【南西から見た二条城二の丸東南隅櫓】<p>二条城二の丸東南隅櫓は、現存する2つの隅櫓の1つ。<br>千鳥破風が配されている。石落しは幕末の改修で付けられたとのこと。</p>
<p>夕日が漆喰に映えていい感じ。</p>

南西から見た二条城二の丸東南隅櫓

作成日:2014/8/25 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

二条城二の丸東南隅櫓 二条城見学(2013年9月) 京都府 京都市

【その5 躑躅ヶ崎館と要害山城ー武田信虎の戦いー】<h2>躑躅ヶ崎館</h2>
<p>3日目、多少の疲労感が残る中、ホテルを出発した。目的地は躑躅ヶ崎館、現在の武田神社である。</p>
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<em>躑躅ヶ崎館付近の絵地図。 </em><br><em>躑躅ヶ崎館は相川扇状地の谷に位置し、西側は北から南へ荒川、東側は北東から南西へ笛吹川が流れている。北には山の麓に積翠寺が、詰の城として要害山城がある。 </em><br><em>その4で触れたとおり、福島勢乱入の際、身重の大井夫人が積翠寺に避難して信玄を生んだ。 この時を含め、結局、要害山城で戦闘が行われることはなかった。</em>
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<p>かつて、信虎が作った躑躅ヶ崎館は、信玄、勝頼も拠点とし、勝頼が韮崎の新府城に移すまで、武田家の本拠地だった。<br> 信玄ファンにとっては、「聖地」と言えるかもしれない。</p>
<h3>信玄と信玄公</h3>
<p>余談だが、山梨に来てから、信玄は「信玄」ではなく、「信玄公」であることを思い知らされた。現在も信玄が尊敬されていると本に書いてあったので知ってはいたが、土産物屋にはたいてい「信玄」の名が付いている。たとえば、「信玄餅」というのがある。</p>
<p>この旅の行く先々で、10名ぐらいの人と話をしたと思うが、やはり、「信玄」というのと「信玄公」というのでは微妙に反応が違うことに気づいた。 <br>勝手な想像だが、浄土真宗の人に「親鸞」というのと「親鸞聖人」というのとの違いに似ているかもしれない。 ともあれ、同宗のよしみを感じてくれるようなので、3日目からは「信玄公」ということにした。</p>
<h3>武田神社</h3>
<p>武田神社は甲府駅の2kmほど北にあり、なだらかな上り坂が続く。 <br>いつものように最初は頑張って坂を走ったが、途中で諦めて、自転車を降りて歩いた。いま歩いている武田通りには、信玄の家臣や一門の屋敷跡を告げる案内板がいくつも立っている。山梨大学付近の秋山伯耆守や信玄の弟、武田信繁の屋敷など、お馴染みの人物の屋敷の位置が紹介されていた。</p>
<p>武田神社の前に行くと、水堀がある。ここで大軍を相手に籠城することは無理だが、館として使用するなら立派なものだった。武田神社の内部は想像より、多少小さめだったが、遺構はよく残っていた。</p>
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<em>2011年10月撮影: </em><br><em>躑躅ヶ崎館跡、西曲輪の水堀。</em>
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<p>信玄の嫡男、武田義信が住んだとされる西曲輪には、ほとんど何もなかったが、現在、発掘調査が行われたいるようで、ブルーシートが敷かれていた。</p>
<p>西曲輪から武田神社を出ると、かつて味噌曲輪だった野に出る。まさに古城の雰囲気があり、想像力を掻き立てられる。</p>
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<em>2011年撮影: </em><br><em>かつて、味噌曲輪だったところ。撮影地点から北側に信玄の弟、武田逍遥軒信廉の屋敷があった。</em>
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<p>ここから北に2kmほど行くと、大永元年(1521年)、福島勢乱入の際、身重の大井夫人が避難したという積翠寺と躑躅ヶ崎館の詰めの城(有事の際に使用する城)、要害山城がある。</p>
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<em>2011年10月撮影: </em><br><em>躑躅ヶ崎館から要害山城方面をのぞむ。</em>
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<h3>積翠寺</h3>
<p>見た感じ、積翠寺、要害山城まで上り坂が続くので、自転車を置いて、歩いていくことにした。</p>
<p>現在、11時である。この日は過ごしやすかったが、なぜかこの時間帯だけは日が照っていた。結構暑く、汗が出る。しかも2日間の疲労(自転車だけで約100km走っていた)に加えて、すでに休みなく2時間半ほど武田神社内をウロウロしていたので、登りはじめる前から結構疲れていた。</p>
<p>上り坂であったことと道がクネクネしていたこともあってか、2kmという疲労感ではなかった。 <br>が、ともかく、積翠寺に到着した。ここからの眺めはよく、甲府盆地の西側を一望できる。ただ、残念ながら、電信柱と電線が眺めを邪魔していた。</p>
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<em>2010年10月撮影: </em><br><em>石碑には「機山武田信玄公誕生之地」と書いてある。 </em><br><em>これまで見てきたように、武田信玄が生まれた頃、危機的な状況だった。信玄の人生は赤子の頃から試練に晒されていたが、この時は父、信虎が守ってくれた。</em>
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<p>例の乱入の折に生まれた信玄の人生は、ここからはじまったのである。 <br>感慨に浸りながら、これからの彼の人生と眼下で戦っていた信虎のことを思った。もし信虎が上条河原の戦いで負けていれば、信玄は生後10日ほどで、ここからどのかの土地に落ちるか、逃げ切れず捕まっていたかもしれない。</p>
<h3>要害山城</h3>
<p>あとは要害山城に登るだけである。 <br>積翠寺の100mほど北に行くと、「要害」というホテルがある。ここに要害山城に関する案内板があり、そこから右手に城への入り口がある。このホテルで昼食をとるかどうか迷ったが、どうせまた汗だくになるのは明らかなので、下山後、温泉に入って、昼食をとることにした。</p>
<p>飴を左膝のポケットから取り出して舐める。これで少しは元気が出るだろう。さて、出発。</p>
<p>この城ははっきり言って山だった。まあ、要害山城という名前の通り、山城なので当然なのだが、特に登り始めの傾斜がきつくて閉口した。半分ぐらい登ると、曲輪と門が続く、この辺まで来ると、傾斜は階段になっており、登りやすかった。</p>
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<em>2011年10月撮影: </em><br><em>要害山の尾根にこういった曲輪がいくつも並び、その都度、門が配置されていた。</em>
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<p>資料によると、門は8つあるそうで、山城にしては立派なものである。 <br>最後の門に到達して、本郭に来たときは思わず「ヤッター!」と叫んだ。もし誰かいたら、恥ずかしかっただろう。</p>
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<em>2011年10月撮影: </em><br><em>要害山城、最後の門跡。 </em><br><em>中盤から嫌気が差していたので、ここに辿り着いた時には両腕ガッツポーズをして叫んだ。 </em><br><em>なお、この日は土曜日の昼頃だったが、結局、誰一人出会わなかった。関東の場合は、どんなにマニアックな城に行っても、誰かしらいるものだが、山城とはいえ、週末に要害山城のような(城好きには)著名な城で誰とも会わないというのは驚きだった。</em>
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<p>本郭は想定外に広かった。 <br>本郭をしばらく散策したあと、倒木に腰をおろして休んだ。 <br>噴き出る汗を拭いながら、周囲の、そして、眼下の景色をしばし眺めていた。</p>
<p>さあ、下りよう。 <br>ホテルの温泉と昼食が待っている。</p>
<p>空腹と疲労による重い足取りで、私は山を下りはじめた。</p>
<h3>ホテル「要害」</h3>
<p>ヘトヘトになって、ホテル「要害」に着いた。</p>
<p>受付で温泉と昼食を頼むと、どちらを先にするか聞かれたので、温泉に先に行くと答えた。 <br>温泉のある一段下の階に行って、男湯の暖簾をくぐると、おじさんが2人いたが、入れ替わるように出ていった。風呂場に行くと、誰もいなかった。まあ14時頃だったので、不思議ではないが、思わぬ貸切風呂を満喫できた。</p>
<p>温泉で疲れを癒したあと、昼食をとった。 何とかという魚の甘煮がメインの定食を注文し、絶景をテラスから楽しんだ。腹べこだったこともあったかもしれないが、甘煮はおいしかった。</p>
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<em>2011年10月撮影: </em><br><em>ホテル「要害」からの眺めがとてもよかった。</em>
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<h3>こんにちはー!</h3>
<p>腹も満たされたので、武田神社を目指して、ホテル「要害」を出発した。</p>
<p>なぜか知らないが、ここは気持ちのいいところだった。思わず、鼻歌まじりで歩いてしまいそうだ。しかも、この頃には日差しも柔らかく、気温も適当に過ごしやすい。まさに、ハイキングにピッタリの天気といえる。</p>
<p>積翠寺から200mほど、下りた所で、5歳ともう少し小さいぐらいの女の子が行きと同じように遊んでいた。様子からして、姉妹かもしれない。 <br>私が通り過ぎる頃、大きい方の女の子が「こんにちはー!」と元気のいい声で挨拶してくれ、小さい方の女の子も高い声で「こんにちはー!」と続いた。 <br>旅の途中、私から声をかけることはあっても、かけられることは少ないので、ちょっと驚いたが、私もにこやかに「こんにちはー!」といった。 これだけの何でもない話だが、とても清々しい気分になった。</p>
<h3>日程終了</h3>
<p>事前に予定していた場所にはすべて行くことができた。 <br>入念に準備していたこともあるが、iPhoneのGPS機能とGoogleマップに負うところが大きい。もしiPhoneを持っていなかったら、半分ぐらいしか行けなかっただろう。</p>
<p>歴史サイクリングは楽しいものだが、今回は異様に面白かった。 <br>また機会を見つけて、ブロンプトンで走りにいきたいものだ。</p>
<p>(終)</p>

その5 躑躅ヶ崎館と要害山城ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

躑躅ヶ崎館 積翠寺 要害山城 山梨県 甲府市

【その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー】<h3>信虎、窮地を脱し、大井信達と和睦</h3>
<p>永正12年(1515年)、大井信達との戦いに敗れ、武田信虎は滅亡の危機に瀕したが、2年後、郡内方面で勢力挽回した。その結果、今川氏親は連歌師、宗長(氏親の外交官でもあった)を仲介者として、信虎と接触し、永正14年(1517年)、信虎は大井信達と和睦した。</p>
<p>信虎としては、7年前に妹を小山田氏の当主に輿入れさせ、懐柔した甲斐があったとほくそ笑んでいたことだろう。</p>
<h3>宗長回想</h3>
<p>宗長、この人を覚えているだろうか。</p>
<p>宗長は北条早雲が今川氏親を擁立しようとした時に(氏親の父、今川義忠が遠江で戦死して今川家の家督継承問題が起こった文明8年(1476年))、小川の長者、長谷川法永と共に氏親・早雲の味方として動いた人物である。この時、宗長は29歳だったが、今は高齢で、70歳になっていた(しかし、彼の寿命はまだ15年残っていた)。 <br>当時、連歌師は他国の大名や要人と直に会えるため、外交官の役割も果たしていた。のちには、茶人がこの役割を果たす。</p>
<h3>大井信達の娘、大井夫人</h3>
<p>この和睦時に、大井信達から信虎がめとったのが、大井夫人である。のちに、武田信玄の母親となる人だ。信虎は24歳、大井夫人は21歳だった。 <br>信虎にとっては、自分を散々苦しめた大井信達の娘を正室として、めとることになるわけだ。生まれてきた子は、大井信達の孫となる。</p>
<p>余談だが、椿城に行った時、看板に「武田信玄公母堂、大井夫人誕生の椿城跡」という看板があった。私は椿城を、信虎の宿敵、大井信達の牙城と捉えていたので、ちょっとした衝撃があった。言い方一つで印象は変わるものだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城を目指して歩いている時に目にした看板。</em>
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<h3>信虎、本拠地を躑躅ヶ崎館に移る</h3>
<p>大井信達との和睦から2年後、信虎は祖父の信昌以来の甲斐守護の拠点だった、川田館から躑躅ヶ崎館を建設して移った。</p>
<p>信虎はいまだ各地に割拠する国人たちにも躑躅ヶ崎の城下町への集住を命じたので、反発をくらった。この政策も戦国大名に脱皮しようする信虎の意思を反映したものだった。 <br>分権を望む大井、今井、栗原などの有力国人は反乱を起こしたが、永正17年(1520年)、信虎は反乱軍を撃破して、一応の甲斐統一を成し遂げた。この時、信虎は27歳となっていた。</p>
<h3>駿河から大軍、来襲</h3>
<p>翌年、永正から大永と改元された。思えば、永正4年に14歳で家督を相続してから信虎は甲斐統一のため、常に体を張って戦ってきた。紙一重の生死の狭間をすり抜け、その武略と努力と幸運の結果が一応の甲斐統一だった。しかし、まだ信虎の危機は終わらない、といより最大の危機が迫っていた。</p>
<p>大永元年2月、駿河から福島勢が甲斐に乱入してきたのである(*)。 <br>8月の河内(南巨摩郡)の合戦では勝利したものの、9月には駿河の福島勢が大挙して押し寄せてきた。その数、1万5千とも言われる(実際のところ、人数はよく分からない)。それに対して、統一から日が浅い信虎勢は足並みが揃わず、2千ぐらいだったという。とにかく、信虎にとって、圧倒的に不利な戦いであったことは間違いないだろう。</p>
<div><em>(*)かつては、今川氏親が派遣した軍といわれていたが、最近では、氏親の命令ではないという説が有力視されている。いずれにしても、駿河方面から福島氏の軍勢が攻めてきたことは史実である。</em></div>
<p>信虎は同月に大島(南巨摩郡身延町大島)で福島勢と戦ったが、敗北した。福島勢はそのまま北上し、9月16日に大井氏の属城、富田城を落とした。</p>
<h3>富田城を北上、稲作地帯をゆく</h3>
<p>私は富田城を出て北上した。目的地は絵地図にある荒川湖畔の古戦場である。 <br>釜無川を渡ってからは平地が続く。稲作地帯である。かつては、この辺を釜無川の本流、支流、細流が流れていたらしい。とにかく、洪水地帯であったようで、現代のように稲作ができるのはまったくもって、信玄以来の治水事業のおかげだろう。</p>
<p>このシリーズの中で何度か書いているように、甲府盆地は思ったより広い。また、きつくはないが、緩い傾斜の上り坂になっているので、富田城を出てから古戦場に行くまでに、案外時間がかかってしまった。1時間ちょっとぐらいは走ったと思う。途中、雲間から光が指す光景は神々しかった。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>釜無川にかかる橋の上から雲間の光をのぞむ。本物は遥かによかった。 <br>信虎も同じような空を見ただろう。</div>
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<p>甲府盆地を走っていて、いくつか気づいたことがある。その内を1つをここで紹介したい。 <br>それは適当に走っても、方向が合っていたら、目的地に行けるということだ。当たり前だと思われるかもしれないが、案外そうではない。関東平野で同じ事をやると、途中で行き止まりになっていたり、全然違う方向に流されてしうことは少なくない。特に、自宅がある調布はひどく、iPhoneのGPS機能を使わなかったら、帰れないことがいくらでもあった。まるで、リアル迷路だ。 <br>まあ、それはいいとして、甲府盆地は山の形と太陽の位置を頭に入れておくと、まず方向を失うことはない。したがって、細い道でもどんどん入っていけた。こういう地域はありそうでない。生活者の意見が尊重されている地域なのかもしれないと土地不案内者ながら思った。</p>
<h3>福島勢迫り、信虎、懐妊中の大井夫人を積翠寺へ避難させる</h3>
<p>釜無川下流を押さえられ、危機感を募らせた信虎は、身重の妻、大井夫人を躑躅ヶ崎館の北方の山麓にある積翠寺に移す。そして、28歳の信虎は福島勢と戦うべく、躑躅ヶ崎館を出陣した。14年間も戦ってきた結果が、このザマである。信虎は苦々しく思っただろう。</p>
<h3>福島勢の動き</h3>
<p>さて、福島勢である。この時の福島勢の動きが遅い。妙である。 <br>富田城を落として、1ヶ月もの間、福島勢は攻めて来なかったのである。</p>
<p>なぜこれほど動きが緩慢だったのだろうか。大軍を維持するのは大変である。 <br>例えば、1万人の水・食糧・寝床・武器・排泄物の処理など、滞りなく行うようにと読者が命令されたとする。想像しただけで大変な仕事なのは明らかである。1万人を養うには相当の計画性と物資とカネが必要だ。これらが行われないとたちまち不満の声が満ち、戦力は落ち、疫病が蔓延したりする。下手をすると、戦う前に軍が崩壊したり、不満が自軍の首脳に向くこともありうる。</p>
<h3>信虎の防衛ライン</h3>
<p>信虎の防衛ラインはおそらく、笛吹川と荒川だったと思う。笛吹川は甲斐の北東から南西に流れる暴れ川だった。荒川も名前の通りだったのではないかと思う。今よりも、河原は広かっただろう。</p>
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<div> <em>2日目の14時頃に、富田城を出て、稲作地帯を抜け、荒川に向かった。もしかしたら、福島勢も同じような経路で戦場に向かったかもしれない。 黄色が自転車で走った経路。</em>
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<p>福島勢の動きは鈍い。その理由として、内部でまとまりを欠いていたのではないかという指摘がある。 <br>もう1つは当時は治水技術が発達していなかったので、一度大雨が降ると、川を渡れなくなる。仮に福島勢が荒川・笛吹川を越えて、躑躅ヶ崎館を襲ったとしよう。たとえ躑躅ヶ崎館を即座に落としても、詰の城の要害山城はすぐには落とせない可能性がある。 <br>その間に、大雨が降り、補給ラインが途絶えたところを、信虎が全力で反撃してくる。この状態で敗れたら大変である。下手をすると、全滅する可能性すらある。何せ後ろが洪水地帯だと自動的に背水の陣状態になるのである。それを恐れた福島勢首脳は、荒川・笛吹川流域に住む百姓に尋問して、洪水についての情報を集めていたのではないかと話が書いてあった(**)。</p>
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<em>(**)洪水説は</em><em><em>武田八洲満『信 虎』</em>に出てくる。 武田信虎の数少ない歴史小説の1つ。ちょっと信虎を弱く書きすぎている感はあるが、労作であることは間違いない。</em>
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<h3>両軍、激闘!飯田河原合戦</h3>
<p>理由はよくわからないが、富田城が陥落してから1ヶ月後、ようやく、福島勢は荒川の左岸にやってきた。 <br>場所は飯田河原であったという。飯田河原古戦場の石碑が立っている場所から躑躅ヶ崎館まで直線距離で3kmである。駅でいえば、甲府駅と竜王駅の間にある。</p>
<p>高校時代、私は高校まで10kmの距離を通っていた。自転車で約30分だった。つまり、3kmというのは自転車で10分ちょっとで行けてしまう距離である。騎馬で疾走すれば、もっと早く着くだろう。 <br>地図で飯田河原古戦場をはじめて調べた時、躑躅ヶ崎館との距離の近さに驚いた。これなら、身重の妻を山麓に避難させるのは当然だ。10分で妊婦が避難できるわけがない。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場付近から荒川左岸をのぞむ。 </em><br><em>対岸にいる雲霞の如き大軍が信虎の首を狙っているのである。いくら強気の信虎でもゾッとしただろう。</em>
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<p>この戦いが飯田河原合戦で、信虎勢は数には劣るものの、よく戦い、敵を100余人討ちとって、荒川の西側に福島勢を押し返した。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>飯田河原古戦場の石碑 </em><br><em>この辺は人の往来が多く、信虎勢と福島勢が戦った跡はいささかも感じられなかった。黙祷を捧げて、古戦場をあとにした。</em>
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<h3>信虎、嫡男誕生!</h3>
<p>その後、福島勢は、一旦、曽根の勝山城まで退去した。だが、むろん、これですべてが終わったわけではなく、次の戦いへの準備期間であるに過ぎない。</p>
<p>再び、両軍の斥候や前衛が荒川を挟んで睨み合っただろう。この睨み合いの最中に誕生したのが武田太郎、のちの武田信玄である。11月3日のことであった。当主の男児誕生に信虎勢の士気はあがった。</p>
<h3>人生のテーマ</h3>
<p>読者は人生にテーマをお持ちだろうか。持っている人も持っていない人もいると思う。</p>
<p>現代日本では、一部の例外を除いて、ある程度は自分の人生を自分で決めることができる。私も自分の人生を自分で決めてきた。歴史的に見ると、こういった状態は幸運だと言えると思う。 <br>現代日本の住人と異なり、武田信虎は好きで、甲斐守護になったのではない。門閥貴族というのはそういうもので、父親が隠居か死亡すれば、自動的に子が当主になる。つまり、地位を継ぐ基準は血の濃さだった。武田家も同じで、甲斐守護家の直系に生まれない限り、正規ルートで甲斐守護にはなれない。信虎は、甲斐守護の父、信縄が死去したので、甲斐守護になった。</p>
<p>信虎がここまで14年間も戦ってきたのは彼の好みというよりも、有無をいわさず、立場上、課せられたテーマを果たしたまでである。そのテーマとは甲斐の統一である。このテーマを果たせなければ、滅亡するか、甲斐を逃げ出す以外に道はない。</p>
<p>課せられたテーマを果たすことは、自分で選んだテーマを果たすことよりも低級だということはないと思う。要は、その人が諸々の制約の中で人生のテーマと如何に関わったかこそが問われるのだと私は思う。その点、信虎は確かに課せられたテーマを自分のテーマとして真正面から捉え、戦い抜いた男だと思う。</p>
<h3>信虎の「その時」、上条河原合戦</h3>
<p>飯田河原古戦場の2kmほど上流に上条というところがある。ここで最終決戦が行われた。信虎のテーマが成就するか、敗れ去るか、この戦いにかかっていた。人生の決定的な瞬間、つまり、「その時」であったといえる。 上条で荒川を渡ったら、指呼の間に躑躅ヶ崎館がある。信虎としては荒川の防衛ラインを破られるわけにはいかない。</p>
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<div>2011年9月撮影: <br>上条河原合戦古戦場付近。なぜか石碑などはないらしい。飯田河原合戦も重要だが、上条河原合戦のほうが決定的戦いだと思うので、残念に思った。<br>飯田河原古戦場から2kmほど上流の上条で戦いがあったという。地図を見ると、秩父往還がここを通っている。信虎はこの道を通って、上条河原にやってきたのかもしれない。</div>
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<p>信玄出生から20日後の11月23日、再び、戦雲が甲斐を覆う。 <br>旧暦は現在の暦でいうと、1ヶ月ほど進めた時期だと考えてもらいたい。つまり、現在でいうと、1月ぐらいの寒さの中での戦いだった。しかも、ここは温暖な駿河ではなく、標高の高い甲府盆地だ。もし福島勢が荒川を渡河したとしたら、荒川の水の冷たさはこたえただろう。</p>
<p>この日、福島勢と信虎勢は上条河原で激突する。信虎勢は福島氏の大軍を相手に奮戦した。信虎の家臣たちも負ければ、福島勢に殺されるか、生き残っても従属させられ、以後、一番危険な戦場に送られることになる。それに対して、福島勢には遠征の飽きと疲れもあったことだろう。</p>
<p>まさに信虎の「その時」がはじまろうとしている。 <br>20日前に生まれた新しい命のためにも、信虎は奮い立ったかもしれない。信虎を含め、戦う前に両軍の武者たちの胸中には様々な思いが去来したことだろう。それらを心の支えにして、戦いははじまった。。。</p>
<p>この上条河原合戦で、信虎勢は福島勢を大敗させ、福島勢の大将たちを軒並み討ちとった。福島勢は崩壊して、南に潰走し、曽根の勝山城に逃げ込んだ。福島勢は600人もの死者を出したともいわれている。</p>
<h3>信虎の「その時」</h3>
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<h3>統一成る</h3>
<p>結果は信虎の完勝だった。翌年1月14日、曽根の勝山城に籠っていた福島勢は降伏し、生き残った福島勢は駿河に退去した。苛烈な状況を切り抜け、甲斐を統一し、外敵を駆逐した若き守護に家臣はもちろん、領民も希望を見出しただろう。 今川、北条との戦いはまだまだ続くが、ここに信虎は甲斐統一に成功した。国内の国人勢力を一掃するのになお10年を要したが、もはや以前のように苦戦していない。 信虎は統一によって膨らんだ国力を使って、関東への介入、信濃への侵略を行なっていくことになる。これらの戦いが次の時代を準備した。 </p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その4 駿河勢、甲斐に乱入ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

飯田河原の戦い 上条河原の戦い 山梨県 甲斐市

【その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー】<h2>竜王の信玄堤へ</h2>
<p>翌朝、昭和インター近くのホテルを出て北上し、竜王の信玄堤へ向かった。</p>
<p>名前の通り、信玄堤は武田信玄が作らせたという堤防で(むろん、信玄以来の堤防と考えるべきだろう)、私はこの堤防を見てみたかった。 <br>武田信虎というテーマとは一見外れるが、結局のところ、信虎が追放されたのは信虎の人格が異常だったというよりは治水をはじめ、内政に失敗して、有力国人や家臣の支持を失ったのが主因だと私は考えている。 <br>したがって、この堤防は、親父の失敗を息子が片付けた例として考えることもでき、信虎と信玄堤は無関係ではない。</p>
<p>さて、天気予報ではこの日は曇のち晴だったが、釜無川に着いた頃、小雨が降っていた。しかし、しばらくするとあがり、薄日が差した。この日は終日、このパターンの繰り返しだった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曇天の釜無川。 </em><br><em>写真は北の八ヶ岳の方向を写している。ボンヤリと山が見えるだけで、圧迫感は感じなかった。</em>
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<h3>絵地図</h3>
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<em>今回出てくる地形、地名、勢力などの絵地図。 </em><br><em>黄色が自転車で走った経路。</em>
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<p>これが噂の聖牛である。 なかなか大きいものだった。これなら急流にも効果が期待できそうだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>写真では所詮伝わらないと思うので、ぜひ、本物をご覧あれ!</em>
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<p>聖牛に草が絡まっているが、これを放置しておくと水圧が増し、腐敗の原因にもなるので、当時は堤防を管理していた人々がいちいちとっていたのではないかと推測する。</p>
<p>現在の聖牛は石が針金で固定されているが、当時はこんなものはあるはずがない。 <br>案内板をみると、当時は竹で固定していたそうだ。竹は強く柔軟性があり、生活道具からはじまって武器にもなる。近代以前の世界では万能素材としての地位を確立していた。したがって、竹で固定しているのはやはりという感じだったが、実際のところ、維持管理するのは大変だったと思う。 <br>何せ前日雨が降っていないにもかかわらず、流れが速い。もし台風並みの雨が降ったら、大変なことになるなと思った。それを竹で水流を受け止めるのだから、容易なことではなかっただろう。</p>
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<div><em>2011年9月撮影: </em></div>
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<em>石が竹で固定されている聖牛。昔の聖牛はこうだったらしい。 </em><br><em>聖牛の木同士を固定しているのは針金ではないかというツッコミは入れないようにしたい。</em>
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<p>甲州流治水法というのは、急流と急流をぶつけて、勢力を弱めるという思想でできている。コンクリートで両岸を固めて、水路を真っ直ぐ作る近代の治水法とは随分違うが、合理的な方法だと思う。</p>
<p>信玄以前、北の八ヶ岳の方から流れてくる釜無川と西の南アルプスから流れてくる御勅使川(みだいがわ)が合流するこの辺(信玄堤のある竜王周辺)は氾濫が頻発していた地帯で、その都度、被害が出ていた。付近の住民は弱り果てていただろう。津波に限らず、大量の水は恐ろしい。</p>
<p>そこで、信玄はこの2つの急流をぶつけることで水勢を弱めるという策を採った。具体的には、御勅使川の流路を変えて、釜無川にぶつけるための大治水事業を行い、信玄堤を作り上げた。おそらく、かつて、こういう方法を考えた人はいただろうが、実行できる者はいなかった。それを信玄は成し遂げた。ゆえに信玄は偉いのである。 <br>だが、その権力はどこから来たのだろうか。他でもない、信虎が人生を賭けて戦い、築いたものである。もし信虎が戦いに負けていたら、信玄は甲斐守護にすらなれなかっただろう。</p>
<p>信玄堤のことは本や映像で事前に調べているので、知っていることばかりではあったが、実際にみると、やはり分かる度合いがまったく違う。まさに腑に落ちた感じだった。</p>
<h3>守護大名から戦国大名へ</h3>
<p>話を信虎に戻そう。少年信虎は永正5年(1508年)に叔父の油川信恵を滅ぼしたあと、油川信恵派の郡内の小山田氏を圧迫、永正7年(1510年)には実質的に降伏させた。そして、信虎は妹を小山田氏の新当主に輿入れさせた。生まれてきた子は信虎の甥になる。 <br>少年の成長は早い。若武者へと変貌した信虎はこれら一連の戦いで武田家内部の争いに終止符を打ったが、これで甲斐統一が完成したわけではなかった。</p>
<p>江戸時代、武士は城下町に住むサラリーマンだったが、中世の武士は土着の領主だった。つまり、ある領内に権力地盤を有しており、守護から独立性が高く、各地に城を築いて蟠踞していた。甲斐も同様で、甲斐国内に、大井氏、今井氏、栗原氏、穴山氏などの有力国人がいて、彼らがどう動くかは彼ら自身が決めており、守護に彼らを自由に制御することはできなかった。 <br>守護家もまた領主であり、違いは守護という権威があった点だけである。この中世システムから脱却したのが、北条や今川であり、彼らは戦国大名の魁であった。戦国大名は各地の領主を排して、領内の一元的に支配し、農村を直接支配した。遅れはしたが、信虎も守護大名(中世システム)から戦国大名(近世システム)に移行しようとした。これが信虎と有力国人との軋轢の本質的な原因である。 <br>分権的な割拠状態をよしとする国人勢力にとって、信虎が力で甲斐を統一し、自分たちを自由に制御しようとする路線は守護による横暴、または、言語道断な独裁者と映ったことは想像に難くない。ゆえに抵抗は激しい。</p>
<h3>青年信虎、大井信達の館を攻める</h3>
<p>甲府盆地の西側に大井氏という武田の支流の勢力があり、当時の当主は大井信達だった。この大井氏が有力国人の代表格である。信虎としては、戦国大名として脱皮して、甲斐を統一するためにどうしてもこういった国人勢力を排する必要があった。 <br>大井信達は今川家と手を結び、甲斐守護の信虎に対抗した。国内の敵対勢力が他国の大名を国内に引き込むという例は枚挙にいとまがない。甲斐国内でも、北条と結ぶ小山田氏、信濃の諏訪氏と結ぶ今井氏があり、信虎にとっては国内問題と国外問題は連動していた。</p>
<p>当時、今川家の当主は今川氏親(義元の父)で、駿河に加え、遠江の領有も目前だった。いまだ甲斐一国の統一もままならない信虎にとって、今川氏親は最大の脅威だった。なお、今川氏親は伯父の北条早雲(伊勢宗瑞)に擁立されているので、今川と北条は強固な同盟関係にあった。 <br>ただ、信虎にとって幸いだったのが、今川は西の京へ、北条は東の相模(関東)へ向かう戦略を持っていたため、本格的な攻略の対象となることはなかったということである。</p>
<p>大井、今井といった各氏を抑え、甲斐を統一しなければ、他国の侵略を受けることは信濃が証明している。永正12年(1515年)、今川氏親と結ぶ有力国人、大井信達は蜂起した。そのため、23歳となった青年信虎は大井信達の館を攻めた。しかし、油川信恵を倒した時のようにはいかず、重臣を多数失うほどの敗北を喫っした。 <br>その後、大井信達と今川勢に圧迫された信虎は、一時、塩山の恵林寺に逃走するほどの窮地に追い込まれた。この間、今川勢が利用したのが、曽根の勝山城だった。南からの勢力が居座るにはちょうどいい城だったのだろう。</p>
<h3>年表: その時、彼らは何歳だったのか?</h3>
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<h3>大井信達の居城、椿城(上野城)</h3>
<p>大井信達の居城は甲府盆地の西麓の上野にあったという。地名をとって、上野城、椿が多かったため、椿城ともいった。南アルプスから伸びた台地の一つが上野で、北と南には深い渓谷があり、東側は急斜面になっている。</p>
<p>竜王から釜無川を渡り、南西に走る。ここでも果樹栽培が盛んだ。おそらく、この辺は高地だったため、水害は比較的軽微だったのではないかと思う。椿城の麓につくと、風化して見えないような案内板が「椿城跡」の方向を教えてくれる。<br> 最初は、立ちこぎして頑張っていたが、延々と上り坂が続くので、すぐに諦めて、押して歩いた。坂はかなり角度をあり、燦々と照りつける太陽が暑い。15分ぐらい歩いただろうか。ようやく、椿城跡を発見した。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>椿城付近から甲府盆地をのぞむ。 </em><br><em>街がずいぶん小さく見える。結構歩いた。まったくご苦労なことである。</em>
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<p>椿城跡には現在、という日蓮宗の本重寺が建っているが、どうもおかしい。城を建てるなら、もうちょっと西側の台地の先端ではないか。しかも、先端はここよりも高地にある。 私は西側も探検することにした。自転車を寺に置き、果樹園を抜けて、歩く、さらに歩く。結構、広い。ある程度歩いて振り返ったら、思った通り、寺が下に見える。おかしいなと思いつつ、寺に戻った。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>椿城の東の台地から本重寺をのぞむ。手前から2本目の電信柱の奥に朱色の屋根が小さく見えるが、あれが本重寺である。かなり、<br>下に見える。 背後の山が南アルプス。雄大だった。</div>
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<h3>本重寺のお年寄り</h3>
<p>本重寺の縁側にお年寄りが腰をおろしている。 <br>どうもこの寺の方にみたいだったので、話しかけてみた。</p>
<p>「お寺の方ですか?」 <br>「はい」 <br>「ここが椿城跡なんですよね」私は当然のことを聞いた。 <br>「そうですが、城自体はもっと東側にありました。ここは大井氏の館跡と言われています。大井氏が滅びたあと、この寺が移されたんです」 <br>「そうなんですか。やはり、城は東側にあったんですね」私はうれしそうに言った。</p>
<p>話を聞いていると、この寺のご住職だった。 <br>このご住職がこの寺に来られたのは4年前で、それ以来、いろいろ資料を集めて、上野の案内状を作成されたそうで、その案内状を私も一部頂いた。ご住職の話によると、寺の庫裏から東側の城まで抜け道があったらしい。城の抜け道伝説はよくあるが、こういった館にもあったとは初耳で興奮した。 しかし、2ヶ所ほど、途中の畑で抜け道が陥没して、現在は通行不能だのことだった。</p>
<p>ご住職との話は興味深かったが、途中で女性がやってきてご住職に何か用事があることを告げた。 私はご住職にお礼を言って、お寺をあとにした。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>本重寺の縁側に腰掛けて、資料などを見せてもらっていた。晴れていたらこの縁側から富士山が見えるという話を伺ったので、1枚撮ってみた。作品名「幻の富士」といったところか。</em>
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<h3>信虎が敗北したのは実は富田城?</h3>
<p>信虎が大井信達を攻めた城は椿城ではなく、椿城より低地の富田城だという説がある。 <br>なぜかというと、信虎勢は城の深田に足をとられて敗れたらしいからだ。椿城にはそういう地形ではなく、大井氏の勢力下にあった富田城であれば滝沢川のほとりにあり、深田があって当然というわけである。 <br>どちらが正しいか私には分からないが、富田城が沼田に囲まれていたのは想像に難くない。一方で、椿城は台地上にあったため、田はなかったという話には納得できない。というのは、田は棚田があればできる(段々畑の田んぼ版をイメージしてもらいたい)。現在も椿城に行く途中、棚田が少なからずあった。 <br>ただ、棚田の田んぼに足をとられて大敗というのは確かに妙な話ではある。</p>
<p>富田城は笛吹川の近く、椿城から見ると、南東の低地にある。 <br>いまの甲西工場団地の中にあったという。ゆえに、中には入れない。 <br>近くをグルグル巡っただけで終わったが、南からの交通をおさえるにはいいところだと思った。椿城が政治の城なら、富田城は経済の城だったのかもしれないなどと空想してみた。</p>
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<div>滝沢川の橋の上から富田城があったといわれる甲西工業団地をのぞむ。 <br>中部横断自動車道が団地内を通っている。背後が南アルプス。</div>
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<div>(<a>つづく</a>)</div>

その3 信虎、大井信達と戦うー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎 大井信達 信玄堤 聖牛 椿城 富田城 山梨県 甲斐市

【その2 信虎初陣ー武田信虎の戦いー】<h2>武蔵から郡内、そして、甲府盆地へ</h2>
<p>この日、朝8時半頃に自宅を出て、調布駅で京王線に乗り、調布から高尾まで生き、高尾からJR中央線に乗り換えて、甲斐の郡内を通り、甲府盆地へ入った。</p>
<h3>意外に広い</h3>
<p>甲府盆地へ入ってまず気づいたのは、甲府盆地は意外に広いということだった。 <br>「甲斐は山国」と何度も読んでいたので、山が迫って、圧迫感があるのかと思っていた。山に囲まれているのは事実だが、圧迫感はない。南北はそれほど広くはないが、東西は広く、南アルプスの山並みが霞んでいる。</p>
<h3>甲府盆地の北東、塩山駅からスタート</h3>
<p>甲府盆地の北東にある塩山駅で降り、いつものようにブロンプトン(折りたたみ自転車)を組み立てて、歴史サイクリングをスタートした。時間は午前11時頃だった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>甲府盆地の北東の塩山駅からスタート。 ブロンプトンを組み立てて、駅前を歩いていたら、仲良し3人組という風のタクシードライバーのおじさんに声をかけられ、またしてもブロンプトンについて熱く語ってしまった。 </em><br><em>調布駅でも声をかけられ、ブロンプトンについて語ること、この日、早くも2回目。</em>
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<em>今回の話で出てくる地名と地形の絵地図。 </em><br><em>さすがにひどいか。。。</em>
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<h3>恵林寺</h3>
<p>最初の目的地は、恵林寺である。 <br>恵林寺は信玄の本を読んでいた時によく出てきていたので、いつか行ってみたいと思っていた。幸い、塩山駅から2kmほどのところなので、行ってみることにした。 <br>分かってはいたが、上り坂である。自転車にダラダラと続く上り坂はきつい。しかも、この日は日差しが強く、恵林寺に着いた頃には汗だくになっていた。</p>
<p>恵林寺は武田家滅亡の時、織田信長に焼かれた。恵林寺の住持、快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定したことは有名である。恵林寺の武田不動尊も有名で、信玄をモデルに作られたといわれている。<br> 私はこの像をいつか見てみたいと思っていた。 <br>13時頃、恵林寺をあとにした。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2011年9月撮影: <br>恵林寺山門 <br>快川紹喜が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えて、火定した場所に建てられたという。 なお、恵林寺はこのシリーズの中でもう1度出てくる。</div>
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<h3>気づいたこと</h3>
<p>ここからは下りである。 <br>甲府盆地は北が高く南が低い。私はいま東北にいる。ちょうど笛吹川と並行する形で、石和に向かって、風を切って下った。</p>
<p>走りはじめて、気づいたことがある。まず、人が少ない。歩いている人はほとんどいない。東京の江東区から調布に引っ越した時に、人が少なく感じだが、その比ではない。本当に人を見ない。その代わり、ブドウ畑などの果樹園がひたすら続く。まるで、住宅地と山以外はすべて果樹園のようだ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>所狭しと広がるブドウ畑。 </em><br><em>肥料が置いているところにリアリティを感じる。</em>
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<p>もう1つある。それは豊富な水量と水流である。 <br>他の街でも家々の側溝を小川のせせらぎという感じと水が流れていることがあるが、この辺は側溝に水がガンガン流れている感じである。大雨が降って、側溝に人が流されて死亡したというニュースをたまに目にするが、どういう状況なのかイメージできず、今まで信じられなかった。しかし、急流の側溝を見て「ありうる話だ」と納得した。 <br>何せ高い山が近くにあり、かなりの傾斜があるため、このような急流になるようだ。これでは台風のような大雨が降ったらどうなるのやら、恐ろしい話だ。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>恵林寺から石和に向かう時に渡った橋から撮った笛吹川(山梨市七日市場付近) 白波が立って、急流であることが分かる。 </em><br><em>前日に雨が降ったわけでもないのにこの水量。</em>
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<h3>甲斐守護の館があった石和</h3>
<p>信虎が1519年に躑躅ヶ崎館に移すまで、石和の川田館が甲斐守護の拠点だった。 <br>父、武田信縄の死後、少年信虎も甲斐守護として、石和の川田館の主となった。いわば、石和の川田館は信虎にとって政治的人生の出発点だった。ということなので、まずは石和に行くことにした。</p>
<h3>あの木は何ですか?</h3>
<p>ところで、サンクリング中、私はブドウ畑と同じくらいの割合で存在する畑(木)が何なのか気になってきた。だが、人がいないので聞けない。</p>
<p>石和温泉駅に近くにきた。進行方向の右側30mほどのところに小さなネギ畑がある。その畑でネギにひしゃくで水をまいている中年の女性がいる。その女性に木の正体について、聞いてみることにした。</p>
<p>「すいません」<br> 「こんにちは。」ネギの女性は笑顔で応える。気持ちのいい笑顔だ。 <br>「ちょっと教えてほしんですが、あの木は何ですか?」私は近くにある畑にある謎の木を指して尋ねた。 <br>「どれ?」分からないらしい。 <br>「あれです、あの畑の木です。ちょっと栗っぽい木です」 <br>「ああ、あれは桃の木よ」至極、当然のようにいう。<br> 「ああ、そうなんですか」何と30も半ばになろうというのに、私は桃の木を知らなかった。桃の木を知らないという人間がいること自体が想定外で、どの木のことを聞いているのか、この女性は分からなかったようだ。 <br>もし桃がなっていれば、むろん、桃の木だと分かっただろうが、桃のシーズンはとっくに終わっている。</p>
<p>ということは、ブドウ畑と二分する謎の畑は桃畑ということになる。 <br>なぞが解けて、スッキリした。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>謎の木。。。 </em><br><em>この辺の子供なら、3歳児でも知っていそう。</em>
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<p>「ブドウはほとんどなっていませんね」 <br>「まあ、お盆の頃だからね。けど、緑のブドウなんかはこれからよ」 <br>「なるほど、品種が違うんですね」 <br>「そう。それに石和は温泉が出るでしょ。温暖な土地だから、できるのが早いのよ。塩山なんかはここより少し遅れるし、八代(甲府盆地の南部)なんかの巨峰はこれからよ。地域によって、見事に出来る時期が違うのよね」 <br>「へえー、そうなんですか」私は驚いた。というのは、塩山も八代もここから見える。なのに、これほど収穫時期が違うのである。 <br>「すごく驚いてるね」私の驚き方が面白いのか、ネギの女性は朗らかに笑っている。</p>
<p>他にもいろいろ話を聞いたのち、 <br>「お仕事中、すみませんでした」 <br>「はーい、がんばってねー」 <br>「ありがとうございまーす」 <br>ということで、私はネギ畑をあとにした。</p>
<h3>信虎、叔父の油川信恵と戦う</h3>
<p>笑顔が素敵なネギの女性と別れた後、10分ぐらい走ると、川田館跡に着いた。 <br>川田館跡の看板がブドウ畑の中に立っている。ここにかつて甲斐守護の館があったと想像できるものはない。しかし、かつてはここを中心に城下町に近い街並みがあったはずだ。そして、信虎の甲斐守護としての人生はここからはじまった。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>川田館跡は平等川の左岸にある。 </em><br><em>ブドウ畑の中に、川田館跡の案内板が立っている。この案内板がなければ、川田館跡だとは誰も気付かないだろう。</em><br><em> 川田館に信虎がいたのは1519年なので、1521年生まれの信玄はここで生活したことはないはずだ。</em>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>川田館跡の横で撮影したブロンプトン。だからといって、特別な意味は何も無い。 </em><br><em>前のバッグに、この歴史サイクリングで使う全ての荷物が入っている。 </em><br><em>2泊3日で自転車で130kmほど走った。乗り心地もよく、折りたためるので最高。</em>
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<p>さて、信虎の父、信縄が1507年に死去したところまで述べた。 <br>当主の交代時というのは元々動揺しやすいので、敵対勢力にとっては狙い目ではあるが、特に次の当主が若年である場合は尚更だ。当然、叔父の油川信恵は反意を露わにしはじめる。 <br>信虎は若年の当主である。普通ならここで叔父に討ち滅ぼされるのだろうが、翌年、逆に信虎は叔父、信恵の居城、曽根の勝山城にを攻めて込んで、滅ぼしてしまった。この重要な局面で初陣を勝利で飾った信虎を、信虎の支持者たちも頼もしく思ったことだろう。 <br>これで武田家内部の争いは終わった。しかし、この戦いは信虎にとって、甲斐統一の第一歩に過ぎなかった。</p>
<h3>曽根の勝山城</h3>
<p>油川信恵の居城、曽根の勝山城は甲府盆地の南部、笛吹川の南側にある。</p>
<p>石和の川田館跡を出発し、笛吹川沿い(南西)に走ること1時間ほどで、曽根にやってきた。石和と違って、この辺は稲作もしている。笛吹川の治水に成功して、用水路が整備されたことで、稲作が可能になったのだと思う。信虎の頃、この辺は洪水多発地帯だったようだ。</p>
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<em>勝山城から1kmほど上流の境川付近。 </em><br><em>稲作が行われている。石和付近の果樹園尽くしとは風景が異なる。</em>
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<p>さて、パッと見て、目立つ丘陵がいくつかある。そのうちの1つが勝山城だろうと思った。なお、郡内(山梨県東部の山岳地帯)にも勝山城がある。その城と区別するため、「曽根の」という頭文字がついている。 勝山城と思しき丘陵に近づいたが、それらしい看板などはない。 しかし、私はiPhoneを持っているため、ここが勝山城であることは分かっている。城の南側に回ると、果樹園になっており、丘陵への入り口がある。案内板がないため、果樹園に入っていいものか躊躇いながらもブロンプトンを押しつつ入っていった。 すると、勝山城の石碑を発見! やっぱりここだったかのか。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城。勝山城は甲斐と駿河を結ぶ中道往還を押さえる要衝の地にある。近くには笛吹川の氾濫原が広がり、沼田に囲まれていたようだ。 </em><br><em>なお、石碑には「沼田めぐり 攻めるにたかし 勝山城」と書いてある。</em>
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<p>城跡の北端に立つと、石和方面がよく見える。 川田館の信虎にとってはいい気分ではなかったと思う。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城から川田館があった石和方面がよく見える。 </em><br><em>実際に勝山城を見た歩いたら、意外と小さかった。それに丘陵といっても、それほど高いわけではない。この城は戦国末期まで使われたので、もうちょっといろいろと遺構も残っているかと思っていたが、期待していた程ではなかった。 「これが曲輪で、これが虎口で」と言われれば、「なるほど」と思うだろうが、単なる丘陵上の果樹園だと思えば、単なる果樹園にしか見えない。 </em><br><em>しかし、眺めはよく、ここに中道往還の押さえる位置からも、勝山城が重要な城であったのは頷ける。 </em><br><em>なお、この後も今川勢がこの城を用いて、信虎を苦しめることになる。</em>
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<p>かつて、この辺りは沼田であったという。甲冑に身をかためた15歳の信虎は500年ほど前の永正5年(1508年)10月4日、この勝山城付近で油川信恵勢と合戦におよび、決定的な勝利を収めた(勝山合戦)。<br> 少年信虎は一癖も二癖もある屈強な重臣たちに補佐されて戦ったのだろう。この戦いで叔父の油川信恵が戦死している。もし立場が逆だったら、この日に信虎の人生は終わっていたことになる。当時としてはありふれた話だろうが、厳しい話には違いない。 <br>実際にどういう戦いだったかは分からないが、今の勝山城は平和な果樹園であり、歴史を知らない人がここを訪れても城跡だとは気づくことはないだろう。</p>
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<em>2011年9月撮影: </em><br><em>曽根の勝山城、遠景。結構良いアングルだった。</em>
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<h3>ホテルへ</h3>
<p>勝山城跡を降りてくると、16時になっていた。ホテルは甲府盆地の真ん中やや西側の国母近くにあるので、ここから自転車で40分ぐらいかかりそうだ。いい時間である。私はホテルに向かった。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>
<h3>資料: 武田信虎の年表</h3>
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その2 信虎初陣ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

武田信虎 恵林寺 川田館跡 曽根勝山城 山梨県 甲府市

【その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー】<h3>武田信虎</h3>
<p>武田信虎は武田信玄の父親で、一般的には「暴君」として知られている。暴君なあまり、信玄に追放されたという。</p>
<p>私 はこの理解に、特段異議を唱えるつもりはない。が、暴君だったという理由で彼の業績を無視するのは適切ではないと思う。というのは、信虎の時代を無視する と、北条早雲から信玄の時代へのつながりが見えなくなるし、信玄という人物と業績も十分理解することができないためだ。</p>
<p>信玄は信虎から国土、家臣団、人民などの地盤を受け継いだのであり、もし信虎が甲斐を統一していなければ、信濃のように近隣の強国に併呑されていた可能性がある。仮に信玄が甲斐統一を成し遂げたとしても、長い年月を要したと思う。</p>
<h3>今回の歴史サイクリングの概要</h3>
<p>2011年9月末に行った歴史サイクリングでは、信虎が甲斐守護となってから、実質的な支配者となる大永元年(1521年)までの甲斐統一戦を追うことがテーマだった。<br>すでに500年ほど経過しているが、彼が住んだ場所、戦った場所などをめぐることで、さまざまな局面における信虎の「その時」に近づきたいと思っている。 こればっかりは机上ではできない。</p>
<h3>信虎以前</h3>
<p>信虎以前の甲斐武田氏の歴史を遡ると、清和源氏発祥からはじまる。あまりに過去に遡ると、読者にはきついと思うので、ザックリとした説明にとどめた。この辺の事情を知りたい方は次の資料をご参考いただきたい。</p>
<p><strong>柴辻 俊六『武田信虎のすべて』</strong></p>
<h3>源氏の流れを引く名家</h3>
<p>甲斐武田氏は戦国時代の成上り大名とは違い、源氏の流れを引く名家である。浮き沈みはあったものの、鎌倉から戦国時代まで甲斐守護であり続けた。 <br>室町時代の中期には、甲斐も他国同様、守護代の権力が伸長した。応仁の乱の頃、甲斐守護代の跡部氏による下克上が起こってもおかしくない状況だったが、信虎の祖父、信昌は1465年に甲斐守護代の跡部氏を破り、甲斐を統一することに成功した。</p>
<h3>争いやまず</h3>
<p>信虎の祖父、信昌は跡部氏が強盛の頃、跡部氏の娘を正室として娶らされており、その子が信虎の父、信縄だった。信昌には側室の子があり、油川信恵(武田信恵)といった。信昌は跡部氏の血を引く信縄よりも、信恵を可愛がった。 <br>そ の結果、1492年、またもや、甲斐守護の信縄 VS 信昌(父)・信恵(異母弟)という図式で争いが起こった。この戦いは関東の情勢とも無関係ではなく、守護の信縄が関東管領の山内上杉氏派で、信昌・信恵が 扇谷上杉氏派(この頃、今川氏親と北条早雲も扇谷上杉氏派)だった。</p>
<p>そんな中、1494年、のちの武田信虎は誕生した。早雲の伊豆討ち入りの翌年である。 この骨肉の争いは延々と続いたが、1498年の<a>明応の大地震</a>(東 海・東南海・南海連動型地震だった可能性が指摘されている)が起こり、もはや戦っている場合ではなくなったようで、両者は和睦した。 東日本大震災を経験した我々は、この時の甲斐や東海地方がどういう状況だったか推測できると思う。 また、いくさがやむほどの大震災を経験した5歳の信虎の姿も想像してもらいたい。</p>
<p>しかし、この和睦は根本的な解決にはならず、危機は潜在することになった。和睦から7年後の1505年に祖父、信昌が死去し、その2年後に父、信縄も37歳の若さで死去する。</p>
<h3>信虎、家督相続</h3>
<p>父、信縄が死去した時、信虎は数え年で14歳だった。 <br>甲斐守護であり、父である信縄を失い、今なら中学1年生ぐらいの少年が甲斐守護となったのである。</p>
<p>(<a>つづく</a>)</p>

その1 信虎以前ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , by fuji3zpg 開く

武田信虎

【福岡城お堀】<p>とにかくお堀の幅が広い!</p>

福岡城お堀

作成日:2014/8/17 , 地図あり・方位あり・方位あり, by yukinko 開く

福岡城 お堀 福岡県 福岡市

【歴史のよいサイトまとめ】<p><span>デジタルミュージアム</span></p>
<p><a>国立公文書館デジタルアーカイブ</a> :絵図(江戸時代)には国絵図や城絵図など、多数ある。</p>
<p><span>今昔マップ<br></span></p>
<p><a>盛岡城の今昔マップ(盛岡市HPより)</a></p>
<p><span>博物館</span></p>
<p><a>「ミュージアム/人文・歴史系」の美術館</a></p>
<p><span>城</span></p>
<p>八王子城: <a>ボランティアガイドの会</a><br>滝山城: <a>よみがえる滝山城</a><br>鉢形城: <a>鉢形城公園フィールドマップ</a><br>忍城: 「<a>歴史のまち・行田市のみどころガイド</a>」 *PDFをダウンロードできます。あと、行田氏郷土博物館で今昔マップが50円で売っていたのですが、大いに役立ちました。<br>城所在マップ: <a>日本の城 写真集</a> 城の数は多いですが、程よいマニアックさに抑えてある感じます。</p>
<p> </p>
<p><span>地域</span></p>
<p>神奈川県伊勢原市: <a>伊勢原文化財マップ</a> 糟屋館跡・太田道灌の墓・実蒔原古戦場など、伊勢原周辺の史跡がまとまっている。リンク先にガイドページあり</p>

歴史のよいサイトまとめ

作成日:2014/8/17 , by fuji3zpg 開く

【二条城西橋から天守台を撮影】<p>二条城西橋を渡った地点から天守台を撮影。</p>
<p>天守台上にいる人との対比で、天守台の大きさが分かると思う。</p>

二条城西橋から天守台を撮影

作成日:2014/8/11 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

二条城天守台 二条城見学(2013年9月) 京都府 京都市

【二条城本丸の西橋から本丸西枡形を撮影】<p>写真右側が二条城本丸の西枡形で、江戸期には石垣上を多聞櫓が配置されていて、埋門となっていた。</p>
<p>写真左側隅には、三重櫓が建っていた。本丸と二ノ丸には天守を除くと、7基の多重櫓が建っていたが、本丸北西のみが三重櫓だった。</p>

二条城本丸の西橋から本丸西枡形を撮影

作成日:2014/8/11 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

二条城本丸西枡形 二条城三重櫓跡 二条城見学(2013年9月) 京都府 京都市

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