長享2年(1488年)6月(実蒔原の戦いの約4ヵ月後)、山内上杉顕定勢と扇谷上杉定正勢は、須賀谷原で戦った。この戦いでも、定正は勝利した言われている。 また、万里集九の漢詩集には、この戦いで700余名と数百匹の馬が犠牲になったと伝えている。 (*)菅谷館の北にある武蔵嵐山駅から北側を撮影。…
上杉定正 上杉顕定 合戦 日本 埼玉県 比企郡
長享2年(1488年)11月(須賀谷原の合戦の約5ヵ月後)、山内上杉顕定勢3000余騎と扇谷上杉定正勢2000余騎が、高見原(埼玉県比企郡小川町から寄居町今市付近)で戦った。この戦いでも、定正は勝利したと言われている。
長享の乱 合戦 日本 埼玉県 比企郡
城 日本 埼玉県 比企郡
畠山重忠の館として有名な館。鎌倉街道の要衝であったため、戦国期に現在残っている規模に拡張されたとされている。 長享の乱の際、菅谷館付近で扇谷上杉定正と山内上杉顕定が合戦した(菅谷原合戦、1488年)。
西側を市野川が北から南に流れ、その更に西を鎌倉街道上道が通る。かつては、北条氏の手による城と考えられてきたが、近年の発掘・文献調査で、16世紀前半に山内上杉氏による築城と比定された。
鉢形城と松山城を結ぶ鎌倉街道上道を東に見下ろす位置にあり、市野川の上流にあたる。つまり、市野川沿いに歩くと、松山城に至る。 長享の乱(山内上杉顕定勢と扇谷上杉定正勢の戦い)で高見原合戦(1488年)が高見城の眼下で行われた。