【ペリー来航を受け品川台場を建設】ペリー来航(1853年)によって、幕府が黒船の脅威に無力であることが明らかとなり、海防が急務となった。
幕府は、品川台場を建設し、江戸城を防衛しようとした。

写真は、レインボーブリッジから撮影した品川台場の第六台場。

ペリー来航を受け品川台場を建設

作成日:2014/9/1 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

ペリー来航 第六台場 品川台場 幕末史(2)ーペリー来航と幕政改革ー 東京都 港区

【最近の天守再建報道】<p>・江戸城 http://www.nikkeibp.co.jp/article/matome/20140806/410498/<br>・名古屋城 http://www.sankeibiz.jp/macro/news/140822/mca1408220500004-n1.htm<br>・駿府城 http://www.at-s.com/news/detail/1141961657.html</p>

最近の天守再建報道

作成日:2014/8/30 , by rekius 開く

天守再建

【Canon EOS 6Dの動画】<h2>Canon EOS 6Dで撮影した動画</h2>
<p>以下、Canonの一眼レフカメラ Canon EOS 6Dで撮影した動画を載せていきます。<br> なお、すべて手持ちで動画撮影しています。</p>
<p>一眼レフカメラの動画はAFが貧弱で、手ブレしやすいなど、なかなか扱いが難しいのですが、やはり画質はいいです。</p>
<h2>山中城の動画 2013/11/19</h2>
<p><a><strong>▶ 山中城・西櫓の畝堀と富士山を撮影</strong></a><br> 見事な畝堀です。</p>
<h2>柿田川湧水群の湧き水 2013/11/19</h2>
<p><a><strong>▶ 第二展望台より6Dで動画撮影</strong></a><br> 水が湧き出て、魚が泳いでいるのが分かると思います。<br><br> *<a>柿田川公園(柿田川湧水群)の紹介サイト</a>。<br> <a><strong>▶ 第一展望台より6Dで動画撮影</strong></a><br> エイを連想させる湧き方のような動き。<br> *YouTubeにアップしたら、だいぶ、画質が劣化した模様。仕方がないですが。。</p>
<h2>江戸城の動画</h2>
<p><strong><a>▶ 江戸城の巽櫓</a> 2013/11/24</strong><br> 手前が桔梗濠、右手に巽櫓、左手の堀の奥に内桜田門があり、左上の石垣の上に富士見櫓があります。<br> 江戸城の定番撮影ポイントの1つ。</p>
<h2>思ったこと</h2>
<p>ご覧のとおり、6Dで手持ち撮影した結果、手ブレしやすいです。そのため、三脚を使って動かすか、なるべく動かさないで、数秒のカットを集めて、動画を作るのがいいように思いました。</p>

Canon EOS 6Dの動画

作成日:2014/6/28 , by fuji3zpg 開く

EOS-6D 動画 カメラーフィールドをゆく(6)ー

【歴史と防災-その1 私が調布へ引っ越した理由-】<h2>江東区から調布市へ引越し</h2>
<p>今月中旬(2011年5月)に、東京都の江東区(両国国技館の南東約1km)、から同じく東京都の調布市(国領駅周辺)へ引っ越した。<br> 引っ越した主な理由は<br> 1)仕事上、必ずしも江東区にいる必要がなくなった<br> 2)江東区は災害が発生した場合、さまざまな危険があるが、調布市は比較的安全である<br> 3)賃貸契約の更新期限が迫っていた<br> といったところだ。</p>
<h2>江東区回想</h2>
<p>江東区には計8年間いたが、都心に近く(運動も兼ねて、東京駅の八重洲ブックセンターや神田の古書店街によく行っていた)、旧居の西側には隅田川が流れ、老舗の多い、落ち着いた街だった。また、当時は取引先が隅田川対岸の浜町にあったので、仕事上も都合がよかった。</p>
<p>この地域は便利な半面、災害には弱い。<br> 江東区は隅田川と荒川に挟まれた地域で、人口は約47万人、ゼロメートル地帯がかなりの面積を占め、地盤も弱い。旧居周辺は、20世紀には2度壊滅してい る(1923年の関東大震災と東京大空襲)。したがって、便利な半面、危険も少なからずあるため、それなりの対策は考えていた。</p>
<div>江東区より地盤が弱い地域として、千葉県の浦安市がある。実際、東日本大震災で、私が住んでいる近辺で液状化の影響は見られなかったが、浦安では発生した。 その辺の事情を「<a>歴史サイクリング in 浦安-東日本大震災から約50日が経過して-</a>」に書いておいたので、興味のある読者はご覧いただきたい。</div>
<h2>一般的な自然災害リスク</h2>
<p>一般的に、自然災害としては、火山噴火、洪水、地震、津波、液状化が考えられる。<br> 江東区は、火山噴火を除いた洪水、地震、津波、液状化のリスクを現実の問題として考える必要がある。ただ、資料を見る限り、津波についてはそれほど深刻ではないかもしれない。</p>
<h2>江東区民、悪夢のシナリオ</h2>
<p>江 東区住民にとって、一番マズいパターンは、東京湾北部で直下型大地震が発生し、建物に深刻なダメージを受ける。逃げようと思ったら、上からは看板がずれ落 ち、ガラスが雨のように落ちてくる。横からは自動販売機が倒れこみ、車が突っ込んでくる。何とか最初の1分を切り抜けたが、道路は瓦礫とガラスで歩きにく い。また、道路が液状化しており、一段と動きが鈍くなる。モタモタしている内に、強風に煽られて、火災旋風が発生して、一網打尽というケースだと思う。</p>
<p>実際、両国駅から数百メートル北西にある被服廠跡(現、<a>東京都慰霊堂</a>)では、関東大震災の時に火災旋風で3万8千人もの犠牲者が出たそうだ。</p>
<div>東日本大震災では広い範囲にわたって被害が出て、現時点で、死者、行方不明者が約2万5千人である。むろん、海溝型地震による津波はおそろしいが、人口が密集した都市部で発生する火災旋風も大きな脅威であることが分かると思う。</div>
<h2>おそるべし、火災旋風</h2>
<p>前出の火災旋風という現象がある。<br> Wikipediaで「<a>火災旋風</a>」 の記述を抜粋すると、「火災旋風(かさいせんぷう)とは、地震や空襲などによる都市部での広範囲の火災や、山火事などによって、炎をともなう旋風が発生 し、さらに大きな被害をもたらす現象。鉄の沸点をも超える超々高温の炎の竜巻である。」ということだ。過密な都市部で火災旋風が起こると、犠牲者の数が1 桁増えるという記述を何度も見た。</p>
<h2>私はどのような準備をしていたか</h2>
<p>私がとった対策として は、一般的な防災グッズの購入の他に、パンクしない自転車を買ったことだ。購入して、もう2年ほど経つ。この自転車はタイヤのチューブに空気ではなく、 ジェルが入っている。だから、たとえ釘やガラスを踏んでも、原理的にパンクしない。これで機動力を確保するのだ。パンクした自転車は用を為さないろう。大震災発生直後に、パンクした自転車を修理している暇はあるだろうか。<br> 東日本大震災発生後、大阪の業者がパンクしない自転車を被災地に送ったと報道されていた。</p>
<p>だが、パンクしない自転車も液状化した道路を本当に走れるのだろうか?<br> 浦安の液状化を見た現在、懐疑的にならざるを得ない。</p>
<h2>西へ</h2>
<p>旧居にいる時に火災旋風が起こると仮定すると、逃げる方向としては、西しかないというのが私の分析の結論だった。新大橋が落ちていないことを祈りつつ、西へ走って、皇居(旧江戸城)まで行くのである。皇居まで行けば、ひと安心だ。そこで情報を集めて、その場に留まるか、移動するかを決めればよい。</p>
<div>皇居は武蔵野台地の東の果てで皇居西側は高地になっている。また、忘れられて支援物資が届かないということもないだろう。ただ、東側は400年ほど前まで、 入り江になっていたことには注意したい。つまり、台風であれ、津波であれ、堤防を越えるほどの水がやってきたら、皇居東側にも水はやっているかもしれな い。</div>
<p>なお、西以外の方向に行っても、危険は増えても減らないと思う。</p>
<h2>本当に逃げ切れるか</h2>
<p>さて、江東区から皇居へ逃げる場合、道に迫った(主観的には圧迫感のある)低中高層の多数のビルの間を抜けていくことになるのだが、果たして無傷で通過できるか、甚だ疑問である。死んだり、手傷を負って、人さまに迷惑はかけたくないものだ。<br> 結局は、無事切り抜けられるかどうかは多分に運次第だと思う。</p>
<h2>火災旋風発生の可能性が低い場合は</h2>
<p>なお、雨が降っていたり、無風で火災旋風の発生が現実的ではない場合は、近くの決められた避難場所に避難するつもりだった。余震でガラスが落ちてきたり、建物が崩れたりする危険もあるからだ。移動するにもリスクがある。</p>
<h2>そのとき、どうする?</h2>
<p>震災に遭遇した場合、どうしたらよいのだろうか。一般解はないと思う。人や場所によって、状況が違うからだ。</p>
<p>私は自分なりに情報を集めて、上記のように考え、行動すべく準備していた。正しいかどうかは、そのときになってみないと分からない。読者にとって参考になるところがあれば、参考にしてもらいたい。</p>
<p>結局のところ、「どうするか」は本人が「そのとき」に判断する他ないと思う。<br> が、まずはどういうことが起こると考えられているのかを知ることは有効だと思う。そこで、「その2」では、私が有益だと思った震災シミュレーション小説をいくつか紹介したい。</p>
<p>(つづく)</p>

歴史と防災-その1 私が調布へ引っ越した理由-

作成日:2011/5/28 , by fuji3zpg 開く

東日本大震災 災害と防災ーフィールドをゆく(5)ー

【東日本大震災と太田道灌、そして、江戸】<p>東日本大震災で亡くなった方のご冥福をお祈り致します。また、被災された方にお見舞い申し上げます。</p>
<h2>その日はいつもと変わらない金曜日だった</h2>
<p>3 月11日(金)。この日、私は自宅付近で昼食をとった後、六本木に向かい、13時過ぎに六本木ヒルズの40階でWebアプリ開発の仕事を始めました。そこは好きなところに腰掛けて個人が仕事をするフリースペース形式のオフィスです。この日は、40階のフロアに30人程度の利用者が仕事に勤しんでいました。</p>
<h2>14時46分、地震発生 激しい揺れ 。。。</h2>
<p>揺 れが始まった当初、ちょっと強い地震程度にしか思いませんでした。私は高校生の時に京都で阪神淡路大震災を経験しています。その時は、縦にドカンと衝撃が 来て、南のほうから大地が崩壊していくような音と振動が伝わってきました。この経験があるので、今回のような横揺れには大して警戒感はありませんでした。</p>
<p>しかし、ちょっと強い地震がさらにひどくなり、おさまる気配がありません。私は落下物がないか、上を確認し、片膝を地面につけて、揺れが収まるのを待ちま した。その間、地震を告げる無機質な自動のアナウンス(日本語の次に英語)が流れました。すると、素早く従業員の方がやって来て、窓から離れるように注意を促しました。揺れが最も激しい時に(洒落にならないほど揺れていた時に)、フロアの責任者と見られる男性がフロアの中央にやってきて、免震構造なので大丈夫だと言っていましたが、真っ直ぐ立っていられないほどの揺れのためか、声は緊張し、少し上ずっていました。<br> 六本木ヒルズの免震技術は優れているのかもしれませんが、タイタニックであれ、アルマダ(スペインの無敵艦隊)であれ、評判の高いものが儚いことになった 例も少なくないので、揺れが激しい時は不安になりました。しかし、30人ほどの利用者やフロアの係りの人の中に、パニックに陥る人は誰もいませんでした。</p>
<h2>品川付近で煙が上がる</h2>
<p>何 分間かの揺れが一旦収まったので、やれやれと思っていると、何人かが窓の近くで何か言っています。私も窓から3mほど離れたところで外を覗いてみると、品川の辺りから多量の煙が立ち昇っていました(正確にどこが燃えていたのかは今も分かりません)。これは大変なことになるのではないかと思いました。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011/3/26 追記:</em><br><em> 私が見たのはどうもお台場(港区)での火災だったようです。</em>
</div>
<p>幸い、インターネットは問題なく利用できたので、他の利用者が東北で強い地震があったことを素早く調べて話していました。むろん、当時は東北を中心に、これほどの惨事になるなど、想像もしていませんでした。</p>
<p>私は40階にいて、相当遠くまで見えるため、その他の火災や津波が発生していないことはすぐに分かりました(天気の良い日は富士山がクッキリ見えます)。仮 に津波が発生しても、どう考えても40階まで到達しそうにありません。という状況だったので、目下、考えうる脅威は六本木ヒルズの階下で発生する火災でし た。</p>
<h2>「ヒルズ酔い」</h2>
<p>30分ほどすると、エレベータ以外はすべて問題なく機能している旨のアナウンスがあったので、まずはひと安心でした。ただ、絶えず余震に揺られ、たまに結構強い揺れがあるため、徐々に大地が揺れているのか、免震構造のビルが揺れているのか、私の脳が揺れているのか分からない、いわば、船酔いのような感じになってきました。私はこれをヒルズ酔いと名づけて、無事にヒルズを脱出して、この地震から生き延びたら、必ずこのネタを当サイトに書こうと強く決意しました。地震から10日ほど後にニュースをネットで見ていたら、同様の症状に対する報道があり、これを「地震酔い」と表現していました。</p>
<h2>エレベータは点検中</h2>
<p>地震発生から1時間ほどしてもエレベータが回復しないので、40階ですが、非常階段から徒歩で降りることにしました。というのは、地下鉄が止まっているのはイン ターネットで知っているので、なるべく早く地上に降りて、明るいうちに徒歩で自宅に戻りたかったからです。そこで、フロアの責任者と思しき人に非常階段の場所を聞いたところ、エレベータが回復するまでもうしばらく待ってほしいと言われました。仕方なく再度席に戻って、PCを操作していると、仙台空港が水浸しになっている映像を見ました。これは大変なことになったぞと思って、いろいろ調べたり、今後のプランを考えたりしていると、京都の肉親から連絡があり、 大丈夫かと問われたので、「高いところにいるので、少なくとも津波の心配はない」と答えておきました。最終的に、2時間半もの間、40階でブラブラ揺られ ることになるとは思ってもいなかったので、40階で足止めされていることは言いませんでした。</p>
<h2>動かざること山の如し</h2>
<p>ヒ ルズ酔いのため、PCを見ていると気分が悪くなってくるので、窓に近づいて、秩父や丹沢山地の山々をのぞんでみました。強い揺れがあったにも関わらず、 山々は何事もなかったように泰然自若としています。当たり前といえばそれまでですが、この時は「たいしたものだ」という妙な感慨がありました。</p>
<h2>40階から徒歩で降りることに</h2>
<p>地震発生から2時間強経過した17時頃、非常階段から徒歩で降りることを希望する人は集まるように言われたので、勇んで集合場所に向かいました。この後、長時間歩くことになると思ったので、係の人にちょっとトイレに行ってきますと言って、素早く用を足して戻ってきました。戻ってくると、関西在住と思われる中年のおじさんがちょっとトイレに行ってくると言って、急いでトイレに向かいました。3分ぐらい待っても帰って来ないので、少し心配しました。その頃には皆 おじさんの帰りを待っていたので、焦れた係の男性が様子を見に行ったところ、もう少しで戻ってくる旨、合図をしました。結局、男性は「すいません」とか言いながら戻ってきたので、ホッとしつつも、時が時なので、早くしてほしいものだと思いました。</p>
<p>歩いて降りる人は総員15名ぐらいだったと思います。<br> そのうちの1人が非常階段と降りる人たちの写真を1枚パチッと撮っていました。その時、微妙な空気が流れました。<br> 誘導役の係の男性は「誘導したら、戻ってくる」というようなことを同僚の男性に言っていました。<br> 連れのいる人は最初話しながら降りていましたが、半分の20階ぐらいで口数がぐっと少なくなってきました。私は1人だったので、リズムよく呼吸することを 心がけて、黙々と降りました。すると、前を歩いていた2人組の男性が、重苦しい雰囲気を吹き飛ばすように、「膝が笑ってきた」とか言って、2人でゲラゲラ 笑っていました。私も思わず「だよな」と思いながら、ニヤニヤしてしまいました。10階まで降りてくると、さすがに疲労感が出てきましたが、もう少しだと思い、ひと踏ん張りしました。一番下の階(多分2階)に着いた時は、ヤレヤレ、ようやくヒルズ脱出だと思いました。</p>
<h2>ヒルズ脱出、夕暮れ、そして、徒歩帰宅開始</h2>
<p>やはり、大地を歩けるということは大きな安心感がありました。<br> 一方、人の許可無く、歩いて降りられないところは今後極力行きたくないものだと切に思いました。ただ、エレベータに閉じ込められた人に比べたら、40階で揺られた苦痛もモノの数ではなかったでろうとも思いました。ヒルズを出る瞬間、「エレベータが1基動き始めた」という声が耳に入りました。</p>
<p>フロアの責任者と従業員は危機に対して立派に行動していました。利用者も誰1人として、パニックになりませんでした。最後の1時間ぐらいはクラシックが再び流れて、どう見ても普通に仕事をしている人も少なからずいました。実に驚くべきことだと思いました。</p>
<p>さて、ヒルズを脱出したのは幸いでしたが、この時点で17時30分過ぎになっており、暗くなってきています。地下鉄はすべてストップしていることをネットで確認しているので、この後、六本木から江東区の自宅まで歩いて帰る必要があります。当時は6kmほどだと思っていました。後日、Googleマップで自分 が歩いた大体の経路を測ってみると、8キロ強ありました。</p>
<p>六本木ヒルズのノースタワーのエスカレータで2階から1階に降りて、さてもう一踏ん張り頑張るかと気合を入れ直し、私はエントランスを出て、コンクリートの道路に第一歩を踏み出しました。</p>
<h2>徒歩帰宅スタート</h2>
<p>六本木ヒルズのノースタワーのエントランスを出た私は比較的細い路地を歩きはじました。<br> すると、若い2人連れの女性が「ここ入ろっか」などと言って、大画面のテレビがあるバーに入っていきました。また、左右を見ると、多くの人がイタリア料理屋でうまそうなパスタを食べたり、居酒屋で飲み食いしていたので、もしかしたら地上はたいして揺れなかったのかと一瞬思いました。<br> ただ、もう少し歩くと、すでに閉店している店があったり、ヘルメットを被って歩いている人がいたり、すべての地下鉄がストップしているわけですから、只事であるはずはないと思いました。</p>
<h2>携帯は不通</h2>
<p>ようやくヒルズを脱出したので、もう心配なかろうと思い、携帯で親に電話したところ不通でした。それまで携帯が使えなかったことに気づかなかったことは不覚 でした。ただ、iPhoneのインターネットが生きているのは確認していたので、iPhoneからメールで親に無事を報告しました。</p>
<h2>地図、多機能時計、携帯ラジオ</h2>
<p>六本木ヒルズを脱出した後、どういうルートを通って帰ったらよいか、私はだいたい知っていました。<img>というのは、江東区の自宅から渋谷まで何度か自転車で往復したことがあり、その際に六本木を通っています。そのため、この辺は多少土地勘があったのです。また、iPhoneが生きていたので、Googleマップも見られました(もしiPhoneが機能していなければ、紙の地図が必要なところでしたが、 iPhoneがあるため、最近、紙の地図を持ち歩いていませんでした。紙の地図もiPhoneのGoogleマップもダメな場合は、各地域に設置してある地図をiPhoneで撮って参考にする手があります)。これも大きなアドバンテージでした。</p>
<p>一方で、こういう日のために、方位磁針、高度 計、温度計、気圧計などの多機能腕時計を普段持ち歩いているのですが、それを忘れていました。また、非常用に持ち歩いている携帯ラジオ用の単4電池が1本しかなかったため、近くのコンビニで購入しました(この携帯ラジオは単4電池が2本必要。普段、電池を入れておくと、知らない間に電源が入り、使うときに 電池切れになるリスクを避けるため、普段は電池を外している)。ソニー製のアルカリ電池、4本入りで480円でした。もしコンビニが機能していなければ、 困るところでした。これらは誤算でした。</p>
<h2>六本木周辺の地形</h2>
<p>六本木という土地は武蔵野台地の 東の端の方なので、坂を降りると低地に入ります。低地はもし津波が来たら危険です。そのため、早速購入した電池を携帯ラジオに入れて、ラジオを聞きながら移動しました。むろん、今回の地震で、今更、津波が起こる確率はほぼないわけですが、ゲームと違って、「あーあ、死んでしまった。リセット。」というわけにはいきません。また、以前から関東での大震災や東海地震の可能性が指摘されています。今後発生するであろう海溝型の大震災で、津波が起こる可能性はあるわけで、津波に警戒して歩くということはその際の事前シミュレーションという効果もあります。このような問題意識を持つと、気づくことが多々あります。</p>
<p>江東区の自宅に戻るには、どうしても六本木を降りて、低地を歩く必要があります。むろん、六本木やより西側のホテルに泊まるという選択肢もありましたが、すでに本震は2時間半前に終わっており、10km以内のところに自宅があるので、そこまでする必要はないように思いました(もし津波の危険が高ければ、武蔵野台地に留まるというのは有力な選択肢でした)。</p>
<h2>徒歩帰宅中に聞いた声</h2>
<p>歩いていると、いろいろな声が聞こえ、また、印象に残ることがありました。<br> 前を歩いていた2人組のサラリーマン風の男性(年齢は30歳前後)の「千葉に先日家を買ったんですよ」という言葉とか、「もし停電だったら、コワイよね」といった若い女性の言葉です。<br> また、婦人用の靴屋が開いていたので、こんな時によく営業しているなと思いましたが、よく考えたら、これから徒歩で自宅に帰る女性で、ハイヒールを履いている人がいたら、すぐに足が痛くなるかもしれません。そういうお客さんのために開いているのかなと思いました。さらには、自宅に戻ってテレビを見たら、自転車が飛ぶように売れたと言っていました。なるほど、それはそうだろうなと思いました。</p>
<h2>風、火災、雨</h2>
<p>地上に出て思ったことは、風が強く寒いことでした。もし火災が発生したら、まずいことになっていたのではないかと思いました。また、雨が降らなかったことも有難かったです。ただでさえ、強風で寒いのに、これに雨に濡れたら、体力・気力ともにさらに辛いことになるでしょう。<br> 幸い、私は当日フード付きのダウンの防寒着を着ていたので、風と寒さは問題になりませんでした。靴は歩きやすい運動靴でしたが、防水性能はなかったので、雨が降らなくて助かりました。</p>
<h2>六本木から北東へ進む</h2>
<p>さて、阪神淡路大震災の時に高速道路が倒れたことを思い出しながら、六本木から北東に向かって、高速道路沿いを歩き、虎ノ門まで進みました。虎ノ門は外堀通りに面しています。「外堀」とある通り、江戸時代は江戸城の外堀だったため、周辺に比べると低い土地です。<br> 私の幼なじみが虎ノ門付近で働いているはずなので、彼は大丈夫だろうかと思いましたが、建物に対する被害はこれまで全く見なかったので、大丈夫だろうと思いました。また、携帯電話が不通なので、確認するすべもありません。</p>
<p>この辺はとても人が多く、しかも、東から西に大量に人が流れていきます。人の流れというのはすごいもので、流れに逆らって動くのは一苦労でした。車は渋滞し て、ほとんど動いていませんでした。その横を、自転車がサーと走り抜けます。こういう時、自転車はとても便利だなと思いました。ただ、自転車はパンクする と、機動力がガタ落ちになります。</p>
<h2>路地へ</h2>
<p>反対向きの人の流れで動きづらいので、私は路地に入ることにしました。すると、途端に移動が楽になりました。1本入るだけで、ほとんど誰も歩いていません。<br> 私は防災の専門家でも何でもない普通のIT業者なので、この行動が教科書的に正しいことなのかどうか分かりません。路地に入ったことで移動速度の向上というメリットは確実にありましたが、デメリットというかリスクも確かにありました。<br> というのは、新富町の辺りで、看板が不安定になり、一部道路が封鎖されていたことがあり、また、人形町を過ぎた辺りの古い民家で瓦が落下していました。さらに場所は覚えていませんが(新橋周辺だったかもしれません)、ものすごくガス臭い路地があり、「ガス漏れ、火に注意」などと書かれた紙が貼ってあったところもありました。仮に私がその時タバコを吸っていたら(私はスモーカーではありませんが)、張り紙に気づく前に自分だけ火事になっていたかもしれないと 思うぐらいに強烈なガス漏れでした。このように、有事の際には路地までなかなかチェックができないでしょうから、移動の容易さをとるか、リスクを避けて表通りを歩くかは、場合によっては人生の岐路になるかもしれないと思いました。</p>
<h2>わが庵は 松原つづき 海近く</h2>
<p>さて、外堀通りを通って、虎ノ門を抜け、新橋に入ります。新橋の北側に日比谷公園があります。<br> 戦国時代初期に、太田道灌が江戸城を築いた頃は、この辺りまで海が入り込んでいました。入間川、荒川など、関東を流れる大河による河川運送と江戸湾の海運 ルートを結び、かつ、武蔵野台地の東端に位置する地勢に注目し、道灌(道灌は扇ヶ谷上杉氏の家宰(執事)だった)はこの地に城を作ったとされています。太田道灌が江戸城からの情景を詠んだという歌の中に、</p>
<blockquote>
<div>わが庵は 松原つづき 海近く<br>   富士の高嶺を 軒端にぞみる</div>
</blockquote>
<p>というのがあります。この歌から分かるように、戦国時代の江戸城は松原が続く「海近」い城でした。<br> 地形的には、江戸城は東側が低地で、西側が高地です。もし津波が来る危険があれば、私なら、日比谷公園や皇居(江戸城)の東側の低地よりも、西側の高地に避難します。<br> このように、自分が住んでいる地域の歴史を学んでおくと、単に昔のことを知るということに留まらず、震災などの有事の際に役に立つことがあります。<br> 今後の歴史教育に防災という観点を入れることで、他人事から自分のことへと学ぶ内容がグッと身近なものになるのでないかと思います。<br> 歴史というのは、大抵、有事について書かれています。「文明18年(1486年)、人々は幸せに暮らしていた」などということは通常記録されません。通常、「文明18年(1486年)、太田道灌は主の扇谷上杉定正に謀殺された」というように記述されます。歴史という有事の記録を紐解くことで、いざという時の判断材料にするわけです。</p>
<h2>地形と情報</h2>
<p>一般的に津波の際には低地は危険です。出版されている災害予測地図(私は江東区在住なので、東京23区を対象とした 目黒 公郎 『東京直下大地震 生き残り地図―あなたは震度6強を生き抜くことができるか?!』 を2年ほど前に買って持っています)、古地図、地図ソフトのプロアトラスのジオラマ機能などで地形や地震予測地図を見ておくと(できれば、そのデータや画 像をiPhoneなどに取り込んでおくと)、どの経路を通るべきか判断する1つの判断材料になります。いざという時に、ググッている暇はありません。手持ちの知識、装備、体力、そして、それらを踏まえた状況判断が大切だと改めて思いました。</p>
<p>また、かつて海だったところを埋め立てた土地は地盤が弱く、液状化現象が起こる危険があります。液状化現象が起こった土地は移動しづらいので、有事の際は可能な限り避けたほうがいいでしょう。他には、地名 に「池」「沼」「谷」という名前がついていると、かつてはそういう地形だった可能性があります。普段はコンクリートに覆われて見えませんが、激しい揺れに晒された時に違いが出てくるかもしれません。昔の地形を知っていれば、避けられるリスクもあるかもしれません。<br> あと、普段から目印になる山や高い建物を意識しておくのも効果的だと思います。今回は暗かったので見ていませんでしたが、江東区やその近辺なら、スカイツリーがよく見えるので、私は歴史サイクリングをする時にスカイツリーをよくランドマークとして使っています。ランドマークがあれば、地図がなくても、大まかに自分の位置や方向が分かります。</p>
<p>さて、新橋を抜けて銀座を歩いている頃に、もし津波が来たら、逃げ込める空間というのは飲食店のあるような繁華街のほうが多いかもしれないことに気が付きました。というのは、多くのオフィスビルは玄関が閉まっていたので、仮に津波が来た場合、一時的に入ろうにも入れません。その点、繁華街は2階以上へ行く 階段がビルの入口のあるので、いざとなったら、そこへ駆け込むことができます。<br> ただ、今回の地震では問題となりませんでしたが、繁華街は飲食店も多いので、火災の危険があります。津波が来たので、ビルに逃げ込んだら、そこは火の海 だったのいうのでは洒落になりません。また、老朽化しているビルなら、津波の衝撃で次の瞬間に何が起こるかは分かりません。東京で津波が起こるほどの地震が発生した時に繁華街が無傷だとは常識的に考えて思えません。<br> また、「多くのオフィスビルが閉まっていた」というのは私の個人的な経験ですが、もう少し明るい時は開いていたかもしれません。開いていたら、オフィスビルのほうが頼もしいように思います。</p>
<p>こういう想定を考えていると、キリがありません。たとえ完璧な理論を知っていても、いろいろ複雑なことを考えてモタモタしている間に流されてしまったら、元も子もありません。<br> だからこそ、「その時」のために事前にシミュレーションしておくことは大切だと思います。そうすれば、いざという時に合理的な選択肢がいくつか思い浮かび、状況に合わせて、そのうちの1つを選んで生き延びることができるかもしれません。<br> もしこの辺りを歩いている時に津波が迫ってきたら、私は階段があり、強そうな建物にダッシュするつもりです。むろん、その前に高台に避難したいところです。</p>
<h2>そろそろ疲労が。。。</h2>
<p>などといろいろなケースを考えながら、銀座を抜けて、新富町の辺りで路地から大通り(新大橋通り)に出ました。新大橋通り沿いに歩くと、自宅に着くことがで きます。新富町を通りすぎて、八丁堀付近を北上していると、いよいよ疲労感を感じはじめました。時間を確認すると、20時頃、つまり、六本木ヒルズを出 て、2時間半ぐらい経過しています。ヒルズを出てからまだ一度も小休止をとっていないので、疲労がたまるのは当然でした。その横をまたまた自転車が颯爽と走り抜けていきます。<br> 虎ノ門付近に比べたら、格段に人口密度が減りましたが、まだ多くの人が新大橋通りを歩いていました。私の前を30歳くらいの女性が歩いており、その両脇をスーツを着た同じ歳くらいの男性が固めていました。何を話していたかは分かりませんでしたが、悲壮な感じはなく、普通に話しながら歩いていました。私が経験した範囲では、おおむね、こういう雰囲気でした。<br> 私は信号で待っている間、なるべくガードレールにもたれたり、屈伸運動などをして、体力の温存や関節の柔軟性維持に努めました。また、あたたかい飲み物と菓子パンを持っていたので、少しずつ食べて、補給しました。信号待ちの時に、外からコンビニを覗くと、お客さんが行儀よく並んでモノを買っていました。店員は当たり前のようにレジをこなし、棚に商品を補給していました。このような有事の際にも冷静に行動する人々を見て、私は本当にすごいことだと当時思い、 今でもそう思います。</p>
<h2>千葉まで帰ります</h2>
<p>さて、人形町付近を過ぎる頃に、前を歩いている2人組の男性が「千葉まで帰ります」と言っているのが聞こえました。本当にお疲れ様だなあと思いました。<br> 私自身は30代前半の男で週末には歴史サイクリングをしているので、体力に特に不安はなく、また、地理感覚もあり情報端末も持っていたので、知識についても問題はありませんでした。つまり、ヒルズの40階で揺られて、40階から徒歩で降りてきたことを除いては、比較的条件がよかったわけですが、それでも、 17時半にヒルズの1階を出発して、すでに3時間ぐらい経過して、それなりに疲れていました。新大橋通りを渡る頃には人の数も減り、パラパラと人々が歩いている感じでした。新大橋を渡り終えると、私は勝手知ったる路地に入りました。</p>
<p>結局、自宅に着くと、ヒルズを出てから3時半弱経過した21時前になっていました。<br> パッと見たところ、自宅のあるマンションに亀裂などのダメージはありませんでした。家の中は自転車が倒れていたことと26インチの液晶モニタが私の椅子に 倒れこんでいたことを除いては大したことはありませんでした。部屋の中は、倒れやすいものが倒れていたという印象でした。</p>
<h2>作業はつづく</h2>
<p>テレビをつけると、地震のニュースがひっきりなしに報道されています。衝撃的な映像が流され、これはいかんなと思いました。<br> ひと通りニュースを見た後、まだまだ強い余震があるだろうから、家具などで圧死しないように準備してから眠ろうと思い、私は作業をはじめました。</p>
<p>(終)</p>

東日本大震災と太田道灌、そして、江戸

作成日:2011/3/11 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

東日本大震災 災害と防災ーフィールドをゆく(5)ー 東京都 港区

【環濠集落の大塚遺跡を見学】<h2>城郭史的観点で</h2>
<p>今まで関東の北条系の戦国の城を中心にまわってきたのだが、今年(2013年)の夏前から、鎌倉・室町の城として鎌倉、そして、近世の城として江戸城もまわりはじめた。狙いは、城郭史的に重要な形態の城の理解を深めるためだ。</p>
<p>城郭史の本を読んでいると、環濠集落にはまだ行っていないことに気づいた。城郭史的に見ると、環濠集落も立派な防御施設を持った城である。<br> そこで、その本に載っていた大塚遺跡(神奈川県)という弥生時代の環濠集落に行くことにした。</p>
<h2>出発</h2>
<p>13 時半頃、自宅を出発し、二子玉川駅まで自転車で移動し、そこからあざみ野駅まで田園都市線に乗った。この区間は丘陵が連続し(多摩丘陵の北側)、去年、こ の辺を自転車で走行して、結構辛かったため、電車を使った(昨年の今頃、調布の自宅から自転車で、大塚遺跡から近距離の茅ヶ崎城まで行ったことがある)。</p>
<p>あざみ野駅を出て、早渕川に沿って、大塚遺跡に向う。思っていたよりも暖かい。途中で、薄手のウィンドブレーカーを脱いだ。<br> 昨年も同じコースを走ったので、特に迷うこともなく、大塚遺跡に着いた。</p>
<h2>横浜市歴史博物館</h2>
<p>ちなみに、大塚遺跡のすぐ西には、<a>横浜市歴史博物館</a>がある。<br> 去年は、畠山重忠の特別展を見てきた。かなり大型の施設で、展示も充実していた。<br> この日はあまり時間もないので、見送った。</p>
<p><img></p>
<p><em>帰りに撮った横浜市歴史博物館の写真。写真の外側で見えないが、左側にも建物があって、館内は広い。</em></p>
<h2>茅ヶ崎城</h2>
<p>大塚遺跡は、大塚・歳勝土遺跡公園内にある。大塚・歳勝土遺跡公園の南側から入るべく、移動していると、茅ヶ崎城が見えた。<br> 去年は、茅ヶ崎城から大塚遺跡の台地を見ていた。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2012年11月撮影</em><br><em>茅ヶ崎城から大塚・歳勝土遺跡が見える。</em></p>
<p>茅ヶ崎城は、神奈川湊と府中を結ぶ街道沿いにあり、城の北側の東西の位置に街道が通っていたという。茅ヶ崎城は室町から戦国時代まで使われた。現在は、城址公園化されている。</p>
<h2>歳勝土(さいかちど)遺跡</h2>
<p>歳勝土遺跡は、方形周溝墓の遺跡。方形周溝墓とは、名前の通り、四角い墳墓で、墳墓の周りに溝が掘られている。歳勝土遺跡では、方形周溝墓が5基復元されている。本物の方形周溝墓は、復元された方形周溝墓の下にある。</p>
<p><a><img></a></p>
<h2>大塚遺跡</h2>
<p>大塚遺跡は外周600mほどの環濠集落で、集落を巡る環濠、土塁、木柵、木橋、竪穴住居7棟、高床倉庫1棟などが復元されている。<br> なお、環濠集落としては、<a>吉野ヶ里遺跡</a>(佐賀県)が有名だ。</p>
<p>歳勝土遺跡から80mほどの所に、大塚遺跡はある。<br> 石碑の背景の木柵が、大塚遺跡の外周で、写真の右端から大塚遺跡に入る。<br> なお、写真中央の凹んだところに木橋が復元されている。</p>
<h2><a><img></a></h2>
<h2>大塚遺跡の入り口</h2>
<p>大塚遺跡の入り口まで来ると、「おおー」という感じだった。まさに、資料や映像などで見知った環濠集落がそこにある。</p>
<p>そういえば、復元された竪穴住居を今まで見たことがあったか、定かではない。それほど古代以前の遺跡というものに無関心だった。それも今日でおしまいである。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>復元木橋</h3>
<p>歳勝土遺跡に通じる木橋。やや防御に不安を感じる。<br> まあ、堀の幅約4m、深さ約2mと書いてあったので、実際にはもっと堅牢だったのかもしれない。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>竪穴住居の外観</h3>
<p>復元された竪穴住居。まだ、発掘調査が行われているようだ。</p>
<p><a><img></a></p>
<p>南西隅の竪穴住居。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>竪穴住居の内部</h3>
<p>竪穴住居の内部。縦の骨組み(垂木、たるき)を構築して、横(桟、えりつ)で補強。そして、下からカヤで葺き上げて作るらしい。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>弥生式土器</h3>
<p>大塚遺跡の竪穴住居内にあった弥生式土器。<br> 室内は少しヒンヤリして湿気があり、どの竪穴住居にも蚊がいた。当時はカマドで火を炊いたりしていただろうから、おそらく、これほど湿気はなかったのではないか。どうなんだろうか。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>高床倉庫</h3>
<p>復元された高床倉庫。湿気から穀物などを守るため、床が高くなっている。また、ネズミを防ぐため、高床倉庫の足にはネズミ返しが付いている。</p>
<p><a><img></a></p>
<h3>土塁と堀</h3>
<p>戦国時代の土塁は、堀の土を内部に掻き上げて作るが、大塚遺跡では、外側に掻き上げたようだ。なぜこういう構造にしたのか分からないが、当時の状況では何らかの合理性があったのかもしれない。</p>
<p>なお、ここ(大塚遺跡の北側)が集落防衛の正面だったようで、ここから北側にもう一重の堀が発掘されている。</p>
<p><a><img></a></p>
<h2>見学を終えて</h2>
<p>竪穴住居、高床式倉庫、土塁と堀など、当時の復元を見ることで、かなりイメージが膨らんだ。<br> 吉野ヶ里遺跡の方が大規模で見応えもあるだろうが、何せ関東から見に行くには遠い。</p>
<p>なお、大塚遺跡は、入場料は無料。大塚遺跡は17時に閉まるので、ご注意を(大塚・歳勝土遺跡公園には、いつでも入れる)。<br> 横浜市営地下鉄センター北駅から大塚・歳勝土遺跡公園へは徒歩8分らしい。</p>
<p>*Wikipediaの<a>大塚・歳勝土遺跡</a>に多少まとまった情報が載っている。</p>
<h2>茅ヶ崎城再訪</h2>
<p>大塚遺跡見学のあと、せっかくなので、茅ヶ崎城に向かった。しかし、日没が早く、茅ヶ崎城に着いた頃にはほぼ真っ暗。<br> しかし、まあいいやと城内を歩いてみた。北郭で、犬の散歩に来たおじさんに会った他、誰もいない。<br> 公園化されているので、所々に外灯が立っていて、そこを歩く。</p>
<p>冷気を含んだ風が、木の枝々を揺らせている。</p>
<p>もう一度来ることはないかもしれない。<br> そんなことを思いながら、茅ヶ崎城をあとにした。</p>
<p><a><img></a></p>
<p>(終)</p>

環濠集落の大塚遺跡を見学

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

大塚遺跡 環濠集落 フィールドをゆく

【荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-】<h3>舞台は赤浜</h3>
<p>鉢形城の東に赤浜という土地がある。ここが鎌倉街道上道の荒川渡河地点だった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 荒川の南岸、赤浜の渡し(渡河地点)付近。</em>
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<div> </div>
<h3>意外と少ない渡河地点</h3>
<p>川というのは、一見どこでも渡れそうだが、大河の場合、川底の地形や水量の多寡という条件があるため、渡れるところと渡れないところがある。渡れて、かつ、交通の便がよい場所が重要な渡河地点となる。</p>
<p>現在、荒川であれ、利根川であれ、川沿いを自転車で走ると、サイクリングロードが整備され、快適に走ることができる。基本的に堤防に囲まれているので、視界は限られる。その限られた視界に、橋が現れては消えてゆく。「○○橋」という橋の名前を見ないと、自分がどこまで走ったか、分からなくなる。</p>
<p>いずれにしても、これらの橋があることで、両岸を容易に行き来できる。だが、もし橋がなかったらと想像してもらいたい。渡るのは大変である。まず、川を渡ると、服が濡れる。転んで怪我をしたり、下手をすると、溺れて落命するかもしれない。であるから、かつて、渡河していた人々はおそらく何か用事があって川を 渡っていたはずで、荷物を持っていることも多かっただろう。</p>
<h3>架橋・治水技術の成果</h3>
<p>江戸時代に、大井川の増水によって、宿場町に何日も足止めされ、その間に路銀をすっかり失ったという話もあるように、大河というのは雨が降って増水すると渡れなく なることがあった。現代は極端な場合を除いて、川が増水して渡れないというケースは経験しないだろう。それは川の上流にダムなどの治水対策が施されていて、水量を調節しているためである。</p>
<p>実際、長尾景春の乱が発生した当初、太田道灌は相模にいる味方を呼び寄せて、江戸城-川越城ラインを遮断する豊島氏を攻めようとしたが、大雨で多摩川が増水して、相模勢は来ることができなかったという。</p>
<h3>渡河作戦の難しさ</h3>
<p>このように、橋とダムによって、現代では川を意識することが少なくなったが、中世における河川の状況は随分違ったことをお分かりいただけたと思う。しかも、軍事作戦で川を渡るとなると一層困難である。</p>
<p>まず、重量のある甲冑を身につけ、騎馬武者は馬に乗って渡河する。そればかりか、対岸には敵が手ぐすね引いて待っているのである。<br> 水の中では、陸上のように機敏に動けないから、まさに格好の標的となってしまう。そして、味方に死傷者を出しながらも、弓矢の雨の中を必死に渡って、運よく対岸に着いたとしても、優勢な敵が味方を袋叩きにしようと待っている。</p>
<p>このように渡河作戦は困難なので、孫子の兵法書に渡河方法が書かれている(行軍篇(第九))ほど、渡河はいくさにおける重要なテーマだった。</p>
<h3>扇谷上杉定正</h3>
<p>さて、この話の主人公は、扇谷上杉定正という人物である。<br> この男は、山内上杉顕定にそそのかされて、自分を擁立し、しかも自家の勢力を強めてくれた、家宰の太田道灌を謀殺した人物として歴史に記録されている。道灌を謀殺したことで、定正に見限りをつける勢力もあり、扇谷家の勢力は減退したが、定正は凡庸な人物ではなかった。</p>
<h3>定正、関東三戦に勝利する</h3>
<p>道灌謀殺後、定正は関東管領家の山内上杉顕定と対立関係に入った。</p>
<p>不利な形勢の中で、軍事面では長享2年(1488年)の関東三戦(実蒔原の合戦、須賀谷原の合戦、高見原の合戦)を有利に進め、外交では第2代古河公方の足利政氏や政氏の庇護下にあった長尾景春、そして、伊豆を奪取した北条早雲を味方につけ、山内上杉顕定に対抗した。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦</h3>
<p>その後、徐々に勢力を北武蔵に伸ばした定正はついに明応3年(1494年)に荒川に到達し、渡河しようとした。なお、この作戦には定正の援軍として早雲も参戦している。<br> もしこの作戦が成功し、上野国の山内上杉氏を倒せば、山内上杉氏に代わって、扇谷上杉氏が関東の覇者になれる可能性が出てくる。</p>
<p>だが、ここで思いがけないことが起こったのである。定正が荒川渡河時に落馬して、頓死してしまった。扇谷上杉氏の当主になってから約20年もの間、関東の戦乱を生き抜き、道灌謀殺後の苦しい時期も何とか切り抜けてきた定正に一体何が起こったのか。それは残念ながら分からないが、荒川の存在とその流れが彼の落 命の一因となったことは確かだろう。</p>
<p>定正落命は、司馬遼太郎『新装版 箱根の坂(下)』 (講談社文庫)<img>、伊東潤『疾き雲のごとく』<img>の第2話「守護家の馬丁」で書かれている(司馬さんの本では赤浜を過ぎた荒川北岸で、伊東さんの本では荒川南岸で死亡したことになっている。詳しくは各書籍をご覧いただきたい)。</p>
<h3>定正の荒川渡河作戦失敗時の関連人物たち</h3>
<div> </div>
<h3>定正の死と扇谷上杉氏の衰退</h3>
<p>原因はどうあれ、定正が死去したことで、元々、勢力的に劣勢だった扇谷上杉氏は急速に衰退していく。結果からみると、やはり彼の存在が扇谷上杉氏を支えていたことが分かる。</p>
<h3>早雲を関東に引き入れた定正</h3>
<p>もう1つ、彼の果たした役割としては北条早雲を関東に引き入れたことである。<br> 定正の養子、扇谷上杉朝良の代に早雲は小田原を手に入れ、関東の西の入り口に地盤を得た。そして、最終的に、早雲は相模一国を手に入れるのである。<br> それから半世紀ほど後、早雲の孫、北条氏康が最終的に川越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼすことになる。短期的に正しい決断が、長期的に見ると必ずしも正しくないこともあるという一例だろう。</p>
<h3>再び、赤浜</h3>
<p>私は赤浜の渡しで大きな石の前に立っている。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 赤浜の渡河地点付近の写真。</em><br><em> 岩の背後にある道路は、関越自動車道。時代は違えど、同じようなところに幹線道路が通っている点が興味深い。</em>
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<div> </div>
<p>5月初旬だったこともあり、ボカボカ陽気で眠くなるようなところだった。<br> 中世の名もなき人々、そして、著名な歴史人物(たとえば、元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府を倒すため軍を率いて鎌倉街道上道を南下した新田義貞)もこの辺りを渡ったことだろう。<br> そして、高見原から鎌倉街道の上道を北上してきた定正は、鎌倉街道上道の高地から赤浜の低地の風景を目にしたあと、この辺りで荒川を渡河しようとして落命したのかもしれない。</p>
<p>今は近くに橋がかかっているので、釣り人らしき人以外、誰も顧みないこの地は、かつて坂東武者たちの生死を懸けた歴史の舞台だったのである。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年5月1日撮影</em><br><em> 鎌倉街道上道から赤浜をのぞむ。対岸が北岸の花園。</em><br><em> 写真右側の川が荒川。赤浜の渡河地点である赤浜の渡しは、写真右端辺りにあった。</em><br><em> 赤浜の北岸が花園である。</em><br><em> 荒川を奥に行くと(西に行くと)、鉢形城がある。さらに、西に行くと秩父に至る。</em>
</div>
<p><a><img></a></p>
<div>2010年5月1日撮影:<br> 上の写真を撮影した付近に立っていた標識。<br> この近辺では、このような標識がいくつか立っている。</div>
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荒川渡河作戦に失敗した男-扇谷上杉定正-

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

赤浜の渡し 上杉定正 埼玉県 大里郡

【長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜】<h2>別の戦国時代をつくる可能性を持っていた男、長尾景春</h2>
<p>別の戦国時代を作る可能性を持っていた人物として、長尾景春がいる。一般には知られざるこの人物について、これから書いていきたい(*)。</p>
<p><em>(*)この記事の公開は2011年10月14日で、長尾景春が主役の歴史小説、伊東潤氏『叛鬼』はまだ出版されていなかった。伊東さんの著書によって、長尾景春はの知名度は以前よりも上がったと思う。</em></p>
<p>長尾景春は訳あって、主人の関東管領、山内上杉顕定を相手に謀反を起こし、主の顕定を窮地に陥れた。これが文明8年(1476年)からはじまる長尾景春の乱で、景春が30代前半の頃のことである。しかし、不運にも、彼の同時代には太田道灌がいた。</p>
<p>長尾景春は巧みな外交と調略を駆使して、戦略的優位を準備するものの、太田道灌との戦闘に敗れた。戦略的に勝っているからといって、自動的に最終的な勝利が得れれるというものではない。</p>
<p>長尾景春について述べる前に、同姓の越後守護代、長尾為景について見ていきたい。</p>
<h2>下克上を成功させた男、長尾為景</h2>
<p>永正4年(1507年)長尾為景は越後守護の上杉氏に下克上を起こして成功し、傀儡の越後守護を擁立することに成功した。そして、首尾よく傀儡越後守護も追放して、為景自身が越後の支配者となった。彼の息子の長尾景虎はその地盤を引き継ぎ、さらには、(北条早雲の孫、北条氏康に河越夜戦(1546年)で撃破され、その後、没落させられた)関東管領の山内上杉憲政から山内上杉氏の名と関東管領の職を受け継ぎ、「山内上杉」謙信となった。そして、謙信は武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国の雄たちと激しく争うことになる。</p>
<h2>「長尾景春の乱」の原因:景春、山内上杉氏の家宰職を継承できず</h2>
<p>社会的地位からいうと、長尾景春は越後守護代の長尾為景(上杉謙信の父)と似たところにいた。</p>
<p>長尾景春の祖父(白井長尾景仲)も父(白井長尾景信)も、主の山内上杉氏の家宰(執事)だった。文明5年(1473年)に、父の長尾景信が死去した。景春は、当然、自分がその地位を引き継げると思っていた。 <br>しかし、彼の家(白井長尾家)の勢力が主家を凌ぐのを恐れた若き当主、関東管領の山内上杉顕定が、景春の叔父を家宰に任命した(上杉顕定の懸念は、越後の長尾為景の例を見ても空想ではなかった)。 <br>景春にとって、この処置は認められるものではない。怒りなどの感情もあっただろうが、それより、家宰職には膨大な利権があり、家臣や同輩はそれを当てにしている。景春が利権を手放せば、人々は去っていき、景春の政治生命は致命的なダメージを受けることになる。 <br>景春は政治的な死を選んで隠遁するか、家宰職を認めさせるために主と戦うかの二者択一を迫られたのである。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年10月撮影 </em><br><em>白井城から榛名山をのぞむ。手前に流れる川が吾妻川。 </em><br><em>白井城は代々、山内上杉氏の家宰を務める白井長尾家の本拠地だった。当城は群馬県渋川市白井に位置する崖端城である。白井城の西側を吾妻川が東側を利根川が流れており、城の南側で合流しており、さらに三国街道がこの城の近くを通るため、上野と越後の交通の要衝でもある。 </em><br><em>かつての城域の大部分は、現在、畑だが、一曲輪を中心に遺構も残っている。</em>
</div>
<h2>景春、挙兵</h2>
<p>景春は関東の有力国人を多数味方につける一方、文明8年(1476年)頃、<a>鉢形城</a>を築城して拠点とした。また、当時、享徳の乱が継続中で、主家の山内上杉氏と古河公方は対立しており、主家と敵対している古河公方、足利成氏を味方につけ、着々と軍事的、外交的な策を駆使して、蜂起のときを待った。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年4月25日撮影 </em><br><em>鉢形城の北側からのアングル。写真中央の川が荒川。城の堅固さが偲ばれる。遺構の良好に残り、北条氏末期の鉢形城の様子がよく分かる。 </em><br><em>長尾景春が太田道灌(両上杉氏)との戦いに敗れ、この城を追われたあと、この城は山内上杉氏の武蔵支配の拠点となった。16世紀の半ばに、後北条氏が山内上杉氏に代わって、この地を支配するようになっても、鉢形城は重要拠点でありつづけた。景春の築城眼は的を得ていたようだ。</em>
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<em>長尾景春の乱、概略絵地図 </em><br><em>当時の関東は、利根川を境に東が古河公方の勢力圏、西が両上杉氏の勢力圏だった(なお、当時の利根川の流路は現在と違い、関東を東西に分けていた)。古河公方勢と対戦中だった両上杉の前線拠点、五十子陣は背後から長尾景春に攻撃され、崩壊した。</em>
</div>
<h2>景春の、そして、関東の運命を握る男、太田道灌</h2>
<p>景春にとって、最大の脅威は江戸を中心に勢力を持っている太田道灌だった。道灌は文武両道の名将で、足軽を組織して、強力な軍事力を養う一方、関東の大河の下流を押さえる江戸に堅固な江戸城を築き、大きな経済力も持っていた(道灌はその強力さ故に、10年後、道灌の主人、扇谷上杉定正に謀殺されることになる)。</p>
<p>ただ、道灌は主の扇谷上杉定正や定正の同盟者である山内上杉顕定との関係がうまくいっておらず、彼らの間に溝が広がりつつあった。景春にとって、道灌は敵にまわすと最大の脅威なので、この隙をついて、道灌を味方につけるか、それが無理ならせめて中立を維持させる必要があった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年2月撮影</em><br><em>江戸城に残る3つの櫓の1つ、富士見櫓。かつて太田道灌が築いた静勝軒の故地に江戸城の富士見櫓が建っているという。 静勝軒は道灌の軒号でもある。</em>
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<h2>景春、初戦に勝利。</h2>
<p>景春は道灌と両上杉首脳の不仲を好機として蜂起した。景春の基本戦略は五十子陣にいる両上杉首脳と道灌の連携を分断し、道灌を足止めする一方、両上杉の軍勢に打撃を与え、機を見て、主の山内上杉顕定と和睦し、政治目標を実現するというものだったと思う。家宰職を得ることが景春の政治的な目標なら、この戦略は的を得ているだろう。</p>
<p>初戦は上々で、文明9年(1477年)1月に主の顕定と扇谷上杉定正のいる五十子陣を襲って崩壊させた。顕定と定正は何とか利根川の北に逃げ延びた。これが「長尾景春の乱」の最初の戦いだった(この戦いは4年に及んだ)。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年4月撮影 </em><br><em>両上杉氏が古河公方との戦いのために築いた五十子陣跡。近辺は茫漠たる平野が広がる。 その重要な拠点を景春は崩壊させた。そのため、両上杉首脳は窮地に陥るが、太田道灌の活躍によって何とか生き延びた。</em>
</div>
<h2>道灌、動く</h2>
<p>景春は山内上杉顕定との和睦の取次ぎを期待して、道灌に使者を送った。景春の政治的目標は山内上杉氏の家宰職の継承だったのだと思う。そうでなければ、顕定勢の撃滅を目指していたはずだ。 <br>景春の意図はどうであれ、結局、道灌による和睦斡旋は失敗した。すると、道灌は景春を討つべく、江戸城から北上してきた。</p>
<p>道灌は江戸城と河越城の連絡線を遮断している練馬城・石神井城の豊島氏を江古田・沼袋の戦いで撃破した。この戦いによる勝利で江戸城・河越城のラインを確保した道灌はさらに北上を続けた。 <br>景春は当時五十子陣にいた。道灌は、景春の拠点、鉢形城と五十子陣の間で陣を構えることで、景春の補給ラインを分断した。景春は補給ラインを確保すべく南下したが、これは道灌の「手」だった。</p>
<p>道灌は景春をおびき寄せて合戦に持ちこんだ(用土原・針谷の戦い)。景春は道灌の術中にはまり、敗れた。その後も、道灌は景春勢を各地で撃破して、景春を秩父の奥地に追い込んでいった。そして、文明12年(1480年)、景春最後の拠点、秩父の日野要害(熊倉城)も道灌に攻略され、景春は没落した。</p>
<p>なお、景春は道灌の妻の甥にあたり、お互いよく知った仲であったと言われている。</p>
<h2>景春の実現されなかった可能性を考える</h2>
<p>長尾景春は長尾景春の乱に敗れたが、その後も神出鬼没の活躍で、主の山内上杉顕定を苦しめた。やはり、只者ではなかったことが分かる。しかし、これらの活躍もあくまでも好機に便乗するという形であって、景春が再び時代の主役になることはなかった。</p>
<p>ここで、少々、「もし」を考えてみたい。 <br>もしこの時道灌が江戸城を動かなかったり、さらに言うと、道灌が景春に協力していたら、古河公方との戦いにも直面していた両上杉氏(山内上杉氏と扇谷上杉氏)は二方向、道灌も含めれば、三方向から挟撃され、一時的であれ、両上杉氏主力が壊滅していた可能性はかなりあったと思う。</p>
<p>当時、長尾為景の下克上はまだ起こっておらず、山内上杉氏は越後上杉氏の援軍を期待できたため、山内上杉氏がたやすく滅亡したかどうかは疑問ではあるものの(また、京都では弱体ながら室町幕府は存在していた。幕府は基本的に親上杉なので、近隣諸国からも両上杉氏に援軍が来ていた可能性もある)、一方では景春か道灌が古河公方を担いで関東を統一し、彼らの子供あたりが源頼朝のように関東の強兵を率いて京に攻め上り、天下に号令していた可能性もゼロではない(実際、永正5年(1508年)、大内義興は前将軍の足利義稙を擁して上京し、10年間、自派の政権を維持した)。</p>
<p>実際には、このシナリオ(景春と道灌が同盟し、両上杉氏を倒すシナリオ)は実現されなかったわけだが、もし実現していたら、その後の展開は全く変わっていただろう。 <br>状況は違うが、後に景春や古河公方と同盟して、両上杉氏と対抗した人物がいる。そう、それが北条早雲である。もしこの時(景春が蜂起したとき)に早雲が道灌の立場であれば、どういう判断を下していただろうか。</p>
<h2>長尾景春と長尾為景</h2>
<p>結局、失敗した長尾景春の乱だったが、景春は優れた戦略家であり、実行力もあった。ただ、相手(太田道灌)が悪かったと言えるかもしれない。</p>
<p>長尾景春の乱から、約30年後、越後で長尾為景が越後上杉氏を倒して、下克上に成功した。 長尾景春はある意味、長尾為景になり損なった男ということもできると思う。</p>
<h2>年表: 長尾景春の乱</h2>
<div> </div>
<p>(終)</p>

長尾景春 〜「長尾為景」になり損ねた男〜

作成日:2014/6/22 , by fuji3zpg 開く

長尾景春の乱 フィールドをゆく 太田道灌 室町体制崩壊期の関東と太田道灌ーフィールドをゆく(2)ー

【江戸城】江戸城の撮影ポイントの1つ。<br><br>右が巽櫓(桜田二重櫓)、中央やや左が内桜田門、そして、左側の木々に隠れているのが富士見櫓(富士見三重櫓)。

作成日:2014/6/7 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

江戸城撮影ポイント 東京都 千代田区

【江戸城】南北線市ヶ谷駅地下の石垣の全体像。<br><br>10m弱ほどの石垣だが、矢穴、刻印、間石、グリ石(裏込)、飼石など、盛りだくさん。

作成日:2014/5/28 , 地図あり・方位あり・方位あり, by fuji3zpg 開く

市ヶ谷駅の石垣 東京都 新宿区

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ノート【更新順】
・ 岡山県の没落武士
・ 江戸東京たてもの園を訪問
・ コルク社主催の伊東潤氏の第3回読者会に参加
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ノートまとめ【更新順】
・ 関ヶ原の戦いの動画
・ 淀川の城
・ 姫路城大天守の昼・夕暮れ・ライトアップ!
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歴史年表【更新順】
・ 『おんな城主 直虎』年表
・ 花燃ゆ第2回「波乱の恋文」
・ 歴史家・歴史小説家とその時代
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特集
・ 関ヶ原の戦い
・ 幕末維新
・ 文明論
・ 北条早雲
人物【更新順】
・ 子母澤寛
・ 周布政之助
・ 小田村伊之助
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出来事【更新順】
・ 新型コロナウィルス感染拡大に伴い、東京など7都道府県で非常事態宣言が発令
・ 中国の武漢で新型コロナウィルスが人に感染
・ 令和に改元決定
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世界史古代概論
・ 世界史古代概略
・ ローマと前漢、不思議な成立の符合
・ 古代の日本と西欧
戦国のはじまり
・ 早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
・ 応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
・ 北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
・ 2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
・ 歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
・ 大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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