fuji3zpg さん
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場所 武蔵
ホームページ http://www.f-souken.com/
<p>さった峠西側から南西方向を撮影。</p>

作成日:2014/6/23 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

静岡県 静岡市

【安部川餅の誤算】<h2>北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡</h2>
<p>6月下旬の梅雨時期に、2泊3日で静岡県に行ってきた。その時のテーマは、「北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡」であった。基本的に、焼津から東進し、三島に至り、三島から南下して、修善寺でゴールという日程を考えていた。自転車による3日間の総走行距離は約180kmだった。</p>
<h2>小川の長者、長谷川法栄</h2>
<p>初日は東京駅を発し、焼津駅に降り、焼津の南隣にある小川の港へ行った。小川は、今川氏親擁立に尽力した長谷川法栄(*)の拠点である。</p>
<div><em>(*)長谷川法栄:今川氏親擁立に貢献した人物で、小川を拠点にしていた。 氏親の父、今川義忠が遠江で戦死した後、幼少の氏親はすぐに家督を相続することはできなかった。家督は、一旦、義忠の従兄弟の小鹿範満が引き継いだ。その混乱の中、法栄は氏親を小川でかくまったという。彼は早雲の有力な味方だった。 その辺の様子が司馬遼太郎『箱根の坂』に詳しく書かれている。</em></div>
<p> </p>
<h2>丸子城へ</h2>
<p>その後、朝比奈川を渡り、国道1号線を通って、泉ヶ谷の西に位置する丸子城を訪れた。丸子城は、東海道を押さえる要地にあり、今川の本拠地、今川館の北西に位置する。また、氏親が家督相続できないでいた間、この城を居城にしていたという。そうであれば、氏親擁立の中心人物であった、早雲も何度もこの城を訪れたことだろう。</p>
<p>丸子といえば、とろろ汁が有名だが、着いたときがすでに夕方だったため、店が閉まっており、とろろ汁は諦めざるを得なかった。</p>
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<em>2010年6月27日撮影 </em><br><em>司馬遼太郎『箱根の坂』のイメージに近いと思い撮影した。</em>
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<h3>安部川餅を食べよう!</h3>
<p>翌日は、しからばということで、安部川餅を食することに決め、ホテルを出た。<br>最初、駿府城(今川館跡に築城された)、そして、浅間神社を見学した後、臨済寺に行った。臨済寺は早雲の姉(司馬遼太郎『箱根の坂』では妹という設定になっている。今川義忠の正室で、今川氏親の母)、北川殿の別邸跡に建てられ、今川義元も青年期を過ごした場所だという。 <br>当寺は賤機山の山麓にあり、本堂のある高地からは市街地がよく見える。すでに10時30分を過ぎて暑くなってきたが、境内の清々しい雰囲気が心地よかった。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>臨済寺の本堂前からの写真。</em>
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<p>臨済寺を出て、予定通り、安部川餅を食べに安部川橋東側に向かうことにした。この頃になると、太陽が照り始め、気温はぐんぐん上昇しているのが分かった。11時頃に目的地付近に着くと、観光ガイドブックに載っていた佇まいの店があった。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川橋の東側から、安倍川をのぞむ。</em>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川餅の「せきべや」さん</em>
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<h2>安倍川餅の「せきべや」さん、発見!</h2>
<p>ここだと思い、汗を拭いつつ、店に入った。この店が300年の歴史を持つという「安倍川餅せきべや」である。店の中は、冷房がかかっており、涼しかった。安部川餅(600円)を注文し、待つことしばし、やってきた安部川餅を見て、私は「しまった」と思った。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>「せきべや」さんの安部川餅。見た目よりボリュームがあり、満腹になった。若干、黄粉餅が分かりくいかもしれない。黄粉餅は皿の右側にある。その黄粉餅に砂糖がかかっている。</em>
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<h2>「しまった」と思った理由</h2>
<p>それは餅の味がどうこうという話ではなく、このシチュエーションでは、餅というチョイス自体が誤りだったではないかということだ。なぜかというと、その重く、粉っぽい様子に食欲が湧いてこないのである。すでに、暑さにやられつつある体に、この重量感と粉っぽさはきつい。もう少し冷たいもの、せめて、チュルチュルと食べられるものにしたらよかったと思った(もちろん、餅自体はすべていただいて、店のチョイスにミスはなかったと思った)。</p>
<h2>ご当地グルメは胃と相談しよう</h2>
<p>思えば、前日にとろろ汁を食べ損なったのがトラウマになり、何としてもご当地グルメを食べるということが強迫観念となり、冷静な判断力を鈍らせたのかもしれない。思い込みというのは恐ろしいものである。<br>昨日、とろろ汁を食べていれば、おそらくこれほど暑い中、餅を食べるのは不適と判断して、別のものを食べていたことだろう。食べ物に関しては、頭が要求するものより、胃腸が要求するものを優先させたほうがよいとつくづく思った。今度は、安部川餅を見て胃腸が喜ぶ時期に、もう一度、トライしてみたいものだ。</p>
<p>その日の夕方、いつもより腹が減らないなと思ったとき、ふと昼に食べた阿部川餅のことを思い出した。失敗にも、効用はあるようだ。</p>
<p>(終)</p>

安部川餅の誤算

作成日:2014/6/23 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

安倍川餅 フィールドをゆく 静岡県 静岡市

【安倍川東岸にある安倍川餅「せきべや」さん】<p>300年の歴史を持つという「安倍川餅せきべや」さんである。</p>
<p>行ったのは2010年の6月末で暑かった。<br>店の中は、冷房がかかっており、涼しかった。</p>
<p>安部川餅(600円)を注文した。<br>素朴な味で良かったが、暑さで消化力が落ちていて、少しもたれた。</p>
<p>自分と同じように、多くの旅人がここでこのお店の安倍川餅を食べたのではないか。</p>

安倍川東岸にある安倍川餅「せきべや」さん

作成日:2014/6/23 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

安倍川餅 静岡県 静岡市

【臨済寺から静岡市街を撮影】<p>臨済寺は早雲の姉(今川義忠の正室で、今川氏親の母)、北川殿の別邸跡に建てられ、今川義元も青年期を過ごした場所だという。 <br>当寺は賤機山の山麓にあり、本堂のある高地からは市街地がよく見える。</p>

臨済寺から静岡市街を撮影

作成日:2014/6/23 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

臨済寺 北川殿 静岡県 静岡市

【長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜】<h2>別の戦国時代をつくる可能性を持っていた男、長尾景春</h2>
<p>別の戦国時代を作る可能性を持っていた人物として、長尾景春がいる。一般には知られざるこの人物について、これから書いていきたい(*)。</p>
<p><em>(*)この記事の公開は2011年10月14日で、長尾景春が主役の歴史小説、伊東潤氏『叛鬼』はまだ出版されていなかった。伊東さんの著書によって、長尾景春はの知名度は以前よりも上がったと思う。</em></p>
<p>長尾景春は訳あって、主人の関東管領、山内上杉顕定を相手に謀反を起こし、主の顕定を窮地に陥れた。これが文明8年(1476年)からはじまる長尾景春の乱で、景春が30代前半の頃のことである。しかし、不運にも、彼の同時代には太田道灌がいた。</p>
<p>長尾景春は巧みな外交と調略を駆使して、戦略的優位を準備するものの、太田道灌との戦闘に敗れた。戦略的に勝っているからといって、自動的に最終的な勝利が得れれるというものではない。</p>
<p>長尾景春について述べる前に、同姓の越後守護代、長尾為景について見ていきたい。</p>
<h2>下克上を成功させた男、長尾為景</h2>
<p>永正4年(1507年)長尾為景は越後守護の上杉氏に下克上を起こして成功し、傀儡の越後守護を擁立することに成功した。そして、首尾よく傀儡越後守護も追放して、為景自身が越後の支配者となった。彼の息子の長尾景虎はその地盤を引き継ぎ、さらには、(北条早雲の孫、北条氏康に河越夜戦(1546年)で撃破され、その後、没落させられた)関東管領の山内上杉憲政から山内上杉氏の名と関東管領の職を受け継ぎ、「山内上杉」謙信となった。そして、謙信は武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国の雄たちと激しく争うことになる。</p>
<h2>「長尾景春の乱」の原因:景春、山内上杉氏の家宰職を継承できず</h2>
<p>社会的地位からいうと、長尾景春は越後守護代の長尾為景(上杉謙信の父)と似たところにいた。</p>
<p>長尾景春の祖父(白井長尾景仲)も父(白井長尾景信)も、主の山内上杉氏の家宰(執事)だった。文明5年(1473年)に、父の長尾景信が死去した。景春は、当然、自分がその地位を引き継げると思っていた。 <br>しかし、彼の家(白井長尾家)の勢力が主家を凌ぐのを恐れた若き当主、関東管領の山内上杉顕定が、景春の叔父を家宰に任命した(上杉顕定の懸念は、越後の長尾為景の例を見ても空想ではなかった)。 <br>景春にとって、この処置は認められるものではない。怒りなどの感情もあっただろうが、それより、家宰職には膨大な利権があり、家臣や同輩はそれを当てにしている。景春が利権を手放せば、人々は去っていき、景春の政治生命は致命的なダメージを受けることになる。 <br>景春は政治的な死を選んで隠遁するか、家宰職を認めさせるために主と戦うかの二者択一を迫られたのである。</p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>白井城から榛名山をのぞむ。手前に流れる川が吾妻川。 </em><br><em>白井城は代々、山内上杉氏の家宰を務める白井長尾家の本拠地だった。当城は群馬県渋川市白井に位置する崖端城である。白井城の西側を吾妻川が東側を利根川が流れており、城の南側で合流しており、さらに三国街道がこの城の近くを通るため、上野と越後の交通の要衝でもある。 </em><br><em>かつての城域の大部分は、現在、畑だが、一曲輪を中心に遺構も残っている。</em>
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<h2>景春、挙兵</h2>
<p>景春は関東の有力国人を多数味方につける一方、文明8年(1476年)頃、<a>鉢形城</a>を築城して拠点とした。また、当時、享徳の乱が継続中で、主家の山内上杉氏と古河公方は対立しており、主家と敵対している古河公方、足利成氏を味方につけ、着々と軍事的、外交的な策を駆使して、蜂起のときを待った。</p>
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<em>2010年4月25日撮影 </em><br><em>鉢形城の北側からのアングル。写真中央の川が荒川。城の堅固さが偲ばれる。遺構の良好に残り、北条氏末期の鉢形城の様子がよく分かる。 </em><br><em>長尾景春が太田道灌(両上杉氏)との戦いに敗れ、この城を追われたあと、この城は山内上杉氏の武蔵支配の拠点となった。16世紀の半ばに、後北条氏が山内上杉氏に代わって、この地を支配するようになっても、鉢形城は重要拠点でありつづけた。景春の築城眼は的を得ていたようだ。</em>
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<em>長尾景春の乱、概略絵地図 </em><br><em>当時の関東は、利根川を境に東が古河公方の勢力圏、西が両上杉氏の勢力圏だった(なお、当時の利根川の流路は現在と違い、関東を東西に分けていた)。古河公方勢と対戦中だった両上杉の前線拠点、五十子陣は背後から長尾景春に攻撃され、崩壊した。</em>
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<h2>景春の、そして、関東の運命を握る男、太田道灌</h2>
<p>景春にとって、最大の脅威は江戸を中心に勢力を持っている太田道灌だった。道灌は文武両道の名将で、足軽を組織して、強力な軍事力を養う一方、関東の大河の下流を押さえる江戸に堅固な江戸城を築き、大きな経済力も持っていた(道灌はその強力さ故に、10年後、道灌の主人、扇谷上杉定正に謀殺されることになる)。</p>
<p>ただ、道灌は主の扇谷上杉定正や定正の同盟者である山内上杉顕定との関係がうまくいっておらず、彼らの間に溝が広がりつつあった。景春にとって、道灌は敵にまわすと最大の脅威なので、この隙をついて、道灌を味方につけるか、それが無理ならせめて中立を維持させる必要があった。</p>
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<em>2010年2月撮影</em><br><em>江戸城に残る3つの櫓の1つ、富士見櫓。かつて太田道灌が築いた静勝軒の故地に江戸城の富士見櫓が建っているという。 静勝軒は道灌の軒号でもある。</em>
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<h2>景春、初戦に勝利。</h2>
<p>景春は道灌と両上杉首脳の不仲を好機として蜂起した。景春の基本戦略は五十子陣にいる両上杉首脳と道灌の連携を分断し、道灌を足止めする一方、両上杉の軍勢に打撃を与え、機を見て、主の山内上杉顕定と和睦し、政治目標を実現するというものだったと思う。家宰職を得ることが景春の政治的な目標なら、この戦略は的を得ているだろう。</p>
<p>初戦は上々で、文明9年(1477年)1月に主の顕定と扇谷上杉定正のいる五十子陣を襲って崩壊させた。顕定と定正は何とか利根川の北に逃げ延びた。これが「長尾景春の乱」の最初の戦いだった(この戦いは4年に及んだ)。</p>
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<em>2010年4月撮影 </em><br><em>両上杉氏が古河公方との戦いのために築いた五十子陣跡。近辺は茫漠たる平野が広がる。 その重要な拠点を景春は崩壊させた。そのため、両上杉首脳は窮地に陥るが、太田道灌の活躍によって何とか生き延びた。</em>
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<h2>道灌、動く</h2>
<p>景春は山内上杉顕定との和睦の取次ぎを期待して、道灌に使者を送った。景春の政治的目標は山内上杉氏の家宰職の継承だったのだと思う。そうでなければ、顕定勢の撃滅を目指していたはずだ。 <br>景春の意図はどうであれ、結局、道灌による和睦斡旋は失敗した。すると、道灌は景春を討つべく、江戸城から北上してきた。</p>
<p>道灌は江戸城と河越城の連絡線を遮断している練馬城・石神井城の豊島氏を江古田・沼袋の戦いで撃破した。この戦いによる勝利で江戸城・河越城のラインを確保した道灌はさらに北上を続けた。 <br>景春は当時五十子陣にいた。道灌は、景春の拠点、鉢形城と五十子陣の間で陣を構えることで、景春の補給ラインを分断した。景春は補給ラインを確保すべく南下したが、これは道灌の「手」だった。</p>
<p>道灌は景春をおびき寄せて合戦に持ちこんだ(用土原・針谷の戦い)。景春は道灌の術中にはまり、敗れた。その後も、道灌は景春勢を各地で撃破して、景春を秩父の奥地に追い込んでいった。そして、文明12年(1480年)、景春最後の拠点、秩父の日野要害(熊倉城)も道灌に攻略され、景春は没落した。</p>
<p>なお、景春は道灌の妻の甥にあたり、お互いよく知った仲であったと言われている。</p>
<h2>景春の実現されなかった可能性を考える</h2>
<p>長尾景春は長尾景春の乱に敗れたが、その後も神出鬼没の活躍で、主の山内上杉顕定を苦しめた。やはり、只者ではなかったことが分かる。しかし、これらの活躍もあくまでも好機に便乗するという形であって、景春が再び時代の主役になることはなかった。</p>
<p>ここで、少々、「もし」を考えてみたい。 <br>もしこの時道灌が江戸城を動かなかったり、さらに言うと、道灌が景春に協力していたら、古河公方との戦いにも直面していた両上杉氏(山内上杉氏と扇谷上杉氏)は二方向、道灌も含めれば、三方向から挟撃され、一時的であれ、両上杉氏主力が壊滅していた可能性はかなりあったと思う。</p>
<p>当時、長尾為景の下克上はまだ起こっておらず、山内上杉氏は越後上杉氏の援軍を期待できたため、山内上杉氏がたやすく滅亡したかどうかは疑問ではあるものの(また、京都では弱体ながら室町幕府は存在していた。幕府は基本的に親上杉なので、近隣諸国からも両上杉氏に援軍が来ていた可能性もある)、一方では景春か道灌が古河公方を担いで関東を統一し、彼らの子供あたりが源頼朝のように関東の強兵を率いて京に攻め上り、天下に号令していた可能性もゼロではない(実際、永正5年(1508年)、大内義興は前将軍の足利義稙を擁して上京し、10年間、自派の政権を維持した)。</p>
<p>実際には、このシナリオ(景春と道灌が同盟し、両上杉氏を倒すシナリオ)は実現されなかったわけだが、もし実現していたら、その後の展開は全く変わっていただろう。 <br>状況は違うが、後に景春や古河公方と同盟して、両上杉氏と対抗した人物がいる。そう、それが北条早雲である。もしこの時(景春が蜂起したとき)に早雲が道灌の立場であれば、どういう判断を下していただろうか。</p>
<h2>長尾景春と長尾為景</h2>
<p>結局、失敗した長尾景春の乱だったが、景春は優れた戦略家であり、実行力もあった。ただ、相手(太田道灌)が悪かったと言えるかもしれない。</p>
<p>長尾景春の乱から、約30年後、越後で長尾為景が越後上杉氏を倒して、下克上に成功した。 長尾景春はある意味、長尾為景になり損なった男ということもできると思う。</p>
<h2>年表: 長尾景春の乱</h2>
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<p>(終)</p>

長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜

作成日:2014/6/22 , by fuji3zpg 開く

長尾景春の乱 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー

【長尾景春の乱、概略絵地図 】<p>当時の関東は、利根川を境に東が古河公方の勢力圏、西が両上杉氏の勢力圏だった(なお、当時の利根川の流路は現在と違い、関東を東西に分けていた)。古河公方勢と対戦中だった両上杉の前線拠点、五十子陣は背後から長尾景春に攻撃され、崩壊した。</p>

長尾景春の乱、概略絵地図

作成日:2014/6/22 , by fuji3zpg 開く

【空より広き 「谷中湖」の原?】<h2>武蔵、下野、常陸の接点を巡る</h2>
<p>古河城、小山城、結城城を1日でまわるという意欲的なプランを立て、今年(2010年)の5月はじめ頃に現地に行ってきた。この辺りは、享徳の乱後、古河公方の地盤となった地域である。</p>
<h2>参考資料: 享徳の乱</h2>
<p>関東は、畿内の応仁の乱に先駆けて、享徳の乱が起こり、戦乱の時代へと入った。</p>
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<h2>利根川を渡り、古河、そして、谷中湖へ</h2>
<p>まずは栗橋駅で降り、利根川を渡って、古河に向かった。妙なところにある古河城跡(治水の影響で堤防の天辺にある)を見た後、谷中湖に向かった。谷中湖は今回のテーマには関係なかったのだが、とても大きな湖と湿地帯が地図に示されていたので、どんなところか興味を持ったのである。</p>
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<p>実際に谷中湖に向かって自転車で走ってみると、とてつもない広さで驚いた。 こんな感じである。</p>
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<div><em>アメリカ西部やオーストラリアなら、いざ知らず、日本でこんなに広いところがあろうとは…。</em></div>
<h2>日が地に沈む</h2>
<p>司馬遼太郎の『<a>箱根の坂</a>』で、都から来た歌人が先人の歌で坂東の広さを知っているはずなのにも関わらず、皆一様にその広さに驚いたと書いていた。「都は日が山からのぼり、山に沈むが、坂東は地からのぼり、地に沈む」、確かこんなような表現だったように思う。今の東京の空はビルが林立して狭いが、この辺はそういう雰囲気を色濃く残している。 もしかしたら、中世の坂東の低地とはいうのはこんな感じだったのかもしれない。</p>
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<h2>空より広き</h2>
<p>こういった土地で生活するにはもう馬に乗るしかないのではないか。歩いていたら、埒が明かないだろう。「武蔵野はどのようなところか」という帝の問いに対し、太田道灌が答えたという</p>
<blockquote>
<div>露おかぬ かたもありけり 夕立の<br>    空より広き 武蔵野の原</div>
</blockquote>
<p>という歌を思い出さずにはいられない。「空より広き」とは雄大である。<br>10km四方ほどでしかない、京都の盆地の住人とは距離感覚も違っていただろう。そういうところで、坂東武者たちは狩り、笠懸、流鏑馬、犬追物などで、弓矢を鍛えて、「いざ、鎌倉」と備えていたのかもしれない。</p>
<h2>ここはどこ?</h2>
<p>いろいろと勝手な想像を膨らませながら走っていると、いつしか自分がどこを走っているか、分からなくなった。</p>
<p>ひたすら広く、ランドマークがないので、距離感がつかめない。それでも、しばらく道なりに走っていると、幸運にも地図があった。しかし、その地図は相当大雑把で、しかも現在地が書いていない。少なくとも、この地図の作成者は、迷子の輩に現在地を教えるつもりで作ったのではないらしい。</p>
<h2>おやじさん、登場</h2>
<p>しばらくの間、どうしようか地図を見ながら考えていると、中年のおやじさんが話しかけてくれた。どうも散歩をしている人らしい。</p>
<p>「どうしたの?」<br> 「ええと、ちょっと谷中湖に行く道が分からなくてですね、それでこの地図を見ていたんですが、この地図を見てもよく分からないんですよ。」</p>
<p>おやじさんは地図を見て、 <br>「本当だ。現在地、書いてないね。」 <br>「今、この地図で言うと、どの辺りなんですか?」 <br>「ええとね。実はオレもよく分からないんだ。」<br>「エエッ」散歩をしている人が現在地を知らないとはどういうことなのであろうか。<br>「こんだけ広いでしょ。だからどこ歩いているか、よく分からないんだよね。」</p>
<p>「・・・」私が絶句していると、<br> 「けど、毎日同じコースを歩いているから、オレは平気なんだよ。」 <br>「そうなんですか。」なるほど、全体像を掴んでいなくても、自分が歩く道だけ知っていれば、問題なさそうだ。<br> 「じゃあ、もう少し走って、他の人に聞いてみます。」 <br>「うん、そうしてよ。気をつけてね。」</p>
<p>まさか、谷中湖の周辺に住んでいる人は、皆、こんな感じの地理感覚の持ち主なのかと疑ってしまった。しかし、おやじさんと別れた後、縁あって2人の中年の男性と話をしたのだが、その人たちはちゃんと地理が分かっていた(しかも、地元の方だった)。</p>
<p>であるから、おそらく、おやじさんの感覚が特別だったのだろうと思う。 いずれにしろ、谷中湖周辺がいかに広々としているか、ひいては幻の坂東原風景を読者に伝えるために、素晴らしいエピソードをプレゼントしてくれたおやじさんに感謝したい。</p>
<p>(終)</p>

空より広き 「谷中湖」の原?

作成日:2014/6/22 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

谷中湖 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー 埼玉県 加須市

【利根川中流域、古河付近の風景】<p>利根川中流域、古河付近の広大な平野。ここから北に進むと、古河公方の古河城があった。<br>2010年5月、自転車ではじめて来たのだが、その広さに驚いた。</p>
<p>iPhoneなき時代で、場所はかなり大雑把。</p>

利根川中流域、古河付近の風景

作成日:2014/6/22 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

茨城県 古河市

【本佐倉城の解説サイト・PDF】<p><a>千葉県酒々井町HPの本佐倉城の解説サイト</a>がすばらしい。<br>本佐倉城散策ガイドなど、PDFファイルへのリンクが4つあるので、それらもチェックしておきたい。</p>

本佐倉城の解説サイト・PDF

作成日:2014/6/22 , by fuji3zpg 開く

【「現代に甦る山吹伝説?」-その後-】<div>この話は、「<a>現代に甦る山吹伝説?</a>」の続きです。</div>
<h2>再び、本佐倉城へ</h2>
<p>道灌と違って、首尾よく蓑ならぬ傘をもらった私は再び本佐倉城に向かった。 <br>これで雨は怖くないのだから、このまま大人しく帰ることはあるまい。何より、この城をもっと見てまわりたい。</p>
<h2>古城で稲妻</h2>
<p>傘を手に、勇躍、城を歩き始めたのはよいが、今度は辺りが急に暗くなってきて、雨に加えて、雷が鳴りはじめた。次第に、雷は近づいてきているようで、光と音の間隔がどんどん狭くなってくる。誰もいない夕方の古城というシチュエーションで、バリバリバリとくるのだから、迫力がある。自宅で雷が鳴っても、近くに雷が落ちて、家電がダメになることを心配する程度だが、もし不運にもここで直撃弾を食らうと、下手をすると、あの世行きである。</p>
<p>まだ、雷が遠いうちは無視して見てまわっていたが、尋常な感じではなくなってきたので、一旦、木陰に隠れることにした。</p>
<p>しばらくすると、雷も過ぎ去ったようで、雨も弱くなってきた。 <br>やれやれと思い、私はまた動きはじめた。</p>
<p>「東山」という大きな土塁を抜け、印旛沼方面の「東光寺ビョウ」というそこそろ広い草地に出たとき、その光景に私は息を呑んだ。自然は訪れた者にたまにこういう景色を見せてくれるのである。</p>
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<p><em>2010年4月24日撮影</em><br><em>写真右側の盛り上がったところが「東山」で、その左に道が虎口である。この虎口を抜けて、左に進むと、「東光寺ビョウ」がある。</em></p>
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<p><em>2010年4月24日撮影</em><br><em>雷雨の後に現れた光景:「東光寺ビョウ」より北向きに撮った一枚 この風景から、かつてのこの城の姿を想像できる。つまり、沼や田に囲まれた、近づき難い堅城の姿である。</em></p>
<h2>そんなことを言われても。。。</h2>
<p>感慨に耽っていると、何か看板が立っているのが目に入った。よく見ると「マムシに注意!」というようなことが書かれている。私は何か以前にも同じような感覚を覚えたことがあった。</p>
<p>そう、あれは数年前、友人が運転するクルマで東北の秘湯に行った時のことである。自他共に認めるボロボロのクルマにのって、細く危険そうな山道を進んでいた。そうすると、「落石注意!」とある。それって、気付いたときにはどうにもならへんのとちゃうかというあの感覚である。なお、落石も脅威だったが、クルマが最後までもつのかという恐怖のほうが強かったのは言うまでもない。</p>
<p>草むらの中にいるマムシをどうやって見つけるのだろうか、何せ、草は膝ほどの高さなのである。おそらく、見つけたときと咬まれたときはほぼ同時だろう。私はそれでも慎重に歩みを進めつつ、マムシと遭遇しないことを祈った。</p>
<h2>祈りと装備</h2>
<p>祈りが通じたのか、そのときも含め、私は今までヘビに咬まれたことはない。 <br>以前、友人がヘビに咬まれたのを目撃したことがあるが、幸運にも咬まれた場所が彼の靴のゴムの部分だったため、無傷だった。その時の友人の狼狽ぶりは忘れられない。むろん、彼を嗤っているのではなく、不意に命の危機が迫ると、人間はああなるのだというよき教訓を得たという話である。 <br>こういったことを見ているので、私は城に行くときはジーンズとトレッキングシューズを履いていくことにしている。であるから、もし咬まれたとしても、無傷で切り抜けられるかもしれないという淡い期待を持っている。</p>
<h2>暗闇迫る</h2>
<p>雷雨が過ぎ去って、少し明るさも戻っていたが、しばし城を見ていたら、今度は本当の夕闇が迫ってきた。そろそろ、帰宅するときが来たようだ。私は自転車に乗り、印象的なことが多かった本佐倉城を後にした。</p>
<p>(終)</p>

「現代に甦る山吹伝説?」-その後-

作成日:2014/6/22 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

山吹伝説 本佐倉城 フィールドをゆく 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー

ノート【更新順】
岡山県の没落武士
江戸東京たてもの園を訪問
コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
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ノートまとめ【更新順】
関ヶ原の戦いの動画
淀川の城
姫路城大天守の昼・夕暮れ・ライトアップ!
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歴史年表【更新順】
『おんな城主 直虎』年表
花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
歴史家・歴史小説家とその時代
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特集
関ヶ原の戦い
幕末維新
文明論
北条早雲
人物【更新順】
子母澤寛
周布政之助
小田村伊之助
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出来事【更新順】
新型コロナウィルス感染拡大に伴い、東京など7都道府県で非常事態宣言が発令
中国の武漢で新型コロナウィルスが人に感染
令和に改元決定
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世界史古代概論
世界史古代概略
ローマと前漢、不思議な成立の符合
古代の日本と西欧
戦国のはじまり
早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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