺に住んでいる人は、皆、こんな感じの地理感覚の持ち主なのかと疑ってしまった。しかし、おやじさんと別れた後、縁あって2人の中年の男性と話をしたのだが、その人たちはちゃんと地理が分かっていた(しかも、地元の方だった)。</p>
<p>であるから、おそらく、おやじさんの感覚が特別だったのだろうと思う。 いずれにしろ、谷中湖周辺がいかに広々としているか、ひいては幻の坂東原風景を読者に伝えるために、素晴らしいエピソードをプレゼントしてくれたおやじさんに感謝したい。</p>
<p>(終)</p>

空より広き 「谷中湖」の原?

作成日:2014/6/22 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

谷中湖 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー 埼玉県 加須市

【利根川中流域、古河付近の風景】<p>利根川中流域、古河付近の広大な平野。ここから北に進むと、古河公方の古河城があった。<br>2010年5月、自転車ではじめて来たのだが、その広さに驚いた。</p>
<p>iPhoneなき時代で、場所はかなり大雑把。</p>

利根川中流域、古河付近の風景

作成日:2014/6/22 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

茨城県 古河市

【本佐倉城の東光寺ビョウ】<p>印旛沼方面の田んぼが広がる本佐倉城の北側、東光寺ビョウ。<br>2010年現在の案内板には、発掘調査中で、東光寺ビョウの使われ方を調べているとのこと。</p>

本佐倉城の東光寺ビョウ

作成日:2014/6/22 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

千葉県 印旛郡

【本佐倉城のⅣ郭から東山にかけて】<p>写真を撮っている辺りが本佐倉城のⅣ郭で、中央右下が東山馬場で、右上が東山。<br>東山は北側(印旛沼方面)と東側からの攻撃に対して、睨みを効かせる位置にある。</p>

本佐倉城のⅣ郭から東山にかけて

作成日:2014/6/22 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

千葉県 印旛郡

【本佐倉城のセッテイ空堀】<p>比高が10mもあるという大きな空堀(倉跡とセッテイ間の空堀)。<br>セッテイは人質郭と考えられているとのこと。</p>

本佐倉城のセッテイ空堀

作成日:2014/6/21 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

千葉県 印旛郡

【本佐倉城の城山曲輪】<p>左手が本佐倉城の城山曲輪。きれいに整備されているのが分かる。<br>突き当りを左に行くと、虎口がある。</p>

本佐倉城の城山曲輪

作成日:2014/6/21 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

下総千葉氏 千葉県 印旛郡

【山中城の箱井戸跡】<p>箱井戸跡。将兵用の飲料水に使われたとのこと。<br>西側の田尻の池よりも標高が高く、ここから田尻の池に水が流れた。<br><br>現在は睡蓮が植えられている。</p><br><p>奥に進むと、馬飲料用の田尻の池がある。</p>

山中城の箱井戸跡

作成日:2014/6/17 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

静岡県 三島市

【山中城の田尻の池】<p>田尻の池は馬用の飲料水に使われたという。<br>手前に見えるように、田尻の池から三の丸堀に排水された。</p><br><p>右奥に、将兵飲料用の井戸(箱井戸跡)がある。</p>

山中城の田尻の池

作成日:2014/6/17 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

静岡県 三島市

【山中城三の丸堀】<p>大手口辺りから北側の出丸まで伸びる三の丸堀。<br>長さ約180m、最大幅30m、深さ約8mとのこと。</p>

山中城三の丸堀

作成日:2014/6/17 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

静岡県 三島市

【山中城岱崎出丸のすり鉢曲輪】岱崎出丸の最南端に位置するすり鉢曲輪。
名前の通り、中心が凹んだすり鉢状になっている。

北条方はここから箱根旧街道を側射できるので、豊臣方がこのすり鉢曲輪に攻撃が集中することは容易に想像できる。豊臣方の攻撃で、岱崎出丸の守将、間宮康俊は討ち死にしたとのこと。

山中城岱崎出丸のすり鉢曲輪

作成日:2014/6/17 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

動画 小田原戦役 静岡県 三島市

【山中城岱崎出丸西側、箱根旧街道の復元石畳】<p>箱根旧街道の復元された石畳。<br>山中城岱崎出丸から側射される位置にある。<br><br>江戸期の1680年頃には、石畳に改修されたとのこと。<br>そのため、小田原戦役(1590年)の山中城攻防戦の時には、まだ土の道だったはず。<br><br>岱崎出丸攻撃隊の右翼先鋒は中村一氏隊で、中村隊の下に渡辺勘兵衛了(さとる)もいた。渡辺勘兵衛は山中城の一番乗りしたとされ、この戦いの回想録を『渡辺水庵覚書』としてしたためた。<br>当時、彼もこの辺を必死に走ったのではないか。</p>

山中城岱崎出丸西側、箱根旧街道の復元石畳

作成日:2014/6/17 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

静岡県 三島市

「稲葉氏時代の淀城下」の現地案内板。<br>江戸中期から幕末まで、稲葉氏が淀城城主だった。<br><br>縄張を見ると、現在の流路とかなり違っている。当時の淀城は、宇治・桂川が合流し、南からは木津川が流れる地点にあった。<br><br>淀城の縄張りはかなり強力で、攻めるには大変厄介。

作成日:2014/6/11 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

京都府 京都市

【興国寺城】北曲輪から大空堀をみる。空堀を撮るのは難しいが、これはなかなかいいのではないか。

作成日:2012/10/6 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

早雲の城 興国寺城再訪 静岡県 沼津市

【興国寺城】二ノ丸から本丸にかけて。いい感じの雲ですな。<br><br>北から愛鷹山がせり出し、東海道を圧迫する地形に興国寺城はあります。当時は、城の東側に船着場があったそうです。

作成日:2012/10/6 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

早雲の城 興国寺城再訪 静岡県 沼津市

武野紹鴎屋敷跡。<br><br>武野紹鴎は村田珠光の流れの茶を学び、和歌を三条西実隆に学んだ。<br>茶の湯の門人としては、千利休、津田宗及、今井宗久がいる。今井宗久は娘婿。

作成日:2014/6/9 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

堺の茶人の屋敷跡をめぐる 大阪府 堺市

今井屋敷跡。<br><br>今井宗薫が織田有楽斎から譲り受けたとのこと。<br>今井宗薫は、堺の商人・茶人の今井宗久の子。

作成日:2014/6/9 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

堺の茶人の屋敷跡をめぐる 大阪府 堺市

千利休屋敷跡。<br>中央に椿の井戸がある。<br><br>千利休は茶を武野紹鴎に学び、わび茶を大成した堺の茶人。<br><br>近くには、武野紹鴎屋敷跡と今井屋敷跡(今井宗薫)がある。<br>彼らが堺の出身というのは知識として知っていたが、こんなにご近所さんだったとは。この辺りは市街地化して、かつての面影はほとんどないが、脳内でどんな感じだったか、想像しながら歩いた。

作成日:2014/6/9 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

堺の茶人の屋敷跡をめぐる 大阪府 堺市

【新選組屯所の旧前川邸】旧前川邸。すぐ南西にある八木邸とともに、新選組屯所だった。

旧前川邸には近藤勇や土方歳三らが詰めていたという。
1865年、新選組の山南敬助が切腹した邸宅としても有名。

新選組屯所の旧前川邸

作成日:2014/5/16 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

近藤勇 山南敬助 土方歳三 新選組 新選組の事蹟 京都府 京都市

【堺】堺の土居川。<br>名前の通り、かつて堺の西側の堀だった。<br><br>堺のHP http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/doro/doboku/kasensuiro/suikankyo/watashitachikawa.html にあるように、きれいとは言えない水質だった。<br><br>が、かつては千利休や今井宗久などの茶人や豊臣秀吉・小西行長などの武将もこの辺を通ったのではないか。そういえば、「軍師官兵衛」にも堺が少し出てきていましたね。<br><br>なお、上記HPによると、豊臣秀吉が堀を埋め、徳川期に再度、堀が掘られたが、以前よりも外側に掘られたとのこと。

作成日:2014/6/8 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

堺の茶人の屋敷跡をめぐる 大阪府 堺市

【江戸城】江戸城の撮影ポイントの1つ。<br><br>右が巽櫓(桜田二重櫓)、中央やや左が内桜田門、そして、左側の木々に隠れているのが富士見櫓(富士見三重櫓)。

作成日:2014/6/7 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

江戸城撮影ポイント 東京都 千代田区

【駿府城】■ 駿府城の石垣刻印マップ<br>http://www.city.shizuoka.jp/000113657.pdf<br><br>■ 「駿府城の不思議(ふしぎ)」 石垣刻印(こくいん)の謎(なぞ)<br>http://www.shizuoka-cvb.or.jp/oogosho400/kids/doc01_12.htm<br><br>↓ 同感です。<br><br>「これまでの研究で、刻印(こくいん)は各大名の家紋(かもん)や旗印(はたじるし)をあらわし、石を積(つ)む時にそれぞれの持ち場を示(しめ)すために石に刻んだのであろうとの説もあります。<br><br>(図表)石垣の刻印一覧しかし、よく調べてみると家紋(かもん)・旗印(はたじるし)と刻印が必ずしも一致しているものばかりではありません。むしろ、一致していないばかりかわからないものの方が多いのです。<br><br>したがって、家紋や旗印ではなく、他(た)の意味(いみ)があるのではないかという研究家もいます。」

作成日:2014/6/6 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

石垣刻印 静岡県 静岡市

【茨木城】中川清秀で有名な茨木城の案内板。<br>茨木小学校の東側に櫓門があり、そこに設置されている。

作成日:2014/6/3 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

大阪府 茨木市

【茨木城】茨木小学校の東側に復元された茨木城櫓門。

作成日:2014/6/3 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

大阪府 茨木市

【江戸城】南北線市ヶ谷駅構内にある石垣。<br><br>石割りで使われた矢穴が明瞭に見える。<br>間石で大きな石の合間を埋めているのも分かる。<br><br>写っていないが、刻印も複数あった。<br><br>この石垣は、JR・都営の市ヶ谷駅ではなく、外堀を越えた南北線市ヶ谷駅内なので、要注意。

作成日:2014/5/27 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

市ヶ谷駅の石垣 東京都 新宿区

【世田谷城】空堀。

作成日:2014/5/16 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

東京都 世田谷区

【滝山城】滝山城大手の小峰曲輪です。<br><br>滝山城は、北条氏康の息子、北条氏照の居城でした。1869年、武田信玄は大群を率いて、関東に侵攻し、北条氏照が守る滝山城を包囲しました。<br><br>ここ小峰曲輪も激戦の末、武田勢に落とされ、二の曲輪まで後退した北条勢でしたが、何とか持ちこたえました。400年ほど前、ここは硝煙・絶叫、血と汗の修羅場だったかもしれません。<br>今は竹の葉が揺れ、擦れ合う音が聞こえる閑静な場所です。<br><br>武田優勢にも関わらず、信玄は滝山城包囲を解き、小田原城に向かったのでした。

作成日:2014/5/22 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

東京都 八王子市

【【清洲城】新幹線から清州城を撮影。】新幹線から撮影した清州城の模擬天守。

関ヶ原の戦いの当時、清洲城には30万石ともいわれる大量の兵糧が蓄えられていた。もちろん、これは豊臣秀吉が徳川家康からの攻撃を想定してのことだろう。

清洲城主は福島正則で、秀吉に取り立てられた武将である。他にも、掛川城に同じく秀吉恩顧の山内一豊を置くなど、秀吉は秀吉恩顧の武将たちで東海道沿いを固めていた。

しかし、これら秀吉恩顧の武将たちは、石田三成が挙兵すると、徳川家康に味方してしまう(小山評定)。
それは小山評定で、福島正則が家康に従うことを明言したことで、この流れが作られたと言われている。

確かに関ヶ原の戦いでは、清洲城は戦場にならなかったが、戦場が関ヶ原となった大きな理由の一つが、清洲城(福島正則)を徳川家康が取り込んだことにあった。

【清洲城】新幹線から清州城を撮影。

作成日:2014/5/26 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

関ヶ原の戦い 福島正則 関ヶ原の戦いー小山評定ー 愛知県 清須市

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世界史古代概略
ローマと前漢、不思議な成立の符合
古代の日本と西欧
戦国のはじまり
早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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