西暦: 1923年 〜 1996年

地域: 日本

司馬遼太郎

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グラフ: 「司馬遼太郎」と同時代の出来事

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表: 「司馬遼太郎」と同時代の人物

松方正義 1834年 〜 1924年 日本
ジョン・ロックフェラー 1839年 〜 1937年 北アメリカ
渋沢栄一 1840年 〜 1931年 日本
新島八重 1845年 〜 1932年 日本
トーマス・エジソン 1847年 〜 1931年 北アメリカ
東郷平八郎 1848年 〜 1934年 日本
西園寺公望 1849年 〜 1940年 日本
河野広中 1849年 〜 1923年 日本
金子堅太郎 1853年 〜 1942年 日本
高橋是清 1854年 〜 1936年 日本
犬養毅 1855年 〜 1932年 日本
ウッドロー・ウィルソン 1856年 〜 1924年 北アメリカ
後藤新平 1857年 〜 1929年 日本
伊東巳代治 1857年 〜 1934年 日本
尾崎行雄 1858年 〜 1954年 日本
康有為 1858年 〜 1927年 東アジア
ヴィルヘルム2世 1859年 〜 1941年 ヨーロッパ
木下尚江 1859年 〜 1937年 日本
片山潜 1859年 〜 1933年 日本
秋山好古 1859年 〜 1930年 日本
加藤高明 1860年 〜 1926年 日本
ビゴー 1860年 〜 1927年 日本
内村鑑三 1861年 〜 1930年 日本
加藤友三郎 1861年 〜 1923年 日本
ロイド・ジョージ 1863年 〜 1945年 ヨーロッパ
田中義一 1864年 〜 1929年 日本
安部磯雄 1865年 〜 1949年 日本
内藤湖南 1866年 〜 1934年 日本
孫文 1866年 〜 1925年 東アジア
若槻礼次郎 1866年 〜 1949年 日本
豊田佐吉 1867年 〜 1930年 日本
ファン・ボイ・チャウ 1867年 〜 1940年 東アジア
ネヴィル・チェンバレン 1869年 〜 1940年 ヨーロッパ
井上準之助 1869年 〜 1932年 日本
マハトマ・ガンジー 1869年 〜 1948年 南アジア、東南アジア
アギナルド 1869年 〜 1964年 南アジア、東南アジア
レーニン 1870年 〜 1924年 ロシア
今村明恒 1870年 〜 1948年 日本
浜口雄幸 1870年 〜 1931年 日本
堺利彦 1870年 〜 1933年 日本
幣原喜重郎 1872年 〜 1951年 日本
梁啓超 1873年 〜 1929年 東アジア
ウィンストン・チャーチル 1874年 〜 1965年 ヨーロッパ
張作霖 1875年 〜 1928年 東アジア
李承晩(イ・スンマン) 1875年 〜 1965年 東アジア
ジンナー 1876年 〜 1948年 南アジア、東南アジア
レザー・ハーン 1877年 〜 1944年 地中海、西アジア
吉野作造 1878年 〜 1933年 日本
トロツキー 1879年 〜 1940年 ロシア
大正天皇 1879年 〜 1926年 日本
スターリン 1879年 〜 1953年 ロシア
陳独秀 1879年 〜 1942年 東アジア
山川均 1880年 〜 1958年 日本
イブン・サウード 1880年 〜 1953年 地中海、西アジア
ムスタファ・ケマル(ケマル・パシャ) 1881年 〜 1938年 地中海、西アジア
魯迅 1881年 〜 1936年 東アジア
ケレンスキー 1881年 〜 1970年 ロシア
フランクリン・ルーズベルト 1882年 〜 1945年 北アメリカ
ムッソリーニ 1883年 〜 1945年 ヨーロッパ
高村光太郎 1883年 〜 1956年 日本
汪兆銘 1883年 〜 1944年 東アジア
東条英機 1884年 〜 1945年 日本
石橋湛山 1884年 〜 1973年 日本
蒋介石 1887年 〜 1975年 東アジア
トーマス・エドワード・ロレンス 1888年 〜 1935年 ヨーロッパ
アドルフ・ヒトラー 1889年 〜 1945年 ヨーロッパ
ネルー(ネール) 1889年 〜 1964年 南アジア、東南アジア
ホー・チ・ミン 1890年 〜 1969年 東アジア
胡適 1891年 〜 1962年 東アジア
芥川龍之介 1892年 〜 1927年 日本
子母澤寛 1892年 〜 1968年 日本
吉川英治 1892年 〜 1962年 日本
毛沢東 1893年 〜 1976年 東アジア
リデル・ハート 1895年 〜 1970年 ヨーロッパ
張学良 1901年 〜 2001年 東アジア
昭和天皇 1901年 〜 1989年 日本
スカルノ 1901年 〜 1970年 南アジア、東南アジア
ジョージ・オーウェル 1903年 〜 1950年 ヨーロッパ
フォン・ノイマン 1903年 〜 1957年 北アメリカ
宣統帝(溥儀) 1906年 〜 1967年 東アジア
井上靖 1907年 〜 1991年 日本
岡本太郎 1911年 〜 1996年 日本
マクルーハン 1911年 〜 1980年 北アメリカ
金日成 1912年 〜 1994年 東アジア
新田次郎 1912年 〜 1980年 日本
パク・チョンヒ(朴正煕) 1917年 〜 1979年 東アジア
田中角栄 1918年 〜 1993年 日本
梅棹忠夫 1920年 〜 2010年 日本
司馬遼太郎 1923年 〜 1996年 日本
マーガレット・サッチャー 1925年 〜 2013年 日本
キム・デジュン(金大中) 1925年 〜 2009年 東アジア
ニール・アームストロング 1930年 〜 2012年 北アメリカ
立川談志 1936年 〜 2011年 日本
サダム・フセイン 1937年 〜 2006年 地中海、西アジア
デニス・リッチー 1941年 〜 2011年 北アメリカ
金正日 1941年 〜 2011年 東アジア
カダフィ大佐 1942年 〜 2011年 地中海、西アジア
スティーブ・ジョブズ 1955年 〜 2011年 北アメリカ
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表: 「司馬遼太郎」と同時代の出来事

対ソ干渉戦争 1918年 〜 1922年 ロシア
新人会、設立 1918年 〜 1929年 日本
第一次世界大戦、終わる 1918年 ヨーロッパ
日、米騒動が起こる 1918年 日本
三・一独立運動 1919年 東アジア
英、インドでローラット法を発布 1919年 南アジア、東南アジア
アフガニスタン、イギリスから独立 1919年 地中海、西アジア
パリ講和会議がひらかれ、ヴェルサイユ条約が調印される 1919年 ヨーロッパ
ヴァイマル共和国、成立 1919年 〜 1933年 ヨーロッパ
コミンテルン(第3インターナショナル)、結成 1919年 ロシア
1919年インド統治法、制定 1919年 南アジア、東南アジア
五・四運動 1919年 東アジア
セーブル条約 1920年 地中海、西アジア
国際連盟、成立 1920年 〜 1946年 世界
日本労働総同盟、設立 1921年 日本
ワシントン会議 1921年 〜 1922年 世界
四カ国条約 1921年 日本
中国共産党、結成 1921年 東アジア
全国水平社、設立 1922年 日本
日本共産党、設立 1922年 日本
エジプト王国、成立 1922年 〜 1953年 地中海、西アジア
九カ国条約 1922年 日本
日本農民組合、設立 1922年 日本
ソヴィエト社会主義共和国連邦、成立 1922年 〜 1991年 ロシア
ムッソリーニ、ローマ進軍 1922年 ヨーロッパ
関東大震災 1923年 日本
ローザンヌ条約 1923年 地中海、西アジア
ミュンヘン一揆 1923年 ヨーロッパ
フランス・ベルギー、ドイツのルール工業地帯を占領 1923年 ヨーロッパ
トルコ共和国、成立 1923年 地中海、西アジア
第1次国共合作 1924年 〜 1927年 東アジア
外モンゴル、モンゴル人民共和国として独立 1924年 東アジア
日ソ基本条約、調印 1925年 日本
イランにパプレヴィー朝、成立 1925年 〜 1979年 地中海、西アジア
治安維持法、成立 1925年 日本
普通選挙法、成立 1925年 日本
細井和喜蔵 『女工哀史』、刊行 1925年 日本
ロカルノ条約 1925年 ヨーロッパ
北伐 1926年 〜 1928年 東アジア
昭和天皇、即位。昭和、はじまる。 1926年 〜 1989年 日本
小田原線が開業 1927年 日本
日、東方会議 1927年 日本
金融恐慌 1927年 日本
南京国民政府、成立 1927年 東アジア
山東出兵 1927年 〜 1928年 東アジア
三・一五事件 1928年 日本
済南事件 1928年 東アジア
張作霖爆殺事件 1928年 東アジア
パリ不戦条約 1928年 ヨーロッパ
ソ連、第1次5カ年計画 1928年 〜 1932年 ロシア
世界恐慌、はじまる 1929年 北アメリカ
インド国民会議派、プールナ=スワラージ(完全なる独立)を決議 1929年 南アジア、東南アジア
日、金解禁 1930年 日本
インドシナ共産党、成立 1930年 東アジア
ロンドン海軍軍縮条約 1930年 世界
昭和恐慌、はじまる 1930年 日本
ガンディー、「塩の行進」運動を行う 1930年 南アジア、東南アジア
犬養毅内閣、金輸出再禁止 1931年 日本
満州事変 1931年 〜 1933年 日本
英印円卓会議 1932年 〜 1934年 南アジア、東南アジア
サウジアラビア王国、成立 1932年 地中海、西アジア
満州事変の調査のため、リットン調査団が派遣される 1932年 日本
満州国、建国 1932年 〜 1945年 日本
英、オタワ連邦会議(イギリス連邦経済会議)を開催し、ブロック経済方式を採択 1932年 ヨーロッパ
五・一五事件 1932年 日本
日本、国際連盟を脱退 1933年 日本
ヒトラー内閣、成立 1933年 ヨーロッパ
昭和三陸地震 1933年 日本
長征 1934年 〜 1936年 東アジア
中国共産党、八・一宣言を出す 1935年 東アジア
ヒトラードイツ、再軍備を宣言 1935年 ヨーロッパ
1935年インド統治法、成立 1935年 南アジア、東南アジア
二・二六事件 1936年 日本
西安事件 1936年 東アジア
盧溝橋事件、おこる(日中戦争、はじまる) 1937年 〜 1945年 東アジア
南京大虐殺 1937年 東アジア
日独伊三国防共協定 1937年 日本
ミュンヘン会談 1938年 ヨーロッパ
独ソ不可侵条約 1939年 ヨーロッパ
第二次世界大戦、はじまる 1939年 〜 1945年 ヨーロッパ
ヒトラードイツ、パリを占領(フランス降伏) 1940年 ヨーロッパ
独ソ戦、はじまる 1941年 〜 1945年 ヨーロッパ
英米、大西洋憲章を発表 1941年 北アメリカ
太平洋戦争、はじまる 1941年 〜 1945年 日本
ミッドウェー海戦 1942年 日本
イタリア、降伏 1943年 ヨーロッパ
ヒトラードイツ、スターリングラードの戦いに敗北 1943年 ヨーロッパ
ブレトンウッズ協定 1944年 北アメリカ
ドイツ、降伏 1945年 ヨーロッパ
国共内戦 1945年 〜 1949年 東アジア
日本、敗戦 1945年 日本
インド・パキンスタン、独立 1947年 南アジア、東南アジア
朝鮮民主主義人民共和国、成立 1948年 東アジア
大韓民国、成立 1948年 東アジア
イスラエル、建国 1948年 地中海、西アジア
マハトマ・ガンジー、暗殺される 1948年 南アジア、東南アジア
ジョージ・オーウェル『1984年』を刊行 1949年 ヨーロッパ
中華人民共和国、成立 1949年 東アジア
朝鮮戦争 1950年 〜 1953年 東アジア
サンフランシスコ平和条約調印 1951年 日本
スターリン、死去 1953年 ロシア
朝鮮休戦協定、成立 1953年 東アジア
神武景気 1954年 〜 1957年 日本
スエズ戦争 1956年 地中海、西アジア
中国、第2次五カ年計画(大躍進運動) 1958年 〜 1962年 東アジア
韓国、パク・チョンヒの指導による軍のクーデターが起きる 1961年 東アジア
キューバ危機 1962年 北アメリカ
ケネディ、暗殺 1963年 北アメリカ
東京オリンピック、開催 1964年 日本
日韓基本条約調印 1965年 日本
文化大革命 1966年 〜 1976年 東アジア
アポロ11号、月面着陸 1969年 その他
カダフィ大佐、リビアの最高指導者となる 1969年 〜 2011年 地中海、西アジア
Unix、開発される 1969年 北アメリカ
東パキスタン、バングラディシュとして独立 1971年 南アジア、東南アジア
C言語、開発される 1972年 北アメリカ
沖縄返還 1972年 日本
日中国交正常化 1972年 東アジア
ニクソン大統領(米)、中国訪問 1972年 東アジア
毛沢東、死去 1976年 東アジア
日中平和友好条約 1978年 日本
パク・チョンヒ、暗殺される 1979年 東アジア
スリーマイル島原子力発電所事故 1979年 北アメリカ
フォークランド紛争 1982年 中南米
マッキントッシュ、発売 1984年 北アメリカ
チェルノブイリ原子力発電所事故 1986年 ロシア
天安門事件 1989年 東アジア
バブル崩壊 1990年 日本
ドイツ統一 1990年 ヨーロッパ
韓国・北朝鮮、国連に加盟 1991年 東アジア
Linux、初リリース 1991年 ヨーロッパ
ソ連崩壊 1991年 ロシア
湾岸戦争 1991年 地中海、西アジア
PKO協力法、成立 1992年 日本
阪神・淡路大震災 1995年 日本
Java 1.0、リリースされる 1995年 北アメリカ
Windows95、発売される 1995年 北アメリカ
Google、創業 1998年 北アメリカ
韓国と北朝鮮、南北首脳会談 2000年 東アジア
アメリカ同時多発テロ事件 2001年 北アメリカ
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「司馬遼太郎」の関連ノート

【府中高札場】江戸時代、甲州街道と府中街道の交差点に府中高札場があった。この辺りが府中宿の中心地だったらしい。

大國魂神社のくらやみ祭は、土方歳三が主人公の『燃えよ剣』(司馬遼太郎)で登場する。
ここから少し南に行くと多摩川。多摩川は大河で、強力な防御線になり得るので、中世に2度大きな戦いがあった。

府中高札場

作成日:2015/6/3 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

土方歳三 司馬遼太郎

【歩きに歩いた男、吉田松陰〜花燃ゆ 第2回「波乱の恋文」〜】吉田松陰は幕末の長州藩士で、尊王攘夷派思想を唱え、また、長州藩・萩の松下村塾で、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文などを育てた人物として知られています。

しかし、松陰の足跡を見ていくと、彼が机上の学者ではなく、「旅する学者」であることが分かるでしょう。
彼は山鹿流の兵学者であったので、その目で日本諸国を見て廻り、海防の状況の調べたのでした。そして、名のある人物を尋ね、常に自分の考えを磨き続けたのでした。

そういう求道者的な態度に加えて、元来の聡明さと孟子的な熱意でもって、歳月を過ごしたものですから、年々、彼の知見は深まり、凄みを増していったのではないでしょうか。それが多感な若者たちを吸引して、松下村塾に集わせたのかなと思います。

さて、松陰は1850年の九州遊学を皮切りに、下田密航(1854年)で捕らえれるまで、日本諸国を歩きに歩きました。
1851年に江戸遊学、そして、同年、脱藩して、東北視察へ。翌年、江戸に戻ってきました。
長州藩は彼を萩への送還しました。

ここが第2回までの内容です。

松陰はわずか3年の間に、九州、江戸、東北を歩きに歩いたのでした。
しかも徒歩で。

花燃ゆでは、このあたりのプロセスがサクッと縮められていました。
もっとガッツリ知らたい方は司馬遼太郎『世に棲む日日』をご覧になるといいと思います。

歩きに歩いた男、吉田松陰〜花燃ゆ 第2回「波乱の恋文」〜

作成日:2015/1/18 , by rekius 開く

吉田松陰 幕末維新 花燃ゆ

【司馬遼太郎『世に棲む日日』、Kindleで発売】司馬遼太郎『世に棲む日日』(文藝春秋)、明日(2014/12/12)、Kindleで発売されますね! 
『世に棲む日日』の前半の主人公は吉田松陰で、後半は高杉晋作。

http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E3%81%AB%E6%A3%B2%E3%82%80%E6%97%A5%E6%97%A5%E3%80%881%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8F%B8%E9%A6%AC-%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/B00OT8C2I2/ref=sr_1_1_twi_2?ie=UTF8&qid=1418224014&sr=8-1&keywords=%E4%B8%96%E3%81%AB%E6%A3%B2%E3%82%80%E6%97%A5%E6%97%A5

司馬遼太郎『世に棲む日日』、Kindleで発売

作成日:2014/12/11 , by rekius 開く

吉田松陰 高杉晋作 司馬遼太郎

【伏見城の大名屋敷】司馬遼太郎『関ヶ原』を読む時は、新創社の『京都時代MAP 安土桃山編 (Time Trip Map)』があると便利ですよ! 
http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%99%82%E4%BB%A3MAP-%E5%AE%89%E5%9C%9F%E6%A1%83%E5%B1%B1%E7%B7%A8-Time-Trip-Map/dp/4838103697

伏見城の大名屋敷も載っています。物語の中で誰がどこを歩いているのかを追っていくと、楽しみが増えるかと。

伏見城の大名屋敷

作成日:2014/12/8 , by rekius 開く

関ヶ原の戦い 伏見城 司馬遼太郎

【荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-】<h3>舞台は赤浜</h3>
<p>鉢形城の東に赤浜という土地がある。ここが鎌倉街道上道の荒川渡河地点だった。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 荒川の南岸、赤浜の渡し(渡河地点)付近。</em>
</div>
<div> </div>
<h3>意外と少ない渡河地点</h3>
<p>川というのは、一見どこでも渡れそうだが、大河の場合、川底の地形や水量の多寡という条件があるため、渡れるところと渡れないところがある。渡れて、かつ、交通の便がよい場所が重要な渡河地点となる。</p>
<p>現在、荒川であれ、利根川であれ、川沿いを自転車で走ると、サイクリングロードが整備され、快適に走ることができる。基本的に堤防に囲まれているので、視界は限られる。その限られた視界に、橋が現れては消えてゆく。「○○橋」という橋の名前を見ないと、自分がどこまで走ったか、分からなくなる。</p>
<p>いずれにしても、これらの橋があることで、両岸を容易に行き来できる。だが、もし橋がなかったらと想像してもらいたい。渡るのは大変である。まず、川を渡ると、服が濡れる。転んで怪我をしたり、下手をすると、溺れて落命するかもしれない。であるから、かつて、渡河していた人々はおそらく何か用事があって川を 渡っていたはずで、荷物を持っていることも多かっただろう。</p>
<h3>架橋・治水技術の成果</h3>
<p>江戸時代に、大井川の増水によって、宿場町に何日も足止めされ、その間に路銀をすっかり失ったという話もあるように、大河というのは雨が降って増水すると渡れなく なることがあった。現代は極端な場合を除いて、川が増水して渡れないというケースは経験しないだろう。それは川の上流にダムなどの治水対策が施されていて、水量を調節しているためである。</p>
<p>実際、長尾景春の乱が発生した当初、太田道灌は相模にいる味方を呼び寄せて、江戸城-川越城ラインを遮断する豊島氏を攻めようとしたが、大雨で多摩川が増水して、相模勢は来ることができなかったという。</p>
<h3>渡河作戦の難しさ</h3>
<p>このように、橋とダムによって、現代では川を意識することが少なくなったが、中世における河川の状況は随分違ったことをお分かりいただけたと思う。しかも、軍事作戦で川を渡るとなると一層困難である。</p>
<p>まず、重量のある甲冑を身につけ、騎馬武者は馬に乗って渡河する。そればかりか、対岸には敵が手ぐすね引いて待っているのである。<br> 水の中では、陸上のように機敏に動けないから、まさに格好の標的となってしまう。そして、味方に死傷者を出しながらも、弓矢の雨の中を必死に渡って、運よく対岸に着いたとしても、優勢な敵が味方を袋叩きにしようと待っている。</p>
<p>このように渡河作戦は困難なので、孫子の兵法書に渡河方法が書かれている(行軍篇(第九))ほど、渡河はいくさにおける重要なテーマだった。</p>
<h3>扇谷上杉定正</h3>
<p>さて、この話の主人公は、扇谷上杉定正という人物である。<br> この男は、山内上杉顕定にそそのかされて、自分を擁立し、しかも自家の勢力を強めてくれた、家宰の太田道灌を謀殺した人物として歴史に記録されている。道灌を謀殺したことで、定正に見限りをつける勢力もあり、扇谷家の勢力は減退したが、定正は凡庸な人物ではなかった。</p>
<h3>定正、関東三戦に勝利する</h3>
<p>道灌謀殺後、定正は関東管領家の山内上杉顕定と対立関係に入った。</p>
<p>不利な形勢の中で、軍事面では長享2年(1488年)の関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)を有利に進め、外交では第2代古河公方の足利政氏や政氏の庇護下にあった長尾景春、そして、伊豆を奪取した北条早雲を味方につけ、山内上杉顕定に対抗した。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦</h3>
<p>その後、徐々に勢力を北武蔵に伸ばした定正はついに明応3年(1494年)に荒川に到達し、渡河しようとした。なお、この作戦には定正の援軍として早雲も参戦している。<br> もしこの作戦が成功し、上野国の山内上杉氏を倒せば、山内上杉氏に代わって、扇谷上杉氏が関東の覇者になれる可能性が出てくる。</p>
<p>だが、ここで思いがけないことが起こったのである。定正が荒川渡河時に落馬して、頓死してしまった。扇谷上杉氏の当主になってから約20年もの間、関東の戦乱を生き抜き、道灌謀殺後の苦しい時期も何とか切り抜けてきた定正に一体何が起こったのか。それは残念ながら分からないが、荒川の存在とその流れが彼の落 命の一因となったことは確かだろう。</p>
<p>定正落命は、司馬遼太郎『新装版 箱根の坂(下)』 (講談社文庫)<img>、伊東潤『疾き雲のごとく』<img>の第2話「守護家の馬丁」で書かれている(司馬さんの本では赤浜を過ぎた荒川北岸で、伊東さんの本では荒川南岸で死亡したことになっている。詳しくは各書籍をご覧いただきたい)。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦失敗時の関連人物たち</h3>
<div> </div>
<h3>定正の死と扇谷上杉氏の衰退</h3>
<p>原因はどうあれ、定正が死去したことで、元々、勢力的に劣勢だった扇谷上杉氏は急速に衰退していく。結果からみると、やはり彼の存在が扇谷上杉氏を支えていたことが分かる。</p>
<h3>早雲を関東に引き入れた定正</h3>
<p>もう1つ、彼の果たした役割としては北条早雲を関東に引き入れたことである。<br> 定正の養子、扇谷上杉朝良の代に早雲は小田原を手に入れ、関東の西の入り口に地盤を得た。そして、最終的に、早雲は相模一国を手に入れるのである。<br> それから半世紀ほど後、早雲の孫、北条氏康が最終的に川越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼすことになる。短期的に正しい決断が、長期的に見ると必ずしも正しくないこともあるという一例だろう。</p>
<h3>再び、赤浜</h3>
<p>私は赤浜の渡しで大きな石の前に立っている。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 赤浜の渡河地点付近の写真。</em><br><em> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</em>
</div>
<div> </div>
<p>5月初旬だったこともあり、ボカボカ陽気で眠くなるようなところだった。<br> 中世の名もなき人々、そして、著名な歴史人物(たとえば、元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府を倒すため軍を率いて鎌倉街道上道を南下した新田義貞)もこの辺りを渡ったことだろう。<br> そして、高見原から鎌倉街道の上道を北上してきた定正は、鎌倉街道上道の高地から赤浜の低地の風景を目にしたあと、この辺りで荒川を渡河しようとして落命したのかもしれない。</p>
<p>今は近くに橋がかかっているので、釣り人らしき人以外、誰も顧みないこの地は、かつて坂東武者たちの生死を懸けた歴史の舞台だったのである。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。</em><br><em> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</em><br><em> 赤浜の北岸が花園である。</em><br><em> 荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</em>
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<p><a><img></a></p>
<div>2010年5月1日撮影:<br> 上の写真を撮影した付近に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標識がいくつか立っている。</div>
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荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

赤浜の渡し 上杉定正 埼玉県 大里郡

【さった峠の試練】<h2>静岡市街地を抜け、東海道を東へ</h2>
<p>安倍川餅を食べた後(「<a>安部川餅の誤算</a>」参照)、私は、八幡山、三保の松原、梅蔭禅寺を訪れ、静岡市街に別れを告げ、東海道を東に向かった。</p>
<p>そして、興津川を渡って、さった峠(薩蝓オ峠)の手前に来たときは、16時頃になっていた。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>興津川にかかる橋からさった山をのぞむ</em>
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<h2>さった峠を目指すことに</h2>
<p>国道1号線を走ると、すぐに通り抜けることができるのだが、あえて峠を越すことにした。 <br>というのは、この地は以前から気になる土地であり、機会があれば、行ってみたいと思っていた。</p>
<p>その理由は、近代以前、この峠は旅人にとって、通り抜けるのが厳しい難所であったこと、また、中世に2度大きな戦いがあり、古戦場でもある(*)こと。 <br>そして、司馬遼太郎 『箱根の坂』では、北条早雲が関東に行こうとしたところ、さった峠で盗賊に身包みを剥がされてしまい、これを機に北川殿(物語の中では、早雲の妹、史実では姉とされている)と浅間神社で再会する。これが早雲と駿河の強力な縁となる。その転換点として、さった峠が書かれていた。 <br>以上の点から、さった峠に興味を持っていたのである。</p>
<div><em>(*)南北朝の戦乱(観応の擾乱)では、1351年に足利尊氏の軍と足利直義(尊氏の弟)の軍が戦っている。 また、戦国時代には、1569年12月に武田信玄が駿河に侵攻したとき、信玄は今川氏真の軍をこの地で破った。その後、信玄は、今川勢の救援に来た後北条氏の軍と対陣したが、結局、勝負はつかず、信玄は興津川沿いに撤退した。</em></div>
<h2>警戒と郷土の誇り</h2>
<p>さて、さった峠を目指して、走り出した私は現地の案内板に沿って進んだ。しばらくすると、小さい子供が3人ほど遊んでおり、その傍には子供の母親と思しき若い女性が2人と年配の女性が2人ほどいて、おしゃべりをしていた。 <br>果たして自転車でさった峠を越せるのか、私は知らなかったので、奥様方に尋ねることにした。</p>
<p>「あのー、すみません。」 <br>少し不審さと恐れが混じった複雑な顔で私を見る。ブラブラしている男を警戒する、これが母性本能というものだろうか。 <br>「この自転車で、さった峠を越そうと思っているんですが、大丈夫でしょうか。」 <br>奥さんたちの顔が、パッと無邪気で明るい表情に変わる。危険な人間ではないことを確認した安堵と郷土の誇りをくすぐられた満足感からだろうか、表情が一変した。人間というのは、一瞬でよくもこれほど見事に顔の印象が変わるものだと私は感心した。</p>
<p>奥さんたちはしばし顔を見合わせて、 <br>「自転車で?」「どうだろう?」 という感じで、相談し始めた。<br>どうやら、こういう問いを尋ねられたことはないようだ。 <br>しばし相談したあと、年配の女性が 「大丈夫よ。若いんだから!」 ということで、結論が出たようだ。 <br>「そうですか。大丈夫ですかね。」</p>
<p>少し不安を抱きながら、若いんだから大丈夫という根拠で、私は峠を越すことになった。 <br>「この道を行けばいいんですか?」 <br>「そうそう。道沿いに行けば、分かると思うわよ。」 <br>「なるほど。ありがとうございました。」 <br>「じゃあ、がんばってね!」 <br>「はい、どうも。」 <br>ということで、道なりに進んだ。</p>
<h2>進む</h2>
<p>坂がきついところでは自転車を押して、平らなところでは自転車で走った。しばらくすると、急な坂があったので、自転車を押して登ると、行き止まりになっていた。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>急な坂を登って、振り返って撮った写真</em>
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<h2>原付のにいさんは撤退</h2>
<p>先に着いていた原付バイクのにいさんが案内板を食い入るように見ていた。何か重要なことが書いてあるのか、それにどうやって上に行くんだろうと思って、しばし、ぼんやりしていた。どうやら、原付のにいさんは諦めたらしく、元の道を戻っていった。</p>
<p>案内板を見ると、この道は明暦元年(1655年)に拓かれ、中の道という名であるという。<br>この道の他に、あと2つ道があったそうだ。 参考にはなったが、舗装路がここで終わっているため、これ以上、進めそうにない。迂回路があるかどうか知りたいのだが、そういう情報は何もなかった。だから、原付のにいさんも案内板の前で考え込んでいたようだ。</p>
<h2>農作業をしている夫婦</h2>
<p>どうしようかと考えていると、道の左奥に農作業をしている中年の夫婦(推定)がいることに気付いた。自転車を脇に置いて、彼らにさった峠に至る道を聞くことにした。</p>
<p>「あ、どうも、お仕事中すいません。」 <br>奥さんが顔をあげた。 <br>「あそこの自転車でここまで来たんですが、舗装路はここで終わってしまっているんですか。」 <br>「そうよ。」 <br>「自転車で峠を越したいんですが、自転車じゃ、無理ですかね。」<br> 奥さんは<br> 「お父さん!お父さん!」 <br>と旦那さんを呼んでくれた。</p>
<p>「なんだ」 <br>「自転車でさった峠に行きたいそうなんだけど、どうしたらいいかなあ。」 <br>「そうだな、ここはこれ以上行けないから、一旦戻って、迂回したらいいんじゃないか。」<br>「ええとね、この坂を下りて、右に行って・・・」 <br>と説明してくれるのだが、何せ不案内の土地なのでよく分からない。</p>
<p>弱ったなと思いながら、適当に相槌を打っていると、奥さんが 「それじゃ、分かりにくいわよ。自転車を持って、このまま行ったほうが早いじゃないの。」 <br>道は階段状に整備されているので、自転車を転がすことはできない。したがって、自転車を抱えて運ぶしかないのである。 <br>しばらく、夫婦で話が続いたが、どうやら奥さんのほうが気力が充実し、迫力があって、旦那さんを圧倒しつつあった。そして、ついに旦那さんは折れ、私は自転車を抱えて、中の道を進むことになった。</p>
<h2>森をのぞむ</h2>
<p>道は途中で森に入るので、道がその後どういう状況になっているのか、現在地からはよく分からない。<br> 「あの階段はどれくらい続くんですか?」<br> 「そうね。少しあるけど、大丈夫よ。若いんだから!」<br> またそれかと思いつつ、 <br>「なるほど。そうですか。ずっと続くわけじゃないんですね。階段が終わったら、平らな道なんですか。」<br> 「そうよ、コンクリートじゃないけど、自転車でも通れるわよ。」<br> 「なるほど」 <br>私は意を決して、階段に進むことにした。 <br>「どうもお邪魔して、すみませんでした。それじゃ、行ってきます。」 <br>「がんばってね!」 <br>ご夫婦に見送ってもらい、私は階段に向かった。</p>
<h2>きつい。。。</h2>
<p>階段の前まで自転車を押していった後、私は自転車を抱えて、階段を登り始めた。<br>はじめはあまり重さが気にならなかったが、しばらくすると、やはり重い。 <br>自転車の本体が13kg強あり、プラスパソコン入りの荷物もあるので、重量はおそらく18kgほどだろうと思う。梅雨時期ということもあり、水は2リットル入りのペットボトルをを買っており、まだ、なみなみと残っている。 <br>また、断続的に続く雨の影響で、足元が緩く歩きづらいことに加えて、(おそらく)梅の実が落ちて、滑りやすい枯葉とブレンドされている。その腐敗した甘く微妙なにおいが辺りにたち込めて、私の呼吸を苦しめた。 <br>若いから大丈夫というのは、やはり若者の体力がないと無理な道だったんだとはっきり体で悟りながらも、とにかく今は登りきる以外に道はない。手が痺れる。自転車を右手から左手に持ち替えるが、すぐにきつくなってくる。一度自転車を地面に置くと、もう持ち上げられない気がした。出口はまだか。私は暗い森の中を力を尽くして歩いた。</p>
<h2>駿河湾</h2>
<p>ようやく階段が終った時には汗だく状態だった。自転車を置き、視線を上げると、目の前に駿河湾が広がっていた。いい眺めだ。息を弾ませながら、この苦役は報われたと思った。やはり、海というのは広大でいいものだ。何というか、息がスッーと通るのである。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>さった峠の石碑の辺りから駿河湾をのぞむ</em>
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<h2>広重の「絵」</h2>
<p>しばらく、道なりに歩いていくと、何か見たことのある風景であることに気付いた。そう、歌川広重の東海道五十三次でお馴染みの風景である。そこには、さった峠の石碑や案内板が立っていた。同じところに、長いすがあったので、座って一休みすることにした。</p>
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<div><em>2010年6月28日撮影</em></div>
<div><em>さった峠の石碑</em></div>
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<em>2010年6月28日撮影</em> <br>さった峠の石碑の場所からもう少し進むと、木製の展望台があり、歌川広重が描いたお馴染みの風景が広がる。そこで、さった峠から富士山をのぞむことができる。が、梅雨時期ということもあってか、残念ながら、富士山を拝むことはできなかった。</div>
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<h2>旅人や志士たちも歩いた道</h2>
<p>この道は江戸初期に開通したので、坂本龍馬や西郷隆盛といった明治維新の志士たちも通ったことだろう。 <br>また、中世の二度のいくさのこと、そして、早雲が盗賊に襲われ、身包み剥がされて、さった山をトボトボと興津方面に下りていく様子といった幻影を心で描きながら、ぼんやりしていた。</p>
<h2>結論</h2>
<p>その後、さらに道なりに進むと、問題なく迂回路からの合流地点に出て、さらに行くと由比に至った。</p>
<p>ということなので、もし皆さんが自転車でさった峠の中の道に来るときは、由比(東京方面)から来たほうがよいだろう。そして、石碑を見たら、引き返して、迂回路か国道を通るのである。決して、(特に梅雨時期に)階段に挑んだりしないようにしていただきたい。思い出作りに敢えて通りたいという人を私は止めはしないが。。。</p>
<p>(終)</p>

さった峠の試練

作成日:2014/6/23 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

さった峠 フィールドをゆく

【安部川餅の誤算】<h2>北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡</h2>
<p>6月下旬の梅雨時期に、2泊3日で静岡県に行ってきた。その時のテーマは、「北条早雲ゆかりの土地を巡る in 静岡」であった。基本的に、焼津から東進し、三島に至り、三島から南下して、修善寺でゴールという日程を考えていた。自転車による3日間の総走行距離は約180kmだった。</p>
<h2>小川の長者、長谷川法栄</h2>
<p>初日は東京駅を発し、焼津駅に降り、焼津の南隣にある小川の港へ行った。小川は、今川氏親擁立に尽力した長谷川法栄(*)の拠点である。</p>
<div><em>(*)長谷川法栄:今川氏親擁立に貢献した人物で、小川を拠点にしていた。 氏親の父、今川義忠が遠江で戦死した後、幼少の氏親はすぐに家督を相続することはできなかった。家督は、一旦、義忠の従兄弟の小鹿範満が引き継いだ。その混乱の中、法栄は氏親を小川でかくまったという。彼は早雲の有力な味方だった。 その辺の様子が司馬遼太郎『箱根の坂』に詳しく書かれている。</em></div>
<p> </p>
<h2>丸子城へ</h2>
<p>その後、朝比奈川を渡り、国道1号線を通って、泉ヶ谷の西に位置する丸子城を訪れた。丸子城は、東海道を押さえる要地にあり、今川の本拠地、今川館の北西に位置する。また、氏親が家督相続できないでいた間、この城を居城にしていたという。そうであれば、氏親擁立の中心人物であった、早雲も何度もこの城を訪れたことだろう。</p>
<p>丸子といえば、とろろ汁が有名だが、着いたときがすでに夕方だったため、店が閉まっており、とろろ汁は諦めざるを得なかった。</p>
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<em>2010年6月27日撮影 </em><br><em>司馬遼太郎『箱根の坂』のイメージに近いと思い撮影した。</em>
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<h3>安部川餅を食べよう!</h3>
<p>翌日は、しからばということで、安部川餅を食することに決め、ホテルを出た。<br>最初、駿府城(今川館跡に築城された)、そして、浅間神社を見学した後、臨済寺に行った。臨済寺は早雲の姉(司馬遼太郎『箱根の坂』では妹という設定になっている。今川義忠の正室で、今川氏親の母)、北川殿の別邸跡に建てられ、今川義元も青年期を過ごした場所だという。 <br>当寺は賤機山の山麓にあり、本堂のある高地からは市街地がよく見える。すでに10時30分を過ぎて暑くなってきたが、境内の清々しい雰囲気が心地よかった。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>臨済寺の本堂前からの写真。</em>
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<p>臨済寺を出て、予定通り、安部川餅を食べに安部川橋東側に向かうことにした。この頃になると、太陽が照り始め、気温はぐんぐん上昇しているのが分かった。11時頃に目的地付近に着くと、観光ガイドブックに載っていた佇まいの店があった。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川橋の東側から、安倍川をのぞむ。</em>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>安倍川餅の「せきべや」さん</em>
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<h2>安倍川餅の「せきべや」さん、発見!</h2>
<p>ここだと思い、汗を拭いつつ、店に入った。この店が300年の歴史を持つという「安倍川餅せきべや」である。店の中は、冷房がかかっており、涼しかった。安部川餅(600円)を注文し、待つことしばし、やってきた安部川餅を見て、私は「しまった」と思った。</p>
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<em>2010年6月28日撮影 </em><br><em>「せきべや」さんの安部川餅。見た目よりボリュームがあり、満腹になった。若干、黄粉餅が分かりくいかもしれない。黄粉餅は皿の右側にある。その黄粉餅に砂糖がかかっている。</em>
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<h2>「しまった」と思った理由</h2>
<p>それは餅の味がどうこうという話ではなく、このシチュエーションでは、餅というチョイス自体が誤りだったではないかということだ。なぜかというと、その重く、粉っぽい様子に食欲が湧いてこないのである。すでに、暑さにやられつつある体に、この重量感と粉っぽさはきつい。もう少し冷たいもの、せめて、チュルチュルと食べられるものにしたらよかったと思った(もちろん、餅自体はすべていただいて、店のチョイスにミスはなかったと思った)。</p>
<h2>ご当地グルメは胃と相談しよう</h2>
<p>思えば、前日にとろろ汁を食べ損なったのがトラウマになり、何としてもご当地グルメを食べるということが強迫観念となり、冷静な判断力を鈍らせたのかもしれない。思い込みというのは恐ろしいものである。<br>昨日、とろろ汁を食べていれば、おそらくこれほど暑い中、餅を食べるのは不適と判断して、別のものを食べていたことだろう。食べ物に関しては、頭が要求するものより、胃腸が要求するものを優先させたほうがよいとつくづく思った。今度は、安部川餅を見て胃腸が喜ぶ時期に、もう一度、トライしてみたいものだ。</p>
<p>その日の夕方、いつもより腹が減らないなと思ったとき、ふと昼に食べた阿部川餅のことを思い出した。失敗にも、効用はあるようだ。</p>
<p>(終)</p>

安部川餅の誤算

作成日:2014/6/23 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

安倍川餅 フィールドをゆく 静岡県 静岡市

【空より広き 「谷中湖」の原?】<h2>武蔵、下野、常陸の接点を巡る</h2>
<p>古河城、小山城、結城城を1日でまわるという意欲的なプランを立て、今年(2010年)の5月はじめ頃に現地に行ってきた。この辺りは、享徳の乱後、古河公方の地盤となった地域である。</p>
<h2>参考資料: 享徳の乱</h2>
<p>関東は、畿内の応仁の乱に先駆けて、享徳の乱が起こり、戦乱の時代へと入った。</p>
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<h2>利根川を渡り、古河、そして、谷中湖へ</h2>
<p>まずは栗橋駅で降り、利根川を渡って、古河に向かった。妙なところにある古河城跡(治水の影響で堤防の天辺にある)を見た後、谷中湖に向かった。谷中湖は今回のテーマには関係なかったのだが、とても大きな湖と湿地帯が地図に示されていたので、どんなところか興味を持ったのである。</p>
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<p>実際に谷中湖に向かって自転車で走ってみると、とてつもない広さで驚いた。 こんな感じである。</p>
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<div><em>アメリカ西部やオーストラリアなら、いざ知らず、日本でこんなに広いところがあろうとは…。</em></div>
<h2>日が地に沈む</h2>
<p>司馬遼太郎の『<a>箱根の坂</a>』で、都から来た歌人が先人の歌で坂東の広さを知っているはずなのにも関わらず、皆一様にその広さに驚いたと書いていた。「都は日が山からのぼり、山に沈むが、坂東は地からのぼり、地に沈む」、確かこんなような表現だったように思う。今の東京の空はビルが林立して狭いが、この辺はそういう雰囲気を色濃く残している。 もしかしたら、中世の坂東の低地とはいうのはこんな感じだったのかもしれない。</p>
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<h2>空より広き</h2>
<p>こういった土地で生活するにはもう馬に乗るしかないのではないか。歩いていたら、埒が明かないだろう。「武蔵野はどのようなところか」という帝の問いに対し、太田道灌が答えたという</p>
<blockquote>
<div>露おかぬ かたもありけり 夕立の<br>    空より広き 武蔵野の原</div>
</blockquote>
<p>という歌を思い出さずにはいられない。「空より広き」とは雄大である。<br>10km四方ほどでしかない、京都の盆地の住人とは距離感覚も違っていただろう。そういうところで、坂東武者たちは狩り、笠懸、流鏑馬、犬追物などで、弓矢を鍛えて、「いざ、鎌倉」と備えていたのかもしれない。</p>
<h2>ここはどこ?</h2>
<p>いろいろと勝手な想像を膨らませながら走っていると、いつしか自分がどこを走っているか、分からなくなった。</p>
<p>ひたすら広く、ランドマークがないので、距離感がつかめない。それでも、しばらく道なりに走っていると、幸運にも地図があった。しかし、その地図は相当大雑把で、しかも現在地が書いていない。少なくとも、この地図の作成者は、迷子の輩に現在地を教えるつもりで作ったのではないらしい。</p>
<h2>おやじさん、登場</h2>
<p>しばらくの間、どうしようか地図を見ながら考えていると、中年のおやじさんが話しかけてくれた。どうも散歩をしている人らしい。</p>
<p>「どうしたの?」<br> 「ええと、ちょっと谷中湖に行く道が分からなくてですね、それでこの地図を見ていたんですが、この地図を見てもよく分からないんですよ。」</p>
<p>おやじさんは地図を見て、 <br>「本当だ。現在地、書いてないね。」 <br>「今、この地図で言うと、どの辺りなんですか?」 <br>「ええとね。実はオレもよく分からないんだ。」<br>「エエッ」散歩をしている人が現在地を知らないとはどういうことなのであろうか。<br>「こんだけ広いでしょ。だからどこ歩いているか、よく分からないんだよね。」</p>
<p>「・・・」私が絶句していると、<br> 「けど、毎日同じコースを歩いているから、オレは平気なんだよ。」 <br>「そうなんですか。」なるほど、全体像を掴んでいなくても、自分が歩く道だけ知っていれば、問題なさそうだ。<br> 「じゃあ、もう少し走って、他の人に聞いてみます。」 <br>「うん、そうしてよ。気をつけてね。」</p>
<p>まさか、谷中湖の周辺に住んでいる人は、皆、こんな感じの地理感覚の持ち主なのかと疑ってしまった。しかし、おやじさんと別れた後、縁あって2人の中年の男性と話をしたのだが、その人たちはちゃんと地理が分かっていた(しかも、地元の方だった)。</p>
<p>であるから、おそらく、おやじさんの感覚が特別だったのだろうと思う。 いずれにしろ、谷中湖周辺がいかに広々としているか、ひいては幻の坂東原風景を読者に伝えるために、素晴らしいエピソードをプレゼントしてくれたおやじさんに感謝したい。</p>
<p>(終)</p>

空より広き 「谷中湖」の原?

作成日:2014/6/22 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

谷中湖 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー 埼玉県 加須市

【応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書】<h2>京の影響を受ける関東</h2>
<p>当サイトの記事で何度か書いているとおり、北条早雲の時代、関東の情勢は京都の情勢に強く影響されます。ですから、早雲について調べていると、どうしても京都のことも知りたくなってきます。そして、早雲が活躍する一昔前、京都の情勢に大きな影響を与えた事件といえば、応仁の乱でしょう。</p>
<p>応仁の乱の原因は諸説あり、登場人物は多岐にわたり、しかも名前が似ており、血縁、養子関係も複雑で到底ここで書く気になれません。そこで、応仁の乱を題材にした書籍を紹介することで、早雲前史としての応仁の乱を理解するという目的を間接的に達成したいと思います。</p>
<p><a><img></a></p>
<h2>参考となる歴史解説書</h2>
<p>昨年(2009年)、一般読者向けの日本中世史シリーズが発売されました。日本中世史ファンには朗報と言えるでしょう。応仁の乱については、</p>
<p><strong>池 享『戦国大名と一揆 (日本中世の歴史6)』, 2009</strong></p>
<p>で扱われています。</p>
<p>(*)日本中世の歴史6とあるように、この本はシリーズ6冊目であり、最終巻でもあります。</p>
<p>応仁の乱前後の政治史のみならず、社会史にも言及されており、戦国史の本のさわりだけの解説では飽き足らないが、応仁の乱前後の専門書を読む気にはなれない戦国ファンには良書だと思います。</p>
<h2>足利義政が主人公の歴史小説~池波正太郎『賊将』~</h2>
<p>この歴史解説書を読むと応仁の乱のことは理解できますと言いたいところですが、初学者の場合、おそらく読んでもすぐ忘れて、ゴチャゴチャしていたことだけが記憶に残るでしょう。それは本の完成度の問題ではなく、解説する対象が複雑だからです。しかし、解説書で一応理解したあと、時間を置かず、すぐに歴史小説を読み、主人公とともに間接的に当時を追体験すると理解と記憶が深まります。</p>
<p>応仁の乱を題材にした有名な歴小説は2つあります。</p>
<ul>
<li><strong>永井 路子『銀の館』</strong></li>
<li><strong>池波正太郎『賊将 改版』</strong></li>
</ul>
<p>永井さんの本は読んだことがないので、言及しません。<br>池波さんの『賊将』は6つの短編小説で1冊の本になっており、その第1作目が「応仁の乱」です。短編小説とは言っても、180ページほどあるので、十分読み応えがあります。 <strong>司馬遼太郎『箱根の坂』</strong>でも、若き早雲の目を通して、応仁の乱前後の京が書かれています。不遇な若き早雲は辛辣に権力者たちを見ており、早雲を通して、司馬さんはバッサリと彼らを斬っていくので読者としては痛快ではありますが、もし自分が当時の支配者層に生まれていたら、どうにかできただろうかという視点で見ると、また違った景色が見えてきます。</p>
<h2>あなたならどうする?</h2>
<p>その1つのシミュレーションとして、池波さんの「応仁の乱」は参考となると思います。この作品は室町幕府の8代将軍、足利義政が主人公です。義政の父、6代将軍、足利義教は弱体な室町幕府の権威と権力を強めようと奮闘します。</p>
<p>しかし、その行動は有力守護大名からみると、迷惑であり、脅威に他なりません(永享の乱も、彼の強権路線に鎌倉公方、足利持氏(のちの古河公方となる足利成氏の父)が反発したという側面があります)。そういった緊張関係の中で、足利義教は、将軍家と彼に恨みを持つ赤松満祐に謀殺されてしまいます。</p>
<p>将軍である父親が一守護大名に殺害され、早世した兄の後を継いで、義政はわずか14歳で将軍職を継ぎます。現代なら、中学生の年頃ですね。 こういう状況では当然義政に実権があるわけもなく、足利一族の畠山氏や義政の側近が権勢を奮います。本人にすれば、「名ばかり将軍」であって、どうにもならない感があったことは無理なく推測されます。もし実権を取り戻そうと、強引なことをすれば、父のような最期を迎えるかもしれません。それでも放置していてうまくいっていれば、まあよいかもしれませんが、細川氏と山名氏などの有力守護大名間の争い、既存宗教勢力に加え、新興宗教勢力の台頭、土民の蜂起など、混乱は深まるばかりです。そして、義政は現実に絶望して、芸術に逃避します。</p>
<p>この行為が批判の対象となるわけですが、あなたが義政だったら、こういう状況でどうするでしょうか。</p>
<p><a><img></a></p>
<div><em>応仁の乱の一局面を描いた関係図 実際には時間の推移と共に複雑怪奇な動きを見せる。</em></div>
<p> </p>
<p>イントロはこれくらいにして、あとは池波さんの本に譲ります。彼はさすがに人気作家だけのことはあって、私は最後まで興味深く読みました。義政の絶望とその後の混乱、そして、この混乱を最終的に収めた織田信長という強烈な人物と政権。このラインが見えてくれば、戦国史をより深く、多面的に理解できるのではなかろうかと思います。</p>
<h2>資料: 応仁の乱</h2>
<div> </div>
<p>(終)</p>

応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書

作成日:2014/6/14 , by fuji3zpg 開く

足利義政 応仁の乱 フィールドをゆく 室町から戦国時代への動きと北条早雲の生涯ーフィールドをゆく(1)ー

【早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-】<h2>なぜ早雲か?</h2>
<p>戦国時代というと、人気があるのは武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉あたりでしょうか。こういった人気のある戦国武将を差し置いて、なぜ私は北条早雲という人物をテーマにしているのでしょうか。以下、理由を述べてみたいと思います。</p>
<h2>室町幕府の成立と相対的安定期</h2>
<p>有力守護大名の連合政権だった室町幕府は成立の当初からを弱体でしたが、曲がりながらにも権威と権力を持った室町幕府は正義を提供していました(ただし、足<br>利義満の時代から嘉吉の乱(嘉吉元年(1441年)、6代将軍、足利義教が赤松満祐に暗殺された事件)までは比較的安定していました。つまり、幕府が正し<br>いとすることが正しいということで世の中がそれなりに処理されていました。</p>
<h2>立ち腐れる室町幕府と織豊政権の成立</h2>
<p>しかし、室町体制が崩壊すると、何が正しいかは戦いによって決まる時代に入ってしまいました。その結果、自衛のため、弱者は有力者を頼り、有力者は最有力者を頼るという関係が各地で再構築され始めました。その権力の頂点が戦国大名です。<br><br><em>司馬さんは、早雲の生涯を通して、この辺りのプロセスをうまく書いています(参考図書を参照)。</em><br><br>そして、戦国大名同士、さらには戦国大名と宗教勢力の戦いがはじまり、最終的には織田信長の地盤を受け継いだ豊臣秀吉が、天正18年(1590年)に早雲の子孫である後北条氏を降して、全国を統一しました。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年9月撮影</em><br><em>全国で最後まで豊臣秀吉と戦った後北条氏の本拠地、小田原城から見た石垣山の眺め。豊臣秀吉は石垣山に石垣山一夜城を築いた。</em></p>
<h2>戦国時代はいつからか?</h2>
<p>戦国時代のはじまりというのは、実はいろいろな解釈があって、これが定説という年は決まっていません。応仁の乱がはじまった1467年説、旧説では北条早雲の伊豆討ち入りの1491年説、近年では明応の政変の起こった1493年説が有力なところです。<br>私見では、弱体ながらも、室町幕府というのは、9代将軍、足利義尚までは存在していたと考えています。しかし、その後、細川政元による明応の政変(1493年)以降は、京都を押さえ、将軍を擁した有力戦国大名が実力で政権を立てるようになるため、その時点で足利将軍を中心とした室町幕府の実体は消滅したという考えています。いずれにしても、15世紀の後半には実体としての室町幕府は消滅し、戦国大名がしのぎを削る戦国時代に突入したと考えてよいと思います。<br>なお、1492年に、コロンブスが大西洋を渡ってカリブ海のサンサルバドル島に到達します。つまり、早雲が生きた時代に、西欧では大航海時代を迎えていま<br>した。</p>
<h2>室町体制の崩壊と秩序の再編</h2>
<p>戦国初期というのは、室町体制の崩壊と秩序の再編が激烈に行われた時期でした。この時期には、誰が最終的に全国を統一するか全く分からない状態でした。つまり、ちょっとした基盤があれば、誰にでもチャンスがあった時代でした。安芸の一国人に過ぎなかった毛利元就(北条早雲の約40年後出生)が一代で中国地方をほぼ統一したのはその代表例です。</p>
<h2>戦国初期の目まぐるしさ</h2>
<p>とにかく、戦国初期というのはいろいろな人物が出てきては消えていきます。系図と年表を広げながら、書籍や資料を読んでいかないと、すぐに訳が分からなくなります。当然、当時を生きた人は当事者なわけですから大変です。享徳3年(1454年)に享徳の乱がはじまり、全国に先駆けて戦国時代に突入した関東では、関東管領家の山内上杉氏や扇谷上杉氏といった守護大名の当主レベルでも、戦死した人物は少なからずいます。ですから、その下の階級のレベルの人になると、それはもう大変な状態だったでしょう。</p>
<h2>早雲は関東地生えの人ではなかった</h2>
<p>関東では、最終的に後北条氏が最有力勢力になりましたが、当初、早雲は関東に寸土も持っていない状態でした。ですから、太田道灌が謀殺された頃(文明18年(1486年))、彼の子孫が関東の主になるとは誰も考えることはできなかったでしょう。つまり、状況によっては、他の未来もいくらでもありえたのです。</p>
<h2>なぜ早雲を調べているのか</h2>
<p>武田信玄や織田信長の時期には次の天下人の有力者が見えてきており、戦国初期のようなカオス感はありません。このカオス感が戦国初期の魅力の1つです。<br><br>戦国初期のカオスの渦中にあって、当事者たちは何を思い、何を行って、どういう秩序を新たに作り上げていったのでしょうか。<br><br>その体現者の一人が北条早雲です。<br>また、早雲の主な活動範囲は、京ー駿河ー伊豆ー相模で、私自身の活動範囲に近いときています。<br>そのため、北条早雲をしかと調べたいと思ったわけです。<br><br>(終)<br><br></p>
<h2>参考図書: 北条早雲が主人公の歴史小説紹介</h2>
<h3>司馬遼太郎『箱根の坂』</h3>
<div>司馬さんの最晩年の歴史小説(初版は1984年。司馬さん、61歳の時)。全三巻。</div>
<p>魅力的なストーリーに匠に歌を織り交ぜ、あっという間に物語に引き込まれました。彼の作品の中でも屈指の作品だと思います。<br><br><a>新装版 箱根の坂(上) (講談社文庫)</a><br><a>新装版 箱根の坂(中) (講談社文庫)</a><br><a>新装版 箱根の坂(下) (講談社文庫)</a><br><br></p>
<h3>伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』</h3>
<p>ただ、『箱根の坂』が出版されてから、既に一世代経つなかで、新学説が出てきています。新説に対応した作品が伊東潤『疾き雲のごとく-早雲と戦国黎明の男たち- 』です。<br> この作品は主人公からその時代を見るという伝統的な手法と違い、早雲に関わった人から早雲を見るという視点で書かれています。6つの短編小説から成り、各短編小説はそれ自体で完結しています。<br><br> 短編小説の各主人公はそれぞれの人生の中で、早雲(宗瑞)という人にあって、重大な影響を受けます(多くは、悲劇的な結果となる)。<br> 数ある早雲を主人公とする歴史小説の中でも異彩を放つ作品です。<br><br><a>疾き雲のごとく (講談社文庫)</a><br><br></p>
<h3>伊東潤『黎明に起つ』</h3>
<p>伊東さんの長編小説です。<br>早雲と北条氏の民政重視の政治は有名ですが、本書では、どういう背景・経験を通じて、早雲が民政重視の思想を持つに至り、実践していったかが強烈に意識されて、書かれています。<br><br> 早雲も生まれてすぐに民政重視の政治をしようと思ったわけではないでしょう。幼少の頃より、応仁の乱をはじめとする乱世に揉まれ、その中で思想を確立し、統治システムを練り上げていったわけです。<br> その早雲の軌跡が、見所です。<br><br><a>黎明に起つ</a><br><br></p>

早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-

作成日:2014/6/13 , by fuji3zpg 開く

フィールドをゆく 北条早雲 室町から戦国時代への動きと北条早雲の生涯ーフィールドをゆく(1)ー

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