fuji3zpg さん
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場所 武蔵
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【鎌倉街道上道・赤浜の渡しから関越自動車道を撮影】<p>赤浜の渡河地点付近の写真。<br> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</p>

鎌倉街道上道・赤浜の渡しから関越自動車道を撮影

作成日:2014/6/26 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

鎌倉街道上道 赤浜の渡し 埼玉県 大里郡

【鎌倉街道上道、赤浜の渡し】<p>荒川の南岸、赤浜の渡し付近。<br>対岸は花園。</p>

鎌倉街道上道、赤浜の渡し

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鎌倉街道上道 赤浜の渡し

【鎌倉街道上道・赤浜より寄居方面を遠望】<p>鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。<br> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</p>
<p>荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</p>

鎌倉街道上道・赤浜より寄居方面を遠望

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鎌倉街道上道 赤浜の渡し

【三郎とハチー五十子陣ー】<p>その日はよく晴れて、大地が乾燥していた。3年前(2010年)の4月下旬のことだ。<br> 鉢形城を出て、荒川を渡ったあと、北上し、五十子陣に向かった。</p>
<h3>五十子陣</h3>
<p>15世紀の半ば、鎌倉公方は関東管領の上杉氏と争った結果、古河公方は鎌倉を落ち、古河に移って古河公方となった(享徳の乱 1454-1482)。つまり、鎌倉公方と補佐役の関東管領という室町体制が崩壊し、関東は戦国時代に突入した。<br> その後、関東管領の上杉と古河公方の両陣営は利根川を挟んで対峙した。その上杉方の陣地が五十子陣だった。<br> 現在、16時前である。もう暑くはなく、日の勢いは衰えてきている。そろそろ五十子陣に近づいているはずだ。<br> それにしても広い。視界を遮る遮蔽物がほとんどない。正面に赤城山、左手に榛名山が霞んで見える。ここは武蔵(埼玉)だが、すぐ北は上野(群馬)だ。この大陸的な雰囲気の中を自転車で進む。しかし、秩父山地はその位置をなかなか変えようとしない。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年4月撮影<br>利根川南岸から赤城山(右側)と榛名山(左側)がうっすら見える。<br>広い。。<br></em></p>
<h3>iPhone以前</h3>
<p>この頃はiPhoneを持っていなかった。ということは、GPSから位置情報が得られない。そのため、紙の地図だけが頼りである。いや、もう1つ方法がある。それは人に聞くことだ。<br> しかし、見渡しても人はそうそう歩いていない。同じ武蔵でも南武蔵とは人口密度が違う。</p>
<p>GPSが使えないなら、どうやって、現在地を推測するのか。<br> 自分は地形(ランドマーク)と太陽の位置で大体の位置を知り、それを紙の地図から得た町名番地で補正していた。<br> この方法はたいていの地域で機能する。しかし、北関東のように、町の区分が広すぎると、苦しくなってくる。あと、日が暮れると、地形も太陽の位置も分からない。必然的に、現在地は闇の中となる。</p>
<p>いずれにしても、iPhone以前は現在地がどこなのか知ることは困難だったため、行動は非効率だった。しかし、分からないがゆえに、遠方の知らない土地にゆく時は、大いに興奮した。</p>
<h3>小学校に人がいた</h3>
<p>五十子陣の近くにはいるはずだ。そう思って、ウロウロしていると、小学校があった。止まって、場所を確認する。が、どの小学校か分からない。ここは広い武蔵の最北端。<br> 小学校の金網沿いに、小学生が何人かいる。その左に、柴犬を連れたおじさん(40歳過ぎぐらい)が小学生たちに向かって歩いてきた。<br> 柴犬が小学生たちに吠える、吠える、とにかく吠える。吠えることしか知らないかのようだ。この際、名前を「ハチ」と名付けよう。<br> おじさんは「うるせえっ」とハチを一喝するが、ハチは全く意に介さない。</p>
<p>まあ、ハチはやかましいが、小学生に聞くよりも、おじさんに聞いた方が良かろうと思い、おじさんに話しかけた。<br> 「すいません、この辺に行きたいんですが。」<br> 五十子陣って、どこですか?とは聞かない。経験的に、余程有名な史跡でないと地元の人は知らないことが多い。五十子陣はマニアックだ。中世関東史において、重要な土地だったのにも関わらず。</p>
<p>おじさんは目を細めて、「えーと、いまは○○小学校だから。。。」と私の地図を見ている。その間も、もちろん、ハチは吠えている。<br> 「うるせえっ」とまた叱るが、効果なし。おじさんはしばし無言でハチを睨んで、怒気を発する。その刹那、後方に跳んだっ!</p>
<p>一瞬何が起こったか分からなかったが、明らかに飛び蹴りだった。<br> だが、ハチは素早い身のこなしで、難なくかわし、「ニヤリ」と笑った。そして、満足した様子で、吠えるのをやめ、行儀よくお座りしている。</p>
<p>飼い犬に飛び蹴りを放つ人を、自分は今まで見たことがない。しかも、その後、おじさんは何事もなかったように数歩で戻ってきて、<br> 「えー、小学校がここだからこっちだね」と北西の方向を指差した。</p>
<p>この野性的な出来事を前に、このおじさんは「三郎」に見えてきた。三郎とは『男衾三郎絵巻』の三郎、つまり、中世武蔵の荒武者の姿である。</p>
<p>三郎とハチは、こんなことを毎日繰り返しているのかもしれない。<br> 南武蔵では、犬は従順で、おとなしいペットである。飼い主も優しく、いきなり飛び蹴りを繰り出したりしない。</p>
<p>三郎に弓矢や槍刀を渡したら、さぞかし、勇敢に違いない。<br> また、いざ鎌倉という時には、ハチは三郎のために、決死の働きをするだろう。たぶん。</p>
<p>脳内で大鎧姿となった三郎殿に礼を述べ、私は北西にあるという五十子陣を目指して、自転車を漕ぎはじめた。</p>
<p>(終)</p>

三郎とハチー五十子陣ー

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

五十子陣 フィールドをゆく

<p>五十子陣の北側、利根川南岸から赤城山(右側)と榛名山(左側)がうっすら見える。</p>
<p>享徳の乱の時には、利根川北岸に古河公方・北関東勢が陣取り、南岸の五十子陣には両上杉勢が対陣していた。<br>ということは、こんな感じの風景を太田道灌、長尾景春らも見ていただろう。</p>

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埼玉県 本庄市

【鎌倉歴史散歩の本】<p>鎌倉は過去と現在が背中合わせになっている面白い街だ。<br>キラキラしつつも渋みの効いたカフェの裏手にやぐらがあるという感じである。</p>
<p>今回は鎌倉の過去に焦点を当て、鎌倉歴史散歩の時に、私が使っている本をご紹介したい。</p>
<h2>神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『鎌倉散歩24コース』</h2>
<p>この本は、コンパクトに鎌倉の史跡案内と小事典が載っていて重宝する。<br> また、軽いので、持ち運びは楽。</p>
<h2>高橋 慎一朗『武家の古都、鎌倉』</h2>
<p>『武家の古都、鎌倉』は、都市としての鎌倉の解説書。<br> 鎌倉幕府所在地の変遷や名越などの地域の解説など、鎌倉の骨格をざっくり知ることができる。<br> また、100ページ強の小冊子という感じの本なので、持ち運びも容易。</p>
<p>なお、両書とも山川出版社から出ている。</p>
<h2>鎌倉が舞台の歴史小説:高橋克彦『時宗』</h2>
<p>歴史小説があると、やはり、興味が湧くものである。<br> 高橋克彦『時宗』は2001年に放送されたNHK大河ドラマ「北条時宗」の原作。<br> 蒙古襲来という国難に立ち向かった北条時宗が主人公。</p>
<h2>歴史散歩コースの作り方</h2>
<p>『鎌倉散歩24コース』にコースサンプルがあるので、自分の興味に合わせて、つぎ接ぎしてオリジナルコースを作っている。</p>
<ul>
<li>「鎌倉幕府の成立と幕府所在地の変遷」というふうに、大まかにテーマを決める</li>
<li>『鎌倉散歩24コース』を参考にして、3つほど、訪問する場所を決める</li>
<li>どういう経路でまわるかを決め、その経路の近くに、行ってみたい場所があるか調べる</li>
</ul>
<p>という感じである。<br> 実際に、2013年8月下旬に行った時のまとめは↓<br> 鎌倉幕府所在地と八幡宮を歩く</p>
<p>ちなみに、出発前にコースを完全に決めているわけではなく、行きの電車や現地で、『鎌倉散歩24コース』を見ながら、微調整することも多い。</p>
<h2>マップ好きは入手しておきたいイラストマップ</h2>
<p>北鎌倉のタバコ店屋さんで、「鎌倉のさんぽ道」と「かまくらぶらつくマップ」というのが売っていた(確か<a>ここ</a>だったと思う)。<br>「鎌倉のさんぽ道」は山・谷、主要な寺などがデフォルメされて描かれているので、最初にざっくり頭に入れておくと便利だと思う。</p>
<p>「かまくらぶらつくマップ」(100円)は、手描きで史跡案内・店舗案内・ちょっとした現地のメモなどが1枚に描かれている。ゴチャゴチャしているのが面白い。</p>
<h2>蛇足: 鎌倉で使っているマップアプリ</h2>
<p>私は普段Googleマップを使っているが、鎌倉散歩の時は、マピオンの方が使いやすいと感じることが多い。<br> マピオンの場合、自分が使っている縮尺で、交差点などの目印が的確に表示されるように思う。『鎌倉散歩24コース』のマップは結構ざっくりしているので、周辺まで行って、探すことも少なくない。そういう時にマピオンは便利。</p>
<p>関心のある方は試してみてください。<br> iPhone版: <a>地図マピオン</a></p>
<p>(終)</p>

鎌倉歴史散歩の本

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

鎌倉歴史散歩

【杉山城のおじいさん】<h2>寄居から旧鎌倉街道を南下</h2>
<p>今年(2010年)5月初旬のある日、私は寄居まで電車で行き、荒川沿いに東進して、赤浜にゆき、そこから、旧鎌倉街道沿いに南下した。南下して、 (高見原の合戦があった)高見原の四津山城を見て、下りてくる頃には12時半頃になっていた。飲み物も少なくなり、のどが渇く。そして昼飯時でもあったの で、どこか適当なところで店に入るか、コンビニで昼食を買おうと思った。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月撮影</em><br><em> 四津山城(高見城)からの眺め。物見の城としては申し分ない視野である。</em><br><em> 山麓を鎌倉街道が通っている。旧鎌倉街道沿いを北から走ってくると、この山が四津山城だとすぐに分かった。ということは城からも私が走ってきた道が見えているはずである。</em><br><em> なお、写真中央あたりで、長享2年(1488年)に両上杉勢が戦った(高見原合戦)。</em>
</div>
<h2>店がない</h2>
<p>自転車で走り始めると、そば屋やうどん屋など、いくつか店があったが、もう少ししっかり食べたいと思っていたので通り過ぎた。さすがに我慢できなってきたので、コンビニで何か買おうと思っていたが、行けども行けどもコンビニがない。どうもコンビニがない地域らしい。本当にないので弱ったなと思っていたら、 ついに一軒食料品店を見つけ、そこでおにぎりやパン、飲み物など、昼食を買うことができた。しかし、あれだけの区間、食料品店がないとなると、地元の人は どうしているのだろうか。道路からは見えないところに店があるのだろうか。まあ、いらぬお世話だろうが。</p>
<p>5月とはいえ、13時ごろの日差しが強烈なので、早くどこかで一休みしたいと思った。だが、基本的に道の両側に民家がある他は影になるものがあまりない。都心で高い建物が林立し、日陰が至 るところにある環境とは違うのである。結局、私が選んだのは、鎌倉街道を少し右側に入ったところにあったトンネルの下だった。たまに車と風が走りぬける。 一度、強風で自転車が倒れてしまった。何だか冴えない昼食になったものだ。読者は、「そういったところであれば、木陰など、たくさんあるんじゃないか」と思うかもしれないが、そういったところは私有地なので、気軽には入れない。そして、公園のような施設も見当たらなかったので、人から咎められず、昼食をと ることができるスペースというのは案外なかったのである。</p>
<h2>杉山城へ</h2>
<p>そんなことで、多少苦戦しつつも昼食をとったあと、再度、鎌倉街道を南下し始めた。自転車が走ることを想定していないためか、あまり走りやすい道とはいえない道だった。次の目的地は杉山城だ。杉山城は菅谷館から北西に3kmほどのと ころにあり、当城の西側を鎌倉街道が通っている。そのため、鎌倉街道を押さえるのに適した立地にある。したがって、鎌倉街道を北から来た勢力も、南から来 た勢力もこの城は目障りなので落とそうとしたことだろう。</p>
<p>さて、プリントアウトした地図を見ると、杉山城の近辺に来ているのは明らかなのだが、実際にはどこなのか分からない。鎌倉街道を東に入って、しばらく山を見 ていると、どうやらこの辺りだなと目星がついた。次に見つけるべきは城の入り口だ。城址公園になっている城を除いて、山城の入り口はそれほど簡単には見つ からない。また、城はどこからでも入れるわけではなく、大抵、入り口は2つ程度であり、その入り口を見つけないと城の中には入れない。</p>
<h2>杉山城のおじいさん</h2>
<p>どこが入り口なのか、トロトロ走りながら見ていたのだが、なかなか見つからない。そういう場合は、地元の人に聞くのが一番である。早速、その辺に誰かいないか、見回しているものの人がいない。この辺は人口密度が低いようだ。仕方がないのでもう少し走っていると、明らかにここが城だと確信した。すると、ほぼ同時に屋根つきの車庫に人がいることに気付いた。どうやら、おじいさんらしい。</p>
<p>杉山城の入り口を聞くため、私は自転車を降り、おじいさんのほうに近づいた。<br> すると、おじさんが手招きしている。どうしたことかと驚いていると、挨拶する間もなく、私の自転車に関する質問がおじいさんから発せられた。</p>
<p>「いい自転車じゃのう。」<br> 「ありがとうございます。」<br> 「日本製か?」<br> 「いえ、イギリス製です。ブロンプトン(BROMPTON)といいます」<br> 「そうか、まだ、日本のメーカはこういう自転車を作れんのか。」非常に悔しそうである。かつて、東京都板橋区の赤塚で、団塊の世代の退職組と思しき人々に声をかけられたとき、同じ質問と同じ反応を得た。これは生きた時代を反映した反応なのだろうか。<br> 「まあ、同じような折りたたみ自転車は、ブリジストンなんかが出していますが、私はこの自転車を選びました。というのはですねえ・・・」<br> と、なぜか自転車の営業マンのように、私はブロンプトンの折りたたみ機構やバッグのシステムを説明し、実際に、折りたたんだり、組み立てたりして実演し た。私自身がこの自転車をはじめて見て、試乗したときに感動して、その日のうちに現金で買ったのであるから、説明にも力が入る。おじいさんも、時に感嘆 し、時に唸りながら、説明を聞いていた。<br> もし私がこの自転車の購入契約書を持参していたら、おじいさんは判子を押しかねない勢いだった。</p>
<p>自転車の話が一段落すると、<br> 「わしが若い頃はこんなものはなかった。わしが若い頃は戦争で・・・」とおじさんが経験した戦争の話がはじまった。大変興味深い話ではあったが、おじいさんの個人的なことは私の胸の中に留めておくことにする。同じ青年期でも、これほど違うものかと私は思った。</p>
<p>その話の中で、油に関する興味深い話があった。戦争も末期になると、資源が乏しい日本は物資不足が深刻だった。特に致命的だったのは、石油や石炭などのエネルギー物資の不足である。おじいさんによると、松から油をとっていたというのである。その油が服に付いて重くなり、往生したそうだ。<br> その話を聞いて、私は驚愕した。というのは、松から油をとるという話は戦国時代の城の本で読んだことがあったからだ。まさか、戦国時代と同じことを目の前の人が65年ほど前に実際にやっていたとは。<br> 城内やその周辺には松がよく植わっているが、これは偶然ではなく、松は建築資材、燃料、油、食料、そして、景観など、多目的に役立ったそうである。<br> 以前から戦国時代を背景にした黒澤映画を見ていて、本当にこんな感じだったんじゃないかと思うことがある。特に、農民の姿や歩き方などは非常にリアルに感じる。現在は機械化が進んでいるので、ああいう作業を経験したことがある人はもういないだろう。たとえ黒澤監督が生きていても、かつての黒澤映画のような 芝居ができる役者はいるだろうか。<br> 別の言い方をすると、弥生時代から戦後の高度経済成長まで、農村の暮らしは本質的に連続していたのかもしれない。</p>
<p>戦争の話が終わると、おじいさん自身の人生観とその人生観に裏打ちされた事業の話がはじまった。<br> おじいさんは戦争を経験したためか、「今この時をいかに生きるか」という意識がものすごく強い人だった。「人生は一度しかないから、自分のやろうと思った ことを徹底してやるのが一番だ」、こういう人生観である。こういった人生観に裏打ちされた、おじさんの農業経営の歴史は興味深いものだった。「人生は一度しかないから」、牛や馬はおろか、ヤギまで飼ったことがあるという。その他、どんなことをしたかいろいろと話してくれた。<br> そして、その話と連動したのが、杉山城の西を流れる市野川である。市野川はこの辺りでは鎌倉街道と平行して流れ、菅谷で東に流れを変え、松山城に向かう。 この市野川の開発と農地の増加、そして、治水技術の向上に伴う洪水の減少など、まさにおじいさんは市野川の変化の生き証人といえるだろう。幸いにも、私は経済と歴史に興味を持っているので、各時代について、大体の予備知識を持っていたため、適宜、質問しながら話を聞くことができた。すると、高度経済成長期 の60年代を中心に猛烈な勢いで開発が進んだ様子が手に取るように分かった。</p>
<p>話が一段落した感があったので(何だかんだと1時間以上話していたようだ)、私は杉山城の入り口を教えてもらって、いよいよ出発することにした。<br> 「どうも、いろいろ教えてもらってありがとうございました。」<br> 「いやいや、また、ここに来ることがあったら、うちに寄っていきなさい。君の姿・形はよく覚えておくから。」</p>
<p>私はもう一度別れの挨拶を言って、屋根つき駐車場をあとにした。</p>
<h2>杉山城入り</h2>
<p>おじいさんと別れた私は杉山城の北側の入り口に向かった。<br> 噂には聞いていたが、杉山城にこれほどの遺構が残っているとは驚きだった。保存状態の良さという点では、神奈川県の小机城を連想した。虎口(曲輪の出入り 口で、一気に多くの人数が入ってこられないように狭くなっている)、横矢掛かり(虎口に押し寄せる敵の側面から弓矢を放つ構造)などが、多数の曲輪に配置 され、よくもここまで作りこんだものだと感心した。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年5月撮影</em><br><em> 杉山城の西側から見下ろすと、かつて鎌倉街道上道が通っていた平野が見える。</em></p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年5月撮影</em><br><em> 本丸東虎口。土塁が出入り口が狭くなっているのが分かる。廃城になるときに、虎口の石積みが崩されたようだ。</em></p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年5月撮影</em><br><em> 技巧的といわれる杉山城の虎口。虎口が凹んで左右の土塁の出っ張りから、敵に弓矢を集中させる構造になっている。</em></p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年5月撮影</em><br><em> 今でも水をたたえる窪みに大きな石が置いてある。廃城時に、このようにしたようだ。</em></p>
<p>中武蔵以北の山城の場合、名の通った城でないと人に会うことはあまりない。会うとしたら、デジカメを持った若い男性が多い。この日も、若い男性が1人でデジカメを持って歩 いていた。ただ、若い女性が1人で歩いていることもないではない。しかし、この日は母娘という感じの2人が歩いていたので、何事かと思った(母のほうは、 40代半ば、娘のほうは20代前後くらいように見えた)。後で、大手口(城の南側の入り口)のほうに行くと、お寺(積善寺)の辺りにクルマがいくつか停車していたので、ああこれかと思った。二人連れの女性は「ついで」に城に来たのかもしれない。ぱっと見た感じ、はやりの「歴女」には見えなかった。</p>
<p>たっぷり見てまわって満足したので、北側の出入り口に戻ることにした。だが、少し道を外れてしまったようで、出口が見つからない。仕方がないので、道に出られ そうなところを探すことにした。少し歩くと、何とか降りられそうな所に出たので、そこからジャーンプした。だが、着地したところが軽い泥濘(ぬかるみ) だった。足に衝撃はあまりなかったが、多少靴がよごれた。やはり、城はちゃんとした出入り口から出入りしたほうが良さそうだ。私は苦笑いしつつ、自転車を置いたところに行って、出発することにした。</p>
<p>自転車で走るとすぐに、先程話し込んでいたおじいさんの家がある。通り過ぎるときにチラッと駐車場を見ると、あのおじいさんがいたので、「あっ、どうも!」といって、私は手を振った。すると、おじいさんはなんと敬礼で見送ってくれたのだった。<br> なにゆえの敬礼だったのかは分からない。が、その瞬間、私は若き日の彼の姿を見た気がした。そして、その立ち姿は何とも美しく思えた。これが様式の持つ美しさだろうか。おじいさんやおじいさんの世代は戦争で激烈な体験をし、戦中も戦後も働いて働いて日を過ごし、今に至る。あの時代は、捉えようによっては世界規模の戦国時代だったと言えるかもしれない。戦国時代の足軽の装備と日本帝国陸軍の装備の類似性を説いた本を読んだこともある。<br> この世代の人はあまり語らないが、容易に語ることができなほど、内的に深い体験だったのかもしれない。この世代が書いた歴史小説を読むとそれがよく伝わってくる。私はその様式の美しさに表現できない哀しみのようなものを感じながらも、おじいさんから何か大切なものを受け取った気がした。私はもはや振り返ることなく、前方からの風を感じながら、自転車を走らせた。</p>
<p>(終)</p>

杉山城のおじいさん

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

杉山城 フィールドをゆく

<p>杉山城の井戸跡。<br>廃城時に置かれた思われる巨石が見える。</p>

作成日:2014/6/25 , by fuji3zpg 開く

<p>杉山城の虎口。虎口が凹んで左右の土塁の出っ張りから、敵に弓矢を集中させる構造。</p>
<p>それにしても、1つ1つのパーツが小さい。<br>廃城時に埋められたのと経年による土砂堆積があるにしても。</p>

作成日:2014/6/25 , by fuji3zpg 開く

<p>杉山城の本丸東虎口。土塁が出入り口が狭くなっているのが分かる。<br>廃城になるときに、虎口の石積みが崩されたそうだ。</p>

作成日:2014/6/25 , by fuji3zpg 開く

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