西暦: 1301年 〜 1338年

地域: 日本

新田義貞

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関連する歴史年表: 太平記


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グラフ: 「新田義貞」と同時代の人物

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グラフ: 「新田義貞」と同時代の出来事

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表: 「新田義貞」と同時代の人物

忍性(良観) 1217年 〜 1303年 日本
郭守敬 1231年 〜 1316年 東アジア
ボニファティウス8世 1235年 〜 1303年 ヨーロッパ
モンテ・コルヴィノ 1247年 〜 1328年 ヨーロッパ
ラシード・アッディーン(ラシード・ウッディーン) 1247年 〜 1318年 地中海、西アジア
マルコ・ポーロ 1254年 〜 1324年 ヨーロッパ
ダンテ 1265年 〜 1321年 ヨーロッパ
フィリップ4世 1268年 〜 1314年 ヨーロッパ
北条貞時 1271年 〜 1311年 日本
夢窓疎石 1275年 〜 1351年 日本
吉田兼好(兼好法師) 1283年 〜 1352年 日本
後醍醐天皇 1288年 〜 1339年 日本
ウィリアム・オブ・オッカム 1290年 〜 1349年 ヨーロッパ
北畠親房 1293年 〜 1354年 日本
楠木正成 1294年 〜 1336年 日本
新田義貞 1301年 〜 1338年 日本
北条高時 1303年 〜 1333年 日本
ペトラルカ 1304年 〜 1374年 ヨーロッパ
イブン・バットゥータ 1304年 〜 1377年 地中海、西アジア
足利尊氏 1305年 〜 1358年 日本
足利直義 1306年 〜 1352年 日本
上杉憲顕 1306年 〜 1368年 日本
護良親王 1308年 〜 1335年 日本
エドワード3世 1312年 〜 1377年 ヨーロッパ
ボッカチオ 1313年 〜 1375年 ヨーロッパ
光厳天皇 1313年 〜 1364年 日本
カール4世 1316年 〜 1378年 ヨーロッパ
北畠顕家 1318年 〜 1338年 日本
ウィクリフ 1320年 〜 1384年 ヨーロッパ
義堂周信 1325年 〜 1388年 日本
今川了俊(貞世) 1325年 〜 1420年 日本
朱元璋(洪武帝) 1328年 〜 1398年 東アジア
細川頼之 1329年 〜 1392年 日本
エドワード黒太子 1330年 〜 1376年 ヨーロッパ
足利義詮 1330年 〜 1367年 日本
新田義興 1331年 〜 1358年 日本
イブン・ハルドゥーン 1332年 〜 1406年 地中海、西アジア
観阿弥 1333年 〜 1384年 日本
李成桂 1335年 〜 1408年 東アジア
ティムール 1336年 〜 1405年 地中海、西アジア
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表: 「新田義貞」と同時代の出来事

弘安の役(第2回元寇) 1281年 日本
霜月騒動 1285年 日本
マムルーク朝、イェルサレム王国を滅ぼす 1291年 地中海、西アジア
平頼綱(平禅門)の乱 1293年 日本
鎮西探題、設置 1293年 日本
モンテ・コルヴィノ、大都(元の都)に到着 1294年 東アジア
ガザン・ハン(イル・ハン国)、イスラム教を国教とする 1295年 地中海、西アジア
永仁の徳政令 1297年 日本
オスマン帝国、成立 1299年 〜 1922年 地中海、西アジア
『世界の記述(東方見聞録)』、出版される 1299年 ヨーロッパ
フィリップ4世、三部会を招集 1302年 ヨーロッパ
アナーニ事件 1303年 ヨーロッパ
ダンテ『新曲』を著す 1304年 〜 1321年 ヨーロッパ
教皇のバビロン捕囚 1309年 〜 1377年 ヨーロッパ
後醍醐天皇、即位 1318年 日本
正中の変 1324年 日本
ヴァロワ朝、成立 1328年 〜 1589年 ヨーロッパ
吉田兼好『徒然草』 1331年 日本
元弘の変 1331年 日本
分倍河原の戦い 1333年 日本
鎌倉幕府滅亡 1333年 日本
建武の新政 1334年 日本
中先代の乱 1335年 日本
南北朝時代はじまる 1336年 〜 1392年 日本
湊川の戦い 1336年 日本
足利尊氏、光明天皇(持明院統)を立て、建武式目を定める 1336年 日本
足利尊氏、征夷大将軍となる 1338年 日本
英仏、百年戦争始まる 1339年 〜 1453年 ヨーロッパ
クレシーの戦い 1346年 ヨーロッパ
ヨーロッパに黒死病広がり、人口激減 1347年 〜 1351年 ヨーロッパ
ボッカチオ『デカメロン』を著す 1348年 〜 1353年 ヨーロッパ
観応の擾乱はじまる 1350年 〜 1352年 日本
タイ、アユタヤ朝、成立 1351年 〜 1767年 南アジア、東南アジア
紅巾の乱(白蓮教徒の乱) 1351年 〜 1366年 東アジア
イブン・バットゥータ『三大陸周遊記(旅行記)』完成 1356年 地中海、西アジア
カール4世、金印勅書 1356年 ヨーロッパ
ジャックリーの乱 1358年 ヨーロッパ
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「新田義貞」の関連ノート

【荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-】<h3>舞台は赤浜</h3>
<p>鉢形城の東に赤浜という土地がある。ここが鎌倉街道上道の荒川渡河地点だった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 荒川の南岸、赤浜の渡し(渡河地点)付近。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>意外と少ない渡河地点</h3>
<p>川というのは、一見どこでも渡れそうだが、大河の場合、川底の地形や水量の多寡という条件があるため、渡れるところと渡れないところがある。渡れて、かつ、交通の便がよい場所が重要な渡河地点となる。</p>
<p>現在、荒川であれ、利根川であれ、川沿いを自転車で走ると、サイクリングロードが整備され、快適に走ることができる。基本的に堤防に囲まれているので、視界は限られる。その限られた視界に、橋が現れては消えてゆく。「○○橋」という橋の名前を見ないと、自分がどこまで走ったか、分からなくなる。</p>
<p>いずれにしても、これらの橋があることで、両岸を容易に行き来できる。だが、もし橋がなかったらと想像してもらいたい。渡るのは大変である。まず、川を渡ると、服が濡れる。転んで怪我をしたり、下手をすると、溺れて落命するかもしれない。であるから、かつて、渡河していた人々はおそらく何か用事があって川を 渡っていたはずで、荷物を持っていることも多かっただろう。</p>
<h3>架橋・治水技術の成果</h3>
<p>江戸時代に、大井川の増水によって、宿場町に何日も足止めされ、その間に路銀をすっかり失ったという話もあるように、大河というのは雨が降って増水すると渡れなく なることがあった。現代は極端な場合を除いて、川が増水して渡れないというケースは経験しないだろう。それは川の上流にダムなどの治水対策が施されていて、水量を調節しているためである。</p>
<p>実際、長尾景春の乱が発生した当初、太田道灌は相模にいる味方を呼び寄せて、江戸城-川越城ラインを遮断する豊島氏を攻めようとしたが、大雨で多摩川が増水して、相模勢は来ることができなかったという。</p>
<h3>渡河作戦の難しさ</h3>
<p>このように、橋とダムによって、現代では川を意識することが少なくなったが、中世における河川の状況は随分違ったことをお分かりいただけたと思う。しかも、軍事作戦で川を渡るとなると一層困難である。</p>
<p>まず、重量のある甲冑を身につけ、騎馬武者は馬に乗って渡河する。そればかりか、対岸には敵が手ぐすね引いて待っているのである。<br> 水の中では、陸上のように機敏に動けないから、まさに格好の標的となってしまう。そして、味方に死傷者を出しながらも、弓矢の雨の中を必死に渡って、運よく対岸に着いたとしても、優勢な敵が味方を袋叩きにしようと待っている。</p>
<p>このように渡河作戦は困難なので、孫子の兵法書に渡河方法が書かれている(行軍篇(第九))ほど、渡河はいくさにおける重要なテーマだった。</p>
<h3>扇谷上杉定正</h3>
<p>さて、この話の主人公は、扇谷上杉定正という人物である。<br> この男は、山内上杉顕定にそそのかされて、自分を擁立し、しかも自家の勢力を強めてくれた、家宰の太田道灌を謀殺した人物として歴史に記録されている。道灌を謀殺したことで、定正に見限りをつける勢力もあり、扇谷家の勢力は減退したが、定正は凡庸な人物ではなかった。</p>
<h3>定正、関東三戦に勝利する</h3>
<p>道灌謀殺後、定正は関東管領家の山内上杉顕定と対立関係に入った。</p>
<p>不利な形勢の中で、軍事面では長享2年(1488年)の関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)を有利に進め、外交では第2代古河公方の足利政氏や政氏の庇護下にあった長尾景春、そして、伊豆を奪取した北条早雲を味方につけ、山内上杉顕定に対抗した。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦</h3>
<p>その後、徐々に勢力を北武蔵に伸ばした定正はついに明応3年(1494年)に荒川に到達し、渡河しようとした。なお、この作戦には定正の援軍として早雲も参戦している。<br> もしこの作戦が成功し、上野国の山内上杉氏を倒せば、山内上杉氏に代わって、扇谷上杉氏が関東の覇者になれる可能性が出てくる。</p>
<p>だが、ここで思いがけないことが起こったのである。定正が荒川渡河時に落馬して、頓死してしまった。扇谷上杉氏の当主になってから約20年もの間、関東の戦乱を生き抜き、道灌謀殺後の苦しい時期も何とか切り抜けてきた定正に一体何が起こったのか。それは残念ながら分からないが、荒川の存在とその流れが彼の落 命の一因となったことは確かだろう。</p>
<p>定正落命は、司馬遼太郎『新装版 箱根の坂(下)』 (講談社文庫)<img>、伊東潤『疾き雲のごとく』<img>の第2話「守護家の馬丁」で書かれている(司馬さんの本では赤浜を過ぎた荒川北岸で、伊東さんの本では荒川南岸で死亡したことになっている。詳しくは各書籍をご覧いただきたい)。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦失敗時の関連人物たち</h3>
<div> </div>
<h3>定正の死と扇谷上杉氏の衰退</h3>
<p>原因はどうあれ、定正が死去したことで、元々、勢力的に劣勢だった扇谷上杉氏は急速に衰退していく。結果からみると、やはり彼の存在が扇谷上杉氏を支えていたことが分かる。</p>
<h3>早雲を関東に引き入れた定正</h3>
<p>もう1つ、彼の果たした役割としては北条早雲を関東に引き入れたことである。<br> 定正の養子、扇谷上杉朝良の代に早雲は小田原を手に入れ、関東の西の入り口に地盤を得た。そして、最終的に、早雲は相模一国を手に入れるのである。<br> それから半世紀ほど後、早雲の孫、北条氏康が最終的に川越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼすことになる。短期的に正しい決断が、長期的に見ると必ずしも正しくないこともあるという一例だろう。</p>
<h3>再び、赤浜</h3>
<p>私は赤浜の渡しで大きな石の前に立っている。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 赤浜の渡河地点付近の写真。</em><br><em> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</em>
</div>
<div> </div>
<p>5月初旬だったこともあり、ボカボカ陽気で眠くなるようなところだった。<br> 中世の名もなき人々、そして、著名な歴史人物(たとえば、元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府を倒すため軍を率いて鎌倉街道上道を南下した新田義貞)もこの辺りを渡ったことだろう。<br> そして、高見原から鎌倉街道の上道を北上してきた定正は、鎌倉街道上道の高地から赤浜の低地の風景を目にしたあと、この辺りで荒川を渡河しようとして落命したのかもしれない。</p>
<p>今は近くに橋がかかっているので、釣り人らしき人以外、誰も顧みないこの地は、かつて坂東武者たちの生死を懸けた歴史の舞台だったのである。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。</em><br><em> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</em><br><em> 赤浜の北岸が花園である。</em><br><em> 荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</em>
</div>
<p><a><img></a></p>
<div>2010年5月1日撮影:<br> 上の写真を撮影した付近に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標識がいくつか立っている。</div>
<div> </div>

荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

赤浜の渡し 上杉定正 埼玉県 大里郡

【三浦一族の滅亡-かわらけー】<h2>今回の歴史サイクリングの要約</h2>
<p>2010年10月2日、私は三浦半島で歴史サイクリングをしてきた。テーマは、伊東潤 『疾き雲のごとく』の最終話「かわらけ」関連の土地を巡ることだ。</p>
<p>この話は、鎌倉時代以来、三浦半島に勢力を張った名家、三浦氏滅亡の物語である。北条早雲は伊豆を奪取して以来、東に進み、1501年までに西相模の小田原を手に入れた。そして、早雲は三浦半島を中心として東相模に勢力を持つ三浦氏と激突した。<br>折りしも、三浦氏の当主は、文武両道の誉れが高い三浦道寸だった。その道寸とその一族も、早雲の粘り強い攻めに抗しきれず、永正13年(1516年)7月11日、三浦半島の南西部の新井城で滅亡した。これによって、早雲は伊豆、相模の2カ国を手に入れた。その早雲も、三浦氏滅亡の3年後に死去しました。数え年で64歳だった。</p>
<div> </div>
<p>今回の歴史サイクリングのコースは、大船(玉縄城が近くにある)→鎌倉(住吉城)→三崎城→新井城という流れである。</p>
<h2>いざ、出発!</h2>
<p>この日、自宅を出発して、7時30分頃に東京駅に着きた。そして、電車で大船駅に向かう。大船には北条早雲が築城したという玉縄城が、かつて駅の西側の台地に広がっていた。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2013年2月撮影 玉縄城の本丸は現在の清泉女学院にあった。写真は、本丸西側にある七曲坂からかつての本丸を見上げたアングル。</div>
<h2>早雲、鎌倉へ進撃</h2>
<p>永正9年(1512年)に岡崎城に籠る三浦勢を駆逐した早雲はその勢力を東に伸ばし、翌年には、鎌倉の南東に位置する住吉城を落とした。目指すは三浦氏の本拠地である新井城。しかし、三浦氏の主家である扇谷上杉氏の援軍が武蔵(北)からやってくるのは時間の問題だ。そこで、早雲は大船に玉縄城を構築し、扇谷上杉勢への備えとしたのだった。 <br>玉縄城には昔行ったことがあるので、今回は玉縄城に寄らず、一路、鎌倉を目指した。</p>
<h2>鎌倉、化粧坂</h2>
<p>私は鎌倉に過去何度か行ったことがあるが、鎌倉七口の1つ、化粧坂を通ったことがなかったので、今回は化粧坂に行ってみることにした。化粧坂は鎌倉街道上道の出入り口で、元弘3年(1333年)の新田義貞による鎌倉攻めの際にも激戦地になった。このように、中世関東史を学ぶ人にとっては化粧坂は一度は訪れてみたい土地なのだ。</p>
<h2>なにやら気配が・・・</h2>
<p>大船からは上り坂が続き、ある時は自転車で、ある時は自転車を押して進むこと40分弱で化粧坂に着いた。自転車を降りて、化粧坂に向かって歩いていると、何か気配を感じたので、右前方を見ると、3mほど先にいるリスと目が合った。すかさず、腰の物に手をやって(むろん、刀ではなく、カメラです)、リスをレンズに捉えてやろうと思ったが、リスもほぼ同時に逃げ始める。リスはスルスル動いて、キョロキョロし、また、スルスル動いて、キョロキョロして、まるでマンガかアニメのように動いて、カメラの視界からいなくなる。<br>不思議と自分の目で見るとすぐ見つけられるのに、カメラで見ると、どこにいるのか分からなくなる。そして、ついにどこに行ったのか分からなくなってしまった。 <br>普段、城や石碑など、大きくて動かないものを撮っているので気づなかったが、小さくて動くものをカメラで撮るのは案外難しいものだということを知った。残念ながら、リスを撮ることはできなかったが、野生のリスをこれほど至近距離で見たのははじめてだったので、幸先の良いことだと思った。</p>
<h2>中世の雰囲気が色濃く残る化粧坂</h2>
<p>もう少し進むと、化粧坂の本体に部分に入った。噂通り、なかなか中世的な雰囲気が色濃く残っていた。馬が自由に走れないようするための巨石が道にある。しかし、坂自体は短くて、あっという間に舗装路に出てしった。軍勢を防ぐのであれば、もう少し防備を固めないとどうにもならないので、おそらく、現在残っている遺構は全体の一部なのだろう。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>化粧坂には、写真のように馬が駆けられないように石が配置されている。 さすがに有名なところだけあって、朝にもかかわらず観光客を何人も見た。</em>
</div>
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<h2>舗装道路がない・・・</h2>
<p>化粧坂は階段状になっているため、自転車で進めない。そのため、化粧坂を通って鎌倉市街に入るのを諦めて、源氏山公園から抜けることにした。<br>源氏山公園を進んで階段のない舗装路を探しましたが見つからず、仕方がないので、自転車を持ち抱えて階段を下りることにした。私が進んだのは扇谷に抜ける道だった(なお、扇谷上杉氏の「扇谷」は鎌倉の扇谷に屋敷があったことに由来する)。</p>
<p>最初はどうということもなく自転車を持ち運んでいたが、階段が終わったあとも舗装路はなく、土の道にたまに大きな段差という感じの道が続く。私はさった峠の自転車持ち運び(「<a>さった峠の試練</a>」)を思い出したが、今回は、まだ朝方で元気だったこと、下りだったこと、PCを持っておらず荷物が軽かったことなどもあって、疲労感には雲泥の差がありましあった。しかし、それでも最後のほうはやや手が疲れてきたところに、ものすごく狭い道に直面した。</p>
<h2>狭き道</h2>
<p>しかも、この道は苔生しており、手ぶらでも用心して歩かないと滑って転びそうだ。これを自転車を持ちながら通るのは容易ではない。何だかマンガのような(もののけ姫が出てきても違和感がなさそうな)道だなと思いながら、自転車を胸辺りまで持ち上げたまま、おっかなびっくりのすり足で進み、ようやく通り抜けることができた。</p>
<h2>「えっ、ここ通るの?」</h2>
<p>狭い道を通り抜けた後、反対方面から、観光客と思しき中年夫婦が近づいてきて、奥さんがこの道を見て「えっ、ここ通るの?」と言って、しばらくフリーズしていた。<br>やはり、私だけが狭いと感じたわけではなさそうだ。「この道は自転車を持って通るには難易度の高い道だった。こんなことなら、化粧坂切通を自転車を担いで通ればよかった」と総括して、扇谷に抜ける切通しを抜け、鎌倉市街に入って行った。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>写真でみると、あまり狭く感じないかもしれないが、自転車を抱えて苔生して滑りやすい足場を歩いたので苦戦した。</em>
</div>
<h2>中世から現代へ</h2>
<p>鎌倉の面白いところは、苔生した中世的世界と現代社会が背中合わせになっている点である。扇谷の切通を抜けると、舗装路に住宅地、そして、もう数分走ると、鎌倉駅前に出る。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>2010年10月 扇谷に出る切通。ここを出ると、すぐに住宅地が広がる。まさに、タイムマシンのゲートのようだ。 <br>なお、この写真を撮るために静止していると、複数の蚊が即座にやってきた。ゲートのこちら側は湿っていて、蚊には居心地がよいのだろう。</div>
<h2>海と陸の違い</h2>
<p>鎌倉駅前には、現代的な人々、店、交通機関などがある。その一方では、「下馬」といったかつての光景を思い起こさせるような地名の交差点があったりもする。そして、鎌倉の魅力を1つ挙げると、それは海だろう。鶴岡八幡宮は鎌倉の盆地の北に鎮座しているが、そこから見る光景はなかなか良い。それに加え、由比ガ浜ではマリンスポーツや釣りをしている人々もいる。</p>
<p>海からの光景というのは、陸からの光景と随分違うもので、その移動原理にも違いがある。陸で生きる人にとっては海は移動の障害以外の何者でもないが、海で生きる人にとっては海は交通路だ(そして、これが陸軍と海軍の本質的な発想の違いとなり、引いては組織間の摩擦の原因にもなるようだ)。したがって、同じ日本人といっても、当時、陸で生きていた人と海で生きていた人の考え方、習慣、行動原理は随分違ったものだったのではないかと思う。</p>
<h2>早雲、関東名家の内紛を衝き、三浦氏を三浦半島南部に追い詰める</h2>
<p>さて、由比ガ浜を東端まで移動して見上げると、崖がそびえ立っています。かつて、ここに住吉城があった。ここを突破されると、小坪に侵入されるため、三浦氏は城を作って防御しようというわけだ。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>2010年10月 </em></div>
<div><em>滑川の最下流付近から撮った住吉城の遠景。写真中央部の台地上に住吉城があった。そして、その右手が小坪。</em></div>
<p>永正9年(1512年)6月頃からはじまった山内上杉氏と古河公方家の内紛で、山内上杉氏と扇谷上杉氏が再度対立し始めると、早雲はその隙を突いて、東進し、同年8月には相模の岡崎城を奪って、その勢いで鎌倉に押し寄せた。そして、翌年(永正10年)1月、早雲勢と三浦勢は鎌倉近辺で激突し、勝利した。住吉城の三浦勢はなお粘ったものの、同年7月に落城しました。三浦勢は敗走し、三浦半島の新井城に逼塞せざるを得ない状況になった。</p>
<p>住吉城があった場所は、現在、住宅開発が進んで、遺構はほとんど残っていないようだ。住吉城があったところからどのように見えるのか知りたかったので、私は坂を上って行ってみた。すると、小坪方面は多少見えたが、残念ながら、住宅街に遮られて鎌倉方面へのよい眺めは得られなかった。</p>
<h2>鎌倉を出て、小坪へ、そして、三浦半島の西海岸を走る</h2>
<p>さて、住吉城近辺から小坪に移動し、国道134号に出た。しばらく走ると、海岸沿いが見えてきた。空は晴れ、気持ちの良い風が吹いている。眺めもいい。三浦半島の西側の海岸線はもちろんのこと、鎌倉、江の島、そして、うっすらと伊豆半島も見える。道々には、海の幸を食材にした洒落た店がところどころにある。砂浜では子供がはしゃいでいる。まったくもって、結構なところである。私は12時前に立石で軽く持参したバナナなどを食べ、空腹を満たしたあと、三崎に向けて走り始めた。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>奇岩の立石(神奈川県横須賀市秋谷) 500年ほど前、この石の近くの道を、道寸は逃げ、早雲は追ったのかもしれない。</em>
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<h2>三崎、すし、マグロ。。。</h2>
<p>鎌倉から三崎までは約20kmあり、基本的には南下していく。12時ごろに洒落た店でしっかりした昼食を食べなかった理由はただ1つ、三崎港でマグロを食べるためである。<br>三崎港は日本有数のマグロ水揚げ量を誇る港だ。 そして、この地は三浦氏の拠点の1つであり、後に、早雲の子孫たちが東京湾対岸の安房の里見氏との戦うために、水軍の拠点を作った。三浦港の対岸には城ヶ島があり、この島が三崎港の防波堤になる。また、三崎港の北側は台地になっており、そこに三崎城が築かれた。</p>
<h2>マグロ漬丼を待っている時に閃いた</h2>
<p>三崎港に到着したときは13時頃になっており、腹もマグロを欲している。</p>
<p>マグロ料理を出す店を適当に選んで、店に入る。その店は2階にある割と広い店だったが、座敷は人で埋まっていた。私は1人なのでカウンターに陣取り、メニューを物色したあと、マグロ漬丼を頼んだ。 そして、マグロ漬丼を待っているときに思いついたのが、「歴史サイクリング」というコンセプトだった。それまでは史跡巡りとサイクリングを一語で表せないかとずっと考えていたのだが、この時、ふと思いついた。</p>
<h2>城ヶ島から房総半島をのぞむ</h2>
<p>マグロ漬丼を堪能したあと、城ヶ島に向かった。 城ヶ島から千葉県の対岸は目視できる。後で地図で確認すると、約20km弱だった。新井城の三浦勢は早雲勢に陸から包囲された後も、三浦水軍を使って、海からの補給を得ることができた。そのため、新井城に籠城してから3年もの間、支え続けることができた。籠った方も囲んだ方も、さぞかし往生しただろう。 当時、江戸、安房、上総方面から三浦氏が補給を受けていれば、この付近を補給船が通り、新井城に向かったのではなかろうか。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>城ヶ島から安房(千葉)方面をのぞむ。 安房(鋸南町から南房総市付近)を目視できる。</em>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>城ヶ島から三崎港をのぞむ。 三崎港の背後に台地がある。そこに三崎城があった。</em>
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<h2>新井城へ</h2>
<p>再び、三崎に戻り、かつて三崎城があった地域を巡った後、本日最後の目的地である新井城址に向かった。 新井城址は、京急油壺マリンパーク付近にある。新井城は、北に小網代湾、南を油壺湾に挟まれ、陸続きなのは東側のみという出島にあり、東側を堀切ってしまえば、海から以外に近づくことができない島になる。 解説本などによると、東側は空堀が掘られて、板橋をかけて、渡っていたようだ。ただ、安政の大地震と関東大震災によって、半島が隆起したそうで、かつては現在と違い、砂浜はなく断崖絶壁だったそうである。</p>
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<em>2013年4月撮影 </em><br><em>新井城址の土塁。思っていたより、遺構が残っていた。 現在、東京大学臨海実験場となっており、写真の通り、立ち入り禁止になっている。</em>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>新井城址から見た油壺湾</em>
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<h2>早雲も苦戦。籠城は3年に渡る。そして。。。</h2>
<p>さすがの早雲もこの城には手を焼き、容易に落とすことができない。それに対して、三浦勢は洞窟に蓄えた豊富な備蓄と海上からの補給で耐え忍ぶ。 そうこうしている内に、三浦氏の主家の扇谷上杉氏から援軍がやってくるが、早雲は大船の玉縄城で撃退に成功する。そして、包囲すること3年、ついに三浦勢も力尽き、永正13年(1516年)7月11日に滅亡した。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年10月 </em><br><em>新井城址の洞窟。城址にはこのような洞窟がいくつも空いている。道寸らが籠城戦のために、こういった洞窟を兵糧用の倉庫として使ったと言われている。</em>
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<p>油壺という地名の源は、新井城落城の際、三浦武士たちの血で湾が赤く染まったためと言われている。私が新井城を訪れたときにはすでに夕方になっていた。三浦氏が滅亡した旧暦の7月11日と新暦のこの日では、1ヶ月ちょっとズレがあるが、晴れていれば、三浦氏が滅亡した日も同じようなところに夕日が沈んでいたことだろう。そして、その夕日を早雲は眺めていたかもしれない。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>新井城址から見た夕日。三浦氏が滅亡した日、早雲も同じようなところに沈む夕日を眺めたかもしれない・・・</em>
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<div> </div>
<p>道寸は辞世の句に</p>
<blockquote>
<div>討つものも 討たるるものも かわらけよ</div>
<div>   砕けて後は もとのつちくれ</div>
</blockquote>
<p>と詠んだと伝わっている。 私は静かに合掌して、新井城をあとにした。</p>
<p>(終)</p>

三浦一族の滅亡-かわらけー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

フィールドをゆく 三浦道寸 北条早雲 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー

【立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー】<h2>立河原の戦いとその後</h2>
<p>今回のテーマは「<strong>立河原の戦い</strong>」である。</p>
<p>永正元年(1504年)、古河公方、足利政氏を擁する山内上杉顕定の軍勢と扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍が、多摩川と浅川の合流点である立河原で戦った。この戦いを立河原の戦いという。 <br>合戦の結果は、扇谷上杉氏・今川氏親・北条早雲の連合軍が大勝だったものの、その後、越後から越後上杉氏の援軍(越後守護は山内上杉顕定の実弟、上杉房能)が到着し、翌年(1505年)、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に降伏する。その結果、20年弱続いた両上杉氏の対立(長享の乱)は山内上杉氏の勝利で終結した。</p>
<h2>立河原の戦いと関連人物</h2>
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<h2>第5話「稀なる人」で出てくる土地をめぐる</h2>
<p><strong>伊東潤 『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</strong>の第5話「稀なる人」では、立河原の戦いが扱われている。そこで、この話に出てくる土地をまわることにした。 <br>小説では、枡形山城→高幡城→普済寺という流れで話が進むが、その流れで走ると、ダラダラとした上り坂をひたすら登ることになる。 <br>私は、以前、古河城→小山城→結城城を巡った時に、同じくダラダラ続く登り道に苦しめられた。ゆえに、不本意ではあるが、ダラダラ上り坂は避けて、下り坂を選んだのである。</p>
<h2>出発、電車で立川駅へ</h2>
<p>さて、自宅を発して、東京駅に着いたのが午前7時、電車に乗り、普済寺近郊にある立川駅に8時過ぎに到着した。立川駅を出て、さっさと折りたたみ自転車を組み立てる。そして、iPhone4を自転車に装着して、さあ出発。</p>
<h2>普済寺</h2>
<p>最初の目的地は普済寺だった。立川駅から数百メートルほどなので、8時30分前には着いた。</p>
<p>普済寺は東京都立川市にある臨済宗建長寺派の寺院で、武蔵七党西党日奉の支族である立河氏の館があったと言われている。 <br>伊東さんの小説では、立河原の戦いに際して、山内上杉顕定は2代古河公方の公方足利政氏を奉じて普済寺に陣を構えたとしている。現地には、立河氏の館跡と言われる土塁が遺構として残っていた。</p>
<h2>多摩川へ</h2>
<p>普済寺を出て、多摩川には数分ほどで着いた。 <br>サイクリングロードに入ると、実に気持ちよく走ることができる。この日の数日前まで残暑が厳しかったが、この日の午前中は特に涼しく、サイクリングには適したコンディションだった。</p>
<p>さて、サイクリングロード沿いに南東に進み、浅川との合流点の少し前辺りまできた。<br> 伊東さんの小説では、高幡城を出た氏親・早雲の連合軍が多摩川を渡って、普済寺を出撃した山内上杉顕定勢と戦ったことになっているので、距離的に中間地帯のこの辺が戦場になるかもしれないと勝手に想像してみた。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ある程度の広さがあり、大河の河原らしい草が生えている。ただ、河原に石がないので、小説のイメージ通りにはいかない。 なお、戦いは旧暦の9月27日だったとのことなので、新暦で言うと、11月上旬頃ということになる。とすれば、渡河して体が濡れるとさぞかし兵たちは寒かっただろう。顕定にはその様子が好機と映ったとしても不思議ではない。 <br>*写真は東京都府中市四谷の辺り。 なお、渡河作戦の難しさについては、『荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正- ~その1~』に書いた。</em>
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<p>来た道を少し戻って、都道20号の橋で多摩川を渡り、万願寺駅で南下するという経路で、浅川に着いた。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>9時15分ごろ、浅川を渡る。 <br>多摩丘陵の北端が見える。写真枠外の右側に高幡城がある。</em>
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<h2>高幡城</h2>
<p>浅川を渡ると、高幡不動はもうすぐだ。高幡不動に着く前に一休みしたので、高幡不動に着いたのは10時ごろだった。高幡城は、高幡不動の裏山にあり、そこからの眺望はよく、多摩川方面を遠望できる。</p>
<p>高幡不動に着いて、自転車をとめて、境内を歩くとすぐに土方歳三の銅像が立っているので、一瞬、おやっと思った。そういえば、土方歳三は武州多摩の出身だったことを思い出した。後で調べてみると、高幡不動は新選組副長である土方歳三の菩提寺だそうだ。土産物屋をのぞくと、土方グッズがたくさん売られており、新選組人気を確認した次第である。</p>
<p>目的地は高幡城なので、かつて城があった裏山に向かった。高幡城は比高50mの山城なので、少し坂道を登ると本丸跡を見つけることができた。 <br>伊東さんの小説では、ここで扇谷陣営の軍議が行われたことになっている。今は木々が繁っているので、その隙間からしか眺めが得られないが、かつては木を切っていたはずなので、本丸からの眺めはさぞかしよかったと思う。</p>
<h2>犬懸上杉憲秋、回想</h2>
<p>突然だが、犬懸上杉憲秋という人物をご存知だろうか。中世関東史を学んだ人以外は生涯知ることもない人物だと思うが、北条早雲が生まれる1年前にこの城で自害して亡くなった人である。</p>
<p>彼の父親は犬懸上杉氏憲(禅秀)で、1416年に上杉禅秀の乱という反乱を起こした人物として有名だ。犬懸家は山内家と交代で関東管領を歴任していた名家だったが、上杉禅秀の乱を契機に没落してしまった(その代わりに台頭したのが、扇谷家)。何事もなければ、輝かしい未来を約束された人生から一転、上杉憲秋は謀反人の子供になってしまったわけだ。<br>そして、何とか手柄を立てて犬懸家を復興させようと、家運を両上杉氏に賭けて、憲秋は戦いに臨んだ。享徳4年(1455年)1月、鎌倉公方・足利成氏勢と両上杉勢は、府中の分倍河原から東京都昭島市拝島辺りで戦った。この戦い(第1次立河原の戦い)で、憲秋は両上杉氏側の先鋒を務めるが、敗れてしまい、高幡城で自刃した。なお、第2次立河原の戦いが今回のテーマ「立河原の戦い」である。</p>
<p>なぜ私はこの人物のことを書いているか、その理由を記してみたいと思う。<br> 私は以前、坂田祐樹氏の 『<a>関東公方成氏</a><img>』という小説を読んだことがあり、その中で上杉憲秋が出てくる。 <br>その小説の中で、彼は自分の運命を恨み、ニヒルな笑いを浮かべながらも社会的に生き返る機会を探しながら生きている。その姿がなぜか私には印象的だった。そして、今回、伊東さんの小説をテーマに高幡城をまわることになり、高幡城について調べていると、彼がここで自害したことを見つけ、何か思うところがあり、こうして記してみたわけである。 <br>おそらく、坂田さんの小説を読んでいなかったら、彼のことをこうして書くこともなかっただろう。そう考えると、歴史小説は過去と現在を結ぶ機能があることに気付く。たとえ回想する人が少数であっても、500年後に回想される人物はそうは多くないだろう。<br>むろん、その回想が実際の彼にどれだけ即しているかを確かめるすべはないのだが。 そして、もう1つ歴史小説が持つ面白い機能は、一度人物のイメージが形成されると、そのキャラクターに親しみを覚えることだと思う。親しみを覚えたこそ、私はこうして彼について記しているわけだ。</p>
<p>遠い昔のこととはいえ、一人の男が時代に翻弄されながらも、活路を求めて生きて、戦って、敗れ、自害したその場所にいると何かしらの思いが湧いてこざるを得ない。</p>
<h2>関戸城</h2>
<p>さて、高幡不動を出て、川崎街道を東に進み、次は枡形山城を目指す。 <br>右手に多摩丘陵を見ながら、所々、上り坂はあるものの、基本的になだらかな下り坂を走っているので、想定通り、快適に走れる。 <br>府中から見て多摩川の対岸にある関戸には、11時過ぎに着いた。<br> 今回のテーマには関係ないが、この辺りにはかつて関戸城という城があった。関戸城は、高幡城と同じく、多摩丘陵の北端にある山城で、城の右側を鎌倉街道上道が通っている要衝である。中世の府中はとても栄えていた土地で、府中の対岸にある関戸には宿があり栄えていた。また、その重要性ゆえに鎌倉の攻防をめぐって、何度も大きな戦いがあった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>2010年9月撮影 <br>自転車で走っていて、偶然見つけた標柱。1333年に新田義貞が分倍河原と関戸で鎌倉幕府軍と戦って勝利し、その数日後に鎌倉を陥落させている。つまり、この地を制して、はじめて鎌倉への道が開かれるのである。</em></div>
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<p>事前に調べたところ、関戸城には遺構は残っていないものの、天守台の標柱があるとのことだったので、それを探すことにした。天守台がある場所というのは、一番高いところか、それに準ずるところと相場は決まっているので、それらしい場所を目指して、丘陵を登っていく。<br> 大体、この辺りだろうという勘が働いたので、その辺を歩いていると、地元の人と思しき年配の女性が歩いてきた。もしかしたら標柱のことをご存知かもしれないと思い、聞いてみることにした。</p>
<p>「あのー、すいません」 <br>「あ、はい」 <br>「この辺に昔、関戸城があって、その案内板みたいなものがこのあたりにあると思うんですが、ご存じないでしょうか。」 <br>「ええと、ごめんなさい。知らないわ。」</p>
<p>そんなやりとりをしていると、細い道にタクシーが入ってくる。私は急いで自転車を道路の横によける。そのタクシーは5mほど先に進んだところで止まった。</p>
<p>「ここは桜ヶ丘1丁目で、関戸はもっと東だから、そっちにあるんじゃないかしら」<br>「なるほど、そうなんですか。どうもありがとうございました。」<br> 私は関戸城が桜ヶ丘1丁目にあることを資料で知っていたが、親切に教えてくれた人に言い返すのも何だと思い、その場を去ろうとした。すると、後ろから声がする。 <br>「あのー」<br> 私が振り返ると、 <br>「タクシーの運転手さんに聞いてみたらどうかしら。ご存知かもしれませんよ。」 <br>なるほど、それは一理ある。<br> 私はお礼を言って、タクシーに向かった。</p>
<p>タクシーに向かうと、どうもタクシーの運転手さんはお疲れのようで、何だか話しかけずらい雰囲気だった。そこで、「まあいいか、どうせ標柱はこの近くにあるはずだ」と思って、再び探し始めました。すると、その場所からすぐのところに標柱が見つかった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>ついに見つけた「天守台」標柱。自分の推理が当たった時は素直に嬉しいものである。 <br>多摩川方面への写真を撮ろうと思ったが、この付近(桜ヶ丘1丁目)は所狭しと住宅が立ち並び、よい写真は撮れなかった。しかし、住宅の隙間からは北、東、南に視野が得られることが分かった。</em>
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<p>私が尋ねた女性がなぜすぐそこにある標柱を知らなかったのか分からないが、やはり近所であっても関心がないと知らないものなのかもしれない。というのも、私は大学生の頃、今回の目的地の1つである枡形山城の近くに住んでいたが、枡形山城の存在を知なかった。近年、中世関東史を調べていて、はじめて枡形山城の存在に気付いたのである。</p>
<p>関戸城を出た頃には、昼前になっていたので、多摩川を渡り、府中方面へ行き、中華料理屋で昼食をとった。 <br>昼食後、私は本日最後の目的地である枡形山城に向かって走り始めた。</p>
<h2>iPhone4の携帯式充電池</h2>
<p>私は「EveryTrail」という、GPSを使って自転車で走ったところを記録して、地図に書き込んでくれるソフトを使っている(*)。 <br>このソフトは便利だが、電池の消費がすさまじく、2時間半ほど使った結果、残りの電池残量が50%を切っていた。ただ、これはこのソフトの問題というより、GPSを使った同種のソフトでも同じように消費する。あらかじめ分かっていた問題だったので、私は事前にサンヨーの携帯式充電池(KBC-L2AS )を買っておいた。</p>
<p><em>(*)2010年当時の話。当時は歴史めぐりにこういうツールを使うのは先進的な試みだった。</em></p>
<p></p>
<p>装着するとこんな感じになる。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月 </em><br><em>自転車ホルダーにiPhone4を装着し、さらに携帯式充電池をiPhone4に接続した写真。バッグの中に、携帯式充電池が入っており、白いケーブルを通して、iPhoneと接続されている。iPhoneアプリの「EveryTrail」を使いながら充電できる。</em>
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<h2>乞田川の上り坂</h2>
<p>さて、電池の心配もなくなったので、午後の部、出発。 <br>多摩川を再び南側に渡って、川崎街道を東進する。乞田川(こったがわ)を渡るあたりから、上り坂が続く。昼食をとったばかりで元気だったので、最初は颯爽と駆け上がっていったが、走っても走っても終わらないので、ついに自転車を押して歩くことにした。あとで、乞田川にかかる橋から坂がおわる連光寺坂上辺りまで距離を測ってみると、1km強あった。長いはずである。</p>
<h2>懐かしの向ヶ丘公園駅</h2>
<p>その分、下り坂は気持ちよく走ることができた。 <br>その後も、基本的に下り坂なので快適だ。特に問題もなく、稲城市を通って、川崎市多摩区に入る。そして、14時ごろ、懐かしの向ヶ丘遊園駅に着いた。私は大学生の頃にこの周辺に住んでおり、向ヶ丘遊園駅にもよく来た。駅は改装されたようで、きれいになっていた。並んでいる店も結構変わっていたが、街の構造自体に変化はないようだ。</p>
<h2>枡形山城へ</h2>
<p>さて、今回は感傷に浸りに来たわけではないので、気を取り直して、枡形山城に向かう。 <br>枡形山城は、直線距離で向ヶ丘遊園の南700mほどのところにある生田緑地の中にある。当城は、標高80m強、比高60m弱の山城で、多摩丘陵の北端にあり、多摩川方面の武蔵野台地を一望できる。そういう点では、高幡城や関戸城と似ている。</p>
<p>永正元年(1504年)の立河原の戦いの時、北条早雲が先に当城に着き、数日後の9月20日に今川氏親が到着して、合流した。その様子が伊東潤 『疾き雲のごとく 』の第5話「稀なる人」でも書かれている。そして、その後、早雲と氏親は9月27日の立河原の戦いを迎えた。</p>
<p>枡形山城跡を目指して山を登っていくと、緑が豊かで改めて良いところだと思った。大学時代、一度も訪れたことがなかったのは惜しいことだ。 <br>山頂に着くと、子供連れの親子が結構たくさんいる。子供が大声で叫びながら、遊んでいる。山頂はそれなりの広さがあり、公園になっている。遊ぶ環境もあり、当然クルマも走っていないため、親にとっては安心して遊ばせることができるスポットなのだろう。</p>
<h2>iPhone4の逆光問題</h2>
<p>曲輪の北端には、結構大きな望楼が建っていて、そこから四方を遠望することができる。 <br>早速、iPhone4で写真を撮ってみた。すると、逆光のためか、写りがよくない。そこで、Panasonic製のデジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で撮ってみると、かなり違いがあった。高幡城でも少し気にはなっていたが、やはりそうだったのかという感じだ。「iPhone4があるので、デジカメは必要なし」というわけにはいかず、当面、併用することになりそうである。 <br>まあ、写真を編集すればある程度は何とかなるが、数が数だけにできるだけ、そのまま使いたいものだ。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>iPhone4で撮影した枡形山城からの写真。</em>
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<p><a><img></a></p>
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<em>2010年9月撮影 </em><br><em>Panasonic製デジカメ(2009年の8月頃に購入したDMC-FT1)で、ほぼ同じ場所と時間から撮った写真。ただし、逆光ではないところで撮ると、それほど変わらない。さすがにPanasonicのデジカメはカメラ専用機器だけあって、対応できる状況の幅が広いのだろうか。</em>
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<p>城の周辺を少し散策したあと、向ヶ丘遊園駅に戻り、この日の歴史サイクリングを終えた。</p>
<h2>おまけ: 寿桂尼の生涯</h2>
<p>「稀なる人」の最後のほうで、今川氏親が藤原北家カ勧修寺流中御門家の娘を妻に迎える話が出てくるが、この女性こそ、後に寿桂尼と呼ばれる人で、今川氏親の正室であり、今川義元の母である。</p>
<p>氏親が晩年、病気で政務をとれなくなると、氏親を補佐した。氏親の死後も、陰に日向に今川家を支え続けた。今川義元が当主になると、今川家の全盛期を迎えた。しかし、義元は、永禄3年(1560年)、尾張攻略の途中に桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られてしまう。 <br>その後、今川義元の子(寿桂尼の孫)、氏真が当主となるが、今川家の衰退がはじまり、永禄11年(1568年)武田信玄の駿河侵攻の数ヶ月前に寿桂尼は死去した。</p>
<p>彼女は1505年頃に今川家に嫁いでいるので、晩年の早雲を知っていたはずであり、織田信長のために、頼りになる実子の義元を失い、武田信玄によって、今川家が実質的に滅ぼされる直前まで生きたことになる。 <br>このように、寿桂尼の生涯を追っていくことで、戦国初期(代表的人物:早雲)から中期(代表的人物:信玄)、そして、後期(代表的人物:信長)のはじまりまでを見ていくことができる。</p>
<p>分かりきったことではあるが、寿桂尼の人生を通して、戦国時代とは何とも厳しい時代であったと改めて思うのである。</p>
<p>(終)</p>
<p><em>* なお、マップの位置は今回の歴史サイクリングの範囲を大体示すために設定した。合戦がそこであったという意味ではないので、ご注意を。</em></p>

立河原の戦いー伊東潤 『疾き雲のごとく 』ー

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

立河原の戦い フィールドをゆく 北条早雲 戦国黎明と北条早雲ーフィールドをゆく(3)ー

【関戸古戦場跡の標柱】<p>関戸城を目指して自転車で走っていて、偶然見つけた関戸古戦場跡の標柱。</p>
<p>1333年に新田義貞が分倍河原と関戸で鎌倉幕府軍と戦って勝利し、その数日後に鎌倉を陥落させている。つまり、この地を制して、はじめて鎌倉への道が開かれるのである。</p>

関戸古戦場跡の標柱

作成日:2014/6/24 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

【鎌倉城】右側に進むと、巨福呂坂切通し。しかし、土砂崩れで、現在は途中までしか進めくなったらしい。<br>      茶錆びた標柱に「巨福呂坂」と書いてある。<br><br>      鎌倉幕府滅亡の際、新田義貞は軍を3つに分け、その一軍が巨福呂坂切通しを攻めた。<br>      そのため、この辺は幕府側の陣地内で、ここをもう少し進んだところが、激戦地であった可能性がある。<br><br>      他の切り通しは立派な解説板や標柱が立っているのに、巨福呂坂切通しは解説板なしで、茶錆びた標柱。。<br>      なにゆえの仕打ち。。。

作成日:2013/9/3 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

神奈川県 鎌倉市

ノート【更新順】
・ 岡山県の没落武士
・ 江戸東京たてもの園を訪問
・ コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
もっと見る
ノートまとめ【更新順】
・ 関ヶ原の戦いの動画
・ 淀川の城
・ 姫路城大天守の昼・夕暮れ・ライトアップ!
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歴史年表【更新順】
・ 『おんな城主 直虎』年表
・ 花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
・ 歴史家・歴史小説家とその時代
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特集
・ 関ヶ原の戦い
・ 幕末維新
・ 文明論
・ 北条早雲
人物【更新順】
・ 子母澤寛
・ 周布政之助
・ 小田村伊之助
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出来事【更新順】
・ 新型コロナウィルス感染拡大に伴い、東京など7都道府県で非常事態宣言が発令
・ 中国の武漢で新型コロナウィルスが人に感染
・ 令和に改元決定
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世界史古代概論
・ 世界史古代概略
・ ローマと前漢、不思議な成立の符合
・ 古代の日本と西欧
戦国のはじまり
・ 早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
・ 応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
・ 北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
・ 2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
・ 歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
・ 大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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