【人物相関図:関ヶ原の戦い−石田三成挙兵 1600年−】慶長4年(1599年)、前田利家死去を受けて、利家の子・前田利長が前田家の家督を相続した。

9月、徳川家康暗殺未遂事件が発生した。徳川家康は、前田利長らが家康を暗殺しようとした罪で、利長討伐の軍を招集した。
結局、(本当に利長が家康を暗殺しようとしたのかは不明だが)利長は家康に謝罪し、母(前田利家の妻)を人質として、家康に差し出した。これにより、五大老の一人で北陸の雄・前田家が家康の傘下に入った。

慶長5年(1600年)4月、徳川家康は、会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけた。景勝は、2年前に越後から会津120万石に国替えされたため、新領地の富国強兵のために勤しんでいた。
5月3日、上杉景勝の重臣、直江兼続から上洛拒否の書状が家康に届く(直江状)。
これを受けて、徳川家康は上杉景勝討伐の準備に入った。6月16日、家康は大坂城を出陣した(江戸城には7月2日に到着)。

石田三成は家康が機内を留守にしたことを受けて、動きを活発化させた。
光成は安国寺恵瓊・増田長盛らと計り、毛利輝元を大坂城に入城させることに成功(7月16日)。輝元を西軍の総大将とした。
7月17日、石田三成、挙兵(「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康(内府)を弾劾。事実上の宣戦布告となった)

人物相関図:関ヶ原の戦い−石田三成挙兵 1600年−

作成日:2014/11/30 , by rekius 開く

関ヶ原の戦い 人物相関図 石田三成 徳川家康 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

【人物相関図:関ヶ原の戦い−前田利家の死去 1599年−】豊臣政権の功臣である前田利家の影響力によって、徳川家康・武断派、文治派の争いを辛くも回避していたが、その前田利家が慶長4年(1599)閏3/3に死去。

そのため、武断派・文治派の争いが一挙に表面化した。利家死去の翌日、武断派の七将、石田三成を襲った。石田光成は伏見城に逃走したが、結局、居城の佐和山城に蟄居させられることとなった。

人物相関図:関ヶ原の戦い−前田利家の死去 1599年−

作成日:2014/11/30 , by rekius 開く

関ヶ原の戦い 前田利家 人物相関図 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

【人物相関図:関ヶ原の戦いー豊臣秀吉の死去ー】慶長3年(1598年)が豊臣秀吉が死去し、朝鮮出兵で生じていた豊臣政権内部の武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政ら)と文治派(石田三成ら)の対立が表面化しつつあった。この対立は、石田三成らが武断派の不利な報告を秀吉にして、武断派諸将を窮地に追い込んだのが原因だった。

一方、徳川家康は文治派と対立する武断派を取り込みを図り、かつ、伊達政宗の娘と六男・松平忠輝の政略結婚を推進するなど、野心を露わにしはじめた(秀吉生存時、大名間の婚姻には秀吉の許可が必要だった)。

しかし、豊臣秀吉を支えてきた前田利家が、野心を見せる徳川家康、豊臣政権内部の武断派(福島正則・加藤清正ら)、文治派(石田三成ら)に睨みを効かせていたため、何とか平穏は維持された。

人物相関図:関ヶ原の戦いー豊臣秀吉の死去ー

作成日:2014/11/30 , by rekius 開く

関ヶ原の戦い 豊臣秀吉 前田利家 人物相関図 徳川家康 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

【マップ:関ヶ原の戦いー石田三成の挙兵までー】慶長3年(1598年)が豊臣秀吉が死去し、朝鮮出兵で潜在的に不安定化しつつあった軋轢が表面化しつつあった。しかし、豊臣秀吉を支えてきた前田利家が、野心を見せる徳川家康、豊臣政権内部の武断派(福島正則・加藤清正ら)、文治派(石田三成ら)に睨みを効かせていたため、何とかバランスは維持された。

その前田利家が、慶長4年(1599)閏3/3に死去。
そのため、武断派・文治派の争いが一挙に表面化した。利家死去の翌日、武断派の七将、石田三成を襲った。石田光成は伏見城に逃走したが、結局、居城の佐和山城に蟄居させられることとなった。

翌年の慶長5年(1600年)4月、徳川家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけて上洛を促したが、景勝は拒否。6/16、徳川家康は上杉景勝を討つため、大坂城を出陣し、江戸城に向かった。
7/16、石田三成の要請で、毛利輝元が大坂城に入城。翌日、石田三成は挙兵した(光成は「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康を弾劾)。

*画像は、石田三成の挙兵時の勢力マップ。
赤は石田三成の味方、青は徳川家康の味方、グレーは中立、もしくは、旗幟不鮮明。

マップ:関ヶ原の戦いー石田三成の挙兵までー

作成日:2014/11/29 , by rekius 開く

軍師官兵衛 関ヶ原の戦い 地図 関ヶ原の戦い(1)ー石田三成挙兵までー

【関ヶ原の戦い前後の年表】【慶長3年(1598)】
・8/18 豊臣秀吉、伏見城で死去

【慶長4年(1599)】
・閏3/3 前田利家、大坂で死去→豊臣政権内部の武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政ら)と文治派(石田三成ら)、双方に影響力があった利家が死去することで、武断派・文治派の争いが表面化
・閏3/4 武断派の七将、石田三成を襲う→光成は伏見城に逃走→光成、居城の佐和山城に蟄居させられる

【慶長5年(1600)】
・4月 徳川家康、会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけ、上洛を促す
・5/3 上杉景勝の重臣、直江兼続から上洛拒否の書状が家康に届く(直江状)
・6/16 徳川家康、上杉景勝を討つため、大坂城を出陣
・7/16 石田三成の要請で、毛利輝元が大坂城に入城。
・7/17 石田三成、挙兵(「内府ちがいの条々」を諸大名に送り、家康を弾劾)←『軍師官兵衛』、今ココ(11/23日放送)

■ もうちょっと長い期間の関ヶ原年表
http://rekius.com/timelines/92

関ヶ原の戦い前後の年表

作成日:2014/11/24 , by rekius 開く

軍師官兵衛 関ヶ原の戦い

【【清洲城】新幹線から清州城を撮影。】新幹線から撮影した清州城の模擬天守。

関ヶ原の戦いの当時、清洲城には30万石ともいわれる大量の兵糧が蓄えられていた。もちろん、これは豊臣秀吉が徳川家康からの攻撃を想定してのことだろう。

清洲城主は福島正則で、秀吉に取り立てられた武将である。他にも、掛川城に同じく秀吉恩顧の山内一豊を置くなど、秀吉は秀吉恩顧の武将たちで東海道沿いを固めていた。

しかし、これら秀吉恩顧の武将たちは、石田三成が挙兵すると、徳川家康に味方してしまう(小山評定)。
それは小山評定で、福島正則が家康に従うことを明言したことで、この流れが作られたと言われている。

確かに関ヶ原の戦いでは、清洲城は戦場にならなかったが、戦場が関ヶ原となった大きな理由の一つが、清洲城(福島正則)を徳川家康が取り込んだことにあった。

【清洲城】新幹線から清州城を撮影。

作成日:2014/5/26 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

関ヶ原の戦い 福島正則 関ヶ原の戦いー小山評定ー 愛知県 清須市

【田辺城の戦い】慶長5年(1600年)7月21日、小野木重次ら1万5千の西軍が、細川幽斎の兵500が立て籠もる田辺城へ攻撃を開始した。田辺城の細川幽斎は9月13日まで頑張りぬいた末、開城した。
そのため、西軍1万5千の大軍は、9月15日の関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

五老タワーから西舞鶴をのぞむ。田辺城は中央右寄りの五老岳の出っ張りでギリギリ見えない辺り。

関ヶ原の戦いの折り、細川幽斎が兵500人で立て籠もった田辺城。西の伊佐津川(写真中央の川)と東の高野川(写真では見えない)に囲まれていた。当時、西軍1万5千が西舞鶴の平野にひしめいていたはず。

田辺城の戦い

作成日:2013/2/24 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

関ヶ原の戦い 田辺城 関ヶ原の戦いー前日までー 京都府 舞鶴市

【【田辺城】田辺城城門】田辺城の城門を撮影。

関ヶ原の戦いの折り、細川幽斎が兵500人で立て籠もった田辺城。西の伊佐津川、東の高野川、北は舞鶴湾に囲まれていた。当時、西軍1万5千が西舞鶴の平野にひしめいていたはず。

【田辺城】田辺城城門

作成日:2013/1/4 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

関ヶ原の戦い 細川幽斎 雪の田辺城 関ヶ原の戦いー小山評定ー 京都府 舞鶴市

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