<p>杉山城の西側から見下ろすと、かつて鎌倉街道上道が通っていた平野が見える。</p>

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埼玉県 比企郡

【四津山城(高見城)からの眺め】<p>物見の城としては申し分ない視野である。<br> 山麓を鎌倉街道が通っている。旧鎌倉街道沿いを北から走ってくると、この山が四津山城(高見城)だとすぐに分かった。ということは城からも私が走ってきた道が見えているはずである。</p>
<p><br> なお、写真中央あたりで、長享2年(1488年)に両上杉勢が戦った(高見原合戦)。</p>

四津山城(高見城)からの眺め

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高見原合戦 埼玉県 比企郡

【なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー】<p>2年ほど前に、”荊棘の甲斐統一戦、武田信虎の「その時」を追う”というシリーズを書きました。</p>
<h2>目次</h2>
<ul>
<li><a>はじめに 北条早雲と武田信虎は同時代人</a></li>
<li><a>その1 信虎以前</a></li>
<li><a>その2 信虎初陣</a></li>
<li><a>その3 信虎、大井信達と戦う</a></li>
<li><a>その4 駿河勢、甲斐に乱入</a></li>
<li><a>その5 躑躅ヶ崎館と要害山城</a></li>
</ul>
<h2>なぜ信虎か?</h2>
<p>北条早雲がブログのテーマなのに、なぜ武田信玄の父、武田信虎が出てくるのだろうと思われた読者は少なくないと思う。</p>
<h2>早雲と信虎の年齢差</h2>
<p>次のグラフを見てもらいたい。</p>
<div> </div>
<p>実はこの2人、10数年、活動時期が一致している。 <br>1490-1500年前半の、信虎の父、武田信縄が甲斐守護であった頃、関東情勢に武田の影響力はほとんどなかった。しかし、信虎が家督を継承してから20年ほど経過した1520年代中頃に入ると、武田信虎の関東介入は北条にとって大きな頭痛の種となった。この時、早雲はすでに死去しており、当主は早雲の息子、北条氏綱だった。</p>
<h2>信虎を調べる</h2>
<p>1500年代後半-1510年代、甲斐に何があったのだろうか。<br> 私はこのことに興味を覚えたので、いろいろ調べてみた。すると、かつて暴君のイメージしかなかった信虎という人物が違ったふうに見えるようになった。そして、信玄に対する認識も変わった。</p>
<p>資料はある程度読んだので、状況は理解したが、現地に行かないと「絵」が見えない。そこで、信虎をテーマに2011年9月末に歴史サイクリングをしてきた。そのレポートを公開する前に、ざっくりと早雲と信虎の活動時期が重なった部分を見ていきたい。</p>
<h2>武田信虎の年表</h2>
<div> </div>
<h2>早雲の伊豆討ち入りと信虎誕生、そして、信虎、甲斐守護へ</h2>
<p>北条早雲が伊豆に討ち入った翌年の1494年、武田信虎は甲斐守護、武田信縄の子として誕生している。 甲斐守護、武田信縄が死去したのが1507年で、その年、信虎は14歳で甲斐守護となった。 こ<br>の頃までに、早雲は伊豆攻略を完了して、小田原城を奪い、この城を関東の橋頭堡として東相模領有の機会を窺っていた。そして、翌々年、早雲は両上杉相手に戦いをはじめる。</p>
<h2>信虎の苦闘と早雲の東相模攻略戦</h2>
<p>一方、若年ながら、信虎は翌年の1508年に叔父の油川信恵を滅ぼして、武田家内部の戦いに勝った。そして、割拠する有力国人を相手に戦いをはじめる。この戦いは武田家が守護大名から戦国大名へ脱皮できるかどうかの瀬戸際の戦いだった。もし失敗していれば、信濃のような分裂状態に陥って、近隣の強国に支配されていた可能性があった。</p>
<p>その間、早雲は東相模の雄、三浦氏と岡崎、そして、鎌倉で戦って勝利し、三浦氏の本拠地、新井城を囲んだ。 この辺りの話は『三浦一族の滅亡-かわらけー』で書いた。</p>
<p>信虎が10数年の苦闘を経て、一応の甲斐統一に成功した頃、早雲は三浦氏を滅ぼして相模攻略を完了させ、息子の氏綱に家督を譲った翌年(1519年)、死去した。</p>
<h2>時期は重なるが、正面衝突はしなかった両者</h2>
<p>このように、信虎と早雲は40歳ほど年齢が離れているにもかからず、活動時期が10年強、重なっている。しかし、互いに活動範囲が別だったので、正面からは衝突していない。このことは信虎にとって幸いだった。</p>
<p>扇谷上杉氏(時期によっては両上杉)という大きな敵を相手に戦っていた早雲にとっても、この時期は苦しく、東相模攻略以外に主力を向ける余裕はなかった。 このような事情で、同時代人にもかかわらず、早雲と信虎の関係は意識されないのだと思う。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

なぜ信虎か?ー武田信虎の戦いー

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飯田河原合戦 上条河原合戦 フィールドをゆく 武田信虎 武田信虎の甲斐統一戦ーフィールドをゆく(4)ー

【飯田河原合戦と上条河原合戦の絵地図】<div>
<p>大永元年(1521年)、福島正成率いる駿河勢は1万5千ともいう大軍で甲斐に侵入した。 <br>同年9月16日には富田城を落とした。その1か月後の10月16日、駿河勢は北上、武田信虎は2千の兵で迎え撃ち、飯田河原で駿河勢を撃退した(飯田河原合戦)。</p>
<p>11月23日、駿河勢は再度攻勢に出て、飯田河原から2kmほど上条河原で信虎勢と激突した。信虎は駿河勢を撃破し大勝した(上条河原合戦)。</p>
<p>その時を想定した絵地図。</p>
</div>
<p>信虎の防衛ラインはおそらく、笛吹川と荒川だったと思う。笛吹川は甲斐の北東から南西に流れる暴れ川だった。荒川も名前の通りだったのではないかと思う。今よりも、河原は広かっただろう。</p>

飯田河原合戦と上条河原合戦の絵地図

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絵地図 飯田河原合戦 上条河原合戦 山梨県 中巨摩郡

【躑躅ヶ崎館付近の絵地図】<div>躑躅ヶ崎館は相川扇状地の谷に位置し、西側は北から南へ荒川、東側は北東から南西へ笛吹川が流れている。北には山の麓に積翠寺が、詰の城として要害山城がある。 <br>福島勢乱入の際(1521年)、武田信虎は身重の大井夫人を積翠寺に避難させ、大井夫人はその地でのちの武田信玄を生んだ。 この時を含め、結局、要害山城で戦闘が行われることはなかった。</div>

躑躅ヶ崎館付近の絵地図

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絵地図

<p>要害山城の麓にあるホテル要害から甲府盆地を撮影。</p>

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山梨県 甲府市

<p>「飯田河原古戦場慰霊碑」付近から荒川左岸を撮影。</p>
<p>1521年、福島正成率いる駿河勢は1万5千ともいう大軍で甲斐に侵入したため、武田信虎は2千の兵で、ここ飯田河原で迎え撃った。寡兵にも関わらず、信虎は駿河勢を撃退した。</p>

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<p>釜無川にかかる橋の上から雲間の光をのぞむ。本物は遥かによかった。 <br>武田信虎や武田信玄も同じような空を見ただろう。</p>

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【武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡】<p>椿城に行った時、看板に「武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡」という看板があった。私は椿城を、武田信虎の宿敵、大井信達の牙城と捉えていたので、ちょっとした衝撃があった。言い方一つで印象は変わるものだ。</p>
<p>信虎は大井信達と長きに渡った戦いのあとに和睦し、大井信達から信虎がめとったのが、大井夫人である。のちに、武田信玄の母親となる人だ。信虎は24歳、大井夫人は21歳だった。</p>

武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡

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<p>滝沢川の橋の上から富田城があったといわれる甲西工業団地をのぞむ。 <br>中部横断自動車道が団地内を通っている。背後が南アルプス。</p>

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武田信虎

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