fuji3zpg さん
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場所 武蔵
ホームページ http://www.f-souken.com/
<p>糟屋館の位置は、はっきりしていない。かつては、上粕屋にある産能大学あたりと言われていた。<br> 分かりにくいが、写真中央部左側の建物が産能大学である。高台にあることが分かる。</p>

作成日:2014/6/27 , by fuji3zpg 開く

【実蒔原古戦場から七沢城を遠望】<p>実蒔原合戦の前、上杉顕定勢は、上杉定正勢が追ってくるまで、七沢城(要害)を攻めていた。</p>
<p>写真の中央が神奈川リハビリテーション病院で、七沢城の中核部分と言われている。写真から分かるように、実蒔原古戦場から七沢城を目視できる位置にある(直線距離で1km程度の距離)。</p>

実蒔原古戦場から七沢城を遠望

作成日:2014/6/26 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

七沢城 上杉定正 上杉顕定 長享の乱

【実蒔原古戦場の風景】<p>ご覧のとおり、台地に平野が広がっている。遮るものがないので、空が近い感覚だった。</p>

実蒔原古戦場の風景

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 厚木市

【実蒔原古戦場の石碑】<p>ここに来る前に、実蒔原合戦に関する案内板があるが、そこで猛烈に吠える犬がいた。</p>
<p>心臓に病気を持つ人は注意が必要だろう。かなりしつこく吠えていたが、無視して案内板を読んでいたら、そのうち吠えなくなった。粘り勝ちである。</p>

実蒔原古戦場の石碑

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 厚木市

【三保の松原】<p>訪れたのが、梅雨時期の月曜日の午後2時ごろというのもあってか、観光客は少なかった。</p>
<p>伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』の「道灌謀殺」(12ページ)において、雲が切れて、富士山と松が黄金色に染まるという意味の描写がある。そのような景色を期待していたが、今回はダメだった。</p>

三保の松原

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

【環濠集落の大塚遺跡を見学】<h2>城郭史的観点で</h2>
<p>今まで関東の北条系の戦国の城を中心にまわってきたのだが、今年(2013年)の夏前から、鎌倉・室町の城として鎌倉、そして、近世の城として江戸城もまわりはじめた。狙いは、城郭史的に重要な形態の城の理解を深めるためだ。</p>
<p>城郭史の本を読んでいると、環濠集落にはまだ行っていないことに気づいた。城郭史的に見ると、環濠集落も立派な防御施設を持った城である。<br> そこで、その本に載っていた大塚遺跡(神奈川県)という弥生時代の環濠集落に行くことにした。</p>
<h2>出発</h2>
<p>13 時半頃、自宅を出発し、二子玉川駅まで自転車で移動し、そこからあざみ野駅まで田園都市線に乗った。この区間は丘陵が連続し(多摩丘陵の北側)、去年、こ の辺を自転車で走行して、結構辛かったため、電車を使った(昨年の今頃、調布の自宅から自転車で、大塚遺跡から近距離の茅ヶ崎城まで行ったことがある)。</p>
<p>あざみ野駅を出て、早渕川に沿って、大塚遺跡に向う。思っていたよりも暖かい。途中で、薄手のウィンドブレーカーを脱いだ。<br> 昨年も同じコースを走ったので、特に迷うこともなく、大塚遺跡に着いた。</p>
<h2>横浜市歴史博物館</h2>
<p>ちなみに、大塚遺跡のすぐ西には、<a>横浜市歴史博物館</a>がある。<br> 去年は、畠山重忠の特別展を見てきた。かなり大型の施設で、展示も充実していた。<br> この日はあまり時間もないので、見送った。</p>
<p><img></p>
<p><em>帰りに撮った横浜市歴史博物館の写真。写真の外側で見えないが、左側にも建物があって、館内は広い。</em></p>
<h2>茅ヶ崎城</h2>
<p>大塚遺跡は、大塚・歳勝土遺跡公園内にある。大塚・歳勝土遺跡公園の南側から入るべく、移動していると、茅ヶ崎城が見えた。<br> 去年は、茅ヶ崎城から大塚遺跡の台地を見ていた。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2012年11月撮影</em><br><em>茅ヶ崎城から大塚・歳勝土遺跡が見える。</em></p>
<p>茅ヶ崎城は、神奈川湊と府中を結ぶ街道沿いにあり、城の北側の東西の位置に街道が通っていたという。茅ヶ崎城は室町から戦国時代まで使われた。現在は、城址公園化されている。</p>
<h2>歳勝土(さいかちど)遺跡</h2>
<p>歳勝土遺跡は、方形周溝墓の遺跡。方形周溝墓とは、名前の通り、四角い墳墓で、墳墓の周りに溝が掘られている。歳勝土遺跡では、方形周溝墓が5基復元されている。本物の方形周溝墓は、復元された方形周溝墓の下にある。</p>
<p><a><img></a></p>
<h2>大塚遺跡</h2>
<p>大塚遺跡は外周600mほどの環濠集落で、集落を巡る環濠、土塁、木柵、木橋、竪穴住居7棟、高床倉庫1棟などが復元されている。<br> なお、環濠集落としては、<a>吉野ヶ里遺跡</a>(佐賀県)が有名だ。</p>
<p>歳勝土遺跡から80mほどの所に、大塚遺跡はある。<br> 石碑の背景の木柵が、大塚遺跡の外周で、写真の右端から大塚遺跡に入る。<br> なお、写真中央の凹んだところに木橋が復元されている。</p>
<h2><a><img></a></h2>
<h2>大塚遺跡の入り口</h2>
<p>大塚遺跡の入り口まで来ると、「おおー」という感じだった。まさに、資料や映像などで見知った環濠集落がそこにある。</p>
<p>そういえば、復元された竪穴住居を今まで見たことがあったか、定かではない。それほど古代以前の遺跡というものに無関心だった。それも今日でおしまいである。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>復元木橋</h3>
<p>歳勝土遺跡に通じる木橋。やや防御に不安を感じる。<br> まあ、堀の幅約4m、深さ約2mと書いてあったので、実際にはもっと堅牢だったのかもしれない。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>竪穴住居の外観</h3>
<p>復元された竪穴住居。まだ、発掘調査が行われているようだ。</p>
<p><a><img></a></p>
<p>南西隅の竪穴住居。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>竪穴住居の内部</h3>
<p>竪穴住居の内部。縦の骨組み(垂木、たるき)を構築して、横(桟、えりつ)で補強。そして、下からカヤで葺き上げて作るらしい。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>弥生式土器</h3>
<p>大塚遺跡の竪穴住居内にあった弥生式土器。<br> 室内は少しヒンヤリして湿気があり、どの竪穴住居にも蚊がいた。当時はカマドで火を炊いたりしていただろうから、おそらく、これほど湿気はなかったのではないか。どうなんだろうか。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>高床倉庫</h3>
<p>復元された高床倉庫。湿気から穀物などを守るため、床が高くなっている。また、ネズミを防ぐため、高床倉庫の足にはネズミ返しが付いている。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>土塁と堀</h3>
<p>戦国時代の土塁は、堀の土を内部に掻き上げて作るが、大塚遺跡では、外側に掻き上げたようだ。なぜこういう構造にしたのか分からないが、当時の状況では何らかの合理性があったのかもしれない。</p>
<p>なお、ここ(大塚遺跡の北側)が集落防衛の正面だったようで、ここから北側にもう一重の堀が発掘されている。</p>
<p><a><img></a></p>
<h2>見学を終えて</h2>
<p>竪穴住居、高床式倉庫、土塁と堀など、当時の復元を見ることで、かなりイメージが膨らんだ。<br> 吉野ヶ里遺跡の方が大規模で見応えもあるだろうが、何せ関東から見に行くには遠い。</p>
<p>なお、大塚遺跡は、入場料は無料。大塚遺跡は17時に閉まるので、ご注意を(大塚・歳勝土遺跡公園には、いつでも入れる)。<br> 横浜市営地下鉄センター北駅から大塚・歳勝土遺跡公園へは徒歩8分らしい。</p>
<p>*Wikipediaの<a>大塚・歳勝土遺跡</a>に多少まとまった情報が載っている。</p>
<h2>茅ヶ崎城再訪</h2>
<p>大塚遺跡見学のあと、せっかくなので、茅ヶ崎城に向かった。しかし、日没が早く、茅ヶ崎城に着いた頃にはほぼ真っ暗。<br> しかし、まあいいやと城内を歩いてみた。北郭で、犬の散歩に来たおじさんに会った他、誰もいない。<br> 公園化されているので、所々に外灯が立っていて、そこを歩く。</p>
<p>冷気を含んだ風が、木の枝々を揺らせている。</p>
<p>もう一度来ることはないかもしれない。<br> そんなことを思いながら、茅ヶ崎城をあとにした。</p>
<p><a><img></a></p>
<p>(終)</p>

環濠集落の大塚遺跡を見学

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

大塚遺跡 環濠集落 フィールドをゆく

【狩野城の月見曲輪】<h2>修善寺の要地、柏久保城</h2>
<p>その日、三島駅から修善寺駅へ行き、修善寺駅から柏久保城を訪問した。</p>
<p>明応2年(1493年)北条早雲は伊豆討ち入り、堀越公方・足利茶々丸のいる堀越御所を落とした。南下する早雲勢は、中伊豆の狩野勢と激突した。狩野氏は平安以来、中伊豆に蟠踞する勢力で、茶々丸に味方した。両者の衝突点が、現在の修善寺駅の東側の山城・柏久保城である。</p>
<p>柏久保城を狩野川沿いに南下すると、狩野城に至り、大見川沿いに東に行くと、大見城に至る。つまり、柏久保城は、2つの川の接結点にある要地だった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>北条早雲の伊豆討ち入り後の中伊豆勢力図マップ(1493-98年)。青色の城が早雲与党の城で、赤色の城が茶々丸与党の城である。</em></div>
<p><br>早雲は柏久保城・北側の急斜面を襲って、この城を落としたらしい。<br> 柏久保城の北側には、「新九郎谷」の石碑が建っている。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>二の郭から主郭方面を撮影。お堂辺りから主郭。当時、北条早雲に敵対していた狩野氏の本拠地、狩野城が南方にあったため、南側(左側)の土塁がある。</em></p>
<p>なお、大見城の大見三人衆は、早雲に味方した。大見三人衆は、狩野勢に攻められている柏久保城を後詰し、狩野勢を撃退したとのこと。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>狩野川が北流し、右手にクッキリ富士山が見える。ここからすぐ上流(左手前方面)で、大見川が狩野川に合流している。</em></p>
<h2>狩野城へ向う</h2>
<p>その日の予定では、柏久保城の次は、狩野城に行く予定だった。<br> 柏久保城は、富士山が見え、遺構もよく残っていて、想像以上によい山城だったため、予定よりも長居してしまった。</p>
<p>もう正午なので、途中で、どこかの店に入り昼食をとろることにした。</p>
<h2>向かい風</h2>
<p>もう11月も下旬だというのに、この日は強い南風が吹いている。しかも、南の天城山が高地で、北の三島が低地のため、ずっと緩い坂道が続く。<br> 分かっていたことなので、頑張って自転車を漕ぐ。</p>
<p>しばらくすると、後ろに自転車の気配がする。<br> 振り向くと、白髪の男性がサイクリングウェアでマウンテンバイクで走っていた。<br> よくあることなので、特に気にはしない。</p>
<p>南風がきつい。ちょっとした坂がはじまり、スピードが落ちる。<br> すると、後ろの男性が並走し、声をかけてきた。</p>
<p>「こんにちは。」<br> 「どうも、こんにちはー」</p>
<p>「どちらから来られたんですか?」<br> 「ええと、東京からです。」</p>
<p>「どちらへ行かれるんですか?」<br> 「狩野城です。」<br> 「私も同じ方向です。」</p>
<p>そんなことを話していると、坂がきつくなってきた。<br> 私は坂道に対して、ストイックな人間ではないので、あっさり自転車を降りた。<br> 男性も降りた。</p>
<p>坂を登ったところで、また乗って、一緒に狩野城に向うことになった。</p>
<h2>自転車で歴史談義</h2>
<p>風さえなければ、どうという距離ではなかったが、強い南風のために、話しながら、狩野城にノロノロ向う。<br> よく晴れた空に左右から山が迫る。風景があまり変わらないので、進んでいる感じはあまりしない。</p>
<p>話を聞くと、サイクリングウェアの男性は、大見城近くに住み、最近、伊豆の史跡をいろいろ周っているとのこと。</p>
<p>「なぜ狩野城に行こうと思ったんですか?」<br> 「北条早雲のことを調べているんです。さっきは、柏久保城に行ってきました。」<br> 「へえ、よく前は通るんですが、まだ登ったことはないんですよ。」<br> 「そうなんですかー」</p>
<p>「最近の研究では、北条早雲はすぐに伊豆を平定したわけではなく、5、6年かかったと言われています。ご存知のように、狩野城は狩野氏の本拠地で、北条早雲と は敵対関係にありました。狩野勢が柏久保城まで寄せてきたのを、大見三人衆が駆けつけて、狩野勢を撃退したそうですよ。」<br> 「はー、そうでしたか~」</p>
<p>とこんな感じで、いろいろと話をしていると、ついに狩野城まで来てしまった。<br> 腹が空いてきた。が、話が尽きない。</p>
<p>狩野城の北側の谷を通り、東側に出て、坂道を登った。</p>
<h2>狩野城の入り口</h2>
<p>「ここが狩野城の入り口です。」<br> 「あ、どうもいろいろご親切にありがとうございました。」</p>
<p>そういって、私は茂みに自転車を停めた。</p>
<p>すると、男性は<br> 「ええと、ここを登って行くと、私の別邸があるんですが、お茶でもいかがですか?そこからちょっと行くと、狩野の殿様が月見をしたという場所がありますよ。」</p>
<p>狩野の殿様が月見をした場所か、なかなか興味深い話である。<br> 狩野城を訪問したら、あとは帰るだけ。</p>
<p>「ええ、そうですか。うーん。。。」<br> 「じゃあ、お邪魔してよろしいですか」<br> 「どうぞどうぞ」<br> ということで、歩いて、男性の別邸にご案内頂いた。</p>
<p>西へ坂道を歩くこと10分弱で、別邸に到着。<br> 柿とコーヒーを頂きながら、早雲や狩野城の話、裾野の葛山氏の話などをした。柿では腹が満たされないので、非常用に買っておいた6個入りのレーズンパンを出して食べた。男性にも1つ差し上げた。<br> 時計を見ると、1時間半ほど経っていた。そろそろということで、月見の場所(月見山)に案内して頂くことになった。</p>
<h2>狩野城の月見曲輪</h2>
<p>別邸から歩くこと3分程度で、山道に入り、落ち葉をシャリシャリ踏みながら進む。</p>
<p>都合7分程度で月見曲輪に着いた。月見曲輪は、山城の痩せ尾根を平場にした感じで、北側に突き出ていた。しかし、北側は木々が茂っていて、見通しはほとんどきかない。ここで月見をしたとすると、南側を正面に幕を張ったのだろうか。</p>
<p>伝承によると、狩野の殿様(狩野茂光)が源頼朝とここで月見をしたという。<br> 頼朝は狩野の殿様と何を語らったのだろうか。</p>
<p>月見曲輪の北西隅に「狩野介茂光公観月之跡」と刻まれた石碑があった。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>源頼朝が伊豆で挙兵した時に(1180年)、狩野茂光は頼朝に味方したが、石橋山の戦いで、平氏勢力に敗れて戦死した。</em></p>
<p>石碑の横に小さなお堂があるが、朽ちつつある。代々、このお堂を管理されていた家があったそうだ。<br> なぜ朽ちつつあるのか、伺った気がするが、忘れてしまった。</p>
<h2>再び、狩野城の入り口</h2>
<p>いろいろと親切にして頂いたサイクリングウェアの男性に狩野城の入り口まで送ってもらい、そこで別れた。</p>
<p>この男性と知り合うことがなければ、月見曲輪に行くことはなかっただろう。<br> そして、狩野の殿様と頼朝の月見を空想することもない。</p>
<p>一期一会の妙を噛み締めながら、私は狩野城に入っていった。</p>
<p>(終)</p>

狩野城の月見曲輪

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

狩野城 柏久保城 フィールドをゆく 北条早雲

<p>狩野城の「狩野介茂光公観月之跡」と刻まれた石碑。</p>

作成日:2014/6/26 , by fuji3zpg 開く

【荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-】<h3>舞台は赤浜</h3>
<p>鉢形城の東に赤浜という土地がある。ここが鎌倉街道上道の荒川渡河地点だった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 荒川の南岸、赤浜の渡し(渡河地点)付近。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>意外と少ない渡河地点</h3>
<p>川というのは、一見どこでも渡れそうだが、大河の場合、川底の地形や水量の多寡という条件があるため、渡れるところと渡れないところがある。渡れて、かつ、交通の便がよい場所が重要な渡河地点となる。</p>
<p>現在、荒川であれ、利根川であれ、川沿いを自転車で走ると、サイクリングロードが整備され、快適に走ることができる。基本的に堤防に囲まれているので、視界は限られる。その限られた視界に、橋が現れては消えてゆく。「○○橋」という橋の名前を見ないと、自分がどこまで走ったか、分からなくなる。</p>
<p>いずれにしても、これらの橋があることで、両岸を容易に行き来できる。だが、もし橋がなかったらと想像してもらいたい。渡るのは大変である。まず、川を渡ると、服が濡れる。転んで怪我をしたり、下手をすると、溺れて落命するかもしれない。であるから、かつて、渡河していた人々はおそらく何か用事があって川を 渡っていたはずで、荷物を持っていることも多かっただろう。</p>
<h3>架橋・治水技術の成果</h3>
<p>江戸時代に、大井川の増水によって、宿場町に何日も足止めされ、その間に路銀をすっかり失ったという話もあるように、大河というのは雨が降って増水すると渡れなく なることがあった。現代は極端な場合を除いて、川が増水して渡れないというケースは経験しないだろう。それは川の上流にダムなどの治水対策が施されていて、水量を調節しているためである。</p>
<p>実際、長尾景春の乱が発生した当初、太田道灌は相模にいる味方を呼び寄せて、江戸城-川越城ラインを遮断する豊島氏を攻めようとしたが、大雨で多摩川が増水して、相模勢は来ることができなかったという。</p>
<h3>渡河作戦の難しさ</h3>
<p>このように、橋とダムによって、現代では川を意識することが少なくなったが、中世における河川の状況は随分違ったことをお分かりいただけたと思う。しかも、軍事作戦で川を渡るとなると一層困難である。</p>
<p>まず、重量のある甲冑を身につけ、騎馬武者は馬に乗って渡河する。そればかりか、対岸には敵が手ぐすね引いて待っているのである。<br> 水の中では、陸上のように機敏に動けないから、まさに格好の標的となってしまう。そして、味方に死傷者を出しながらも、弓矢の雨の中を必死に渡って、運よく対岸に着いたとしても、優勢な敵が味方を袋叩きにしようと待っている。</p>
<p>このように渡河作戦は困難なので、孫子の兵法書に渡河方法が書かれている(行軍篇(第九))ほど、渡河はいくさにおける重要なテーマだった。</p>
<h3>扇谷上杉定正</h3>
<p>さて、この話の主人公は、扇谷上杉定正という人物である。<br> この男は、山内上杉顕定にそそのかされて、自分を擁立し、しかも自家の勢力を強めてくれた、家宰の太田道灌を謀殺した人物として歴史に記録されている。道灌を謀殺したことで、定正に見限りをつける勢力もあり、扇谷家の勢力は減退したが、定正は凡庸な人物ではなかった。</p>
<h3>定正、関東三戦に勝利する</h3>
<p>道灌謀殺後、定正は関東管領家の山内上杉顕定と対立関係に入った。</p>
<p>不利な形勢の中で、軍事面では長享2年(1488年)の関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)を有利に進め、外交では第2代古河公方の足利政氏や政氏の庇護下にあった長尾景春、そして、伊豆を奪取した北条早雲を味方につけ、山内上杉顕定に対抗した。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦</h3>
<p>その後、徐々に勢力を北武蔵に伸ばした定正はついに明応3年(1494年)に荒川に到達し、渡河しようとした。なお、この作戦には定正の援軍として早雲も参戦している。<br> もしこの作戦が成功し、上野国の山内上杉氏を倒せば、山内上杉氏に代わって、扇谷上杉氏が関東の覇者になれる可能性が出てくる。</p>
<p>だが、ここで思いがけないことが起こったのである。定正が荒川渡河時に落馬して、頓死してしまった。扇谷上杉氏の当主になってから約20年もの間、関東の戦乱を生き抜き、道灌謀殺後の苦しい時期も何とか切り抜けてきた定正に一体何が起こったのか。それは残念ながら分からないが、荒川の存在とその流れが彼の落 命の一因となったことは確かだろう。</p>
<p>定正落命は、司馬遼太郎『新装版 箱根の坂(下)』 (講談社文庫)<img>、伊東潤『疾き雲のごとく』<img>の第2話「守護家の馬丁」で書かれている(司馬さんの本では赤浜を過ぎた荒川北岸で、伊東さんの本では荒川南岸で死亡したことになっている。詳しくは各書籍をご覧いただきたい)。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦失敗時の関連人物たち</h3>
<div> </div>
<h3>定正の死と扇谷上杉氏の衰退</h3>
<p>原因はどうあれ、定正が死去したことで、元々、勢力的に劣勢だった扇谷上杉氏は急速に衰退していく。結果からみると、やはり彼の存在が扇谷上杉氏を支えていたことが分かる。</p>
<h3>早雲を関東に引き入れた定正</h3>
<p>もう1つ、彼の果たした役割としては北条早雲を関東に引き入れたことである。<br> 定正の養子、扇谷上杉朝良の代に早雲は小田原を手に入れ、関東の西の入り口に地盤を得た。そして、最終的に、早雲は相模一国を手に入れるのである。<br> それから半世紀ほど後、早雲の孫、北条氏康が最終的に川越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼすことになる。短期的に正しい決断が、長期的に見ると必ずしも正しくないこともあるという一例だろう。</p>
<h3>再び、赤浜</h3>
<p>私は赤浜の渡しで大きな石の前に立っている。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 赤浜の渡河地点付近の写真。</em><br><em> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</em>
</div>
<div> </div>
<p>5月初旬だったこともあり、ボカボカ陽気で眠くなるようなところだった。<br> 中世の名もなき人々、そして、著名な歴史人物(たとえば、元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府を倒すため軍を率いて鎌倉街道上道を南下した新田義貞)もこの辺りを渡ったことだろう。<br> そして、高見原から鎌倉街道の上道を北上してきた定正は、鎌倉街道上道の高地から赤浜の低地の風景を目にしたあと、この辺りで荒川を渡河しようとして落命したのかもしれない。</p>
<p>今は近くに橋がかかっているので、釣り人らしき人以外、誰も顧みないこの地は、かつて坂東武者たちの生死を懸けた歴史の舞台だったのである。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。</em><br><em> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</em><br><em> 赤浜の北岸が花園である。</em><br><em> 荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</em>
</div>
<p><a><img></a></p>
<div>2010年5月1日撮影:<br> 上の写真を撮影した付近に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標識がいくつか立っている。</div>
<div> </div>

荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

赤浜の渡し 上杉定正 埼玉県 大里郡

<p>赤浜の渡しから少し南下した高台に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標柱がいくつか立っている。</p>

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

鎌倉街道上道 赤浜の渡し 埼玉県 大里郡

ノート【更新順】
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江戸東京たてもの園を訪問
コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
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ノートまとめ【更新順】
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姫路城大天守の昼・夕暮れ・ライトアップ!
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歴史年表【更新順】
『おんな城主 直虎』年表
花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
歴史家・歴史小説家とその時代
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世界史古代概略
ローマと前漢、不思議な成立の符合
古代の日本と西欧
戦国のはじまり
早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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