「いかっこじん」と読む。 関東で享徳の乱(1454-82)が勃発し、鎌倉府は滅亡、鎌倉公方は古河に移り、古河公方となった。関東管領の山内上杉氏と扇谷上杉氏(以降、両上杉氏と記述)は、古河公方と対決するため、利根川に対面する丘陵の端に五十子陣を構築した。 五十子陣は、北武蔵の重要拠点であった…
城 日本 埼玉県 本庄市
長享2年(1488年)6月(実蒔原の戦いの約4ヵ月後)、山内上杉顕定勢と扇谷上杉定正勢は、須賀谷原で戦った。この戦いでも、定正は勝利した言われている。 また、万里集九の漢詩集には、この戦いで700余名と数百匹の馬が犠牲になったと伝えている。 (*)菅谷館の北にある武蔵嵐山駅から北側を撮影。…
上杉定正 上杉顕定 合戦 日本 埼玉県 比企郡
文明9年(1477)、長尾景春は両上杉氏の対古河公方拠点、五十子陣を攻撃して、崩壊させた。両上杉首脳は利根川を渡り、東上野に逃れた。 江戸城-河越城ラインを分断しようとする豊島氏を打ち破った太田道灌は、両上杉首脳を救出すべく、北上した。道灌は、景春をおびき寄せるため、景春の拠点の鉢形城と五十子陣…
太田道灌 長尾景春 合戦 日本 埼玉県 大里郡
長享2年(1488年)11月(須賀谷原の合戦の約5ヵ月後)、山内上杉顕定勢3000余騎と扇谷上杉定正勢2000余騎が、高見原(埼玉県比企郡小川町から寄居町今市付近)で戦った。この戦いでも、定正は勝利したと言われている。
長享の乱 合戦 日本 埼玉県 比企郡
城 日本 埼玉県 行田市
城 日本 埼玉県 さいたま市
城 日本 埼玉県 比企郡
入間川が北を通る。北武蔵の鉢形城、南武蔵の江戸城を結ぶ、中武蔵の最重要拠点。 享徳の乱がはじまり、扇谷上杉氏は古河公方と対立すると、河越城は武蔵の拠点として、扇谷上杉氏の重臣、太田道真、道灌親子によって築かれた。 河越城は、入間川を押さえる要地にあった。扇谷上杉氏としては、太田道灌の守…
日本100名城 城 日本 埼玉県 川越市
平安後期から南北朝時代の頃まで繁栄した川越氏の館が置かれた。また、戦国初期には関東管領の山内上杉顕定が陣を敷いた。北を小畑川、南に入間川が北東に流れている。
城 日本 埼玉県 川越市
河越合戦の際、関東管領の山内上杉憲政が河越城を包囲するため、柏原砦(城山砦)に軍勢を入れたとされている。東側は入間川に面した崖になっている。 河越城を救援するため、北条氏康が南からやってくると考えられる。その場合は、氏康の軍勢を横撃できる位置にある。
城 日本 埼玉県 狭山市
畠山重忠の館として有名な館。鎌倉街道の要衝であったため、戦国期に現在残っている規模に拡張されたとされている。 長享の乱の際、菅谷館付近で扇谷上杉定正と山内上杉顕定が合戦した(菅谷原合戦、1488年)。
西側を市野川が北から南に流れ、その更に西を鎌倉街道上道が通る。かつては、北条氏の手による城と考えられてきたが、近年の発掘・文献調査で、16世紀前半に山内上杉氏による築城と比定された。
南は河越城、北は松山城をつなぎ、立地にある。300mほど北に都幾川が東流する。 永禄の松山城合戦(北条・武田連合軍対上杉軍)の際、北条の城として利用された。
城 日本 埼玉県 東松山市
青鳥(おおどり)城は、松山城から西に約5km、高坂城から北西約4kmにある。南約1kmに都幾川が流れている。 資料的にはよく分かっていない。現在、関越自動車道と254号に囲まれていることからも、その立地の良さを伺うことができる。
鉢形城と松山城を結ぶ鎌倉街道上道を東に見下ろす位置にあり、市野川の上流にあたる。つまり、市野川沿いに歩くと、松山城に至る。 長享の乱(山内上杉顕定勢と扇谷上杉定正勢の戦い)で高見原合戦(1488年)が高見城の眼下で行われた。
鉢形城は、秩父と北武蔵、上野と北武蔵を結ぶ交通の要衝であり、当時の主要道である鎌倉街道の上道が当城の東側を通っていた。また、秩父から荒川が東流し、天然の堀として機能しており、築城にうってつけの条件を備えていた。 1476年、長尾景春が築城して以来、山内上杉氏、小田原北条氏など、城の主は変わっ…
日本100名城 城 日本 埼玉県 大里郡