fuji3zpg さん
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場所 武蔵
ホームページ http://www.f-souken.com/
<p>鎌倉の面白いところは、苔生した中世的世界と現代社会が背中合わせになっている点である。扇谷の切通を抜けると、舗装路に住宅地、そして、もう数分走ると、鎌倉駅前に出た。</p>

作成日:2014/6/24 , by fuji3zpg 開く

【鎌倉の化粧坂切通し】<p>【鎌倉城】化粧坂切通し、噂通り、なかなか中世的な雰囲気が色濃く残っていた。</p>
<p>馬が自由に走れないように巨石が道にある(単なる落石にも見えるが)。しかし、坂自体は短くて、あっという間に 舗装路に出てしまった。軍勢を防ぐのであれば、もう少し防備を固めないとどうにもならないので、おそらく、現在残っている遺構は全体の一部なのだろう。</p>

鎌倉の化粧坂切通し

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

【立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー】<h2>立河原の戦いとその後</h2>
<p>今回のテーマは「<strong>立河原の戦い</strong>」である。</p>
<p>永正元年(1504年)、古河公方、足利政氏を擁する山内上杉顕定の軍勢と扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍が、多摩川と浅川の合流点である立河原で戦った。この戦いを立河原の戦いという。 <br>合戦の結果は、扇谷上杉氏・今川氏親・北条早雲の連合軍が大勝だったものの、その後、越後から越後上杉氏の援軍(越後守護は山内上杉顕定の実弟、上杉房能)が到着し、翌年(1505年)、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に降伏する。その結果、20年弱続いた両上杉氏の対立(長享の乱)は山内上杉氏の勝利で終結した。</p>
<h2>立河原の戦いと関連人物</h2>
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<h2>第5話「稀なる人」で出てくる土地をめぐる</h2>
<p><strong>伊東潤 『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</strong>の第5話「稀なる人」では、立河原の戦いが扱われている。そこで、この話に出てくる土地をまわることにした。 <br>小説では、枡形山城→高幡城→普済寺という流れで話が進むが、その流れで走ると、ダラダラとした上り坂をひたすら登ることになる。 <br>私は、以前、古河城→小山城→結城城を巡った時に、同じくダラダラ続く登り道に苦しめられた。ゆえに、不本意ではあるが、ダラダラ上り坂は避けて、下り坂を選んだのである。</p>
<h2>出発、電車で立川駅へ</h2>
<p>さて、自宅を発して、東京駅に着いたのが午前7時、電車に乗り、普済寺近郊にある立川駅に8時過ぎに到着した。立川駅を出て、さっさと折りたたみ自転車を組み立てる。そして、iPhone4を自転車に装着して、さあ出発。</p>
<h2>普済寺</h2>
<p>最初の目的地は普済寺だった。立川駅から数百メートルほどなので、8時30分前には着いた。</p>
<p>普済寺は東京都立川市にある臨済宗建長寺派の寺院で、武蔵七党西党日奉の支族である立河氏の館があったと言われている。 <br>伊東さんの小説では、立河原の戦いに際して、山内上杉顕定は2代古河公方の公方足利政氏を奉じて普済寺に陣を構えたとしている。現地には、立河氏の館跡と言われる土塁が遺構として残っていた。</p>
<h2>多摩川へ</h2>
<p>普済寺を出て、多摩川には数分ほどで着いた。 <br>サイクリングロードに入ると、実に気持ちよく走ることができる。この日の数日前まで残暑が厳しかったが、この日の午前中は特に涼しく、サイクリングには適したコンディションだった。</p>
<p>さて、サイクリングロード沿いに南東に進み、浅川との合流点の少し前辺りまできた。<br> 伊東さんの小説では、高幡城を出た氏親・早雲の連合軍が多摩川を渡って、普済寺を出撃した山内上杉顕定勢と戦ったことになっているので、距離的に中間地帯のこの辺が戦場になるかもしれないと勝手に想像してみた。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ある程度の広さがあり、大河の河原らしい草が生えている。ただ、河原に石がないので、小説のイメージ通りにはいかない。 なお、戦いは旧暦の9月27日だったとのことなので、新暦で言うと、11月上旬頃ということになる。とすれば、渡河して体が濡れるとさぞかし兵たちは寒かっただろう。顕定にはその様子が好機と映ったとしても不思議ではない。 <br>*写真は東京都府中市四谷の辺り。 なお、渡河作戦の難しさについては、『荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正- ~その1~』に書いた。</em>
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<p>来た道を少し戻って、都道20号の橋で多摩川を渡り、万願寺駅で南下するという経路で、浅川に着いた。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>9時15分ごろ、浅川を渡る。 <br>多摩丘陵の北端が見える。写真枠外の右側に高幡城がある。</em>
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<h2>高幡城</h2>
<p>浅川を渡ると、高幡不動はもうすぐだ。高幡不動に着く前に一休みしたので、高幡不動に着いたのは10時ごろだった。高幡城は、高幡不動の裏山にあり、そこからの眺望はよく、多摩川方面を遠望できる。</p>
<p>高幡不動に着いて、自転車をとめて、境内を歩くとすぐに土方歳三の銅像が立っているので、一瞬、おやっと思った。そういえば、土方歳三は武州多摩の出身だったことを思い出した。後で調べてみると、高幡不動は新選組副長である土方歳三の菩提寺だそうだ。土産物屋をのぞくと、土方グッズがたくさん売られており、新選組人気を確認した次第である。</p>
<p>目的地は高幡城なので、かつて城があった裏山に向かった。高幡城は比高50mの山城なので、少し坂道を登ると本丸跡を見つけることができた。 <br>伊東さんの小説では、ここで扇谷陣営の軍議が行われたことになっている。今は木々が繁っているので、その隙間からしか眺めが得られないが、かつては木を切っていたはずなので、本丸からの眺めはさぞかしよかったと思う。</p>
<h2>犬懸上杉憲秋、回想</h2>
<p>突然だが、犬懸上杉憲秋という人物をご存知だろうか。中世関東史を学んだ人以外は生涯知ることもない人物だと思うが、北条早雲が生まれる1年前にこの城で自害して亡くなった人である。</p>
<p>彼の父親は犬懸上杉氏憲(禅秀)で、1416年に上杉禅秀の乱という反乱を起こした人物として有名だ。犬懸家は山内家と交代で関東管領を歴任していた名家だったが、上杉禅秀の乱を契機に没落してしまった(その代わりに台頭したのが、扇谷家)。何事もなければ、輝かしい未来を約束された人生から一転、上杉憲秋は謀反人の子供になってしまったわけだ。<br>そして、何とか手柄を立てて犬懸家を復興させようと、家運を両上杉氏に賭けて、憲秋は戦いに臨んだ。享徳4年(1455年)1月、鎌倉公方・足利成氏勢と両上杉勢は、府中の分倍河原から東京都昭島市拝島辺りで戦った。この戦い(第1次立河原の戦い)で、憲秋は両上杉氏側の先鋒を務めるが、敗れてしまい、高幡城で自刃した。なお、第2次立河原の戦いが今回のテーマ「立河原の戦い」である。</p>
<p>なぜ私はこの人物のことを書いているか、その理由を記してみたいと思う。<br> 私は以前、坂田祐樹氏の 『<a>関東公方成氏</a><img>』という小説を読んだことがあり、その中で上杉憲秋が出てくる。 <br>その小説の中で、彼は自分の運命を恨み、ニヒルな笑いを浮かべながらも社会的に生き返る機会を探しながら生きている。その姿がなぜか私には印象的だった。そして、今回、伊東さんの小説をテーマに高幡城をまわることになり、高幡城について調べていると、彼がここで自害したことを見つけ、何か思うところがあり、こうして記してみたわけである。 <br>おそらく、坂田さんの小説を読んでいなかったら、彼のことをこうして書くこともなかっただろう。そう考えると、歴史小説は過去と現在を結ぶ機能があることに気付く。たとえ回想する人が少数であっても、500年後に回想される人物はそうは多くないだろう。<br>むろん、その回想が実際の彼にどれだけ即しているかを確かめるすべはないのだが。 そして、もう1つ歴史小説が持つ面白い機能は、一度人物のイメージが形成されると、そのキャラクターに親しみを覚えることだと思う。親しみを覚えたこそ、私はこうして彼について記しているわけだ。</p>
<p>遠い昔のこととはいえ、一人の男が時代に翻弄されながらも、活路を求めて生きて、戦って、敗れ、自害したその場所にいると何かしらの思いが湧いてこざるを得ない。</p>
<h2>関戸城</h2>
<p>さて、高幡不動を出て、川崎街道を東に進み、次は枡形山城を目指す。 <br>右手に多摩丘陵を見ながら、所々、上り坂はあるものの、基本的になだらかな下り坂を走っているので、想定通り、快適に走れる。 <br>府中から見て多摩川の対岸にある関戸には、11時過ぎに着いた。<br> 今回のテーマには関係ないが、この辺りにはかつて関戸城という城があった。関戸城は、高幡城と同じく、多摩丘陵の北端にある山城で、城の右側を鎌倉街道上道が通っている要衝である。中世の府中はとても栄えていた土地で、府中の対岸にある関戸には宿があり栄えていた。また、その重要性ゆえに鎌倉の攻防をめぐって、何度も大きな戦いがあった。</p>
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<div><em>2010年9月撮影 <br>自転車で走っていて、偶然見つけた標柱。1333年に新田義貞が分倍河原と関戸で鎌倉幕府軍と戦って勝利し、その数日後に鎌倉を陥落させている。つまり、この地を制して、はじめて鎌倉への道が開かれるのである。</em></div>
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<p>事前に調べたところ、関戸城には遺構は残っていないものの、天守台の標柱があるとのことだったので、それを探すことにした。天守台がある場所というのは、一番高いところか、それに準ずるところと相場は決まっているので、それらしい場所を目指して、丘陵を登っていく。<br> 大体、この辺りだろうという勘が働いたので、その辺を歩いていると、地元の人と思しき年配の女性が歩いてきた。もしかしたら標柱のことをご存知かもしれないと思い、聞いてみることにした。</p>
<p>「あのー、すいません」 <br>「あ、はい」 <br>「この辺に昔、関戸城があって、その案内板みたいなものがこのあたりにあると思うんですが、ご存じないでしょうか。」 <br>「ええと、ごめんなさい。知らないわ。」</p>
<p>そんなやりとりをしていると、細い道にタクシーが入ってくる。私は急いで自転車を道路の横によける。そのタクシーは5mほど先に進んだところで止まった。</p>
<p>「ここは桜ヶ丘1丁目で、関戸はもっと東だから、そっちにあるんじゃないかしら」<br>「なるほど、そうなんですか。どうもありがとうございました。」<br> 私は関戸城が桜ヶ丘1丁目にあることを資料で知っていたが、親切に教えてくれた人に言い返すのも何だと思い、その場を去ろうとした。すると、後ろから声がする。 <br>「あのー」<br> 私が振り返ると、 <br>「タクシーの運転手さんに聞いてみたらどうかしら。ご存知かもしれませんよ。」 <br>なるほど、それは一理ある。<br> 私はお礼を言って、タクシーに向かった。</p>
<p>タクシーに向かうと、どうもタクシーの運転手さんはお疲れのようで、何だか話しかけずらい雰囲気だった。そこで、「まあいいか、どうせ標柱はこの近くにあるはずだ」と思って、再び探し始めました。すると、その場所からすぐのところに標柱が見つかった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ついに見つけた「天守台」標柱。自分の推理が当たった時は素直に嬉しいものである。 <br>多摩川方面への写真を撮ろうと思ったが、この付近(桜ヶ丘1丁目)は所狭しと住宅が立ち並び、よい写真は撮れなかった。しかし、住宅の隙間からは北、東、南に視野が得られることが分かった。</em>
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<p>私が尋ねた女性がなぜすぐそこにある標柱を知らなかったのか分からないが、やはり近所であっても関心がないと知らないものなのかもしれない。というのも、私は大学生の頃、今回の目的地の1つである枡形山城の近くに住んでいたが、枡形山城の存在を知なかった。近年、中世関東史を調べていて、はじめて枡形山城の存在に気付いたのである。</p>
<p>関戸城を出た頃には、昼前になっていたので、多摩川を渡り、府中方面へ行き、中華料理屋で昼食をとった。 <br>昼食後、私は本日最後の目的地である枡形山城に向かって走り始めた。</p>
<h2>iPhone4の携帯式充電池</h2>
<p>私は「EveryTrail」という、GPSを使って自転車で走ったところを記録して、地図に書き込んでくれるソフトを使っている(*)。 <br>このソフトは便利だが、電池の消費がすさまじく、2時間半ほど使った結果、残りの電池残量が50%を切っていた。ただ、これはこのソフトの問題というより、GPSを使った同種のソフトでも同じように消費する。あらかじめ分かっていた問題だったので、私は事前にサンヨーの携帯式充電池(KBC-L2AS )を買っておいた。</p>
<p><em>(*)2010年当時の話。当時は歴史めぐりにこういうツールを使うのは先進的な試みだった。</em></p>
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<p>装着するとこんな感じになる。</p>
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<em>2010年9月 </em><br><em>自転車ホルダーにiPhone4を装着し、さらに携帯式充電池をiPhone4に接続した写真。バッグの中に、携帯式充電池が入っており、白いケーブルを通して、iPhoneと接続されている。iPhoneアプリの「EveryTrail」を使いながら充電できる。</em>
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<h2>乞田川の上り坂</h2>
<p>さて、電池の心配もなくなったので、午後の部、出発。 <br>多摩川を再び南側に渡って、川崎街道を東進する。乞田川(こったがわ)を渡るあたりから、上り坂が続く。昼食をとったばかりで元気だったので、最初は颯爽と駆け上がっていったが、走っても走っても終わらないので、ついに自転車を押して歩くことにした。あとで、乞田川にかかる橋から坂がおわる連光寺坂上辺りまで距離を測ってみると、1km強あった。長いはずである。</p>
<h2>懐かしの向ヶ丘公園駅</h2>
<p>その分、下り坂は気持ちよく走ることができた。 <br>その後も、基本的に下り坂なので快適だ。特に問題もなく、稲城市を通って、川崎市多摩区に入る。そして、14時ごろ、懐かしの向ヶ丘遊園駅に着いた。私は大学生の頃にこの周辺に住んでおり、向ヶ丘遊園駅にもよく来た。駅は改装されたようで、きれいになっていた。並んでいる店も結構変わっていたが、街の構造自体に変化はないようだ。</p>
<h2>枡形山城へ</h2>
<p>さて、今回は感傷に浸りに来たわけではないので、気を取り直して、枡形山城に向かう。 <br>枡形山城は、直線距離で向ヶ丘遊園の南700mほどのところにある生田緑地の中にある。当城は、標高80m強、比高60m弱の山城で、多摩丘陵の北端にあり、多摩川方面の武蔵野台地を一望できる。そういう点では、高幡城や関戸城と似ている。</p>
<p>永正元年(1504年)の立河原の戦いの時、北条早雲が先に当城に着き、数日後の9月20日に今川氏親が到着して、合流した。その様子が伊東潤 『疾き雲のごとく 』の第5話「稀なる人」でも書かれている。そして、その後、早雲と氏親は9月27日の立河原の戦いを迎えた。</p>
<p>枡形山城跡を目指して山を登っていくと、緑が豊かで改めて良いところだと思った。大学時代、一度も訪れたことがなかったのは惜しいことだ。 <br>山頂に着くと、子供連れの親子が結構たくさんいる。子供が大声で叫びながら、遊んでいる。山頂はそれなりの広さがあり、公園になっている。遊ぶ環境もあり、当然クルマも走っていないため、親にとっては安心して遊ばせることができるスポットなのだろう。</p>
<h2>iPhone4の逆光問題</h2>
<p>曲輪の北端には、結構大きな望楼が建っていて、そこから四方を遠望することができる。 <br>早速、iPhone4で写真を撮ってみた。すると、逆光のためか、写りがよくない。そこで、Panasonic製のデジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で撮ってみると、かなり違いがあった。高幡城でも少し気にはなっていたが、やはりそうだったのかという感じだ。「iPhone4があるので、デジカメは必要なし」というわけにはいかず、当面、併用することになりそうである。 <br>まあ、写真を編集すればある程度は何とかなるが、数が数だけにできるだけ、そのまま使いたいものだ。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>iPhone4で撮影した枡形山城からの写真。</em>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>Panasonic製デジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で、ほぼ同じ場所と時間から撮った写真。ただし、逆光ではないところで撮ると、それほど変わらない。さすがにPanasonicのデジカメはカメラ専用機器だけあって、対応できる状況の幅が広いのだろうか。</em>
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<p>城の周辺を少し散策したあと、向ヶ丘遊園駅に戻り、この日の歴史サイクリングを終えた。</p>
<h2>おまけ: 寿桂尼の生涯</h2>
<p>「稀なる人」の最後のほうで、今川氏親が藤原北家カ勧修寺流中御門家の娘を妻に迎える話が出てくるが、この女性こそ、後に寿桂尼と呼ばれる人で、今川氏親の正室であり、今川義元の母である。</p>
<p>氏親が晩年、病気で政務をとれなくなると、氏親を補佐した。氏親の死後も、陰に日向に今川家を支え続けた。今川義元が当主になると、今川家の全盛期を迎えた。しかし、義元は、永禄3年(1560年)、尾張攻略の途中に桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られてしまう。 <br>その後、今川義元の子(寿桂尼の孫)、氏真が当主となるが、今川家の衰退がはじまり、永禄11年(1568年)武田信玄の駿河侵攻の数ヶ月前に寿桂尼は死去した。</p>
<p>彼女は1505年頃に今川家に嫁いでいるので、晩年の早雲を知っていたはずであり、織田信長のために、頼りになる実子の義元を失い、武田信玄によって、今川家が実質的に滅ぼされる直前まで生きたことになる。 <br>このように、寿桂尼の生涯を追っていくことで、戦国初期(代表的人物:早雲)から中期(代表的人物:信玄)、そして、後期(代表的人物:信長)のはじまりまでを見ていくことができる。</p>
<p>分かりきったことではあるが、寿桂尼の人生を通して、戦国時代とは何とも厳しい時代であったと改めて思うのである。</p>
<p>(終)</p>
<p><em>* なお、マップの位置は今回の歴史サイクリングの範囲を大体示すために設定した。合戦がそこであったという意味ではないので、ご注意を。</em></p>

立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

立河原の戦い フィールドをゆく 北条早雲 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー

【関戸城跡の「天守台」標柱】<p>鎌倉街道から東へ坂道を登ってきて、最高地点を探していたら、この関戸城跡の「天守台」標柱に行き着いた。</p>
<p>案内板によると、金毘羅宮(琴平社)付近を「天守台」というとのこと。北側の多摩川方面への視界が開けているので、物見台的な施設があったと考えられている。</p>

関戸城跡の「天守台」標柱

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

【関戸古戦場跡の標柱】<p>関戸城を目指して自転車で走っていて、偶然見つけた関戸古戦場跡の標柱。</p>
<p>1333年に新田義貞が分倍河原と関戸で鎌倉幕府軍と戦って勝利し、その数日後に鎌倉を陥落させている。つまり、この地を制して、はじめて鎌倉への道が開かれるのである。</p>

関戸古戦場跡の標柱

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

<p>日野の浅川を渡る。 <br>多摩丘陵の北端が見える。写真枠外の右側に高幡城がある。</p>

作成日:2014/6/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

【小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー】<h2>今回の歴史サイクリングの要約</h2>
<p>2010年9月26日、私は小田原城周辺で歴史サイクリングをしてきた。今回のテーマは、伊東潤 『疾き雲のごとく』の第4話「箱根山の守護神」関連の土地を巡ることである。 <br>この話は、北条早雲以前に小田原と御殿場付近に勢力を張っていた大森氏の興亡の物語で、早雲の立場から見ると、小田原城攻略戦であった。 <br>物語の舞台は箱根と小田原だが、箱根と小田原を1日で巡るのはきついので、今回は小田原周辺に絞った。</p>
<p>コースとしては、電車で国府津駅に行き、その後、自転車で、小田原城→岩原城→松田城→国府津駅という流れである。</p>
<h2>出発</h2>
<p>自宅を発して、小田原の東の入り口にあたる国府津駅まで電車で移動するため、東京駅に向かう。東京駅に着いたのは8時前だった。そして、東京駅から電車に乗ること約1時間15分程度で、国府津駅に到着した。 <br>駅の外で、折りたたみ自転車を組み立て、準備OKの状態になったのが9時半。これから小田原城に向かう。</p>
<h2>国道1号線を西へ</h2>
<p>国府津駅の南には、国道1号線が通っており、小田原城付近まで行くことができる。自転車で走り始めると、早速、ロードレーサーに乗った人たちがビュンビュン走っている。私はいつも通り、時速20km程度でトロトロ走っていく。 <br>さすがに自転車ライダーが多数走っているだけのことはあり、風光明媚なところで、左には相模湾、右手には丹沢山地の山々が連なり、正面には箱根の山が鎮座している。 <br>今回は単なるサイクリングであっても十分楽しめそうだ。</p>
<h2>酒匂川</h2>
<p>さて、国道1号線を西に向かって走っていると、小田原一の大河である酒匂川が見えてくる。 <br>いつも新幹線から見ている川だが、実際に見ると随分印象が違う。また、地図で見て想像していたよりも、川幅は広く感じた。 <br>当日の少し前に雨が降ったようで、川の水は随分濁っていた。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川。思ったより、河口部は広かった。</em>
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<h2>山王川</h2>
<p>しばらく進むと、山王川が流れている。 <br>北条氏は、豊臣秀吉による関東侵攻に備えて、小田原城を大拡張したが、その時の外郭の東端が山王川だった(西端が早川)。小田原城の外郭(総構(そうがまえ)ともいう)は約12kmにもなり、小田原の城下町をすっぽりと囲んでいた。</p>
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<em>2012年10月撮影 </em><br><em>小田原城外郭の東端を形成していた山王川。</em>
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<p>海がある土地に来たわけだから、やはり、砂浜に行こうということで、御幸が浜という小田原城の南にある浜に行き、相模湾を拝んできた。</p>
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<em>2012年10月</em><br><em>小田原城南にある御幸の浜。相模湾が広がる。</em>
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<h2>小田原城に到着</h2>
<p>その後、小田原城に行き、城内を見てまわることにした。 <br>城内に入ると、江戸時代の小田原城を再現するプロジェクトが進んでいるそうで、銅門(あかがねもん)や馬出門枡形などが復元されていた。さらに進んでいくと、本丸に着く。そして、本丸には立派な復興天守が建てられている(本丸の域内になぜか猿が飼育されていた。子供に人気があったので、猿たちは子供寄せ「パンダ」なのだろうか)。</p>
<p>天守閣の中に入ると、小田原城の歴史紹介や小田原ゆかりの展示品がなされており、なかなか見応えたがあった。そして、最上階は展望スペースになっており、四方を遠望できる。<br> 本当に眺めの良いところで、相模湾はむろんのこと、豊臣秀吉が築いた石垣山城のあった山も見ることができる。</p>
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<div><em>2012年2月撮影<br>小田原城の天守閣。天守閣の中は資料館になっていている。最上階は展望スペースになっており、よい眺めだった。</em></div>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから三浦半島をのぞむ。</em>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから丹沢山地方面をのぞむ。</em>
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<em>2010年9月 </em><br><em>北条早雲や早雲に敗れた大森氏時代の小田原城は、現在の小田原城の北にある八幡山古郭にあったと言われている。遅くとも、後北条氏3代当主の北条氏康の頃には、現在の小田原城にも城域が拡大されたという。そして、江戸時代になると、八幡山古郭のほうは放棄され、現在の小田原城が中心となった。 <br>なお、「箱根山の守護神」の中で出てくる「華岳城」というのが、八幡山古郭にあった小田原城を意味している。</em>
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<em>2010年9月 </em><br><em>小田原城の展望スペースから石垣山一夜城があった石垣山をのぞむ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東に侵攻し、小田原城を包囲した、その時に、秀吉が築城したのが石垣山一夜城である。 <br>築城が終わり、石垣山一夜城を隠す木々を切ったため、小田原城から見ると、一夜で城ができたように見えた。ゆえに、石垣山「一夜城」と言われているそうだ。</em>
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<p>天守閣から降りてくると、12時半前になっていたので、昼食をとることにした。 <br>今回も「EveryTrail」(*)を使っているため、iPhone4の電池の消耗が激しい。昼食をとりながら充電しようと思い、バッグの中をさぐってみると、「あれ、携帯式充電池がない!」「これはしたり」、忘れてきたのだった。 <br>その時点で、電池残量は50%程度だったので、これは厳しいなと思いながら、何とか節電することで切り抜けようと決意した。 <br>この後、「EveryTrail」の記録が途切れ途切れになっているのは節電努力の跡である。多少、見づらいかもしれないが、勘弁してください。</p>
<p>昼食をとった後、小田原城の北側に向かった。というのは、現在の小田原城は、徳川時代の小田原城の位置にあり、今回のテーマである大森氏時代の小田原城はもう少し北にある丘陵にあったと言われているためだ。実際にその丘陵に登ってみると、小田原城のある地点よりも高所だということが分かる。 <br>伊東さんの本の「箱根山の守護神」で出てくる「華岳城」というのはこの辺りにあった城を意味している。<br><br>(*)iPhoneの地図アプリ。2010年当時使っていた。</p>
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<em>2013年1月撮影 </em><br><em>八幡山古郭東曲輪から小田原城をのぞむ。八幡山古郭の中でも、中心部はもう少し北側の高地にある。それでも、小田原城よりも、この曲輪のほうが高いところにある。</em>
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<p>華岳城のさらに北西に行くと、小峯御鐘ノ台に至る。 ここには、北条氏末期に構築されたという大きな堀や曲輪がかなりよい状態で現存している。ただ、蚊がやたら多く、かつ、しつこくて閉口した。</p>
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<em>2010年9月 </em><br><em>八幡山古郭の北西にある御鐘ノ台の空堀。大規模な空堀であることが分かる。</em>
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<p>御鐘ノ台はなかなか興味深いところだった。 自転車をとめて、ぐるぐるめぐっている間に結構時間が経過していたようで、御鐘ノ台を出る頃には14時半になっていた。</p>
<h2>岩原城へ</h2>
<p>さて、次の目的地は岩原城である。 <br>岩原城は大森氏頼(寄栖庵)の隠居後の居城といわれ、舌状台地の上に築かれていた。 伊東さんの本の「箱根山の守護神」でも出てくる。この話の中で出てくる、寄栖庵の衣擦れの音が妙にリアルに感じた。</p>
<p>私は小田原城の御鐘ノ台を出て、東に向かった後、県道74号を北上した。 <br>所々、上り坂があったが、大したことはなかった。左側(西側)に台地を見つつ、順調に距離を伸ばした。 <br>30分ほど走ると、岩原城の近くに来たので、左折して、台地を登っていく。結構きつい坂で、自転車では登れないので、押して登る。 <br>台地の頂上に近づくにつれて、なぜここに城が築かれたのか分かるような気がした。足柄方面、秦野に通じる松田方面がよく見えるのである。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城から松田城方面(北東)をのぞむ。岩原城から松田方面を目視できるのが分かる。 <br>松田氏は、足柄方面から勢力を強めてくる大森氏に危機感を持っており、関係はよくなかった。やはり、対立勢力が目に見える範囲にいるというのは緊張感を高めたことだろう。のちに、松田氏は北条早雲を小田原に引き入れ、大森氏を討つことになる。</em>
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<h2>岩原城の地勢</h2>
<p>また、小田原城から自転車で30分なので、小田原城から遠くはない(小田原城は見えなかったが、小田原方面は一部見える)。したがって、これら三方面で何かあれば、この城から対応することも容易だと思った。であればこそ、寄栖庵は隠居後の所在地にこの城を選んだのかもしれない。 <br>さらに進むと、岩原城への道標があった。それを辿っていくと、思ったより簡単に岩原城址は見つかった。 城址は民家の奥にあった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>微高地の上にある岩原城。この微高地の周りは畑と崖だった。</em>
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<h2>「シロ」</h2>
<p>自転車をとめて、城址のほうへ歩いていくと、やや大型の白っぽい色の犬が激しく吠えてきた(ここでは仮にこの犬を「シロ」と呼んでおこう)。 <br>私はそれほど犬に恐怖心を持っていないので、多少、やかましいと思いながらもスルーできる。城址には岩原城の石碑と大森家のものと思われるお墓があった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城の標柱</em>
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<h2>城址としての遺構はないが</h2>
<p>城址にはまったくといってよいほど遺構が残っていなかったが、台地上から見える景色が雄弁にこの城の存在意義を語っているようにも思える。</p>
<p>岩原城の案内板を読んだり、写真を撮ったりしている間も、ずっとシロは吠え続けていた。これほどしつこく吠えられたのは、実蒔原古戦場を訪れたとき以来である。</p>
<p>それほど不審な振る舞いをしているわけではないのに吠えられるのは心外だったが、最後のほうはよくこれだけ吠えられるものだと感心した。</p>
<p>ただ、私が帰る頃になると、さすがに疲れてきたようで、当初の勢いはなかった。そして、私が城から離れると、シロはすぐに吠えるのをやめた。なぜかシロのホッとした気持ちと自分の仕事をやり遂げた自負心が伝わってきたような気がした。</p>
<h2>松田城へ</h2>
<p>さて、シロと別れて、これから松田城に向かうわけであるが、すでにこの時点でiPhoneの電池の残量が30%程度になっている。最後までもってくれるのか、気になりながらの出発だ。 <br>松田城は秦野方面から足柄平野(小田原の平野)に入る入り口にあり、在地勢力である松田氏が支配していた。早雲が相模に進出するときも当初から協力したため、その後、大変優遇された。「箱根山の守護神」では松田城は出て来ないが(*)が、小田原を北のほうから眺めるとどう見えるのか知りたかったので、行ってみることにした。</p>
<div><em>(*)第5話「稀なる人」のP.176に「その隣が松田左衛門」とあるが、この「松田左衛門」が松田城付近に勢力を持っていた松田氏のこと。</em></div>
<h2>紙の地図とiPhoneのGPS機能の使いわけるコツ</h2>
<p>松田城がある山は目視できるので(実際には地図と風景を照らし合わせて「あの辺だろう」と当たりをつけているに過ぎないが)、それをランドマークにしつつ、適当に走りやすい道を走る。 <br>やはり、iPhoneのGPS機能があると、ほぼ道に迷うということはないので、その点では大変便利だ。ただ、画面が小さいので、表示できる情報に限りがある。そのため、私は折りたたみ用の神奈川県の地図を買って、大体の地形や地名を頭に入れた上で、iPhoneの詳細情報を見ることにしている。 <br>そうすると、全体像を把握した上で、詳細情報を活用できる。</p>
<h2>松田城の入り口</h2>
<p>松田城に近づくにつれ、空気も景色もよくなってきます。酒匂川を越えると、ここが神奈川県であることを忘れてしまうほど、ゆったりした雰囲気になる。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川から北方面を撮影。</em><br><em>(おそらく視界には入っていないが)北西に松田城がある。</em>
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<p>いいところだなと思いながら、松田城の入り口を探す。 <br>しばらく走っていると、松田城の入り口を示す案内板を見つけたので、右折して、山を登っていく。 東名高速道路の上にかかっている橋を渡ると、松田城の入り口があった。城の入り口に入ると、一瞬唖然とした。</p>
<p>まるで、ジャングルである。人が来ていないのがよく分かる。松田城入り口に入らずに直進すると、舗装された道があり、これが迂回路になっていそうだったが、敢えて、このまま進むことにした。むろん、自転車は城の入り口の草むらの中に置いていく。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ジャングルのような松田城入り口。最初は迂回することを考えたが、この先がどうなっているのか知りたい誘惑に抗することはできなかった。</em>
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<p>入り口には、咬まれると何時間か動けなくなりそうなサイズのクモが巣くっていた。クモの巣を顔面に喰らうのは勘弁して欲しいので、細い木の棒を前方に振り回して進む。 <br>ただ、案外、ジャングルは入り口だけで、その後は普通の山道だった(クモの巣は所どころあったが)。おそらく、松田城を訪れた人はこの入り口を見て驚き、怯んで舗装された道を迂回する行動をとるのではないかと思う(そして、それが正解だとも思う)。</p>
<h2>松田城付近からの眺め</h2>
<p>松田城への道を登って、案内板のあるポイントに着くと、素晴らしい眺望が広がっていた。まさに、これが見たいがために、ここへ来たのである。 <br>私の勝手な推測だが、松田氏は、代々、秦野との交通と目の前にある酒匂川の河川の流れを押さえていたのではないだろうか。その様子が目に浮かぶ。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城から足柄平野を一望できるのが分かる。</em><br><em>足柄平野の右側が小田原、左側が国府津、中央に酒匂川が流れている。</em><br><em>松田城は秦野からの入り口を押さえる位置にあるので、ここが足柄平野の要地であったのだろう。</em>
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<h2>松田城のいま</h2>
<p>城域に入っていくと、中年の男性が草刈をしていた。お陰で歩きやすかった。 <br>かつての曲輪はみかん畑に変っていた。何だか懐かしい風景だった。城の遺構としては見るべきものはあまりなかったが、その眺めの良さを考えると来た甲斐があった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城の標柱</em>
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<h2>帰り道、雨が。。。</h2>
<p>松田城をあとにした時点で、16時半頃になっていた。 <br>小腹が空いたので、持参したバナナでも食べようかと思って、自転車を橋の上にあるちょっとしたスペースに寄せたとき、ポツリと雨が降ってきた。そして、時を同じくして周囲が急に暗くなってきた。</p>
<p>この日、小田原市の予報は夕方から雨だったので、ついに来るべきときが来たと思い、バナナを諦めて、自転車を漕ぎ始めた。目指すは本日の出発地点の国府津駅で、大体、距離は12km程度である。国府津駅まで戻れば、不完全ながら、足柄平野を一周したことになる。<br>だが、ドシャ降りの雨の中を走りたくないので、本降りになってきたら、御殿場線の最寄り駅に駆けこんで、電車で帰ることにする。 <br>なお、この時点で、iPhoneの電池残量は10%強しかなかったので、必要なときだけ、Google Mapsという地図ソフトで現在地を確認することにした。</p>
<h2>県道72号線を南下</h2>
<p>基本的には、距離的に最短であろう県道72号線を走ることにした。 <br>県道72号は足柄平野の東端を通っており、高地を走ることになる。ということは、坂がありそうだが、まあよかろうと思って走りはじめた。 <br>最初はポツリポツリの雨だったが、次第に強さを増し始めた。一時、電車を考えたが、そんなときに限って雨が緩やかになる。</p>
<p>上曽我辺りに来ると、結構、暗くなってきたので、ライトを点ける。<br>私の自転車はダイナモのライトなので、人力でライトが点灯する。したがって、上り坂ではライトを点けるための重みが加わる。上下を繰り返す道と強弱を繰り返す雨、そして、ダイナモライトの重みに閉口しながらも、下曽我まで来た。下曽我は曽我梅林で有名である。だが、残念ながら、この頃には夕闇が辺りを蔽って、梅の木のシルエットが見えるだけだった。</p>
<h2>滑りこみセーフか</h2>
<p>曽我梅林の辺りから国府津駅まで、あと3kmほどだ。 <br>あともう少しということで、雨の中を懸命に走った。そして、ついに国府津駅に着いた。</p>
<p>駅前で自転車をたたんで、国府津駅のホームで東京駅行きの電車を待つ。「やれやれ」と思いながら、コーンポタージュの缶ジュースを買って、イスに座って飲みはじめると(この日は結構寒かった)、ザーと雨が降ってきた。危ないところだった。</p>
<p>(終)</p>

小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

小田原城 疾き雲のごとく フィールドをゆく 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー 神奈川県 小田原市

【松田城標柱】<p>松田城に入っていくと、中年の男性が草刈をしていた。お陰で歩きやすかった。</p>
<p>かつての曲輪はみかん畑に変っていた。何だか懐かしい風景だった。城の遺構としては見るべきものはあまりなかったが、その眺めの良さを考えると来た甲斐があった。</p>

松田城標柱

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

【松田城からの足柄平野を眺める】<p>松田城から足柄平野を一望できるのが分かる。</p>
<p>足柄平野の右側が小田原、左側が国府津、中央に酒匂川が流れている。<br>松田城は秦野からの入り口を押さえる位置にあるので、ここが足柄平野の要地であったのだろう。</p>

松田城からの足柄平野を眺める

作成日:2014/6/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 足柄上郡

【松田城入り口】<p>ジャングルのような松田城入り口。最初は迂回することを考えたが、この先がどうなっているのか知りたい誘惑に抗することはできなかった。</p>

松田城入り口

作成日:2014/6/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 足柄上郡

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