皆さん、太田道灌という人物をご存知だろうか。享徳の乱でその武名を馳せただけではなく、歌も詠み、教養人としても知られた人である。 戦前ぐらいまで、太田道灌は文武両道の伝説的有名人だった。
数 ある道灌伝説の中でも、山吹伝説は三本の指に入るほど有名だ。年配の方はご存知の方も多いだろうが、若い人のために若干の説明をしよう(なお、この伝説に は細部でバリエーションがあるので、本やネットで調べると、微妙に違う話に出くわすかもしれないが、大体以下のような話だ)。
ある日、道灌は鷹狩りに出かけた。いつしかにわか雨が降ってきたので、彼は近くの小屋に立ち寄り、雨よけの蓑を借りようとした。道灌が小屋の家人を呼び、用件を伝えると、若い娘が無言で一輪の山吹(ヤマブキ)の花を道灌に差し出した。欲しかったのは蓑であり、花ではない。意味が分からなかった道灌は立腹して立ち去った。
あとで、道灌がそのことをある人に聞くと、
七重八重(ななえやえ) 花は咲けども 山吹の
みの(実の、蓑)一つだに なきぞ悲しき
という古歌(後拾遺和歌集)に託して、その娘は貧しくて1つの蓑さえないことを伝えたのだと分かった。道灌はこのことを恥じ、以後、和歌の道に励んだという話だ。
なお、この山吹伝説の地として、越生と新宿の2つが有名である。
さ て、現代に話を戻そう。 私は今年(2010年)4月下旬に、千葉の道灌ゆかりの地をまわっていた。その日、すでに臼井城を見て、印旛沼のサイクリングロードを通り、本佐倉(もと さくら)城にやってきたころには、すでに夕方の気配が漂い始め、分厚い雲が足早に流れていた。
本佐倉城は、太田道灌と対立した下総千葉氏の本拠地で、印旛沼に接した堅固な城だった。文明16年(1484年)、千葉孝胤が築城したという。
私が城に入る前に、散歩から帰るという感じの老夫婦とすれ違った他は誰にも会わなかった。 城の中に入っていくと、城内は整備されており、遺構は良好に保存されていた。城の規模は大きく、当時の千葉氏の権力の大きさを感じさせた。
左手が城山曲輪。きれいに整備されているのが分かる。突き当りを左に行くと、虎口がある。
しばらく見てまわっていると、にわか雨が降ってきた。
その日は雨が降る予報は全くなかった。雨具は持っていない。だがよく考えると、それは東京の予報であって、千葉の予報は見ていなかった。などと考えているうちに、本降りになってきた。このままだと自転車が濡れるので、カバーをかけに城の入り口に戻った。
自転車を置いたところに着いた時には濡れネズミ状態だった。
城の入り口には民家があり、そこに農作業を終え、帰ろうとする女性がいた。濡れネズミを哀れに思ったのか、この女性は声をかけてくれた。 「雨が降ってきたわね。ちょっと待ってなさい。傘を持ってきてあげるから。」 そういって家に入って行き、傘をとってきてくれた。
「これ、あげるから持っていきなさい。」
「えっ、いいんですか?」
「いいの、いいの。持っていっちゃいなさい。」
「どうもすいません。ありがとうございます。」
私は感謝の言葉とともに、丁寧にお辞儀した。
「どこから来たの?」
「東京の江東区です。」
私がそう答えると、
少し驚いたふうに
「ほんとに!?」
「いやあ、あの折りたたみ自転車を電車に乗せて、近くの駅で降りて、この城に来たんですよ。」
「へえー、そうなの。」女性は納得顔になった。
「暗くなってきたから、気をつけて帰ってね。」なんていい人だろう。いろいろな土地を巡っていると、土地の人の善意に触れることが度々あるが、今回は指折りの出来事だった。
「ありがとうございます。」 私はその女性にお礼と別れを告げ、傘を差して城に向かって歩き出した。
この話、500年前の話と少し似ていないだろうか? 偶然にしては少し出来過ぎた話のようだが、実話である。特に道灌ゆかりの地を巡っていたので、余計に印象的な出来事だった。
(終)
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