【英雄たちの選択、本能寺の変の番組を放送!】<p>数日前に、本能寺の変の謎に迫る文書が見つかったと話題になりました。<br><a>本能寺の変直前の手紙 長宗我部元親、信長に恭順の姿勢 </a></p>
<p> 偶然かどうかは知りませんが、7月3日(木)20-21時に英雄たちの選択で「明智光秀・本能寺への葛藤」が放送されます。当番組のページには、「最新の研究から浮かび上がる光秀の決断の真相とは?」と書いてあるだけなので、新文書の扱いはどうなのかは分かりません。<br>http://www4.nhk.or.jp/heroes/x/2014-07-03/10/5923/</p>
<p> 本能寺の変は、明智光秀の謀反の動機を巡って、いろいろ説があります。<br>この動機の詮索は、多くの人を虜にしてきました。</p>
<p>どんな説があり、なぜ光秀は謀反したのか、番組で解説があるはず。<br>ということで、7・3はいざ本能寺!</p>
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英雄たちの選択、本能寺の変の番組を放送!

作成日:2014/6/29 , 地図あり, by rekius 開く

京都府 京都市

<p>鎌倉の浄妙寺で寝ていたネコ。</p>

作成日:2014/6/27 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 鎌倉市

【東日本大震災と太田道灌、そして、江戸】<p>東日本大震災で亡くなった方のご冥福をお祈り致します。また、被災された方にお見舞い申し上げます。</p>
<h2>その日はいつもと変わらない金曜日だった</h2>
<p>3 月11日(金)。この日、私は自宅付近で昼食をとった後、六本木に向かい、13時過ぎに六本木ヒルズの40階でWebアプリ開発の仕事を始めました。そこは好きなところに腰掛けて個人が仕事をするフリースペース形式のオフィスです。この日は、40階のフロアに30人程度の利用者が仕事に勤しんでいました。</p>
<h2>14時46分、地震発生 激しい揺れ 。。。</h2>
<p>揺 れが始まった当初、ちょっと強い地震程度にしか思いませんでした。私は高校生の時に京都で阪神淡路大震災を経験しています。その時は、縦にドカンと衝撃が 来て、南のほうから大地が崩壊していくような音と振動が伝わってきました。この経験があるので、今回のような横揺れには大して警戒感はありませんでした。</p>
<p>しかし、ちょっと強い地震がさらにひどくなり、おさまる気配がありません。私は落下物がないか、上を確認し、片膝を地面につけて、揺れが収まるのを待ちま した。その間、地震を告げる無機質な自動のアナウンス(日本語の次に英語)が流れました。すると、素早く従業員の方がやって来て、窓から離れるように注意を促しました。揺れが最も激しい時に(洒落にならないほど揺れていた時に)、フロアの責任者と見られる男性がフロアの中央にやってきて、免震構造なので大丈夫だと言っていましたが、真っ直ぐ立っていられないほどの揺れのためか、声は緊張し、少し上ずっていました。<br> 六本木ヒルズの免震技術は優れているのかもしれませんが、タイタニックであれ、アルマダ(スペインの無敵艦隊)であれ、評判の高いものが儚いことになった 例も少なくないので、揺れが激しい時は不安になりました。しかし、30人ほどの利用者やフロアの係りの人の中に、パニックに陥る人は誰もいませんでした。</p>
<h2>品川付近で煙が上がる</h2>
<p>何 分間かの揺れが一旦収まったので、やれやれと思っていると、何人かが窓の近くで何か言っています。私も窓から3mほど離れたところで外を覗いてみると、品川の辺りから多量の煙が立ち昇っていました(正確にどこが燃えていたのかは今も分かりません)。これは大変なことになるのではないかと思いました。</p>
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<em>2011/3/26 追記:</em><br><em> 私が見たのはどうもお台場(港区)での火災だったようです。</em>
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<p>幸い、インターネットは問題なく利用できたので、他の利用者が東北で強い地震があったことを素早く調べて話していました。むろん、当時は東北を中心に、これほどの惨事になるなど、想像もしていませんでした。</p>
<p>私は40階にいて、相当遠くまで見えるため、その他の火災や津波が発生していないことはすぐに分かりました(天気の良い日は富士山がクッキリ見えます)。仮 に津波が発生しても、どう考えても40階まで到達しそうにありません。という状況だったので、目下、考えうる脅威は六本木ヒルズの階下で発生する火災でし た。</p>
<h2>「ヒルズ酔い」</h2>
<p>30分ほどすると、エレベータ以外はすべて問題なく機能している旨のアナウンスがあったので、まずはひと安心でした。ただ、絶えず余震に揺られ、たまに結構強い揺れがあるため、徐々に大地が揺れているのか、免震構造のビルが揺れているのか、私の脳が揺れているのか分からない、いわば、船酔いのような感じになってきました。私はこれをヒルズ酔いと名づけて、無事にヒルズを脱出して、この地震から生き延びたら、必ずこのネタを当サイトに書こうと強く決意しました。地震から10日ほど後にニュースをネットで見ていたら、同様の症状に対する報道があり、これを「地震酔い」と表現していました。</p>
<h2>エレベータは点検中</h2>
<p>地震発生から1時間ほどしてもエレベータが回復しないので、40階ですが、非常階段から徒歩で降りることにしました。というのは、地下鉄が止まっているのはイン ターネットで知っているので、なるべく早く地上に降りて、明るいうちに徒歩で自宅に戻りたかったからです。そこで、フロアの責任者と思しき人に非常階段の場所を聞いたところ、エレベータが回復するまでもうしばらく待ってほしいと言われました。仕方なく再度席に戻って、PCを操作していると、仙台空港が水浸しになっている映像を見ました。これは大変なことになったぞと思って、いろいろ調べたり、今後のプランを考えたりしていると、京都の肉親から連絡があり、 大丈夫かと問われたので、「高いところにいるので、少なくとも津波の心配はない」と答えておきました。最終的に、2時間半もの間、40階でブラブラ揺られ ることになるとは思ってもいなかったので、40階で足止めされていることは言いませんでした。</p>
<h2>動かざること山の如し</h2>
<p>ヒ ルズ酔いのため、PCを見ていると気分が悪くなってくるので、窓に近づいて、秩父や丹沢山地の山々をのぞんでみました。強い揺れがあったにも関わらず、 山々は何事もなかったように泰然自若としています。当たり前といえばそれまでですが、この時は「たいしたものだ」という妙な感慨がありました。</p>
<h2>40階から徒歩で降りることに</h2>
<p>地震発生から2時間強経過した17時頃、非常階段から徒歩で降りることを希望する人は集まるように言われたので、勇んで集合場所に向かいました。この後、長時間歩くことになると思ったので、係の人にちょっとトイレに行ってきますと言って、素早く用を足して戻ってきました。戻ってくると、関西在住と思われる中年のおじさんがちょっとトイレに行ってくると言って、急いでトイレに向かいました。3分ぐらい待っても帰って来ないので、少し心配しました。その頃には皆 おじさんの帰りを待っていたので、焦れた係の男性が様子を見に行ったところ、もう少しで戻ってくる旨、合図をしました。結局、男性は「すいません」とか言いながら戻ってきたので、ホッとしつつも、時が時なので、早くしてほしいものだと思いました。</p>
<p>歩いて降りる人は総員15名ぐらいだったと思います。<br> そのうちの1人が非常階段と降りる人たちの写真を1枚パチッと撮っていました。その時、微妙な空気が流れました。<br> 誘導役の係の男性は「誘導したら、戻ってくる」というようなことを同僚の男性に言っていました。<br> 連れのいる人は最初話しながら降りていましたが、半分の20階ぐらいで口数がぐっと少なくなってきました。私は1人だったので、リズムよく呼吸することを 心がけて、黙々と降りました。すると、前を歩いていた2人組の男性が、重苦しい雰囲気を吹き飛ばすように、「膝が笑ってきた」とか言って、2人でゲラゲラ 笑っていました。私も思わず「だよな」と思いながら、ニヤニヤしてしまいました。10階まで降りてくると、さすがに疲労感が出てきましたが、もう少しだと思い、ひと踏ん張りしました。一番下の階(多分2階)に着いた時は、ヤレヤレ、ようやくヒルズ脱出だと思いました。</p>
<h2>ヒルズ脱出、夕暮れ、そして、徒歩帰宅開始</h2>
<p>やはり、大地を歩けるということは大きな安心感がありました。<br> 一方、人の許可無く、歩いて降りられないところは今後極力行きたくないものだと切に思いました。ただ、エレベータに閉じ込められた人に比べたら、40階で揺られた苦痛もモノの数ではなかったでろうとも思いました。ヒルズを出る瞬間、「エレベータが1基動き始めた」という声が耳に入りました。</p>
<p>フロアの責任者と従業員は危機に対して立派に行動していました。利用者も誰1人として、パニックになりませんでした。最後の1時間ぐらいはクラシックが再び流れて、どう見ても普通に仕事をしている人も少なからずいました。実に驚くべきことだと思いました。</p>
<p>さて、ヒルズを脱出したのは幸いでしたが、この時点で17時30分過ぎになっており、暗くなってきています。地下鉄はすべてストップしていることをネットで確認しているので、この後、六本木から江東区の自宅まで歩いて帰る必要があります。当時は6kmほどだと思っていました。後日、Googleマップで自分 が歩いた大体の経路を測ってみると、8キロ強ありました。</p>
<p>六本木ヒルズのノースタワーのエスカレータで2階から1階に降りて、さてもう一踏ん張り頑張るかと気合を入れ直し、私はエントランスを出て、コンクリートの道路に第一歩を踏み出しました。</p>
<h2>徒歩帰宅スタート</h2>
<p>六本木ヒルズのノースタワーのエントランスを出た私は比較的細い路地を歩きはじました。<br> すると、若い2人連れの女性が「ここ入ろっか」などと言って、大画面のテレビがあるバーに入っていきました。また、左右を見ると、多くの人がイタリア料理屋でうまそうなパスタを食べたり、居酒屋で飲み食いしていたので、もしかしたら地上はたいして揺れなかったのかと一瞬思いました。<br> ただ、もう少し歩くと、すでに閉店している店があったり、ヘルメットを被って歩いている人がいたり、すべての地下鉄がストップしているわけですから、只事であるはずはないと思いました。</p>
<h2>携帯は不通</h2>
<p>ようやくヒルズを脱出したので、もう心配なかろうと思い、携帯で親に電話したところ不通でした。それまで携帯が使えなかったことに気づかなかったことは不覚 でした。ただ、iPhoneのインターネットが生きているのは確認していたので、iPhoneからメールで親に無事を報告しました。</p>
<h2>地図、多機能時計、携帯ラジオ</h2>
<p>六本木ヒルズを脱出した後、どういうルートを通って帰ったらよいか、私はだいたい知っていました。<img>というのは、江東区の自宅から渋谷まで何度か自転車で往復したことがあり、その際に六本木を通っています。そのため、この辺は多少土地勘があったのです。また、iPhoneが生きていたので、Googleマップも見られました(もしiPhoneが機能していなければ、紙の地図が必要なところでしたが、 iPhoneがあるため、最近、紙の地図を持ち歩いていませんでした。紙の地図もiPhoneのGoogleマップもダメな場合は、各地域に設置してある地図をiPhoneで撮って参考にする手があります)。これも大きなアドバンテージでした。</p>
<p>一方で、こういう日のために、方位磁針、高度 計、温度計、気圧計などの多機能腕時計を普段持ち歩いているのですが、それを忘れていました。また、非常用に持ち歩いている携帯ラジオ用の単4電池が1本しかなかったため、近くのコンビニで購入しました(この携帯ラジオは単4電池が2本必要。普段、電池を入れておくと、知らない間に電源が入り、使うときに 電池切れになるリスクを避けるため、普段は電池を外している)。ソニー製のアルカリ電池、4本入りで480円でした。もしコンビニが機能していなければ、 困るところでした。これらは誤算でした。</p>
<h2>六本木周辺の地形</h2>
<p>六本木という土地は武蔵野台地の 東の端の方なので、坂を降りると低地に入ります。低地はもし津波が来たら危険です。そのため、早速購入した電池を携帯ラジオに入れて、ラジオを聞きながら移動しました。むろん、今回の地震で、今更、津波が起こる確率はほぼないわけですが、ゲームと違って、「あーあ、死んでしまった。リセット。」というわけにはいきません。また、以前から関東での大震災や東海地震の可能性が指摘されています。今後発生するであろう海溝型の大震災で、津波が起こる可能性はあるわけで、津波に警戒して歩くということはその際の事前シミュレーションという効果もあります。このような問題意識を持つと、気づくことが多々あります。</p>
<p>江東区の自宅に戻るには、どうしても六本木を降りて、低地を歩く必要があります。むろん、六本木やより西側のホテルに泊まるという選択肢もありましたが、すでに本震は2時間半前に終わっており、10km以内のところに自宅があるので、そこまでする必要はないように思いました(もし津波の危険が高ければ、武蔵野台地に留まるというのは有力な選択肢でした)。</p>
<h2>徒歩帰宅中に聞いた声</h2>
<p>歩いていると、いろいろな声が聞こえ、また、印象に残ることがありました。<br> 前を歩いていた2人組のサラリーマン風の男性(年齢は30歳前後)の「千葉に先日家を買ったんですよ」という言葉とか、「もし停電だったら、コワイよね」といった若い女性の言葉です。<br> また、婦人用の靴屋が開いていたので、こんな時によく営業しているなと思いましたが、よく考えたら、これから徒歩で自宅に帰る女性で、ハイヒールを履いている人がいたら、すぐに足が痛くなるかもしれません。そういうお客さんのために開いているのかなと思いました。さらには、自宅に戻ってテレビを見たら、自転車が飛ぶように売れたと言っていました。なるほど、それはそうだろうなと思いました。</p>
<h2>風、火災、雨</h2>
<p>地上に出て思ったことは、風が強く寒いことでした。もし火災が発生したら、まずいことになっていたのではないかと思いました。また、雨が降らなかったことも有難かったです。ただでさえ、強風で寒いのに、これに雨に濡れたら、体力・気力ともにさらに辛いことになるでしょう。<br> 幸い、私は当日フード付きのダウンの防寒着を着ていたので、風と寒さは問題になりませんでした。靴は歩きやすい運動靴でしたが、防水性能はなかったので、雨が降らなくて助かりました。</p>
<h2>六本木から北東へ進む</h2>
<p>さて、阪神淡路大震災の時に高速道路が倒れたことを思い出しながら、六本木から北東に向かって、高速道路沿いを歩き、虎ノ門まで進みました。虎ノ門は外堀通りに面しています。「外堀」とある通り、江戸時代は江戸城の外堀だったため、周辺に比べると低い土地です。<br> 私の幼なじみが虎ノ門付近で働いているはずなので、彼は大丈夫だろうかと思いましたが、建物に対する被害はこれまで全く見なかったので、大丈夫だろうと思いました。また、携帯電話が不通なので、確認するすべもありません。</p>
<p>この辺はとても人が多く、しかも、東から西に大量に人が流れていきます。人の流れというのはすごいもので、流れに逆らって動くのは一苦労でした。車は渋滞し て、ほとんど動いていませんでした。その横を、自転車がサーと走り抜けます。こういう時、自転車はとても便利だなと思いました。ただ、自転車はパンクする と、機動力がガタ落ちになります。</p>
<h2>路地へ</h2>
<p>反対向きの人の流れで動きづらいので、私は路地に入ることにしました。すると、途端に移動が楽になりました。1本入るだけで、ほとんど誰も歩いていません。<br> 私は防災の専門家でも何でもない普通のIT業者なので、この行動が教科書的に正しいことなのかどうか分かりません。路地に入ったことで移動速度の向上というメリットは確実にありましたが、デメリットというかリスクも確かにありました。<br> というのは、新富町の辺りで、看板が不安定になり、一部道路が封鎖されていたことがあり、また、人形町を過ぎた辺りの古い民家で瓦が落下していました。さらに場所は覚えていませんが(新橋周辺だったかもしれません)、ものすごくガス臭い路地があり、「ガス漏れ、火に注意」などと書かれた紙が貼ってあったところもありました。仮に私がその時タバコを吸っていたら(私はスモーカーではありませんが)、張り紙に気づく前に自分だけ火事になっていたかもしれないと 思うぐらいに強烈なガス漏れでした。このように、有事の際には路地までなかなかチェックができないでしょうから、移動の容易さをとるか、リスクを避けて表通りを歩くかは、場合によっては人生の岐路になるかもしれないと思いました。</p>
<h2>わが庵は 松原つづき 海近く</h2>
<p>さて、外堀通りを通って、虎ノ門を抜け、新橋に入ります。新橋の北側に日比谷公園があります。<br> 戦国時代初期に、太田道灌が江戸城を築いた頃は、この辺りまで海が入り込んでいました。入間川、荒川など、関東を流れる大河による河川運送と江戸湾の海運 ルートを結び、かつ、武蔵野台地の東端に位置する地勢に注目し、道灌(道灌は扇ヶ谷上杉氏の家宰(執事)だった)はこの地に城を作ったとされています。太田道灌が江戸城からの情景を詠んだという歌の中に、</p>
<blockquote>
<div>わが庵は 松原つづき 海近く<br>   富士の高嶺を 軒端にぞみる</div>
</blockquote>
<p>というのがあります。この歌から分かるように、戦国時代の江戸城は松原が続く「海近」い城でした。<br> 地形的には、江戸城は東側が低地で、西側が高地です。もし津波が来る危険があれば、私なら、日比谷公園や皇居(江戸城)の東側の低地よりも、西側の高地に避難します。<br> このように、自分が住んでいる地域の歴史を学んでおくと、単に昔のことを知るということに留まらず、震災などの有事の際に役に立つことがあります。<br> 今後の歴史教育に防災という観点を入れることで、他人事から自分のことへと学ぶ内容がグッと身近なものになるのでないかと思います。<br> 歴史というのは、大抵、有事について書かれています。「文明18年(1486年)、人々は幸せに暮らしていた」などということは通常記録されません。通常、「文明18年(1486年)、太田道灌は主の扇谷上杉定正に謀殺された」というように記述されます。歴史という有事の記録を紐解くことで、いざという時の判断材料にするわけです。</p>
<h2>地形と情報</h2>
<p>一般的に津波の際には低地は危険です。出版されている災害予測地図(私は江東区在住なので、東京23区を対象とした 目黒 公郎 『東京直下大地震 生き残り地図―あなたは震度6強を生き抜くことができるか?!』 を2年ほど前に買って持っています)、古地図、地図ソフトのプロアトラスのジオラマ機能などで地形や地震予測地図を見ておくと(できれば、そのデータや画 像をiPhoneなどに取り込んでおくと)、どの経路を通るべきか判断する1つの判断材料になります。いざという時に、ググッている暇はありません。手持ちの知識、装備、体力、そして、それらを踏まえた状況判断が大切だと改めて思いました。</p>
<p>また、かつて海だったところを埋め立てた土地は地盤が弱く、液状化現象が起こる危険があります。液状化現象が起こった土地は移動しづらいので、有事の際は可能な限り避けたほうがいいでしょう。他には、地名 に「池」「沼」「谷」という名前がついていると、かつてはそういう地形だった可能性があります。普段はコンクリートに覆われて見えませんが、激しい揺れに晒された時に違いが出てくるかもしれません。昔の地形を知っていれば、避けられるリスクもあるかもしれません。<br> あと、普段から目印になる山や高い建物を意識しておくのも効果的だと思います。今回は暗かったので見ていませんでしたが、江東区やその近辺なら、スカイツリーがよく見えるので、私は歴史サイクリングをする時にスカイツリーをよくランドマークとして使っています。ランドマークがあれば、地図がなくても、大まかに自分の位置や方向が分かります。</p>
<p>さて、新橋を抜けて銀座を歩いている頃に、もし津波が来たら、逃げ込める空間というのは飲食店のあるような繁華街のほうが多いかもしれないことに気が付きました。というのは、多くのオフィスビルは玄関が閉まっていたので、仮に津波が来た場合、一時的に入ろうにも入れません。その点、繁華街は2階以上へ行く 階段がビルの入口のあるので、いざとなったら、そこへ駆け込むことができます。<br> ただ、今回の地震では問題となりませんでしたが、繁華街は飲食店も多いので、火災の危険があります。津波が来たので、ビルに逃げ込んだら、そこは火の海 だったのいうのでは洒落になりません。また、老朽化しているビルなら、津波の衝撃で次の瞬間に何が起こるかは分かりません。東京で津波が起こるほどの地震が発生した時に繁華街が無傷だとは常識的に考えて思えません。<br> また、「多くのオフィスビルが閉まっていた」というのは私の個人的な経験ですが、もう少し明るい時は開いていたかもしれません。開いていたら、オフィスビルのほうが頼もしいように思います。</p>
<p>こういう想定を考えていると、キリがありません。たとえ完璧な理論を知っていても、いろいろ複雑なことを考えてモタモタしている間に流されてしまったら、元も子もありません。<br> だからこそ、「その時」のために事前にシミュレーションしておくことは大切だと思います。そうすれば、いざという時に合理的な選択肢がいくつか思い浮かび、状況に合わせて、そのうちの1つを選んで生き延びることができるかもしれません。<br> もしこの辺りを歩いている時に津波が迫ってきたら、私は階段があり、強そうな建物にダッシュするつもりです。むろん、その前に高台に避難したいところです。</p>
<h2>そろそろ疲労が。。。</h2>
<p>などといろいろなケースを考えながら、銀座を抜けて、新富町の辺りで路地から大通り(新大橋通り)に出ました。新大橋通り沿いに歩くと、自宅に着くことがで きます。新富町を通りすぎて、八丁堀付近を北上していると、いよいよ疲労感を感じはじめました。時間を確認すると、20時頃、つまり、六本木ヒルズを出 て、2時間半ぐらい経過しています。ヒルズを出てからまだ一度も小休止をとっていないので、疲労がたまるのは当然でした。その横をまたまた自転車が颯爽と走り抜けていきます。<br> 虎ノ門付近に比べたら、格段に人口密度が減りましたが、まだ多くの人が新大橋通りを歩いていました。私の前を30歳くらいの女性が歩いており、その両脇をスーツを着た同じ歳くらいの男性が固めていました。何を話していたかは分かりませんでしたが、悲壮な感じはなく、普通に話しながら歩いていました。私が経験した範囲では、おおむね、こういう雰囲気でした。<br> 私は信号で待っている間、なるべくガードレールにもたれたり、屈伸運動などをして、体力の温存や関節の柔軟性維持に努めました。また、あたたかい飲み物と菓子パンを持っていたので、少しずつ食べて、補給しました。信号待ちの時に、外からコンビニを覗くと、お客さんが行儀よく並んでモノを買っていました。店員は当たり前のようにレジをこなし、棚に商品を補給していました。このような有事の際にも冷静に行動する人々を見て、私は本当にすごいことだと当時思い、 今でもそう思います。</p>
<h2>千葉まで帰ります</h2>
<p>さて、人形町付近を過ぎる頃に、前を歩いている2人組の男性が「千葉まで帰ります」と言っているのが聞こえました。本当にお疲れ様だなあと思いました。<br> 私自身は30代前半の男で週末には歴史サイクリングをしているので、体力に特に不安はなく、また、地理感覚もあり情報端末も持っていたので、知識についても問題はありませんでした。つまり、ヒルズの40階で揺られて、40階から徒歩で降りてきたことを除いては、比較的条件がよかったわけですが、それでも、 17時半にヒルズの1階を出発して、すでに3時間ぐらい経過して、それなりに疲れていました。新大橋通りを渡る頃には人の数も減り、パラパラと人々が歩いている感じでした。新大橋を渡り終えると、私は勝手知ったる路地に入りました。</p>
<p>結局、自宅に着くと、ヒルズを出てから3時半弱経過した21時前になっていました。<br> パッと見たところ、自宅のあるマンションに亀裂などのダメージはありませんでした。家の中は自転車が倒れていたことと26インチの液晶モニタが私の椅子に 倒れこんでいたことを除いては大したことはありませんでした。部屋の中は、倒れやすいものが倒れていたという印象でした。</p>
<h2>作業はつづく</h2>
<p>テレビをつけると、地震のニュースがひっきりなしに報道されています。衝撃的な映像が流され、これはいかんなと思いました。<br> ひと通りニュースを見た後、まだまだ強い余震があるだろうから、家具などで圧死しないように準備してから眠ろうと思い、私は作業をはじめました。</p>
<p>(終)</p>

東日本大震災と太田道灌、そして、江戸

作成日:2011/3/11 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

東日本大震災 災害と防災ーフィールドをゆく(5)ー 東京都 港区

<p>3・11の日、六本木ヒルズ40階からお台場方面で煙が上がっている様子を撮影。</p>

作成日:2014/6/27 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

東日本大震災 東京都 港区

<p>【高幡城】本丸跡。</p>
<p>伊東潤 『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』第5話「稀なる人」では、ここで扇谷上杉氏・今川氏親・北条早雲の連合軍が山内上杉氏と戦うため、ここ(高幡城本丸)で軍議を開いたことになっている。 伊東さんの小説の中で、三浦道寸の「お待ちあれ」のセリフが印象的だった。</p>

作成日:2012/12/16 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

高幡城訪問 東京都 日野市

<p>近年の研究で、下糟屋の丸山城址公園あたりが糟屋館との説が出ている。<br> 写真は、国道246を挟んで、丸山城址公園と対面する高部屋神社の南側から撮った。南側から見ると、高地になっているのが分かる。</p>

作成日:2014/6/27 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 伊勢原市

【実蒔原古戦場の風景】<p>ご覧のとおり、台地に平野が広がっている。遮るものがないので、空が近い感覚だった。</p>

実蒔原古戦場の風景

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 厚木市

【実蒔原古戦場の石碑】<p>ここに来る前に、実蒔原合戦に関する案内板があるが、そこで猛烈に吠える犬がいた。</p>
<p>心臓に病気を持つ人は注意が必要だろう。かなりしつこく吠えていたが、無視して案内板を読んでいたら、そのうち吠えなくなった。粘り勝ちである。</p>

実蒔原古戦場の石碑

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 厚木市

<p>下田の了仙寺。<br>1854年、日米和親条約が締結された寺。</p>

作成日:2014/5/16 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

静岡県 下田市

【荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-】<h3>舞台は赤浜</h3>
<p>鉢形城の東に赤浜という土地がある。ここが鎌倉街道上道の荒川渡河地点だった。</p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 荒川の南岸、赤浜の渡し(渡河地点)付近。</em>
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<h3>意外と少ない渡河地点</h3>
<p>川というのは、一見どこでも渡れそうだが、大河の場合、川底の地形や水量の多寡という条件があるため、渡れるところと渡れないところがある。渡れて、かつ、交通の便がよい場所が重要な渡河地点となる。</p>
<p>現在、荒川であれ、利根川であれ、川沿いを自転車で走ると、サイクリングロードが整備され、快適に走ることができる。基本的に堤防に囲まれているので、視界は限られる。その限られた視界に、橋が現れては消えてゆく。「○○橋」という橋の名前を見ないと、自分がどこまで走ったか、分からなくなる。</p>
<p>いずれにしても、これらの橋があることで、両岸を容易に行き来できる。だが、もし橋がなかったらと想像してもらいたい。渡るのは大変である。まず、川を渡ると、服が濡れる。転んで怪我をしたり、下手をすると、溺れて落命するかもしれない。であるから、かつて、渡河していた人々はおそらく何か用事があって川を 渡っていたはずで、荷物を持っていることも多かっただろう。</p>
<h3>架橋・治水技術の成果</h3>
<p>江戸時代に、大井川の増水によって、宿場町に何日も足止めされ、その間に路銀をすっかり失ったという話もあるように、大河というのは雨が降って増水すると渡れなく なることがあった。現代は極端な場合を除いて、川が増水して渡れないというケースは経験しないだろう。それは川の上流にダムなどの治水対策が施されていて、水量を調節しているためである。</p>
<p>実際、長尾景春の乱が発生した当初、太田道灌は相模にいる味方を呼び寄せて、江戸城-川越城ラインを遮断する豊島氏を攻めようとしたが、大雨で多摩川が増水して、相模勢は来ることができなかったという。</p>
<h3>渡河作戦の難しさ</h3>
<p>このように、橋とダムによって、現代では川を意識することが少なくなったが、中世における河川の状況は随分違ったことをお分かりいただけたと思う。しかも、軍事作戦で川を渡るとなると一層困難である。</p>
<p>まず、重量のある甲冑を身につけ、騎馬武者は馬に乗って渡河する。そればかりか、対岸には敵が手ぐすね引いて待っているのである。<br> 水の中では、陸上のように機敏に動けないから、まさに格好の標的となってしまう。そして、味方に死傷者を出しながらも、弓矢の雨の中を必死に渡って、運よく対岸に着いたとしても、優勢な敵が味方を袋叩きにしようと待っている。</p>
<p>このように渡河作戦は困難なので、孫子の兵法書に渡河方法が書かれている(行軍篇(第九))ほど、渡河はいくさにおける重要なテーマだった。</p>
<h3>扇谷上杉定正</h3>
<p>さて、この話の主人公は、扇谷上杉定正という人物である。<br> この男は、山内上杉顕定にそそのかされて、自分を擁立し、しかも自家の勢力を強めてくれた、家宰の太田道灌を謀殺した人物として歴史に記録されている。道灌を謀殺したことで、定正に見限りをつける勢力もあり、扇谷家の勢力は減退したが、定正は凡庸な人物ではなかった。</p>
<h3>定正、関東三戦に勝利する</h3>
<p>道灌謀殺後、定正は関東管領家の山内上杉顕定と対立関係に入った。</p>
<p>不利な形勢の中で、軍事面では長享2年(1488年)の関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)を有利に進め、外交では第2代古河公方の足利政氏や政氏の庇護下にあった長尾景春、そして、伊豆を奪取した北条早雲を味方につけ、山内上杉顕定に対抗した。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦</h3>
<p>その後、徐々に勢力を北武蔵に伸ばした定正はついに明応3年(1494年)に荒川に到達し、渡河しようとした。なお、この作戦には定正の援軍として早雲も参戦している。<br> もしこの作戦が成功し、上野国の山内上杉氏を倒せば、山内上杉氏に代わって、扇谷上杉氏が関東の覇者になれる可能性が出てくる。</p>
<p>だが、ここで思いがけないことが起こったのである。定正が荒川渡河時に落馬して、頓死してしまった。扇谷上杉氏の当主になってから約20年もの間、関東の戦乱を生き抜き、道灌謀殺後の苦しい時期も何とか切り抜けてきた定正に一体何が起こったのか。それは残念ながら分からないが、荒川の存在とその流れが彼の落 命の一因となったことは確かだろう。</p>
<p>定正落命は、司馬遼太郎『新装版 箱根の坂(下)』 (講談社文庫)<img>、伊東潤『疾き雲のごとく』<img>の第2話「守護家の馬丁」で書かれている(司馬さんの本では赤浜を過ぎた荒川北岸で、伊東さんの本では荒川南岸で死亡したことになっている。詳しくは各書籍をご覧いただきたい)。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦失敗時の関連人物たち</h3>
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<h3>定正の死と扇谷上杉氏の衰退</h3>
<p>原因はどうあれ、定正が死去したことで、元々、勢力的に劣勢だった扇谷上杉氏は急速に衰退していく。結果からみると、やはり彼の存在が扇谷上杉氏を支えていたことが分かる。</p>
<h3>早雲を関東に引き入れた定正</h3>
<p>もう1つ、彼の果たした役割としては北条早雲を関東に引き入れたことである。<br> 定正の養子、扇谷上杉朝良の代に早雲は小田原を手に入れ、関東の西の入り口に地盤を得た。そして、最終的に、早雲は相模一国を手に入れるのである。<br> それから半世紀ほど後、早雲の孫、北条氏康が最終的に川越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼすことになる。短期的に正しい決断が、長期的に見ると必ずしも正しくないこともあるという一例だろう。</p>
<h3>再び、赤浜</h3>
<p>私は赤浜の渡しで大きな石の前に立っている。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 赤浜の渡河地点付近の写真。</em><br><em> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</em>
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<p>5月初旬だったこともあり、ボカボカ陽気で眠くなるようなところだった。<br> 中世の名もなき人々、そして、著名な歴史人物(たとえば、元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府を倒すため軍を率いて鎌倉街道上道を南下した新田義貞)もこの辺りを渡ったことだろう。<br> そして、高見原から鎌倉街道の上道を北上してきた定正は、鎌倉街道上道の高地から赤浜の低地の風景を目にしたあと、この辺りで荒川を渡河しようとして落命したのかもしれない。</p>
<p>今は近くに橋がかかっているので、釣り人らしき人以外、誰も顧みないこの地は、かつて坂東武者たちの生死を懸けた歴史の舞台だったのである。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。</em><br><em> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</em><br><em> 赤浜の北岸が花園である。</em><br><em> 荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</em>
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<p><a><img></a></p>
<div>2010年5月1日撮影:<br> 上の写真を撮影した付近に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標識がいくつか立っている。</div>
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荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

赤浜の渡し 上杉定正 埼玉県 大里郡

<p>赤浜の渡しから少し南下した高台に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標柱がいくつか立っている。</p>

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

鎌倉街道上道 赤浜の渡し 埼玉県 大里郡

【鎌倉街道上道・赤浜の渡しから関越自動車道を撮影】<p>赤浜の渡河地点付近の写真。<br> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</p>

鎌倉街道上道・赤浜の渡しから関越自動車道を撮影

作成日:2014/6/26 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

鎌倉街道上道 赤浜の渡し 埼玉県 大里郡

<p>五十子陣の北側、利根川南岸から赤城山(右側)と榛名山(左側)がうっすら見える。</p>
<p>享徳の乱の時には、利根川北岸に古河公方・北関東勢が陣取り、南岸の五十子陣には両上杉勢が対陣していた。<br>ということは、こんな感じの風景を太田道灌、長尾景春らも見ていただろう。</p>

作成日:2014/6/26 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 本庄市

<p>杉山城の西側から見下ろすと、かつて鎌倉街道上道が通っていた平野が見える。</p>

作成日:2014/6/25 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

埼玉県 比企郡

【四津山城(高見城)からの眺め】<p>物見の城としては申し分ない視野である。<br> 山麓を鎌倉街道が通っている。旧鎌倉街道沿いを北から走ってくると、この山が四津山城(高見城)だとすぐに分かった。ということは城からも私が走ってきた道が見えているはずである。</p>
<p><br> なお、写真中央あたりで、長享2年(1488年)に両上杉勢が戦った(高見原合戦)。</p>

四津山城(高見城)からの眺め

作成日:2014/6/25 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

高見原合戦 埼玉県 比企郡

【飯田河原合戦と上条河原合戦の絵地図】<div>
<p>大永元年(1521年)、福島正成率いる駿河勢は1万5千ともいう大軍で甲斐に侵入した。 <br>同年9月16日には富田城を落とした。その1か月後の10月16日、駿河勢は北上、武田信虎は2千の兵で迎え撃ち、飯田河原で駿河勢を撃退した(飯田河原合戦)。</p>
<p>11月23日、駿河勢は再度攻勢に出て、飯田河原から2kmほど上条河原で信虎勢と激突した。信虎は駿河勢を撃破し大勝した(上条河原合戦)。</p>
<p>その時を想定した絵地図。</p>
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<p>信虎の防衛ラインはおそらく、笛吹川と荒川だったと思う。笛吹川は甲斐の北東から南西に流れる暴れ川だった。荒川も名前の通りだったのではないかと思う。今よりも、河原は広かっただろう。</p>

飯田河原合戦と上条河原合戦の絵地図

作成日:2014/6/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

絵地図 飯田河原合戦 上条河原合戦 山梨県 中巨摩郡

<p>要害山城の麓にあるホテル要害から甲府盆地を撮影。</p>

作成日:2014/6/25 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

山梨県 甲府市

【椿城跡にある本重寺】<p>本重寺のご住職から晴れていたらこの縁側から富士山が見えるという話を伺ったので、1枚撮ってみた。作品名「幻の富士」といったところか。</p>

椿城跡にある本重寺

作成日:2014/6/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

山梨県 南アルプス市

<p>これが釜無川の信玄堤で使われていたという聖牛である。 なかなか大きいものだった。これなら急流にも効果が期待できそうだ。</p>

作成日:2014/6/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

聖牛 山梨県 甲斐市

<p>山梨県の塩山駅から曽根の勝山城へ行った時の絵地図。<br>絵地図を作り始めて、最初期(2011年10月)のもので、ヒドい出来。</p>

作成日:2014/6/25 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

山梨県 甲州市

<p>城ヶ島から三崎港をのぞむ。 三崎港の背後に台地がある。そこに三崎城があった</p>

作成日:2014/6/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 三浦市

<p>三崎城の対岸にある城ヶ島から安房(千葉)方面を遠望。</p>
<p>安房(鋸南町から南房総市付近)を目視できる。地図で確認すると、約20km弱だった。</p>
<p>戦国初期、北条早雲に陸から包囲された新井城の三浦勢は早雲勢に陸から包囲された後も、三浦水軍を使って、海からの補給を得ることができた。そのため、新井城に籠城してから3年もの間、支え続けることができたという。</p>
<p>新井城への補給のために、房総から補給船がここを通ったかもしれない。</p>

作成日:2014/6/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 三浦市

<p>【鎌倉城】滑川の最下流付近から撮った住吉城の遠景。写真中央部の台地上に住吉城があった。そして、その右手が小坪。</p>
<p>鎌倉の東側(三浦方面)からの入り口に位置した住吉城。</p>

作成日:2014/6/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 鎌倉市

【小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー】<h2>今回の歴史サイクリングの要約</h2>
<p>2010年9月26日、私は小田原城周辺で歴史サイクリングをしてきた。今回のテーマは、伊東潤 『疾き雲のごとく』の第4話「箱根山の守護神」関連の土地を巡ることである。 <br>この話は、北条早雲以前に小田原と御殿場付近に勢力を張っていた大森氏の興亡の物語で、早雲の立場から見ると、小田原城攻略戦であった。 <br>物語の舞台は箱根と小田原だが、箱根と小田原を1日で巡るのはきついので、今回は小田原周辺に絞った。</p>
<p>コースとしては、電車で国府津駅に行き、その後、自転車で、小田原城→岩原城→松田城→国府津駅という流れである。</p>
<h2>出発</h2>
<p>自宅を発して、小田原の東の入り口にあたる国府津駅まで電車で移動するため、東京駅に向かう。東京駅に着いたのは8時前だった。そして、東京駅から電車に乗ること約1時間15分程度で、国府津駅に到着した。 <br>駅の外で、折りたたみ自転車を組み立て、準備OKの状態になったのが9時半。これから小田原城に向かう。</p>
<h2>国道1号線を西へ</h2>
<p>国府津駅の南には、国道1号線が通っており、小田原城付近まで行くことができる。自転車で走り始めると、早速、ロードレーサーに乗った人たちがビュンビュン走っている。私はいつも通り、時速20km程度でトロトロ走っていく。 <br>さすがに自転車ライダーが多数走っているだけのことはあり、風光明媚なところで、左には相模湾、右手には丹沢山地の山々が連なり、正面には箱根の山が鎮座している。 <br>今回は単なるサイクリングであっても十分楽しめそうだ。</p>
<h2>酒匂川</h2>
<p>さて、国道1号線を西に向かって走っていると、小田原一の大河である酒匂川が見えてくる。 <br>いつも新幹線から見ている川だが、実際に見ると随分印象が違う。また、地図で見て想像していたよりも、川幅は広く感じた。 <br>当日の少し前に雨が降ったようで、川の水は随分濁っていた。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川。思ったより、河口部は広かった。</em>
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<h2>山王川</h2>
<p>しばらく進むと、山王川が流れている。 <br>北条氏は、豊臣秀吉による関東侵攻に備えて、小田原城を大拡張したが、その時の外郭の東端が山王川だった(西端が早川)。小田原城の外郭(総構(そうがまえ)ともいう)は約12kmにもなり、小田原の城下町をすっぽりと囲んでいた。</p>
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<em>2012年10月撮影 </em><br><em>小田原城外郭の東端を形成していた山王川。</em>
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<p>海がある土地に来たわけだから、やはり、砂浜に行こうということで、御幸が浜という小田原城の南にある浜に行き、相模湾を拝んできた。</p>
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<em>2012年10月</em><br><em>小田原城南にある御幸の浜。相模湾が広がる。</em>
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<h2>小田原城に到着</h2>
<p>その後、小田原城に行き、城内を見てまわることにした。 <br>城内に入ると、江戸時代の小田原城を再現するプロジェクトが進んでいるそうで、銅門(あかがねもん)や馬出門枡形などが復元されていた。さらに進んでいくと、本丸に着く。そして、本丸には立派な復興天守が建てられている(本丸の域内になぜか猿が飼育されていた。子供に人気があったので、猿たちは子供寄せ「パンダ」なのだろうか)。</p>
<p>天守閣の中に入ると、小田原城の歴史紹介や小田原ゆかりの展示品がなされており、なかなか見応えたがあった。そして、最上階は展望スペースになっており、四方を遠望できる。<br> 本当に眺めの良いところで、相模湾はむろんのこと、豊臣秀吉が築いた石垣山城のあった山も見ることができる。</p>
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<div><em>2012年2月撮影<br>小田原城の天守閣。天守閣の中は資料館になっていている。最上階は展望スペースになっており、よい眺めだった。</em></div>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから三浦半島をのぞむ。</em>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>小田原城の展望スペースから丹沢山地方面をのぞむ。</em>
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<em>2010年9月 </em><br><em>北条早雲や早雲に敗れた大森氏時代の小田原城は、現在の小田原城の北にある八幡山古郭にあったと言われている。遅くとも、後北条氏3代当主の北条氏康の頃には、現在の小田原城にも城域が拡大されたという。そして、江戸時代になると、八幡山古郭のほうは放棄され、現在の小田原城が中心となった。 <br>なお、「箱根山の守護神」の中で出てくる「華岳城」というのが、八幡山古郭にあった小田原城を意味している。</em>
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<em>2010年9月 </em><br><em>小田原城の展望スペースから石垣山一夜城があった石垣山をのぞむ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東に侵攻し、小田原城を包囲した、その時に、秀吉が築城したのが石垣山一夜城である。 <br>築城が終わり、石垣山一夜城を隠す木々を切ったため、小田原城から見ると、一夜で城ができたように見えた。ゆえに、石垣山「一夜城」と言われているそうだ。</em>
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<p>天守閣から降りてくると、12時半前になっていたので、昼食をとることにした。 <br>今回も「EveryTrail」(*)を使っているため、iPhone4の電池の消耗が激しい。昼食をとりながら充電しようと思い、バッグの中をさぐってみると、「あれ、携帯式充電池がない!」「これはしたり」、忘れてきたのだった。 <br>その時点で、電池残量は50%程度だったので、これは厳しいなと思いながら、何とか節電することで切り抜けようと決意した。 <br>この後、「EveryTrail」の記録が途切れ途切れになっているのは節電努力の跡である。多少、見づらいかもしれないが、勘弁してください。</p>
<p>昼食をとった後、小田原城の北側に向かった。というのは、現在の小田原城は、徳川時代の小田原城の位置にあり、今回のテーマである大森氏時代の小田原城はもう少し北にある丘陵にあったと言われているためだ。実際にその丘陵に登ってみると、小田原城のある地点よりも高所だということが分かる。 <br>伊東さんの本の「箱根山の守護神」で出てくる「華岳城」というのはこの辺りにあった城を意味している。<br><br>(*)iPhoneの地図アプリ。2010年当時使っていた。</p>
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<em>2013年1月撮影 </em><br><em>八幡山古郭東曲輪から小田原城をのぞむ。八幡山古郭の中でも、中心部はもう少し北側の高地にある。それでも、小田原城よりも、この曲輪のほうが高いところにある。</em>
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<p>華岳城のさらに北西に行くと、小峯御鐘ノ台に至る。 ここには、北条氏末期に構築されたという大きな堀や曲輪がかなりよい状態で現存している。ただ、蚊がやたら多く、かつ、しつこくて閉口した。</p>
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<em>2010年9月 </em><br><em>八幡山古郭の北西にある御鐘ノ台の空堀。大規模な空堀であることが分かる。</em>
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<p>御鐘ノ台はなかなか興味深いところだった。 自転車をとめて、ぐるぐるめぐっている間に結構時間が経過していたようで、御鐘ノ台を出る頃には14時半になっていた。</p>
<h2>岩原城へ</h2>
<p>さて、次の目的地は岩原城である。 <br>岩原城は大森氏頼(寄栖庵)の隠居後の居城といわれ、舌状台地の上に築かれていた。 伊東さんの本の「箱根山の守護神」でも出てくる。この話の中で出てくる、寄栖庵の衣擦れの音が妙にリアルに感じた。</p>
<p>私は小田原城の御鐘ノ台を出て、東に向かった後、県道74号を北上した。 <br>所々、上り坂があったが、大したことはなかった。左側(西側)に台地を見つつ、順調に距離を伸ばした。 <br>30分ほど走ると、岩原城の近くに来たので、左折して、台地を登っていく。結構きつい坂で、自転車では登れないので、押して登る。 <br>台地の頂上に近づくにつれて、なぜここに城が築かれたのか分かるような気がした。足柄方面、秦野に通じる松田方面がよく見えるのである。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城から松田城方面(北東)をのぞむ。岩原城から松田方面を目視できるのが分かる。 <br>松田氏は、足柄方面から勢力を強めてくる大森氏に危機感を持っており、関係はよくなかった。やはり、対立勢力が目に見える範囲にいるというのは緊張感を高めたことだろう。のちに、松田氏は北条早雲を小田原に引き入れ、大森氏を討つことになる。</em>
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<h2>岩原城の地勢</h2>
<p>また、小田原城から自転車で30分なので、小田原城から遠くはない(小田原城は見えなかったが、小田原方面は一部見える)。したがって、これら三方面で何かあれば、この城から対応することも容易だと思った。であればこそ、寄栖庵は隠居後の所在地にこの城を選んだのかもしれない。 <br>さらに進むと、岩原城への道標があった。それを辿っていくと、思ったより簡単に岩原城址は見つかった。 城址は民家の奥にあった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>微高地の上にある岩原城。この微高地の周りは畑と崖だった。</em>
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<h2>「シロ」</h2>
<p>自転車をとめて、城址のほうへ歩いていくと、やや大型の白っぽい色の犬が激しく吠えてきた(ここでは仮にこの犬を「シロ」と呼んでおこう)。 <br>私はそれほど犬に恐怖心を持っていないので、多少、やかましいと思いながらもスルーできる。城址には岩原城の石碑と大森家のものと思われるお墓があった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>岩原城の標柱</em>
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<h2>城址としての遺構はないが</h2>
<p>城址にはまったくといってよいほど遺構が残っていなかったが、台地上から見える景色が雄弁にこの城の存在意義を語っているようにも思える。</p>
<p>岩原城の案内板を読んだり、写真を撮ったりしている間も、ずっとシロは吠え続けていた。これほどしつこく吠えられたのは、実蒔原古戦場を訪れたとき以来である。</p>
<p>それほど不審な振る舞いをしているわけではないのに吠えられるのは心外だったが、最後のほうはよくこれだけ吠えられるものだと感心した。</p>
<p>ただ、私が帰る頃になると、さすがに疲れてきたようで、当初の勢いはなかった。そして、私が城から離れると、シロはすぐに吠えるのをやめた。なぜかシロのホッとした気持ちと自分の仕事をやり遂げた自負心が伝わってきたような気がした。</p>
<h2>松田城へ</h2>
<p>さて、シロと別れて、これから松田城に向かうわけであるが、すでにこの時点でiPhoneの電池の残量が30%程度になっている。最後までもってくれるのか、気になりながらの出発だ。 <br>松田城は秦野方面から足柄平野(小田原の平野)に入る入り口にあり、在地勢力である松田氏が支配していた。早雲が相模に進出するときも当初から協力したため、その後、大変優遇された。「箱根山の守護神」では松田城は出て来ないが(*)が、小田原を北のほうから眺めるとどう見えるのか知りたかったので、行ってみることにした。</p>
<div><em>(*)第5話「稀なる人」のP.176に「その隣が松田左衛門」とあるが、この「松田左衛門」が松田城付近に勢力を持っていた松田氏のこと。</em></div>
<h2>紙の地図とiPhoneのGPS機能の使いわけるコツ</h2>
<p>松田城がある山は目視できるので(実際には地図と風景を照らし合わせて「あの辺だろう」と当たりをつけているに過ぎないが)、それをランドマークにしつつ、適当に走りやすい道を走る。 <br>やはり、iPhoneのGPS機能があると、ほぼ道に迷うということはないので、その点では大変便利だ。ただ、画面が小さいので、表示できる情報に限りがある。そのため、私は折りたたみ用の神奈川県の地図を買って、大体の地形や地名を頭に入れた上で、iPhoneの詳細情報を見ることにしている。 <br>そうすると、全体像を把握した上で、詳細情報を活用できる。</p>
<h2>松田城の入り口</h2>
<p>松田城に近づくにつれ、空気も景色もよくなってきます。酒匂川を越えると、ここが神奈川県であることを忘れてしまうほど、ゆったりした雰囲気になる。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>酒匂川から北方面を撮影。</em><br><em>(おそらく視界には入っていないが)北西に松田城がある。</em>
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<p>いいところだなと思いながら、松田城の入り口を探す。 <br>しばらく走っていると、松田城の入り口を示す案内板を見つけたので、右折して、山を登っていく。 東名高速道路の上にかかっている橋を渡ると、松田城の入り口があった。城の入り口に入ると、一瞬唖然とした。</p>
<p>まるで、ジャングルである。人が来ていないのがよく分かる。松田城入り口に入らずに直進すると、舗装された道があり、これが迂回路になっていそうだったが、敢えて、このまま進むことにした。むろん、自転車は城の入り口の草むらの中に置いていく。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ジャングルのような松田城入り口。最初は迂回することを考えたが、この先がどうなっているのか知りたい誘惑に抗することはできなかった。</em>
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<p>入り口には、咬まれると何時間か動けなくなりそうなサイズのクモが巣くっていた。クモの巣を顔面に喰らうのは勘弁して欲しいので、細い木の棒を前方に振り回して進む。 <br>ただ、案外、ジャングルは入り口だけで、その後は普通の山道だった(クモの巣は所どころあったが)。おそらく、松田城を訪れた人はこの入り口を見て驚き、怯んで舗装された道を迂回する行動をとるのではないかと思う(そして、それが正解だとも思う)。</p>
<h2>松田城付近からの眺め</h2>
<p>松田城への道を登って、案内板のあるポイントに着くと、素晴らしい眺望が広がっていた。まさに、これが見たいがために、ここへ来たのである。 <br>私の勝手な推測だが、松田氏は、代々、秦野との交通と目の前にある酒匂川の河川の流れを押さえていたのではないだろうか。その様子が目に浮かぶ。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城から足柄平野を一望できるのが分かる。</em><br><em>足柄平野の右側が小田原、左側が国府津、中央に酒匂川が流れている。</em><br><em>松田城は秦野からの入り口を押さえる位置にあるので、ここが足柄平野の要地であったのだろう。</em>
</div>
<h2>松田城のいま</h2>
<p>城域に入っていくと、中年の男性が草刈をしていた。お陰で歩きやすかった。 <br>かつての曲輪はみかん畑に変っていた。何だか懐かしい風景だった。城の遺構としては見るべきものはあまりなかったが、その眺めの良さを考えると来た甲斐があった。</p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>松田城の標柱</em>
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<h2>帰り道、雨が。。。</h2>
<p>松田城をあとにした時点で、16時半頃になっていた。 <br>小腹が空いたので、持参したバナナでも食べようかと思って、自転車を橋の上にあるちょっとしたスペースに寄せたとき、ポツリと雨が降ってきた。そして、時を同じくして周囲が急に暗くなってきた。</p>
<p>この日、小田原市の予報は夕方から雨だったので、ついに来るべきときが来たと思い、バナナを諦めて、自転車を漕ぎ始めた。目指すは本日の出発地点の国府津駅で、大体、距離は12km程度である。国府津駅まで戻れば、不完全ながら、足柄平野を一周したことになる。<br>だが、ドシャ降りの雨の中を走りたくないので、本降りになってきたら、御殿場線の最寄り駅に駆けこんで、電車で帰ることにする。 <br>なお、この時点で、iPhoneの電池残量は10%強しかなかったので、必要なときだけ、Google Mapsという地図ソフトで現在地を確認することにした。</p>
<h2>県道72号線を南下</h2>
<p>基本的には、距離的に最短であろう県道72号線を走ることにした。 <br>県道72号は足柄平野の東端を通っており、高地を走ることになる。ということは、坂がありそうだが、まあよかろうと思って走りはじめた。 <br>最初はポツリポツリの雨だったが、次第に強さを増し始めた。一時、電車を考えたが、そんなときに限って雨が緩やかになる。</p>
<p>上曽我辺りに来ると、結構、暗くなってきたので、ライトを点ける。<br>私の自転車はダイナモのライトなので、人力でライトが点灯する。したがって、上り坂ではライトを点けるための重みが加わる。上下を繰り返す道と強弱を繰り返す雨、そして、ダイナモライトの重みに閉口しながらも、下曽我まで来た。下曽我は曽我梅林で有名である。だが、残念ながら、この頃には夕闇が辺りを蔽って、梅の木のシルエットが見えるだけだった。</p>
<h2>滑りこみセーフか</h2>
<p>曽我梅林の辺りから国府津駅まで、あと3kmほどだ。 <br>あともう少しということで、雨の中を懸命に走った。そして、ついに国府津駅に着いた。</p>
<p>駅前で自転車をたたんで、国府津駅のホームで東京駅行きの電車を待つ。「やれやれ」と思いながら、コーンポタージュの缶ジュースを買って、イスに座って飲みはじめると(この日は結構寒かった)、ザーと雨が降ってきた。危ないところだった。</p>
<p>(終)</p>

小田原城周辺をめぐるー伊東潤 『疾き雲のごとく』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

小田原城 疾き雲のごとく フィールドをゆく 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー 神奈川県 小田原市

【松田城からの足柄平野を眺める】<p>松田城から足柄平野を一望できるのが分かる。</p>
<p>足柄平野の右側が小田原、左側が国府津、中央に酒匂川が流れている。<br>松田城は秦野からの入り口を押さえる位置にあるので、ここが足柄平野の要地であったのだろう。</p>

松田城からの足柄平野を眺める

作成日:2014/6/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 足柄上郡

【松田城入り口】<p>ジャングルのような松田城入り口。最初は迂回することを考えたが、この先がどうなっているのか知りたい誘惑に抗することはできなかった。</p>

松田城入り口

作成日:2014/6/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 足柄上郡

<p>酒匂川から北方面を撮影。<br>(おそらく視界には入っていないが)北西に松田城がある。</p>

作成日:2014/6/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 足柄上郡

<p>岩原城址の標柱。</p>

作成日:2014/6/23 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 南足柄市

<p>さった峠西側から南西方向を撮影。</p>

作成日:2014/6/23 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

静岡県 静岡市

【安部川餅の誤算】<h2>北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡</h2>
<p>6月下旬の梅雨時期に、2泊3日で静岡県に行ってきた。その時のテーマは、「北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡」であった。基本的に、焼津から東進し、三島に至り、三島から南下して、修善寺でゴールという日程を考えていた。自転車による3日間の総走行距離は約180kmだった。</p>
<h2>小川の長者、長谷川法栄</h2>
<p>初日は東京駅を発し、焼津駅に降り、焼津の南隣にある小川の港へ行った。小川は、今川氏親擁立に尽力した長谷川法栄(*)の拠点である。</p>
<div><em>(*)長谷川法栄:今川氏親擁立に貢献した人物で、小川を拠点にしていた。 氏親の父、今川義忠が遠江で戦死した後、幼少の氏親はすぐに家督を相続することはできなかった。家督は、一旦、義忠の従兄弟の小鹿範満が引き継いだ。その混乱の中、法栄は氏親を小川でかくまったという。彼は早雲の有力な味方だった。 その辺の様子が司馬遼太郎『箱根の坂』に詳しく書かれている。</em></div>
<p> </p>
<h2>丸子城へ</h2>
<p>その後、朝比奈川を渡り、国道1号線を通って、泉ヶ谷の西に位置する丸子城を訪れた。丸子城は、東海道を押さえる要地にあり、今川の本拠地、今川館の北西に位置する。また、氏親が家督相続できないでいた間、この城を居城にしていたという。そうであれば、氏親擁立の中心人物であった、早雲も何度もこの城を訪れたことだろう。</p>
<p>丸子といえば、とろろ汁が有名だが、着いたときがすでに夕方だったため、店が閉まっており、とろろ汁は諦めざるを得なかった。</p>
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<em>2010年6月27日撮影 </em><br><em>司馬遼太郎『箱根の坂』のイメージに近いと思い撮影した。</em>
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<h3>安部川餅を食べよう!</h3>
<p>翌日は、しからばということで、安部川餅を食することに決め、ホテルを出た。<br>最初、駿府城(今川館跡に築城された)、そして、浅間神社を見学した後、臨済寺に行った。臨済寺は早雲の姉(司馬遼太郎『箱根の坂』では妹という設定になっている。今川義忠の正室で、今川氏親の母)、北川殿の別邸跡に建てられ、今川義元も青年期を過ごした場所だという。 <br>当寺は賤機山の山麓にあり、本堂のある高地からは市街地がよく見える。すでに10時30分を過ぎて暑くなってきたが、境内の清々しい雰囲気が心地よかった。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>臨済寺の本堂前からの写真。</em>
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<p>臨済寺を出て、予定通り、安部川餅を食べに安部川橋東側に向かうことにした。この頃になると、太陽が照り始め、気温はぐんぐん上昇しているのが分かった。11時頃に目的地付近に着くと、観光ガイドブックに載っていた佇まいの店があった。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川橋の東側から、安倍川をのぞむ。</em>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川餅の「せきべや」さん</em>
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<h2>安倍川餅の「せきべや」さん、発見!</h2>
<p>ここだと思い、汗を拭いつつ、店に入った。この店が300年の歴史を持つという「安倍川餅せきべや」である。店の中は、冷房がかかっており、涼しかった。安部川餅(600円)を注文し、待つことしばし、やってきた安部川餅を見て、私は「しまった」と思った。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>「せきべや」さんの安部川餅。見た目よりボリュームがあり、満腹になった。若干、黄粉餅が分かりくいかもしれない。黄粉餅は皿の右側にある。その黄粉餅に砂糖がかかっている。</em>
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<h2>「しまった」と思った理由</h2>
<p>それは餅の味がどうこうという話ではなく、このシチュエーションでは、餅というチョイス自体が誤りだったではないかということだ。なぜかというと、その重く、粉っぽい様子に食欲が湧いてこないのである。すでに、暑さにやられつつある体に、この重量感と粉っぽさはきつい。もう少し冷たいもの、せめて、チュルチュルと食べられるものにしたらよかったと思った(もちろん、餅自体はすべていただいて、店のチョイスにミスはなかったと思った)。</p>
<h2>ご当地グルメは胃と相談しよう</h2>
<p>思えば、前日にとろろ汁を食べ損なったのがトラウマになり、何としてもご当地グルメを食べるということが強迫観念となり、冷静な判断力を鈍らせたのかもしれない。思い込みというのは恐ろしいものである。<br>昨日、とろろ汁を食べていれば、おそらくこれほど暑い中、餅を食べるのは不適と判断して、別のものを食べていたことだろう。食べ物に関しては、頭が要求するものより、胃腸が要求するものを優先させたほうがよいとつくづく思った。今度は、安部川餅を見て胃腸が喜ぶ時期に、もう一度、トライしてみたいものだ。</p>
<p>その日の夕方、いつもより腹が減らないなと思ったとき、ふと昼に食べた阿部川餅のことを思い出した。失敗にも、効用はあるようだ。</p>
<p>(終)</p>

安部川餅の誤算

作成日:2014/6/23 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

安倍川餅 フィールドをゆく 静岡県 静岡市

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