西暦: 216年 〜 276年

マニ

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グラフ: 「マニ」と同時代の人物

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グラフ: 「マニ」と同時代の出来事

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表: 「マニ」と同時代の人物

曹操 155年 〜 220年 東アジア
劉備 161年 〜 223年 東アジア
司馬懿 179年 〜 251年 東アジア
諸葛亮 181年 〜 234年 東アジア
孫権 182年 〜 252年 東アジア
曹丕 187年 〜 226年 東アジア
カラカラ帝 188年 〜 217年 地中海、西アジア
マニ 216年 〜 276年 地中海、西アジア
司馬炎(武帝) 236年 〜 290年 東アジア
ディオクレティアヌス帝 245年 〜 313年 地中海、西アジア
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「マニ」の関連ノート

【企画展「東京凸凹地形 ―地形から見た東京の今昔―」を見学】都立中央図書館(有栖川公園内)で開催中の「東京凸凹地形 ―地形から見た東京の今昔―」という企画展に行ってきました。

来週末(2017/2/12の日曜)までやっていて、無料です。東京のマニアックな地形本(スタンダードな地形本、東京の地形本、河川・暗渠系、麻布・渋谷・日比谷・上野・国分寺エリアの本など)が一同に会しています。

タモリさん著の坂の本も置いてありました笑
あれだけの地形本を一挙にチェックできるのは貴重な機会かと。

http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/press/2016/pr161109.html

企画展「東京凸凹地形 ―地形から見た東京の今昔―」を見学

作成日:2017/2/4 , 地図あり, by rekius 開く

東京都 港区

【お城EXPO2016に行ってきました!】2016年12月23-25日にお城EXPOというイベントがパシフィコ横浜で開催されました。

歴ウス編集部では25日に訪問、様子を見てきました。
3Dのお城ジオラマや各地の環境団体の展示といったものに加え、お城イラストアプリ、お城地図アプリ、VR/ARといった新しい分野の展示・販売もされていました。
城マニアの男性層だけかと思っていましたが、老若男女、幅広い来場者で驚きでした。

来年もまた行きたいなと思わせるイベントでしたよ。
http://www.shiroexpo.jp/

当日のツイートです↓
https://twitter.com/rekiuscom/status/812938727274053632
https://twitter.com/rekiuscom/status/812939268096036868
https://twitter.com/rekiuscom/status/812954858617651200

お城EXPO2016に行ってきました!

作成日:2016/12/25 , 地図あり, by rekius 開く

西区

【その5 躑躅ヶ崎館と要害山城ー武田信虎の戦いー】<h2>躑躅ヶ崎館</h2>
<p>3日目、多少の疲労感が残る中、ホテルを出発した。目的地は躑躅ヶ崎館、現在の武田神社である。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>躑躅ヶ崎館付近の絵地図。 </em><br><em>躑躅ヶ崎館は相川扇状地の谷に位置し、西側は北から南へ荒川、東側は北東から南西へ笛吹川が流れている。北には山の麓に積翠寺が、詰の城として要害山城がある。 </em><br><em>その4で触れたとおり、福島勢乱入の際、身重の大井夫人が積翠寺に避難して信玄を生んだ。 この時を含め、結局、要害山城で戦闘が行われることはなかった。</em>
</div>
<div> </div>
<p>かつて、信虎が作った躑躅ヶ崎館は、信玄、勝頼も拠点とし、勝頼が韮崎の新府城に移すまで、武田家の本拠地だった。<br> 信玄ファンにとっては、「聖地」と言えるかもしれない。</p>
<h3>信玄と信玄公</h3>
<p>余談だが、山梨に来てから、信玄は「信玄」ではなく、「信玄公」であることを思い知らされた。現在も信玄が尊敬されていると本に書いてあったので知ってはいたが、土産物屋にはたいてい「信玄」の名が付いている。たとえば、「信玄餅」というのがある。</p>
<p>この旅の行く先々で、10名ぐらいの人と話をしたと思うが、やはり、「信玄」というのと「信玄公」というのでは微妙に反応が違うことに気づいた。 <br>勝手な想像だが、浄土真宗の人に「親鸞」というのと「親鸞聖人」というのとの違いに似ているかもしれない。 ともあれ、同宗のよしみを感じてくれるようなので、3日目からは「信玄公」ということにした。</p>
<h3>武田神社</h3>
<p>武田神社は甲府駅の2kmほど北にあり、なだらかな上り坂が続く。 <br>いつものように最初は頑張って坂を走ったが、途中で諦めて、自転車を降りて歩いた。いま歩いている武田通りには、信玄の家臣や一門の屋敷跡を告げる案内板がいくつも立っている。山梨大学付近の秋山伯耆守や信玄の弟、武田信繁の屋敷など、お馴染みの人物の屋敷の位置が紹介されていた。</p>
<p>武田神社の前に行くと、水堀がある。ここで大軍を相手に籠城することは無理だが、館として使用するなら立派なものだった。武田神社の内部は想像より、多少小さめだったが、遺構はよく残っていた。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年10月撮影: </em><br><em>躑躅ヶ崎館跡、西曲輪の水堀。</em>
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<p>信玄の嫡男、武田義信が住んだとされる西曲輪には、ほとんど何もなかったが、現在、発掘調査が行われたいるようで、ブルーシートが敷かれていた。</p>
<p>西曲輪から武田神社を出ると、かつて味噌曲輪だった野に出る。まさに古城の雰囲気があり、想像力を掻き立てられる。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年撮影: </em><br><em>かつて、味噌曲輪だったところ。撮影地点から北側に信玄の弟、武田逍遥軒信廉の屋敷があった。</em>
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<div> </div>
<p>ここから北に2kmほど行くと、大永元年(1521年)、福島勢乱入の際、身重の大井夫人が避難したという積翠寺と躑躅ヶ崎館の詰めの城(有事の際に使用する城)、要害山城がある。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年10月撮影: </em><br><em>躑躅ヶ崎館から要害山城方面をのぞむ。</em>
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<h3>積翠寺</h3>
<p>見た感じ、積翠寺、要害山城まで上り坂が続くので、自転車を置いて、歩いていくことにした。</p>
<p>現在、11時である。この日は過ごしやすかったが、なぜかこの時間帯だけは日が照っていた。結構暑く、汗が出る。しかも2日間の疲労(自転車だけで約100km走っていた)に加えて、すでに休みなく2時間半ほど武田神社内をウロウロしていたので、登りはじめる前から結構疲れていた。</p>
<p>上り坂であったことと道がクネクネしていたこともあってか、2kmという疲労感ではなかった。 <br>が、ともかく、積翠寺に到着した。ここからの眺めはよく、甲府盆地の西側を一望できる。ただ、残念ながら、電信柱と電線が眺めを邪魔していた。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2010年10月撮影: </em><br><em>石碑には「機山武田信玄公誕生之地」と書いてある。 </em><br><em>これまで見てきたように、武田信玄が生まれた頃、危機的な状況だった。信玄の人生は赤子の頃から試練に晒されていたが、この時は父、信虎が守ってくれた。</em>
</div>
<div> </div>
<p>例の乱入の折に生まれた信玄の人生は、ここからはじまったのである。 <br>感慨に浸りながら、これからの彼の人生と眼下で戦っていた信虎のことを思った。もし信虎が上条河原の戦いで負けていれば、信玄は生後10日ほどで、ここからどのかの土地に落ちるか、逃げ切れず捕まっていたかもしれない。</p>
<h3>要害山城</h3>
<p>あとは要害山城に登るだけである。 <br>積翠寺の100mほど北に行くと、「要害」というホテルがある。ここに要害山城に関する案内板があり、そこから右手に城への入り口がある。このホテルで昼食をとるかどうか迷ったが、どうせまた汗だくになるのは明らかなので、下山後、温泉に入って、昼食をとることにした。</p>
<p>飴を左膝のポケットから取り出して舐める。これで少しは元気が出るだろう。さて、出発。</p>
<p>この城ははっきり言って山だった。まあ、要害山城という名前の通り、山城なので当然なのだが、特に登り始めの傾斜がきつくて閉口した。半分ぐらい登ると、曲輪と門が続く、この辺まで来ると、傾斜は階段になっており、登りやすかった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年10月撮影: </em><br><em>要害山の尾根にこういった曲輪がいくつも並び、その都度、門が配置されていた。</em>
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<p>資料によると、門は8つあるそうで、山城にしては立派なものである。 <br>最後の門に到達して、本郭に来たときは思わず「ヤッター!」と叫んだ。もし誰かいたら、恥ずかしかっただろう。</p>
<p><a><img></a></p>
<div>
<em>2011年10月撮影: </em><br><em>要害山城、最後の門跡。 </em><br><em>中盤から嫌気が差していたので、ここに辿り着いた時には両腕ガッツポーズをして叫んだ。 </em><br><em>なお、この日は土曜日の昼頃だったが、結局、誰一人出会わなかった。関東の場合は、どんなにマニアックな城に行っても、誰かしらいるものだが、山城とはいえ、週末に要害山城のような(城好きには)著名な城で誰とも会わないというのは驚きだった。</em>
</div>
<div> </div>
<p>本郭は想定外に広かった。 <br>本郭をしばらく散策したあと、倒木に腰をおろして休んだ。 <br>噴き出る汗を拭いながら、周囲の、そして、眼下の景色をしばし眺めていた。</p>
<p>さあ、下りよう。 <br>ホテルの温泉と昼食が待っている。</p>
<p>空腹と疲労による重い足取りで、私は山を下りはじめた。</p>
<h3>ホテル「要害」</h3>
<p>ヘトヘトになって、ホテル「要害」に着いた。</p>
<p>受付で温泉と昼食を頼むと、どちらを先にするか聞かれたので、温泉に先に行くと答えた。 <br>温泉のある一段下の階に行って、男湯の暖簾をくぐると、おじさんが2人いたが、入れ替わるように出ていった。風呂場に行くと、誰もいなかった。まあ14時頃だったので、不思議ではないが、思わぬ貸切風呂を満喫できた。</p>
<p>温泉で疲れを癒したあと、昼食をとった。 何とかという魚の甘煮がメインの定食を注文し、絶景をテラスから楽しんだ。腹べこだったこともあったかもしれないが、甘煮はおいしかった。</p>
<p><a><img></a></p>
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<em>2011年10月撮影: </em><br><em>ホテル「要害」からの眺めがとてもよかった。</em>
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<h3>こんにちはー!</h3>
<p>腹も満たされたので、武田神社を目指して、ホテル「要害」を出発した。</p>
<p>なぜか知らないが、ここは気持ちのいいところだった。思わず、鼻歌まじりで歩いてしまいそうだ。しかも、この頃には日差しも柔らかく、気温も適当に過ごしやすい。まさに、ハイキングにピッタリの天気といえる。</p>
<p>積翠寺から200mほど、下りた所で、5歳ともう少し小さいぐらいの女の子が行きと同じように遊んでいた。様子からして、姉妹かもしれない。 <br>私が通り過ぎる頃、大きい方の女の子が「こんにちはー!」と元気のいい声で挨拶してくれ、小さい方の女の子も高い声で「こんにちはー!」と続いた。 <br>旅の途中、私から声をかけることはあっても、かけられることは少ないので、ちょっと驚いたが、私もにこやかに「こんにちはー!」といった。 これだけの何でもない話だが、とても清々しい気分になった。</p>
<h3>日程終了</h3>
<p>事前に予定していた場所にはすべて行くことができた。 <br>入念に準備していたこともあるが、iPhoneのGPS機能とGoogleマップに負うところが大きい。もしiPhoneを持っていなかったら、半分ぐらいしか行けなかっただろう。</p>
<p>歴史サイクリングは楽しいものだが、今回は異様に面白かった。 <br>また機会を見つけて、ブロンプトンで走りにいきたいものだ。</p>
<p>(終)</p>

その5 躑躅ヶ崎館と要害山城ー武田信虎の戦いー

作成日:2014/8/20 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

躑躅ヶ崎館 積翠寺 要害山城 山梨県 甲府市

【歴史のよいサイトまとめ】<p><span>デジタルミュージアム</span></p>
<p><a>国立公文書館デジタルアーカイブ</a> :絵図(江戸時代)には国絵図や城絵図など、多数ある。</p>
<p><span>今昔マップ<br></span></p>
<p><a>盛岡城の今昔マップ(盛岡市HPより)</a></p>
<p><span>博物館</span></p>
<p><a>「ミュージアム/人文・歴史系」の美術館</a></p>
<p><span>城</span></p>
<p>八王子城: <a>ボランティアガイドの会</a><br>滝山城: <a>よみがえる滝山城</a><br>鉢形城: <a>鉢形城公園フィールドマップ</a><br>忍城: 「<a>歴史のまち・行田市のみどころガイド</a>」 *PDFをダウンロードできます。あと、行田氏郷土博物館で今昔マップが50円で売っていたのですが、大いに役立ちました。<br>城所在マップ: <a>日本の城 写真集</a> 城の数は多いですが、程よいマニアックさに抑えてある感じます。</p>
<p> </p>
<p><span>地域</span></p>
<p>神奈川県伊勢原市: <a>伊勢原文化財マップ</a> 糟屋館跡・太田道灌の墓・実蒔原古戦場など、伊勢原周辺の史跡がまとまっている。リンク先にガイドページあり</p>

歴史のよいサイトまとめ

作成日:2014/8/17 , by fuji3zpg 開く

【三郎とハチー五十子陣ー】<p>その日はよく晴れて、大地が乾燥していた。3年前(2010年)の4月下旬のことだ。<br> 鉢形城を出て、荒川を渡ったあと、北上し、五十子陣に向かった。</p>
<h3>五十子陣</h3>
<p>15世紀の半ば、鎌倉公方は関東管領の上杉氏と争った結果、古河公方は鎌倉を落ち、古河に移って古河公方となった(享徳の乱 1454-1482)。つまり、鎌倉公方と補佐役の関東管領という室町体制が崩壊し、関東は戦国時代に突入した。<br> その後、関東管領の上杉と古河公方の両陣営は利根川を挟んで対峙した。その上杉方の陣地が五十子陣だった。<br> 現在、16時前である。もう暑くはなく、日の勢いは衰えてきている。そろそろ五十子陣に近づいているはずだ。<br> それにしても広い。視界を遮る遮蔽物がほとんどない。正面に赤城山、左手に榛名山が霞んで見える。ここは武蔵(埼玉)だが、すぐ北は上野(群馬)だ。この大陸的な雰囲気の中を自転車で進む。しかし、秩父山地はその位置をなかなか変えようとしない。</p>
<p><a><img></a></p>
<p><em>2010年4月撮影<br>利根川南岸から赤城山(右側)と榛名山(左側)がうっすら見える。<br>広い。。<br></em></p>
<h3>iPhone以前</h3>
<p>この頃はiPhoneを持っていなかった。ということは、GPSから位置情報が得られない。そのため、紙の地図だけが頼りである。いや、もう1つ方法がある。それは人に聞くことだ。<br> しかし、見渡しても人はそうそう歩いていない。同じ武蔵でも南武蔵とは人口密度が違う。</p>
<p>GPSが使えないなら、どうやって、現在地を推測するのか。<br> 自分は地形(ランドマーク)と太陽の位置で大体の位置を知り、それを紙の地図から得た町名番地で補正していた。<br> この方法はたいていの地域で機能する。しかし、北関東のように、町の区分が広すぎると、苦しくなってくる。あと、日が暮れると、地形も太陽の位置も分からない。必然的に、現在地は闇の中となる。</p>
<p>いずれにしても、iPhone以前は現在地がどこなのか知ることは困難だったため、行動は非効率だった。しかし、分からないがゆえに、遠方の知らない土地にゆく時は、大いに興奮した。</p>
<h3>小学校に人がいた</h3>
<p>五十子陣の近くにはいるはずだ。そう思って、ウロウロしていると、小学校があった。止まって、場所を確認する。が、どの小学校か分からない。ここは広い武蔵の最北端。<br> 小学校の金網沿いに、小学生が何人かいる。その左に、柴犬を連れたおじさん(40歳過ぎぐらい)が小学生たちに向かって歩いてきた。<br> 柴犬が小学生たちに吠える、吠える、とにかく吠える。吠えることしか知らないかのようだ。この際、名前を「ハチ」と名付けよう。<br> おじさんは「うるせえっ」とハチを一喝するが、ハチは全く意に介さない。</p>
<p>まあ、ハチはやかましいが、小学生に聞くよりも、おじさんに聞いた方が良かろうと思い、おじさんに話しかけた。<br> 「すいません、この辺に行きたいんですが。」<br> 五十子陣って、どこですか?とは聞かない。経験的に、余程有名な史跡でないと地元の人は知らないことが多い。五十子陣はマニアックだ。中世関東史において、重要な土地だったのにも関わらず。</p>
<p>おじさんは目を細めて、「えーと、いまは○○小学校だから。。。」と私の地図を見ている。その間も、もちろん、ハチは吠えている。<br> 「うるせえっ」とまた叱るが、効果なし。おじさんはしばし無言でハチを睨んで、怒気を発する。その刹那、後方に跳んだっ!</p>
<p>一瞬何が起こったか分からなかったが、明らかに飛び蹴りだった。<br> だが、ハチは素早い身のこなしで、難なくかわし、「ニヤリ」と笑った。そして、満足した様子で、吠えるのをやめ、行儀よくお座りしている。</p>
<p>飼い犬に飛び蹴りを放つ人を、自分は今まで見たことがない。しかも、その後、おじさんは何事もなかったように数歩で戻ってきて、<br> 「えー、小学校がここだからこっちだね」と北西の方向を指差した。</p>
<p>この野性的な出来事を前に、このおじさんは「三郎」に見えてきた。三郎とは『男衾三郎絵巻』の三郎、つまり、中世武蔵の荒武者の姿である。</p>
<p>三郎とハチは、こんなことを毎日繰り返しているのかもしれない。<br> 南武蔵では、犬は従順で、おとなしいペットである。飼い主も優しく、いきなり飛び蹴りを繰り出したりしない。</p>
<p>三郎に弓矢や槍刀を渡したら、さぞかし、勇敢に違いない。<br> また、いざ鎌倉という時には、ハチは三郎のために、決死の働きをするだろう。たぶん。</p>
<p>脳内で大鎧姿となった三郎殿に礼を述べ、私は北西にあるという五十子陣を目指して、自転車を漕ぎはじめた。</p>
<p>(終)</p>

三郎とハチー五十子陣ー

作成日:2014/6/26 , 地図あり, by fuji3zpg 開く

五十子陣 フィールドをゆく

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岡山県の没落武士
江戸東京たてもの園を訪問
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淀川の城
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中国の武漢で新型コロナウィルスが人に感染
令和に改元決定
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世界史古代概論
世界史古代概略
ローマと前漢、不思議な成立の符合
古代の日本と西欧
戦国のはじまり
早雲時代の魅力-室町幕府の崩壊と関東情勢-
応仁の乱に関する歴史小説(池波正太郎『賊将』)と解説書
北条早雲の生涯と伊東潤『疾き雲のごとく』-早雲の生涯を4期に分ける-
その他
2015年NHK大河「花燃ゆ」の関連情報
歴史系テレビ番組まとめ(2014年5月版)
大坂の陣で奮戦した毛利勝永の記事
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